松本龍郎の日記(雑記帳)
Diary of Tatsuro Matsumoto (1)


2002年8月23日~2003年12月15日


2004年1月3日~

                       E-Mail: 松本龍郎


Amazing Grace  (020823)           2002年望遠鏡サミット (021014)         間違った掲載 (021025)

葬儀 (021029)                  愛猫”ゴン” (021119)              実験成功 (021128)

斜位矯正 (030102)              スピーチコンテスト (030105)           近視眼と老眼 (030108)

近視眼と老眼(その2) (030109)       情報発信の難しさ (030311)          T先生 (030325)

マリオット氏盲点 (030514)          Red- Green Test (030529)         勝ち逃げ姉ちゃん (030601)

悪役俳優、Bolo (030612)          折り畳み式車椅子(Folding Wheel Chair)(030625)         新型150S-BINO実視テスト (030721)

地震お見舞い (030725)           佐治アストロパーク星祭り (030803)      姪が来た。甥が来た。 (030818)

Woo Pinn (030821)              BORG125ED-BINO (030827)          遠来の訪問者 (030908)

東亜天文学会 (030925)            地震お見舞い (030926)            EMSの種明かし (030929)

収穫の秋(031003)               良い事続き (031012)               2003年望遠鏡サミット (031027)

EMS 伝来 (031101)          クラウディア(Κлавдия)奇跡の愛 (031119)     足利先生からのメール (031128)

チョチョピーが死んだ (031211)         珍道中 (031215)
 



2003年12月15日


 珍道中

 ナンシー(仮名;10月12日, 9月8日にコメントあり) はこの一か月余り、献身的に 娘を指導してくれた。しかもお金は要らないと言う。偶然の彼女の誕生日にかこつけてささやかな プレゼントをしたら、ものすごく感激して私達親子3人それぞれの首根っこに順に抱きついた。   彼女の個性もあろうが、私たちとの感情表現の違いに今さらながら驚いた。

   娘のスピーチコンテストの中国大会に、ナンシーは自分も付いて行きたいと言い、私たちも 渡りに船と、昨日朝、私と家内と娘とナンシーの総勢4名が鳥取駅から、LL英語スピーチコンテスト の中国大会に出陣した。

 娘はまだ会話力が未熟なので、私とナンシーが常に並んで座ることに なった。岡山駅に定刻に着き、乗り換えの新幹線の改札の直前で私が皆に切符を取り出すように言うと、 ナンシーが慌てて大きなリュックを探りながら、「大変、サイフとバッグを汽車に置き忘れたわ!」と悲痛な 顔。
  家内と娘をその場に残し、ナンシーと私は来た道を転けつまろびつ脱兎のごとく^^;最寄りの改札の駅員に たどり着き、他の客との話し中をものともせず、自分でも可笑しいくらいにどもりながら事情を伝えた。

 すると、「インフォメーションセンターに行ってくれ。」と言う。それは視界の内だったが、改札の外ではないか。特別に 改札を通らせてもらい、そこの窓口で、ナンシーが言う忘れ物の特徴を慌てて日本語で代弁した。なんと、すると、 「これですか。」と、まさしく置き忘れたサイフとバックを出してくれたではないか。係りのお姉さんの背後に後光が差して見えた。 感激した私は "Thank you very much!" とまじめに感情を込めて英語でお礼を言っていたが、その時はその可笑しさに気付く余裕もなかった。乗り換えの 時間が10分少々しかなかったのだ。ナンシーも「アメリカではこんなことは絶対にない。奇跡だ。さすがは日本だ。」と しきりに興奮していた。 こうして、辛うじて繋ぎの新幹線(のぞみ)に間に合った。

  予期せぬ出来事に、私たちは昼食を取るのも忘れて広島市郊外の会場に着いた。会場の大学の学食を当てにしたが、昨日は日曜で開いて いず、また時間も中途半端なこともあり、皆が昼食を抜くハメになってしまった。

  さて、肝腎の娘の成績はどうだったか。 中学生の部の出場者は10名、娘は7番目、娘は「全然緊張しない。」と強気だったが、 日頃の持ち味を発揮し、娘がスピーチを終えた段階で、親の欲目は娘の優勝をほぼ確信し、すぐ隣りに座っていたナンシーの表情も 同じ気持ちを語っていた。 ところが、8番目の子のスピーチを聞いて、その自信が揺らいでしまう。何とか欠点を見つけようと思っても、 彼女の、海外でのホームステイ経験を話す口調は作り物でなく、自信に溢れ、まさしくheartの奥から言葉が出ていて、正直、負けたかも知れない、と思った。

  結果はやはり8番が優勝、LLの大きな大会の通例で、2位以下は特定せず、最優秀賞1名と続く4名が一列に優秀賞 を受賞することになり、娘は優秀賞に甘んじ、今年は東京行き(全国大会)を逃した。

  ただ、馬鹿な父親は、娘は2位だったと確信している。 娘は過去2年連続で山陰地区代表で全国大会に行ったが、今年は 山陰地区大会は無くて、中国大会で優勝しないと全国に行けないということで、ハードルが高くなった。 中国大会は全国的に見ても レベルが高く、去年の優勝者は小学、中学生共、全国で優秀賞を取っている。 今回は島根県と岡山県では該当者が無くて参加しなかったほどで、 辺境?の鳥取県からの参加に、主催関係者の方が開会式で激励してくださった。

  ということで、娘本人は、大きな大会での入賞の嬉しさと優勝を逃した悔しさが入り交じった複雑な心境のようだが、父は十分に 楽しませてもらった。 早口のナンシーの言葉を聞き取るのに全身を耳にしなければならなかったが、バーチュアルな世界を 密かに、正々堂々と楽しませてもらった。

 



2003年12月11日




 チョチョピーが死んだ

 今朝、鳥籠を見たらチョチョピーが籠のフロアーでまたうずくまっていた。 呼びかけても動かない。  すでに冷たくなって硬直していた。 夜の間に一人で逝ったのだ。

   娘の6歳の誕生日に父(娘の祖父)がプレゼントしてくれたものだ。享年8歳、文鳥としては標準らしいが、 人間の10倍の早さで一生を閉じてしまった。

  雛の頃は娘もかいがいしく世話をした。成鳥になると、餌をまき散らす等で、家内が嫌うようになり、階下の店に置くことになり、 以来、ずっと私が店で世話をしていた。
 不思議にその頃からチョチョピーは家内に猛烈に攻撃的になり、噛みつかれるのを恐れて、家内は ますます近寄らなくなった。ただ、チョチョピーはお袋にも噛みついていたので、噛みつく理由ははっきりとは特定できない。
  娘にも攻撃的だった時期があったが、ある日巣の糸に脚をからめていたのを娘がいち早く見つけて助けてからは、 娘には噛みつかなくなった。
数日前、母に看病されてからは、不思議に母を威嚇しなくなり、進んで母の手の平に来るようになっていた。

  6歳の娘が付けた名はナナ、チョチョピーはその後に私が付けた名だ。 チョチョピー、チョチョピー、とよく鳴いていたからだ。 それは、鳥屋さんによると雌を呼ぶ行動だったらしい。 とうとう対飼いにしてやることもしなかった。 子供の頃から動物はいつも傍らに いたが、悔いのない世話をした記憶がない。 贖罪の十字架の重さがまた増してしまった。

  チョチョピーの亡骸は母が泣きながら即席の棺に入れた。棺は、私と両親とクー(ヨークシャテリヤ)が車で10分くらいの所にある、 100坪ほどの父の家庭菜園に埋葬した。 雨の中、父がショベルで土を掘り、埋葬する間、私が傘をさした。

  チョチョピーに贈る言葉

役目を終えたから天に召されるんだね。
さなぎが殻を脱いで蝶になるように肉体の殻を抜けて、
苦痛のない世界に行くことを許されたんだね。
怖れも心配もなく、綺麗な蝶のように自由に空を翔ぶんだね。
もう決して独りぼっちにはならず、魂は成長し続ける、
先に殻を脱いだ人たちがいる世界で、
想像できないほどの愛につつまれるんだ。

When we have done all the work we were sent to earth to do,
we are allowed to shed our body-which imprisons our soul like a cocoon encloses the future butterfly-and when the time is right we can let go of it and we will be free of pain,
free of fears and worries-free as a very beautiful butterfly, returning home to God which is a place where we are never alone-where we continue to grow and to sing and dance, where we are with those who loved (who shed their cocoons earlier) and where we are surrounded with more Love than you can ever imagine!

  (姉が死の直前にくれた本より) 



2003年11月28日


 足利先生からのメール

  母校の遷喬小学校の門前には蘭学者の稲村三伯の記念碑が立っている。声が届く程の距離に三伯の生誕地が あるからだ。目立つことの少ない山陰にあって、郷土が誇れるものの一つである。 ただ、江戸時代に歴史的偉業を成し遂げた稲村三伯先生も、お会いしたこともなく、私にとっては遠い存在に過ぎない。

  自分が実際にかかわった方の中で、尊敬する人として真っ先に目に浮かぶのは、
足利先生だ。  足利先生には高校時代に数学でお世話になったが、私は決して良い生徒ではなく、先生のテストで一度だけ記念すべき 「0点」を採ったことが今でも忘れられない。当時、器械体操に没頭していた自分には、テストに向かうのがどうでも良い 事のように見え、敢えて白紙で提出したのだった。 決してどなり声を揚げるような先生ではなく、テストの結果に心配して 部活をしている私を訪ねてくださり、お陰でその後はまじめに勉強した。

  先生は、象のような立派な体格ながらいつも三つ揃いの正装に身をかため、物静かで生真面目を絵に描いたようで、また当時は珍しかった縁なし メガネと懐中時計から、生徒は先生を陰で”天皇”と呼んでいた。 いつも廊下をゆったりと威厳を持って歩き、それでいて 尊大な感じはないのだった。 しかし、悪がき共が先生に付けたあだ名の真意は、そんな先生を揶揄したものだった。

  先生は店のお客さんでもあった。20年ほど前に最愛の奥さんを亡くされ、その後来店される度に、「貞淑な妻でした。 家内が逝ってから、今日で*千*百*十*日目になります。」と言っておられた。

  私がパソコンを使うようになってから1年ほど経った頃に先生にパソコンを勧めた。 当時90歳だった先生はパソコンを購入され、最初の手ほどきを、今度は私が先生にさせていただくことになった。

  現在でも鳥取市のご自宅で数学を教えておられる先生も、ダブルクリックがうまく出来ない等、最初はやや難航され、 もう少しのところでやや体調を崩され、パソコン講座を一時中断した。 さずがの先生も諦めてしまわれたのかな、と思っていた ところ、1年近く経った頃に電話をいただき、講座を再開、完了することが出来たのだった。

  足利先生は今95歳、現役時代から気高郡(奇しくも町は異なるが、蜂谷氏と同じ郡)の実家と鳥取市の家との往復を 一日も欠かさず続けておられる。子供さんは全て立派に自立しておられ、自分自身も今だに自立した生活をしておられるのだ。

  そんな先生から久しぶりにいただいたメールをご紹介する。

足利先生からのメール:

  先日はお便り有難うございました。お父様始め皆様お元気のご様子、大慶至極に存じます。 私こと20年一日の如く愚直なまでに同じ動線を描いて暮らしています。
鳥取ー**間が少し長い廊下の様な感覚になりました。

