山内上杉氏


参考
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【山内上杉氏略史】

山内上杉氏は扇谷上杉氏の弟の家系に当たるが、扇谷上杉氏の祖とされる上杉重顕の弟、憲房より山内上杉氏や宅間・犬懸・庁鼻(深谷)などの諸氏を分出し、また関東管領の職に就いたのも山内上杉氏の当主が多く、実質的に上杉氏の惣領家としての地位にあった。これは、憲房・憲顕父子が足利尊氏と行動を共にしたことによる。

このことで、憲房は上野国守護に任じられ、戦国期の上杉憲政の越後退去まで続く山内上杉氏の重要な拠点となっている。憲房は延元元年(1336)、京都で北畠顕家・新田義貞と戦ったときに討死したが、子の憲顕が高師冬と共に足利義詮の「両執事」となり、師冬が憲顕と対立し敗れたのち、鎌倉府における山内上杉氏の覇権は確立された。憲顕は足利尊氏・直義兄弟の対立(観応の擾乱)において直義側に付いて失脚、上野守護等も奪われるが、関東公方足利基氏によって関東管領執事(関東公方足利氏を「公方」と称するようになるまでは「関東管領」は足利氏であり、上杉氏は「関東管領執事」である。足利氏満以降は関東公方と称したので上杉氏は「関東管領」となる。)に復帰している。

基氏が死に、幼少の子氏満が関東公方となった貞治七年(1367)には、憲顕が失脚中に上野などの守護となった宇都宮氏綱が平一揆と結んで鎌倉府に謀叛するが、憲顕は氏満の名代としてこれを制圧、康暦二年(1380)には下野の小山義政が反乱を起こすが、憲方は足利氏満と共に鎮圧している。憲方はその後関東管領を辞任し、子憲孝が関東管領となるが、憲孝も程なく関東管領を辞任したので、このとき犬懸上杉氏の朝宗が関東管領となっている。朝宗の次は憲孝の子憲定が同職につくが、その次も朝宗の子、氏憲(禅秀)が関東管領となり、山内・犬懸両氏が交替で関東管領の職に就いた。

しかし、上杉氏憲は応永二十三年(1416)、関東公方足利持氏を討つために挙兵、憲基(憲方の子)は上杉一族と共に乱を鎮圧し、犬懸上杉氏は没落した(禅秀の乱)。憲基はその後早世したため、越後上杉氏より憲実を迎えるが、足利持氏は鎌倉府の強化を意図して幕府とことごとく対立、関東管領である憲実は再三に渡りこれに反対するが、ついに永享十年(1436)、持氏から憲実討伐の兵を起こされた。そこで幕府は持氏追討の軍勢を派遣、持氏は敗れて鎌倉永安寺に移され、翌年自害させられた(永享の乱)。憲実は持氏の助命が聞き入れられなかったために出家し、子が幼少であったので弟清方が管領の名代を務めている。永享十二年(1440)、清方は持氏の子を擁立して挙兵した結城氏朝の追討に向かい、氏朝を破った(結城合戦)。

こののち、関東管領は憲実の子、憲忠が就任し、関東公方に持氏の遺児万寿王丸(成氏)が就くが、成氏の近習と山内・扇谷上杉氏の被官長尾氏・太田両氏とが対立し、これが江の島合戦へと発展する。(詳細は古河公方足利氏の項参照のこと。)さらに享徳三年(1454)、関東管領であった上杉憲忠は成氏に謀殺される。長尾・太田両氏は京都で幕府に仕えていた憲忠の弟、房顕を迎えて足利側と対抗し、二十年以上に及ぶ「享徳の大乱」の端緒となった。この乱で足利成氏は下総国古河に退いたため、房顕らは足利将軍家の一族を公方として下向させることを要請したので、幕府は足利義政の弟、政知を下向させて伊豆国堀越に置いた。これがのちに伊勢宗瑞(北条早雲)によって滅亡させられる「堀越公方」である。

