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水たまり

 高月佳妖

 白い身体が、しなやかな腕と足の動きで水をかきわけていく。
 水面下から濡れた黒髪と白い顔が持ち上げられて、ふぅと息をつなぎ、また水の下へと消えた。
 その顔は、一週間前に死んださやかの顔だった。
 何度も息継ぎを繰り返してさやかは一面に広がる水を泳ぐ。
 水面はおだやかに広がっていて、さやかの手足の動きだけが水をさざめかせる。しかし、その水の色は恐ろしいほど澄んだ青でその底は知れなかった。
 この果てなく広がる水はいったい何なのだろうか。
 流れも波もない水面が川や海であるはずもなく。
 茫漠と広がる様は湖と言うには広大すぎて。
 そんな正体不明の巨大な水たまりを泳ぐさやかの裸身。
 青い水に溶けてしまいそうな白い肌。
 それはひどく孤独な光景だった。
 おれは無性に哀しかったけれど、泳ぎ続けるさやかをただ見ているだけだった。
 そして、何十回目かの息継ぎの後、さやかの白い身体は水の中に沈んだまま、いくら待っても上がってこなくなった。
 夢は、ここで終わった。



 さやかの形見分けに、おれがもらったのは一匹の赤い金魚と金魚鉢と水中に空気を送るためのポンプと餌だった。
 春雨が降りしきる夜、赤い金魚が泳ぐ金魚鉢を抱えてアパートまで帰った。右手首にはポンプやら餌やらがはいった紙袋をぶら下げて。
 歩きながらおれは妙な気分だった。
 金魚でさえ生きているのに、さやかは死んだなんて。



 水の中で音もなくひれを動かして泳ぐ金魚を、テーブルに頬をつけて横から眺めながら、おれは顔をしかめていた。座ったまま眠り込んでいたので節々が痛い。喉はからからに渇いて、暖房は換気を促すランプのサインが点滅してとまっていた。目線だけ動かして時計をみると、午前零時をまわっている。
 さやかが、バスタブの中で睡眠薬をビールで飲み下したのは一週間前のこの時間帯だったという。
 通夜で聞こえてきた数々の噂。
 去年の十一月頃からどこか情緒不安定だったとか。
 今年に入ってからはカウンセリングを受けていたとか。
 不眠を訴えて睡眠薬を処方されていたとか。
 二週間前から自宅にこもりきりだったとか。
 それらの噂をささやく人々は皆、さやかの自殺をさして違和感のないこととして受け止めていた。
 しかし、おれにとってさやかの自殺は現実感の欠如した出来事だった。
 さやかがカウンセリングをうけたり、睡眠薬を飲んでいることを、おれは死ぬほど大げさなこととして受け止めていなかったからだと思う。
 カウンセリングを受けることにした時も、睡眠薬の処方をしてもらった時も、死に連なるような陰気な様子は全く見せずに、さやかは笑っていた。
『少し鬱っぽくて』
 と説明する口調もどこか冗談っぽかった。
 だから、あまり心配なんてしていなかった。
 そんなおれの反応に対して口の悪い友人は
『お前達本当につきあっているのかよ』
 と言った。
 それでも、さやかの葬式が終わった今も、おれにはさやかが死んだなんて、悪い冗談のように思えるのだ。
 金魚でさえ生きているのに、さやかが死んだなんて。
 赤い金魚がおれの視線の先でゆらゆらと水の中を泳ぐ。
 夢で見たさやかの白い裸身が、脳裏に浮かんだ。
 泳ぎ続けて、最後には沈んでしまったさやか。
 何故あんな夢を、おれは見たのか。
 赤い金魚は、鉢の丸い弧にそってゆっくりと泳ぐ。
 その口元からぷかりと泡が昇った。
 それを見た瞬間、ふっと、一つの光景が思い出された。
 場所はさやかの部屋で、さやかは机の上の金魚鉢に顔の高さをあわせて熱心に赤い金魚を見つめていた。秋の弱い日光がガラスごしに差し込んで、金魚鉢と金魚と、それを眺めるさやかの頬に降りそそいでいた。
「金魚鉢って金魚の全人生だよね」
 唐突にさやかが言った。その声音からは、それがどんな意図で発せられたセリフなのか何も感じられなかった。だからそれは意図のない、ただのつぶやきに属しているとその時は思った。
 だから、
「そりゃ、魚は水の中でしか息できないし」
 と、おれは当たり前の事実をかえした。
「うん」
 さやかは素直に、うなずいた。
「人間も同じ。生きることって大きな青い水たまりの中で泳ぎ続けることだから。
 ただ金魚と人間が違うのは、金魚は水の中で息が出来るけれども、人間は出来ないってことだけで」
「なんだそりゃ?」
 さやかのセリフの意味は、よく、わからなかった。
 しかし、さやかからそれ以上の説明はなかった。
 秋の陽光の中で、ただ静かに、笑っただけだった。
 おれは、さやかの謎のセリフにひっかかりはしたものの、それを深く考えることはなかった。
 彼女には元々どこか唐突で突拍子のないところがあって、おれにはよく意味の分からない事を言うことが時々あった。おれが理解に苦しんでも彼女は、少し笑うだけで積極的に自分の考えについて説明してくれることはなかった。
 だがおれは、彼女のもの柔らかな容姿にミステリアスなアクセントを添えていると、彼女のそんな態度を一種の美点として捉えていた。
 だから、この時のセリフもただなんとなくいつものこととして流して忘れてしまっていた。
 おれはなにか重大なことを忘れていたような気がして、焦燥感に襲われた。
 目線の先で、またぷかりと泡が昇った。金魚はくるりとその身を翻す。
 おれはじわじわと心を浸食する焦燥感から逃れるように目を閉じた。暖房がとまった部屋は薄寒かったけれど、ベッドに潜り込むために立ち上がる気にさえならなかった。



