私の学年のたくさんの思い出
                             (特別寄稿より)
             高倉良充(平成9年卒キャプテン)

私の学年では、関西リーグ1部昇格と騒がれ、おしくも3位で2部残留。
今でも、その時代に敗れた龍谷大学や摂南大学の選手とその頃の話がでるが良い思い出にはなっている。
確かそれまで負けた事のない摂南大学に、20点差で負けても1部昇格という条件の中で30点差で負けた。
かなり後味の悪いリーグ戦であった。
しかし、他のチームメイトはどうか知らないが、私の中では1部に昇格できなかった苦い思い出よりも、豊永コーチ、
そしてたくさんの個性あふれる先輩や同級生と共にバケットができた事が一番の思い出となっている。
特に毎年夏の合宿ではみんなが走りまくり大量の汗をかきながら、5対5では喧嘩になるほど熱くなっていた。
そしてフラフラになり、練習が終わった後の心地よさは最高だった。
1部こそ昇格できなかったが、たくさんの思い出ができたと思う。


         創部の頃のドタバタ劇の思い出
                             (特別寄稿より)

            岡田 務(昭和31年卒キャプテン)

甲南大学バスケットボール部を語る時、矢張り創部の頃のドタバタ劇が懐かしく思い出されます。
学制改革により、旧制甲南高校は新制大学に昇格する事が決定し、昭和26年4月甲南大学が設立され、経済、文学、
理学部の3学部からなるこじんまりとした大学としてスタートする事となりました。

当時小生は甲南高校3年生、始めてみる学園内を往来する女子学生の華やかな姿をまぶしく感じながら最後の高校
生活を送っていました。ホンネの所は大学バスケット部の設立には余り関心がなかったと思います。その内、他の運動部
が次々とつくられバスケット部も早く作っては・・という声が学内外、とりわけ輝かしい歴史を持つ先輩各位から出てきた
様で、高校生の我々も当然の様に協力する事となりました。

しかしながら、何せ経験者は当時平松邦夫先輩ただ一人(もう一人居られたがゴルフ部に転向、当時は新しく設立された
ゴルフ部や馬術部が人気で転向者も多かった)、他高校からの経験者の入学もなく、止む無く平松氏を中心に高校生の
我々や若手旧制高校OB等の協力を得て、甲南クラブとしてバスケットを楽しんでいた様な次第で、正式のバスケットボール
部の設立は極めて困難な実状でした。理想と現実のハザマの中で平松先輩はさぞ苦労されたことと思います。

従ってバスケット部の正式スタートは1年遅れの昭和27年、小生が入学した年の事で、幸い西宮高校で活躍した中島健介
君が入学したためマネージャーの木谷君を中心に平松先輩をキャプテンとしてやっと形だけでスタートできました。
早速木谷君が駆けずり回り最下位4部リーグに加盟、実力の方は経験者でレギュラーが埋まらず最初の年は4部の下位
ではなかったでしょうか。

翌28年、小生が二回生に進んだ年には、高校から藤田、横江、林亨君が、また他校からは当時県下高校バスケット界の
エースであった樋口利郎君や大阪桜塚高校出身の林達雄君が入学、やっとメンバー数も揃い形が整ってきました。
この年4部で優勝して3部昇格、続いて29年には当時強かった甲南高校の優秀な経験者が入学するに及んで、実力も大
幅にアップし前年に続いて3部でも優勝、入替戦にも買って2部に昇格、1部が手の届く地位迄辿りつきました。

所がストレートな1部昇格を目指した最後のリーグ戦(30年)では惜敗して2位に甘んじ、1部昇格の夢を後輩諸君に託して
卒業する事となりました。(翌31年度張れて1部昇格)

 四年間の思い出は数多くありますが、その中の一つ学習院大との定期戦について触れておきます。
何とかバスケット部をメジャーにしたいと考えていた頃、横江恵三君の親類の毎日新聞社の局長さんから、校風も似ている
学習院と定期戦をやってはどうかという話が持ちこまれました。
早速運動部長を紹介して頂き、おこがましくも「甲南・学習院バスケットボール定期戦・後援毎日新聞社」としてカップも出し
てもらい、堂々と試合記事迄毎日のスポーツ欄を飾る事が出来ました。(もっとも観戦記事の内容は、木谷マネージャーが
書いた文そのまま)
その後多くの部が今も学習院との定期戦を行っている事でしょうが、多分バスケットが一番早かったと思います。

 甲南大学も創立50年、幾多の俊秀が巣立ち又バスケットボール部も良き伝統が作られている事でしょう。
しかし忘れてはならないのは中国の言葉にある「井戸の水を飲む人は、井戸を掘った人の恩を忘れない」だと思います。
あのメンバーさえろくろく揃わなかった頃から、家が近かったとは言え、コーチに来て頂いた先輩の白山武次郎氏(故人)、
そして先輩ではなかったが、甲南と同じように7年制高校を卒業され、当時阪大医学部におられた高島宏哉氏のご努力、
ご功績は甲南大学バスケットボール史の中に永く記憶されるべきだと考えます。