房顕は大乱中の文正元年(1466)、在陣中に死去したため、家宰長尾景信は越後上杉氏より房定の子で十四歳になる顕定を迎え、家督を相続させた。この顕定の時代、扇谷上杉氏の家宰、太田道灌は、山内家の家宰職相続問題や顕定に付いている武蔵北部・上野国の諸氏が顕定に対して不満を持っていたのを取りなしたりしている。太田道灌はこの頃扇谷上杉氏の拠点の河越・江戸の両城の修復も行い、領国の安定に努めた。しかしこの行動にたいして不安を持った顕定は、扇谷上杉氏の当主定正を謀って道灌を謀殺させた。文明十八年(1486)の事である。このため山内上杉氏は扇谷氏と対立、度々合戦が行なわれた。

永正四年(1507)には、越後において顕定の弟で越後守護の房能が守護代長尾為景によって殺害される事件が起こった。顕定は為景を討つため越後へ向かうが、信濃国で高梨政盛に討たれ、顕定と共に越後へ向かった子の憲房も反撃にあって上野国に逃れた。この顕定の死去によって、顕定の二人の養子である憲房・顕実との間に内紛が生じたが、これは古河公方足利政氏(顕実の兄)・高基父子の不和が影響したものであった。憲房の家宰長尾景長は永正九年(1512)、鉢形城に拠る顕実を攻めて古河城に逐った。大永五年(1525)、憲房は死去するが、子の憲政が幼少のため、足利高基の子である憲寛が山内上杉氏の家督を継いだ。

その後憲寛は憲政に逐われ、憲政が家督を相続する。憲政は北条氏の勢力を駆逐するために扇谷上杉氏と共に天文十四年(1545)、武蔵国河越城を攻めるが大敗し、上野国も情勢が不安定となり、ついに同二十一年には北条氏に本城の平井城への攻撃を許した。この状況で、憲政は最も側近である馬廻衆にも離反され、さらには北条氏からの攻撃を恐れた長尾氏ら重臣衆にも身柄の保護を拒否されたため、平井城を退去し越後へ逃れたのであった。(従来、憲政の越後退去は天文二十一年とされていたが、近年の研究では平井城を退去の後も上野・越後国境付近に留まり抵抗を続け、永禄元年(1558)八月頃に越後に逃れたとの説が一般的になりつつある。)

越後に逃れた憲政は、長尾景虎(上杉謙信)に上杉家の名跡を相続させ、春日山城下に居住した。謙信の死後、景勝と景虎の間に勃発した家督相続の争い(御館の乱)で調停を行なったが成功せず、景勝方の兵に誤って殺害されたという。謙信が名跡を相続した上杉氏は景勝の時に会津、さらには出羽国米沢に移され、幾度かの御家断絶の危機を克服して幕末に至った。

山内上杉氏系図

【山内上杉氏の家臣団】注:山内上杉氏家臣団については憲政の越後退去後におけるその勢力毎のまとまりとして記載することを試みた。

◆上杉氏一門◆
・上杉憲寛【うえすぎ・のりひろ ?〜1551(天文20)】
足利高基(古河公方)の二男。憲政が幼少だったため山内上杉氏に養子として入り、関東管領となる。享禄四年(1531)、憲政に追放されて上総国宮原に移り、宮原晴直と改名。子孫は幕府旗本となった。

・上杉憲藤【うえすぎ・のりふじ ?〜1579(天正7)】

『寛政重修諸家譜』によれば、憲政が越後へ退くときに北条氏に殺害された龍若丸の弟にあたり、憲政(当)が越後に退去するときに従ったという。謙信死後の家督をめぐる上杉景勝と景虎の戦い(御館の乱)で討死した。

・上杉憲重【うえすぎ・のりしげ ?〜1579(天正7)】
『戦国大名系譜人名事典 東国編』の「山内上杉氏」(湯山学氏執筆)の項によれば、憲政には越後退去後に設けた三人の子がいたという。そのひとり、憲重は林泉寺に入って三宝寺と称し、御館の乱で父憲政の被官と戦って討死したという。あるいは憲藤のことか。

【深谷上杉氏】このページ下部に独立

◆長野氏一族◆
・長野業氏【ながの・なりうじ ?〜1538(天文7)】
三河守。業正の兄。父信業の兄、憲業の養子となった。

・長野業通【ながの・なりみち ?〜1563(永禄6)】
業氏の長男。箕輪城落城で自害したとあるが、別の系図では「於西上州病死」とある。

・長野勝業【ながの・かつなり ?〜1563(永禄6)】
業氏の三男で業通の弟。箕輪城落城の時に討死したという。

・長野直業【ながの・なおなり ?〜1563(永禄6)】
業正の弟。左京亮。実は業正の父の従兄弟、氏業の子で、富岡村に住んだという。「下館殿」と称され、箕輪城落城で自害した。

