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最愛の男を手に入れた人魚の話

 高月佳妖



 男は女を殺して海に捨てた。

 女は町から少し離れた海辺の館に独りで住んでいた。
 病か、生まれつきか、女は喋ることが出来なかった。そのために女は館に引き籠もり、街の人々と交わることなくひっそりと暮していた。
 女の素性について知る者は街にはいなかった。ある貴族が妾に産ませた娘、噂ではそういうことになっていた。

 男が、女の容貌の美しいことに偶々気がついて、館に通い始めたのはいつの頃だったろうか。
 男は街の豪商の息子で、いずれは親の決めた許婚と結婚することになっていたが、若さ故の無自覚と女の美しさが男を館に通わせた。
 幾度かの男の訪問を経て、女は男を受け入れた。口がきけないということが原因で人と交わらずに生きてきた女だったが、人並みに愛されたいという気持ちがないわけではなかった。
 男は女が口をきけないことに関しては何も述べずに、緩やかに波打つ長い黒髪の美しさを褒め、小さな手とそれに対して細く長い指を愛で、白い額に口づけた。そして、口ほどにものを言う正直で愛らしい瞳を讃えた。
 女の愛らしい目はいつしか、夕闇が落ちる頃に現れる男の姿を求めて窓辺から砂浜に熱い視線を注ぐようになっていった。
 女は男を細やかな心遣いでもてなした。晩餐の馳走、部屋に飾る花にも趣向を凝らし、贅沢とは言えないが品のよい衣装と控えめな化粧で己を飾って男を迎えた。女の白磁のようにすべらかな指が男の身体をいたわり、褥の上で潤んだ黒い瞳は男だけを見つめていた。
 しかし、月日の流れは男を自分の立場を自覚しなくてはならない時へと押し流し、女への愛情を色あせさせた。やがて許婚との婚礼の話が男に持ち掛けられ、男は女との別れを決めた。

 女にとって男は、この世で唯一の男であり愛を与えてくれる人物であった。
 その男から別れの言葉を告げられた時、物言わぬ女の瞳に宿ったのは恨みでも憎しみでもなく、ただ、あまりにも純粋な悲しみであった。彼女の口が言葉を紡ぐ事はないかわりに、彼女の瞳はこの世の誰よりも饒舌に語ることが出来た。
 女の瞳を見て、男は何故か、かっと頭に血が上り、卓の上にあったナイフをつかんだ。
 男が我に返った時、二人で幾度も情を交わしあった褥の上には赤い血潮が広がっていた。



 海の魔女は女に魚の下半身を与えた。

 海の底には陸上での迫害を逃れた一人の魔女が隠棲していた。
 魔女は美しいものが好きだった。海の底の住まいには、遠い南の海から持ってきた珍しい貝や桃色の珊瑚を飾り、色鮮やかな魚を泳がせていた。しかしそれ以上に美しく魔女の住まいを飾っていたのは数人の人魚達であった。この魔女は美しい女の遺体を手に入れては、人間の下半身のかわりに魚の下半身を接いで美しい人魚を作ることを無上の楽しみとしていたのであった。

 海に捨てられた女の死体は、魔女に拾われた。
 海中をゆっくり沈んでいく女の姿は美しかった。長いやわらかな黒髪は海の中で花のように広がり、白い肌やしなやかな腕の曲線は地上にある頃よりも美しいほどだった。
 魔女は喜んで女を人魚に変えた。

 人魚は一度死んだものなので記憶というものはない。
 しかし、生前一番強く感じた気持ちだけは彼女たちの中に取り残されている。
 以前、魔女の作ったある人魚は、悲しみにとりつかれていた。その悲しみの原因はもはや彼女の中に記憶という形で留まってはいないが、その人魚は来る日も来る日も身を裂かれるような悲しみに苛まれていた。あまりの悲しみに耐えられなくなると、その人魚は海の底の白い砂をすくい上げてはこぼし、すくい上げてはこぼしを繰り返した。人魚というものは悲しみから流す涙も苦しみを訴える言葉も持っていないので、その代わりであったのだろう。
 女も人魚として目覚めた時には、生前の記憶を失っていた。しかし、不思議なことに女は最初は朧気に、やがてはっきりと男の顔を思い出したのだ。女にとってただ一人きりの男、自分を刺し殺した愛しい男の顔を。
 そして同時に女の中には灼け付くような衝動が残されていた。

 女は海の中を自由に泳ぎ回ることの出来る魚の下半身を使って、毎夜毎夜、街の港へと通った。そこが女が男に一番近づけるぎりぎりの境界であった。もはや女は陸には上がれぬ人魚であり、死人であったからだ。
 愛する男を求めて海岸沿いに泳ぐうちに、自分が住んでいた館が見える海岸にたどり着いたこともあったが、館の窓にはもちろん灯りもなく、男が再び訪れた様子はなかった。

