※掲示板への投稿を、許可をいただいて転載しています。

●ぴえーる様の投稿

その1(2002/10/30)
>そんなこんなで未刊分へのコメントを。
>阿蘇惟善ですが「新撰事蹟通考」によると生没年は1583〜1654ですね。
>甲斐氏については
>荒木栄司「甲斐党戦記」熊本出版文化会館 1988年
>にその辺が載っていたような記憶がありますが、手元に無いので確認できません。
>高森惟直ですが、子孫が小浜藩にいて、その家譜によると惟居となっています。
>墓碑銘は惟直だったと思いますが。

その2(2002/11/03)
>「新撰事蹟通考」によると阿蘇惟光の生年は1582年ですね。
>阿蘇惟賢はどこかで生没年を見た記憶はあるのですが……。
>西惟栄ですが、手元のノートに主計允のち三河守とメモしてあります。
>おまけで村山惟民の子供は能登守惟広というそうです。
>たぶん『矢部町史』が参考文献なんですが、三年ぐらい前のメモなので、
>もう一度裏を取ってみないと分かりません(汗

その3(2002/12/16)
>無名武将列伝稿に載っている諏訪家臣・山中幸利は
>『諏訪史料叢書 第四巻』収録「藩譜私集」によると
>山中鹿之助の孫だそうで。

ありがとうございました<(_ _)>

※蔵屑斎より…上記荒木栄司『甲斐党戦記』、販売中のようです。興味のある方はどうぞ。詳細→高千穂町コミュニティセンター・高千穂町歴史民俗資料館


●ふーむ様の投稿

(2002/11/01)
>ところで、未刊分に小寺氏アップなさってらっしゃいましたね。
>自分とこで早く書けばよいのですが、
>小寺政隆は、大永四年(1524)自らの書状に
>「小寺藤兵衛尉村職」と署名してます(久我家文書)。
>赤松義村か政村より一字を賜ったらしく、
>以後浦上氏に攻め殺されるまでこっちの名で活躍してます。
>…と、一応コメントしてみました(^^;

ありがとうございました<(_ _)>


松浦氏追加(by蔵屑斎)

・松浦親(幸松丸)→1498〜1577
           (隆信三男)→1554〜1574

・松浦信実
豊後守。鎮信の弟。文禄の役に従軍。

・志佐氏(訂正版)
 純元…松浦豊久の長男。断絶していた志佐氏相続。子は興信で、松浦弘定の養子となった。
 純次…壱岐守。入道して宗舜。純元の次男で、1492年、志佐氏を継ぐ。
 純昌…純次長男。壱岐守。家臣の謀叛に遭った。
 純量…純昌の子。父が謀叛にあったので有馬に逃れる。のち帰還するが松浦氏に逆心ありとして討伐をうけ(1563年)、再び有馬に逃れた。

 純意…純次の次男。始め純高を名乗る。純量が逐われたのちに志佐直谷城主となる。
 純高…本編参照。

・一部正治(大和守)
・大野忠(豊後守)
・籠手田栄
文禄の役に従軍。一部氏については籠手田安経の弟、一部勘解由と関係があるだろう。
籠手田栄については、安経の子とするサイトもあった。別名か。また、籠手田安経の名は「定経」のようである。

・西玄可
受洗名ガスパル。籠手田氏の旧臣で籠手田氏退去後もその旧領生月に残る。1609年、キリシタンであるため松浦氏に処刑された。

※参考文献『史都平戸−年表と史談』(松浦史料博物館、1992)

2003.2.24記


大崎氏追加(by蔵屑斎)

・大崎義隆
蒲生氏に属していたが、約二千石(文禄三年七月)の客将としてだったようである。朝鮮出兵では牧使城を取り巻く予定であり、割り当て人数は十人であった(実際は朝鮮に渡海しておらず、肥前名護屋に留まっていた)。また秀吉からは京都の千本に宿所を与えられていた。
 その後慶長三年に蒲生氏が宇都宮に転封し、上杉氏が会津に移封するが会津に残留、上杉氏家臣となった。慶長五年には二千七百石の先方衆として名を連ねている。

※参考文献 小林清治『奥州仕置の構造−破城・刀狩・検地−』(吉川弘文館、2003)

2003.10.31記


六郷氏(by蔵屑斎)

(当主)
某(阿波守)−道行(弾正少弼)−政乗(兵庫頭)−政徳−政秋…

・幡江道良
はじめ上野国桐生に居住。のち仙北郡幡江村に移り、天正文禄の頃の当主が道良であった。子藤次郎は養子で六郷道行の三男。慶長年中に生まれる。慶長年中に六郷政乗の合戦でよく戦った勇士は幡江・金沢・土肥・戸蒔であるという。

・金沢孝行
金沢氏は相模国金沢の出身で源頼義に仕え、義家に従って奥州に下る。仙北郡金沢城を居城として慶長年中に至る。慶長ごろの当主が六郷政乗の実弟孝行。のち客将として三百石で六郷氏に仕え、家臣に列す。子は勝治。

・戸蒔義昌
兵部。戸蒔義広の弟、信安の二男。六郷政乗に仕え老職を勤めた。大坂滞在中地震により圧死。

・戸蒔乗安
義昌の弟。兄義昌の跡を相続。大坂の陣に出陣して負傷。戦功によって名刀「牛切丸」と「乗」の字を拝領した。

(※牛切丸=戸蒔氏の先祖で源義家の家臣が横手川を渡るときに両足をとらえて引っ張るものがあったので刀で切った。翌朝調べてみたところ大蛇が一刀両断になり浮かんでいた。またその子が放鷹中に牛を盗み逃げた輩を馬上より袈裟に切ったところ勢いで牛の足首まで至ったという言い伝えを持つ。のち六郷氏に献上され、乗安の代に至り再び戸蒔氏の手に戻った。

※参考文献『本荘町志(本荘市史編纂資料第11集)』(本庄市、1979)

2003.10.31記