日ソ戦争 地図・ソ連の歴史教科書
                     2012年3月 Minade Mamoru Nowar

ロシア国民にソ連の日本人捕虜奴隷労働被害を認識させることが肝心だ!
ソ連は対日宣戦布告文の中で「ポツダム宣言に参加して日本に宣戦布告」
としている。

ソ連が日本人捕虜にシベリア等において奴隷労働を強制したことは、
明白なポツダム宣言第9項違反であり、人道に反する行為であったことを、
あらゆる機会を捉えて、ロシアと国際社会に訴え、
ロシア政府に国としての公式謝罪を求めなくてはならない。

それ以前に、日本政府は、
シベリア奴隷労働被害者に国としての公式謝罪を行わなければならない。

日本政府は毎年、1月の厳寒期に被害者が亡くなったシベリアの地において
公式行事としてシベリア奴隷労働被害者の慰霊祭を行わなければならない。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)
ソ連の「正義の戦い」ではない!
ソ連の帝国主義侵略戦争だ!



1.日ソ戦争のポイント
1.

日ソ戦争(=ソ連の対日参戦)は1945年8月9日に、
ソ連(現ロシア)が仕掛けてきた戦争である。
日中戦争と太平洋戦争は日本が仕掛けた戦争である。
この点が日ソ戦争と日中戦争・太平洋戦争とが大きく異なる点である。


2.
日ソ戦争によって、戦中、戦後に死亡した者は下記4つに分けられる。
@満州(中国東北部)、南樺太(南サハリン)、千島列島における
  戦闘中に戦死した日本人軍人数は不明である。
  2008年4月現在、日本政府は国会においてその旨答弁している。
A戦闘終了後、シベリア・中央アジア・モンゴル等へ拉致移送され、
  拉致移送中に死亡した日本人捕虜(軍人及び民間人)は
  4万人以上である。
B戦闘終了後、シベリア・中央アジア・モンゴル等へ拉致移送され、
  奴隷労働を強制され、奴隷労働中に死亡した日本人捕虜
  (軍人及び民間人)は16万人以上である。
Cソ連軍が日本への帰国を禁止したため、満州及び北朝鮮で
  飢え、病気、極寒、栄養失調、絶望、自殺等で死亡した民間人は
  25万人以上である。
上記4区分の合計は50万人以上である。
3.

日本がソ連を含む連合国に対する降伏文書に署名したのは
1945年9月2日である。
ソ連が北方領土の国後島、色丹島を不法に武力占領したのは
9月1日である。
ソ連が北方領土の歯舞諸島を不法に武力占領したのは
9月3日〜9月5日である。
4.
日ソ戦争は極悪非道なスターリンのソ連(現ロシア)による
領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得のための
不正不義の帝国主義侵略戦争
であった。

下記の歴史事実はソ連(現ロシア)が、
1945年8月9日〜9月2日
25日間の帝国主義侵略戦争で莫大な富を獲得したことと、
その富がエネルギー資源、漁業資源として、現在もなお、
ロシア(旧ソ連)に莫大な利益をもたらし続けていることを
明確に示している。
@南サハリンを日本から取り戻した。
A日本の固有領土であり、古来、日本人が平穏無事に居住していた
  千島列島全部及び北海道に帰属する歯舞諸島を
  米国とのヤルタ協定に基づいて武力占領した。
  これは領土不割譲を宣言した大西洋憲章に違反する
  【領土獲得行為】である。
Bポツダム宣言・第9に違反して70万人以上
  日本人捕虜(軍人及び民間人)を拉致移送し、
  奴隷労働を強制して、
  現在の日本円価値で【年間3兆円以上の労働搾取】を行った。
C満州(中国東北部)及び北朝鮮を占領したソ連軍は金塊、宝石、
  貴金属、産業設備、産業資材、医薬品、衣料品、生活資材など
  あらゆる財貨を略奪して、昼夜兼行ですべてソ連領土に運び込んだ。
  20世紀における軍隊が行った典型的な【国家による強盗行為】である。

注:ポツダム宣言・第9
「日本の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰して
 平和的、かつ生産的な生活を営む機会を与えられる」

5.

ロシア政府及びロシア国民は、こぞって、一貫して
「日ソ戦争は軍国主義侵略国家・日本帝国を打倒した
スターリンのソ連の正義の戦い」
と固く信じている。
6.
日ソ戦争勃発当時、満州、北朝鮮、南樺太、千島列島に駐留していた
日本軍軍人は91万5733人である。この地域に居住していた日本人
民間人は223万2752人である。
合わせて314万8485人がソ連支配地域にいたことになる。
この地域からは軍人及び民間人が合計235万8203人引き揚げてきた。
差し引き約79万人死亡中国支配地等へ移動、及び消息不明
いうことになる。

2.ソ連の日ソ中立条約廃棄通告、及び、
   ソ連の対日宣戦布告文

@
対日宣戦布告4か月前の4月5日、当時米英と連合して対ドイツ戦を
遂行していたソ連は、日ソ中立条約の廃棄を通告してきた。

ロシアの国際関係史専門家であるボリス・スラヴィンスキー氏の
著書『日ソ戦争への道−ノモンハンから千島占領まで』
(加藤幸廣訳 共同通信社 1999年8月発行)の第374頁に
記載されているソ連の日ソ中立条約の廃棄通告は次の通りである。

ソ連の日ソ中立条約廃棄通告
「ソ連と日本との間の中立条約は1941年4月13日に締結された。
すなわち、この条約が締結されたのは、ドイツがソ連を攻撃する
前であり、また日本を一方として、英国と米国を他方とする両者間で
戦争が開始される前であった。

そのときから状況は根本的に変化した。ドイツはソ連を攻撃し、
ドイツの同盟国である日本は、独ソ戦においてドイツを援助している。
のみならず、日本は、ソ連の同盟国である米英両国と戦争をしている。

このような状況のもとで日ソ中立条約は意味を失い、この条約の
期限を延長することは不可能となった。

以上の理由により、(省略)ソ連政府は、この通告をもって、
条約の廃棄を表明する。」

ソ連はヒトラーのドイツの大軍団に侵攻され死闘を続けていたが、
ドイツとの死闘に勝利する見通しが明確となったので、ソ連は
ドイツの同盟国である日本を攻撃するため、日ソ中立条約の廃棄を
通告してきたのである。この通告文に明確に述べられている通り、
当時、ソ連は米英両国の同盟国であった。当然、このソ連の
中立条約廃棄通告は、明確な、事実上の対日宣戦布告で
あると思う。


A
ソ連の【対日宣戦布告】は、モスクワの日本大使館の電話線を
全部切断
した上で、開戦1時間前の日本時間8月8日午後11時に、
モロトフ外務人民委員が、突然、日本の佐藤大使に言い渡すという
卑劣なやり方で行われた。
佐藤大使には日本本国に直ちに連絡する通信手段は無かった。

ソ連の対日宣戦布告文
ヒトラー・ドイツの敗北ならびに降伏の後、日本は依然として
戦争の継続を主張する唯一の大国となった。

日本陸海軍の無条件降伏を要求した今年7月26日の三国、即ち
アメリカ合衆国、英国ならびに中華民国の要求内容(=ポツダム宣言)
日本の拒否するところとなった。

従って極東における戦争の終結斡旋に関して
ソビエト連邦に寄せられた日本政府の申し入れは一切の基礎を失った。

日本の降伏拒否を熟慮した結果、
連合国はソビエト政府に対して、
日本の侵略に対する戦争に参加し、戦争終結の時期を短縮し、
犠牲の数を少なくし、世界全体の平和をできる限りすみやかに
回復することを促進するよう求めた。

ソビエト政府は連合国に対する自国の義務に従い、
連合国の求めを受諾し、
今年7月26日のポツダム宣言に参加した。

ソビエト政府はこの戦争参加方針のみが平和を促進し、
各国の国民を今後の新たな犠牲と苦難から救い、
日本国民をして、ドイツが無条件降伏を拒否した後に蒙った
危険と破壊を避けしめ得る唯一の道と考える。

以上に鑑みソビエト政府は、明日、8月9日より
ソビエト連邦が日本と戦闘状態に入る旨宣言する。

1945年8月8日

モロトフ外務人民委員は佐藤大使に対し、以上と同時に、東京駐在
マリク大使がソビエト政府のこの宣言を日本政府に通達する旨を伝え、
佐藤大使はソビエト政府のこの宣言を日本政府に伝達する旨を公約した。

3.日ソ戦争勃発を報じた新聞記事
朝日新聞 昭和20年(1945年)8月10日第1面より転載

4.日ソ戦争という名称


筆者が2006年10月上旬、電話で問い合わせた結果では、
外務省、厚生労働省、文部科学省、内閣府北方対策本部では
【日ソ戦争】という名称は使われていない。

国立公文書館アジア歴史資料センターのキーワード検索で
【日ソ戦争】で検索しても、わずか2件しか出てこない。

国立国会図書館の資料の検索のキーワード検索で
【日ソ戦争】
で検索してもわずか7件の文書が出てくるのみである。
ちなみに、日露戦争で検索すると146の文書が出てくる。


