長池のほとり
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Last updated on 2005/09/06



  相生市古池にある長池は、17世紀後半に、赤穂藩(浅野長直?)の指示で造られた農業用の溜池です。元禄14年(1701年)の記録には、4町歩分の用水源として、既に存在しています。かつては2倍の広さがありましたが、10年前に双葉小学校建設のために北半分が埋め立てられ、現在の規模になりました。

  池の中(西岸近く)に、「天保十(1839)亥秋、鱗塚」 と刻まれた石塚(通称「鱗塚」)が立っています。これは、長池の主(ぬし)といわれた特別に大きな鯉が死んだときに、それを弔うために村人が建てたと言い伝えられています。

 

  長池と道路を挟んで西側に「芭蕉塚」と呼ばれる句碑があります。これは天保6年(1835)に津田布蝉という俳人が建てたものです。津田布蝉は津田屋旅館(相生市旭3丁目)のご先祖にあたる人です。碑の前の説明板では、下のように紹介されています。

 
芭蕉塚と布蝉句碑

  津田布蝉(ふせん)。通称刀屋七左右衛門、寛政6年生、その初め西国辺の士分だったと伝える。縁あって土着、産をなす。俳系は栗の本(初代は青羅)。三世悟庵編「鳩の声」(文政13年刊)には、若狭野一素・那波月湖・月船・江月・可月・浦仙・相生飯盛・古池燈夢・池之内素影と共に入集している。

  本碑に記年はないが、天保6年、その四十二の賀に際してのものである。芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」は貞享3年江戸での作、正風開眼といわれたが、布蝉は尊敬する祖翁のこれを、おのれの住む地名の古池にちなんで建てたのである。以後、本業の刀研ぎのほか、俳諧宗匠として立つ。

  「おぼろに錆(さび)し石婦みの月」の脇句は同14年、折から芭蕉150回忌に追碑されたと思われる。安政6年歿、享年六十六。明治の頃にはまだこの場で句会が催されていたという。
 

 


  筆者が幼少のころ(1950年代前半)には、芭蕉塚の前の道路の両側に山桜の大木があり、良い木陰を作っていました。 当時の長池の水はきれいで、夏になると古池の男の子たちは、桜の根元や芭蕉塚に服を脱いで泳いでいました。池の南の端にあるお地蔵さんは、そのころに子供の水難が続いたために作られたものです。

  また長池西側の、向陽台の住宅地になっている一帯は横山と呼ばれる雑木林(丘陵)でした。横山は俗に茶碗山とも言われ、瀬戸物のかけらが層になって出てくる一角がありました。記録によると、文化10年(1813年)に、相生浦の立花屋三右衛門と古池の利平という2人の人物が、現在の向陽台19番のあたりに「古池焼」の窯を作りました。瀬戸物のあった場所はその窯跡の名残と思われます。なお陶土は、長池に堆積している粘土が使われたそうです。

  同じ横山の向陽台21番付近(「古池焼」の窯跡から北東100mくらいのところ)に、古墳が数個まとまってありました。「古池横山古墳群」と記録されているものです。これらの古墳群や窯跡は、向陽台の宅地開発の際に、跡形もなく破壊されました。僅かに古墳の石室の一部が、某家の庭石として残っているのみです。

  このページは「相生市史」の次の部分を参考にして作成しました。詳しくはこれらの原典を参照して下さい。

長池の成り立ち 第2巻第6章第1節(p584)
芭蕉塚 第3巻第1章第4節(p92)
古池焼 第2巻第6章第3節(p660)
古池横山古墳群 第1巻第1章第3節(p160)
 

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