雲南(麗江、石林)旅行

関空―広州―昆明()―麗江(2)―昆明―石林―昆明()―広州―関空

199882日〜6日まで4度目の中国旅行、今度は雲南を旅行をした。

今回の中国行きは、最初から目的があってこの旅行をきめたのではなかった。大学生活最後の娘のアメリカ旅行がひょんなことから挫折し、その穴埋めに漠然と中国をと思っていたとき新聞広告で手ごろなツアーがたまたま見つかっただけである。

雲南については、かってTV番組で日本人に似た少数民族が多く住んでいるところぐらいの知識しかなかった。

この地方で知っている地名といえば、観光地の石林、そして大理石の名前の由来の大理ぐらいであろうか、水墨画のような景色の桂林は隣の省であるのは後で分かった。今回ツアーの中心である麗江なんて地名はそれこそ旅行社のパンフレットで初めて知った。

かくて、家内と高3受験生の下の子は今回は家で留守番、娘と2人の海外旅行の出立である。

 

関空発JAS JD011便にて、広州に向かった約3時間半のフライトである。日曜日の出発のためか空席が目立った。A300の後半席は空席、不況の影響もあるのだろう。

国際線では、今までJALしか乗った事はなくJASは初体験であったが、驚いたことに機内サービスがほとんどJALと変わらない。昼食のメニューは完璧と言って良いほど同じなのに接して、こんなところにも何事も横一線、抜け駆けを好まない協調性に富むわが国の国民性の一端を見たようで、驚きを越えて感銘すら覚えたぐらいである。

最も、こちらもいつものように缶ビールを2本と、ワインを1本空けて、上機嫌で広州に降り立った。

入国手続きの緊張で、程よく酔いも醒めたが、広州に降り立つとさすがに亜熱帯、ムットする熱気である。

日本人添乗員無し、現地中国人ガイドのツアーであるので、広州空港で今回の参加者が初めて顔を会わせた。

後で、メンバーの詳細が判ったのであるが、参加者総勢10名、60歳過ぎの会社を定年された男の方、50歳前後の陶芸家ご夫妻、年齢は不詳だが共に小学校の先生の子供のいない夫婦、そして、大阪の同じ府立高校に勤める、年齢不詳の女の先生3人組(国語、英語、家庭科)、そして僕らの2人である。

流石に中国の辺境を希望するメンバーだけに、それぞれが旅慣れた人たちであった。

広州では昆明行き国内便の待ち合わせ時間に、あわただしく越秀公園を見学した。(行ったというだけあまり印象が無い)

 

 

 

 

越秀公園目玉のモニュメント

アヘン戦争で使った大砲

鎮海楼

飛行機で行く海外旅行をして感じるのは、距離感と相対的位置間の喪失である。

旅行に際しては、あらかじめそれなりに世界地図を広げて頭に入れたつもりでも、実際動いてみると全くと言ってよいほど理解していないことに気付く。

地図帳で、そこに書かれている地図は縮尺がそれぞれ違っているのに、その情報を加味して頭の中で変換するような高等な理解力を持ち合わせていない。各ページは同じ大きさなので、見ているほうには100倍くらいの縮尺の違いが有ることをつい忘れ、漠然と最も慣れ親しんでいる日本の地図と同じ縮尺で距離感を解釈してしまっている。そんな調子で理解した地図が実際役に立つはずが無いのは同じ縮尺で書かれた日本地図を見て納得する。

関空から広州まで2500km、広州から昆明まで1100km、昆明から麗江まで330km、中国は広すぎる。

広州から昆明に飛んだ時、僕の最初の理解では、雲南省は地図で茶色に書かれたチベット高原の外れであるので、なんとなく昆明は広州の北に位置しているように錯覚していた。昆明が夏でも気温が低く涼しいことなどもなんとなく北を思いこませたのかもしれない。

ところが、飛行機から眺めていると長いあいだ遠くに海らしき景色が見えるので僕の頭は??であったのだが、改めて広州と昆明の位置関係を見ると、昆明と広州の緯度はほとんど同じで飛行機はほぼ西に向かってベトナム国境近くを飛んでいたらしい。

