対談「大人学」 「幼児化ニッポン」夜明けはあるか(抄)
Since 2008/01/10 



 今年1月6日の神戸新聞に、鷲田清一氏(大阪大学総長)内田樹氏(神戸女学院大学教授)の対談が載っていました。タイトルは「大人(おとな)学」。見出しには「幼児化ニッポン」夜明けはあるか

 一読して「どこかで使えそう」と思ったので、収録することにしました。しかし丸々2ページっを使った大特集。全文はちょっとシンドイので、主だった部分だけを抜き出して下欄に書き留めました。全文に興味のある方は新聞の縮刷版等をご覧ください。神戸新聞社のホームページには、私が調べた範囲では、アップされていませんでした。

 両先生の結論は、「今の日本に大人がいないのは、長らく良い時代が続いて大人になる必要がなかったから。今後社会的リスクが高まれば、生き延びるために自然に成熟して、日本人も大人になるだろう」というような楽観的なものでした。

 しかし私はちょっと心配です。日本人が大人になる前に、落ちぶれたアンクル・サム(U.S.)おじさんに代わって、別の後見人さんがやってきて、「君たちは今まで通り子どもでいなさい」と言うかもしれません。

 内田先生は「両親の間に価値観の葛藤がないと、子どもには成熟のチャンスがなくなる」と言っておられますが、最近の若夫婦は価値観の対立があれば葛藤する前に離婚するのではないでしょうか?。私の地元の小学校では、児童の実に3分の1が片親だと聞きました。

 鷲田先生の「対話と言いながらディベートばかりしている」というご指摘には、同感です。ディスカッション(議論)は本来クリエーティブ(創造的)な行動ですが、アドバイスを「攻撃」と受け取れば、破壊活動にもなります。「正反合(止揚)」とか「守破離」の概念を、そもそも知らなかったり、知っていても実感(体験)したことのない人々が増えているように思います。 

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対談「大人学」 「幼児化ニッポン」夜明けはあるか(抄) 鷲田清一 vs. 内田樹
(神戸新聞 2008/01/06)

 

鷲田清一 幼児化というのは成熟の反対のように言いますけど、皮肉な見方をしたら幼稚な人が政治や経済を担えて、それでも社会が成り立っているなら、それは成熟した社会です。

内田樹 相当練れたシステムができているからでしょうね。中高年になっても中身が子どもという人が権力を持っていたら、普通つぶれますけど。

鷲田 今の日本には大人がいないんですよ。若い人はみんな、もう自分は若くないと思っているし、オジサン、オバサンたちはまだ自分はどこか子どもだと思っている。成熟していない大人と、もうこの先ないと思っている子どもだけ。本当の大人がいない。

内田 いなきゃまずいから、こういう企画が出てくるわけですね。

 

 クレーマーは「子ども」のしるし?

鷲田 クレーマーって、文句ばかり言って一見アクティブに見えるけど、本当はすごく受動的な態度じゃないかな。だって責任とらないんでしょ。自分は問題が起こっているシステムの外側にいて、「ひどいやないか、何とかしろよ」と言っているわけでしょ。

内田 格差論の類(たぐい)を読んでいても、ちょっとうんざりします。書いている人は30代や40代の人なんだけど、それだけ生きているということは、もうこのシステムのインサイダーじゃないですか。システムがうまく機能していないことについて彼らもすでに当事者責任があると思うんです。それなのに、このシステムの不調について自分には全く責任がないという前提から非をならす。それって、「私は未成年です」と宣言しているのと同じでしょう。

  (中略)

内田 今の人の未熟さは消費者であることの宿命じゃないかと思う。自分を生産に関与しない、もっぱら消費する人間だと思っている。どんな服を着て、どんな家に住むかという消費活動を通じてしか自己表現できない。

鷲田 消費者であるということは、裏返すと僕らの生活空間自体がサービスで充満しているということ。食べる、勉強する、もめ事を解決する、体が悪くなってもみんなサービスという形で提供される。サービスの提供者と顧客の関係が生活環境の中で充満してきたのがポスト産業社会です。

 こないだの選挙でも言われた民意というのもそう。政治というのも供与される情報になってしまっているから、僕らの中ではそれにどう反応するかだけであって、自分の中でこれは何かと考える「ため」みたいなものがなくなってきている。民意ってそんな所与のものではなく、小さいかもしれないけれど自分で作らないと。そのつくり方を忘れてしまっている。

内田 たぶん政治にかかわるときの意識自体がもう消費マインドになっているんだと思います。情報というのはもうパッケージされているもの。パッケージされたものを操作するのは、生ものとしての現実を情報化するプロセスとは全然違う。パッケージ済みの情報をどう巧みに操作するかには習熟しても、生ものの現実を情報化するスキル(技術)は誰も省みない。

 

 自立は「大人」の証明?