5.日ソ戦争の概要

1945年8月9日〜9月2日の25日間の【日ソ戦争】は、
極悪非道なスターリンのソ連の帝国主義侵略戦争であつた。
後述するソ連の歴史教科書によると日本軍の戦死者は
8万人以上である。谷博之参議院議員の質問主意書に対する、
閣議決定を経た2006年6月20日の小泉純一郎首相名の
政府答弁書は、「日ソの直接の交戦で死亡した日本軍軍人・軍属の
人数については日本政府は把握しておらず、お答えすることは
困難である
」と答弁している。

歴史事実は極悪非道なソ連の独裁者スターリンの戦争目的が、
領土獲得、奴隷獲得、財貨獲得であったことを明確に示している。

@
1945年8月15日の昭和天皇の降伏放送、8月16日の
マッカーサー元帥と日本大本営の戦闘中止指令後も、
ソ連は戦闘を継続して、千島列島の占領を行った。
ソ連が北方領土の国後島・色丹島を占領したのは9月1日である。
ソ連が北方領土の歯舞諸島を占領したのは、ソ連が日本の
降伏文書に調印した9月2日の後の9月3日である。
A
ソ連軍は【日本人男狩り】といわれる
【奴隷狩り】を行った。
【奴隷狩り】で逮捕した民間人と日本軍軍人捕虜合わせて
70万人以上を、ポツダム宣言にも国際法にも違反して、
シベリアに拉致移送して、奴隷として強制重労働をさせた。
拉致移送途中の死亡者を含め20万人以上を死亡させた。
ソ連のこれらの行為は国際裁判で裁かれるべき
明白な国家による犯罪であり、【人道に反する罪】である。

1951年(昭和26年)7月25日に外務省が発表した
『引揚白書』によると、終戦時、ソ連軍の手中に陥った
日本人捕虜の数は、旧日本陸海軍の記録、及びその後の
日本政府の調査によると約86万人である。

ソ連側のいわゆる「正式の資料」では日本人捕虜の数は
59万4,000人である。



B
ソ連軍は、間髪をいれず満州にあった金塊・宝石類・産業施設・
運輸施設・資材・衣料・食糧、はては机・椅子にいたるまで、
【金目の品は全て】略奪して、昼夜兼行でソ連領内に移送した。

さらに満州(中国東北部)と北朝鮮を占領した凶暴なソ連軍の
兵士たちは、日本人女性に対してほしいままにレイプ(強姦)を行った。
朝日新聞1946年(昭和21年)4月24日第3面は、女性国会議員の
談話として「
満州の日本人婦女子も、脱走者の話によると、
四割位は混血児を生む運命を背負っているらしい」と報じている。

 『高松宮日記 第8巻』(中央公論社1997年12月発行)
第176頁には「北朝鮮に侵入せる
ソ連兵は、白昼、街道にて、
通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、
1日数度強姦せらる。2人の娘を伴う老婦人は、かくして、
上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、
(引き受け者の)人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて
決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。(慰安婦を)強要せられ
自殺せるものも少なからず。・・・」と記述されている。

6.各地域における戦闘状況


7.日ソ戦争関連地図

1.ソ連軍の配置図

資料:志村英盛作成 

ソ連軍の地上軍の戦力は3軍合計で、戦車・自走砲 5,250輌、
火砲・迫撃砲 24,380門
であった。飛行機は5,171機に達していた。
日本軍の戦力は、戦車約200輛、火砲・迫撃砲 約1,000門 であった。
戦闘可能な飛行機は約200機であった。

ザバイカル方面軍は1945年8月時点では、世界最強の戦車軍団であったと
思われる。装備は戦車・自走砲2,359輌、火砲・迫撃砲8,980門であった。
砂漠を横断し、大興安嶺山脈を越えて、10日間で満州西部全域を制圧して、
長春、瀋陽に入城した。世界戦史上、特筆すべき快進撃であった。ちなみに
関東軍が保有していた戦車はわずか200輌であったといわれる。

2.関東軍の対ソ作戦計画参考図

資料出所:半藤一利著『ソ連が満洲に侵攻した夏』 文藝春秋 1999年7月発行 第105頁

3.ソ連軍の南サハリン・千島列島・北方領土侵攻図

資料出所:中山隆志著 『1945年夏 最後の日ソ戦』 )国書刊行会95年7月発行 第16頁

8.日ソ戦争勃発時の関東軍の兵力

関東軍(満州駐留日本軍)の師団の配置転換と
【根こそぎ動員】による【かかし師団】の新設の状況


資料出所:太平洋戦争研究会著『図説 満州帝国』 河出書房新社 1996年7月発行 
       第127頁&第133頁

中山隆志(陸上幹部学校戦史教官室長、防衛大学教授)著『関東軍』(講談社00年3月発行)
第242頁〜第243頁は次のように述べている。

「関東軍は1945年3月に有力師団の抽出(=配置転換)で戦力最低に落ち込んだ後、
1945年5月に5個師団が支那派遣軍から転入した。当時、陸軍中央部は米軍の本土上陸
への対応に追われ、北方の防衛でも対ソよりも、むしろ対米にウエイトがかかる状態であっ。

関東軍は自力更生をはかるほかなく、満州在住の日本人のいわゆる【根こそぎ動員】
より、8個師団と7個独立混成旅団を新設した。その結果、外面上は、合計24個師団、
9個独立混成旅団、1個国境守備隊、2個独立戦車旅団、1個機動旅団、2個飛行団の
編成になった。

兵員約70万名、砲約1,000門、戦車約200台、戦闘用飛行機約200機であった。

しかし、その大部分は、1945年に入ってからの新設部隊であり、特に1945年7月に
編成した8個師団などは【根こそぎ動員】によるもので、任地に移動中のものも多く、
また装備の多くが間に合わず、部隊としての教育訓練を進める暇もなく、ソ連の侵攻に
直面した。」

関東軍編成表
赤字の師団・旅団はソ連軍侵攻直前の45年7月に、満州在住の開拓団員、
民間人を【根こそぎ動員】して新設した【かかし師団・旅団】である。

方面軍 師団・旅団 兵員数
第1方面軍 東正面・敦化
第3軍 延吉
第79師団 18,000
第112師団
第127師団
第128師団 15,000
独立混成第132旅団 5,000
機動第1旅団
第5軍 牡丹江
第124師団 19,000
第126師団 19,000
第135師団 14,000
(方面軍直轄)
第122師団
第134師団 16,000
第139師団
第3方面軍
第30軍 新京(長春)
第39師団
第125師団
第138師団
第148師団
第44軍 奉天(瀋陽)
第63師団
第107師団 14,000
第117師団
独立戦車第9旅団
(方面軍直轄)
第108師団
第136師団
独立混成第79旅団
独立混成第130旅団
独立混成第134旅団
独立戦車第1旅団
第4軍 ハルビン
第119師団 19,000
独立混成第80旅団 7,000
第123師団 16,000
独立混成第135旅団 5,000
第149師団
独立混成第131旅団
独立混成第136旅団
第34軍 京城(ソウル)
第59師団
第137師団
独立混成第133旅団
合計 700,000

中山隆志著『満洲−1954・8・9 ソ連軍進攻と日本軍』
国書刊行会 1990年8月発行 付録1−付録5に基づき志村英盛作成。

一部師団の兵員数は同書に記載されているものである。その他の師団、
旅団の兵員数については、全体で約70万人ということで、個別明細は
防衛庁防衛研究所でもご存知ないとのことである。

筆者が調査したかぎりでは、関東軍関係の資料で個別師団・旅団別の
兵員数を記載した資料は無かった。

1945年8月15日現在の日本陸軍・海軍の地域別兵員数
  
(陸軍5,472,400人、海軍2,416,700人)
厚生省援護局1964年3月1日作成、防衛研修所戦史室1967年7月複製

地域名 陸海軍兵員数
日本本土 4,335,500人
小笠原諸島 23,600人
沖縄諸島 52,100人
台湾 190,500人
朝鮮 335,900人
樺太・千島 91,000人
満州 665,500人
中国本土・香港 1,124,900人
中部太平洋諸島 106,900人
フィリピン 127,200人
仏印 98,200人
タイ 107,500人
ビルマ・インド 71,500人
マレー・シンガポール 134,700人
アンダマン・ニコパル 11,300人
スマトラ 59,600人人
ジャワ 50,100人
小スンダ 20,500人
ボルネオ 29,500人
セレベス 26,500人
モルツカ 71,300人
ニューギニア 33,800人
ビスマルク諸島 96,400人
ソロモン諸島 25,100人
合計 7,889,100人



ソ連地区からの引き揚げは1946年12月から始まった。1947年11月までに
195,765人が引き揚げてきた。復員庁(その後引揚援護庁に統合)は
彼らの上陸時に徹底した聞き取り調査を行った。

若槻泰雄教授は、著書『シベリア捕虜収容所(下)』(サイマル出版会 1979年発行)
第271頁〜第273頁
で、当時の復員庁/引揚援護庁の調査について次の通り
述べている。