  あなたの旺盛な研究心には唯ただ頭の下がる思いです。 ご健康にて益々ご研鑚の程祈り上げます。

  思えば我が生涯において誠に有難い幾多のご厚誼を戴きました。深く感謝致し居ります 向寒の砌ご自愛の程祈り上げます。

  もったいないメールです。

余談だが、足利先生は足利尊氏のれっきとした末裔であられることを、最近知った。





2003年11月19日


             クラウディア(Κлавдия)奇跡の愛



 ロシアのクラウディア(Κлавдия)さんの話を ご存知ですか。
 1998年に、地元の日本海テレビが制作した「クラウディアからの手 紙」というドキュメント番組が放映され、ギャラクシー賞を受賞しています。

  終戦当時、朝鮮のピョンヤンで妻と幼い娘と平穏に暮らしていた一民間人、蜂谷 弥三郎氏が無実のスパイ容疑でソ連官憲に逮捕されました。ちゃんとした裁判も経 ず、ピストルで脅迫されながら無実の罪を認めさせられた蜂谷氏は十年近くもの間、極寒 のシベリアの牢獄で時には生死の境をさまよいながら地獄の体験をさせられました。

 刑期を終えて釈放された後も監視の目は緩まず、連絡も帰国の望みも絶たれた状況 で、蜂谷氏はソ連の市民権を取得することを決意し、同様に過酷な人生を歩んでいた クラウディアさんと出会い結ばれます。 クラウディアさんは、富裕な家に生まれながら 継母に捨てられ、数奇な運命に翻弄されながらも独学で自立の道を開きました。しかし、 職場の上司に横領の罪をなすり付けられ、十年もの若い日々を牢獄で過ごした方でした。    

  ソ連が崩壊し、蜂谷氏の妻が日本で51年間再婚もしないで娘を育て上げて待っていたことを 知ったクラウディアは断腸の決断をします。クラウディアは言いました。「他人の不 幸の上に自分の幸せは築けない。弥三郎の大切な人は、私にとっても大切な人。私は 彼との37年間の思い出で生きていける。」

 蜂谷氏は現在、鳥取県の気高町で日本の妻と暮らしています。
 このたび、支援者の努力で、蜂谷さん了解のもとで、クラウディアさんを日本に招待するこ とが曲折を経て実現し、今月の16日の歓迎パーティーに私も参加することが出来ました。

 歓迎パーティのことは、英語サークルの集まりの時に仲間の私語を断片的に聞いた私が、 「もしかして、それはクラウディアさんのことではないですか。」と尋ねたことに始まり、 私も参加させていただくことになった次第です。

 鳥取市でのクラウディアさん歓迎会は、ホテルの1室を借りた、30名ほどのこじんまりとした 温かい会でした。 マスコミも事前の報道を自粛してくれたようで、興味本位の方は集まらず、皆心から クラウディアさんと蜂谷さんを歓迎したい、”すばらしい人たちに近付きたい”一心の人たちばかりが集まったようでした。

 蜂谷さんは、85歳の年齢ながら、凛とした背筋で直立したまま、15分以上にも渡って挨拶の言葉を 述べられました。 クラウディアさんの献身的な愛に対する感謝のみならず、かかわってくれた方々への 感謝の言葉を真摯に漏らさず述べられ、感銘を受けました。

 クラウディアさんは、「弥三郎さんが長い出張から帰って来ただけのような気がする・・・」と、久しぶりの再会の感想を述べられ、聞きながら目頭が熱く なりました。 また、「こういうことになるのなら(日本への招待)、弥三郎さんにもっと日本語を習っておけば良かった。 私が知っている唯一の 日本語、”ありがとう”で締めくくります。」と締めくくられた。

  パーティはビュッフェ形式でしたが、私は食事はそこそこにクラウディアさんや蜂谷さんと少しでも言葉を交わすチャンスを 探りました。 歓迎会には中2の娘と高2の甥が同伴しましたが、クラウディアさんに花束を贈呈する名誉を賜りました。   娘が花束をクラウディアさんに渡した後、娘は握手を求めましたが、結局クラウディアさんはそれに気付かれませんでした。 代わりに、最期に写真に入ってもらいました。(上の写真;左から二人目がクラウディア、その右に私の娘)

  蜂谷さんは最初に私共のテーブルに来てくれ、少し会話を交わすことが出来ました。「戦後教育を受けていない私は、こちらに帰ったら 異端者になってしまった。国粋主義者のように思われる。」と冗談まじりに言っておられました。 「万が一にも日本に帰れる日が来るかも知れない。その日のために 日本語を忘れてはいけない。」と実行した訓練の一つが、教育勅語を書くことだったそうです。 しかし、どこに監視の目があるか 分からない状況下で、書いた物はその日の内に焼却したのだそうです。 大正7年生まれて、私の父より1歳上でしたが、 足腰も頭脳も父よりもはるかにしっかりとしておられました。 未経験だった理髪の技術を拘束下で見よう見まねで覚え、命を 拾った蜂谷さん。 砥石の無い環境で理髪用の刃物を独自の方法で研いで見せ、認められた蜂谷さん。その時、2枚の硝子片 を互いに砂擦りし、磨りガラスを作り、それを砥石に代用し、見事に刃研ぎに成功したのでした。

  孫さんが勤めている役場の上司の方の挨拶の中で、「孫さんがいつも頭髪を大変綺麗に整えているので、聞いてみたら、お爺ちゃんに 刈ってもらっているとのことでした。・・・」とあり、孫さんや娘さんとの温かい関係も見えて、安心しました。
  他の方の挨拶も印象に残っています。蜂谷さんが鳥取大学で講演をされたとき、男子学生の一人が涙を流しながら立ち上がり、 「蜂谷さんは素晴らしい方です。」「蜂谷さんは素晴らしい方です。」と何度もそれを連呼するばかりだったそうです。     日本の若い人もまんざら捨てたもんじゃないようです。

  クラウディアさんの所には、入れ替わり立ち替わり参加者が取り巻き、写真を撮ってもらっていました。 私は、どうしてもクラウディアさんに伝えたいことがあり、チャンスを待ち、結局会がお開きになった直後にそのチャンスを 得ました。

  私のロシア語は20年以上前に少しかじった程度で、出来の悪い中学生の英語レベルですが、準備をしていた次の言葉を伝えようとトライしました。
Я люблю Вас, не потому что Вы послали Ясаберо назад Японии, но потому что
Вы поддержали его.

 押し付けがましいですが、ロシア文字等について一言。(Я)は”ヤー”と読み、第一人称単数(英語のI)です。 (люблю)は”リョブリョー”と読み、英語のloveの一人称形です。英語の動詞の人称変化は”s”が付くか付かないか ですが、ロシア語ではほぼ人称ごとに変化します。名詞も男性、中性、女性名詞があり、それぞれが異なった語尾変化をし、初学者をおののかせます。 代わりと言っては何ですが、面倒な冠詞はありません。また、発音も極例外を除くと極めて綴りに忠実で、私のような者でも 例え意味が分からずとも大体の発音で読むことは出来ます。  (Вас)は二人称の格変化形ですが、”ヴァース”と読みます。Вは英語のВではなく、英語のVに相当します。リョブリョーの (б)が大体英語のbに相当します。(не)は”ニェ”と読み、英語のnotに相当します。(потому что) は”パタムーシュトー”と言い、英語のbecauseに相当します。(п)は英語のpです。 英文にすると以下の事が言いたかったのです。
(I love you not because you sent Yasaburo back to Japan, but because you had supported him.)
  「私があなたを愛するのは、弥三郎さんを日本に帰したからではなく、弥三郎さんを支えていてくださったからです。」と言いたかったのです。  後は通訳の方の助けを借りましたが、さらに、「あなたが献身的に弥三郎さんを愛してくださったことだけで、私たちがあなたを称賛する十分な理由があるのです。」 というような内容を伝えました。 中途半端な事を言ってクラウディアさんを傷付けてしまうことを恐れましたが、私の目を見て聞いてくれたクラウディアさんには 私の気持ちは伝わったと、勝手に解釈しています。 そして最後に、「ぜひ来年も再来年もお会いしたい。」と付け加えました。
  クラウディアさんからの言葉は直接私に語られ、私が理解できると通訳の方が思ったため、訳されず、私もその瞬間は何となく 理解できたような気がしたのですが、後に残らず、失敗しました。^^;

  会場で売っていた島根県江津市の村尾靖子さん著の”クラウディア奇跡の愛”を4冊買い、娘と甥に1冊ずつ与え、私の2冊を含めたそれぞれに蜂谷 さんとクラウディアさんのサインを頼みました。 会もお開きになっていたし、ハードなスケデュールでお疲れと思い、 当然お名前だけいただこうと思っていたのですが、クラウディアさんも蜂谷さんもその本ごとに、あるいは依頼者ごとに違う文章を 律儀に考えながら書いてくださいました。 その一つをここに紹介します。

随分と時間が開きましたが、その後に知り合ったロシア人女性のイリーナさんに、クラウディアさんの手書き文字の テキスト化と和訳をお願いしましたので、そのまま追記いたします。(2014年9月22日)

”Пусть всегда и везде сопутствуют удача и любовь" Клавдия. 16.11.2003 г.

「どんな時も、どこでも運が良くて、愛でいっぱい人生になるように」

  本のタイトルに含まれた”奇跡”という言葉には、非常に多くの意味が込められているように思います。
  逆風の中を37年間もの間、我が身の危険を顧みずに蜂谷さんを守り支え続けたクラウディアの愛、51年もの間蜂谷さんを待って娘と家を守り通した日本の妻の 久子さんの愛、それらが奇跡に値する尊さであることは疑いの余地もありませんが、私には、まだまだいろんな事が思い浮かぶのです。
  一つは蜂谷さんの、極限の逆境を生き抜いたサバイバル能力の奇跡です。私などは、とても足元にも及びませんが、 砥石も無いのに刃物を研いでしまった蜂谷さんの土壇場の知恵と執念には、手ノコとヤスリからEMSを作って来た私は共感以上の物を感じる のです。
  二人の妻から同時に至極の愛を受け、しかも周りから非難されない人、これも奇跡に値するでしょう。 夫婦3人という言葉が、涙と称賛以外は入る余地の無い 崇高な愛によるものであることは、本を読めば分かります。

 凡人が複数の妻を持つと最後の妻の愛すら得られないことも多かろう。
  蜂谷さんは運命に翻弄されて過酷な人生を送られたが、獰悪な砂塵が吹き荒れる外界の存在があったからこそ実現した 奇跡の愛なのかも知れない。

**********************************

山陰中央新報11月2日    山陰中央新報11月8日

 松江でサイン会

京都新聞11月17日

FUJI-TV アンビリーバボー 2004年2月12日放送




2003年11月1日


EMS 伝来

1543年に種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人が、日本に最初に 鉄砲を伝えたらしい。 鉄砲の伝来だ。

 最近、ポルトガルの方より、EMSの双眼セットの注文があり、近日中にお送りすることになった。   今度は日本からポルトガルにEMSが伝来する。   大袈裟な引用で、顰蹙を買うかも知れないが、ほとんど独力で開発して来た本人にとっては 正直なところ、それくらいの感慨がある。

  日本とポルトガルの歴史的な関係については、先方も良く理解しておられた。最近向こうの テレビでも「SHOGUN」というタイトルで両国の歴史的な関係が詳しく紹介されたらしい。   また、ポルトガルに根付いた日本語も多いそうで、以下のコメントをくれた。  

By the way we use several japanese words in our portuguese vocabulary such as: katana = small sword to clear forest, harigato = obrigado (thank you) and many more. Portuguese words in japanese vocabulaire; pao = pan (bread) and others...