            全日本学生選手権の思い出
                             (特別寄稿より)
              森川 武弘(昭和41年卒キャプテン)

昭和40年のインカレは11月名古屋で開催された。
当時の学生バスケットボール界は東高西低であり、この年も日大、明治、日体大、教大の関東勢優位、関西では同志社が
この一角を崩せるかどうかが戦前の予想であった。
勿論、関西リーグ5位の甲南は全くの無印であった。試合は参加32校を8ブロックに分けてリーグ戦が行われた。
甲南は日体大、福岡大、東北学院大のブロックに入った。

甲南は順調に福岡大、東北学院大を破り、残るは日体大である。日体大は優勝候補の1校であり、体力、技術、全ての
面で甲南を上廻っていると思われた。
この試合で甲南はこれまでのマンツーマンをゾーンディフェンスに切り替えたが、日体大はこのゾーンディフェンスを全く攻める
事が出来ず、オフェンスの脚は完全に止まってしまった。
こうなれば甲南のペースで後半に逆転し、15点差で日体大を下しブロックの代表になった。

次ぎの試合は慶応で、この試合も前半の6点差を跳ね返し、5点差をつけて又も逆転勝をおさめた。
この結果、日大、明治の関東2校と教大を破った同志社、そして甲南の関西2校が決勝リーグ進出を果たした。

このインカレでの甲南の強さは何だったのか。当時の関西の各大学は甲南を評して「甲南は傑出した選手は少ないが、
選手、ベンチが一丸となるチームワークは関西随一であり、このムードが甲南の強さであり、他の大学にないものがある。」
と言っている。
又このインカレでは、ベンチに入れる人数が決まっており、私以外の4年生全員は観客席からの応援となった。
観客席4年生の声援が今でも耳に残っている。試合に出ている者、ベンチに入っている者、観客席で応援しているもの、
そして会場に来て頂いた諸先輩が全員で試合をした結果が決勝リーグ進出に結びついたと思っている。

決勝リーグでは、日大、明治、同志社に次ぎ4位に終わった。
試合後「これくらいの成績で喜んでいては何時までたっても関東の大学に勝てない、優勝して初めて喜べ。」これが渡部
前監督の言葉である。
何時の日にか、現役、OB全員で喜べる日が必ずやってくることを信じて、現役の一層の奮起と活躍を期待してやみません。



                 現役時代の思い出
                       (特別寄稿より)

                 松永兼長(昭和55年卒)

私が在学した大阪の府立高校はバスケットでは決して名門ではありませんでしたが、我々の時代には地区大会でも
優勝候補の一つにも数えられインターハイ出場を目指し厳しい練習に明け暮れた毎日でした。
ところが3年生春の最後の大会はまさかの初戦敗退、即引退という何とも悔いの残る形で高校三年間のバスケット
生活を終えざるを得ませんでした。

それから約一年後、甲南大学の門をくぐった私はバスケット部の存在すら知らず、高校時代に燃焼しきれなかったバス
ケットへの想いとは逆に、強いクラブで自分を試して見たいという気持ちで、当時関西でも強かったアメフト部への入部
に気持ちが揺れていいましたが、入学後一月を過ぎた頃、甲南のバスケット部が、その前年のエイトリーグ優勝校の
関学を破り全関西でベスト8に入った結果を新聞で見て即入部を決めました。

入部後聞いて見れば、甲南はその年のエイトリーグ出場への大本命であるだけでなく、前年も惜しくも出場を逃がした
との話で、なんとしても今年こそはエイトリーグ出場、1部昇格を目指し文字通りOB・現役全員が一丸となって燃えに
燃えていた時期でした。

夏真っ盛りの2部リーグは12チームを3ブロックに分け、1位3チームが再度総当りでエイトリーグへの二枚の切符を
争うという形で優勝すれば文句無し、2位になると3部以下の優勝校から勝ち上がってきたチームとのチャレンジマッチ
に勝って最後の一枚の切符を手にするというものでした。

強豪揃いのブロックに入った予選リーグは接戦の連続でしたが、何とか全勝で乗り切り決勝リーグ進出、決勝リーグ初
戦では阪大に快勝、だがエイトリーグ入りを目前にして二戦目は苦手の京教大に惜しくも敗れ、阪大対京教大の結果
待ちとなった。
リーグ戦最終日、我々は観客席であれほど気を揉みながら他チームの試合を観戦した事はありませんでした。
結果は阪大の僅差の勝利、得失点差で甲南の優勝が決まった瞬間でした。