「シベリアからの帰国手続きについて、他の地域と著しく異なったのは未帰還者の
消息調査であった。ソ連軍管理地域においては、従来の日本軍組織は解体され、
新しく作業大隊が編成された。その作業大隊も、作業の必要性、戦犯追及、懲罰の
目的で、たびたび移動、分割、統合、配置換えが行われた。加えて、おびただしい
死亡者、行方不明が続出した
ため消息調査の重要性が認識された。

そこで復員庁/引揚援護庁は在ソ中の移動などについて
詳細な調査票を提出させると共に、
未復員者名簿を備え付け、これを閲覧させながら、
その中から死亡、生死不明、抑留者の消息を書き込ませた。

これにより延べ270万件余の個人消息を取得した。

この聞き取り調査結果をまとめたものが『ソ連地区収容所掌握概況表1947年12月1日現在
である。帰国者208,375人に、死亡者77,107人、残留者477,898人を加えて、
当時、日本政府はシベリア等へ拉致移送されたものの総数は763,380人と推定していた。
『戦後強制抑留史 第二巻』(平和祈念事業特別基金 2005年発行)第181頁

復員庁留守業務局鮮満残務整理部作成
ソ連地区収容所掌握概況表 1947年(昭和22年)12月1日現在

ソ連地区収容所掌握概況表
地区 収容所 収容所 収容所
地区名 番号 開設数 閉鎖数 合計数 残留人員 死亡人員
ナホトカ 9 7 0 7 14,410 230
テチューヘ 10 5 1 6 1,100 135
スーチャン 11 12 5 17 10,112 3,813
アルチョム 12 6 5 11 5,308 453
ウラジオストーク 13 22 4 26 17,386 1,099
ポシェツト 7 5 0 5 7,300 2,300
ウォロシーロフ 14 55 6 61 24,975 3,913
セミョーノフカ 15 12 3 15 2,878 928
イマン 16 16 4 20 3,237 857
ホール 17 3 8 11 1,100 654
ハバロフスク 16 17 7 24 5,635 934
コムソモリスク 18 9 7 16 8,933 2,129
ソフガーワニ 47 4 2 6 1,200 900
ムリー 1 63 27 90 19,675 2,734
ホルモリン 5 33 1 34 13,723 495
ニコライエフスク 21 0 7 7 530
北樺太 22 4 0 4 3,155 119
ビロビジャン 46 10 3 13 3,800 1,250
イズヴェストコーワヤ 4 58 0 58 19,353 1,006
ライチハ 19 12 3 15 18,125 2,937
ブラゴヴェシチェンスク 20 22 5 27 12,430 1,903
ルフロヴォ 7 4 3 7 1,281 259
スレチェンスク 25 4 5 9 3,620 1,197
チタ 24 54 4 58 33,455 12,728
カダラ 52 17 2 19 6,130 4,579
ウランウデ 23 18 5 23 6,319 1,250
ウランバートル 10 7 3 10 3,423 2,000
イルクーツク 32 24 6 30 18,202 2,773
チェレンホーヴォ 31 7 2 9 4,235 1,030
タイシェット 53 50 3 53 25,473 3,621
クラスノヤルクス 34 11 3 14 12,626 1,266
アバカン 33 3 7 10 2,190 1,617
ノヴォシビルスク 13 1 14 11,091 983
ロストフカ 4 1 5 5,177 2,797
バルナウル 10 4 14 7,890 2,015
ウスチカメノゴルスク 45 8 3 11 3,060 412
アルマ・アタ 40 9 7 16 5,090 385
カラガンダ 99 18 3 21 13,588 765
タシケント 288 8 2 10 18,282 416
コーカサス 4 4 8 1,442 78
ウクライナ 4 1 5 940 122
ウラル 14 0 14 13,819 2,249
モスクワ 3 2 5 2,200
地区不明 15 1 16 17,330 1,886
684 170 854 410,698 73,747
人員不明収容所 67,200 3,360
総計 684 170 854 477,898 77,107

原資料 この資料は外務省外交史料館の許諾をいただいて転載しています。
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9.関東軍必死の反撃

日ソ戦争当時のザ・バイカル方面軍司令官で、その後ソ連国防相となった
マリノフスキー元帥は、著書『関東軍壊滅す−ソ連極東軍の戦略秘録−』
(石黒寛訳 徳間書店1968年2月発行)の第192頁〜第193頁で次のように述べている。

「8月13日から14日まで、牡丹江方面の日本軍は反撃を強化し、
決死隊による爆破戦によって、ソビエト軍の進攻を阻止しようとした。
普通、決死隊または単独の決死隊員はわが軍の小グループ、
単独の自動車、騎兵、オートバイを襲った。多くの決死隊員は
とくにソビエト軍将校を目標とし、白刃をかざして襲った。

彼らはしばしば爆弾や手榴弾を身体にしばりつけ、高い高梁(コーリャン)
の下にかくれながら、戦車やトラックの下に飛び込んだり、
ソビエト兵たちの間に紛れ込んで自爆したりした。

時には多数の決死隊員が身体に爆弾や手榴弾を結びつけ、
生きた移動地雷原となった。牡丹江入口で日本軍が反撃に出たときは、
地雷や手榴弾を身体中結びつけた200名の決死隊がおい茂った
草の中を這い回り、ソビエト戦車の下に飛び込んでこれを爆破した。

決死隊の行動をよく示す例は、彼らが牡丹江の鉄橋爆破を企てた
ときのことである。爆弾を身体中に結びつけた15名の日本決死隊は
鉄橋の鉄筋コソクリート支柱に自ら飛び込み、これを爆破しようとしたが、成功しなかった。

その献身的な行為にもかかわらず、日本決死隊は大抵の場合その目的を
達成せず、その大部分は自動小銃掃射の犠牲となり、成功したのは若干にすぎない。」

10.日本人開拓民所在図

資料出所:太平洋戦争研究会著『図説 満州帝国』 河出書房新社1996年7月発行 第106頁

満州及び北朝鮮における日本人民間人の避難状況図

資料出所:防衛庁防衛研修所戦史室編
『戦史叢書 関東軍(2) 関特演・終戦時の対ソ戦』 第410頁
 (株)朝雲新聞社 昭和49年6月発行

11.満州・関東州(大連)における省別日本人民間人死亡者数
厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会 監修
『援護50年史』((株)ぎょうせい 平成9年3月発行)第86頁

12.各国の歴史教科書

1.ソ連の歴史教科書
全訳 世界の歴史教科書シリーズ22 ソヴィエト連邦W(1981)帝国書院

ソ連の歴史教科書

帝国主義日本の敗北。第二次世界大戦の終結

日本帝国主義−ソ連国民の敵


ファシズム=ドイツの壊滅と降伏後、ヨーロッパの戦争は終わった。しかし、
侵略の第二の震源地である帝国主義日本が存在しているかぎり、
ソ連邦の安全が保障されているとみなすことはできなかった。

ドイツの最後の同盟国であるこの強力な軍事国家は、アメリカ合衆国・
イギリス・中国と戦っていた。戦闘は、ソ連邦の極東の国境の近くで行われていた。

日本帝国主義者は、中国の大部分と、朝鮮・インドシナ・インドネシア・
ビルマ・フィリピン諸島の全域を占領していた。これらの諸国における
占領体制は、それ以前のアメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダの
帝国主義者の植民地的抑圧とほとんど異なっていなかった。

隷属させられた国々の諸国民は、それぞれの共産党の指導のもとに
闘争に立ちあがった。

日本帝国主義は、ソ連邦の最悪の敵であった。何十年もの間、
日本はソ連邦に対して敵対的な政策をとり、極東とシベリアを奪おうとして、
何度も武力侵入を行った。

日本の支配層は、ファシズム=ドイツを積極的に援助し、わが国の経済・政治・
軍事の状況についての偵察情報や秘密情報をドイツに与えた。

1941年に日本の参謀本部は、ひそかにソ連邦に対する戦争の計画を作成
していた。計画では、軍事行動の開始と終了の正確な日付けまで決められて
いた。日本軍の将校・兵士は、ソ連の国民に対する敵意と憎しみをもつように
教えこまれていた。

日本の軍国主義者は、ソ連邦の極東の国境での軍事的挑発をやめなかった。
1944年だけで、そのような侵犯が約200件あり、そのなかにはソ連領に対する
砲撃という場合が数多くあった。

また海上では、侵略者の軍艦は、わが国の商船をだ捕したり、場合によっては
沈めたりさえした。

国境を守るために、ソ連邦は1941〜1945年に、極東に47個師団と50個旅団を
とどめておかねばならなかった。太平洋艦隊も極東の国境を守っていた。

敵対的な行動とソ連領にたえず武力侵入の脅威を与えることによって、
日本は、1941年4月に締結されたソ連邦との中立条約を実質的に踏みにじって
いた。このことを考慮し、ソ連政府は1945年春に、日本側の責任により
中立条約はその効力を失っている、と声明した。

しかし、この警告も、軍国主義者に道理をわきまえさせることはできず、彼らは
侵略的な方針をとり続けた。

7月末、アメリカ合衆国・イギリス・中国の政府は、日本に降伏の最後通告を行ったが、
日本はそれを拒否した。500万の陸軍と1万の空軍機、そして大海軍をもっていた
日本政府は、戦争を継続することに決定したのである。

