松本龍郎の日記(雑記帳)
Diary of Tatsuro Matsumoto (3)


2005年3月23日~2005年12月30日

                       E-Mail: 松本龍郎


二つの老い (050323)     (他筆)わたしが初めて世の中と出会ったとき(050331)     ロシアのテレビ局が蜂谷さんを取材(050415) 

まだ分からないのか!!(050423)         盾と矛とをひさぐ者あり(050513)       ゴンが死んだ(050514)

次世代BINO宣言(050531)           次世代BINO宣言 2 (050613)           次世代BINO宣言 3 (050720)

2005年佐治アストロパーク星まつり(050807)    友達と戦争(050809)            懸賞ゲット(2)(050908)

Kさんの 吉祥天(050927)             Kさんが地元のテレビに・・(051126)     モンゴルから来たO君(051128)

死刑執行 (Gang founder Stanley Williams to be executed)(051216)              2日早い初夢(051230)



 



2005年12月30日


         2日早い初夢


 川岸に係留した小舟(と言っても大きめな小舟、中船か)に十人ばかりの私と同世代、 いや私も含めてもう少し若かったか、皆が船縁に反り返って満天の星を見ている。 なぜ、わざわざ船の中で? そんな脈絡のないところが夢なのだ。

 それにしても、これほど見事な星空は見たことがない。星座の形はもちろんのこと、無数の微星がしっかり と存在を主張している。観望会ではなく、たまたまその状況が到来したので、双眼鏡も何も用意していない。

  一人の男性が、「ピントの外れた質問かも知れないが…」と遠慮しながら星のことを私に質問していたが、彼の認識以上 にピントの外れた質問には答えられなかった。

  私の隣りにいた悪戯っぽい顔をした長身の女性があまりに大胆に後ろに反り返って星を見ているので、 彼女が川に落っこちないように、私は彼女の右脚に抱え付いていた。

  それしにても素晴らしい星空、何も準備していなかったのが悔やまれる。

 「こんなに星が見える夜は滅多にないですよ。 よろしければ、後で私の所の望遠鏡でご覧になりませんか。」と私が隣の女性に言うと、

隣の女性は: 「いえ、今夜は無理だと思います。」

私: 「それでは皆さん、ちょっと自転車を飛ばしてレーザーポインターを持って来ますので、待っていてください。」
 と言って、船を降りようとした時、空が急に明るくなり、東の稜線からは丸い月が杲々と出て来たではないか。…という所で全てがリ セット。

 何かの啓示か。いや、夏の設定なのにオリオンが・・、月齢もデタラメ。 現実とからめるのは野暮というもの。
 世のお父さん方、家庭内サンドバッグになっていても、夢の中だけは自由ですよ。

 




2005年12月16日


         死刑執行 (Gang founder Stanley Williams to be executed)


 アーノルド・シュワルツェネッガー、カリフォルニア州知事がスタンリー・ウィリアムズ死刑囚の執行延期の嘆願 を却下し、現地時間13日の未明に死刑が執行された。

 アメリカの関連サイトによると、同死刑囚(1954年生?)は、ニューオーリンズで生まれ、 6歳の時に母親と共にカリフォルニアに移住し、1971年にギャング団”Crips”を結成した。 (彼によると、自分は”Cribs”と命名したのだが、酔っぱらった仲間がいつもCripsと発音するので、 そうなってしまったそうだ。)

 ウィリアムズが死刑となった直接の罪状は1979年にコンビニ店員1人と台湾系のモーテル経営者の一家3人の計4名を 残虐な方法で殺したことだが、このギャング団が関与した殺人は数百人を下らないと言われている。

  この件で1981年より死刑囚となったウィリアムズは、95年頃から変化を見せる。 模範囚となり、青少年の非行防止のた めに著述をし始める等、獄中で熱心に活動し始めた。ついにはノーベル平和賞、文学賞が取りざたされるほどになり、多くの支援者 が付いた。

 一方、刑事関係者等の中には、彼の更正が偽装であることを見抜いている者も多く、それには客観的根拠もあったらしい。  シュワルツェネッガー氏は、それら両論を吟味し、悩んだ末に結論を下したようだ。

 26歳で殺されたコンビニ店員は、命乞いをする背中にウィリアムズに2回も発砲された。
 その被害者の母親は言った。
「被害者がいたのだという事実を一般に忘れさせようとしている方々が多くいるけど、それは被害者が自分の家族 ではなかったからよ。」

 日本でも最近、児童が犠牲になる残虐な事件が相次いだ。 塾生を残虐な方法で殺害した塾講師は、窃盗、暴行の前歴 があり、その時真摯?に謝罪し、更正を誓った加害者に対し、被害者の女性は加害者の減刑のための嘆願書まで出して やっていたそうだ。





2005年11月26日


         モンゴルから来たO君


  朝青龍が7場所連続優勝を始め、数々の記録を塗り替える快挙を遂げた。
 また、琴欧州が大関昇進に王手をかけた。

 琴欧州は、関取になった時、交通事故で働けなく なったお父さんに新車をプレゼントした。 引退が決まった佐渡ケ嶽親方(元横綱琴桜、鳥取県出身)は、 琴欧州のことを「わしらの時代の力士が大切にしていた心を持っている。」と激賞している。

 さて、最近、相撲、モンゴル、鳥取、というキーワードにヒットした、ちょっとした体験をしたのでご紹介したい。

 2か月ほど前、すこぶる巨漢の高校生が店に入って来た。やや日本語が不自由そうだったので、咄嗟の直感で韓国からの留学生 かと思い、「ハングゲソオショスムニカ?」(韓国から来られたの?)と片言の韓国語で対応したら、きょとんとして、「モンゴルです。」 とのことだった。

 そのモンゴル青年は鳥取市の相撲の名門校である鳥取城北高校の相撲部3年生だった。同校相撲部は今年の岡山国体で優勝している。 (琴光喜関も、愛知県出身ながら同校に相撲留学していたので、鳥取のローカルニュースでは毎日取り組みが放映される。)

  モンゴルから来た0君は、この年末年始の帰郷に、お父さんに双眼鏡を買って帰りたいということだった。  彼がお気に入りのNIKONの双眼鏡はちょっと予算オーバー、でもお父さんには出来るだけ良い物を買って帰りたい。 事情を知るや、私もこれは商売抜きで一肌脱ごうと思って破格のdiscountを提示したのだけども、それでも何度か来店し て迷っていた0君。

 その後、偶然、友人(1年先輩)である同校の先生が久しぶりに見えた(教頭先生になっていた)ので、O君のことを話したら、 「O君はとっても良い子だ。僕も援助したい。」と私に1万円を託した。 ということで、本人負担は八千円ということになり、先日 O君は喜んでその双眼鏡を買って帰った。

 その時、0君はモンゴルや家族のことを少し話してくれた。 軍人のお父さんの趣味はハンティング、広大な大草原で獲物を見つけるには 高性能な双眼鏡が威力を発揮する。 広大な国土に対し、モンゴルの人口はわずか280万人、そのうち160万人はO君と同じウランバートル に住んでいるとのこと。
 「南の国境線付近の土(つち)を中国人が買い占めていて、政府は無策に傍観している。」と憤慨していた O君。
「土(つち)を買ってどうするんだ。 それって”LAND"のことじゃない?」 と聞いたら、そうだった。^^;

 話してみると、3年間でつち^^;かった彼の日本語は、なかなかのものだった。 日本語と英語、そしてもちろんモンゴル語と 片言のロシア語を話すO君は日本の大学に進学するそうで、将来の夢は大統領になることだそうだ。 彼なら本当になるかも知れないと 思った。

 




2005年11月26日


         Kさんが地元のテレビに・・


 2か月ほど前、EMS-BINOについて当方に取材に見えた日本海テレビのリポーターの目に、 Kさん作の吉祥天の木像が止まりました。 リポーターが興味を示されたので、Kさんを紹介したところ、 最近取材をされ、明後日28日(月)の”日本海プラスワン(18時17分~)”で放映されることになりました。  その中に、私も少し登場します。

