「無名武将列伝」番外編
対馬に生きた人びと
-宗氏-


対馬マップ
※元の地図は「白い地図工房」様による。

【宗氏略史】

宗氏の系譜については、家譜では平知盛の子、鬼王丸の末裔と称しているが、現在の研究では、対馬在庁の官人、惟宗氏であるということが明らかになっている。

惟宗氏は平安時代以来太宰府の官人であったが、その一族が鎌倉時代初期に対馬に来たと思われ、対馬国の四等官のうち、「掾」の官に就いていたことが知れるのが建久六年(1195)であり、それからおよそ一世紀を経た延慶三年(1310)には「大掾」に惟宗氏が見られ、着実な成長が伺える。また、このときの惟宗氏(盛国)が「宗」姓と「惟宗」姓を共に名乗っており、在庁官人である惟宗氏が地頭代を兼帯して武士活動を行うときの区別として「宗」氏を名乗ったとされる。

その宗氏が本姓を平氏に改めたのが室町中期頃で、そのころから平知盛の末裔であるという意識が形成されてきたらしい。そしてその理由として、島内一円支配の完成や主家であった少弐氏の没落による決別があると言われる。

宗氏の確実な始祖は前述の盛国の祖父、資国であり、少弐氏に従い、また元寇のときに討死している。四代経茂も少弐氏に従い戦功をあげ、筑前国守護代となり、また対馬国には弟の頼次を派遣して支配させたという(経茂の頃から対朝鮮交渉が開始されている)。しかしこの頼次の家系(仁位党)が初めて対馬守護となり、一時実質的に宗家の立場に立った。これは九州探題今川了俊によるものといわれる。了俊没落後、家督相続に関して争いが勃発したが、仁位党から守護代を出すことで何とか収束したらしい。

このころ、主家の少弐氏が没落、度々対馬に身を寄せて対馬から出陣し、敗れて対馬に逃れるということが続いたが、赤松氏討伐(嘉吉の乱、1441)に少弐氏が応じなかったため大内氏に討伐され、宗氏も九州に持つ所領を没収されている。宗貞盛は所領を回復するべく、九州に出陣したが、肥前で敗死した。その後も度々所領を回復するべく少弐氏と共に戦ったが、宗貞国の時に少弐氏と出陣し、応仁の乱の混乱に乗じて大内氏から旧領を回復した。ここまで九州に拘った理由として、対馬の耕地面積の著しい少なさによって自給が不可能であったことが指摘されている。

九州を回復した少弐氏と宗氏であったが、程なく不和となり、貞国は対馬に帰還した。このころ本姓を平姓に改姓しているという。貞国の帰国後、大内氏が所領の回復のため九州に出陣、少弐氏は貞国に援軍を求めたが、大内氏と宗氏との講和が進行中であり、少弐氏はこれ以後完全に没落した。

これより先の嘉吉三年(1443)、癸亥約定(嘉吉条約)が朝鮮との間に成立、宗氏に毎年五十叟の貿易が認められ、宗氏本宗による島内の庶流や豪族の間に支配が浸透し、貞国の頃にほぼ島内における支配権が確立した。そして同時に九州の所領を失って、対馬において独自に戦国大名への道を進んでいく。永正七年(1510)の三浦の乱後に厳しい貿易制限が行われるが、権益回復を図り、対朝鮮交易権をほぼ独占するに至った。

豊臣政権下では朝鮮侵略の最前線とされ、島民の多くが戦死、また朝鮮との通交が断絶されるが、徳川政権下での努力で再び国交は回復、宗氏は朝鮮外交と貿易の独占を許された。それ以後は御家騒動(いわゆる「柳川一件」)も勃発したが宗主権は安定し、幕末まで一貫して対馬に存続した。

宗氏系図


【宗氏の一族・家臣団】

・宗将盛【そう・まさもり 1509(永正6)〜1573(天正1)】
はじめ盛賢。刑部少輔。天文3年に将盛と改名したらしい。宗氏第十四代。不肖の当主といわれ、相次ぐ家臣の反乱を鎮圧したが、天文八年(1539)、本城を囲まれたために城から退去、家臣に庇護を求めるが拒否されて逼塞、そのまま一生を終えた。
2002/10/1加筆

・宗晴康【そう・はるやす 1475(文明7)〜1563(永禄6)】

大和守・讃岐守。将盛の養子。将盛の伯父にあたる。僧となっていたが還俗して貞尚と称し、ついで貞泰と改名。将盛追放後、家臣に推されて第十五代当主となった。天文十一年(1542)に足利義晴の片諱を得て晴茂と名乗り、天文十五年には当主一門以外が「宗」姓を名乗ることを禁止、当主権力の安定化に尽力した。
2002/10/1加筆

・宗義調【そう・よししげ 1532(天文1)〜1588(天正16)】
晴康嫡子。形部少輔・讃岐守。天文二十二年(1553)家督。守護代に佐須盛兼・盛円を任じている。弘治三年(1557)に家臣山本康範・津奈調親(こちらは将盛の異母弟)の反乱を鎮圧。
 永禄十年(1567)に閑斎一鴎と号して隠棲するが、当主が病弱のため後見し、実権を握った。

・宗茂尚【そう・しげなお 1547(天文16)〜1569(永禄12)】
将盛の次男。永禄九年家督を義調より譲られる。しかし病弱なため早くも十二年には致仕して死去。弟義純に跡を譲った。