   刀、ありがとう、等々がポルトガル語の中に根付いているそうだ。私からも
コンペイトー、カッパ、襦袢(じゅばん)、カステラ、天麩羅、等をお返しした。^^;



2003年10月27日


2003年、望遠鏡サミット

 スタッフの方々の献身的な努力によって、今年も望遠鏡サミットが成功裡に実現し、参加者の一人として 最高に楽しませていただきました。  まずはスタッフの方々に心よりお礼申し上げます。

 今年は二泊させていただき、2日目の昼間に参加者の方の自慢の機材をじっくり見せてもらいました。   各自の技量や経験の差があるのは当然ですが、それぞれのオウナーの方の思い入れや執念が作品に滲み出ていて、感動を 覚えない物はほとんどありませんでした。

  私自身も、今でもアマチュアだと思っていますが、最初は手ノコとヤスリから スタートしました。 EMS-1を発売した頃でさえ、せいぜい家庭用のボール盤と切断機くらいしか手元になく、今から思えば随分と 無謀な事を始めたものだと思っています。

 ただ、執念と熱意は信じられない力を発揮するものです。実際に自分が油や金属粉に まみれ、時には指切断の危険にさらされながら苦闘している内に合理的な設計を理解し、外注するにしても、加工屋さんに 嫌がられないような注文の出し方が分かって来るものです。今年のサミットに参加された方には釈迦に説法ですが、このことには きっと共感してくださるものと思います。

  2インチの双眼装置が数台エントリーしていましたが、もはや自作品とは言えない完成度でした。執念がもたらす 奇跡の好例でしょう。

  双眼装置と双眼望遠鏡の違いについては、単純な優劣ではなく、見過ごされ勝ちな点をご説明します。   第一夜に、山の稜線より昇るオリオンを居並ぶ粒よりの双眼望遠鏡で見ましたが、いつものように、頂の木々のシルエットと 薄グリーンに輝くM42の強調された距離感には心を揺さぶられるものがありました。これは鏡筒が2本あることで達成されるもので、 また、正立像とのセットで初めて実現するものです。

  視差が生じない双眼装置ではこの効果は発生しませんが、最初から 意図していないのですから、これは当然です。
  シーイングが極端に悪い時に敢えて数百倍を使用しますと、双眼望遠鏡では、わずか数十センチ離れた2本の鏡筒で像の揺らぎの 位相が異なるため、合像に支障をきたす場合もあり、この点では双眼装置が有利です。

   ビームスプリッター等の光量ロスを無視しますと、「√2倍の口径の単体鏡筒+双眼装置で双眼望遠鏡と等しい集光 力が得られる。」、というのが大方の双眼装置派の推進原理であるようです。 ただし、BINO換算同等単体鏡筒+双眼装置では(同倍率では)瞳径も常に√2倍になってい るので、有効最低倍率も√2倍になります。

 全体的に、自作(メーカー品のカスタマイズを含めて)のレベルの向上には目覚ましいものがありました。 各自がそれぞれの分野で去年より確実に進化した物を持ち込まれますので、また来年が楽しみでなりません。



2003年10月12日


良い事続き

     昨日昼食を取っていたら電話が鳴り、若い女性の英語の声、直ぐにナンシー(仮名)(先日コメントした、一緒に屋上で火星を見た米人 夫妻の娘さん)だと分かった。 これからこちらに来ても良いか、という内容で、もちろんOKと答えた。

  数分後に現れた彼女の手には私の娘へのプレゼントの品、先のスピーチコンテストの優勝のお祝いだった。    レザー調の素材で出来た可愛い円筒形の容器の中には、10mmほどの小さなティンカーベルと金色の☆が付いたネックチェーン が入っていて、娘は大変喜んだ。

  娘の優勝の喜びを彼女の父親にメールで伝えていて、返事がなかったのだが、彼はそれを日本にいる娘に伝えていたのだ。  その頃彼のプロバイダがダウンしていて、私への返信をしそびれたらしいことも分かった。

 今朝、1台のタクシーが両親を迎えに来た。二年前に死んだ姉の友人(先輩)の女性が祭りに招待してくださったものだ。    去年は丁重に遠慮したようだが、今年はお受けしたようだ。この方は、姉の医学部時代の卓球部の先輩で、自分自身も 郡部で内科を開業しておられ、多忙にもかかわらず、何かと私の両親を気遣ってくださる。 昨今、自分の親すら大事にしない風潮 の中、手を合わせずにはおられない。

  今年の望遠鏡サミットは飛行機で行くことにした。ただ、こちらでは名古屋便は日に一便しかなく、 名古屋空港着が15時を過ぎてしまうので、今年は会場まで便乗させてもらうのは無理かな、と思っていた ところ、S氏が快く空港での出迎えを約束してくださった。

  とかく、思うように行かない人生だが、まんざら捨てたもんじゃない。^^;

 


2003年10月3日


収穫の秋

    Global なコミュニケーションの手段としての英語の重要性が言われ始めて久しいのですが、 まずは親が見本を示さねば、という気持ちから、この夏に私は英検準1級に挑戦し、合格しました。

 これは自慢ではなく、娘の英語教室の先生の19歳の息子さんが同じ回の検定で1級に合格された のと比較し、早く始めることの重要性を改めて認識させられました。先生は息子さんを3歳の時から教え始めたのだそうです。

  小3から先生にお世話になっている中2の娘が、9月28日の(旺文社)LL英語教室スピーチコンテスト鳥取大会と、昨日(10月2日)の 高円宮杯の鳥取県東部地区大会(中2の部)でそれぞれ優勝し、親子共々一息ついています。 もっともLLの中国大会や 英検準2級の受験が控えているので、あまりゆっくりはしておられませんが。

   娘の従兄(高2)にも英数を教えており、BINOのバックオーダーと共に、休む暇のない松本です。^^;



2003年9月29日


EMSの種明かし

 それでは、お約束通り、EMSの種明かしをさせていただきます。

 まず、EMSの光路は、立方体を3つ直列に繋いで出来る正四角柱の1側面の一つの頂角 から同じ側面の対角に至る最短路です。 ただし、経路は他の3面を通るものとします。(1図: 赤い線が光路、青い線がそれぞれの反射点での反射面の法線)

  EMSを手前から見た時、視線に垂直な平面に投影した第1反射光線(2つの反射点を結ぶ直線)の傾斜角を α とすると、tanα =1/√2(白銀比)ですので、規格 紙の対角線の傾きと同じです。このαは、x-y調整ノブの配置の位置角にも重要な意味を持ちます。

  さらに、β=2α こそ、EMSのユニット間のねじれ角で、cosβ=1/3 というシンプルな数字で表されます。

  α、β の2つの角度がEMSを決定する重要な要素ですが、これらの角度は、B5,A4等の規格紙から完璧に再現できます。

  


2003年9月26日


地震お見舞い

 北海道、東北方面のユーザーの方、及びBINOのご無事を祈っております。



2003年9月25日


東亜天文学会 (於:佐治アストロパーク

 今週の土日(27,28日)にかけて、佐治アストロパークで東亜天文学会が開催されます。   アストロパークからの依頼で、土曜日の夕方(27日17時頃~)に20分ほど、私がお話を させていただくことになりました。 もちろん、テーマはEMSです。

  今回は、EMSの光学的な骨格を視覚的に解りやすくご説明しようと思っています。 EMSの基本的な角度の要素は、全てB5,A4等の規格紙の比率の中に隠されており、極めて簡単、明快に 再現できます。参加者の方々に受けるかどうか分かりませんが、初めての種明かしですので、 反応が楽しみです。
(もっとも、EMSやEMS-BINOの認知も関心も現在までは”物”に対するものが主のようで、 問い合わせの方々のご質問も、合焦の可否等が主であり、原理に関する問い合わせはほとんど皆無でした。 退屈されないように、SCHWARZ150S-BINOを1台持って行くことにします。) 

  学会が終わりましたら、要約をここでもご紹介したいと思っています。



2003年9月8日


遠来の訪問者

 マツモト天文台?には、遠くは北海道、九州からまで、今まで数多くの訪問者がありましたが、9月5日の訪問者は、 はるばるアメリカ(合衆国)から見えた方々でした。

 2週間ほど前、中年の白人夫婦が私の店に通りがかりで入店されました。その日は、特殊な構造だったご主人のメガネの鼻パッドの交換には 応えられなかったのですが、何か親近感を感じる方たちで、しばし歓談して別れたのでした。
  こちらで英語教師をしている娘さんの両親で、お父さんは仕事の都合で2週間ほどしかいられないが、お母さんは1か月こちらに滞在するとのことでした。

  そのご夫婦はその後も何度も来店され、互いに意気投合、長年の友人のようになりました。   ご主人の仕事は気象関係で、現在は合衆国の家を離れて、勤め先の南太平洋の島に在住しているとのこと。
  奇しくも、去年亡くなられた奥さんのお父上は宇宙関係のパーツを製作するエンジニアだったそうで、ボイジャーに積み込んだ撮影機材 の部品の加工も担当されたそうで、お家には土星等の天体写真がたくさんあるとのこと。 また、成人した息子さんを亡くしておられ、 息子さんの写真を私の母に見せながら一緒に目を赤くしておられました。

 そんな経緯で一緒に火星を観望しようということになり、今月5日にマツモト天文台に招待した次第です。   その日は、こちらにいる娘さんと3人で見え、上弦の月と火星、代表的なM天体を満喫されました。
   皆、感動をストレートに表現されるので、こちらもエキサイトし、充実した時間を過ごしました。   娘さんは大学で天文も学んだそうで、「**教授に話すよ。絶対興味を持つはず。いや、すでにあなたの事は知っているはずだ。」 と言っていました。   超可愛くて溌剌とした娘さんで、しかも、アルカトラズ島と対岸を泳ぎ切るほどのスウィマーでした。

 私の娘もコンテストを間近に控えた英語スピーチを読み上げ、喝采してもらいました。

 


2003年8月27日





BORG125ED-BINO

 久しぶりにBORG125EDでBINOを仕立てました。    依頼者の方の希望で、合焦ストロークを延ばす必要が生じ、アイピーススリーブにラックピニオンを 追加しましたが、操作性が良く、正解でした。
 本体のヘリコイドは大加重ではスムーズさをやや欠くので、事前のバックフォーカスの調整用とし、 実際の合焦操作はもっぱらスリーブのラックピニオンを使用します。


2003年8月21日


Woo Pinn

I'd like to share a true story with you that has been handed down from my grandpa to my father and then to me. It's a story of a man who was a very good customer of my grandfather's. At that time my grandfather dealt in watches, jewelry and phonographs and whenever a new recording was released the man would be the first to order it.