  Kさんは自己アピールを全くされない方なので、このまま陽が当たらないまま朽ちらせてしまうのは、なんとも悔しい思いがありました。  釈迦やイエスでさえそうだったように、地元ではなかなか評価されないのは古今東西世の常なのかも分かりませんが、 Kさんの人柄を知る者としては、なんとも理不尽に思えるのです。 視聴可能なエリアの方は、ぜひ見てあげてください。

 蛇足ですが、Kさんが彫刻を始めたのは、役所を退職してからです。 退職してから興味を持ったのではなく、ずっと暖めて来た 思いを、没頭する環境が整うのを待って解き放たれたものです。 現役時代には、仕事と家族を優先され、自粛しておられたように 聞いています。 当時は公務員天国と言われた頃であり、友人の公務員が勤務時間中に趣味の釣り道具の手入れをしていたのを見た 父が憤慨していたのを覚えていますが、Kさんは、まさにその対極を歩んだ方でした。

 




2005年9月26日


         Kさんの 吉祥天



                左は交差法用      右は平行法用 です。

    (精緻な彫りの実感までは伝わりませんが、裸眼立体視のペアにしてみました。)


  Kさんのことは去年、”親思う心にまさる親心”で紹介させていただいたが、 昨日、白内障手術(一月前)後のメガネの更新をさせていただいた。

 依頼(注文)に見えたのが4日ほど前、「これが最後だと思う。」とまじめに言われた80歳のKさんの言葉を一 笑に付すことはできなかった。 通常3年から5年というメガネの買い換えサイクルから見ると、それはあり得ないこと ではないからだ。 それはこちら側も同じこと。 まさに一期一会の言葉の通りだ。

 Kさんは父の代からのお客さんだ。当時から大型店は派手な宣伝をしていた中で、今よりも零細だった当店をひいきにし てくださったお客には、一種の判官贔屓の心意気があったのだろうと、自分もこの年齢になって、遅まきながらも 感謝の念が身に染みる。

 Kさんが4日前にメガネを注文して帰られるときに、私はそれまで見せるのを躊躇していた、上記エッセイ(親思う心にまさる親心)を 思い切ってプリントアウトしてKさんに手渡した。

  そして昨日、メガネを受け取りに見えたKさんは提げ袋に何やら大きな物を入れて来られた。
  それが、この吉祥天の木像だった。
「眼を悪くしていた頃に彫ったものだから、出来は良くないのです・・・。」という、いつもの謙虚な言葉には当たらない、 見事な木像で、デジタル平面画像では1/10も再現できないのが歯痒く、せめて工夫して立体写真にしてみた。 これで1/8くらいは伝わるかな。
 Kさんによると、「NHKドラマの”義経”でもよく登場する毘沙門天の奥さんが吉祥天です・・・」 ということだ。

 そして、この”吉祥天”を頂戴してしまった。 「はい、ありがとう。」と手を出すのも躊躇を覚えたが、 ”命”をいただくのだなあ、と思いながら受け取った。

 自分の分身を託しながら、自慢話をされることもなく、わずか15分ほど話しただけで、あっけないほどいさぎよく 踵を返して帰られたKさんの背中を、今度は私が万感の思いで見送った。 なぜか引き止めるきっかけを失っていた。

  なんだかあのエッセイで催促したようで悪かったなあ、と思ったが、後でKさんの奥さんも読んで涙を流してくださ ったことを知った。





2005年9月8日


         懸賞ゲット(2)

 去年に引き続き、今年も地元の進学高校の文化祭のプログラムに 載っていた懸賞問題に挑戦した。去年と違うところは、去年は中学生だった娘が同校の トップクラスに入っていることだ。

 高一の娘は少し前から文化祭の準備と本番でかなり疲弊していたこともあってか、 あまり問題に集中せず、私と違う答えを出した。もっと考えるように言ったが、自分が正しいと言い張るので、 「勝手にしろ!」と言って父が一人で応募した。

 同予備校のサイトから応募のフォームに入ったら、最初に”生徒名”という欄があって、 ちょっと顔が赤らんだが、下の学年の欄に”その他”があったので、遠慮なく入らせていただいた。^^;   先日、同予備校より正解の通知が来て、まずは父親の権威失墜を免れた次第だ。

 この問題は落とし穴に入りやすい。これは簡単、とぬか喜びして、1/24とか、1/12とかいった答えを すぐに出してしまった生徒が多いのではないだろうか。x≦-1/4、y≦-1/6 より、xy≧1/24とするのは早計である。   珍問奇問ではなく、関数の本当の理解を促す問題なので、高校生はぜひ解いてみるべき問題だと思う。    問題を作った方に敬意を表したい。






2005年8月9日


         友達と戦争

  8月9日は、広島の3日後に長崎に原爆が落とされた日。  アメリカでは、「原爆によって戦争の終結を早め、戦争が長引けば予想された、より多くの人命の損失を回避した。」 と教えている らしい。

  旧約聖書には、神によって焼き払われた二つの邪悪な都市、ソドムとゴモラの話がある。 まずは非白人であり、 異教徒とみなしていた国民への仕打ちには、もともとその行為を正当化させるだけの文化的土壌のようなものが、当時の 連合国の間、特にアメリカ人の中にはあったのではないだろうか。

  今日のテレビのニュースで、長崎の浦上天守堂での追悼ミサの状況が放映されていた。 被爆したマリア像の首を、 教会関係者がうやうやしく祭壇に掲げていた。 恐らく、日本にもキリスト教が根付いていること、 ましてこれだけ大きな礼拝堂があることを、当時はおろか、今でも知っている旧連合国民はほとんどいないだろう。  無惨に被爆したマリア像の首の映像を、アメリカの人々にぜひ見てもらいたいものだ。

  二十年前にアメリカの友人を訪ねた時、友人は自分の地元の親友も招いていて、3人でこんな会話になった。

Mr.K: 「(太平洋戦争で)何でお前らはPearl Harborだけ攻撃して帰ってしまったのかいな。 本土に上陸してアメリカ人 を皆*しにすりゃあ良かったのに。」

私: 「そんな余裕も準備もあった訳がないでしょう。」
  牧師にあるまじき投げかけに少し驚いたが、むしろ、そんな型破りのMr.Kを私は気に入っていた。  試されているような気もしたが、しどろもどろにまるで見て来たかのように答弁する自分自身に可笑しささえ感じていた。

Mr.K: 「それに、南の島ばかり取って何になるだい。」

私: 「資源が無いので、まずは足場を固めないと・・・」

  それからMr.Kは地元の親友と、「日本の兵隊が世界で一番強い・・」という意味のことを話して、互いに納得していた。

 Mr.Kは親日家という言葉では表せないほど、日本や日本人に対する思い入れは尋常ではなかった。 それは時にはうっと うしくなるほどであり、結果的に疎遠になってしまった原因ともなり、やがて音信不通になり、最近、彼の死がほぼ確定的 になるに至って、今や贖罪の念が私自身に重くのしかかっている。

 Mr.Kは現地のレストランで私を接待しても、決してテーブルにチップを置かなかった。 それについて私が尋ねると、 「こんな生産性のないやつらにやる金はない。日本人ならいくらでもやる。」と聞こえよがしに言っていた。

 Mr.Kは職が安定しなかった父親のために高校を卒業するまでに11回も転校させられた。 「自分の名は父が闇品売買で 刑務所に入っていた時の父の務所仲間の名だ。」と、自分の生い立ちをさらりと打ち明けた。

  Mr.Kは高校を卒業すると、空軍に入り、配属されたのが日本だった。 大学に進学する学費を稼ぐためであり、実際、 除隊後に高校教師になり、牧師にもなった。 日本にいた数年の間にMr.Kは初めて、親友と言える友に巡り会う。 その日本人 の親友は、なぜか英語が流暢で、友に日本語を教えなかった。その日本人青年も、食卓で日本語を話すと父に箸箱で頭を叩かれ て育ったという希有な生い立ちを持っていた。 暗い陰を持つ、数年年上の日本人青年をMr.Kは師と仰ぎ、最愛の友とし、 心酔して行った。 しかし、日本人の親友は、妻がポリオを患う等の不運の末、自殺してしまう。若い頃のMr.Kと日本人青年が 一緒に写った写真を私は彼から貰って、今でも持っている。

