由利十二頭(由利衆)


注:ここは数氏を掲載しているので出自毎色分けが出来ないため、「不明・その他」の色にしています。

由利地方詳細図(別のウィンドウが開きます)

【由利十二頭略史】

「由利十二頭」とは、戦国期に出羽・庄内の間の日本海側でいわゆる一揆結合の形をとっていた豪族衆の集まりである。「十二頭」と称されるのはのちの軍記物の記述からであり、様々な由利十二頭関係の書物から十二頭を構成している諸家を抜き出すと十二家以上となってしまうが、「十二」というのは鳥海山修験道に関連があるといわれており、鳥海山を薬師如来として見立て、薬師如来の前立である「十二神将」(薬師如来が発する十二誓願を達成する十二の善神)をモチーフとしたと考えられている。

もともと由利地方は鎌倉時代以前は土着の豪族、由利氏の領地であり、源頼朝の奥州征伐で由利八郎が捕虜となるものの、知行を認められて御家人となった。しかし和田合戦で和田氏側についた由利氏は執権北条氏によって所領を没収され、勢力が衰えた。その後に小笠原氏の一族に由利地方が与えられ、このことが由利十二頭の出自がほぼ小笠原氏であるということに繋がっている。しかし、霜月騒動後は北条氏領となったと考えられている。その後は鎌倉幕府滅亡とともに領地は没収され、南北朝内乱期には由利地方の領主はめまぐるしく変っている。

そのなかでのち「由利十二頭」を構成する国人が宝徳二年(1450)にあらわれる。赤宇曽(赤尾津)氏である。赤宇曽領主、小助川立貞が年貢を横領したために赤宇曽領主である三宝院の訴えにより幕府が未進年貢等催促の遵行を決定したのである。しかし小助川氏は長年に渡り三宝院に年貢を進上していない、ということを述べ、年貢進上に難色を示していた。この事件がどうなったかは不明であるが、国人領主の成長を物語っているものとされる。

戦国期には下に示したような由利地方の諸家が台頭し、情勢により大宝寺氏や安東氏、そして小野寺氏などと結び、領地を保っていた。しかし豊臣秀吉の天下統一によって一部の諸家が改易され、「由利衆」として把握された。根井氏や下村氏などは二百石にも満たない石高で知行安堵の対象となっている。そして、由利衆が総体として、たとえば朝鮮出兵では大谷吉継の一手として、与力的に配属されて軍役を担ったのである。

関ヶ原合戦後にはまず岩屋氏が由利衆から脱落、次ぎに由利衆の中で最大の知行を誇った赤尾津氏も脱落して「由利衆」は解体し、幕臣になる家や最上氏家臣となる家などにわかれた。しかし最上氏家臣となった家は、最上氏の御家騒動による改易の影響で浪人し、佐竹氏やその家臣の家士となるものも多く、結果的に仁賀保氏が多くの知行を保ち、由利十二頭出身の家としてはもっとも家の存続に成功した家といえるであろう。

由利十二頭諸家系図は多すぎるので省略します。

【由利十二頭の諸勢力】

由利衆
豊臣秀吉の本領安堵を認められた「由利十二頭」のなかの勢力は赤尾津・仁賀保・由利・岩屋・打越・下村・石沢・禰々井氏であるが、その中で諱が判明している家のみ掲載している。

赤尾津氏
当初は小助川地域を勢力下に置いていたため小助川と称したが、赤宇曽地方(小助川地域を含む)まで勢力を伸ばしたため赤宇曽や赤宇津、赤尾津と称したようである。だが厳密な区別はなく、両用していたと考えられる。関ヶ原合戦後に改易され、子孫は大井氏や池田氏を名乗った。

・赤尾津(小助川)家保【あかおつ(こすけがわ)・いえやす 1507(永正4)〜1567(弘治3)】
左衛門尉。天文元年に仙北大曲城主、前田氏が侵攻したため迎え撃ち、前田氏を討ち取ったという。また飛嶋を攻略し、嫡孫である長保をもって郡代に命じたという。
 この経歴は下に述べる明治期成立の系図のため疑わしいが、江戸期成立と思われる別の系図では、赤尾津左衛門尉−赤尾津(小助川)治部少輔−赤尾津(小助川)孫次郎と当主が交替したとあるので、とりあえず掲載した。

・赤尾津(小助川)光政【あかおつ(こすけがわ)・みつまさ ?〜1597?(慶長2?)】
治部少輔。戦国末期から織豊政権期にかけては、「小助川」「赤尾津」を同一人物が名乗ったことが考えられることから、明確な区別はなかったようであるが、系図では同時期に「小助川」氏と「赤尾津」氏が存在することになっている。この小助川治部少輔も赤尾津氏と区別されているが、当時の史料をみると小助川治部少輔と赤尾津治部少輔は同一人物と考えられる。この人物の諱を記している系図は二つあるが、一つは明治期まで記す系図のため、元禄年間成立の系図に記された「光政」という諱を採用した(明治期成立の系図では「延繁」)。
 元亀年中に死去とするが、慶長二年に赤尾津孫次郎(=道俊)に代替わりしていることが確認される。