・長野吉業【ながの・よしなり ?〜1546?(天文15?)】
左衛門大夫。業正の長男。河越野戦に出陣、傷を負って箕輪城に帰城して死去とも、天文二十一年死去ともいうが、共に十六歳であったとする。

・長野(厩橋)方業【ながの(まやばし)まさなり 生没年未詳】
出羽守・左衛門大夫。長野業正の父である信業の弟。厩橋城に拠ったので「厩橋」と称したという。大永七年(1527)、総社長尾氏を攻めた人物で、弘治三年(1557)、業正の母の十七回忌の奉賀帳に名を記す長野一族の「出羽守」であると考えられている。

・長野(厩橋)賢忠【ながの(まやばし)・けんちゅう? ?〜1560(永禄3)】
「賢忠」は入道名と思われる。「玄忠」とも言ったらしい。長野業正の伯父であるという。上杉謙信に従属し、謙信が伊勢崎に布陣した際、息子の彦九郎を派遣するが、陣中で馬が暴れたのを厩橋衆の謀叛と誤解されて彦九郎が殺害されたので厩橋に籠城。しかし病身であった賢忠は籠城の無理がたたって三日後に病死したという。賢忠に子は彦九郎のみだったらしく賢忠の死で厩橋長野氏は断絶したらしい。その後大きな混乱もなく厩橋氏家臣団と共に厩橋城は上杉氏に接収され、北条高広の支配下に組み込まれたという。

◆長尾氏◆長尾氏関係系図
【白井長尾氏】
・長尾憲景【ながお・のりかげ 生没年未詳】
景誠(長尾景春の嫡孫、享禄二年(1529)死去という)の後継者で、惣社長尾氏の顕景の子とされる。白井長尾氏に入り、景誠の跡を継いだと考えられるという。左衛門尉を称した。上杉憲政の越後退去にも従うが、のち上野国に戻り、上野国の有力国衆の一人に数えられている。
 永禄十年(1567)に武田信玄によって居城の白井城が落城したあとは上杉謙信に従って各地を転戦していたらしい。小田城との関わりが深かったとも言う。その後上野国に復帰、北条氏への服属・離反を繰り返した。天正十一(1583)までの生存が確認されている。入道して市井斎と号した。

・長尾輝景【ながお・てるかげ 生没年未詳】
左衛門尉。憲景の嫡子と考えられている。天正九年から十一年の間に家督を相続した。「輝」は上杉輝虎(謙信)の偏諱と考えられると黒田基樹氏は述べている。北条氏に服属し、同氏領国の最北端の勢力として沼田計略の先鋒の役割を担い、真田氏と抗争した。北条氏の滅亡後は上杉景勝に仕えて越後国内に知行地を与えられたことが確認されている。

・長尾景広【ながお・かげひろ 1573(天正1)〜1630(寛永7)】
憲景の次男。天正十年の本能寺の変後、滝川一益が北条氏に敗れて父の長尾憲景が北条氏へ従属したため、北条氏への人質となったらしい。しかし翌年には生母の病気のため帰国を許されている。元服に際して北条氏政の偏諱を授けられて政景と名乗り、北条家滅亡後前田氏に仕え、その後上杉景勝に仕えて景広と名を改めた。「牧和泉守事(仮称)」(黒田基樹『戦国大名と外様国衆』所収)では天正十三年に十三歳だったとするが、『三百藩家臣人名事典』1は天正十一年(1583)生れとする。

【惣社長尾氏】
・長尾景孝【ながお・かげたか 生没年未詳】
左衛門佐。天文二年(1533)には家督として見えているが、同十四年には弟景総に家督が移っているので早世したと考えられるという。惣社長尾氏は惣社(現前橋市石倉)を本拠とした。