・宗義純【そう・よしずみ ?〜1580(天正8)】
将盛の子。兄より家督を譲られるが、天正五年には隠居して弟(将盛五男)の義智に家督を譲る。病弱で死去したという説と、荒淫・刻薄で政治を怠ったため家臣より恨まれ、屋敷を家臣に囲まれたので逃走、寺に入り自害したという説がある。

・宗智順【そう・ともしげ? 生没年未詳】
義純の二男。朝鮮出兵のおりの四部隊長の一人で、およそ三百人を率いた。平壌において、初の明軍との戦いで奮戦。柳川騒動に際しては江戸に召還され取り調べを受けている。

・柳川調信【やながわ・しげのぶ 1539(天文8)〜1605(慶長10)】
下野守。筑後柳川の生まれともいう。若いときに津奈調親に仕え、調親滅亡後しばらくして宗義調に重用されて「調信」と称したという。義智の重臣として頭角を現し、外交交渉を主に担当した。

・柳川智永【やながわ・ともなが ?〜1613(慶長18)】
調信の子。はじめ景直。豊前守。関ヶ原合戦の時には石田三成に抑留されたために関ヶ原に出陣、島津勢とともに正面突破を計り帰国したという。このため宗氏に疑いがかかるも、義智の弁明で事なきを得た。
 己酉約条の締結に尽力し、父と二代の功を認められて毎年一隻の朝鮮への貿易船派遣を認められている。

・佐須景満【さす・かげみつ ?〜1590(天正18)】
対馬国守護代。宗氏の重臣。はじめ調満と称した。柳川調信と不和になり、讒言によって宗義智の疑惑を招き、登城して弁明しようとしたが登城を許されず、古川智次らに殿中で斬殺された。子孫の家は殺害が冤罪だったとして老臣の家柄に加えられている。

・杉村広幸【すぎむら・ひろゆき 生没年未詳】
佐須景満の弟。宗氏の重臣。杉村氏は宗氏の庶流にあたり、佐須氏と同族。のちには古川・平田氏と共に三老臣の一つの家柄となる。

・杉村智清【すぎむら・ともきよ ?〜1592(文禄1)】
広幸の曾孫にあたる。調長の子。文禄の役で四部隊長の一人だったが、六月十日、平壌近くで夜襲を受け、討死した。

・柚谷康広【ゆずや・やすひろ 生没年未詳
柚谷氏は代々朝鮮との外交交渉を務めていた。永禄七年、朝鮮に外交使節として送られ、永正条約以来の厳しい貿易制限の一部緩和を実現。また豊臣秀吉の朝鮮外交に関して天正十五・十六年の両年にも赴き、宗氏の命を受けて平和的解決に尽力したが、秀吉の出兵を食い止めるには至らなかった。

・柚谷智広【ゆずや・ともひろ ?〜1600(慶長5)】
康広の子。朝鮮出兵後の国交回復交渉のため、前三回の使者が悉く殺されているという危険を顧みずに宗氏の命で朝鮮に渡る。しかしやはり交渉は出来ずに幽閉され、共に朝鮮に渡った八人の使者ともども幽閉されたまま没したという。

・仁位盛家【にい・もりいえ 生没年未詳】
豊前守。義調の代、山本・津奈両氏の謀叛の時に命を受け討伐した。

・仁位智信【にい・とものぶ 生没年未詳】
文禄の役での四隊長の一。仁位党を結成。盛家の子か孫と思われる。明軍との初の接触で奮戦した。元和元年に義智の子、義成が十二歳で家督を継ぐと、家中仕置の一人となっている。

・大石智久【おおいし・ともひさ 生没年未詳】
荒河介。豪の者と言われ、援軍も来ずまさに窮地に陥った平壌の籠城戦のとき、甲冑を脱ぎ浴衣(現在のものかは不明)となって櫓に上り、退路を見いだしたという。また文禄の役後の停戦中には、弟と共に虎と格闘したという伝説も残る。
 戦功第一として戦中の慶長元年に佐護に知行地を与えられ、戦後には、戦功が抜きんでているとされた他の三人とともに郡代(慶長六年、佐護郡代)に任じられた。(奮戦したり討死したりした家臣は多かったが、与える知行地がなく、「追って沙汰する」と伝えたのみで結局加増などは無かったというから、彼らの戦功はまさに抜きんでているといえるであろう)


【追加分】

2002/10/1加筆
・佐須盛廉【さす・もりかど 生没年未詳】
兵部少輔。大永七年、兄国親のあとを受けて守護代となる。享禄元年(1528)宗盛治の反乱では鎮圧に功があった。晴康・義調の時代まで守護代を勤め、永禄3年(1560)、弟の盛円に守護代を譲った。

・佐須盛円【さす・もりのぶ? 生没年未詳】
盛廉の弟。兄より守護代を受け継ぐ。その位置にあった約二十年間、宗氏政権の中心を担い、島外諸領主や博多商人との交渉に頻繁に関わった。天正八年(1580)、守護代の地位を嫡子調満(景満)に譲った。


【参考文献】

『新対馬島誌』 1964
西村圭子「対馬宗氏の『諸家引着』覚書」『日本女子大学紀要 文学部』1984
田中健夫『対外関係と文化交流』思文閣出版、1982
西ヶ谷恭弘『国別 守護・戦国大名事典』 1988


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