梶山城址(揖保川町)
Since 2000/10/23


まえがき

 揖保川西岸の県道441号を、揖保川町正条から御津町中島へ走ると、市場水源池の先の水門のS字カーブ西側に、「梶山城址登山口」と彫られた石碑があります。以前から気になっていたのですが、今回、権現山古墳を訪ねた帰り(2000年10月16日)に立ち寄ってみました。詳しい場所はページ末の地図を見て下さい。


北西(市場)から見た梶山城址


登山口の石碑

登山道
 登山口の石碑から山に入り、かなり急な坂を標高差で約50m登ると鞍部に出ます。そこから右(北)に折れて100mほど進むと頂上の城址です。登山口から10分程度で着きます。道は明瞭で、手入れされているような感じです。

城址

 頂上のちょっとした平地にススキなどが茂り、「梶山城址」と書かれた石碑があります。石垣や建物の跡などは見あたりません。石碑には『赤松教弘築城』と『肥塚氏居城』の文字もあります。眺望は、樹木に遮られて利きません。樹木が無ければ、特に北と東の方角を見通す、絶好の物見台になるはずです。





感想と追記

■ 梶山城址は、北側(市場水源地方向)から見ると、堀のような小川に囲まれた急斜面の小山で、いかにもお城がありそうな地形です。登山口から50mほど登って、鞍部を(城址と反対の)左(南)に曲がり、尾根筋を行く道もあります。この道は約1km先の権現山古墳(御津町)まで続いているそうです。筆者はJR送電線の鉄塔まで(約100m)行ってみました。そこから先は草が深く歩き辛いので、引き返しました。草の枯れる3月頃なら権現山古墳まで行けるかも知れません。

 こちらをクリックすると『権現山古墳』のページが開きます  権現山古墳(御津町)

■ 城址の石碑にあった『赤松教弘』は、八瀬 久氏の『嘉吉の乱始末記』によると、赤松則村(円心)の4代後の子孫で、86歳まで生きています。赤松氏は室町幕府の6代将軍足利義教を謀殺し、いわゆる嘉吉の乱を引き起こしました。そして龍野市北部の城山(きのやま)に籠もって幕府軍と戦い滅亡します。このとき城山城(きのやまじょう)に馳せ参じた赤松方の119名の諸将の中に、揖東郡 梶山城主 赤松左京允教久 の名があります。この教久は、梶山城を築城した教弘の子で、18歳で没しています。城山で戦死したものと推測されます。

地図

 


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