The customer was a very considerate and refined middle aged gentleman living alone. He had a profound knowledge of music and he usually called the shop for delivery just before noon. All of the staff used to scramble for this delivery because he would always invite the staff member into his house to listen to the new recording and then realizing the time, would ask the lucky employee to lunch.

He always had everything delivered. All the neighborhood shops were happy to come to his home and were always treated the same way. However, no one really knew what he did for a living.

One day the kimono shop owner asked him. "Do you mind telling me what it is you do for living?" He went to the closet and took out a wad of ten-yen bills, which today would be the equivalent to ten thousand yen bills. He then said, "Watch." And lit the note. Before the note burned completely he put it out and gave the remaining half to the kimono shop dealer. "This note is so perfectly made no one has ever detected it to be counterfeit. "He then instructed the dealer to take the half a note to the bank to exchange it for a new one.

The shop owner rushed to the bank and was amazed when the bank, asking no questions exchanged the damaged bill for a new, genuine one. He immediately went back to the man and asked how he had done it. He answered, "A man called Woo Pinn made the counterfeit bills in Korea. If you send him 100 yen he will send you back 200 counterfeit yen. This is how I have such a luxurious life style without working." The next day, the kimono shop owner handed him 100 yen.

But after a few months when the money still hadn't arrived, the shop owner pressed the man for the money. He replied, "The Genkai Channel is too rough to sail at this time. Please be patient a little while longer." Finally the kimono shop owner could no longer pretend to himself, he had to admit that he had been swindled out of 100 yen! He knew he couldn’t go to the police because he, himself had been involved in the crime.

The man was eventually arrested for swindling and he went to prison for a long time. However this was not the end of the story.

By the time he got out of the prison he was an old man. Soon after his release he became blind. The man seemed to have given up his life of crime and he sometimes had a visitor. One day he said to his visitor, "I have done a lot of wicked things in my life and have cheated many people, but from now on I am going to spend the rest of my life peacefully." He groped around in his closet and came out holding several gold bars. He then said, "These are the last of my ill gotten gains and since I have no way to make a living, I will have to part with them. Would you buy them for whatever price you think they're worth?"

The visitor was extremely pleased with himself until which time he found that they weren’t pure gold bars but gold plated lead bars. Of course the man was arrested but the police found that he had committed no crime. When the police questioned him the man replied, "I never said it was gold, just that it was all I had left from my previous life of crime."

 テレビが我が家に入ったのは私が小学校4年か5年の頃なので、それまでは子供たちは父の話を楽しみに 聞いたものでした。   上の話は、祖父から実話として語り継がれて来たものですが、今となっては、どこまでが事実で、どこが脚色されてい るのか知る由もありません。 ただ、少なくとも登場人物はウー・ピン氏以外は全て実在した人たちです。80年も昔の話であるため、当事者は全てずっと昔に故人に なられているので、公開しても差し支えないと判断いたしました。

祖父は、時計貴金属の他、その時代の先端の物はほとんど何でも取り扱いました。”ラヂオ”(当時はそう綴った)も取り扱い、納品に行くと地域の人たちが大勢集まったと聞いています。 寒い冬でも、電波が良く入るようにと、その家の人は障子を開け、「中に小人が入っとるだらあか?」と言う見物客あり、また雑音が 入ると「これはアンテナに雲がこすれる音だで。」と言う者もいたそうです。

これは、そんな時代に実際にあったお話です。   当時、祖父は蓄音機やレコードも扱っており、そのお客の中に、一人の初老の紳士がいました。 新しいレコードが出ると、その紳士は決まって昼前に電話を入れ、配達を依頼するのでした。 店の奉公人が配達に行くと、 レコードをかけさせ、しばし目をつむって耳を傾け、頷くと、いつも値切ることなく現金を支払い、時計を見ると、「ああ、もう昼だね。 食事をして行きなさい。」と言い、その幸運な奉公人は豪華な食事を振る舞われるのでした。だから、その紳士への配達は奉公人たちの間でいつも奪い合いに なっていました。

  近所の呉服屋さんも同様の恩恵に与っていたそうで、そこのご主人はその紳士の人柄に惚れ込んでいました。 ある日、その呉服屋の主人は思い切ってその紳士に聞きました。「よろしければ、お仕事をお聞きしても良いですか。」

  すると、しばらくの沈黙の後、その紳士は押入から十円札の大きな札束を出し、中から1枚抜き取ると、それに火を付けたのです。 それが半分ほど燃えたところで、慌てることなく火を消しながら言いました。「これは偽札だが、非常に良く出来ていて、まだ一度も見破られた ことはない。嘘だと思ったら、この燃えさしを銀行に持って行ってみなさい。」

  言われた通りに、その呉服屋さんがそれを銀行に持っていくと、行員は全く疑うこともなく新札と交換してくれました。 呉服屋さんがその新札を手に紳士の所に戻ると、その紳士は言いました。 「この偽札は、朝鮮でウー・ピンという者が作っていて、百円を渡すと、その偽札を二百円くれるのだ。私が働きもせず、こうした 暮らしがしておれるのも、これのお陰だ。」

  完全に信用してしまった呉服屋の主人は、翌日その紳士に百円を渡しました。    しかし、2ヶ月経っても、3ヶ月経ってもお金は返りませんでした。 痺れを切らした主人が催促すると、その紳士は その度に「今、玄界灘が荒れていて、船が出せないので、もうしばらく待ってくれ。」と言うばかりでした。   そうして、その主人はやっと騙されたことに気付いたのでした。

   やがてその紳士は警察に捕まりました。 そして長い刑務所生活から戻ると、もう老人になっていました。 そして出所後間もなく、 失明してしまいます。 しかし、話はこれで終わりではありません。

  その紳士には、もって生まれた魅力があったようで、失明しても、人が自然に彼を訪問するようになりました。 彼は訪問者の一人に言いました。「わしも長い間、人を騙して来たが、こうして明かりも失った今、余生は平穏に暮らしたいと 願っている。これは、最後まで持っていようと大切にしていた物だが、生活のためには手放さざるを得ん。」と言いながら、 手探りで押入から何かを取り出しました。
 それは金色に輝く数本の延べ棒でした。「いくらでも良いから、あんたが思う値段で買い取って くださらんか。」と言われた訪問者はにんまりとしながらそれを言い値で買い取りました。 ところが、それは鉛に金メッキをした 物でした。

  その盲目の紳士は警察の尋問に答えて言いました。  「わしは、これが金だとは一言も言っておらん。ただ、長い間大切にして来た物だと言っただけじゃ。」    確か、この件についてはこの紳士にお咎めはなしだったと聞いています。^^;

80年も昔、テレビも無い頃、しかも大都会ではなく、地方都市で、何ともあざやかな詐欺事件ではありませんか。^^;

            


2003年8月18日




姪が来た。甥が来た。

 上の写真は1974年春、飛行機の中は満2歳に満たない姪、愚かな逆立ち男は私、 カメラのシャッターを押しているのは今は亡き姉。  姉夫婦は学生結婚で、鳥大医学部は米子市だったため、姪は3歳頃まで我が家に預った。
 姉は週末だけこちらに来ていて、写真はその時に近所の公園で撮影したもの。
 その日は風が強く、公園には他に誰もいず、 今思えば、下にいるのが娘で、家内がカメラを持っていたら、決して許さないシテュエーションだ。^^; (確かに、鉄パイプは細くしかも湾曲 していて、慣れた平行棒の感触とはまるで違っていた。^^;)

 遅れ馳せに一念発起して受験勉強をしていた私も、父親業のリハーサルに転じた。せがまれて毎日のように通った公園だ。

 一月前にこの姪が、この盆休みには一つ年下の甥が来てくれた。 姪も甥も両親と同じ眼科医の道に進み、今勉強と修業に励んでいる。    甥が初めてフィアンセの写真を見せてくれた。同じく眼科医のフィアンセはとても綺麗な人で、不思議な因縁を感じた。 悲しい事も運んでくる無情な 時間だが、今回は嬉しい感慨に浸った。

  
         

2003年8月3日


2003佐治アストロパーク星祭り報告

  昨日(8月2日)、例年通り、佐治アストロパーク星祭りが開催されました。   昨日は最初から好天に恵まれましたが、深夜になるほどさらに空の状態が良くなりました。 肉眼で北アメリカ星雲が見える空で、26時頃には火星のシーイングもかなり改善し、久しぶりの星三昧に浸ることが できました。

  関西方面からの星見ツアー客の方を含め、大阪や九州方面からEMS-BINOを目当てに来られた方とご一緒に、 イベント終了後からずっと26時過ぎまであらゆる天体を堪能しました。

  火星の南中時間がまだ遅く、地元の日帰りの方々の多くには、低空の悪条件下でしか火星をお見せ出来なかったのが 残念でした。 ただ、月齢の若い月が夕方に見えていましたので、初心者の方には喜んでいただいたようです。

  集合したEMS-BINOは、80mm(achro.)-BINO, 120S-BINO,ED102S-BINO(山内さん) と、私のFS102BINO(on EM-200)でした。

 また、前日に入荷したばかりのED5.2mm(笠井トレーディング;前日の晩に愛機の 15cmホタロンで確認済みでしたが)を持ち込み、複数のマニアの反応を見てみました。

 私のFS102BINO(on EM-200)(158倍)と山内さんのED102S-BINO(177倍)にセットして多くの方に見ていただきましたが、 どなたもシステム全体のパーフォーマンスと共に、アイピースの優秀さに驚いてくださったようでした。

  アイピースの評価は個人の嗜好に依存する部分が多いので、断定的な評価は敢えて下しませんが、少なくとも、 昨晩試されたマニアの方々の高い評価を得たこと、私の好みのアイピースであることをご報告します。   ED硝子を使用し、諸収差を抑えながら20mmのロングアイレリーフを達成しているアイピースで、1万円を切る価格は驚きです。   中心像のシャープさ、ハイコントラストはもとより、周辺像もかなり良く、フリーストップの経緯台で流して見ても 不快感なく視野から逃げる(日周運動で)のを見送ることができました。

  簡単ではありますが、帰宅直後の感想をまとめさせていただきました。    最後に、県外よりご参加くださった方々、会場でお世話になりました佐治アストロパークの研究員、鳥取天文協会 のメンバーに深くお礼申し上げます。





2003年7月25日


地震お見舞い

宮城県及び近県の方、大きな被害がなかったことをお祈りしています。

また被害があった場合は一刻も早いご復旧をお祈りします。

 




2003年7月21日


新型150S-BINO実視テスト

 新型150S-BINOが初めてドイツに上陸することになりました。  SCHWARZ鏡筒は、常にその価格を超えた性能を発揮し、実際光学的な性能についての クレームは今日まで一切ありません。地上の遠景で光軸をチェックしながら事故品で ないことは確認しますが、一台ごとに好天夜を待って実視テストをすることは、納期をさらに 延ばすことになるので実施していません。

  ただ、今回は海外の方のたっての希望であり、また新型の使用感を試してみたいという私自身の 気持ちもあって、梅雨の晴れ間を待って屋上での実視テストを実施してみました。   ドイツの方の最後の決断の決め手になった、そのテストの結果報告をご紹介します。

  英文を最初にご紹介するのは、最初に英文で考えてまとめたからであり、その時の感想がよりリアルに 伝わるという意図によるものであり、他意はありません。後に要約を並記しておきます。


Last night, being blessed with an unbelievably clear night sky after quite some time, I successfully conducted the star test.