1時間30分くらいのフライトで昆明空港に着いた。広州からの距離は、日本で言えば大阪から北海道くらいの距離感であろうか。人口112 7411 (1990)、海抜 1951mにある雲南省の省都である。低緯度にあるが高原のため気候が温和で "春城" とも呼ばれている。雲南の商業、交通、工業の中心地で、生産物として鉄と非鉄金属、工作機械、化学製品、セメントなどがあるらしい。銅、鉛、亜鉛、鉄などの鉱石も近くでとれ、研究機関としては大学と医科大学がある。この町は紀元前 206 年から紀元 220 年の間の漢時代に形成されたが、13 世紀の元時代までは中国の一部ではなかったそうだ。(MSワールドアトラスより)

ガイドさんの説明では、雲南省は面積39万平方`、日本より少し大きく人口は4000万人ということであった。

雲南省は少数民族の多いところで、地球の歩き方によれば昆明の街中に民族衣装を着たい族やサニ族の女性を見かけることもあるとあり、中国の辺境地域かと思いきや、実際は、来年(1999年)に世界花博覧会が開かれるそうで、街中その準備のため工事だらけ、活気に満ちた普通の中国の大きな町であった。

長い移動(3600km)の日で疲れたが、今夜の宿は錦華大酒店である。

中国のホテル(★★★★以上)には色々泊まったが、中国のホテルで気になるのは内装の雑さ加減である。特に目に付くのは洗面所のタイルの張り方で目地セメントの仕上げのずさんさには驚いてしまうことが多い。せっかく大理石など良い素材を使っていてもこれでは何もならない。外見はきらびやかで立派なホテルでもそのへんが雑だと嫌になるものである。

しかし、錦華大酒店は違っていた。タイルの仕上げは上々であった。こんなホテルに泊まったのは初めてである。

と喜んでいたら、スタンドライトが点かなかった、これは惜しい。(次の泊まった麗江のホテル格蘭大酒店は残念ながら、中国標準仕様であったが)

しかし、ホテル事情は確実に上がってきている。以前泊まったホテルでは、夜遅くなると湯が出なくなるのが普通であったが、今回の2つのホテルでは夜、及び早朝ともお湯がちゃんと出てきた。(経済発展著しい南部だからかもしれないが)

中国旅行で良く問題にされるのはトイレ事情であるが、この点も、急速に改善されてきていると思う。

一般の観光地では、そう取り立てて言うほどの事も無い。日本にだってあの程度の公衆便所はざらにあると思う。

(奈良を代表する観光地の東大寺大仏殿のトイレもようやく今年ン億円を投じて建て替えられたが、それまでのトイレは決して誇れる代物ではなかった)

空港やホテル、デパートなどの公共施設のトイレには必ずといって良いほどトイレ係りの人が居て常時管理されているので問題は無い。ホテルのトイレなどは過剰サービスかと思われるほどのサービスをノーチップでしてくれるところもある。

 麗江

翌朝は8時の飛行機で麗江に飛んだ。330kmほど北西である。地球の歩き方には600kmとの記載があるがこれは、大理まわりのバス路線の道のりの間違いであろう。

海抜は2400m、雲貴高原の一角にある麗江は一段と涼しい。麗江ナシ族自治区の中心都市ということだが、この都市の名を果たしてどれほどの人が知っているだろうか。

麗江空港

空港待合室の壁画

僕は、大理という都市は大理石の名前の起源であるので知ってはいたがこの麗江と言う都市は知らなかった。

それもそのはずで、ここ麗江空港ができたのは95年の春ということで、それまでは昆明からの長距離バスで10時間の山道を来るしか方法は無かった訳である。それまでは、知る人ぞ知る秘境の町であったのだから。

インターネットで事前に情報を検索してみたら、ちょうど阪神大震災と同じ頃起こった麗江大地震のことか、バックパッカーの若い人の冒険旅行記が数件あるだけであった。旅行の案内書も地球の歩き方に6ページほどの記事が載っているだけで情報は乏しい。

チベット高原の東南の端にあたる。中国側からチベットへの陸路は4本しかないがそのうちの1本がここから続いている。最もこれより奥地は外国人の未解放区なので勝手に行くことはできない。