 Mr.Kにまつわる話には、それだけで小説が何冊も書けそうなほどのドラマがあるが、脱線がエスカレートしそうなので、 じっと我慢して本題に戻る。 そんなMr.Kが送ってくれていた現地のテレビのドキュメント番組のビデオを思い出したのだ。

  それは広島に投下された原爆に関する特集番組であった。 何と、それは延々と1時間以上も続いていた。 ニューメキシ コ州のロスアラモス、砂漠の真ん中に原爆製造のための都市が作られた。 科学者と技術者を家族ごとそこに隔離し、学校や 病院等の施設まで作った。 わずか3年足らずで原爆の実験に成功し、1か月も待たずに広島と長崎に投下されたのだ。

 番組の中でインタビューに答えていた(オッペンハイマーは番組制作時にはすでに他界していたはずなので、古い記録 だろう)、当時の原爆製造プロジェクトのリーダーだった、晩年のオッペンハイマーの深い眉間の皺が彼自身の苦悩を物語っ ていた。 また、日本から送られたであろう被爆者のインタビューも、原音入りで長時間に渡って流されていて、被爆者が直 接描いた生々しい絵も同時に紹介されながらの英語への同時通訳が興味深かった。 聞き取れない部分が多かったが、広島に 投下された原爆についての特集が、これだけ詳しくアメリカで放映されたことに一番驚いた。日本でもこれだけ詳しいドキュメ ントが作られたことが何度あったろう。

  原爆投下を正当化するのもアメリカ人なら、極めて中立に原爆を描写しようとするアメリカ人もいる。 また、Mr.Kの ようなアメリカ人も。 多様性が日本よりは許容されている国と言えるのだろうか。 

  ただ、偏見も愛着も極めて危うい両刃の剣。 人が二人いれば社会が生まれる。 家族、地区、都市、県、国、スケール は異なるが、原点は人。

  私がMr.Kを訪問している時に、彼はこんな話を自慢げにした。   「黒人の貧しい生徒の父親が死んだので、私がタダで葬式を出してやった。 その時、同僚の黒人の女先生がMr.Kに言った。 『あなた、そんな地区に行ったら殺されるわよ!』」
       ところが、滞在中に彼と一緒にテネシー州に小旅行に行った時、ホテルの部屋で、廊下を話しながら通る3人ほどの客の 声を聞きながら、「おい、聞いてみろ。3人のうち二人は黒人だ。アクセントの違いで分かるんだ。」と言っていた彼の様子か ら、Mr.Kの偏見フリーの限界を見た。

  私がMr.Kを訪問した次の年の夏に、今度は彼が私を訪問した。 後になって分かったことだが、Mr.Kの妻は日本に固執する 夫に、いみじくもこう吐き捨てたそうだ。
「そんなにまでしてジャップと地べたに座りたいの?!」

  私がMr.K宅に滞在中、彼の妻は一通り親切にしてくれたものの、顔は微笑んでも目が笑っていなかったので、何となく歓迎 されていないことは分かっていた。洗濯物は私のパンツまで家族と同じ洗濯機で洗っていたが、火力発電所を見学して帰った時、 私の白に近い薄茶色のズボンの裾が石炭の粉で汚れていて、彼女が漂白したら、まだらに脱色してしまったことがあった。 彼女が手放しで笑ったのはその時だけだった。^^;

  私の所を訪問して帰国した、牧師のMr.Kは長年連れ添った奥さんと離婚した。






2005年8月7日


         2005年佐治アストロパーク星まつり

 物事はとかく計画通りには進まないもの。 数ヶ月前にBINOのバックオーダーを一時消化したのを機に、 新たな一連のアイデアが噴出し、それを規格製品化するためにあらゆる努力をしたものの、諸事情から 規格化には時期尚早の判断に至りました。その過程で神経をすり減らし、さらに折しも地区の問題も重なり、佐治星まつりへの参加も危ぶまれていた状況にありました。

  ついでに、新アイデア規格化の断念について、”次世代BINO宣言3”の補足を兼ねて少し触れさせていただきます。   結論から申しますと、”新型”を目指して格闘した数ヶ月の収穫は、実はかなりのものがあったと思っています。 ヘリコイドに よる目幅調整のピント補償機構は、今後、適用する機会が必ずあるはずですし、曲折を経て考案した(未発表)2インチ接眼スリーブ の単純な合焦機構は、今後定番になる可能性が高いと思っています。しかし、今回は、結果的に(悪意ではないが)業界に 裏切られた思いがあるのです。まず、適当安価な鏡筒が出現しないこと、新型目幅調整機構用に外注していたlow-profileのヘリコイドが 初期の見積もりを中途で約2倍に修正して来られ、(着手前だったそうなので)お断りしたこと。 期待していたポルタ型経緯台を分解して検証した結果、 エンコーダがスマートな形で取り付かないことが分かったこと。等々が重なり、疲労困憊した次第でした。

  ところが、大阪の岩崎さんが星祭りに参加されることをお聞きし、何としても参加しないといけないと思ったのでした。  ただ、当日(8月6日)は夜9時までどうしても抜けられない用事があり、夜9時過ぎに自宅を出発し、現地に10時頃着という予定でした。   山内さんが日没前に岩崎さんと現地で会ってくださっていましたが、9時前までずっと雨が降っていて、私が現地に着いた時には 山内さんはすでに帰っておられました。

  私が現地に10時前に着いた時、天文台前広場は、そろそろ後かた付けに入る態勢で、地元の星仲間の公納(クノウ)氏 が自慢の28cmシュミカセ(自動導入)をセットしていて、その奥に岩崎さんがBORG125ED-BINOを組み立てておられました。 5歳の息子さんが脇で泣いておられ、聞いてみると、岩崎さんがBINOを離れられなくて天文台主砲の103cmが見られなかったとのこと、 私が留守番を買って出て、父子で103cmを見に行っていただきました。103cmでは、絶好のシーイングでM13が見られたとのこと、 私も胸を撫で下ろしました。(もし、私が来られずに失礼していたらどんなに罪なことだったか。)

 それから25時まで、岩崎さんと、そして5,6名の若い男女の熱心な観客(天文素人)と共にBORG125ED-BINOで満天の星空を満喫したのでした。   普段、都会の空の下で観測をしている岩崎さんには、楽勝で見える網状星雲はお初めてだったようで、感激しておられました。

 久しぶりに再会したBORG125ED-BINOの光軸は完璧で、ユーザーサイドでの各所の工夫に、BINOが十分に使いこなされていることが 良く分かり、改めて感動しました。

    毎度ながら、全くの門外漢の観客の反応にも、新鮮な発見や、微笑ませていただくことがありました。 私がhχ(二重星団)を見せながら、「これは若い星の集団で・・・」と言うと、観客の若い女性が「ええっ! 星に年齢があるんですか?」と来た。 さらに「はい、私たちと同じで、生まれて、やがて死んで行きます。私たちの太陽もそうですよ。今、太陽は中年です。」と繋げると、 「ええ、太陽が死んだら私たちはどうなるの?」と心配そう。 続けて、「当然、私たちと生命全ては消滅する運命にあります。」 というと、「いつ頃ですか?」とマジで心配している様子。「50億年後です。」と言ったら、急に顔が明るくなり、「それなら私には 関係ないわ!」と喜んでおられました。^^;

  いつしか観客もいなくなり、岩崎さんと二人きりで主立った天体をめぐった後、まだ2時半まで頑張ると言われた岩崎さんを一人 真っ暗な広場に残して、私は後ろ髪引かれる思いで午前1時過ぎに帰路に付きました。 長期の疲れと当日の疲れはありましたが、久しぶりの満天の星空と 遠来の友に大いに癒されました。



     


2005年7月20日


         次世代BINO宣言3

  治具作りに明け暮れ、あっという間に一月が経ってしまいました。  バックオーダーを消化し、BINO作りも一時受注を休止して長期の休暇をいただいたような感じでした。  休暇中に多くのアイデアが出て、試作、検証を繰り返し、可能な事と不可能なこと、あるいは必要な事と不必要な事 を篩に掛けました。   途中でやや勇み足の発表もあり、ようやく現実と照らした結論が出ようとしています。