鷲田 (前略) 集団生活ってインターディペンデント(相互依存的)にしかあり得ない。自立しているというのは決してインディペンデント(独立的)なのではない。インターディペンデントな仕組みをどう運用できるか、その作法を身につけることが本当の意味で自立なんじゃないかな。

内田 最近、若い人に「折り合いをつける」と言ったら、「それは妥協ということでしょう」とねじ込まれた。ネゴシエート(交渉)はいけないことだと思っている人が30代くらいで急に増えている。正論を言うことはできるけれど、「ネゴしようよ」と言うと、「大人は汚い」みたいにはねつけられる。もういい大人なのにね。彼らにしてみたら、自分の意見が正しいのに、何が悲しくて正しくない意見と折り合わなければならないのか、その理屈がわからない。だから、自分の主張が部分的にでも実現することより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することの方を選んでしまう。

鷲田 何を恐れているんでしょうねえ。

内田 インターディペンデントという在り方が理解できないんじゃないかな。和解するのと屈服することは違うでしょう。世の中に、操作する人間と、操作される人間の2種類しかいないと思っている。

 学生の就職活動でも、世の中には自分だけにしかできない唯一無二の仕事がどこかにある、という幻想を刷り込まれていますね。恋愛幻想と同じで。自分の適性や適職なんかわかるはずないのに、就職してすぐに「これ私の天職だろうか」と悩んで辞めちゃう。飽きっぽいんじゃなくて純粋なんです。唯一無二のオリジナルな人間として人生を貫かないといけないと思っている。本当の自分らしさって何だろうと自問したまま凍りついている。

鷲田 死ぬ間際にやっと「オレの人生って何だったんだろう」って思うくらいなのにね(笑)。

内田 大きな仕事をした人たちだって、たまたまその仕事に就いた人が多いですよね。

鷲田 内田さんはどうですか?

内田 もちろんそうですよ。   (後略)

 

 核家族が幼児化を進めた?

内田 日本社会が幼児化したのは1970年代からですね。豊かで安全になった。大人がいなくても、子どもたちだけで回るシステムができたので、ある意味、成熟する必要が無くなってしまった。成熟って、生き延びる知恵だから、危機的な状況がなくなれば必要ないといえばないんです。

鷲田 社会の核家族化も進んだけれど、親子2世代だけの核家族は、子どもにとって一番つらい家族形態じゃないかな。親と子が対立したら、親の言うことを聞くか、ぶつかって家を出るか、どちらかしかないでしょう。もうひとつの世代がいれば、父親が偉そうなことを言っても「あんたが子どものときはもっとひどかった」と言うことで、子どもに複数の選択肢が出てくる。

内田 (フランスの文化人類学者の)レヴィ・ストロースによると、例えば男の子の場合、両親のほかに、母方のおじがいるのが家族の最低単位なんです。父が厳しく育てるとおじさんが甘やかし、おじさんが厳しいと父が優しい。子どもが成熟するためには同性のローモデルが2人いて、それぞれ全然違う価値観と生き方を示すことが必要なんです。そうすると、子どもの中に葛藤(かっとう)が生まれる。どちらの言うことを聞いたらいいのか。成長のためにはその葛藤が不可欠だと思う

鷲田 核家族でも、両親が連帯するのが最悪ですね。

内田 今、まさにそうなっていますよね。学校に来る最悪のクレーマーは両親が口をそろえて怒鳴り込んでくるタイプだそうです。昔は、父親が学校に怒鳴り込むと、母親がすがりついて止めてたけど、今は両親が歩調を揃えている。両親の間に価値観の葛藤がないと、子どもには成熟のチャンスがなくなる。核家族でもせめて母性原理と父性原理がきちんと機能していて、両親の間に価値観の対立があれば、ある程度の葛藤は担保されますけれど、一家一丸の

鷲田 昔は、近所の人たちも「おじさん」の役割を果たしていた。子どもは隣の家に預けられたり、ご飯を食べたりして。今は、親に何を言われるか分からんから、近所のおっちゃんは口にチャックする。「おじさん」の役を果たしていない。

 

 大人になるための教養とは?