Even though I am in very good shape having once been a body builder, it was very difficult indeed to carry the BINO up the three flights of narrow stairway from my shop to the rooftop of the building. However, the fruits of my labor were dearly rewarded.

At first I watched the double-double stars in Lyra to discover that they are seperated by a seperation of an equivalent to an airy disk by the 4mm eyepiece,188x.

Although the in and out star image test did not show the perfect feature, the pair(right and left tubes) showed an almost identical feature.

Also by using the UW6.7mm, 112X. the globular cluster M13 showed stars practically to the cluster's center. Isn't it amazing, considering that it was witnessed from a well lit city center?

My daughter was delighted when she saw a pagoda shaped monument lighted up on top of a small mountain several kilometers away using the 4mm eyepiece,188X. There were no unpleasant aberrations except for a moderate purple halo surrounding the mercury bulb of the lamp lighting up the monument.

要約

  人力で長距離運搬をすることは設計に意図していないので、150S-BINOフルセットを一人で、1階の店舗から3階屋上 まで狭い階段を経て持って上がる のは結構大変でした。腰を痛めるのを恐れながら、高く挙上しながらなるべく腕力に頼って持って上がりました。

  7月16日の夜は、梅雨の合間の奇跡的な快晴でした。   まずは、依頼者の関心事であった高倍率性能を見るため、琴座のεを見ました。 この日はUW6.7(112X)では 確認しずらかったものの、旧AV(VIXEN)4mm(188X)では、2組みのディスクが、それぞれ丁度エアリーディスク1個分の隙間を開けて 綺麗に分解して見えました。

 焦点内外像は完璧に一致していませんでしたが、左右の対物の傾向はほぼ合致しています。

  この日は透明度が良く、ウチの光害の空の下でも、M13がUW6.7(112X)で中心部付近まで分解していました。

  数km先の山の頂上の、ライトアップされた平和塔を娘が見て歓声を上げました。   4mm(188X)で見ても不快な収差を感じず、強いて言えば、水銀灯の球状の電球の回りに紫色のハローが出る(これは当然) くらいで、この倍率でイメージのシフトが皆無の新型合焦装置と相俟って、非常に快適でした。

   





2003年6月25日


折り畳み式車椅子

 ずっと前からお話したいと思いながら、きっかけを逃して来た話をご紹介します。

 もう7,8年前になりましょうか。 私の店に次のような電話が入りました。
「EMS-Lを店頭で確認して求めたいのですが、現物はありますか。」という問い合わせでした。
最後に、「店は1階にありますか。車椅子で入れますか。」と聞かれましたので、問題ない旨をお伝えしました。   その時は、脚に怪我でもされたのかな、と思っていました。

   数日後、店の前に1台の車が止まりました。 直ぐにあの電話の方であると直感し、店を出て車の前に立つと、 やはりその方でした。 何と、その方は、神戸から特別仕様車をたった一人で、手だけで運転して見えたのでした。

  そのまま私はその方を裏の駐車場に導きましたが、私が本当に驚いたのは、その後のことなのです。  その方は、車を止めると、自分のシートを180度倒し、反り返って後部座席に置いていた折り畳み式の車椅子を腕の力だけで持ち上げると、 運転席の直ぐ外にそれを組立て、あれよあれよと言う間に自分の両脚をタオルで縛り、まず両脚を荷物のごとく先に車椅子に納め、 完全に自力で車椅子に乗り込まれたのです。 私がした事と言えば、この方の自作のケースに納まったFS102鏡筒を持って店までお供をした だけでした。

  店では、私も手伝って低いポジションにFS102鏡筒をセットし(確かカメラ三脚を使用した)、EMS-Lを装着され、ウィンドウ越しの景色で合焦や 見え味を確認され、大きくうなづいて購入を決断されました。 それからしばらく歓談して、帰り際に、「来てみて良かった。」と しみじみとため息のように言われた言葉が忘れられません。

  阪神淡路大震災の直後でしたので、被災によるお怪我かと思い、お聞きしてみたら、その前に交通事故に遭われたのだそうで、 震災は、病院の中で闘病中だったとのことでした。胸から下が全て麻痺されたこと、想像を絶する体と心のリハビリがあったっことを知りました。

  以来、何かと理由を付けて行動を保留し勝ちな、私自身への戒めとして、私はこの方の事を心に深く刻んでいるのです。


(In English; 6/16, 2014)

Folding Wheel Chair

I would like to share with you an unforgettable experience in my work.

It was seven or eight years ago when I recieved a phone call from the first customer asking "Do you have an "EMS-L" in stock? I would like to buy it at your shop and take it home." And he asked in the end, "Is your shop on the ground floor? And can I get into your shop in the wheel chair?"
I simply thought at that time he had a wound on his leg or something.

A few days later, a car stopped in front of my shop. I immediately thought it must be he, and went up to the side of the car to find I was right. Alas!! he drove all the way from Kobe in the speciallized car with his hands only!

Then I guided his car to my parking space, and I will see what I am really amazed by. The guy stopped his car at the right place and then fully reclined his back rest by 180 degrees and leaned back to seize a folded wheel chair on the rear seat and lifted it to put on the ground just by the opened car door and quickly unfolded the wheel chair just like an umbrella. Then he bundled his legs by a towel and he took his legs just as if they were a luggage and into the wheel chair, and he finally got into the wheel chair all by himself.
What I did was only to take his FS102 Telescope in the case and accompanied him in the wheel chair to my shop.

In my shop, he set up the telescope on the tripod at the lower position with my assitance, and he attached the EMS-L to his telescope and watched the upright and vivid image of the nearby landscape for a while, and saying " It is nice!!.", he finally decided to buy it.
Having a pleasant conversations after that, and I can never forget his last word he murmured with a sigh ,"I was right to come!"

It was just after the Hanshin-Awaji Earthquake, and I thought he was the victim of it, but he wasn't. He told me he had a car accident before the catastrophe and he was on the hard rehabilitation in the hospital when he met the earthquake. He was paralysed from the chest down and I knew he had gone through unimaginable despair and painful rehabilitations.

Since then I take this story to my heart to keep up my motivation ever to proceed.

   



2003年6月12日





悪役俳優、Bolo

 昨晩、久しぶりに”燃えよドラゴン(Bruce Lee 主演)”がテレビで放映されました。
   悪役で登場したBoloの若い姿が懐かしく、彼との希有な出会いを思い出しました。

   写真は、1989年に鳥取市で開催されたボディビルアジア選手権のお別れレセプションで撮影されたものです。   鳥取市への同選手権の誘致は、実質上の主催者兼、選手であった小山裕史(やすし)氏(アジアチャンピオン)の世界的な 知名度と並外れた努力と、ボランティアの協力で実現したものです。(同年開催の世界おもちゃ博覧会との関連で市の後援が得られたのも幸運でした)   当時氏のジムのメンバーであった私も通信文の英訳(当時はFAX)や通訳で協力しましたが、大阪空港で各国の選手団を出迎えた ことが、今でも鮮明に思い出されます。

  数台のチャーターバスに各国の選手団を乗せるのですが、予算の関係で1国1台というわけには行かず、到着時間が大きく異なる 二国のチームを1台のバスで送るのに、大変な苦労をしました。 (韓国選手団の遅れでイラクの選手団を3時間待たせないといけないはめになった 話は別の機会にします。)

  イラクと韓国のチームをやっとの思いでバスに乗せ、これに乗ってやっと一緒に鳥取に帰れると思いきや、 本部からの指令で、私はその後に到着する台湾とパキスタンの選手を乗せて帰ることになったのです。

  台湾とパキスタンの選手団をバスに乗せると、緊張がやっとほぐれ、最後部で隣に座っていたパキスタンのヘビー級の選手とずっと歓談 して帰りました。 その時、台湾チームの中に私たちの会話の魚になった人が一人いたのです。

私    : 「Bruce Leeの”燃えよドラゴン”(Enter the Dragon)を見たことがあるかい?」
パキスタンの選手:「あるけど・・・?」
私    : 「あの人、あの悪役に似ていない?」
パキスタンの選手: 「本当だ、そっくりだ!」

  といった具合で、互いの膝を叩き合って大いに笑ったのです。

  その話題の主は、台湾のチームリーダーの一人でしたが、喋らず、笑わず、闘争的な体型に乗った牛のごとき首には太い金のネックレスが 巻いていました。 ただならぬ殺気を感じ、まさに”歩く凶器”の印象でした。^^;

  それが本物だったことが分かったのは後日のことでした。 本物と分かってからも、しゃべらないし、名刺もくれないし、写真も撮られたくなさそうな雰囲気で、全く取り付く島もない 感じで、結局、香港の俳優だと思っていた彼がどうして台湾のチームリーダーだったのか等も聞けず終いでした。   上は、「絶対に笑わせて見せるから、見てなよ。」と同僚のボランティアスタッフに言って、撮らせた写真です。彼が最初にして最後に見せた笑顔です。    ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。名刺はくれなかったけど、ボランティアスタッフ用の私の赤い法被の背中に、 大きな字で”BOLO”と書いてくれました。

 ともかく、地で行く華麗な悪役俳優でした。

(写真を勝手に掲載したので、殺しに来るかな?)

  




2003年6月1日


勝ち逃げ姉ちゃん

  服部さんの掲示板でYさんの訃報を知りました。 私はYさんとは直接の面識はありませんでしたが、 去年の望遠鏡サミットに参加しておられた方だそうで、人事と思えず、驚きと悲しみを禁じ得ません。もしや過去に問い合わせの メールをいただいていたかも知れん、と思い、数千の受信メールを検索しましたが、ありませんでした。

 近年、平均寿命の延びとは裏腹に、中年で逝ってしまう人が多いように思えてなりません。一昨年に姉が逝った時、古いお客さん の所に喪中葉書を書いていたら、先に先方から喪中葉書が届き、姉よりも若かった一人息子さんを失っておられたことを知りました。   その後も、同級生を含め、多くの身近な若い死に出会いました。

  私の4人の祖父母は皆80歳前後まで生き、概して長寿の血統でしたが、姉の死を期に、自分も明日は死ぬかもしれない という意識が現実味を帯び、生きることへの建設的な緊張感を与えてもらったような気がします。   Yさんのご遺族の悲しみはいかばかりかと思いますが、先に逝った者からの啓発を得て、力を合わせて生きることが 残された者の務めではないでしょうか。   Yさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

  "too personal"の感もありますが、姉が癌を再発した時のメールをご紹介します。このメールの約1年後に姉は逝きました。   死の直前までの交換メールは、まだ整理出来ていません。 姉の体力の衰えと共に、次第に内容が踏み込めなくなり、姉弟でありながら、 謎の部分も多く残してしまいました。   姉は再発を知った後、2度ほど渡航し、自分の亡骸の散骨の場所を決めており、死後義兄と姪によってその望みは果たされました。

    ***********************************
姉からのメール;

タイトル名:ちょっとした出来事

龍郎さま,

友達が今朝,すばらしい詩を読んだからとメールしてくれました。

大きなことを成し遂げる為に
力を与えて欲しいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた

幸せになろうと富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

求めたものは何一つ与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せないものは全て叶えられた
私はもっとも豊かに祝福されたのだ

............