数多くのOBに壮行会を催していただき、約一ヵ月後いよいよ本戦開幕。戦前の予定では阪大・関学には各2勝、最悪
でも6位に入り1部残留という目論見でしたがいずれの大学にも1勝1敗。全国の有力校から選手を集めている他1部
常連校にはさすがに力の差が大きく全敗で、結果2勝12敗の7位となり惜しくも1部残留はなりませんでした。

2年生となった翌年も、2部から勝ち上がる筈のところがリーグ戦前にけが人続出、決勝リーグにもコマを進める事でき
ず敗退。

3年生では決勝リーグどころか悪夢のような全敗で3部陥落。

いよいよ最後の4年生のシーズン、唯一の望みはチャレンジマッチを勝ち上がる事。3部には落ちたものの2部の上位
チームとの戦力はほぼ変わらず、かえって激戦の2部で決勝リーグに勝ち進むより、我チームには有利である。
予定通り予選リーグでは全勝した。

決勝リーグでの唯一強敵は立命館、全勝同士で迎えた決勝は一進一退のシーソーゲームで勝利の行方は最後の最後
まで判りませんでしたが、試合終盤主力の退場者が続出、無念の惜敗。

四年間の甲南バスケット生活が終わった瞬間でした。が、我々にはまだ仕事が残っていました。我々は1部には上が
れずとも何時の日か我々の思いを後輩たちに遂げてもらう為、少なくとも2部にまで戻っておくことでした。

3部優勝の立命館がチャレンジマッチで2部の2位を破りエイトリーグ出場を果たした為自動的に2部昇格、2部と3部
の入れ替え戦は3チームで一つの席を争うものでした。

1部昇格の望みを絶たれ、練習にも力が入らず抜け殻のようになっていた我々はコーチであった近藤・山田両OBから
大喝を入れられようやく目が覚め、臨んだ入れ替え戦は2戦2勝、自分達で3部に落ち、自分達で2部に戻った四年間
の最後の試合を締め括りました。

残念ながら我々自身は4年生最後のシーズンは1部で戦うことが出来ませんでしたが、それから早四半世紀。
当時は思いを巡らせる術すらありませんでしたが、2002年には創部50周年を迎えるという事ですが、我々が在籍した
昭和51年から55年までの4年間はちょうどこの50年の中間点、25年目の頃であった事を今更ながらに思い起こしな
がら、まだセレクションも無く有力選手も補強できなかった素人チームで50年にわたる長い歴史の四年間の襷をつなぐ
事ができた事を嬉しく思っております。



     私の甲南高校(旧制)時代のバスケット部とその後の思い出
                               (特別寄稿より)
     鹿島 
一夫(旧制甲南高校昭和16年卒、甲南学園バスケットボール部OB会元会長)

 私は昭和7年に甲南高等学校尋常科に入学、チビであったので誰かに籠球をやると背が高くなるぞと云われ、
小生は級友5名:加古四郎(故人)、山本幸蔵(故人)、豊田謹治(故人)、久保田淳一、星(故人)と共に入部した。

屋外のコートで高等科のマネージャーのコーチで練習、三年生の初め頃少し生意気になって来た時、当時有名な
八代先輩に呼ばれ全員首。
1ヶ月後真面目な加古、山本に諭され、一同再入部を嘆願し許されるが、その夏ミニ合宿で大いにしごかれる。
そして11月の西日本ジュニア大会(3年生以下)で初めて優勝。準決勝、決勝と共に延長戦で勝ち取った。
キツイ・ツライ練習の後の優勝の実感が少年の心に深く刻みこまれた。バスケットにのめり込み、一寸の油断で留年、
4年間の尋常科を5年やることになる。

当時甲南は関西リーグでは大学に伍して常に1部で活躍、昭和9年には阿部辰彦キャプテンで39校が参加した
インターハイで初優勝を遂げた。
当時のインターハイは東京帝大、京都帝大が主催で各校先輩が世話をしてくれる高校最大の全国大会で高校生
最高の目標であった。

昭和11年杉原キャプテン、12年宮崎キャプテンで小生尋常科4年、高等科1年と優勝の感激を味わせて貰った。

昭和13年はあの有名な阪神大水害で、学校、チーム仲間も被害大きく出場危ぶまれたが何とか参加でき、加古
キャプテンで頑張ったが、三高に3回戦で敗れ優勝は三高となった。

翌14年小生試験中インフルエンザで留年、岩尾キャプテンを中心に接戦を続け優勝、小生試合に参加できず応援
に廻り寂しい思いをした。

そして昭和15年、田中キャプテン、白山、阿部、黒田、角坂、奥山そして小生とメンバー豊富、名マネジャー中島が
纏め役で春の関西高校リーグに優勝、関西学生トーナメントは京大に善戦し敗れたが2位となり自信満々で合宿を
終え、インターハイに臨んだ。東京帝國大学新聞に優勝候補第一に挙げられていた。