空港から町まで繰るまで40分ほど、雲がかかっていたが見渡した限りでは細長い盆地のようであった。バスは玉龍雪山の方に向かっていたので空港は盆地の南の方にあるらしい。

沿道の景色は日本の昔の農村に似ている。水稲とトウモロコシ、そして所々にタバコが栽培してある。畑のあちこちにはひまわりも植わっていた。

作柄を見る限り豊かな大地であると見うけられた。

大地の所々には大理石らしき岩が見うけられたが、大昔、海であった証拠である。正しくここは大ヒマラヤ山脈の端なのである。

 中国の旅行社は各地区で独立していて縄張りも厳格である。ガイドは必ずその地区の旅行社のガイドが付くことになっている。

一応、スルーガイドとして広州から一人は添乗しているが、それとは別にその地区の旅行社のガイドがその地区では取り仕切る慣わしになっている。

ここ麗江では唐さんという英語はできるが日本語はできない23歳の若いナシ族の青年であった。ちなみに、全行程を添乗してくれたのは広州青年旅遊社の李さん、昆明地区を案内してくれたのは女性の武さんであった。

したがって、ここ麗江の案内は、唐さんが中国語で喋ったものを李さんが日本語に翻訳すると言う次第であった。

麗江の地の言葉は漢民族の李さんでも全くわから無いそうで、その時は、唐さんが漢語に翻訳したものを李さんが日本語に翻訳するという手順で意思の疎通をはからねばならないという面白い経験もした。

多分、空港から麗江の町に行きすがらに、例の翻訳システムで唐さんが麗江の町の説明をしてくれた筈なのだが、景色を見るのに熱中していたのかその内容は全く覚えていない。

毛沢東像(現在中国には3個しか無い)

したがってこの町がどの程度の規模なのか今となっては知るべくもないが、なんとなく一昨年に行ったオアシス都市、敦煌に似た市街地の風情であったので人口は数十万程度の大きさかなと思う。

遅い朝食を市内のレストランでとったあと、町の北側の象山(毛沢東像の後ろに見える山)の麓にある玉泉公園に行った。

この公園は名前から判るように、綺麗な涌き水をたたえた黒龍潭を中心にできている。

天気が良ければこの池面に玉龍雪山が美しい姿を映しているはずであるが、あいにく山は雲の中であった。

この公園の一角には、この地方のナシ族に古くから伝わる象形文字の東巴文字を研究する、東巴文化研究所がある。

民族問題はどこでも難しいが、ナシ族の文化は漢民族に征服されてからの漢化政策によって多くが失われていったそうである。

東巴文字もほとんど忘れ去られ、いまでは数人が辛うじて理解できるだけらしい。

ナシ族伝統の民族衣装も禁止され、男性の民族衣装はほとんど絶えてしまったそうである。しかし、何故か女性の民族衣装だけはいまでも続いている。(言葉を奪ったのはなにも日本だけでは無いのだなと思った。征服者の常套手段だったのだ。)

 

玉泉公園

東巴文化研究所

偉い先生の書いた書(20)