日本政府は、連合間の内紛を期待し、和平を結ぶ際に条件を有利にするために
戦争を長びかせようとした。日本軍司令部は、太平洋戦域では防衛にまわって、
イギリス・アメリカ軍のこれ以上の前進と日本の領土への上陸を阻もうとした。

これと同時に、日本政府は、占領したアジアの大陸部分に、しっかりとした
防衛態勢をつくろうとしていた。

日本本土と中国には大部隊が集中され、強力な防衛線が構築された。
アメリカ合衆国とイギリスの政府は1945年に、ソ連邦が対日参戦しなかったら、
イギリスとアメリカは日本本土に上陸するだけで700万の軍隊を必要とし、
戦争はドイツの敗北後さらに18か月続くだろうということを認めていた。

極東におけるソ連邦の参戦

三大国のクリミア会議で、ソ連邦は、帝国主義日本に対する参戦の義務を
引き受けた


1945年夏、ソ連軍司令部は、多くの部隊を西方から東方に移した。その結果、
極東におけるわが軍の総兵力は、ほぼ2倍になった。

日本の関東軍を粉砕するために、最高総司令部は、つぎの三つの方面軍を展開した。
すなわち、モンゴル人民共和国領内にエル=ヤ=マリノフスキー元帥指揮下の
ザバイカル方面軍、アムール地方にエム=ア=プルカーエフ将軍を司令官とする
第2極東方面軍、沿海州にカ=ア=メレツコーフ元帥指揮下の第1極東方面軍、
がそれである。

戦闘には、イ・エス=ユマーシェフとエヌ・ヴェ・アントーノフの両提督の指揮する
太平洋艦隊とアムール艦隊も参加することになっていた。艦隊と地上軍との
行動の連絡・調整は、海軍総司令官のエヌ:ゲ=クズネツォーフ提督が行った。

この三つの方面軍で、兵力は150万人以上、火砲・迫撃砲26、000、
戦車・自走砲55、000、空軍機約4、000をもっていた。太平洋艦隊は、多くの艦船・
潜水艦・航空機をもっていた。対日戦争におけるすべての部隊を指揮するために、
ア・エム・ワシレフスキー元帥を司令官とする極東ソ連軍総司令部がつくられた。

ソ連軍は、強力な敵との戦闘にはいろうとしていた。満州・朝鮮・南サハリン
〈南樺太〉・クリール諸島〈千島諸島>には、関東軍やその他の日本軍の大部隊が
展開されていた。彼らは、兵力120万人以上、戦車1、200、火砲5、400、空軍機
約2、000をもっていた。


以上のように、ソ連軍は、兵力においても少し優勢なうえ、敵よりもはるかに
多くの兵器をもっていた。

1945年8月5日ソ連邦は帝国主義日本に対して宣戦布告した。
ソ連国民の任務は、第二次世界大戦の終結を早め、わが国の極東に対する
日本軍国主義者の攻撃のたえざる脅威を取り除き、かつて日本によって
奪い取られた南サハリンとクリール諸島を祖国に取りもどし、連合国と協力して、
日本によって占領された国々から日本の侵略者を追い出し、アジアの諸民族が
日本帝国主義の圧制から解放されるのを助ける、ということにあった。

志村注:8月8日が正しい。8月5日は偽りである。
ソ連の【対日宣戦布告】は、モスクワの日本大使館の電話線を
全部切断した上で、開戦1時間前の日本時間8月8日午後11時に、
突然、日本の佐藤大使に言い渡すという卑劣なやり方で行われた。
佐藤大使には日本本国に直ちに連絡する通信手段は無かった。

このためには、関東軍と南サハリン・クリール諸島の日本軍を粉砕しなければ
ならなかった。

ソ連邦が対日参戦をする直前の8月6日の朝、アメリカ軍の飛行士は、
大統領H.トルーマンの命令に従って、広島に原子爆弾を投下した。

市は雲のような煙と放射能灰におおわれた。数秒間のうちに広島は破壊された。
いたるところに黒こげの死体が横たわっていた。

8月9日、アメリカ軍は第2の原子爆弾を港湾都市の長崎に投下した。
これらの都市に対する爆弾投下の結果、約50万人の人びとが死亡したり、
不具になった。

日本の都市に対する原子爆弾の投下は、軍事的な必要によってなされたもの
ではなかった。この野蛮な行為によって、アメリカ政府は、何よりもまずソ連邦を驚かせ、
ついで、核の脅威によって世界支配を成し遂げようと望んだのである。

すでに、1945年4月に、H.トルーマンはこう述べている。「もし、これ(原子爆弾)が
爆発してくれれば、われわれは、あのロシアの連中に対する梶棒をもつことになるのだ、
と私は思う。」

二つの原子爆弾は、戦争の結末に決定的な影響を与えることはできなかったし、
それらは日本の軍国主義者たちに戦闘をやめさせることもできなかった。

帝国主義日本の降伏

8月9日の明け方、ソ連軍は、バイカル湖東岸地方からウラジヴオストークと
クリール諸島に至る5、000kmにわたる戦線で、関東軍を攻撃した。

モンゴル人民共和国も参戦した。中国人民解放軍も日本の侵略者に対する
戦闘を活発化した。 帝国主義日本に対するソ連邦の戦争は、大祖国戦争の
不可分の一部であり、その継続であり、完了であった。

赤軍が攻撃に移ったことは、日本の支配層と軍部を絶望のどん底に突き落とした。
8月9日の大本営会議で日本の首相はこう述べている。「今朝のソ連の参戦によって、
わが状況は最終的に打開不可能のものとなり、これ以上戦争を続けることも不可能と
なった」と。

このように、極東の侵略者に対する勝利をおさめるにあたって、
決定的な役割を果たしたのは、まさにソ連邦の国民であった。

中国・朝鮮・その他の国の国民は、ソ連邦の対日参戦を熱烈に歓迎した。
東南アジアでは、民族解放運動がさらに広範に展開していった。


ザバイカル方面軍の主力部隊は、モンゴル人民共和国の領土から打撃を加えた。
そこに進んだ部隊は、中国東北地区の中央部に出るまでに、砂漠を横断し、
大興安嶺山脈を越えねばならなかった。

沿海州方面からは、第1極東方面軍が進攻し、ザバイカル方面軍の主力と合流
することになっていた。この方面では、わが軍は、数百キロメートルにわたる
鉄筋コンクリート要塞の密集線を突破しなければならなかった。

アムール地方からは、第2極東方面軍が進攻し、ザバイカル方面軍・第1極東
方面軍による関東軍主力の包囲という任務を援助することになっていた。

進攻は困難な条件のなかで行われた。とりわけ困難な障害となったのは、
大興安嶺山脈と増水したアムール川とウスリー川であった。

満州では、8月8日から豪雨が続いていた。河川は氾濫していた。道路は、
氾濫によって流失していた。いくつかの方面では、まったく道路がなかった。
激戦のなかを、ソ連軍は、満州国境の敵軍の堅固な防衛線を突破し、
山脈を越え、河川を渡って、500〜1000km進んだ。

ザバイカル方面軍の部隊は、重要都市の奉天と長春を奪取し、第1極東方面軍の
部隊はハルビンを奪取した。空軍と海軍の陸戦隊の援護のもとに、ソ連軍は、
ダーリニィ(大連)とボルト=アルトゥール〈旅順>のある遼東半島を占領した。

8月19日から日本人は、降伏・投降し始めた。月末までに、赤軍は、
敵の武装解除を完了し、4000万人の人口をもつ中国東北地区・北朝鮮を
解放し、かつて日本によって奪い取られた古来からのロシアの領土である
南サハリンとクリール諸島を祖国に取りもどした


23日間にわたる激戦によって、ソ連軍は、約15年間にわたってソ連邦に対する
攻撃を準備していた関東軍に壊滅的敗北を与えた。

8万人以上の日本軍の兵士・将校が死傷し、約60万人が捕虜となった。

ソ連軍は、大量の兵器を捕獲した。日本軍国主義者は、第二次世界大戦の
全期間を通じて、最大の敗北を喫した。

極東の侵略者を粉砕することによって、赤軍は、もし太平洋と極東で戦争が
継続されていたら必ず戦死したであろう何十万人ものアメリカ合衆国・イギリス・
中国その他の国の兵士たちの命を救ったのである。

祖国ソ連邦は、その息子たちの戦功を高く評価した。ソ連邦最高会議幹部会は、
「対日戦争勝利」メダルを制定した。すべての戦闘参加者がこのメダルを授与された。
数十の部隊が、興安嶺'アムール・奉天・サハリン・クリールなどの名誉部隊名を
与えられた。30万人以上のソ連軍の戦士たちが、戦功勲章や戦功メダルを与えられ、
最も抜きん出た人たちはソ連邦英雄の称号を与えられた。