  まず、次世代BINO(1)で発表しました、ヘリコイド眼幅調整のピント補償機構は、実験段階から製品レベルにする 段階で、かなりの陣痛を味わいました。 一時は実用化を断念しかけましたが、ロッドのガイドの素材を考慮することで、 実用的な操作感と十分な精度剛性を達成することが出来ました。

  次世代BINO(2)で発表しました、補償ストロークを合焦ストロークと兼ねることについては、意外に機構が複雑になり、 加工の手間がメリットを上回ることが判明したので、断念しました。

  また、上記試行錯誤の中、国内の望遠鏡市場にも異変がありました。口径12cm以上の安定供給が期待されるアクロ マート鏡筒が一斉に姿を消した後、どのメーカーも同等品の販売を開始する兆しが見えません。 継続性に信頼が置ける鏡筒 がないことには、いくらアイデアがあっても、規格統一した製品(BINO完成品)を開発するメリットがありません。

  折しも、EMS-BINOを持って海外遠征をされたリポートをいただき、BINOの鏡筒が単体鏡筒に簡単に分解できることと、 構造のシンプルさの重要性という原点を再認識し、愕然といたしました。

  特に、ヘリコイド方式の眼幅調整は、どちらかと言うと、大きめの鏡筒にメリットが大きい方法なので、BINOが大きく なるほど分解して運搬する可能性が高くなることは、今回目指したことと相矛盾する事実なのです。

  もちろん、今回の考案(ピント補償機構)は画期的なものです。 ただ、これは多様なニーズの中で、その機構のメリ ットが最大限に活かせるケースで適用すべきものであり、全てのケースで有効であるとは限らないという認識に至ったのです。

 大変お騒がせしましたが、今回の考案は、EMS-BINOの新たなバリエーションを一つ加えたということで、今後製作するBINOが 全てこの方式に変わる、というものではございませんので、ご理解くださいますよう、お願いいたします。

  ということで、今後も短焦点のEMS-BINOにつきましては、従来の平行移動方式をベースとし、今回考案したピント補償付 きのヘリコイド眼幅調整機構は、据え付けタイプや、より高級な仕様を目指す方のニーズに適用させていただこうと考えてお ります。

  大変長い期間、ご迷惑をおかけいたしましたが、ここに、長期休暇の終わりと、BINO製作の仕事への復帰 宣言をさせていただきます。






2005年6月13日


         次世代BINO宣言2



 前回は新機構に対する具体的説明が抜けておりましたので、補足説明をさせていただきます。   繰り返しになりますが、画像は実験装置であり、複数のロッドが一見複雑に相貫しています が、実際は極めてシンプルな構造になっています。

 実際にメカとしてロッドが摺動する箇所は 赤い矢印の1か所に過ぎません。細い方のステンロッドをガイドにして、第1ミラーユニットから下に生えた太い方のジュラルミンのロッドが 摺動するわけですが、可動部分(第1ミラーと第2ミラー)の摺動方向はヘリコイドと鏡筒方向の摺動部 によって規定されており、ロッドの精度のみに異存していないため、円滑に動くのです。接眼部の重量も ロッドが全て受け持つわけではありません。

 分かりやすく例えますと、第1ミラーユニットは光路のケーブル上をゴンドラになって、第2ミラーユニットと鏡筒間を往復するわけです。

  水色の環で囲んだ部分は、単にロッドを固定する高さを臨時に確保するために、あり合わせの枕を使用 したものですが、この部分を水色の矢印方向に微動できるようにする(ミニfocuser)と、今度は、目幅調整によるピント補償の ために確保した鏡筒方向の摺動ストローク(15mm程度)を利用して、目幅を一定にキープしたまま、ピント調整が出来るという ことです。

 この時、目幅調整のヘリコイドとロッドのリンクを解除する必要がないことは注目に値します。 つまり、目幅調整操作時にはロッド機構は第1ミラーを第2ミラーから鏡筒側に遠ざけますが、ミニfocuser(水色の環の部分) を操作する時はヘリコイドは伸縮せず(第1第2ミラーの間隔は変化せず)ピントだけが調整できる(下の方の黄色い矢印部分のみを伸縮させられる)ということです。 (本日、このミニfocuserの実験に成功しました。)

  画像から誤解をしている方が多いと思いますが、新機構は鏡筒を取り込んだ機構ではなく、これらが全てEMSに組み込まれる ということです。 つまり、画像の機構を全てEMSに組み込むことが可能だということで、水色の環の部分はEMSの65mmバレルのツバ(標準の物 より大きなツバ)に固定されることになります。 パーツを極力module化することで、納期の短縮と旧仕様のBINOのreformの実現性を目指している 次第です。 因みに新機構による追加光路長はわずか20mm以下に過ぎません。

 老婆心ながら、最後に付け加えますと、この新機構はEMS-BINOの可能性を飛躍的に広げるものですが、EMS-BINOはmodule化した EMSというミラーシステムを使用して、素材鏡筒の旨みや特徴を活かしてBINOを製作するところがミソであり、巨大な物から超ミニタイプまで、全てのケースで 新機構が適用できるわけではありませんし、それがベストとも限りません。 新機構は、鏡筒を固定した方が都合が良い場合に 特にその真価を発揮するものです。 ですから、ニーズに合わせていろいろなタイプのEMSを適用するのが良いわけで、基本ベースと してのEMSの構造自体は今後も変わることはありません。

   





2005年5月31日


次世代BINO宣言

1.実験成功

   EMS-BINOの目幅調整の方法には、片方の鏡筒を平行に移動する方法、即ち、鏡筒間隔自体を調整する方法と、 鏡筒は固定して左右それぞれのEMSのミラーユニットの間隔(第1ミラーと第2ミラーの間隔)を調整 する方法が ありました。

  仮に前者を方法A、後者を方法Bとしますと、それぞれの方法で、以下のような得失がありました。

方法A:

 利点: 目幅調整によってピントが変化しない。
 欠点: 鏡筒のスライド機構を用意する必要がある。
(構造が複雑になり、重量増にもつながり、BINO本体の剛性の追求にもやや制約となっていた。)

方法B:

  利点: 左右の鏡筒を固定できる。(一体構造も可能)
  欠点: 目幅調整時にピントが移動する。(合焦機構で目幅調整のたびにピントのずれを補償する必要がある。)

 上記のように、方法Aは、取り扱いが簡単で初心者向きと言えます。また、大勢で観察する前提ですと、目幅調整で ピントが移動しないのは好都合です。ただ、左右鏡筒を完全固定できない点は、剛性を追求する上での制約となって いました。一方方法Bは、左右鏡筒を完全に固定、または一体構造も可能で、剛性をキープするのに極めて好都合なので すが、目幅調整時にピントが移動するため、その都度合焦装置でずれたピントを補償する必要があり、やや上級者向けの方法 でした。
  結果として、方法Aは運搬使用が前提の小口径に多く採用し、方法Bは据え付けが主の大口径に多く採用して来ました。

 この度実験に成功した方法は、ヘリコイドによるピント移動を連動して補償する機構で、ここに長年の懸案を一挙に解決 することになりました。つまり、左右鏡筒は完全に固定したまま、追加の反射も用いず、ピント移動なしで目幅の調整が可能 になったということです。

 


2.雑感と次世代BINOの仕様




  画像は、あり合わせの素材で目幅調整の新機構の実現性を検証したものであり、実際の製品の形状とは関係あり ません。  先述の目幅調整のジレンマの解消には、数年来研究を続けておりました。 2つのヘリコイドを連動させる方法やギヤや プーリー、ワイヤー等の使用も考えた末、最もシンプルで確実な方法に到達したものです。

  左右の鏡筒が完全に固定、または一体構造にできるということのメリットは計り知れません。 これは単にピント 移動を解消したことに留まらず、BINOとしての合焦機構にも新たな道を開き、総重量の飛躍的な軽量化や、架台の自由度にも 大きな可能性を提供することになります。

  この度は、目幅調整の新方法の他、鏡筒が固定できることの副産物としての画期的な新機構を他にも同時に複数考案済 みであり、次世代BINOの仕様に取り込む予定です。  試作で検証を終え次第、追って発表させていただくつもりです。

