山名氏

参考:近畿・中国地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【山名氏略史】
山名氏は清和源氏の流れを組み、新田氏の祖である義重の長男、義範が本宗を継承せずに上野国山名荘に住して山名氏の祖となった。その義範は源義経に従い一ノ谷の合戦で功を立て、のち頼朝に近侍したという。

鎌倉末期の元弘三年(1333)、山名時氏は足利尊氏に従って京都に向かい、戦功を立てる。その後程なくして伯耆国守護となり、発展の基礎を築いた。観応の擾乱をへて山名氏は勢力を伸ばし、14C末ころまでに十一ヶ国の守護職を得るまでになった。その後山名氏の強大化を恐れた将軍足利義満によって、惣領権をめぐる争いから発展した明徳の乱で領国は激減するが、惣領家を継いだ時熙の重用、赤松氏の謀叛(嘉吉の乱)の功等でほぼ同程度にまで領国を回復させた。

だが応仁元年(1467)には戦国時代の幕開けともいえる応仁の乱が勃発、西軍の大将である山名持豊(宗全)は文明五年(1473)に没し、嫡子教豊(宗全より先に死去)の二男政豊が家督を継承して翌年応仁の乱が終結した。しかしこの大乱によって領国の情勢が不安定となり、政豊は但馬に帰国し因幡の反乱や伯耆の反乱の鎮圧に追われている。しかし他の地域も次第に新たに勃興した勢力によって徐々に侵食され、戦国末期には因幡・但馬に勢力を保つのみとなってしまう。

政豊の子である誠豊の死後、祐豊が当主となるが、誠豊治世下では従っていた因幡守護・山名誠通が誠豊の死の直前から但馬山名氏と対立していたことが窺え、本宗家から独立を画策していたようである。しかし天文十七年(1548)、但馬勢は因幡勢の因・但国境出撃の隙を突いて誠通を討った。誠通に遺児はいたものの幼年であるために宿老中が相談の結果、祐豊の弟・豊定を因幡守護代として迎えて因幡統治に当った。

しかし因幡山名氏重臣の武田高信の謀叛で山名氏は天神山城から逃れ、このときの当主、豊数(豊定嫡男)は逃亡先で死去している。豊数の跡は弟の豊国が継ぎ、武田高信を討つが、すでに西から毛利氏が迫っており、毛利氏に組する事になっている。

但馬山名氏も因幡山名氏の後援を意図しながらも、毛利氏と対する尼子氏、それを援助する織田氏の勢力争いの中心地である因幡・但馬に存在していたために状況によって組する勢力を替えざるをえず、重臣の分裂などもあって一国を保つ事すら困難になっていたようである。

そして天正八年(1580)、因幡侵攻を控えた豊臣秀吉はまず但馬平定に着手、本宗である但馬山名氏の祐豊・氏政父子は出石城を落とされて没落した。因幡山名氏の豊国は秀吉に降伏、翌年の鳥取城攻めに出陣している。その後は徳川家康によって但馬国内で知行を与えられ、交替寄合(参勤交替をする旗本)として徳川時代も存続した。

山名氏系図

【山名氏の一族・家臣団】

●但馬山名氏

・山名棟豊【やまな・むねとよ 1549(天文18)〜1566(永禄9)】
祐豊の嫡子。氏熙とも。十七歳で早世した。

・山名堯熙【やまな・あきひろ 生没年未詳】
はじめ氏政。祐豊の次男。兄棟豊の早世で家督を継ぐ。父祐豊との連署状が多いので、家督直後は父の後見で家政を行ったと考えられる。出石城落城後しばらくして徳川家康に仕えたという。

・磯部豊直【いそべ・とよなお 生没年未詳】
山名氏の一族という。夜久野城主。

・垣屋続貫【かきや・つぐつら 生没年未詳】
続成の嫡子とされる。宿南保氏は、従来続成の子は光成とされてきたが、続成は文書として最後に確認されるのが明応四年(1495)であり、光成は永禄三年(1560)の文書が初見とされ、続成と光成の間にもう一代人物が存在したことを従来とは異なる垣屋氏の系図から指摘されている。文書の存在の有無で人物の生存を判断するのは危険であるが、一応掲載することにする。
2001/2/13訂正(実名の訂正。従来「続実(つぐざね)」と表示)