いい詩でしょう!

  彼女は,私が今日入院とは知らずに送ってくれたのですが,なによりのはなむけでした。 言いにくくて今まで隠していましたが再発して入院しました。
 私のステージ(1c) では,13%しか再発しないのにその中に入ってしまいました。それも二年以内が殆 どでもう大丈夫と太鼓判を押された矢先です。しかし,今度は初回認可されていなか ったくすり(タキソール)を使い根治を十分期待できるということですから,いたず らに心配しないよう両親にもくれぐれもお伝え下さい。
  明日から***ちゃんがきて くれます。点滴も初回は五日間しましたが今回は一日ですみますので格段楽です。病 室の電話は内線***です。***-***-****をまわすと”続けて内線番号 を押してください”というアナウンスが流れますのでプッシュホンならそのまま***を, プッシュでもダイヤル式なら米印を押して***です。私は今一番元気といっ てよいほどの体調ですし,気力も十分で何も心配していませんから,本当に心配しす ぎないで下さいね。
  では,もう一度先の詩を読んで,読めば読むほどいい詩でしょ う。こんなメールでごめんなさい。メールは病室で今までどおり受け取れます。で は,また報告します。皆様によろしく。

************************************




2003年5月29日


RG rays in the eye
Red-Green chart


Red- Green Test

  私たちの眼は、生体として、光学器械が真似の出来ない 生理的な機能を備えていることは事実ですが、純粋に光学的に評価しますと、 高級品ではないことを認めざるを得ません。

 眼科での眼底写真の撮影等のために、散瞳剤(瞳を広げる薬)を点眼されて、しばらく苦労された経験がおありの 方も多いと思いますが、私たちの眼は、絞り開放では、まったく使い物にならないほどの甚大な 球面収差を持っています。

  また、色収差も甚だしく、この性質を利用すると、眼の微妙なピントのずれを比較的客観的に 検知することが出来るのです。

  上のレッドグリーン指標でご自身の眼を試してみてください。(まずは単眼で検査した方が分かりやすいでしょう。)黒い二重線が赤のバックと緑のバックで比べて、 どちらがはっきりと見えるでしょう。輝度やコントラストの差に幻惑されないように、線(隙間)のシャープネスだけに着目します。 両方とも大きくぼかしてしまうと、区別が出来なくなります。

 また、特に初めての方は、ピントの前後をセットにして、レッドとグリーンのシャープネスが逆転する様子を見ないと分かりにくいかも知れません。 近視のメガネを掛けている方は、メガネを外し、遠点(はっきり見える一番遠い距離)付近でチャートに微妙に近付いたり離れたりして見ると レッドとグリーンの見え方(シャープネス)が逆転するのが分かるでしょう。

  読書距離で見て、明らかにグリーンの方がはっきり見えたら、老視の赤信号^^;です。 (近視の方は、メガネを掛けて見てください。)
 指標を拡大して3m以上離れて見た時に 赤い方がはっきり見えたら近視です。 また、読書距離で両方ともはっきり見える方でも、距離を近付けて行きますと、調節限界付近 からグリーンの方がレッドよりもはっきり見えるようになります。
  また、3m以上離れて見てグリーンの方が極端にはっきり見える方は、近視のメガネの度が強すぎるか、遠視である可能性があります。
  横線(縦線)だけがはっきり見えたら、乱視の疑いがあります。

  波長の長いレッドは波長の短いグリーンよりも焦点距離が長いので、それぞれの結像位置が微妙に異なることが、この検査を 成り立たせている理由です。(左の図は、弱度近視の状態です。)

 眼の屈折に関与する角膜、房水、水晶体、硝子体の組み合わせは、残念ながら色収差の軽減に対する(神様の^^;)配慮は全く見られません。 もっとも、明るい所では縮瞳(瞳が小さくなること)して極めて小口径であり、散瞳するのは暗い時で、眼の視力も落ち、色盲になっている(低照度下で活躍する旱状体視細胞は色盲) ので、アポは必要なしとのことなのでしょう。 

   




2003年5月14日



マリオット氏盲点


マリオット氏盲点

    双眼視の効果は議論する余地がないほどのものと思っていましたので、あまり具体的にコメントした 記憶がありません。 しかし、双眼視の効果が大分認識されるようになった昨今でも、やはり認識に温度差が あるようなので、今日は敢えてコメントしてみることにしました。

  今回はその中でも、意外に知られていない単眼の視野についてご説明します。  上の写真は右眼で、見掛け視界60度のアイピースで見た地上風景です。視野中心から右に約 15度の所に浮かぶ黒い楕円は何でしょう? 黒い風船ではありません。あなたが右眼単眼でアイピースを覗いている時、 ほぼこの黒楕円の範囲は何も見えていないのです。

  この盲点のことを”マリオット氏盲点”と言うのです。横幅で5度、縦幅で6度以上あるでしょう。これは、眼底の視神経乳頭 に当たる部分で、網膜の視細胞の一つを、眼底のお椀の表面に配置した光ファイバー1本の端面に例えると、全てのファイバーを束ねて お椀(眼球)の外に取り出す穴だと考えることが出来ます。

  上の画像は、60度の視野を想定していますので、実際の角度をシミュレートするには ずっと大きな画像が必要で、例えば55cmくらい離れたモニター上では、盲点の領域(画像の黒楕円)は2インチのバレル径くらいの面積に相当することになります。   この盲点は、かなりの面積で、20mも離れれば、自動車が1台すっぽり入りそうな大きさです。

  描画ソフトを使うと、自分の盲点を正確に描画することが出来ます。モニターの中央より少し左寄りに固視点になるような目印を 描き、左目を遮蔽し、右眼でその固視点から眼を離さないようにしながら、カーソルを少し揺らしながら固視点から右の方に 移動させて行きます。カーソルが消えた時点で直線を引き始め、カーソルが出始めたら引き終えます。その作業を異なる高さで 繰り返すと、自分の眼の盲点の領域が作図出来るわけです。(50cmも離れますと、盲点はモニターの右端に近い方に来るでしょう。)

  説明のために黒い楕円で示しましたが、盲点というのはそこに視細胞そのものが無い所ですから、黒い点とも、白い点とも 認識されるわけではありません。上の画像では、アンテナの背景の空に溶け込んでいて、盲点は本人にはほとんど認識できません。  また、認識できないが故に”盲点”であるとも言えるのです。
  潜在的に見る能力がある部分を遮蔽されて初めて黒点として認識 できる訳です。この事は、単なる理科的な興味だけではなく、私たちの認識の仕方の原点を鋭くえぐる、深い示唆に富んだ現象だと 思われませんか。 老人が、「わしゃ大分ボケてしまったわい。」と嘆いている間は惚けていず、「わしゃボケとらんわい!」と怒りだしたら ボケているのと似ていますね。^^;

 左眼だと、ちょうど対称的な位置に盲点が来ます。両眼視で初めて盲点が無くなる訳ですね。うまく出来ているものです。

   双眼視によるコンポジット効果で眼の解像度や視野の明るさが飛躍的に増すことを議論する以前の決定的な問題として、 この盲点があるのです。

 




2003年3月25日


T先生

 小学校の3年生まで、担任は女の先生が1年ごとに交代した。
当時の私は、生意気だったのか、女の先生のお遊技的スタンスが嫌でならず、先生の指導と うまく噛み合わなかった。もっとも、私は授業を妨害するような生徒ではなかったが、正直に言って、幸せな低学年を送った記憶がない。

 ?年生の時に、リズムに合わせた足踏みがうまく出来ず、皆の前で悪い見本でやらされ、先生に、
「まるで芝居の馬の足だ。」
と言われ、級友の喝采?を浴びた。

   先日、その女先生が数年ぶりに見えたら、数年前に肺癌で肺の大半を切除しておられ た。早期発見で転移が無かったとのことで、外観は非常にお元気そうだった。
  帰られる時に、 私のテレビ番組(夢をつむぐ人々)のビデオを渡した。

   それから10日ほど経った今日、先生が見終えたビデオテープにお祝いの祝儀袋を添えて返しに来てくださった。   両親にも、同じ小学校に世話になった、一昨年に他界した姉へのお供えにお悔やみの手紙を添付してくださった。
  ビデオの件は、先生は大変喜び、心から賞賛してくれた。 以前から”たっちゃん”と呼んでくださり、お客さんになっていただいていたので、小学校時代のわだかまりは すでに消えていたが、(お祝いをいただいて言うのではないが^^;)、この度改めて先生のありがたさを知った。

  先生についての想い出に、二つの強烈なシーンが浮かぶ。

  一つは、先生の豊満な”オッパイ”だ。山に遠足に行った日、気の合った友達同士で昼食を取りながら、 先生の姿が見えないのに気付いた。 2,3人の級友と一緒に先生を捜していたら、山道から外れた人目につかない所で、 先生がしゃがんでオッパイを出していた。吸引器のような物で白いお乳を吸い出しておられ、皆、目が点になった。   先生は慌てることもなく、
「オッパイが張るけえ、こうして吸いださんといけんだが。恥ずかしいけえ、誰にも言ったらいけんで。」
 と言いながら、その作業?を続け、私たちは最後までそれを見届けた。   先生は、その年、幼い子供さんを交通事故で亡くされていた。 その時は聞いたはずだと思うのだが、印象に残っていなかった。

 もう一つ、鮮烈に浮かぶシーンは、ガキ大将の生徒が先生に突き飛ばされているところだ。背丈は小柄な先生に匹敵する悪ガキが、 「かかって来い!」と言う先生に泣き震いで突進するが、何度突進しても先生にはかなわない。

 まさに体当たりの先生だった。 多くの親が自分の子供を育てるだけで顎を出している昨今だが、多くの人の子を育てて来た先生の偉大さを今さらながら 知らされた。  




2003年3月11日


情報発信の難しさ

  私にとっての情報発信の困難さの理由は主に二つある。一つは、物理的に発信内容をまとめる時間が取りにくいことで、もう一つは 発信した情報がなかなか意図した通りに伝わらず、表現に腐心することだ。今日は、後者について省察してみたい。

 情報の伝達には言葉が主役にならざるを得ないが、発信側と受信側が全く同一の辞書を備えていないために、どうしても 誤解が生じてしまうようだ。たとえば、白と黒だけの世界に住み、白と黒の概念しか持たない人にネズミの灰色を説明するのは難しい。「黒じゃないよ。」 と言うと、「じゃあ白か?」と来るし、「白じゃないよ。」と言えば、「じゃあ黒なのか?」と実にaggressiveな返事が返って来る。(家内との夫婦喧嘩 は大体このパターンである。^^;)

  最近は、さすがに「EMSにはプリズムが何個入っているんですか?」という質問は来なくなったが、EMSが60度のミラーユニット2個で構成 されていることに触れたところ、「60度だと天頂付近が覗きにくいのではないんですか?」という質問がよく来た。

  また、第一ミラー(望遠鏡側)を大きくする計画を掲載したところ、「これで40mmを越える超広角アイピースでもケラレなくなりますね。」という 激励のメールをいただいた。ケラレには、大きく分けて、口径食と視野の欠損があるのだが、この意味の違いをなかなか理解してもらえない。