陸上で敗北し、満州と朝鮮の最も重要な経済基地を失った日本軍国主義者は、
敗北を認め、抵抗をやめた。1945年9月2日、日本は無条件降伏文書に署名した。

ソ連邦は、アジアにおける解放の使命を立派に果たすことによって、
アジア大陸の諸民族が植民地主義の圧制から最終的に解放され、
民族独立へと進むのを助けたのである。

赤軍が極東でかちえた勝利は、アジアの諸国における民族解放運動が
大いに高揚するのを可能とし、中国・北朝鮮・ヴェトナムにおける
人民革命の勝利の前提をつくりだした。そして、このことは、帝国主義と反動に
対する強力な打撃となったのである。

帝国主義日本に対するソ連邦の勝利をもって、大祖国戦争と第二次世界大戦は
終わった。長く待ち望まれていた平和が、諸国民に訪れたのである。

問題と課題

1.ソ連邦が帝国主義日本に対して参戦した理由は何ですか
  (資料を利用して答えなさい)。
2.1945年夏の極東における戦闘の経過を地図でたどりなさい。
3.なぜ、ソ連軍は短期間のうちに関東軍に対して勝利をおさめることが
 できたのですか。
4.日本の侵略者からアジアの諸民族が解放されるのに際して、
  ソ連邦が果たした役割を述べなさい。

参考事項:2006年9月現在、ロシアの歴史教科書は、沿海地方で使用されているものを
除いて、教科書図書館、国立国会図書館、文部科学省、外務省等には所蔵されていない。

2.ロシア沿海地方高校歴史教科書

ロシア科学アカデミー極東支部 歴史・考古・民族研究所 編
村上昌敬 訳
『ロシア沿海地方の歴史 −ロシア沿海地方高校歴史教科書』
明石書店
 (2003年6月発行)

第184頁〜第186頁

ソ連の対日参戦

ソ連軍とその同盟諸国とによるヒトラー・ドイツの粉砕は、アジアと
太平洋における、日本軍部の目論見の完全な破綻を意味していた。

1945年4月には、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、夏までに
フィリピン、インドネシア、インドシナの一部が解放された。

すでに1945年4月には、ソ連は日本との中立条約の廃棄を通告
しており、同盟同の責務とポッダム会談の決定を履行しつつ、
8月8日、自国を日本と戦争状態にあると宣言した。

1945年8月9日夜、三方面軍の部隊による戦闘行動が始まった。

ザバイカル・満州戦線では、マリノフスキー元帥指揮下のザバイカル
方面軍部隊が進撃し、プリアムーリエ戦線では、プルカエフ上級大将
指揮下の第二極東方面軍部隊が、そしてプリモーリエ戦線では、
メレツコフ元帥指揮下の第一極東方面軍部隊がそれぞれ攻勢に出た。

第一極東方面軍部隊は、グベロヴォ、レソザヴォーツク、ハンカ湖、
ラズドーリノエ、バラバシなどのプリモーリエの領域から直接進撃
していった。沿海地方の領域には、第9航空軍と第10機甲部隊も
基地を構えていた。

陸軍の作戦行動は、ユマシェフ提督指揮下の太平洋艦隊と
アントーノフ海軍少将指揮下のアムール艦隊の艦艇に援護された。

極東における作戦行動の全体の指揮は、ソ連邦元帥ワシレフスキー
が執っていた。

陸軍の主要な戦略課題は、関東軍の分断と殲滅にあったため、
三方面軍のすべてによる同時攻撃が行われた。

戦闘行動の経過

すさまじい攻撃が関東軍に集中し、敵軍は破局に瀕した。それと
ちょうど時を同じくして、太平洋艦隊が、雄基、羅津、清津、魚大津、
元山の朝鮮の諸港への上陸作戦を開始した。

8月10日、日本政府は、ポツダム宣言の受諾と降伏への同意について、
同盟列強に通知し、関東軍は秘密文書の破棄命令を受け取ったが、
軍事的抵抗の中止命令は来なかった。流血の戦いが続いた。

とりわけ、重要な工業中心地で交通の要衝にある牡丹江をめぐっては、
執拗な戦いが繰り広げられた。この町を防衛していた日本の第五軍の
激しい抵抗を排除し、これを撃滅したソ連軍は、8月16日に町を
支配下に置いた。

この戦闘による日本軍の第五軍の損失は4万人(その構成員の3分の2)
に達した。

関東軍の降伏を早めるために、奉天(瀋陽)、長春、吉林の北東中国の
大都市には、同時に空挺部隊が投入された。

8月20日にはアムール艦隊の艦艇が、ハルビンで陸戦隊を上陸させ、
それから2日後には、ポルト・アルトゥールとダーリニイで空挺部隊を
降下させた。さらに8月24日には、第一極東方面軍の空挺部隊が
ピョンヤン(平壌)の町を占領した。

9月の初めまでにソ連軍は北東中国と北朝鮮の解放を達成した。

露日戦争後に失われた南サハリンのソ連邦への返還と、クリル列島の
引き渡しは同盟国がソ連の対日参戦の条件を取り決めたヤルタ会談
(1945年)の決定によって規定されていた。

8月11日、南サハリン解放のための攻撃と上陸作戦が開始された。
結局、敵軍の大きな集結が粉砕され、司令部と統治機関共々、
1万8000人以上の将兵が捕虜となった。

クリル列島には、敵軍のかなりの兵力(8万人以上)が集結させられて
いて、とりわけ占守島の守備隊は強化されていた。6日間の戦闘の後、
8月23日、島は完全にソ連軍によって占領された。1945年9月
までにクリル作戦は完遂された。

ヤンコ、ツカーノヴァ、パリヤーエフ、クルゥイギン、イリイチェフ、
ヴィルコフ、その他多くの太平洋艦隊乗組員戦士たちは、日本との
戦闘において名声を挙げた。

日本の降伏

関東軍と島々の集結軍の撃滅は、日本の降伏を早めた。
1945年9月2日、日本の降伏文書が調印された。
ソ連邦を代表してヂェレヴャンコ中将が降伏文書に調印した。
日本の降伏によって第二次世界大戦は終結した。

1946年5月3日、東京で国際裁判所会議(極東国際軍事裁判)が
始まった。2年半後には、アジアと太平洋において戦争を開始した
日本人戦犯に、厳しい判決が下された。

3.日本の歴史教科書

【対日参戦は正義の戦い】とする【日ソ戦争】に関するソ連の歴史教科書の
詳細な記述は現在のロシアの歴史教科書に引き継がれていると思う。

それと比べて、現在の日本の中学校と高校の歴史教科書の【日ソ戦争】に
関する記述はあまりにもお粗末である。

1991年のソ連崩壊以前の1985年4月に彩流社から発行された
『ロシアと日本−日ソ歴史学シンポジウム−』(藤原彰編 本文全275頁)
【シベリアにおける日本人捕虜の奴隷労働】【シベリア抑留】については
第27頁でわずか2行述べられているだけである。
この問題について、なんらの討議をしない【日ソ両国の相互認識】は
ナンセンスと言わざるをえない。

【日本における反ソ感情の増大は、日本人捕虜の奴隷労働と
スターリンの惨禍=日本人民間人の受難が大きな原因だ】

率直に悲惨な歴史事実をソ連の歴史研究家に告げるべきであった。

日本政府は、日本の歴史教科書の【日ソ戦争】と【シベリアにおける
日本人捕虜の奴隷労働】部分の記述の改訂に何らの意欲を持たないまま、
なんらの具体的な調査計画・PR戦略・国際的支持獲得戦略を持たないまま、
ただ【北方領土返還】と叫んでいるだけである。

この結果、当然のことながら、【北方領土返還】はロシア国民にも、
ロシア政府にも一顧だにされていない。

ロシア外務次官は、【北方領土返還】は別の惑星のことだろうとさえ
日本をバカにしている。

日本政府と外務省と文部科学省の最高指導者たちの精神構造は、
【神州不滅】【皇軍不敗】を叫んで、【日中戦争拡大】と【対米英開戦】へと
突き進んだ無知で愚かな旧日本帝国軍部の最高指導者たちの
精神構造と同じく、情報収集も、戦略もないまま、空虚なスローガンを
叫んでいる
のではないだろうか?