 道具の発達の歴史には節目があると思います。  1982年11月号のSky&Telescope誌で紹介されたワンボックスタイプのEMSの原型を使用したBINOからスタートし、 その直後に考案した2-ボックスタイプのEMSで応用性を格段に広げ、1995年に考案したミラーのチルト機構によって光軸 のX-Y調整を実現しました。
 この度の実験成功はそれらの一連の考案を締め括るものであり、先の考案に匹敵する重要な意味 を持つものであると確信しています。






2005年5月14日


ゴンが死んだ

  今朝、広告ばかりで検索機能がマヒしているタウンページをめくるも腹立たしく、104に火葬場の電話番号を聞いた。  市営の火葬場は、”因幡霊場”と言うのだそうだ。

  霊場に電話をしたら、まだ受付を開始しておらず、録音の声。土曜日の朝ということで心配したが、 開始時刻ぴったりに再度電話をしたら、繋がった。 直ぐに行っても良いとのことで、昨晩から段ボール箱に保冷材と共に納め ていたゴンの亡骸を持って車で30分ほどの霊場に向かった。

  霊場に着くと、まず受付で火葬代の\12,600と畜魂碑への埋葬代の\1,000の合計\13,600を支払った。  幸い先客はなく、段ボール箱に納めたゴンを抱えて、私と家内と娘は係員に従って家畜炉の前の安置室?に入った。

 さすがに人間さまと同じ炉では焼いてもらえないようだが、そこには祭壇がしつらえてあり、すでに帰った先客が置いたと 思われる、可愛い縫いぐるみやペットフードが所狭しと飾られていた。係員が火を付けた線香を渡してくれ、供えさせてくれた。 係員の説明によると、亡骸は週明けに荼毘に付し、責任を持って畜魂碑に埋葬するとのことだった。 受付で聞いたところによ ると、毎年9月の第3日曜日に合同慰霊祭をするそうで、案内をくれるということだった。

  ゴンは昨深夜12時頃、奇しくも娘の誕生日の日に、20年の生涯を閉じた。 2か月前より急激に体調を崩し、獣医にかか っていたが、人間年齢換算で120歳以上であって、老衰によって内臓諸器官の機能が低下しているようだった。血液検査の結果 では、心配していた腎臓はそう致命的に悪くはなかったそうだが、心臓を始め、内臓は全般的に相応弱っていたようだった。

  治療の甲斐なく、1週間ほど前からゴンは全く立てなくなり、従ってオシメも不要になり、ペットシートの上で寝させてい たが、食欲はそれなりにあったので、まだ一月はもつと思っていた。昨日はペットシートが無くなり、約1か月分を買って来 たばかりだった。

  ゴンの様態は、昨晩23時頃に急変した。 水も受け付けなくなり、昏睡に近い状態になり、周期的に弱い痙攣を起こしてい たが、次第に落ち着いたので、まだ数日は持つだろうと思った。 私と家内と娘は寝ているゴンを取り囲んでじっと見守ったが、 痙攣も収まり、静かな呼吸が安定して来たので、ゴンの側を離れ、個々が勉強部屋や浴室で用を済ませ、24時頃に私がゴンを見 たら、息をしていなかった。 見開いたままの眼にペンライトを当てたが、瞳孔は開いたままだった。

  娘は号泣したものの、以前に、「ゴンが死んだら私も死ぬ。」と言っていた割には現実を受け止めていて、安心した。 娘は一人っ 子なので、ゴンの存在は大きかった。 自分の命でもって、命を娘に教える教師の大役を果たしてくれた。

愛猫ゴン

 





2005年5月13日


盾と矛とをひさぐ者あり

 「某鏡筒でEMS-Lは合焦しますか?」   これは当方に来るFAQ (Frequently Asked Questions) の筆頭である。

  私がEMSの初期型を発売してからすでに16年を経過し、上記の状況に進歩がみられない原因を私なりに 解析してみた。

  それは単純明快な事だった。つまり、市販鏡筒が変わっていないということだ。何が変わっていないのか。  バックフォーカスやドローチューブ内径が変わっていないのだ。

  16年間という長い年月とインターネットの普及のお陰で、EMSの認知度がようやく上がって来たことに喜びと感謝 を感じるものの、変わらない現状に落胆させられるのも事実だ。

  最近では、一部光学メーカーや販売店までがEMSを取り扱ってくださっており、当方には順風が吹き始めているかに 見えるが、上記現状に変化の兆しは全く見えない。それはどうしてだろうか。   それは、EMSが特殊な製品として認知されているからではないだろうか。つまり、従来の天頂プリズム等の一連の 周辺パーツの中の一つの特殊な製品としての扱いだということだ。

  語源とは少し意味が異なるが、無敵の盾と無敵の矛とを同時に売る 矛盾がそこにはあるのだ。 私に言わせれば、それは固定観念の呪縛がなせるものであって、何らの根拠もないものな のだが。   私の価値観では、裏像の天頂プリズムはその本来意図された使用目的については不燃ゴミでしかない。 ジャンク ボックスの中にキャップもしないで突っ込んでいる。その出番は、実験やEMSとの比較説明の時だけだからだ。

  ただ、実際には、合焦の問題は些細なことなのだ。大抵は接眼部の不適切に光路を消費するアダプターを交換する か、鏡筒を少し短縮すれば解決するからだ。 しかし、鏡筒を加工することに抵抗を示す消費者の方が意外に多いことに 驚かされる。 これもなぜだろうかと考える。 EMSの合焦のために市販鏡筒を少し改造することは、人間工学的に不完全 な鏡筒を加工して、使い道具として完全な物に改良する作業であると私は確信するのだが、それに抵抗を感じる方は、 ”新しい品物を壊す”、という感覚を持っておられるのではないだろうか。

  光学メーカーは、十年一日のごとく裏像の天頂プリズムの使用を前提にして鏡筒を設計していて、それにブランド の権威を帯びさせているのだ。大半の消費者はその価値観を自然のうちにすり込まれているが、それに気付いていない。  つまり、未だに倒立像や裏像が権威を帯びていて、光学メーカーも消費者も、その呪縛から逃れていない、 ということだろう。

  重い物は軽い物よりも速く落ちる、というアリストテレスの提唱をニュートンが否定するまでに2000年の年月を 要したように、一度確立した権威を否定するのは極めて難しい。

  しかし、時代は違う。 より多くの方に早く目を見開い ていただきたいものだ。


楚人有鬻楯與矛者。
譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。
又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。
或曰、以子之矛、陷子之楯何如。
其人弗能應也。

  





2005年4月23日


まだ分からないのか!!

 変電所問題には一度匙を投げたものの、看過できない情勢になりつつありますので、 もう一度コメントさせていただきます。 先日町内に回覧した文書をそのまま引用させていただきます。

変電所問題について(必読)
                                      2005年4月21日
                                    片原1丁目 町内会長
                                         松本龍郎

 変電所問題がこじれておりますが、みなさまは経緯を把握なさっているでしょうか。 当事者意識に温度差があ るように見受けますが、これは地区住民の生命と財産にかかわる重要な問題です。僭越ながら、今までの経緯と現状 を簡単にご説明しますので、みなさま自らのご判断によりまして、今後のご姿勢の参考にしていただけましたら幸い でございます。

  前回ご案内いたしましたように、遷喬小隣地変電所建設反対協議会は、犠牲的精神のもと、結果的に同校区 内の3つの代替候補地を市より引き出し、市が事務局を担った建設地検討会は、その中から一つを絞り込みました。

 しかし、その後その候補地の反対により、今度は近隣の15町内会長にその選定が委ねられ、数回の会合の結果、 ”15町内会長では決められない。”という共通判断に至り、建設地の選定を鳥取市に委ねることを市の承認の上で 確認しました。 しかし、市は、ごく一部の市民の反対を理由に、その役目を放棄し、現在の混沌に至っています。

  その後、中電の働きかけで、3候補地区が個別に中電側と話し合う会が2月末に持たれ、その時にアンケート を求められましたが、15町内会長のうち、7会長(私も含む)はその回答を拒否しています。

  中電はその無効であるはずのアンケートを都合の良いように編集し、今度は市役所駐車場が変電所建設の最適地 であるとして、近隣の各町内会長に対して根回しを始めています。