・赤尾津(小助川)道俊【あかおつ(こすけがわ)・みちとし ?〜1600?(慶長5)】
小助川氏及び赤尾津氏の系譜は錯綜しているが、「赤尾津孫次郎」と名乗った人物が存在することは史料からも明らかとなっている。「孫次郎」を名乗った人物は道俊であり、のち道益と号したとある。諱は光隆ともあるらしいが、元禄年間に成立した系図では諱は道俊となっている。慶長五年に下野国古河で病死というが、それ以後も「赤尾津孫次郎」と史料には出てきており、正保年中(1644〜1647)死去との記録があるので、こちらが正しいのではないかと思われる。

仁賀保氏
赤尾津氏に次ぐ由利衆のなかの大身。小笠原一族。矢島氏などとも一族。大名となるが、知行を子息に分割相続させたため一万石を割り、旗本となった。

・仁賀保挙久(明重)【にかほ・きよひさ(あきしげ) 1523(大永3)〜1576(天正4)】
大和守。天文十年、父挙政死去により家督相続。

・仁賀保挙長(安重)【にかほ・きよなが(やすしげ) ?〜1577(天正5)】
挙久の子。父の跡を継ぎ、天正四年家督を継ぐが、翌年死去。

・仁賀保重挙(治重)【にかほ・しげきよ(はるしげ) 1562(永禄5)〜1583(天正11)】
挙長の子。

・仁賀保挙晴(重勝)【にかほ・きよはる(しげかつ) 1568(永禄11)〜1591(天正19)】
子吉氏より養子に入った。

・仁賀保挙誠(勝俊)【にかほ・きよしげ(かつとし) 1561(永禄4)〜1624(寛永1)】
はじめ光誠。赤尾津氏より養子に入った。秀吉より、三千七百石余を与えられる。関ヶ原合戦においては庄内の押さえとして活躍。慶長七年、常陸に所領替えとなり、元和九年、出羽国仁賀保において一万石を与えられる。子の良俊と誠政に分地したため、仁賀保氏は幕臣として家を保った。

・芦田拳実【あしだ・きよざね 生没年未詳】
仁賀保氏の一族。芦田氏を継ぐ。流浪して秋田土崎湊に居住。子は佐竹家に仕えた。

滝沢氏
由利十二頭がほぼ小笠原氏を祖とするが、滝沢氏だけは土着の国人由利氏を祖とするため、なんらかの関連性が考えられる。

・滝沢政家【たきざわ・まさいえ ?〜1594?(文禄3?)】
兵庫頭。矢島氏に滅ぼされた。

・滝沢春永【たきざわ・はるなが ?〜1594?(文禄3?)】
政家の弟で又五郎と称す。兄政家と同じく滅ぼされたとするが、豊臣政権下で九戸一揆・肥前名護屋出陣、伏見城作事用木材の提供を行っている滝沢氏当主は「滝沢又五郎」であり、この春永ではない可能性もあるが、疑問点も多い。

・滝沢政忠【たきざわ・まさただ 生没年未詳】)
政家の子。遺言により逃れて最上義光に仕えたという。

・滝沢政道【たきざわ・まさみち ?〜1609(慶長14)】
政忠の子。兵部少輔。最上氏に属して旧領の由利に知行を与えられ、家老職を務めたが、慶長十四年正月、年頭御礼の際に家臣に殺された。子孫はのち仁賀保氏に仕えている。

岩屋氏
小笠原一族。応仁年間に出羽に下向という説と、天文年間(1532〜1554)に下向という説がある。

・岩屋朝盛【いわや・とももり 生没年未詳】
能登守。岩屋館に住んだので岩屋と称した。小田原合戦に赴いて豊臣秀吉に拝謁。知行を安堵される。慶長年間(1596〜1615)に没という。

・岩屋朝繁【いわや・ともしげ 生没年未詳】
右兵衛尉、能登守、大膳亮。朝盛の嫡男。のち最上義光家臣となるが、元和八年(1622)の最上氏改易で共に改易。常陸宍戸にいた秋田氏(安東氏)を頼って知行を与えられたという。のち出羽に戻り、正保年間(1644〜47)死去という。子の朝尚が佐竹氏に仕えた。

打越氏
小笠原一族の大井氏が祖。出羽国由利郡打越郷に移住して打越を称す。なお、当初は「うていち」と読み、のちに「うちこし」にあらためたという。

・打越光重【うていち・みつしげ 1561(永禄4)〜1591?(天正19?)】
宮内少輔。天正十九年に肥前名護屋で死去という(注:朝鮮出兵は天正二十年)が、史料的には慶長二年に打越宮内少輔が孫次郎に代替わりしていることが知られるという。