・長尾景総(房)【ながお・かげふさ 生没年未詳】
能登守。天文十四年には家督を継いでいる。景孝の弟であろうという。永禄十二年(1569)には入道して能登入道長建と称しているのが確認されている。上杉憲政の越後退去に従った「長尾能登守」はこの景総のことであるらしい。

【足利(館林)長尾氏】
・長尾憲長【ながお・のりなが 1503(文亀3)〜1550(天文19)】
景長の父。足利長尾氏は上杉憲房が関東管領と山内上杉氏家督を継承して以降、同氏の「家宰」として活躍した家で、上杉氏が越後に退去したのちも有力な国衆として上野国に存在した。当初本拠としていたのは足利で、子景長の時代の永禄五年(1562)、館林に移った。

・長尾当長(景長)【ながお・まさなが(かげなが) 1527(大永7)〜1569(永禄12)】
但馬守。憲長次男という。兄の早世のため家督を継ぐ。当初は別名を名乗っており、上杉憲政が「憲当」と改名する時期(天文十五年四月〜七月)の間に偏諱を受けて「当長」と改名したと考えられるという。永禄三年に入道して「禅昌」と名乗ったが、同年十一月には再び還俗して「当長」と名乗り、翌年四月からは上杉憲政の後継となった上杉謙信より偏諱を与えられ「景長」と改名した。永禄十二年に死去したが、嗣子がいなかったため、由良国繁の弟、顕長を養子に迎えた。

・長尾政長【ながお・まさなが 生没年未詳】
従来は父の当長(まさなが)と同一と考えられていたが花押が全く異なるため、別人であり景長の嫡子と思われると黒田氏が指摘した。「政」は北条氏政の偏諱と考えられる。永禄三年(1560)から同五年の間にしか現れず、しかも当長養子である顕長が永禄八年一月以前に養子として定められていたとみられ、永禄七年までに廃嫡か早世で家督を継げなかった模様だという。

・長尾顕長【ながお・あきなが ?〜1621(元和7)
由良成繁の次男で景長の養子となる。永禄七年頃に養子となったと考えられ、同八年から九年の間に元服したと見られるという。

・長尾宣景【ながお・のぶかげ 生没年未詳】
顕長の子。由良国繁の娘を妻とした。土井利勝に仕え、千二百石の知行を与えられたという。

◆横瀬・由良氏◆
・横瀬泰繁【よこせ・やすしげ ?〜1545(天文14)】
由良(横瀬)成繁の父。山内上杉氏家老、長尾氏との関係を深め、妹が長尾但馬守(憲長か)の妻となっている。子成繁の次男が長尾氏の養子として入る素地がこのころより形成されていたという。天文十年に厩橋長野氏・桐生佐野氏・深谷上杉氏・成田氏によって攻撃を受けた。

・由良氏繁【ゆら・うじしげ 1567(永禄10)〜1582(天正10)】
式部大輔。国繁の長男。「氏」は北条氏の通字の授与と考えられると黒田氏は指摘している。早世したため、二男である貞繁が家督を継いだ。

・由良貞繁【ゆら・さだしげ、1574(天正2)〜1621(元和6)】
国繁の次男であるが、兄氏繁の早世で家督を継ぐ。本能寺の変以後、北条氏に従属するが離反、天正十三年(1585)に本拠金山城を没収されて父、国繁らと共に桐生に退く。同十六年には再び国繁は謀叛し、桐生城の破却・国繁夫妻の小田原在府で決着して父が桐生を離れたため、祖母妙印尼(国繁・顕長の母で成繁の妻)の後見によって桐生に在城した。
 豊臣秀吉の小田原征伐では父は小田原に籠城したが、祖母妙印尼の外交活動により常陸牛久領を与えられて命脈を保つ。関ヶ原合戦では永井直勝配下として、大坂の陣では土井利勝配下として出陣するも、元和六年、嫡子を定めないまま死去したのでお家断絶となったが、弟忠繁が取り立てられて高家として存続している。
2001/11/10加筆