・垣屋豊続【かきや・とよつぐ 生没年未詳】 
河内守・駿河守。天正三年の毛利家と山名家の安芸・但馬和睦に際して、大田垣輝延とともに毛利家との交渉を行う。また、毛利派であり同じ山名四天王で尼子派の田結庄氏と合戦も行い、是義を討死させている。続成とは一族であるが文明頃(1469〜1486)に分かれた家で、続成の家が越前守を称したのに対して、駿河守の官途を称した。のち宮部継潤に属す。

・田結庄豊朝【たいのしょう・とよとも 生没年未詳】
氏熈の奏者を務め、家臣に対して長期間篭城していた苦労をねぎらい、戦功を賞している。四天王の田結庄氏の一族であろう。田結庄氏は在地の豪族ではないと考えられている。山名氏居城に近い鶴城に拠ったため、最後まで山名氏についた。

・田結庄光保【たいのしょう・みつやす 生没年未詳】
肥後入道。堯熈の時に当主と別に書状を発給している。田結庄氏であるので重臣と思われる。鮭などの進上について感謝を述べているので堯熈が家督を相続した時のものとも考える事ができるかもしれない。

・八木宗松【やぎ・そうしょう 生没年未詳】
但馬入道。八木信慶の田地寄進状に「祖父宗松」とあるので信慶の祖父である事が判明する。天文〜永禄初期の文書が存在する。八木氏も大田垣氏とともに但馬土着の豪族で八木城に拠った。のちに赤松氏や豊臣氏に攻められて因幡に出奔する。

・八木豊信【やぎ・とよのぶ 生没年未詳】
但馬守。山名・毛利間の交渉に立つ。山名四天王の一人であるが、戦国末期は毛利氏につき、垣屋氏の田結庄攻め・明智光秀の丹波攻めなどを吉川氏などに報じ毛利氏の出兵をたびたび促していることが知られる。山名氏滅亡後豊臣氏に従った。

・八木信慶【やぎ・のぶよし 生没年未詳】
豊信の子か。だとすれば宗松−豊信−信慶の三代となる。豊信に比べ文書からは行動が窺えず詳細は不明。

・大田垣朝延【おおたがき・とものぶ 生没年未詳】
 
土佐守。山名四天王家の一。垣屋氏が山名氏譜代家臣であるのに対して、但馬土着の豪族。

・大田垣輝延【おおたがき・てるのぶ 生没年未詳】
朝延の子。土佐守。八木豊信とともに山名・毛利の安芸・但馬和睦に際し吉川氏とたびたび書状をやり取りしている。

・伊秩重久【いちつ・しげひさ 生没年未詳】

大和守。山名氏当主の側近に近い存在か。しばしば山名氏当主の意を伝える使者をつとめているようである。


●因幡山名氏

・山名豊数【やまな・とよかず 生没年未詳】
豊定の嫡男。家督を継ぐが武田高信の謀叛に遭い天神山城を退去、その後死去した。

・山名豊義【やまな・とよよし 生没年未詳】

豊国四男と思われるという。寺領寄進を家臣に命じたりしているのが確認される。

・武田高信【たけだ・たかのぶ ?〜1578?(天正6?)】

三河守。安芸武田氏の庶流で因幡山名氏の重臣。鳥取城代となり、次第に頭角を現し山名氏を追った。しかし山中幸盛らに攻撃され鳥取城を退去し、のち山名豊国によって殺害された。

・田公豊高【たこう・とよたか 生没年未詳】
土佐守。山名豊定が因幡山名氏を相続する時の山名祐豊書状に「忠節肝要候」とあるので以前からの因幡山名氏の家臣と思われる。

・中村春続【なかむら・はるつぐ ?〜1581(天正9)】

因幡山名氏家老中村氏の一族か。山名豊国の重臣。豊臣秀吉の鳥取城包囲で降伏しようとする豊国に森下通与と共に反対するが豊国は降伏を決断。だが降伏後秀吉が姫路に引き上げたので天正八年に豊国を鳥取城から追い、吉川元春に援助を求めた。その後の秀吉の鳥取城攻めで討死したようである。ちなみに因幡山名氏家老の中村氏は武田氏の謀叛での合戦で親子二代が討死している。


【参考文献】

『兵庫県史』第3巻 1978
『兵庫県史 史料編』中世9(1996)・7(1993)・3(1988)・2(1987)
『鳥取県史』第2巻中世 1973
『戦国大名系譜人名辞典 西国編』1986
宿南保「但馬山名氏と垣屋・大田垣両守護代家−垣屋・大田垣両氏の系譜究明から迫る−」(『中世の村と流通』所収、1992)


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