  住民間で建設地を決めることの矛盾は2月までに明確になっており、同様な方法の繰り返しでの”なすり合い” で問題が解決することはあり得ません。

  この問題は、3年以上もこじれているのであり、もはや原則論を展開している段階ではありません。変電所建設 に対する、市民全体の合意形成が欠如したままで、仮に変電所建設を受け入れても、褒めてくれるのは中電だけである ことを認識すべきです。

  変電所の必要性についての市民の合意形成がなされた後に都市計画的に処理されるべき問題であり、このような 方法で最悪の場所に変電所が建設されることに決して同意してはならないと思います。少なくとも今の段階では、 無条件に変電所の建設そのものに反対するのが正しい選択であると考えます。

  私たちは一度覚悟を決めてまな板の上に乗ったのですが、市も中電も包丁を振り下ろす勇気は持ちませんで した。中電も自ら宣言した期限をずるずると延ばし、建設理由も、必ず停電します→ 既存の変電所が故障したら 停電します→都市のインフラとして必要・・・というように時系列的にトーンを変えて来ており、正当な理念の欠如 が見え見えになって来ています。

  3月の市議会で橋尾泰博議員が、「市長は変電所が(市中心部に)本当に必要だと思っておられるのですか。」 と質問したのに対し、市長は相変わらず、「これは中電が判断すること・・・」と逃げました。行政も必要と考えて いない物を私たちが率先して受け入れる必要はありません。

 2月6日の知事発言に、私たちが取るべき道筋がまとめられていますので、 ぜひご一読くださいますことをお勧め します。

   





2005年4月15日


ロシアのテレビ局が蜂谷さんを取材

  ロシアのテレビ局の撮影隊が、蜂谷弥三郎さんを取材するために鳥取市を 訪れました。(蜂谷弥三郎さんは去年、近隣9市町村合併で新たに鳥取市民になられました。)
 蜂谷さんはすでに87歳ですが、テレビのニュースで見た眼光は健在で、安心しました。

 シベリアに抑留され、半世紀を経た1997年に日本の地を踏んだ蜂谷さんの話は、 ”クラウディア奇跡の愛”として以前にここでご 紹介しました。

 5年後の2002年、クラウディアさんからの手紙に彼女の体調の異変を察知した蜂谷さんは、日本の奥さんの了解のもと、一度 だけロシアに戻りました。 彼女の無事を確認した蜂谷さんが、かつての作業小屋を5年ぶりにそっと覗いてみたら、大工道具がピカピカの 状態で保管されていたのだそうです。

 クラウディアさんは言いました。
「あの作業小屋には、おじいさんの魂が残っていると思うの。  私ね、寂しいことやつらいことがあると、作業小屋に入って、掃除をしたり道具を磨いたりしながら、 おじいさんと心の中で話をするのよ。」

 東アジア諸国からの日本への風当たりが強い昨今だけに、ロシアからの取材は、嬉しいニュースでした。

朝日新聞

読売新聞





2005年3月31日


(他筆)わたしが初めて世の中と出会ったとき

 今日は女友達のRKさんが書いた文章をご紹介します。  1年ほど前にメールに添付していただいたこの文章に、私はいたく感動し、ご自身でサイトを立ち上げて公開されることをお 勧めしたのですが、「私は自分自身のために文章を書いています。」とのことでした。
 しかし、どうしても皆さんにも読んでいただきたいと思い、この度、ご本人の許可を いただいて匿名で掲載させていただくことにしました。
  後でお聞きしたのですが、この文章は、末期癌のお友達に送られた ものだそうです。
  友達が末期であることを知って狼狽したRKさんを、そのお友達は静かに慰められたのだそうで、この 文章はそれに対するRKさんの万感の思いを込めた返信であり、その意味でこれはそのお友達の文章でもある と言っておられます。


わたしが初めて世の中と出会ったとき; by Ms.RK(2002/02/13)

  小学校三年から高校を卒業するまで、私は岡山市下出石(しもいずし)町で暮らしました。子ども時代を過ご した町ですから、わたしには暮らした、というより、育った、というほうが実感に近いかもしれません。 旭川右岸に長細く上出石・中出石・下出石と並ぶ町で、旭川の中洲を利用した後楽園が川をはさんですぐ目の前に 見える川べりの町です。町内は竹屋さん、氷・薪屋さん、八百屋さん、お菓子屋さん、時計屋さん、薬屋さん、肉屋 さん、種物屋さん、お米屋さん、こんにゃく屋さん、お化粧品店、電気屋さん、瀬戸物屋さん、雑貨店、履物屋さん、 ふとん店、文房具屋さん、と通りに面して小さな商店が並び、裏道にはお勤めをしている家が並んでいました。 旭川の土手や河原は子どもたちの格好の遊び場所で、土手の石垣をよじ登ったり、どんこや糸なまずなどの小さな 魚を川ですくったり、彼岸花を摘んだり、水切りと呼ばれた石投げをしたり、本当に毎日時を忘れて遊びまわ りました。水切りというのは、平たい石を川面を掠めるように投げ、水面を3段とびのように次々と跳ねて飛ばす 遊びです。小学生低学年の頃は、上級生の男の子が遠くまで10回以上もジャンプさせて飛ばすのをただただ尊敬と 憧れの眼差しで見ていました。また、たとえどんこのようなちいさな魚でも、息をひそめてそうっと近づき、 さっと手づかみでつかまえるのは、子どもにとっては大抵の技術ではなく、私はひたすら取り逃がしては、次々と バケツに魚をすくいあげる男の子を尊敬の眼差しで見ながら、その子のバケツ持ちをしていました。

  私たちのテリトリーは、上は町と後楽園とを結ぶ橋である鶴見橋のたもとから、下は後楽園の裏門と城跡と を結ぶ月見橋あたりまででした。現在、烏城は鉄筋コンクリートで再建されていますが、当時は戦災で焼け残った 月見櫓だけが残っていました。そのかなり広いテリトリーの中間あたりに岡山神社がありました。今は土手下にき れいに舗装された道が走っていますが、当時は土手まで全部神社の敷地になっていて土手に立つ大きな木 (今度岡山に帰ることがあったら何の木なのか、木の種類を調べておこうと思います。)は注連縄がかかった 御神木でした。神社が道路用地を市に提供したため、神社の敷地から離れて、ぽつんと土手の上に取り残されて立 つその木には、この前帰省の折に見たときには注連縄はなく、御神木の役目をはずされてしまったのかどうか、 これも今度尋ねてみたいと思っています。

  さて、この岡山神社の敷地全体も私たちのテリトリーの一つでした。レンガを組み合わせて作った仕掛けで雀 を生け捕りにしたり、花崗岩で作られた実物大の馬にまたがって遊んでは神主さんに見つかって怒られたり、 夕方になるとこうもりの群れが飛び回り雰囲気十分のそれはそれはエキサイティングな遊び場だったのです。 ここでも、私は雀を捕まえることはできず、生け捕りに成功するのは決まって神社のすぐ近くにある家のかなり年上 の男の子でした。一度だけ私のしかけたわなに雀が掛かったことがありましたが、獲物は生け捕りではなく、 レンガに首をはさまれて死んでいて、そのことがあってからは、私は雀の生け捕りから足を洗いました。

  そしてまた、岡山神社は我が家の躾の場所でもありました。ちょっとしたウソ言ったり、母のお財布から小銭を 掠めたことが見つかったり(これは主に弟がやっていました)、けんか両成敗で怒られては、「神様にちゃんとおこ とわり(お詫び)」をしてきなさい、と言って神社へ行くことを命じられました。親に叱られて家を閉め出されると、 大体この辺をぶらぶらして、馬にまたがってみたり(叱られたときにまたがってみても、なぜがちっとも楽しくあり ませんでした)したものです。もちろん、ちゃんと鈴とお賽銭箱のあるご神前で「ごめんなさい、もう悪いことは しません」とおことわりもしました。何十回となく頭を下げておことわりをした割には、私はあまりよい子には育た なかったようで、もしかしたら、私には高級官僚の素養が備わっていたのかもしれません。この事実に早く気がつい ていれば、もう少し一生懸命勉強してその道をめざしたのですが、残念ながら今となってはもう遅すぎるようです。