・妙印尼【みょういんに 1514(永正11)〜1594(文禄3)】
由良成繁の妻。赤井氏の娘。天正十一年、厩橋北条高広が北条氏に謀叛して降伏した後、子の国繁・長尾顕長兄弟は厩橋城へ出仕するが、両者の居城、金山・館林両城の借用を求められ、家中と妙印尼が籠城を準備したために国繁・顕長は小田原へ抑留された。それ以後同十三年まで佐竹氏・佐野氏から援軍を要請し、籠城して北条氏に抵抗を続ける。その一方で佐竹氏などを通じて羽柴秀吉と、また皆川氏を通じて徳川家康と接近し、北条氏との執り成しを依頼していることが知られるという。しかし従属勢力である阿久沢氏の離反や北条氏照の館林侵攻など本格的な攻勢に降伏し、桐生領のみの領有を許されて退く。
 国繁・顕長が再び北条氏に背き、鎮圧されて小田原在府を命じられると孫の貞繁の後見にあたった。羽柴秀吉による北条氏攻めでは前田利家に執り成しを依頼して開城。秀吉より牛久領で従来の知行高の安堵を伝達された。
2001/11/10加筆:生没年追加。

◆その他諸氏◆
・和田信輝【わだ・のぶてる ?〜1538(天文7)
右兵衛大夫。右兵衛尉。実名は勝業とも。勝政の子。上杉憲政の籏下に属し、天文七年に河越夜戦で討死と伝えるが、天文十五年ではないかと考えられる。和田氏は鎌倉初期に討伐された和田義盛の流れを組むという。

・和田業繁【わだ・なりしげ、?〜天正3(1575)】
信輝嫡男。右兵衛大夫、兵部少輔。吉景とも。始め上杉憲政に属す。憲政越後退去後は長野業正の籏下に属したようである。武田信玄の上野侵攻と長野氏の滅亡にともなって武田氏につき、上杉謙信の関東出兵で居城を攻められるが持ちこたえる。天正三年、長篠合戦に従軍、討死。

・小幡憲重【おばた・のりしげ 生没年未詳】
尾張守。「憲」は上杉憲政からの偏諱と考えられるという。天文十七年(1548)に上杉憲政に対して「現不忠」(不忠を現)し、憲政の居城、平井城を攻撃している。同十九年には北条氏康に属し、再び平井城を攻撃しているため、天文十七年頃には既に反上杉勢力となっていたと考えられるという。北条氏に属すと同時に武田氏にも属し、武田信玄の上野国侵攻によって武田氏への従属を強め、北条氏との関係を弱めていった。現在のところ、天正七年(1579)まで生存が確認される。ちなみに嫡男の信実は武田氏の偏諱「信」を賜っていると考えられるという。

・小幡信尚【おばた・のぶなお 生没年未詳】
三河守。小幡氏の分家。山内上杉家の被官化していた。上杉氏家臣であったときには別名であって、武田信玄より偏諱を拝領し「信尚」と改名したらしい。上杉憲政の越後退去に従った「小幡三河守」は同人であると考えられ、長尾景虎の上野国侵攻時には信尚は総社長尾長健(景総)に属する存在であった。その後、武田氏に属し、さらに元亀元年(1570)には北条氏に属した。


【ミニ知識】
上杉憲政の名乗りの変遷
憲政…〜天文十五年(1546)
憲当(のりまさ)…天文十五年〜永禄元年(1558)
成悦(じょうえつ)…永禄元年(1558)〜
光哲(こうてつ)
光徹(こうてつ)…永禄四年(1561)以降

【深谷上杉氏】

・上杉憲賢【うえすぎ・のりかた ?〜1560(永禄3)】
憲清の子。父憲清がいつ死去したか不明であるので何時家督を相続したかは不明。ただ、天文十年(1541)、横瀬泰繁を攻めた深谷上杉氏当主が「乗賢」(憲賢)であることは明らかになっているのでそれ以前に家督相続していたと考えられる。

・上杉憲盛【うえすぎ・のりもり ?〜1575(天正3)】
憲賢の子。北条氏と争ったが元亀四年(天正元年、1573)四月和睦。氏政と弟氏邦より誓紙が出されている。憲盛は岡谷清英・秋元景朝・井草左衛門尉の連署で返状を送っている。この三人の家臣を「深谷の三宿老」と称した。

・上杉氏憲【うえすぎ・うじのり ?〜1637(寛永14)】
憲盛の子。北条氏政の養子となって氏政の養女を娶る。そのため「氏」の一字を与えられて氏憲と称す。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の北条氏攻めでは小田原城に詰めるも、深谷城にいた宿老が開城。その後信濃国更級郡に退去してその地で死去した。