東巴文字の偉い先生

公園の北に、唐突に近代的な建物があって、それが新しくできた博物館であった。

麗江の民族博物館という代物なのだが、公園散策に時間を取ってしまいそこへついたのが正午近かった。

ロの字型に建てられた4つの展示室があり、ナシ族の民族衣装を着た娘さんが番をしていた。

雰囲気としては、研究機関もしくは学校のようなものを付設しているのか番をしている娘達は学生のようで、分厚い漢書を読んでいた。

第一展示室に入ってしばらくすると、何やら外でガイドさんとやりあっている。昼休みだから閉めると言うことらしい。

そういえば、ここ麗江は2時間ぐらいの昼休みを取るようなことを来しなのバスの中で現地ガイドの唐さんが言っていたような気がする。

まだこの辺が、共産党時代の官僚主義が残っているのか、客が居るのに容赦無く展示室は閉められてしまった。

僕としてはもう少し見ていきたかったのに残念である。

官僚主義といえば国営の百貨店が多分近代化前の姿をまだ忠実に残していた。

麗江2日目の夕刻、買い物と見物がてら街に出たのであるが、もうそろそろ薄暗くなってきているのに百貨店の中の証明は消したままで店内は薄暗い。

店番をしている売り子さんは、決して無愛想ではないのは救われるが、これはナシ族の民族性によるものと思われる。

しかし、品物を売ろうという意思は全く無い。

麗江のホテルのサービスはこれが中国の辺境の地にあるものとは思われないほど行き届いていたのに、目と鼻の先にあるこの百貨店の光景との落差の大きさには驚かされた。

国営というのはどうしても官僚的な硬直性が出てくるものなのだなあと実感した。

そういえば、わが日本だってホンの30年ほど前はこんなもんだったのを思い出す。

就職したてのころ、会社の寮から実家に小荷物を送るのに、今のような宅急便が無かったので昔は国鉄の貨物を利用せざるを得なかった。(黒ネコヤマトの宅急便が知られるようになったのは昭和523年以降である)

みかん箱にしたためた重い荷物を持って夕方5時過ぎ最寄の小さな国鉄の駅に持ちこんだら、『受付は5時までです!!』とにべも無く受け取りを拒否されたことがある。

また、その頃であったが、自動車免許の更新手続きに警察にでむいたら、ズボンのポケットにいつも入れているので免許証が少しよれていたのだが、係りの中年の警官から突然『警察をバカにしているのか!!』といわれたこともある。

いずれの体制にせよ、緊張感の無い組織は堕落するものである。

 

昼食はホテル(格蘭大酒店)にチェックインしてからそこの食堂でとったが、ここの昼食の中華料理は最もおいしかった。

「食は広州にあり」というが、北京などの独特の香辛料の匂いがきつい料理と違い、一般的に中国南部の味付けは日本のものに近い。その中でも、ここのホテルの味付けは美味であった。麗江特産の松茸のスープなども出た。

このホテルは麗江で最も新しいもので、日本人客を当てこんで日本人好みに味付けに工夫がされているのかもしれない。

朝食はバイキングであったが、コーヒーもまずまずで申し分なく質量ともに二重○である。(同じ中国の辺境でも敦煌ではコヒーはまずいインスタントであったのに比べるとだいぶ差がある)

食べ物の話ついでに一つだけ判らないのは、中国ではビールを冷やして飲む習慣は無いことである。

これは、中国全土に共通している食習慣である。折角のビールをどうして生暖かいまま飲むの?と思うのだが彼らはそれで十分おいしいらしい。これは食文化的に冷蔵保管という習慣がない為なのだろうか。

もっとも、ビールそのものが中国ではまだ一般的な飲み物では無いのだろうけれど。

この辺に流通しているビールは大理ビールという商標のものが一般的であった。独特の癖のある味がするビールで冷えていればなんとか飲めるが生暖かいと余計その癖ある味が出てきて慣れないと少し飲みづらいビールであった。町では大瓶14.5元であった。

レストランでは8元くらいとられた。

 

 昼食後は2時間ほどホテルで休息ということであったが、娘の中国も日常会話ぐらいならなんとかなりそうだし、小さな町であるので迷う心配はなさそうなので娘と2人で町に出た。

ホテルを出て右手にぐるりと回るとメインストリートの新大街である。端から端まで歩いて20分もかからない。通りに面した本屋さんや雑貨屋さんなどをを覗いてみたりした。

途中の道で竹で編んだ綺麗な小物入れを持っている人がいたので、「それをどこで買ったのか」と聞いてみた。(通訳は娘)というのは、30年来愛用している竹で編んだ小さな行李(この旅行も持ってきたが)が相当いたんで穴があいてきたから、いいものがあれば代わりをとかねてから思っていたのだが日本では昔ながらのこんな行李は見つからなかった。

公安風の人であったがえらく親切に教えてくれて、最後は店まで案内してくれた。形は四角では無く丸いのだが編みが二重になっており対角線で内側に押すとパックと開く仕掛けになっている。18元のいい買い物であった。(優れものであるので今から思えば3つほど買えば良かったと少し後悔している)