鷲田 大学で学ぶことについて、内田さんの言葉で格好いいなと思ったのは、「言っていることは整合的だけど何かうさんくさいものと、言っていることはまるで分からないけど何かすごそうなもの、その二つをちゃんと見分ける能力を身につけるのが本当の教養」。つまり本物と偽物を見分ける力を身につけることが大切。  (中略) 

内田 「知識と教養は違う」とよく学生には言います。図書館にある本は情報化された知識。教養というのは、いわば図書館の全体の構成を知ること。教養というのは知についての知、あるいはおのれの無知についての知のことだと思います。

鷲田 コンテクスト(文脈)をつくっていくということね。

内田 図書館のマップがあれば、自分が読んだ本がどこにあり、読むべき本がどこにあるのか分かる。自分自身の知識がどれほどのもので、自分の知らないことがどういう広がりをもっているかを知ることができる。

鷲田 知的なスキルですね。

内田 知的探求を行っている自分自身の知のありようについて、上から鳥観することです。自分の置かれている知的文脈を見る。なぜ自分はこのことを知らずに来たのか、なぜ知ることを拒んできたのか。自分の無知の構造に目を向けた瞬間に教養が起動するんだと思います。

 (中略)

鷲田 (前略) 阪大で同僚の平田オリザさん(劇作家)が「『ディベート(議論)』と『対話』は正反対」と言っておられた。ディベートは話し合う前と後で考えが変わったら負けなんですが、対話は前と後で変わっていなければ意味がない。自分をインボルブ(巻き込む)しないと意味がないんです。ところが、対話と言いながらディベートばかりしている風潮が目立ちます。

内田 だから若い人が書いたものを読むと、整合的なことが書いてはあるんだけど、言葉がとげとげしいんですよね。自分の立場ばかり主張して。  (後略)

 

 「成熟」するためには?

鷲田 人が成熟するためには、編み目がびっしりと詰まって繊維が複雑に絡み合ったじゅうたんのように、情報やコンテンツ(内容)が詰まっていなければならない。それなのに今の世の中、ジャーナリズムも単純に善悪を分けてしまって、一つの次元だけで語る傾向がありますね。

内田 なぜ善悪をつけたがるんでしょうね。当事者のどちらも悪人の場合もあるし、どちらも善意の人の場合もある。それが必ず加害者と被害者、悪人と善人に割り振られる。ジャーナリズムは、世の中が複雑であることを示してほしいと思う。

鷲田 そんな記事があったらいいのにね。「一筋縄ではいかない」とか。

内田 「よくわからない事件でした」とかね。学生と話していても本当に話が単純で。たしかに善悪二元論の新聞記事だけ読んでいたのでは世の中の複雑さは分からない。人と人との関係の濃淡をていねいに彩色するような記事が積み重なってはじめて奥行きのある全体像が浮かび上がるものでしょう。

鷲田 ただ、軽く使われる言葉に「多様性」もありますね。多様性を使う人にいつも質問するんです。「わかった。文化は多様でなくてはならない、人はみんな違う、ではどうして私は多様であってはいけないの?」。なぜ個人が多様性を持つと、多重人格というレッテルが張られるのでしょう。

内田 それが今回のテーマである「成熟」の一つの答えでもあると思うんです。子どもと大人の違いは個人の中の多様性の有無ですね。例えば57歳の僕の中には4歳の子どもから12歳、20歳の青年も、その時々の自分が同居している。もののはずみで小学生の自分が現れることだってある。年をとる効用って、生きてきた年数だけの自分が多重人格のように存在することだと思うんです。そのまとまりのなさが大人の「手柄」じゃないかな。善良なところも邪悪な部分も、緩やかな形で統合されている。そういうでたらめさの味が若い人にはなかなか分からないみたい。

 (中略)

内田 日本はリスク社会に向かっているって言われてますけど、本当にそうなったら日本人だって成熟すると思います。子どものままじゃ生きていけないから。臨機応変にならざるを得ない。

鷲田 そのことをどっかでみんな直感的に感じているんですかね。

内田 子どもだけでも運転できるシステムを作ったところまではたいしたものだと思うんですけれど、さすがに子どもばかりが運転していると出来のいいシステムも破たんする。そのとき現場にいる人たちは、誰も補修してくれないなら自分でやるしかないということに気づく。状況的要請によって大人にならざるを得ないという人たちがたぶん出てきている。政界でも企業でも教育現場でも。まだ声が小さいだけで…と、希望を語ったところで(笑)。

   


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