  誤解を恐れずに大雑把に言うと、比較的対物に近い第一ミラーの径(特に長さ)不足は主に口径食の原因になり、アイピースの視野環に近い位置に配置する 第二ミラーの径不足はアイピースの視野のケラレに直接影響しやすい。従って、単純に大きなアイピースを使用したい場合は、 第二ミラーを大きくしないといけない。 しかし双眼の場合は、最小眼幅を60mmかそれ以下に する必要があるので、第二ミラーを大きくするには限界がある。

 現実には、対物の口径が大きく、F値が極端に小さく(F5等)なると、正立光学系を通して中心光束を確保するだけでも至難になる。口径がケラレないためには、あるいは、視野の周辺減光を少しでも緩和するためには、第一ミラー のサイズが重要になるのだ。 しかし、またこの説明で「旧モデルはケラレていたのか?」とか、「視野周辺が暗いのか?」という質問が来そうで怖い。^^;

  確かに情報というものは多いほど良いのだが、受け手側の処理能力との兼ね合いがあることを、最近痛感している。 ある一つの事を理解してもらうために、3つの説明を追加したら、新たに3つの疑問と誤解が生じた、ということもあるのだ。

  もちろん、大部分の方は非常に良く理解してくださっている、優秀な方ばかりだ。
 たまに意志の伝達に手こずると、どうしても 過敏に反応してしまうのは、自分の人間としての未熟さの至りだと反省もしているが、最近もweb上でEMS-BINOの調整のデリケートさを強調したところ、 店頭に受け取りに来てくださった初めての(BINO)ユーザーの方が、「このBINOのどこがペナペナなのですか?」と質問された。   情報発信は本当に難しい。(相川さんのご報告にもあるように、EMS-BINOは本当は単純、堅牢で、仮に狂っても復元容易なシステムなのだが・・^^;)     




2003年1月9日


近視眼と老眼(その2)

 昨日の補足をさせていただきます。
  網膜(の1点)から出た光束が(無調節時に)結像する点を遠点といい、遠点が無限遠にあるのが正視で、眼前の有限距離にあるのが近視、頭の(眼の)後ろに遠点があるのが、遠視であるとご説明しました。   上記が各屈折異常の正しい定義ですが、やはり見え方との関連をご説明しないと納得していただけないと思うので、それぞれの屈折異常 ごとの見え方について説明します。

  まず、正視眼で調節力が0(ゼロ)の場合、厳密には無限遠しかピントが合いません。ただ、幸いなことに、眼の焦点深度により、調節をしない場合でも 数メートル先まではボケを感じません。 調節力が旺盛な若年者では、難なく30cmくらいの距離まで細かい作業を継続することが出来ます。
  近視眼で調節力が0(ゼロ)の場合、やはり遠点しかピントが合いません。平均的なマイナス3.0Dの近視では、33cm付近しかピントが合いません。調節力に応じて遠点より近くも見え、同じ調節力だと、 正視よりも近視の人の方が、より近距離まで見ることが出来ます。

  遠視眼で調節力が0(ゼロ)の場合も、やはり遠点しかピントが合いません。ところが、遠視の遠点は虚像点なので、 現実の物体が発する光束が結像することはありません。
 つまり、遠視は、調節をしない限り、遠方も近くも見えないのです。  しかし、調節力が遠視度を超えて旺盛であれば、正視眼を容易に装う(自律的に)ことが出来るのです。

 眼の水晶体は、無調節時を基準にすると膨らむのが専門で、それ以下に薄くすることは出来ません。
 従って、近視の人が調節すれば、さらに強い近視を装うだけですが、遠視の人が調節すると、 遠視の程度を軽く装うか、完全に正視を真似たり、時には近視すら装う事が出来る訳です。それらは、全く無自覚に自律的に起こり ますので、本人には屈折異常の自覚が無い場合がほとんどで、 むしろ自分の遠方視力にプライドを持っている方が多く、現実を自覚させるのは至難です。
  しかし、異常が直ちに視力低下として表面に出る近視と、潜伏してしまう遠視と、どちらが眼の生理から言って本人に負担になっているかは、 この説明でご理解いただけると思います。
  つまり、正視眼→遠方視力が良い、というのは、正しいのですが、遠方視力が良い→正視眼というのは、必ずしも正しくないのです。 




2003年1月8日


近視眼と老眼

  今日も、40歳前の男性から、「近眼(きんがん)は老眼(ろうがん)にならないのだそうですね。」と、お決まりの質問を受けました。 私がいつものように、「いえ、そんなことはありません、正視、近視、遠視、乱視とは全く無関係に老視は起こります。」と言いますと、 「近視の人に老視が出ると、その分、近視の度が良くなる(治る)のですね。」と、やはりお決まりの質問(確認)が返りました。

  他には「乱視ってどんなものですか?」というのもあります。 私は性格上、その都度懸命に詳しく説明するのですが、30年間説明し続けて、 一般の眼に対する誤解は一向に改善しないことを痛感しています。
  その原因を自分なりに推測してみました。
   まず、一般の方は、眼の屈折状態の分類を、見かけの症状(それも誤った)を無理矢理 当てはめて理解しています。(理解していると思っている)たとえば、「熱が出たから風邪だ。」というように。  
 それから、近視、遠視、乱視を理解するには、正視の仕組みを理解する必要があるのですが、「視力が1.0以上あるのが正視だ」という短絡的で 頑迷な理解に固執しているために、いつまでも真の理解に至らないのです。 つまり、知識が乏しいのが問題なのではなく、「自分は理解している。」という傲慢が 真の理解を妨げるのです。 お客さんの質問は、いきなり「乱視って何ですか。」と性急に来ますが、これは足し算も引き算も出来ない人が「割り算を教えて」と言っているのと同じなのです。 足し算と引き算が出来ないのが問題なのではなく、それが出来ると信じていることと、足し算からの説明を根気良く聞こうとする姿勢が無いことが問題なのです。   何かが理解できない時、人はその事ばかりに固執しますが、理解できない原因はその前のより基礎的な部分を誤解していることにあるのです。

  恐らく、この文章を読みながら、「私に限っては分かっている。」とつぶやいている方もあることでしょう。 でも本当にそうでしょうか。 光学的な事に強い方は、平行光線がそれぞれ、網膜上、手前、後ろ、に結像する眼の光路図を思い出しておられることでしょう。  しかし、この光路図をたとえ十年眺めていても、眼の屈折状態の定量的な理解には至らないのです。

  それでは、どんな光路図を描けば、眼の屈折の事が理解できるのでしょう。それは、網膜の中心窩(視線が貫く所)から逆進する光束の 光路を描くことです。 ただし、水晶体が調節をしていない状態が前提です。

 正視眼では、網膜上の1点(中心窩)から出た光束は角膜を出ると平行な光束になって出て行きます。 近視眼では、眼の屈折力(調節力ではない)が強すぎるので、網膜からの発散光束は、平行より余計に収斂され、眼の前の有限距離に結像します。この結像点(遠点)と眼(正確には矯正レンズ装用位置)までの距離(m)の 逆数が屈折異常の度数であり、近視の場合は符号をマイナスに取ります。従って、焦点距離が遠点距離と等しいレンズを眼の前に装用すれば、無限遠の物点の虚像が遠点に出来るので、その屈折異常は補正されることになります。これは後に説明する遠視でも同じです。

  遠視の遠点は眼の後ろの方にあります。つまり、無調節状態では、遠視眼では、網膜上の1点から発散する光束が角膜を出ても、眼の屈折力が弱いので、平行光束になるまで光束を収斂させることが出来ず、程度の弱まった発散光束として 出るので、網膜の像は実像を作らず、虚像が眼の後方に結像するのです。

  さて、それでは、乱視とは何でしょうか。 上記の光路図は、全て平面上で考えていますが、実際には眼は立体的なものです。眼を視軸に沿って切る断面は、その経線の取り方で無限にあることが理解いただけると思います。 そのどの経線による断面でも同じ屈折状態を示す保証はどこにもありませんね。実際にもそうで、厳密にはだれしも多少の誤差を持っているのです。ラグビーのボールを想像していただけば結構です。 カーブが一番強い方向と一番弱い方向は常に直交しています。 軸方向は常に水平垂直とは限りません。 たとえば、近視性の乱視の場合、横断面が-2.0D,縦断面が-3.0Dだった場合、その差の-1.0Dを、便宜上、乱視と呼ぶのです。  従って、”乱視”なる不可解な物が近視や遠視の上にこぶのようにくっついているのではなく、近視もしくは遠視の、眼の経線による誤差を乱視として表現するわけです。

  以上が屈折異常の説明です。 では”老眼”はどうでしょう。 老眼は屈折異常ではなく、加齢による調節障害なので、上記の屈折異常とは全く無関係であり、次元が異なるものなのです。 近視の対極は遠視であり、老視は全く異次元の問題なので、1Dの老視が出ても、-3.0Dの近視が-2.0Dになることは決してありません。

 非老視眼では、上記のどの屈折異常眼であっても、眼鏡等で遠点を完全矯正した状態で、近くもはっきり見ることが出来ます。調節力が衰えると、近業の時だけ、その不足分を凸レンズ成分で助けてやる必要があるのです。 もちろん、遠方視の時には、直ちにその付加分を取り除いてやらなければなりません。         




2003年1月5日


  今日、中1の娘が来月9日に東京で開催される、全国ジュニア英語スピーチコンテストへの出場権を獲得しました。
  各地方の最終予選の優勝者1名ずつが参加できる狭き門でした。娘は今年は中学の部の代表となった訳ですが、 上級生に交じっての闘いでしたし、今回の原稿は私が100%準備したものだけに、親子共々緊張しました。 指導する私の方も 完全に原稿を暗唱していました。
 英文をチェックしてくださったDeborahさんのご好意と、LL英語教室の山本先生の日頃の献身的なご指導に、ここで改めてお礼を申し上げます。      




2003年1月2日


 新年、明けましておめでとうございます。 今年の年賀は年内に書くことが出来ず、いただいた分から返信させていただいています。  失礼の段、お許しください。(店頭のお客様用の2000枚は年内に発送したのですが・・・)

  さて、今日は昨年末に斜位矯正をして非常に喜ばれた例をご紹介します。

斜位矯正

  一般には、メガネは視力を補正する道具だと思われていますが、それだけではありません。
 年末に相談に見えた中年男性は、数十年来複視(二重像)に悩まされ、これまでにあらゆる医療機関やメガネ店にかかったが 問題は解決せず、諦めており、運転免許はもとより、職業さえ制限を余儀なくされていました。

 私が検眼してみますと、かなり深刻な斜位、というより斜視と言った方が良いほどの眼位の異常がありました。 しかも、ずれは上下方向と水平方向にまたがり、それらをベクトル的に合成して矯正に要したプリズムは片方で5pd(プリズムディオプトリー(1mにつき、 5cmのずれ))に達していました。
  プリズム矯正の実用的限界に近い度数でしたが、この方の二重像は直ちに解消し、感激していただいた次第です。