通りの半ばの紅太陽酒店の隣に大きな毛沢東像のある公園があった。それから少し行くとアリババカフェ、外人相手の食堂でしょうか。さらに少し北へ行くと2又の交差点、ゆるく右に回ると午前中に行った玉泉公園がすぐそこに、左に行くと遠く玉龍雪山や白沙村方面へつづく道である。

途中で中国人の旅行客に会った。子供の服装から昆明方面のイ族の一行らしい、写真を撮らせてもらった。

イ族?の子供

アリババカフェ

竹で編んだ小物入れ(18元)

四方街

午後からの観光はホテルから歩いて左前方に位置する四方街というナシ族のオールドタウンである。黒い甍を連ね、朱塗りの木造家屋が密集する地域で400年ぐらい経っているという事である。日本で言えば飛騨の高山に風情が似ている。

街中には、黒龍潭から流れ出た川を何本かに分けて集落の中を通して自然の下水道にしている。町の中は迷路のように入り組んでいるが、川を遡れば必ず四方街の入り口に出られるので便利である。集落全体が昔は城郭の役目をしていたらしい。細い路地を挟んでぎっしりと古い建物がたっている。先の大地震でも被害を受けたのかかなり傾いている危ない建物もあった。

中心部は観光地化されていて多くの土産物屋さんや飲食店があった。中には、サクラカフェというのもあったが、何故か西洋人が店番をしていた。

ここは、広州あたりでは有名な避暑地で、多くの観光客が来ていたが、敦煌などに比べると外人の観光客は少なかった。

海外でたいがい目に付く日本の団体さんにもほとんど会わなかった。(ひょっとして団体さんは我々だけか)

西洋人グループには会ったが、フランス人が多かった。ここは昔フランス領だったベトナムに近いのでフランス人には馴染がある地なのかもしれない。ここから200kmくらい南に下がった大理には西洋人達が多く居着いているということである。

四方街(入り口付近)

四方街

四方街

 

四方街で出会ったナシ族のお婆さん

 

夜には、四方街の古い民家を改装した小劇場でナシ族の民族音楽の演奏会が有った。

85歳の長老から若いナシ族の娘さんまで含むなんともコメントしがたい楽団(麗江中國大研納西古樂會、会長 宣科)で、長老たちはナシ族の民族衣装に身を包み演奏中ずっと無表情で、ただただ自分の持ち場の時のみ間違い無く動作するのがなんとも言えず不思議な雰囲気があり、ガイドさんが行く前に化石のような老人の楽団といっていたのがまさに的を得ていた。

長老たちとは対称的に若い娘さん達は山口百恵のように魅惑的であった。

ナシ族民族音楽会

1時間30分の公演の間に数曲の演奏が行われたが、われわれ日本人には親しみやすい旋律であった。中には日本の御詠歌にそっくりな旋律の曲も有った。

行く前には、疲れたから会場で寝ると宣言していた娘も寝るのを忘れて聞き入るほどすばらしい演奏でだった。

玉龍雪山方面

次の日はこの旅行目玉の麗江のシンボル玉龍雪山観光であったが、朝起きると昨日よりは曇っている。

それでも予定通り、雪山が身近に見える景勝地雲杉坪(ユンシャーピン)に向かった。

麗江からは草原の中のまっすぐ道を北へひたすら走る。天気が良ければ目の前に標高5596mの万年雪をいただいた玉龍雪山が凛としてそびえている雄大な景色の中のドライブのはずであったが、途中から遂に雨。

1時間ぐらいで、雲杉坪の麓に着いたがここではもう本格的な雨。そこからは最近にできたといわれるリフトに乗って雲杉坪まであがるのだが、この雨では持ってきた簡易カッパは役に立たず、中国解放軍ご用達の軍隊用のカッパをタイマイ20元も払って借りた。

雲杉坪は確か標高が3300mといっていたように思うが、ここからの玉龍雪山の眺めはそれはそれは素晴らしいそうな!!

広場ではナシ族の可愛い娘さん達の歌と踊りも有るはずであった。

雨でと泥でズボンの裾は汚れてぼとぼと、早々の退散であった。ムッカ!!

途中の草原、干海子も素通りだ!!

