宇都宮氏

参考:関東地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【宇都宮氏略史】
宇都宮氏の祖は、関白藤原道兼の孫の兼房の子、宗円とされる。宗円が関東に下向し、宇都宮(下野一宮)の神職を獲得、まず常陸八田に本拠をおいたという。二代宗綱が次男知家(小田氏祖)を八田に残して嫡子朝綱とともに本拠を宇都宮に移した。
 
 三代朝綱は源頼朝が挙兵したとき、頼朝に属し所領を与えられ、また「宇都宮検校職」を安堵された。こうして宇都宮氏は鎌倉御家人として成長、評定衆などを務めた。(ちなみに豊前の宇都宮(城井)氏は宗円の子、宗房の系統である。)

鎌倉末期には元弘の乱に、北条高時の命を受け第九代宇都宮高綱が上洛、楠木正成と戦った。しかし幕府が滅亡したため降伏、建武政権では雑訴決断所の奉行を務めた。足利尊氏が挙兵すると一貫して反足利の立場を取ったが、子の氏綱が足利側についたためそれ以降は足利方につき、観応の擾乱で尊氏方についたので上野・越後守護に任じられた。しかし関東に上杉憲顕(足利直義方、上野・越後・伊豆の守護)が復帰すると守護職を奪われたため、それに対抗し敗れて勢力が衰えた。
 
 室町時代は家督を継いだ者が多く早世し、一族の中から後継者を迎えたため争いが絶えず、下って大永六年(1526)の宇都宮(芳賀)興綱の、兄宇都宮忠綱への謀叛・宇都宮家相続も芳賀氏の養子に入っていた興綱が宇都宮氏の脆弱な支配体制をついて起こしたものである。

興綱の子尚綱(初め俊綱)は芳賀氏との対立の中、芳賀氏が頼った国人那須氏との戦いで天文十八年(1549)に戦死、子供の広綱は芳賀高定(実は一族益子氏の男、芳賀氏を継ぐ)の拠る真岡城に退かねばならず、宇都宮を奪還したのは弘冶三年(1557)であった。
 
そののちは後北条氏に敵対するが、攻勢に耐えられず新たな城を築くなどの対応を迫られ、天正十八年(1590)に豊臣秀吉に臣従する。豊臣大名として存続しかけた宇都宮氏だが、突如慶長二年(1597)に改易されてしまった。子孫は水戸藩に仕え、命脈は保たれた。

宇都宮氏系図

【宇都宮氏の一族・家臣団】

・多功長朝【たこう・ながとも 1485(文明17)〜1558(永禄1)】
石見守。天文十八年の宇都宮尚綱が討死した戦いに従軍して奮戦。また永禄元年(1558)の上杉・小山・結城氏の侵入では先駆の佐野小太郎(豊綱)を討ち取ったという。多功氏は宇都宮氏の一族で、合戦時には宇都宮氏の軍事指揮下に入って戦い、平時は居住地を中心に支配にあたった。

・多功房興【たこう・ふさおき 1503(文亀3)〜1589(天正17)】
石見守。長朝の子。元亀三年(1572)の北条氏との合戦で奮戦。

・多功綱賀【たこう・つなのり 1526(大永6)〜1595(文禄4)】
石見守。房興の子。

・多功綱継【たこう・つなつぐ 1543(天文12)〜1593(文禄2)】
天正十七年に北条氏邦が多功城に攻め寄せた時に撃退。翌年北条氏を和睦した折に使者として赴く。
2001/04/14訂正(「たこ」→「たこう」、宮野州様のご指摘による。)

・益子勝清【ましこ・かつきよ 1504(永正1)〜1554(天文23)】
宮内大夫。天文十五年に宇都宮氏に反旗を翻す。敗れて益子を退去、常陸国下館に逃れその地で死去。益子氏も宇都宮氏の一族であったが、戦国時代には度々宇都宮氏に反抗した。

・益子勝宗【ましこ・かつむね 1529(享禄2)〜1593(文禄2)】
出雲守、信濃守。武田信玄に通じ、信玄が上野国を攻めていた頃は旗下だったという。天正の頃北条氏が下野に侵入したとき多気城に篭り戦功があったという。本来は宇都宮氏の重臣。
※1999/12/26加筆

・皆川成勝【みながわ・しげかつ 1490(延徳2)〜1551(天文20)】
弾正少弼。天文七年(1538)、宇都宮大明神において能・狂言が催された折、これらに使う諸道具を貸与しており、当時、皆川氏が宇都宮氏の同盟者の立場にあったことがわかるというが、それからしばしば宇都宮氏に協力したり対立したりしている。
※1999/12/26加筆

