浦上氏

参考:中国地方関係図(別のウインドウが開きます)

【浦上氏略史】
浦上氏は本姓は紀氏で、播磨国浦上荘を苗字としたらしい事が分かっている。鎌倉時代には地頭職を保有していた形跡がなく、在地領主として成長してきたものであろうといわれている。

建武元年(1334)、後醍醐天皇は大徳寺に下総の所領の代替として浦上荘の地頭職を与えたが、その半分については浦上為景が支配するようにと指示を下している。しかし為景は一円を自ら知行してしまったので、天皇は改めて所領を没収するように命令している。このように南北朝頃には浦上氏は土地を横領して成長してきており、浦上荘からかなりの距離を隔てた播磨国内でも土地を横領していることが確認され、その勢力を伸ばしていたことが推測されている。

播磨国の西部、そして備前へと勢力を伸ばしていた浦上氏は為景の子と考えられる浦上行景が、観応の擾乱における合戦で赤松則祐についており、則祐が備前守護に任じられると守護代となった。その後も宗隆・助景と守護代を務め、備前東部地方に地盤を築くに至った。

その後、赤松氏は幕府に叛き、「嘉吉の乱」で宗家が滅亡するが、そのとき赤松満祐とともに討死したのが宗隆の子、宗安であるという。赤松氏はそののち再興されるが、赤松政則の側近として現れてくるのが宗安の孫、則景であり、この頃播磨に侵攻して来る山名氏に対する赤松氏の主力となって、文明十七(1485)に討死したほか、一族の多くを打ち続く合戦で失っている。

浦上氏はそのころから主筋の赤松氏をしのぐ勢力を有しており、則景の跡を継いだ村宗は、政則の養子となった義村がその勢力に脅威を抱き排斥を図ったため大永元年(1521)義村を殺害、晴政(当時政村)を傀儡にして実権を握った。

しかし晴政は摂津野里川で村宗を討つことに成功、浦上氏は一時停滞を余儀なくされる。村宗の子、政宗は赤松氏の下で勢力を回復しつつあったが(このころ本拠を父祖伝来の地、三石城から室津城−赤松氏居城、置塩城に近い−へ移している)、弟の宗景が赤松氏に従う事に不満を抱いて天神山城に独立し、このあとしばらく政宗系の浦上氏と宗景系の浦上氏が並立している。

その後政宗が赤松氏に暗殺された結果、宗景は完全に自立し備前に覇権を確立した。だが家臣の中で頭角を現してきた宇喜多直家が宗景の意に反し毛利氏と結び独立、対立を深めていく。そして天正三年(1575)、居城である天神山城を攻略され、浦上氏は没落した。その後織田氏を頼って天神山城を奪回しようと試みるが果たさず、宗景のその後の消息は不明である。しかし子孫は備前国に土着したという。

浦上氏系図

【浦上氏の一族・家臣団】

●浦上政宗系

・浦上清宗【うらがみ・きよむね ?〜1564(永禄7)】
政宗の長男とも二男ともいう。永禄七年(九年とも)に父と共に赤松政秀に襲われて自害。

・浦上誠宗【うらがみ・あきむね? 生没年未詳】
政宗父子死後の後継者とされる。詳細は不詳。頭角をあらわしてきた宗景に殺害されたと考えられている。

・浦上国秀【うらがみ・くにひで 生没年未詳】
近江守。村宗死後の浦上氏を代表した人物と思われるという。松田元堅と浦上政宗の縁談を取持ったと思われる文書があるので、政宗が成長するまで後見をしていたものか。また、天文十九年(1550)や欠年であるが他の文書で下の島村などとともに連署している。政宗が長ずるに及んでも重臣として活躍したのであろう。

・島村盛貫【しまむら・もりつら 生没年未詳】
弾正左衛門尉。島村貫阿弥の一族か。浦上国秀とともに連署していることが知られ、政宗の重臣と思われる。


●浦上宗景系

・島村盛実【しまむら・もりざね ?〜1559(永禄2)
豊後守。貴則の子。入道して貫阿弥と号す。天文三年(1534)、砥石山城を襲い、宇喜多常玖(能家)を自殺に追い込んだ。のち孫の直家に殺された。

・大田原長時【おおたわら・ながとき 生没年未詳】
知行一万八千石を領したという浦上氏の重臣。浦上氏居城である天神山城の南方に領地を持っていたとされる。なお、以下岡本氏秀までの五人(と延原景能)は宗景が独立する時に従った老臣とされている。

・日笠頼房【ひがさ・よりふさ 生没年未詳】
和気郡日笠荘を本拠とする国人領主。天神山城から東北部に所領を持ち、天神山城防衛も担っていたという。

・明石行雄【あかし・ゆきお 生没年未詳】
飛騨守。全登の父で景憲の子。景親とも。天正五年(1577)、宇喜多直家に内応、浦上氏没落後に宇喜多氏に客分として迎えられて小田原城攻めなどに従軍して戦功が多かった。

・服部久家【はっとり・ひさいえ 生没年未詳】
備後守。詳細は不明であるが浦上氏の重臣の一人。

・岡本氏秀【おかもと・うじひで 生没年未詳】
宇喜多氏の家臣、岡本秀広の父。浦上氏と美作の国人三浦氏との連絡にしばしば当ったという。

・小嶋一頼【こじま・かずより 生没年未詳】
左馬允。明石・日笠とともに元亀二年の連署状に署名している。年寄衆か奉行衆の一人と思われる。


【追加分】

2000/5/14追加
・浦上成宗【うらがみ・しげむね 1573?(天正1?)〜?】

与五郎。宗景の末子という。天神山落城後、高取備中守に預けられたという。高取はその後宇喜多氏に仕え、三千石を知行し、弟喜八郎は浮田姓を名乗るほどの家臣であったらしい。高取に養育されて元服、浦上太郎三郎成宗と名乗り、高取の娘を妻とした。のち高取備中守が関ヶ原合戦で討死するとそのまま土着したという。

・浦上景行【うらがみ・かげゆき 1548(天文17)〜1631(寛永8)】
備前。浦上氏一族というが、宗景と近い血縁関係ではないらしい。宗景の天神山城退去に随従、のち黒田氏に属して筑前に移り、代々藩士となったという。


【参考文献】

寺尾克成「浦上宗景考−宇喜多氏研究の前提−」(『國學院雑誌』92-3、1991)
岸田裕之「浦上政宗支配下の備前国衆と鳥取荘の遠藤氏」(『広島大学文学部紀要』第55巻特輯号2、1995)
浦上元「浦上系図の研究」(『歴史研究』266、1983)
『岡山県史』第五巻 中世U 1991
『兵庫県史』第3巻 1978


HOMEへ / 武将列伝indexへ