・打越光隆【うていち・みつたか 1581(天正9)〜1609(慶長14)】
飛騨守。光重の子。はじめ最上義光に属して由利郡打越に住む。関ヶ原合戦で徳川家臣となって御家人となり、上杉氏の押さえとして庄内にとどまる。この功で常陸国内で三千石を与えられ、のち出羽国由利に移る。子孫は代々幕臣。

下村氏
現在の東由利町域を拠点としたという。小笠原一族。

・下村宗長【しもむら・むねなが 生没年未詳】
天正十八年、豊臣秀吉によって知行を安堵された。

・下村長秀【しもむら・ながひで 1582(天正10)〜1653(承応2)】
宗長の子。佐竹家の臣、梅津憲忠に仕えた。

根井氏
木曽義仲の家臣、根井行親の末裔という。矢島氏を信州より呼び寄せた功労者で、矢島氏の知行の内、三分の一を与えられるが、戦国期には知行も削減されて矢島氏に従属している状況であった。関ヶ原合戦後浪人して遠藤と改め、生駒高俊が出羽由利に領地替えとなったときに仕えて家老になったとする。

・根井親光【ねい・ちかみつ 生没年未詳】
矢島氏を仁賀保氏と共に討伐したという。子が無かったので上総介茂次を養子とした。上総介のとき改易された。

・根井茂次【ねい・しげつぐ 生没年未詳】
上総介。親光の養子。縁者であった仁賀保兵庫頭に領地朱印状を預けたところ、仁賀保氏は館に帰ってにわかに自害し、館に火を放ったため朱印状を消失したという。徳川政権の朱印状改めで紛失したと言上するのをためらったため、領地を没収されたという。


由利十二頭の家
由利十二頭の諸家については諸本により異動が多いが、そのなかで全てにあげられているのが赤尾津・仁賀保・滝沢・岩屋・打越・潟保・玉米・下村・矢島・子吉の十氏であり、上記「由利衆」以外の諸家をここでは掲載している。

潟保氏
藤原氏で、当初斎籐を称した。

・潟保重光【かたほ・しげみつ ?〜1571(元亀2)
重春の父。

・潟保重春【かたほ・しげはる ?〜1600(慶長5)】
紀伊守、治部大輔。小田原征伐に従軍、本領を安堵される。

・潟保重直【かたほ・しげなお ?〜1671(寛文11)】
重春の子。庄内酒井家に仕えた。

子吉氏
応仁年中、鎌倉より下向する。由利子吉に居住したことにより子吉と称した。

・子吉重旨【こよし・しげむね 生没年未詳】
兵部少輔。慶長年中に大森合戦で仁賀保氏に属し、最上氏に討たれたという。

・子吉重利【こよし・しげとし 生没年未詳】
重旨の嫡子。重旨討死のとき幼年であったため小野寺氏領西馬音内に落ち延びた。元和年中佐竹家に仕えた。

玉米氏
小笠原氏。応永の頃下向したという。

・玉米儀満【とうまい・よしみつ 生没年未詳】
信濃守。米本館を本拠としたという。一族に玉米山城守・伊予守がいたと伝える。

・玉米儀次【とうまい・よしつぐ 生没年未詳】
儀満の嫡子。文禄頃に浪人したという。

矢島氏
現在の矢島町・鳥海町周辺を知行していたという。木曽義仲の家臣が祖で、義仲滅亡後に由利に移住したとも、根井氏の項で述べたように根井氏によって由利に招かれたともいう。

・矢島義満【やじま・よしみつ 生没年未詳】
天文・永禄頃の武将と思われる。滝沢氏と結んでいた履沢氏を矢島氏が討ったために仁賀保氏を頼った、あるいは以前より滝沢氏と矢島氏の百姓の抗争があったとするが、永禄初年頃より仁賀保氏との抗争が勃発している。

・矢島満安【やじま・みつやす ?〜1588?(天正16?)】
義満の嫡子。永禄三年には家督を相続していた。天正四年(1576)には仁賀保氏当主の拳長が矢島氏に夜討ちをかけたが返り討ちにあい討死したという。最上氏と結び共に上洛して豊臣秀吉に拝謁しようとしたが、仁賀保氏を中心とした由利衆に満安の留守に城を奪われ、妻の実家である西馬音内小野寺氏を頼ったが自害したという。

《補足》
由利十二頭などの家臣

【参考文献】

『本荘市史』通史編1、1988
『本荘市史』資料編1下、1985


【他サイト情報】
由利十二頭に関して詳述するコンテンツ「由利史」をもつ「二見城」(二見丹波守様)がおすすめです。

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