「今日はオムライスにするね」
 おれの部屋にさやかがいる。
 おれは曖昧にうなずいた。
 さやかはいつものように柔らかな微笑みを浮かべて台所に消えた。
 さやかが冷蔵庫をあける音、なにかを探す音、そして冷蔵庫を閉める音が聞こえてきた。
「大きなのつくるから卵全部つかっちゃうね」
 台所からさやかが言う。
「ああ」
 夢だとわかっていながら、あまりにもいつも通りのおれとさやかの日常的状況に、こちらのほうがむしろ現実なのではないかという気すらしてくる。
 さやかが死んだなんて、それも自殺しただなんて、悪い冗談みたいな現実より、この夢のほうがずっと現実らしい。
 明るく、もの柔らかに笑うさやかに、死ぬ理由なんてあったはずがないのだから。

 唐突に夢の場面が変わった。

 さやかの部屋におれは立っていた。  今にも雨が降り出しそうな空が窓の外に広がっていて、部屋の中は薄暗い。
 テーブルの上の金魚鉢の中で赤い金魚は、泳ぎ回ることをやめ、一ヶ所に止まってゆっくりひれを動かしていた。
 さやかがその金魚鉢の載ったテーブルに頬杖をついて、虚ろな目で金魚を見ていた。さやかはおれが今まで見たことがないような無表情をしていた。
「さやか?」
 おれは自分が知らないさやかの表情に戸惑いながら、彼女を呼んだ。
 その瞬間、彼女の瞳からぽろりと水滴が転がり落ちた。
 涙。
 おれは今まで一度もさやかが泣いたのを見たことがなかった。
「さやか? どうしたんだよ」
 さやかは無表情のまま涙をこぼし続ける。その涙が、さやかが泳いでいたあの水たまりと同じ青色をしていることに気がついて、おれははっとした。

 途端に、目の前が青く染まった。

 ごぼっ…
 息が出来なくなって、おれはもがいた。
 上も下も前後左右もすべて青い水。
 思わず口の中の空気を大量にはき出してしまう。
 水が気管に入り込んではげしくむせた。
 そして余計に水を飲む。
 頭に血が上った。
 無茶苦茶に腕を動かして水をかきわけると、やっと水面に頭が突き出た。咳き込みながら、空気を求める喉がひゅう、と音を立てた。
 水の色と同じ青色をした空が広がっているのが、一瞬目に入ってきたが、次の瞬間には再びおれの頭は水面下に没していた。
 青い水は腕や足に絡まるように重たくのしかかってくる。
「生きることって大きな青い水たまりの中で泳ぎ続けることだから」
 さやかの声が聞こえた。
「悲しみとか、失望とか、絶望とか、寂しさとか…」
 苦しみながら、水中におれはさやかの姿を探した。
 目の前は、ただどこまでも青いだけ。
「そんな感情が溶けた青い水たまりの中を泳ぎ続けることだから」
 白い腕が、背後からおれの胴にするりと巻き付いてきた。
 肩に、さやかの小さな顎がのる。
「私は金魚みたいに、平気なふりして泳いできた。
 とても上手に泳いでいたから、あなたは私が泳いでいることさえ知らなかったんでしょ?」
 水の中で、さやかは笑った。
 おれは何か言おうとして、何も言えなかった。
「でも私は金魚じゃなかった。
 息継ぎが出来なかったらおぼれてしまう人間だった」
 おれの手足から力が抜けていく。
 空気が足りない。
 水面へ。息継ぎの出来るところへ。
 一緒に行こう。さやか。
 力の入らない手でさやかの手首をつかまえようとした。
 しかし、さやかの手が、そっとおれの手を押しやった。
「私は息継ぎに失敗しておぼれてしまったの。
 だから、さよなら」
 おれの胴に回されていたさやかの腕が離れた。
 彼女の顔は、少し微笑んでいたが、いつものもの柔らかな笑みとは違ってどこか寂しげだった。
 おれは力の入らない手をさしのべたが、深く青い水底へと沈んでいくさやかの長い黒髪の端を指がかすめただけで、その白い腕をつかんで引き戻すことは出来なかった。



 赤い金魚は当然のようにえら呼吸をしながら金魚鉢の中を悠々と泳ぎ回っている。
 さやかをつかまえようとさしだした右手の指先は金魚鉢の冷たいガラスにふれていた。
 おれは、さやかが死んで一週間が過ぎた今頃になって、やっと泣いた。
 赤い金魚がぼやけて滲んだ。

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