妙運和尚の地蔵尊
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Last updated on 2005/12/12



 相生市大谷町からたつの市(旧揖保川町)馬場に至る廃道(通称「馬場坂」)の峠にあるお地蔵さんは、正面左右に「八萬四千躰之内 第四千五百二十番」の文字が刻まれています。

 何か由緒がありそうだが…と気にかけていたところ偶然、約21年前の「相生ライフ」紙に下のような一文があるのを見つけました。なかなか興味深い内容なのでご紹介します。

 文頭に出てくる野瀬海岸のお地蔵さんは、「工業団地前」バス停の傍にある小公園(野瀬公園)の南の端に、「松崎清泉記念碑」や「八大龍王碑」と並べて祀られています。「松崎清泉記念碑」は「洗心会」が建立されたもので、その碑文も野瀬海岸地蔵の由来に言及しています。「洗心会」とは、郷土史家木下充造氏が創立された地蔵奉賛団体です。

 「相生ライフ」を読んでも解けない疑問がひとつあります。それは「馬場坂地蔵」の右側面碑文の末尾に出てくる「金卍字教會」です。同地蔵の「施主」ではないか?と思うのですが、如何なる団体なのかまったく分かりません。どなたかご存知でしたらお教え下さい。

 (写真はクリックすると大きくなります)


馬場坂地蔵


同左


野瀬海岸地蔵


松崎清泉記念碑


「相生ライフ」 昭和59年8月5日号 「雀の声」(執筆:表谷正美)

  野瀬の海岸清水に立姿錫杖比丘の地蔵がある。大正3年4245番とあるが建立者の名が刻まれていない。郷土史家木下充造氏、地蔵の研究では執念に近い情熱の持ち主だ。彼の講演を要約する。

  為菩提供養世尊唯願のこの地蔵の誓願文の上野浄名院妙運なる文字から彼の調査が始まるのである。地蔵比丘略年譜によれば、「和尚、名ハ幸啓字ハ妙運、無庵ト号ス、大阪ノ人也、文政十丁亥年一月一日生、明治九年五十(歳)、江戸浄名院三十八世トシテ輪住ス。」とある。明治12年年53(歳)、三月地蔵尊前に於て盡未来際を期して大誓願を為した。

  発願文に曰く 「伝え聞く大聖釈迦牟尼仏滅後百年阿育大王中天竺に出で八万四千の石宝塔を閻浮堤に建立し上は仏恩に報じ下は群生を救ひ給うと、吾も亦発願す、生前死後自他の力を合せ八万四千の石地蔵尊を此の娑婆世界に建立し…」 と和尚自ら地蔵尊の真影を拝写すること実に八万四千、夫々に番号を付して受施者に与えたのである。明治44年85(歳)で示寂している。

  木下さんの調査によれば(相生)市内で馬場坂4520番、親盛寺5120番、相生小学校5613番が現存し、境橋付近にある筈の5643番が不明で、全国では昭和15年で6万体目を確認している。では何故(相生)市内にこのような早い番号のものが存在するのだろうか。氏の研究は続く。

  妙運の志を継いだのは御着、延命寺の恵慶和尚であるが既に没している。苦心の末、実弟が鶴林寺(加古川市)の慶寛和尚であることを知って86才の老僧を訪ねた。昭和45年である。「相生の林学さんと兄は親交がありよく往き来しておりました。林学さんがお建てになったのに間違いないでしょう」 との老僧の説、林学とは当時声望高かった浜本弥治右衛門氏の雅号である。

  恵慶から妙運の悲願を伝えられた篤信の浜本さんは大正3年海辺に魚類も含めて菩薩供養を、翌4年馬場坂に通行人の安全を願って建立されたものと推察される。7年親盛寺のものは小安地蔵、昭和元年相生小学校のそれは開校半百載報恩地蔵とある。当時学務委員だった氏の配慮がしのばれる。

  注 : ( )内の文字はとんび岩が追記したもので、原文にはありません。

  こちらに馬場坂地蔵の記事があります。 → 馬場坂

 

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