  春、夏、秋・・・どういう暦にしたがって開かれていたのかは分かりませんが、神社でおまつりがあり、 夜店がたくさん並びました。金魚すくい、ヨーヨー吊り、りんごあめ、お面、風船、射的、今はもうあまり見かけなく なりましたが、柔らかいあめを吹いてガラス細工のように動物などを形作り、きれいに色をつけて売る人があ りました。買ったことはありませんが、白い玉から魔法のように次々と作品を作り出すその慣れた手際のあざや かさにただただ見とれて、いくら眺めていても飽きませんでした。アセチレンガスのにおいでなんとなく気分が 悪くなるのが潮時で、私はしぶしぶその場を離れたものです。いろいろな色のプラスチック(薄い下敷きのような板) を使ったきれいなケースにニッキや薄荷が入ったお菓子なども、その色の鮮やかさがいやが上にもお祭りの楽しさ を盛り上げていたように思います。それから、これは今も同じですが、イカやとうもろこしを焼くこげたお醤油のに おいが漂ってお祭りの雰囲気はいやがうえにも盛り上がっていました。

  家の向かいの文房具屋さんのおばさんは、書道の腕前をいかして家の一室を習字教室にして家計の足しにし ていました。その書道教室にしばし入門していた私は、お祭りのころは、行燈にしたてる作品を練習しました。 社務所付近に飾られる行燈は、町内の子どもたちのミニ展覧会で、○の●ちゃん(山田のミドリちゃんという具合) はいつも上手いね、とか、△君の絵は今度はとても面白いね(発音どおりに表記すれば、「△君なー(△くんのは) 、こんだーぼっこうおもしれーのー」)など、近所の大人たちは町内の子どもたちの作品について品評会をしてい ました。当時はこんな言葉はありませんでしたが、こういう大人たちの評価、子供たちへの関心は、立派な 「地域の教育力」といえるのではないでしょうか。

  さて、行燈にするお習字の作品をちゃんと練習した御褒美の意味もこめて、私たち兄弟は何がしかのお小 遣いをもらってお祭りに出かけました。そこで、私が遊ぶのは、きまって金魚すくい。それからヨーヨー吊り でした。口を真っ赤にしてりんご飴を食べる気にはなれず、食べ物関係はもっぱら眺めるだけ。射的なども見物人 で楽しみました。それからもうひとつというか、もう一人、いつも気にして探してみるのはひとりのお乞食さんで した。

  その人は小児麻痺にかかったということで、手足と言葉が不自由でした。 「私は○才のときに小児麻痺にかかりました。」に始まって、歩くことも話すことも、 もちろん働くこともできないので、みなさんからのお慈悲にすがって生きるほかはありません、 といったようなことが書かれた札を莚の前におき、小銭を受ける真鍮の鉢を置き、そして自分はひたすらじっと 座っていました。時折お金が投げ入れられると、「ウー ウー」と言いながら頭を下げるのは、きっと「ありがとう ございました」と言っているのだろうと容易に想像がつきました。そして、私はお小遣いの残りをときどきこの鉢に 寄付して?いました。

  お祭りのたびにその気の毒なお乞食さんはいました。あるときはお賽銭箱のすぐ近くに、あるときは鳥居 のすぐ横に。私はその気の毒な人は岡山神社からそう遠くないところに住んでいるのだろうな、と思いましたが、 いったいどのような暮らしを毎日しているのかについてまでは、想像をめぐらすことができるほど大人ではあり ませんでした。

  あるとき、隣の中出石町に住む従姉妹(父は、この従姉妹たちの父親である伯父と共同で農機具の販売を始め、 私が小学校三年になったとき、下出石で独立した会社を始めたのです)から誘われたのだと思いますが、よその町の お祭りに寄りました。(寄るというのは寄せてもらう、つまり参加するという意味です)そして、私のテリトリーを 遠く外れた、学区の反対側のはずれの広瀬町の神社まで、「だんじり」(=山車)を引いていきました。あまり通った ことのない道、しかも夜の道をどんどん遠くへ歩いていくことは、それだけでとてもエキサイティングでした。 見たことのない街角の光景が次々と目の前に広がる様は、自分の世界が広がっていくようで、それは本当に胸がどき どきするような体験でした。

  やっとだんじりがお祭りの開かれている神社に到着したときは、再び引き返して家に戻ったのが9時過ぎだった でしょうから、そんなに長時間たったわけではないはずだのに、私には地の果てまでたどり着いたような心地がし ました。

  そこには岡山神社と同じような「おまつり」の光景がありました。岡山神社とは、参道のようす、境内の様子 なとが少しずつ違いますから、ちょうど、他所の家に遊びにいったとき、その家の階段、廊下、勝手口などのつくり がいちいちものめずらしいのと同じように、私は並んでいる屋台も含めて境内をものめずらしそうにじっくりと観察 したのです。

  すると、どういうことでしょう。こんなに遠く離れた広瀬町のお祭りに、あのお乞食さんがいるのです。 私は跳び上がるほど驚きました。どうして岡山神社の近くに住むはずの、足の不自由なあの人が、ここにいるんだろう ? 第一、あの人はどうして、今日この神社でお祭りが開かれることを知っているのだろう。

  私にとって、自分の世界が倍ほどにも広がったかに思えたエキサイティングなお祭りの経験は、そのお乞食 さんと出合うことによってさらに5倍ほど広がりました。そして、私の頭には、どうしてあの人があそこにいたのか、 という謎が住みつくようになりました。

  次の岡山神社のお祭りの日、私は家を出るのをすこし遅らせました。出かけるのが遅ければ、帰りがちょっ と遅くなっても叱られないで大目に見てもらえるのではないか、という子どもなりの計算があったからです。頭に 住みついている不思議マークと一緒に、岡山神社に着いてみると、やはりその日もあのお乞食さんはいました。 茣蓙に座り、お鉢を置き、説明書きを前に広げていつもと同じように物乞いをしていました。

  いつものように、ヨーヨー吊りをしたり、あめ作りを眺めたりしているうちに、だんだん人出が減ってくると、 まだ人がいるのに、ポツリポツリと屋台が店じまいを始めました。そうなると人は潮が引くようにいなくなり、 お祭りのにぎやかな様相は一変してみるみる跳ねた舞台のようになってきました。

  私は何か用があるようなふりをしてその辺をうろうろしながら、お乞食さんの様子を窺っていました。 すると、ヨーヨーの店を片付け終わったおばさんが、そのお乞食さんのところへやってきて、鉢にたまったお金 を勘定し始めたのです。そして、なにやら手帳のようなものに書き込んで、説明がきや真鍮の鉢を片付け、 お乞食さんの世話を始めました。

  そうです、そのお乞食さんの世話をして、彼をつれてきていたのはヨーヨー吊りのおばさんだったのです。 年の関係からみて、親子ではない(当時の私の子どもの目にそう映っただけかもしれないのですが)ないようでした。 お姉さんと弟のように思われました。

  あのおばさんは、弟の世話があるから結婚していないんだろうなととても気の毒に思えました。 まだまだ戦後の貧しさの残っている時代です。行政は道を作ったり、学校を建てたりで精一杯で、きっとまだまだ 障害のある人の福祉にまでは今のような予算が出せていなかったのではないかと思います。おばさんは仕事のあいだ、 弟を自分の目の届くところに置くために自分の近くに座らせ、同じことならば、と彼に物乞いをさせていた のでしょう。

  とにかく、そのお乞食さんの秘密がわかったとき、私は生きていくことがどういうことなのか少し分かった 気がしました。世の中の秘密を見たような気がしました。そして、ちょっぴりだけ大人になれたような気がしました。 漢字を覚えても、計算ができるようになっても感じることのなかった、「私は昨日までの私とは違う」という思いが 湧いてきました。そう、私はあのとき確かに「世の中」と出合ったのです。

  何かつらいことがあると、お金を数えていたおばさんの姿を思い出します。弟を連れて縁日めぐりをして食べ ているおばさん。これは、あとでまた知ったのですが、手帳に書き付けてあったのは、何日にはどこで縁日がある のかという予定でした。わたしが、いつもヨーヨー吊りをするのを知って覚えてくれていたのでしょうか?  いつだったか、私が吊っていると、そっと水からゴムの輪を水槽のふちに引き上げて、紙のこよりを濡らさなくて も吊れるようにしてくれました。驚いておばさんの顔を見上げると、「それはオマケで吊っていいよ」というふうに 黙って目で合図してくれました。

