若殿に兜取られて負け戦 北一輝
Since 2006/02/27 



 二・二六事件の70周年ということで、今朝の朝日新聞に同事件の首謀者とされる北一輝が紹介されていた。左系で知られた同新聞にしては好意的な内容なので「オヤッ」と思った。銃殺になるとき「天皇陛下万歳」の三唱を断ったことが評価されているのかなあ。(記事全文を下に添付)

 私の本棚には、勝海舟や大杉栄、頭山満などと並んで、北一輝関連の書物が何冊かあるが、いずれも20年以上前の古いもの。「北一輝」の名が懐かしい。北を二・二六事件の首謀者として処刑したのは軍部の都合であって、実際はせいぜい「教唆」程度の関わりだったのではないかと思っていた。しかし表題の句を見ると、いかにも北自身が「ゲーム感覚で」事件を起こしたかのような表現になっている。軍法会議の論告に対して、「それならそれでいい」と苦笑(自嘲?)しているのかもしれない。

 「天皇陛下万歳」をことわった話は昔から有名。

◆ご意見等はこちらの掲示板へ →とんび岩の掲示板


時の墓碑銘(エピタフ  若殿に兜取られて負け戦 北一輝      

小池 民男   朝日新聞(2006/02/27朝刊)

 ある人を思い浮かべるのに欠くことのできない肖像というのがある。いつのまにか、固有の人生の流れが絵画に忍び入ったかのように。

 思想家北一輝(1883〜1937)にもそんな1枚がある。最晩年のもので、作家三島由紀夫によれば、こうだ。

 「私が興味をもつ昭和史の諸現象の背後にはいつも奇聳(きしょう)な峰のやうに北一輝の支那服を着た痩躯が佇(たたず)んでゐた」

 歴史の背後霊であるかのように三島が描写した一文には、異様な生々しさがある。

 70年前の二・二六事件にかぎりなく共鳴した作家と、事件の首謀者として銃殺刑になった思想家との距離もまた一文に鮮明である。

 同じ文章で三島は、北の思想に影響を受けたことはない、と断言している(松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』文春新書)。

      ◇     ◇     ◇

 1936年2月26日、青年将校らが政界要人を襲撃・殺害し、クーデターを企てた。決起した青年将校らはしかし、天皇から「反乱軍」として見放された。経緯や事件の研究は進んだが、背後の「奇聳の峰」の全容はまだよく見えない。

 北がファナティック(狂信的)でなかったことは、対米戦争への警戒心からもわかる。中国との関係で「対米戦争不可避」を主張する連中に対して、対米戦は世界大戦につながる、と強く反対した。

 たびたび発禁になった著書も迷妄なる「国体論」を批判するためだった。彼にいわせれば、天皇制を近代の「国民=国家」の範疇に引き上げようとしただけのことだ。

      ◇     ◇     ◇

 ヨーロッパ近代の価値を受け入れた北である。しかし新潟県・佐渡が生んだ「魔王」には次のような一面もある。

 「自分が迫害されていると思うことを彼は好んだ。現実から異端者として疎外されることは、彼の孤高を賞讃することであり、自分が選ばれて磔刑(たっけい)にされている荒ぶる神であることを証明することであった」

 5巻の大作『評伝 北一輝』(岩波書店)を著した松本健一氏の説である。松本氏は彼を「革命的ロマン主義者」とみる。

 軍法会議でカリスマを初めて目の前にして「北の風貌(ふうぼう)全く想像に反す」と記す軍人(判士)もいた。「魔王」のイメージからは遠かった。「柔和にして品よく白皙(はくせき)。流石(さすが)に一方の大将たるの風格あり」

 若殿に兜とられて負(ま)け戦(いくさ)

 北が獄中で詠んだ句だ。ユーモアあるいは諧謔(かいぎゃく)の気分がにじみ出る。

 「若殿」は昭和天皇で、「兜(かぶと)」が軍隊である。天皇に軍隊をとられては「この勝負、やられましたなあ」と自嘲(じちょう)気味、不敵な雰囲気も漂う。

 処刑は、西田税らと一緒だった。銃殺される直前、西田が「われわれも天皇陛下万歳を三唱しましょうか」と呼びかけた。北が答えた。

 「いや、私はやめておきましょう」

 
 

「トピックス」に戻る

メールはこちらへ
tonbiiwa@gmail.com

7109

5316385