 彷徨い果てて、夜明けが近づくと女は胸を灼かれるような気持ちに苛まれながら、海の底の魔女の住まいへと帰る。死体から作られた人魚は陽光を浴びてしまえばその身を保つことが出来ない。一度、陽の光に晒されてしまえば女の美しい白い肌は醜く崩れ落ち、二度と動くことのない死体に戻ってしまうだろう。
 魔女は、自分の作り出した人魚の中で一番美しい、と女のことをたいそう気に入っていたから、けっして陽光を浴びてはならぬと女に厳重に命じた。

 魔女は女の髪に真珠を連ねた飾り紐を絡め、白い珊瑚で作った耳飾りや虹色の貝の腕輪で女を飾った。魚の尾には髪に絡めたのと同じ真珠の飾り紐を、他の人魚よりも多く幾重にも巻いて寵愛の印にした。
 しかし、そんな魔女の寵愛にも女は上の空だった。彼女の心はいつも海上に昇り男を捜すことの出来る夜を思っていた。女の饒舌な瞳はそんな彼女の心を全て映していたが、魔女はそれを見ても特に機嫌を損ねるようなことはなかった。魔女は、女を含めて自分の周囲に侍らせている人魚達の心というものには大した関心はなかったのだ。



 女は海の底から男の乗った船を見上げた。

 ある夜、港にたどり着いた女は大きな船が泊まっているのを見つけた。
 それは男の家が持っている船で、大勢の人間が船の甲板を掃除し、帆柱や船縁を鮮やかな色の布で飾り付けていた。男はこの船で花嫁を迎えに行くことになっているのだ。
 女は甲板の上に立つ男の姿を見いだした。男は、忙しく働く使用人達に目もくれずただ沖のほうを眺めていた。
 女の魚の尻尾がぱしゃんと水面を叩いた。
 下から聞こえてきた水音に男は、ふとそちらに目をやった。
 女は男が自分のほうを見たので、微笑んだ。地上でそうしていたように、愛らしい瞳に自分の真摯な愛情を映しながら、男を見つめた。
 男は、女の顔を認めて、さっと青ざめ、身を翻した。
 女は海上に一人取り残された。男が戻ってこないかと、何度か尻尾で水面を叩いて音を立てたが、男が戻ってくることはなかった。

 夜明けが近づいているというのに女は、まだ港に留まって男の船の周りを泳いでいた。
 しかし再び男の影を船上に見いだすことは出来ず、女は虚しくそのしなやかな両の腕を船にむかってさしのべた。
 日が昇るまで、もういくらも時間は残されていなかった。
 その時、ふいに船上があわただしくなり。水夫達が帆柱に真っ白い帆を張った。吹き渡る夜明け前の風を受けて帆はふくらんだ。銅鑼を叩く音と出港を告げる男達の声があたりに響き渡った。
 もし人魚が涙を流すことが出来たならば、女は泣かずにはいられなかっただろう。女の心は打ちのめされ、気が遠くなった。
 船がゆっくりと港を離れたのと、朝日の最初の一筋がさしたのは同時であった。女の白い顔の上に、あわや陽光が注ごうとした時、数百年ぶりに海上に昇ってきた海の魔女が女の手を引き、海の中へと導いた。

 魔女に手を引かれ海中に沈みながら、女は頭上の船影を見上げていた。






 花嫁を迎え帰路についた船上では婚前の宴が華やかに行われていた。濃紺の天鵞絨を広げたような夜空には幾つもの星々が清かに輝き、甲板に集った男と花嫁の一族一同は皆、大いに食べ、飲み、歌い、笑っていた。
 男は花嫁を腕に抱き、口づけながら、あの夜、海上に女を見たことを夢幻として、もはや忘れようとしていた。男の腕の中で花嫁は、何も知らず微笑んでいた。
 航海は順調で、船は明日の夜明けには街の港に着く予定であった。

 夜半、人々が疲れ果て船室に引き上げた頃、突如として黒い雲が星を覆い隠し、あっという間に海の上は激しい嵐になった。
 船は大きくうねる波に翻弄され、人々を乗せたまま、あっけなくまっぷたつに折れて沈んだ。

 海に投げ出された男を、女は抱きしめた。その瞬間、女の瞳はいつものように饒舌に彼女の心を語っていた。
 そして、暗い海に二人は沈んでいった。沈みながら、女の冷たい唇が男の唇をとらえ、凍り付くような死が男に訪れた。

 女は再び男を手に入れた。

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