A.日本の中学の歴史教科書
平成18年検定版(教科書は小中高それぞれ3年毎に改訂される)

@日本書籍新社
「ソ連も日ソ中立条約をやぶり、8日に日本に宣戦して満州・千島・
南樺太に侵攻した。」
A清水書院
「ソ連は8月8日、ヤルタ協定にもとづいて日ソ中立条約を破棄して
参戦し、満州・朝鮮北部さらには千島北部に侵入した。」
B東京書籍
「ソ連も日ソ中立条約を破って参戦し、満州・朝鮮に侵攻してきました。」
C日本文教出版
「8月8日、ソ連が、日ソ中立条約を破棄して参戦し、満州や朝鮮に
攻めこんできた。満州などにいた日本人は飢えになやまされながら、
日本に帰るべく、苦しい日々を強いられた。」
D
帝国書院
「ソ連も日ソ中立条約を破って、「満州」や樺太などにせめこんできました。
ソ連の参戦後に捕虜となってシベリアに抑留された人からも多くの
死亡者が出ました。中国には敗戦後、「満州」で肉親と生き別れて
中国人に養育された数千人の「中国残留日本人孤児」がいます。
この人たちの肉親さがしが1981年からはじまりましたが、身元が
判明した人たちはわずかです。」
E大阪書籍
「ソ連は、8月8日、日ソ中立条約を破棄し、ヤルタ協定に
もとづいて満州や南樺太と千島列島に侵攻を始めました。
日本軍がすべての戦線で後退していくなか、現地の日本人の
なかには、ソ連軍や中国の人々の攻撃にあい、後々までも
中国に残留しなければならなくなった婦女子たちもいました。
また、約60万人の日本兵が捕虜としてシベリアに抑留され、
数年にわたって強制的に働かされて、多くの犠牲者を
出しました。」
F
教育出版

「8月8日には、ソ連がヤルタ会談のとり決めにしたがい、
日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦し、満州や南樺太、千島に
攻めこみました。戦争の終結により、中国にいた多くの日本人が
飢えなどで亡くなったほか、残留孤児として残された者もいました。
また、降伏した約60万人の日本兵がソ連軍によってシベリアに
送られ、強制労働に従事させられました。(シベリア抑留)」
G扶桑社
「8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、
翌9日、満州に侵攻してきた。」

B.日本の高校の歴史教科書
平成19年検定版(教科書は小中高それぞれ3年毎に改訂される)

@三省堂『日本史A』
8日にソ連が日本に宣戦布告してポツダム宣言にくわわると、
翌9日、アメリカは長崎に原爆を投下し、およそ7万人の命が奪われた。
中国東北地方などで敗戦をむかえた日本軍兵士など、約60万人が
ソ連の捕虜となり、不法に強制連行されて、ソ連やモンゴルなどの
収容所に抑留された。彼らは重労働を課せられたうえ、
寒さや食料不足もあって、抑留が終わる1956年までに
6万人以上が死亡した。
A実教出版『日本史B』
8日にソ連が日ソ中立条約の破棄と日本への宣戦を布告して、
9日、満州・朝鮮・樺太ついで千島に侵攻した。
「関東軍の戦線は急速に崩壊した。とり残された満蒙開拓団などの
在留邦人は、ソ連軍の攻撃下に集団自決したり、略奪・暴行の
被害を受け、悲惨な逃避行を通じて「中国残留孤児」の悲劇をうんだ。
またソ連により約64万人の日本軍民がシベリア・中央アジアなどに
長期抑留されて、強制労働に従事させられ、約6万2,000人が
死亡した。
B東京書籍『日本史A』
中立条約を結んでいたソ連は8日、日本に宣戦布告し、
満州・朝鮮に進撃した。・・・いっぽうソ連軍は、8月中旬から
下旬にかけて、千島列島に上陸して日本軍と戦い、占領後、
軍政を布告した。中国東北部などでソ連軍に武装解除された
日本軍兵士約60万人はシベリアに送られた。このうち
約6万人が死亡した(シベリア抑留)。
C山川出版社『高校日本史B』
この情勢を見たソ連は、8月8日に日ソ中立条約を破棄して
日本に宣戦布告し、戦後の東アジアで発言力を保つため、
満州・樺太・千島などへ侵入を開始した。
D第一学習社『日本史A』
ソ連は、8月8日日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦を布告し、
翌日、満州・朝鮮などへ攻めこんだ。現地は混乱をきわめ、
満州の関東軍は、開拓移民として移住していた人々など
多数の民間人をおき去りにしたまま撤退した。このことが、
こんにちまで続く「中国残留孤児」の問題を生む原因となった。
また、日本軍兵士のなかには、ソ連軍に強制連行されて、
シベリアの収容所に抑留された者も多くいた。
E清水書院『日本史B』
ソ連もヤルタ条項にもとづいて、日ソ中立条約を無視し、予定を
早めて8日に対日参戦し、満州へ侵入した。 

4.中国の歴史教科書

中国の歴史教科書

抗日戦争の勝利

太平洋戦場では、日本は徐々に敗退し、アメリカは日本本土に攻撃を近づけてきた。
1945年8月6日と9日、アメリカは日本の広島、長崎に二個の原子爆弾を投下し、
大量の飛行機を編成し、昼夜休まず日本本土を爆撃した。

8日、ソ連政府は対日宣戦布告の声明を発表した。

ソ連赤軍は中国東北に駐留していた日本の関東軍に進攻し、長春、瀋陽、
ハルビンなどをあいついで解放し、日本の関東軍を壊滅させた。

世界的反ファッショ勢力の大打撃を受け、とりわけ中国人民の勇敢な反撃で、
8月15日、日本帝国主義は無条件降伏を宣言した。9月2日、日本政府は連合国に
降伏文書を渡し、9月9日、中国戦域における投降儀式が南京で行われ、
日本侵略者の首領岡村寧次中将が中国政府代表に降伏文書を渡した。

5.韓国の歴史教科書

韓国の歴史教科書 (*3)

(これは大学教科書)

ソ連軍の占領政策と北朝鮮分局の結成

ソ連は1945年8月8日、日本に宣戦布告し、満州から日本軍を攻撃しはじめた。
ソ連軍は、日本軍を武装解除させながら元山を経て南方に出撃し、24日に平壌に
入った。8月末には北韓全域を占領した


当時、沖縄に駐屯していたアメリカは、ソ連軍の行動に慌てた。そこでアメリカは、
8月13日、両国の軍隊が北緯38度線を境界に、韓半島を分割占領し、日本軍を武装解除
させようと提案し、ソ連は同意した。ソ連は当時、韓半島を一国で占領する場合、アメリカと
衝突が起こるのを望んでいなかった。ソ連にとって主要戦略地域が韓半島ではなかったので、
ただ韓半島には自国に友好的な親ソ政権を建てる立場であった。

解放直後、北韓にも建国準備委員会が組織され、その後、人民委員会に改編された。
ソ連は北韓で軍政を行ないながら、次第に行政権を人民委員会に与えていった。そこで、
北韓の人民委員会は、ソ連軍司令部内にある民政部の支援を受けながら行政機能を維持
した。このような過程で、民族主義勢力が除去され、左翼勢力が政治的主導権を握るように
なった。これは、親ソ政権を建てるために、民族主義勢力の力を奪い、左翼勢力を強化する
政策だった。特に1945年末になり、チョマンシクが信託統治に反対してソ連軍政と対立する
中で、民族主義勢力は弱体化された。

北韓地域の共産主義者は、人民委員会に参加しながら、地方党建設に力を入れた。
ソ連軍の進駐とともに金日成などの抗日武装闘争勢力が帰国すると、北韓の
共産主義者は、1945年10月10日、熱誠者大会(「朝鮮共産党西北五道責任者および
熱誠者大会」)を開き朝鮮共産党北朝鮮分局を作った。

北朝鮮分局ではソ連軍政の支援を受ける金日成を中心とした勢力が次第に主導権を握る
ようになった。彼等はソウルにある朝鮮共産党中央の指導を受けず、独自に活動した。
北朝鮮分局は1946年に入り北朝鮮労働党一北労党一に改編された。

6.香港の歴史教科書

香港(返還前)の歴史教科書

太平洋におけるアメリカ軍の攻勢・1942年〜45年

太平洋戦争勃発当初、日本の征服は迅速かつ大規模であった。しかし、日本の物質的
生産能力は、アメリカと比べるとかなり劣っていた。日本は水兵やパイロットの勇気や
手腕を重視していた。日本は、海軍が石油や弾薬の備えを使いきってしまう以前に、
アメリカに対して太平洋での決定的勝利を勝ちとり、自国に有利なかたちで講和への
交渉をとりつけようと計画していた。そうであればこそ、日本は、アメリカ太平洋全艦隊の
賦滅にやっきになっていたのである。

1942年6月、日本海軍は残存するアメリカ艦隊を全滅させるためにミッドウェー島に
進路をむけた。その戦闘は航空母艦で行われた。日本軍には効果的なレーダー装置が
なかったので、形勢は非常に不利であった。アメリカ軍パイロットは奇襲攻撃をして、
4隻の日本の最高の航空母艦を爆沈させ、何百機もの飛行機をうち落とし、
多数の優秀なパイロットを死亡させた。日本海軍は前進能力を失ってしまった。
日本の空母艦隊が再編されたころには、アメリカ海軍には、すでに強力な艦隊が
できあがっていた。

1944年、アメリカ軍は、日本本土爆撃に必要な空軍基地を確保するため、
太平洋にある日本軍が進駐していた島々へ二度にわたって大攻撃を行った。
この奪回戦は、日本軍が最後のひとりになるまで戦うことが多かったので、
両国に多数の犠牲者がでた。

アメリカ軍が次々と島を奪回するにしたがい、日本本土はアメリカ軍戦闘機の
爆撃可能な範囲に入ってきた。アメリカ軍が日本の都市に組織的な爆撃を行い
始めたとき、日本の敗北はもはや避けられなかった。しかしヒトラーのような日本の
軍国主義者たちは、降伏しようとはしなかった。連合国軍の前進を遅らせる最後の
手段として、十代の少年たちに捨て身の攻撃でアメリカ戦艦に体当りさせるための
飛行訓練が行われた。