・皆川俊宗【みながわ・としむね 1525(大永5)〜1573(天正1)】
山城守。入道して心鉄斎と号す。成勝の子で広照の父。天文〜弘治期に家督を相続した模様である。
※1999/12/26加筆

・壬生綱房【みぶ・つなふさ 1479(文明11)〜1555(弘治1)】
下総守、中務少輔。宇都宮俊綱討死後、混乱に乗じて宇都宮城を占拠し、宇都宮伊勢寿丸(広綱)と芳賀高定を追った芳賀高照ののち、天文二十年(1551)に入城したが、弘治三年(1557)、広綱と高定の攻撃により退去。なお、壬生氏は「宇都宮寄衆」として協力体制にあり、宿老の地位にあったが独立性は強かった。
※1999/12/26加筆

・壬生周長【みぶ・かねなが ?〜1579(天正7)】
徳雪斎、綱房の弟。甥、綱雄が戦功によって宇都宮氏に大幅に所領を与えられた時、周長は加増されなかったのでそれを恨み、綱雄を謀殺。そのため壬生義雄に討たれた。
※2000/2/23改訂(ちかなが→かねなが)

壬生綱雄【みぶ・つなお ?〜1576(天正4)】
下総守、中務大輔。宇都宮城を占拠していたが、弘治三年(1557)に追われる。叔父の周長に謀殺された。

・壬生義雄【みぶ・よしお 1552(天文21)〜1590(天正18)】
上総介、中務大輔。初め氏勝。天正期頃から北条氏に組し、宇都宮氏と度々争った。天正十八年、小田原参陣のとき死す。後継が無かったため壬生氏は断絶した。


【追加分】

1999/12/26追加
・宇都宮義綱【うつのみや・よしつな 1598(慶長3)〜1664(寛文4)】

国綱の嫡子。水戸藩士宇都宮氏の初代。寛永年中水戸藩に仕える。百人扶持を賜って格式は家老に準じた。子隆綱の代に知行千石となる。
2001/04/19訂正

・芳賀高景【はが・たかかげ 生没年未詳】
駿河守。芳賀氏庶流で氏家城主。高武が当主の時期に存在していた。天正六年(1578)常陸での合戦に参陣、天正十八年には国綱と共に小田原に参陣し、豊臣秀吉に拝謁している。

・皆川忠宗【みながわ・ただむね 生没年未詳】
駿河守。成勝の従兄弟にあたる。当主に匹敵する権力をもち、成勝・俊宗期の皆川氏は「皆川両人」と記され、当主と忠宗の権力の二重構造を有していた事が知られる。

・皆川広勝【みながわ・ひろかつ 1548(天文17)〜1576(天正4)】
山城守。俊宗の嫡男で広照の兄。俊宗のあと家督を継ぎ、後北条氏や古河公方足利氏との関係維持を図るなどしたが早世した。

・今泉高光【いまいずみ・たかみつ ?〜1597(慶長2)】
但馬守。泰光の子。宇都宮氏の「老敷衆」(家老衆)で、宇都宮一門で譜代となった一族である。彼らは宿老クラスの半独立的な家臣と異なり、譜代家臣化した宇都宮氏の一族(宇都宮姓を名乗らない)や鎌倉期以来の譜代家臣であり、宇都宮家当主に近侍していた。天正期末期頃から外交などに現れる。宇都宮氏の家督問題で芳賀高武と対立したため居城の上三川城を襲撃され自害した。
2001/04/14訂正(『戦国人名事典』より没年追加)

・君島高親【きみしま・たかちか 生没年未詳】
備中守。家老衆のひとりで鎌倉期からの譜代家臣の一族にあたる。佐竹氏との外交にあたっていたものか、佐竹氏家臣小場氏に書状を発給したり、同家臣大和田重清から贈物を受けたりしている。

・清水高信【しみず・たかのぶ 生没年未詳】
大和守。慶長年間から姿をあらわしてくる家老のひとり。朝鮮出兵関係の連絡にあたっていたようであり、一時期京都に常駐していたらしい。

・玉生高宗【たまにゅう・たかむね 生没年未詳】
美濃守。文禄・慶長期から現れる。玉生氏は鎌倉期からの譜代家臣。
2001/04/14訂正(「たまお」→「たまにゅう」、宮野州様のご指摘による。)


【参考文献】

『栃木県史』通史編3 中世 1984
『栃木県史』史料編 中世四 1979
『宇都宮市史』中世通史編 1981
『上三川町史』資料編 1979

『戦国大名系譜人名事典 東国編』(新人物往来社、1985)
荒川善夫『戦国期北関東の地域権力』(岩田書院、1997)
『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1989)


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