 「私は○才のとき小児麻痺にかかり・・・云々」の文言は、おばさんが自分で書いたのでしょうか?それとも善意 を頼んで、あるいはいくらかのお金を払って、他の人に書いてもらったのでしょうか?  それはかなづかいや助詞の使い方などにところどころ間違いのある文章でしたが、整った字で書かれていました。

  お祭りのあれやこれやの詳細、紙芝居の絵のように次々と展開する一こま一こまの場面とともにあのおばさんと お乞食さんを思い出すとき、もう二度と手が届かない昔に過ぎ去った子ども時代へのたまらない懐かしさと、 「一生懸命生きなくてはおばさんに申し訳ない」という思いが心のそこから湧いてくるのです。






2005年3月23日


二つの老い(3月23日)

 今日86歳の誕生日を迎えた父は、長女(私の長姉)が末期癌で闘病中であった4年前に切迫心筋梗塞を患い、 その後、姉の死を契機に急激に老化を早めた。  それでも、1年前くらいまでは、運転免許の更新をしたくらいなので、意識は しっかりしていた。

 しかし、異変は急激に訪れた。 去年の春頃より、記憶力が異常に減退し、5分前に聞いたことを忘れるようにな ってしまった。 今のところは他人さんとの即時的な会話にはほとんど支障がないので、外部の方はほとんど異変に 気付かないようで、主治医でさえ、「年相応だで。全く問題ないでー。」(これをヤブ医者という: 先生ゴメンナサイ^^;)と言うが、家族には異変が敏感に分かる。
  昨日話した事はもちろん、5分前に話したことも大方忘れているのだから、大袈裟に言うと、人生が共有できな くなったわけだ。 込み入った事を相談することはもはや出来ない。寂しいものだが、当人は深刻に認識していない ようで、逆にある意味、それが救いでもある。 諸々の自覚が消えた時、世間ではそれを”ボケ”と言うのだろう。

  父は当時の大方がそうだったように、高等小学校しか出ておらず、それだけに一徹、頑固で、考え方の視野 も狭かった。 ただ、同時に教育によるステレオタイプを植え付けられなかったので、物事には自分の頭で考える 検証的な一面も持っていたようだ。

  戦時中、実家が軍隊にメガネ(新兵支給用)を納入していた関係で、軍医さんの検眼の手伝いで父は頻繁に軍 に出入りしていた。
 そこで見た新兵の身体検査に父は仰天した。 皆、一糸まとわぬ全裸にさせられていたからだ。  新兵は順番待ちで並ばされている間、自然に、皆が検診票で前を隠す。 すると、検診票に記入しながら、軍医の先生 が、「検診票を前に置くと臭くなる!」と大きな声で一喝した。 すると全員が一斉に検診票を外して”気を付け”の姿勢にな り、各自の一物はぶらりと白日にさらされたそうだ。

  軍医でもなく、長髪のまま出入りする父を、奇異な目で見る士官もいて、「何だあ、その頭は、坊主に せんかい。」と言われる度に、父は、「軍隊に入ったら坊主にしますけえ。」と答え、結局最後まで頭を丸めなか ったそうだ。 私的制裁も多く見聞し、父が軍隊嫌いになるのに、そう時間はかからなかった。

  自分の兵隊検査が近付いた時、父は親しい軍医に相談した。

軍医: 「何だあ、お前、(軍隊に)入りたいだかあ?」

父:  「こらえてつかんせえな。何でも手伝いますけえ。」

軍医: 「お前、どこぞ悪い所がないだかいや。」

 詳細は省くが、父は大痔主だった。 結果はめでたく丁種合格で兵役免除になった。 いわゆる非国民だが、 兄2人と自動車1台を国に献じたので、許されたい。 私が今ここに居る根拠でもあるので。

  父は、同じく体が弱くて兵役免除になっていた私の母方の叔父(電器屋をしていた)がこっそり作った短波受 信機を、叔父と一緒に押入の中で聞いていた。

「”超空の要塞”は、*月*日に**市、*月*日に**市・・・を爆撃します。 住民の方は避難してください。・・・・」  と米軍は流暢な日本語で放送していたそうだ。”超空の要塞”とは、B29爆撃機のことである。  日本の各都市は、その予告通り、正確に爆撃されて行った。

  終戦後、進駐軍が鳥取市に入った日、ほとんどの商店は固く戸を閉ざしていたが、父は自分の小さな時計眼 鏡店を開店して待ち受けた。 直に、「英語を教えてやる。」という数名の米兵が店に入り浸るようになり、 店は繁盛した。

  父はかつて老醜を厭った。 店の前を通る、二つ折りに腰の曲がった老人を見ては、「あれは農耕民族だ。」 と言い、逆に腰を痛めて仰向けにのけぞって歩く老人がいたので、私が、「父さん、あれは何民族?」と聞いたら、 「騎馬民族だ。」と笑っていた。
  まとめれば父の暴言録ができそうだ。 今や父には天罰が下ったのだろう。まさしく完璧な反面教師だ。 先日、杖が要るようになった父に、「お父さんは何民族?」と言ったら、父は大いに笑いながら、おどけてさら に腰を曲げてよたよたと歩いて見せた。

  ただ、一方で、父には今だに40年間も散髪をしに通ってくれる理髪師がいる。彼が少年だった修業時代に、 ただ優しく声をかけてあげていたくらいだったと思うのだが、その理髪師の青年は、「親父さんの頭はわしが一生 刈りますけえ。」と言い、40年間、本当にほとんどタダで毎月数十キロ先から通い続け、約束を果たそうとしている。  また、定期的に獲物を届けてくれる漁師もいる。

 父は子供の頃、外国航路の船員になりたかったそうで、船員養成学校の資料を取り寄せていたところを祖父に 見つかり、「船乗りなどというヤクザな仕事は絶対に許さん!」と一喝された。 その後に父が「車の整備の仕事に 就きたい。 これからはいずれ車社会が到来するはずです。」と言ったら、祖父は、「お前は西洋の車引きになる つもりかあ! 絶対に許さん!」 父は、「いや、運転手ではなく、車を修理する方の仕事です。」と反論すると、 祖父は「それなら、尚更悪い。」と言ったそうだ。
  画家になりたいと言い出した小学生の私に、父はその道の困難さや貧乏の恐ろしさをとくとくと話し、早々 と芽を摘んでくれた。 器械体操に没頭していた高校時代、その道に進むことを希望した私に、「お前がオリンピッ クに出られるわけがない。」とか、「体育教師でメシが食えると思うのか。」とか言った。
 何とも進歩のない家系である。 また、若い頃に、親の反対を押しのけるだけの気甲斐性を持たなかった自分にも 今さらながら呆れる。

  祖父はずっと昔に灰埃と化し、気付くと父も終末を迎えようとしていて、自分自身も人生の折り返し点を回って いることに愕然とさせられる。 昔の話は今となっては笑い話だが、何とも因果な抑圧の連鎖に生きて来たものだ。

  もう一つの老いは、満20歳になる愛猫ゴンのことだ。雌猫ゴンはこの1か月で急激に衰えた。 このゴンの1か 月余りは人間に当てはめれば1年近くに匹敵するのだろう。 どうしても父の衰えと比較してしまう。
  ゴンの居場所は2階であり、トイレだけは階段を上った3階の踊り場に置いているのだが、1か月余り前から、 トイレのすぐ外にオシッコをするようになり、それから階段の上から数段目くらいに漏らすようになり、その段数が 日に日に下がり、ついには階段までの廊下に漏らすようになってしまった。 さらに、時々部屋の中で失敗するように なり、家族はゴンから目を離せなくなった。
 この間、もよおした様子のゴンの脇をかかえてトイレに向かってい たら、階段の途中で水がパシャパシャいう音がした。待ちきれずにゴンが漏らしたオシッコだった。ズボンにもかか ってしまったが、私は思わずゴンを抱き寄せて頬ずりした。 視力は全盲に近く、聴力もかなり衰えていて、 確実に別れが近付いたことを実感した。

 

(父の足跡は”甥の結婚式”に掲載しています。)

  




2002年8月23日~2003年12月15日

2004年1月3日~2005年1月2日


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