雲杉坪へのリフト

雲杉坪

氷河の水の白水河

 

晴れていたら(地球の歩き方より)

晴れていたら(雲杉坪、絵葉書―雪山風光より)

 濡れた衣服のことも有るので予定を急遽変更し、一旦、ホテルに戻って昼食の後、午後からは麗江から北へ5kmの玉龍雪山の麓に有る明代の壁画が残る白沙村の大宝積宮と、13kmほどの玉峰寺に行った。

壁画はこの辺には多く残されていたらしいが、今は2箇所ぐらいしか残っていないらしい。

住民が壁画の顔料を漢方の成分として剥ぎ取ったことと、最も壊滅的な破壊は文化大革命時、紅衛兵によってなされたということであった。ここでも、文化大革命の負の遺産を聞かされた。

白沙村 大宝積宮 壁画

ここ大宝積宮の壁画が何故残ったのか説明をバス中でしていたが、熱心に聞いていなかったので覚えていない。

大宝積宮は白沙村の奥に有る小さな荒れ寺であった。入り口近くには、骨董や民芸品の露天商と、東巴文字の若い書道家の店があった。中国は流石に漢字の国、玉泉公園には、事故で両腕を無くした人が口に筆をくわえて立派な書を書いている店もあったが、日本ではそれこそ”書道家”としてやっていけそうな人が大道芸人のように道端で書を売っている。

親切な”書道家”

娘は、この東巴文字のナシ族の”書道家”に書を勧められたが、とてもそんなお金が無い(掛け軸1振り、100元くらいだったかな)と断り逆に、たどたどしい中国語で、持参したノートに東巴文字で名前を書いてもらうことを頼んだら、快く1筆したためてくれた。お礼に娘は20元ほど渡そうとしたが、その青年は笑って「不要」と受け取らなかった。開放政策で金、金の拝金主義がはびこる中国の観光地では考えられないような出来事であった。麗江はまだ昔の素朴さが残っている。

 壁画は仏教の教えを題材にしたものらしかったが、落書きなんかもしてあり保存状態はよろしく無い。

壁画のある壁面にはたるんだロープの仕切りがあるだけで手が届きそうである。ガイドの唐さんは持っていた傘で壁画を指しながら説明をしていたとういう次第である。文化財に関する考え方は甘いようだ。

壁画そのものは敦煌のものなどと比べると時代もかなり後のようで文化的価値は低いのかもしれない。それでも小さなお堂の中は観光客で一杯であった。

白沙村には「地球の歩き方」で有名な名物漢方医”ドクターフー”さんがいるらしいが、ガイドさんは一切そのことには触れなかった。「地球の歩き方」発の日本人だけの名物なのだろう。

白沙村をあとに朝通った玉龍雪山への道をさらに北へ5km程上がり左折して山裾を少しあがったところに玉峰寺があった。

この寺は清代(1756年)に創建されたラマ教寺院である。仏像などは比較的新しく文化的な価値はなさそうである。

玉峰寺

 

この寺で有名なのは、万朶山茶と呼ばれるつばきの大木である。樹齢およそ500年雲南一と称せられている。

山茶を見学していると気の良さそうなラマ僧が現れた。写真を構えると合掌してくれた、ナシ族は気さくで人のよさそうな人が多い民族のである。

万朶山茶

ラマ僧(住職?)

 

 この寺の駐車場の前に、小屋がありそこは一寸した休憩所とみやげ物屋になっていた。

トイレを借りたあと、土間の上に無造作に並べてある仏像彫刻(携帯仏)があったので眺めていたら売り子の可愛い娘さんが寄ってきてた。

「多少銭」と聞くと「800元」と言った。「太貴了」と言って嫌々すると次は「600元」そしらぬ顔をすると、すぐ「400元」ときた。それでも買う素振りを見せなかったので今度は例のごとく「いくらなら買いますか」と片言の日本語できた。

200元」と言ってやったら売り子の娘はちょっと困って、向こうにいる元締めらしき男性に許可を求めたらそれでいいとOKが出てしまった。まだまだ資本主義経済の価格決定ルールがこなれていない未熟さを感じる。。