日本軍が最後のひとりまで戦うだろう、ということは明らかであった。

アメリカは、もし日本本土上陸を始めたならば、幾万もの死傷者を出すだろうと
予測した。そのためアメリカは、この時まで日本と不可侵条約を結んでいた
ソ連に、ドイツ敗北後には日本に参戦するよう了解を求めた。しかし、結局、
連合国のうち一カ国も日本本土に上陸することはなかった。

原子爆弾投下と日本降伏・1945年8月
 
原子爆弾の実験が成功したことが判明したとき、アメリカは、もし日本が無条件降伏を
のまないのならば、秘密兵器を使用するだろうと、日本に警告した。しかし日本は、
条件つきでしか降伏しようとはしなかった。

1945年8月6日、アメリカは、工業地帯であり軍港でもある広島に最初の原爆を投下した。
たった一個の爆弾が瞬時にして六万の人を殺し、一〇万の人を傷つけた。数多くの人が
10年、20年、さらに30年へて放射能の影響で死亡した。

2日後の8月8日、ソ連が日本に宣戦布告し、満州に入ってきた
。翌日すなわち
1945年8月9日、アメリカは二つ目の原子爆弾を、やはり重要な軍港である長崎に
投下した。都市は壊滅し、住民が多数殺された。日本の天皇はみずから決断し、
連合国に降伏した。第二次世界大戦は終結した。

13.ソ連の略奪
1.
阿部軍治著
『シベリア強制抑留の実態−日ソ両国資料からの検証』
(彩流社 2005年10月発行)

第105頁〜第106頁

『ソ連軍の蛮行−戦利品として根こそぎ持ち去った財貨』

シベリア日本人抑留者たちがソ連の収容所側から支給されたのは、
満州等で略奪していった食料品や被服等であった。

ソ連内務人民委員部の抑留者たちへの物資の支給については、
略奪してきた物を支給するように、明瞭にこう書かれていたのである。

「軍事捕虜用収容所に被服を補給するために、日本人軍事捕虜収容所に
300車両分の戦利品の日本軍被服が送られた。」当然このようなやり方は
被服ばかりではなく、食料品などほとんど全ての物資に及んでいたのである。

ソ連軍は進駐すると日本側に引き渡すべき品目のリストの提出を要求した。
そして、長春市の場合、その際に在留日本人の保護や治安維持などの
申し入れを受け入れ、同時に各国人の生命財産の保障を約束し、
それを布告している

だが、実際にはそれは口先だけで、ソ連兵の猛烈な暴行や略奪は
全くといっていいほど放置され、取り締まることはなかった。

同市の場合、ソ連軍はまず駅の倉庫を接収、それから電電本社、中央銀行、
関東軍兵器廠、同自動車工場等を次々と接収し、それから軍と政府、
満鉄関係、諸特殊会社等を根こそぎ接収しだ。

そして、膨大な物資を接収すると、それを本国に次々に搬送したのであった。
満州の産業の中心である瀋陽ではソ連軍は45年10月〜11月にかけて
主要工場施設の撤去作業と搬出を行い、特に重工業施設は徹底して
撤去が行われた。

その他、食料、車両、倉庫内の雑品や家具まで搬出した。

また、個人の所有物も手当たり次第に押収したのであった。
ソ連軍は満州のどの町でも、だいたいこのような接収・撤去、搬送作業を
行い、ほとんど根こそぎにして運び去ったのであるる

満州各地の重要な工業施設等はソ連軍によって撤収された。
当時、「在満諸施設の4割が撤去され、4割が解体され、
残りの2割だけが無傷であった」と報じられたのだった。

大連では大連機械製作所の施設約90%が撤去された。
奉天でもめぼしい工場、50以上が撤去された。
ソ連のあまりにもひどいやり方にアメリカが抗議し、対日賠償
ポーレー委員会を派遣して調査させ、中国の国民党政府は
ソ連に抗議し、「ソ連軍が満州の諸工業施設に与えた直接の損害は、
8億9000万ドルに達し、ソ連軍占領下における間接的損害は
2億ドルに上ると発表した。

ソ連軍は満州の軍や民間の物資ばかりではなく、工場の諸設備も
取り外して持ち去った。「ソ連軍は穀物袋や箱詰衣類、機械類、
鉄鋼材、木材、はては、机や椅子、書棚、家具といったものまで、
大輸送団を仕立てて満州からソ連領に、来る日も来る日も、
えんえんと運んでいた」。

略奪品を満載した長い編成の列車が、昼夜を分かたず、
満州からソ連に向かっていたのである。

満州の日本重工業と鉄鋼業の代表的な大工場である鞍山の
満州製鉄株式会社は、その設備全体がそっくり撤去され、
ソ連に持ち去された。百トン起重機その他の当時の先端的な機械類が
設備されていたが、それらが全て貨車で運び去られたのである。

機械設備の総重量6万4756トン、積載延貨車数2896両、
金額にして概算で約2億ドルにのぼったという。

ある日本の作業大隊は、ソ連軍の命令で製鉄所の撤去作業に従事
させられたのだった。貨車には工場の機械類のほかに、石炭、
衣類の生地、その他の物資が積み込まれていた。

この大隊は作業が終われば、帰国させてもらえるという話だったのに、
言うまでもなく彼ら自身もシベリア行きの貨車に積み込まれてしまった。

撤去作業をやらされた満州の第308航空隊整備兵らの場合も、
工場の設備、精密工作機の解体を命ぜられ、45年11月から
3ヵ月間、朝から晩まで鉄砲をつきつけられて働かされ、
工場の設備をそっ<り貨車に積み込んだ後、彼ら自身も同じ貨車に
積み込まれ、行き先も告げられずに35日かけて運ばれて行った先は、
ウズベクスタンのタシケントであった。

鉄道の施設やレールや鴨緑江水豊ダムの発電機まで撤去したので、
中国側から抗議され、一部の撤去は取り止めたのであった。

敦化近郊のパルプ工場の機械類も取り外されソ連行きの貨車に
積み込まれたが、捕虜になった日本兵たちはさっそくその強盗行為の
手伝いをさせられたのだ。

2.
戦後強制抑留史編纂委員会編集
『戦後強制抑留史 第一巻』
(独立行政法人平和祈念事業特別基金 2005年3月発行)
第213頁〜第214頁
1946年6月、満州に調査のため派遣
された米国のポーレー委員会は、ソ連軍による撤去、または
破壊による、満州にあった製造施設の工業別被害割合

次のように報告している。

@電力   :71パーセント
A炭鉱   :90パーセント
B鉄鋼   :50〜100パーセント
C鉄道   :80パーセント
D機械   :75パーセント
E液体燃料:50パーセント
F化学   :50パーセント
G洋炭   :50パーセント
H非鉄金属:75パーセント
I繊維   :75パーセント
Jパルプ  :30パーセント
K電信電話:20〜100パーセント

被害額は、1ドル=4円20銭の換算率で8億9503万ドル、と
ポーレー委員会は推算した」と述べられている。

ソ連軍は、金塊、宝石類、発電機、変圧器、工場機械、
工場製造設備等、満州から奪える財産は全て徹底的に奪って、
46年5月までに満州から完全に撤退した。

3.
半藤一利著
『ソ連が満洲に侵攻した夏』
(文藝春秋 1999年 7月発行)
第311頁

スターリンが日本から奪った、領土、人的資源、物的資源など、
いまに換算したら何十兆円になるか?これらの価格計算は
私の手にあまる。字義どおり、つかみどりそのものであった。

この不法な満州からの強奪行為に対する中華民国政府の抗議に
対して、ソ連政府は、【全部、戦利品である】」と回答している。

14.
移動途中に死亡した日本人捕虜数

筆者は、移動途中に死亡した日本人捕虜(軍人及び奴隷狩りによる民間人)
4万人以上であったと推定している。

ウラジミール・ポ・ガリツキー氏(ロシア軍事アカデミー・メンバー、
法学博士、教授、海軍大佐)
は、毎日新聞社が1999年2月に発行した
『毎日ムック シリーズ 20世紀の記憶 1945年 日独全体主義の崩壊 
日本の空が一番青かった頃』の第129頁
「日本人捕虜の大多数は満州からソ連領土までを徒歩で移動した。
ソ連国内の指定地点への移動は鉄道の貨車で行われた。
その移動の途中で、3万2,722人が死亡した」と述べている。