・上杉憲俊【うえすぎ・のりとし 1579(天正7)〜1648(慶安1)】
氏憲の子。父とともに信濃国へ退去するが、元和二年(1617)、池田輝興に仕える。のち輝興が蟄居の身となったときに配所に従った。

・秋元元景【あきもと・もとかげ 1525(大永5)〜1587(天正15)】
越中守・但馬守。景朝とも称す。政朝の子、長朝の父。上杉憲政の養女を妻とした。上杉憲賢・憲盛に仕え、岡谷・井草両氏とともに「爪牙の臣」(三宿老)と称された。諱の元景を以て道号としたという。
2002/8/25追加

・秋元長朝【あきもと・ながとも 1546(天文15)〜寛永5(1628)】
越中守。当初深谷上杉氏に属したが、のち徳川家康に仕える。近世大名秋元家の基礎を築いた人物。
2002/8/25追加

・岡谷香丹【おかや・こうたん ?〜1537(天文6)】
加賀守。清英の父。生年は不明だが、延徳三年(1491)年には皿沼城(深谷市)を築城したと記録に出ている。上杉房憲に仕えた。天文四年、家督を嫡男清英に譲って曲田城(深谷市)に移り、城内に寺を創建したとされる。
2002/8/25追加

・岡谷清英【おかや・きよひで ?〜1584(天正12)】
加賀守。深谷上杉三宿老のひとり。妻は矢井重家の妹。深谷上杉氏の重臣として活躍、上杉謙信からの信任も厚く、謙信が後奈良天皇より賜った箱根権現の像を与えられたと伝えられる。入道して清心と号した。『名将言行録』を著わした岡谷繁実はこの子孫である。
2002/8/25追加

・岡谷泰春【おかや・やすはる ?〜1577(天正5)】
左京亮。清英の子。上杉氏と武田氏の合戦のおり、上野国猿ヶ京で武田勢と戦って討死した。
2002/8/25追加

・岡谷泰繁【おかや・やすしげ 1555(弘治1)〜1616(元和2)】
左馬助。泰春の嫡子。討死した父、泰春の跡を継ぐ。それ以前の元亀元年(1570)二月には、深谷を攻めた北条氏康軍に対し、岡谷宗雲と共に城外に出て奮闘したという。激しい戦いだったため刀をはずし、敵に奪われるが、上杉氏から刀を賜り功を賞された。北条氏の滅亡後深谷を去り、矢野と改姓、徳川氏に仕えた後前田利常に仕えたという。子の康勝は秋元盛朝(長朝の弟という)の娘を妻とした関係で秋元家に仕え、家老の家柄となった。
2002/8/25追加

・矢井重家【やのい・しげいえ ?〜1592(天正20)】
伊勢守。播磨守重次の嫡子。上杉氏の「三宿老」は岡谷・秋元・井草であるが、この矢井氏を含めると「四宿老」(上原出羽守の場合は「四天王」)と称したという。深谷城落城時、上野国尾島村(群馬県尾島町)に退き、庵に蟄居したと伝える。のち深谷に戻って死去し、子孫は加藤と改名して代々深谷に居住した。
2002/8/25追加

・矢井重利【やのい・しげとし 生没年未詳】
若狭守。重家の弟。詳細は不明であるが、深谷上杉氏の城を預かる城代であったらしい。
2002/8/25追加


【参考文献】

『群馬県史』通史編3 中世 1988
『高崎市史』通史編2 中世 2000

『高崎市史』史料編4 中世II 1994
『深谷市史』全 1969
黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(文献出版、1996)
『戦国大名系譜人名事典 東国編』(新人物往来社、1985)
『三百藩家臣人名事典』1 (新人物往来社、1988)
『室町幕府守護職家事典』上巻(新人物往来社、1988)
栗原修「厩橋北条氏の存在形態」(『ぐんま史料研究』7、1996)
渡辺嘉造伊『上州の戦国大名 横瀬・由良一族』1995
大澤成四郎『深谷上杉家八代記』1992
深谷上杉顕彰会『深谷上杉顕彰会二十年の歩み』2001


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