 まがい物作りでは定評のある中国のことではあるが、手に取っている代物が今の円安レートでも200元といえば3500円ぐらい。

僕は、即座にこれは「買い」と思ったが、ここで思わぬ伏兵出現。今までの中国旅行でつまらぬ骨董まがいの物を買ってばかりいるので家族には不評を買っていたが、娘が猛然と反対した。しかし、その妨害を撥ね退けて買ってしまった。

常識的に、これが、掘り出しものの骨董である確率は限りなくゼロの近いとは思うが、しかし、イミテーションの贋作として3500円ぐらいで妥当な値段ではないだろうか(中国は贋作作りにかけては名人の域にある)。片言の中国語での値段交渉も楽しめたし、愉しみ料と込みで、今回の旅の良い思い出の品になった。今は、居間のサイドボードの上に昔買った置物と一緒に飾って(祠って?)ある。

 

 

土産に買った「携帯仏」(200元)

 

 4日目は530分に起きて、時差の関係でまだ暗い6時から朝食、7時出発で空港に向かった。

850分発の飛行機で昆明に戻った。

予定では、昆明市内で最も古い唐時代創建の円通寺行くはずであったが、飛行機の到着が少し遅れたのと、ツアー客の一人が腹痛のためホテルに先に寄らなければならなかったので、予定を変更して、直接、石林に向かうことになった。

ちょっと石林まで、というけれど中国は広い、片道約100km、自動車で2時間かかる。詳しい地図などないのでガイドブックにある程度の極めて大雑把なことしかわからない。だから、通過した途中の村村のことはただただ車窓から見ているしかなかった。

昆明市内からはすぐ有料道路になったが日本で言う高速とはだいぶ違う、人は歩いているし、驚いたことに途中の陸橋の下には路上生活者らしき人が寝ていた。

山々には木が茂っているという感じではなく、どちらかというと禿山だった。麗江が豊かな田園が広がって緑がいっぱいとういのと違い、荒地がつづく高原地帯だ。

石林への道

(右上方がハノイ行き国際鉄道)

道の両側はユウカリの並木になっている。石林までの行程の半分ぐらいのところに大きな湖があった。そのほとりに大きな火力発電所が立っていたが、これは近くにあるアルミ精錬工場用であると説明していた。

そこからしばらく行くとやや険しい谷沿いの道が続いたが、道に平行して崖の上の方に昆明発ベトナム行きの国際列車の線路が走っていた。ハノイに最も近い都市それが昆明である。

 

石林は中国でも著名な景勝地で露出した石灰岩が酸性雨で自然侵食を受けてできた典型的なカルスと地形である。

2億8千年前はここは海底であったらしい。海水での侵食作用、地殻の隆起、そして酸性雨での侵食と雄大な大地の歴史が刻み込まれた不思議な風景である。

ここにはサニ族の民族衣装を着た子供たちがたくさんいるが、これは有料道案内ガイド、おおらかな麗江のナシ族と比べるとかなり擦れている感じ。

 娘が、ちょっと写真を写させてくれと頼んだら、今は仕事中だといって拒否されたといって痛く憤慨していた。金儲けにとりつかれて余裕が無いのだろうか、可愛げの無い子供たちでちょっと哀れみさえ感じた。

石林

サニ族の公園掃除婦さん

石林からの帰り、このツアーでは初めてにして最後であったが友諠商店に連れて行かれた。

がらんとした大きな建物に、名産の玉石(ヒスイ)の飾り物や玉、染物、彫り物等々並べてあったが今回のツアーメンバー旅なれた人がほとんどで、誰も何も買う気配が無い。この手の商法ももう曲がり角に来ていることを旅行社も悟るべきであろう。

20分もあったので、全く買う気が無かったが、しつこく寄ってきた店員に少し質問したら、玉石の値段の違いと、見分け方を詳しく説明してくれた。このへんもまだまだ客の見分け方が判っていないようだ。

それにしても、円安は痛い。この前には一元が11円くらいであったのに、今回は18円。中国は今のところ固定相場制だから中国経済にとっても厳しいところがある。

日本の経済がアジアと密接に繋がっていることが実感された。ガイドさんに言わせると、日本からの観光客はガタ減りだそうだ。

今回の旅行で、日本人観光客にあまり逢わなかったのは、ツアーコースのせいではなく円安の影響が最も大きいのかもしれない。

今夜は、もう一度、錦華大酒店に投宿。

 