  この方の例は極端ですが、明確な自覚につながらない場合でも、斜位を持つ方は多く、未熟な検査の網をくぐっているはずです。 遠視も誤解されているものの代表で、これも「メガネは視力を補正するもの」という短絡的な認識からは到底理解が及ばないようです。 とくに若年者ほど遠視は自覚されにくく、本人が納得しない場合は、症状が顕在化するまで放っておくしかありません。  ただ、正視眼の人が3時間集中できる近業が2時間、あるいは1時間でダウンすることも起こりうる訳で、ある意味では人の一生をも左右しかねない 問題なのですが。
 視機能の発達途上の幼児の強度の遠視を放置すると、調節と輻輳のアンバランスから斜視になり、複視を回避するために 脳が効き目でない方の眼の情報を遮断するので、その眼は廃用性の弱視になり、成長後にレンズでの矯正を試みても視力が補正できなくなるのです。
  年末に見えた方は、矯正視力が左右共0.3くらいあり、完全に弱視化していなかったので、成長期後に発症したものと思われますが、  逆に片方の眼(効き目でない方)が弱視化していなかっただけに、そのつらさも相当なものだったと思われます。   




2002年11月28日




実験成功

  市販屈折鏡筒を使用してBINOを製作する際に直面する問題の一つに合焦機構(繰り出し装置等)があります。
  精度、剛性や内径不足のために、オリジナルの繰り出し装置をより適した物と交換する必要が 生じる場合が少なくありません。
  SCHWARZ-F8-BINOの初期モデルには独自のロッド式のfocuserを採用したのですが、 この考え方を継承し、シンプルな構造のまま、粗動に加えて微動を可能した機構の実験をしてみました。

     写真は、下部のアルミ円柱と中心のステン棒がメインの摺動モデルで、それぞれ繰り出し装置の外筒、内筒を 代表しています。ロッドは端部に頭の無いネジが自由に回転するように貫通、固定され(Eリングで保持してある)、 さらにそのネジを介して中心の丸棒(内筒役)の傘(上のアルミ円柱)(実際には内筒末端の一部になる)に接続されます。
 粗動は下の止めネジを緩めて行い、止めネジを固定すると、ロッドは下部のアルミ円柱に固定されます。この状態で上のネジを回転さ せると、ロッドはそのまま動かず、傘(上の円柱)が中心の棒と一緒に微動する仕掛けです。(基礎実験なので、微動ネジのツマミは省いています)
     実験は予想通りの好結果が出たので、これから具体的に計画を進めようと思っています。
この方式は、設計次第で、接眼部(アイピース根元)用にも、メインの繰り出し用にも応用できるはずです。

(試作品は、あり合わせの素材を使用して原理を検証するために製作した物で、実際に計画している物の形状とは全く関係ありません。)




2002年11月19日




 ウチの愛猫”ゴン”です。家内が独身時代から飼っていた猫で、17歳を越えます。
ゴンを題材にして娘のスピーチコンテストの原稿を書いてみました。

Gon


Gon, my cat is more a member of our family than just a pet. We have lived together for as long as I can remember. When I was a little girl, she was not only a good friend but also an older sister to me because I am an only child.

I don't know when our roles changed exactly but she has come to love and rely on me, just as if I were her mother, even though she's four years older than I. Every time I come home from school, she comes to greet me from wherever she was sleeping in the house. She doesn't want anything from me, except to be picked up and scratched on the back while cuddling her on my lap.

Though she can't speak, she can express herself and I can always understand her feelings by the way she meows. Especially when she is "purrfectly" happy and content.

She's 17 cat years old, which is the equivalent to 80 or more human years. She's not as fast as she used to be, but she's still very agile. She can jump up on the chair next to mine when she wants to be petted. Now just imagine an 80-year-old woman jumping as high as her own height, that's a pretty amazing thing to do, don't you think?

When I study late into the night or when I’m sick she watches me and never leaves my side.

This is why she is so special to me. What an amazing creature!

You're probably wondering why "she" is called" Gon". Well, my mother was still living with her family, when one day one of her piano students gave her the cutest little kitten. My mom's younger sister mischievously named her"Gonzaemon" which happens to be an old fashion name for a male cat in Japan, and since then she's been known as "Gon"! Gon gave birth to several kittens, and my mother chose the most handsome kitten and named him"Leo" and gave the rest away.

Soon after that my mom decided to marry my dad and she thought it would be too much to ask him if she could bring two cats with her into their new home. So she decided to leave Gon and her son with her parents in Shimane Prefecture.

However after a few months, she told my dad how much she missed her cats and how worried she was about them because her parents really didn't like animals all that much. My dad immediately understood her feelings and they drove 5 hours one way just to pick up the cats!

Leo was no longer there but Gon was and my mother remembers that it was like she had been waiting for her to come back to take her home.

Her new life with my parents was about to be disrupted again, though. A little more than a year after she came to live with them, my parents were expecting me. Just a few months before I was born my mom became very anxious about whether or not a cat was a good thing to have around a new baby so Gon was sent to live with my aunt.

Gon finally came back to live with us after I became a year old. We haven't been separated since then and never will be again. I still feel a bit guilty for what she went through because of me and I intend to stay by her side and make her last years, her best years.




2002年10月29日


 一昨日、昨日と叔父(享年91)の通夜、葬儀がありました。奇しくも、去年姉が逝ったのが10月22日で、叔父が 25日でした。 娘の英語スピーチのコンテストがそれぞれの葬儀のほぼ1日前だったことも一致しています。   去年も日程がかち合わないかとハラハラしながら出場した地元のコンテストでしたが、何とか優勝し、翌日の未明に 九州より姉の死の電話が入ったのでした。 通夜の姉(娘には叔母)の棺の前で娘がその課題文の暗唱を試みたが、途中で泣き崩れて最後まで 読み終えませんでした。下はその日の英文日記です。

(よく調べてみたら、去年の10月21日は英検の受験で、スピコンは11月4日でした。(10月31日))

My sister in the humble coffin of her own will to enter.

Being born of poor parents of keeping a small optical shop, she had made her own way to become a medical doctor, made a loving family, and brought up both of her daughter and son into doctors.
She was also a good speaker of English. In her junior-high school, she successfully proceeded to the national stage of the English speech contest.
Her English teacher, American lady who is married to a Japanese man, appeared at the funeral eve told me that my sister was a wonderful lady, and she was always feeling sorry for accepting the teaching fee because there were more for her to learn from my sister.

My daughter Namiko began to make an English Speech for the coming contest before the coffin, but she was choked with emotion into tears and could not continue to the end.

  姉に守られたのか、娘はその後の山陰地区大会でも優勝し、全国大会に出たのでした。
  今年は娘は中1になり、歴戦の中3生に交じってのコンテストでしたので、期待はしていませんでしたが、今回も何とか優勝し、駒を山陰地区大会に進めることが出来ました。

   そんな訳で、誠に勝手な事情ながら、ここ数日のBINOの製作の停滞につきまして、ご理解いただけましたら幸いです。    




2002年10月25日


 最近、業者2社(光学メーカーまたはagent)よりEMSの取り扱いの依頼が急遽入り、EMS-Sの新型が 業社のHPの方で先に公表されたり、旧型のEMS-Sのまま間違って掲載されましたこと、 お詫び申し上げます。
  間違った掲載(Televue Japan)は修正を依頼していますし、当方HPにも近日中にHPに掲載するつもりです。

   仕事は優先順位順にこなしていますが、HPの十分な更新はもとより、新聞を読む暇もないような状況は何とかしないといけないと思っています。 EMS単体の製作に集中した方が、結果的にEMS-BINOの普及により貢献することになるのでは、とも思ったりしていますが、   実際には、そう簡単には行かないかも分かりません。^^;  




2002年10月14日


 望遠鏡サミットに参加(初日のみ)し、昨日帰宅しました。   最高の好天に恵まれ、服部さん、田中晴男さん、杉山さん他、スタッフの方々及び参加者の、それぞれ素晴らしい方々と 至福の時間を共有させていただきました。
  私が製作にかかわったBINOも多数集まりましたが、自作BINOも含めると空前の双眼ラッシュで、壮観でした。 自作のレベルも一昔前の標準とは比較にならないほどハイレベルな物ばかりが結集していて、大いに参考になりました。
  特に服部さんのBIG-BINO(25cm屈折)岡本さんの40cm反射BINOによる星雲星団の映像は一人の人間の価値観、人生観を 根底から覆すほどのものがあり、敢えて言葉でのコメントは控えます。
  会場ではどうしても巨大な望遠鏡が人を集めるのですが、その中で井上次郎さんのテレビュー85-BINO(自作;EMSと 鏡筒切断を私が担当)は"GEM"(宝石)と銘々したい仕上がりで、常識外れの広い実視界での網状星雲のコントラストの高さには 度肝を抜かれました。さらに、SCHWARZ150F8-BINO(マツモト初期モデル)のロッド式focuserを同氏自身がカスタマイズされた クレイフォード式のfocuserも特筆物の操作性で大いに感銘を受けました。
  山内満喜男さんED102-BINO(約280倍;LV5mm+バロー)による土星は、環の全周をカッシニが取り巻き、 30cmクラスの望遠鏡による天体写真を凌ぐ美しさでした。    




2002年8月23日


Amazing Grace

 この夏は、NTVによるテレビ番組の収録が我が家の一大イベントでしたが、今年は去年の秋に他界した姉の初盆で もありました。
  その姉は生前に"Amazing Grace"をこよなく愛し、通夜の部屋でもその曲が流れていました。
  さて、奇しくもこの時期に、 ある方より"Amazing Grace"の日本語の歌詞を聞かれ、ネットで探してあげると安請け合いをしたものの、私が調べた 限りは、かろうじて飯田文彦先生(福島大助教授)の訳文があったのみで、それも歌詞そのものでなく、原文の翻訳であって、 素晴らしい訳ながら歌うには字数が 多すぎることが分かりました。
  行きがかり上、私が日本語の作詞を試みることになり、以下の拙詞が生まれました。

(今日、あるクリスチャンの方より、同曲の日本語の聖歌の歌詞を教えていただきました。恥じ入るばかりです。 ただ、これは奴隷船の船長だったジョン・ニュートンの気持ちを自分なりに解釈したものとして、差し替えはしないことに しました。^^;
 皆さんは本物をお探しください。(2004年6月28日 追記))

1.
Amazing grace, how sweet the sound
御恵み  計れじ
That saved a wretch like me
罪深き  我を
I once was lost but now I'm found
闇の淵より 救いし
Was blind but now I see
今 光 見ゆ

2.
'T was grace that taught my heart to fear
畏れを 学ばせ
And grace my fears relieved
安らぎ 与え
How precious did that grace appear
至極の愛 尊し
The hour I first believed
御栄え あれ

3.
Through many dangers, toils and snares
イバラの道さえ
I have already come
主の導きなり
'T is grace hath brought me safe thus far
我今あるは主のため
And grace will lead me home
導きあれ


  ついでに、姉が死ぬ10か月前に私にくれた本の中で、印象に残っている一節をご紹介します。

 When we have done all the work we were sent to earth to do,
we are allowed to shed our body-which imprisons our soul like a cocoon encloses the future butterfly-and when the time is right we can let go of it and we will be free of pain,
free of fears and worries-free as a very beautiful butterfly, returning home to God which is a place where we are never alone-where we continue to grow and to sing and dance, where we are with those who loved (who shed their cocoons earlier) and where we are surrounded with more Love than you can ever imagine!

   




33144 back to home