1回戦は一高でセンター篠田というポイントゲッターが居り、甲南は調子が出ない、我々はディフェンスが強くそれで
オフェンスの調子が出るのであるが、あせりが出て1ゴール差で敗退した。初戦敗退は甲南の歴史の中でもわずか
に2回目であり、小生甲南9年間の最後の年は痛恨の年であった。

この甲南9年間のバスケットが土台となり京大に進み、昭和16年大学東西対抗戦で立教を破り日本一となる。

戦後無事復員し、神戸学士クラブとして再び懐かしい甲南時代の先輩、後輩と共に試合をすることになる。
岩尾隆一(甲南7回卒故人)松井聡キャプテン(京大14年卒)の下に昭和22年、23年と連続全日本選手権に優勝、
天皇杯を獲得、勝利の美酒に酔った大きな思い出である。

そのメンバーの中での甲南OBは宮崎豊、伊藤廣二(共に13回卒)、岩尾淳一(15回卒故人)、白山武次郎(16年卒
故人)、角坂功(17回卒故人)、八馬進武(20回卒故人)と小生、マネージャーが高原静男(19回卒)の各氏である。

戦後甲南学園バスケットボール部OB会は楠木会長(旧制昭和5年卒故人)、加藤会長(10年卒故人)と続き、
昭和59年甲南学園バスケットボールOB会60周年の記念パーティを施行し、加藤会長が亡くなられ、岩尾会長(15
年卒)が就任され、その5年後小生が会長となった。

平成6年70周年記念パーティが行われたがこれを機会に若返りを図り、旧制高校の会長は小生を以って終りとすること
にし、新会長に戸山晶夫氏(大学昭和33年卒、現甲南学園理事長)が就任されることとなった。

その後平松弘氏(34年卒)が会長の時に、OB会の規模も大きくなり、高校・大学の経歴も多様化していく中で、夫々
の現役の強化と各OB会の活性化・結集を図る趣旨で、平成8年(1996年)に甲南学園バスケットボール部OB会を
発展的に解消して、大学・高校夫々のOB会として分離独立し、今日に至っている。

私達旧制のOBも自分達の育った甲南高校があり、甲南高校バスケットボール部が活躍し、更にまた甲南大学で頑張
ってくれることは、甲南大学バスケットボール部に愛着を深く感じ、その更なる発展を願うものです。




     甲南大学バスケットボール部 21年振りに関西一部リーグに復帰決定
                       (平成10年東京甲南会報掲載文より)

             福井 衛(昭和36年卒キャプテン、昭和39年コーチ、昭和40年監督)

甲南大学バスケットボール部は、今秋の関西二部リーグに於いて優勝を果たし、来年度から念願の一部リーグ
復帰が正式決定しました。

これは二部に陥落以来、雌伏21年振りの快挙で、我々OB一同心から喜んでいると同時に、現役部員の心血を
注いだ頑張りと、彼等を指導した布谷監督(40年卒)・上成コーチ(53年卒)を中心とする関係者の尽力に対し、
衷心から敬意を表する次第です。

我々の現役時代とその直後の30余年前の数年間、甲南大学バスケットボール部は一部リーグ優勝を含む黄金
時代を謳歌したが、当時我々の指導に当たられたのは、縁あって監督を務められた早稲田大学OBの渡部壽之氏
でした。

その後渡部氏は勤務の都合で監督を辞され、我々も夫々就職し、各地に散らばって生活しておりましたが、数年
前から東京在住のOBを中心に、一部関西在住のOBの参加も得て、渡部氏を囲む会を東京で開催しておりました。

当時甲南OBでない渡部氏と、甲南OBとの繋ぎ役を務められたのは甲南大学32年卒の藤田康博先輩で、その
藤田先輩の肝いりで、今年は渡部氏ご夫婦の参加を得て、去る11月22日に渡部氏を囲む会を大阪で初めて
開催しました。関西在住者が多いこともあり、渡部元監督の教え子の3/4以上が参集しました。

会は、阪神大震災で残念にも他界した我等が貴重な仲間の伊藤篤君(37年卒)への黙祷から始まり、渡部氏を
筆頭に参加者全員が一言ずつ思い出を語り、冒頭の一部復帰もあり、大いに盛り上がりました。

又、渡部氏のスピーチの中での「自分の青春の一時期、心血を注ぐ機会に恵まれたことを幸せに思う・・」との一言
には、渡部氏が縁もゆかりもなかった我々のために、多忙な会社勤務の傍ら、多大な個人的犠牲を払ってまで尽力
された事が分かっている丈に、参加者全員の胸にジーンと来るものがありました。

30余年の昔、良き指導者の下、部員一同が一致団結して一つの目標に向かって邁進した貴重な経験と幸せを
改めて思い出させて呉れた感慨深い一日でした。