5日目、最後の日、今日も早朝7時の出発、昆明空港から広州に飛んだ。

広州空港でハプニング。ターンテーブルで待てど、僕を含めて数人の預けたとランクが出てこない。

最初は、「その内に出てくるよ」と言っていたガイドの李さんも慌て気味。そのうち空港の係員も出てきててんやわんや。

「昆明で間違えて違うところに送られたのかな。」「紛失したら保険会社に損害報告するのに、あの麗江のお宝、10万ぐらいにつけとこうか。」なんて待ってること30分ほどして再びターンテーブルが動き出し、遅れてれていた荷物が出てきた。

飛行機のから運ぶ貨物移送車が、途中で満載になってしまい先着したが、残りは次の車の便まで待っていたらしい。

それにしても中国らしい。言葉も満足に判らない無い個人旅行ならもうパニックに陥っていただろう。

ガイドの李さんも、最近は飛行機の発着は昔と違いほぼ定刻で運行されるようになったのにと苦笑いであった。

今度も、帰りの便までの時間潰しのため、広州の胃袋、清平自由市場と陳氏書院を駆け足観光。

中国の活気を感じる一時でした。

 

広州空港

広州駅

 

清平市場(ネコ、ウサギ、カメ、タヌキ、犬、さそり等々)

 

広州を1435分出発予定JD010便が、30分ほど滑走路の混雑で遅れて離陸。

福建上空あたりは台風崩れの低気圧で巨大な積乱雲などを眺めながら、また上海上空では綺麗に揚子江河口が見えた。

九州上空付近からは、時間の短縮された機上の日没。関空についたときは懐かしい夜景であった。

当然、ビールとワインですっかり酔いは回ってっている。

(写真は一部、デジタルビデオから編集)

98/08/21

追記:今回の旅行で知った生の中国情報。

ヤオハンが潰れた訳

ヤオハンが上海に進出したおり、社長が言った次の言葉「今後中国全土に1000店舗を目標にチェーン展開をめざす」が、中国人には経済侵略と受け取られ反感を買った事。この発言ビデオは折に触れ今でも何遍も中国全土に放映され日本の経済進出に警戒感を呼び起こす働きをしているとの事。

まさか、あのヤオハンの社長が中国侵略の野望を持って言った発言とは日本人には感ぜられないのに(日本では薬ヒグチの目標○○店に近いのりか)中国人の受け止め方がこんなにも厳しいとはと、不幸な過去の歴史の重みを垣間見ました。

多くの日本企業が中国に進出しているが、真のパートナーシップで結ばれた関係になるためには、まだまだ時間が必要であろう。

中華料理の無駄

中国では客をもてなす場合、料理は食べ残すほど出すのが最高のもてなしと考えられている。

実際、旅行に行くと毎回とても食べられないほどの量が出てくる(食べ残すことを前提とした量)

そして、食べ残したものは全て捨てているらしい。(一部は、豚等の家畜の餌になるのだろうが)

世界では食糧難の折、こういった悪習について中国知識人はどう考えているのだろうかと思い聞いたところ、中国でも心有る人々はこの悪習は是正すべしと考えているとの事。

文化大革命世代が中国のお荷物?

文化大革命当時学齢期であった世代(日本で言うところの団塊世代に一致)は、下放政策等も有ってまともな勉強をしていないので、人材的に他の世代と比較して劣ってしまっているらしい。(文化大革命当時数年間は全ての学校は完全に閉鎖状態であったらしい、予想以上の禍根を現在中国に残している)

このところの世界経済の陰りによって、中国も影響をもろにうけ始めているが、そこで真っ先に犠牲になるのは何の技術も持ち合わせていないイデオロギーに弄ばれたこれらの人々であるということらしい。

文化大革命以後の若いテクノクラート(30代)が、これからの中国をリードしていくだろうとの予則。

中国の自転車

中国は、多分世界1の自転車保有国だと思われる。朝夕の通勤時にはどこの町でも多くの自転車が行き交う。

この自転車に共通する特徴は、全てライトがついていないこと。

したがって、中国の自転車は全て無灯火運転である。

 

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