15.日ソ戦争日誌−1945年

1.4月5日
ソ連、日ソ中立条約の廃棄を通告。事実上の対日宣戦布告。
2.5月7日
ドイツ、米英連合軍に降伏。
3.5月8日
ドイツ、ソ連軍に降伏
4.7月26日
ポッダム宣言発表。
5.8月6日
ヒロシマに原爆投下。
6.8月7日
ソ連軍対日参戦準備終了。
兵力           :157万7225名
大砲及び迫撃砲    :2万6137門
戦車・装甲車・自走砲 :5556台
戦闘機・爆撃機     :3446機
海軍の飛行機      :1200機
7.8月7日午後4時30分(日本時間)
ソ連軍最高司令部、「8月9日午前0時に対日攻撃を開始せよ」と
全軍に指令。
8.8月8日午後11時(日本時間)
ソ連のモロトフ外相が対日宣戦布告を日本の佐藤大使に通告。
開戦1時間前の通告であった。
モスクワの日本大使館の電話線は全部切断されていた。
佐藤大使には直ちに日本本国に連絡する通信手段は無かった。
対日宣戦布告は時間のかかる通常の国際電報で連絡された。
9.8月9日午前0時(日本時間)
ソ連軍、満州各地で一斉に奇襲攻撃開始。
戦闘区域:南北約1,500キロ、東西約1,200キロ
10.8月9日
ナガサキに原爆投下。
11.8月15日正午
昭和天皇、ポッダム宣言受諾放送
12.8月16日午前
マッカーサー元帥、米軍に戦闘中止を命令、
13.8月16日午後4時
旧日本帝国大本営、即時停戦命令を発令。
ソ連軍、牡丹江に入城。
14.8月17日
関東軍、各部隊に戦闘停止命令を発令。
ソ連軍、千島列島占領作戦開始。
15.8月18日午前3時
山田乙三関東軍司令官、ラジオ放送を通じて
ソ連軍の降伏条件受諾を表明。
16.8月18日
ソ連軍、ハルビン入城。
17.8月18日〜23日
ソ連軍、千島列島の占守島に上陸作戦敢行。
日ソ間に戦闘始まる。
日本軍死傷者600名以上、ソ連軍死傷者2000名以上。
18.8月19日
ソ連軍、長春(新京)、瀋陽(奉天)、丹東(安東)入城。
19.8月23日
スターリンは日本人捕虜のシベリア移送を指令。
20.8月24日
ソ連軍、大連入城。
ソ連軍、ピョンヤン(平壌)入城。
ソ連軍、千島列島の島幌延島占領。
21.8月25日
ソ連軍、千島列島の温弥古丹島、捨子古丹島、松輪島を占領。
22.8月27日
ソ連軍、千島列島の新知島占領。
23.8月31日
ソ連軍、千島列島の得撫島占領。
24.8月28日
ソ連軍、北方領土の択捉島占領。
25.9月1日
ソ連軍、北方領土の国後島、色丹島占領。

26.9月2日
降伏文書調印式、ソ連も調印。
27.9月3日〜5日
ソ連軍、北方領土の歯舞諸島占領。

16.中国戦史研究家が見た満州のソ連軍
徐焔(シュ・イェン)著 朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳 
『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
三五館 1993年8月発行
注:徐焔氏は中国国防大学大佐教官。
第223頁〜第229頁から抜粋転載

「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、
横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に略奪と暴行を
振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても
悪事をさんざん働いた。

特に略奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数と
いうべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」

満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。
彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、
得た金を着服した。

夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を
捜し回った。恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、
ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。

満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が
街角に現れ、通行人を止めては携帯物品を奪い、女性を追い回し、
時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。

瀋陽の町ではソ連軍警備司令部の憲兵がトラックで巡行するのを
よく見かけた。酔っ払いと軍紀違反者が多すぎるため、トラックで
大量に収容するからだ。逮捕されたら厳しい処罰を受けるが、
それでも軍紀違反者が後を絶たない。

ソ連軍の軍紀退廃についての中国側の最初の報告は、
満州に進出した八路軍の一番手の部隊が延安の党中央に送った電報だ。
1945年9月初めに山海関を出て瀋陽に到着した部隊は、
ソ連軍兵士による強奪事件を目撃し、また多くの中国人市民から
訴えを受けた。その報告で、ソ連軍は「軍服はボロボロで、軍紀は
はなはだ悪い」と説明し、現地のソ連軍政治部にも
「軍紀を厳粛にせよ」と申し入れた。

ソ連軍政治部は「すでに多くの措置をとって軍紀違反者を罰しており、
多い日には一日に20人以上も処刑した」と回答した。
しかしソ連軍側はまた、その原因を、兵士のファシストに対する
敵愾心に帰し、ドイツでも同じ行動をしたと弁明した。
この回答に八路軍はもちろん満足することができない。かといって
それ以上どうしようもなかった。

ソ連軍は自ら非公式に次のように背景を説明した。ドイツとの
激しい戦争で大量の死傷者を出し、兵力補給の不足を来たし、
戦争後期、多くの刑事犯も軍隊に補給した。そのため軍紀の
引き締めが十分にできず、悪質者を一部銃殺して何とか規律を維持
しているという。この説明の内容は事実かも知れたいが、ソ連軍
首脳部が軍中の非行者とその行為を真剣に取り締まらず、事実上、
野放しにしたことの責任は逃れられない。

ファシストに対する敵愾心をもって兵士の非行を説明し、
中国を敗戦国のドイツに例えた譬えたことは、
八路軍の将兵の中で憤りを引き起こした。

仮に敗戦国だったにせよ、無辜な一般市民に狭量な民族報復を
働いていいということにはなるまい。
異国で「三日間勝手にせよ」として兵士の闘志を刺激するなど、
なおさら政治の堕落だ。

ソ連軍のこのようた釈明はまさに、大ロシア主義の態度を
反映したものだと言える。その根本的な原因はスターリンの
「共産主義総本山」の意識にあり、そのため他国の人民を尊重する
教育を怠ったのだろう。

ソ連軍の一個戦車軍団が1944年末にユーゴスラビアの片隅を
通過した。その短い道程で、千件以上の婦女暴行と略奪事件を
起こした。これがユーゴスラビア国民の強い反発を招き、
のちにユーゴとソ連の関係決裂になる原因の一つになった。

ソ連軍がドイツの東部を占領した後も、略奪と暴行を繰り返し、
ドイツ人の民族感情を傷つけた。本来は親ソ的な東ドイツ政権なのに、
統治の基盤が不安定だったのは、それが一因でもあった。

満州での行為は、ソ連軍の一貫した行為の東方での継続だ。

1969年4月の中国共産党第九回全国代表大会で
毛沢東がソ連の満州出兵に触れた際、
「当時のソ連の軍紀は退廃そのものだ」と恨めしげに語った。」

17.参考資料

@徐焔著 朱建栄訳 
  『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』
  三五館 1993年8月発行
Aマリノフスキー著 石黒寛訳
  『関東軍壊滅す ソ連極東軍の戦略秘録』
  徳間書店 1968年2月発行
B阿部軍治著
  『シベリア強制抑留の実態−日ソ両国資料からの検証』
  彩流社 2005年10月発行
Cボリス・スラヴィンスキー著 加藤幸廣訳
  『日ソ戦争への道−ノモンハンから千島占領まで』
   共同通信社 1999年8月発行
D 半藤一利著
  『ソ連が満洲に侵攻した夏』
  文藝春秋 1999年7月発行

Eヴィクトル・カルポフ著 長勢了治訳
  『【シベリア抑留】スターリンの捕虜たち 
   −ソ連機密資料が語る全容』

  北海道新聞社 2001年3月発行
F戦後強制抑留史編纂委員会編集
  『戦後強制抑留史 第一巻〜第七巻』
  独立行政法人平和祈念事業特別基金 2005年3月発行
Gエレーナ・カタソノワ著 白井久也監訳
  『関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか
   −米ソ超大国のパワーゲームによる悲劇

  社会評論社 2004年10月発行
H原康史著
  『激録日本大戦争第39巻 満州・北方領土の悲闘』
   東京スポーツ新聞社 1993年6月発行 全283頁

I財団法人満蒙同胞援護会
(会長:平島敏夫 参議院議員・元満鉄副総裁)編
  『満蒙終戦史』 全928頁 
  河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行
J楳本捨三著
  『かくて関東軍潰ゆ−満洲居留邦人の悲惨なる記録』
  秀英書房 1978年6月発行
K防衛庁防衛研修所戦史室編
  『戦史叢書 関東軍(2) 関特演・終戦時の対ソ戦』
   朝雲新聞社 1974年6月発行
L中山隆志著
  『関東軍』
  講談社 2000年3月発行
M中山隆志著
  『満洲−1945.8.9 ソ連軍進攻と日本軍』
  国書刊行会 1990年8月発行
N中山隆志著
  『1945年夏 最後の日ソ戦』
  
国書刊行会 1995年7月発行
O太平洋戦争研究会 編
  『戦記クラシックス 満州国の最後』
  新人物往来社 2003年3月発行
P太平洋戦争研究会著
  『図説 満州帝国』 
  河出書房新社 1996年7月発行
Q楳本捨三著
  『全史太平洋戦争(上巻)(下巻)』
  秀英書房 1979年3月及び4月発行
R太平洋戦争研究会編 森山康平著
  『図説 太平洋戦争16の大決戦』
  河出書房新社 2005年6月発行

S五味川純平著
  『「神話」の崩壊 関東軍の野望と破綻』
  文藝春秋 1988年12月発行
A@ソ連・大祖国戦争史部編集委員会著 川内唯彦訳
  『第二次世界大戦史I−関東軍の壊滅と大戦の終結』
  弘文堂 1966年1月発行
AAボリス・N・スラヴィンスキー著 加藤幸廣訳
  『千島占領 1945年夏』
  共同通信社 1993年7月発行
AB鎌倉英也著
  『ノモンハン 隠された「戦争」』
  NHK出版 2001年 3月発行

関連サイト:『シベリア奴隷労働被害』