志村英盛の意見
国後島を取り戻すには 
ー国後島は極悪非道なスターリンの犯罪のモニュメント
ー極悪非道なスターリンの日本人虐殺犯罪を忘れるな!  11年10月
                              Hidemori Shimura

極悪非道なスターリンが、戦後、日本人捕虜70万人以上に奴隷労働を
強制した犯罪と、鬼畜・ソ連軍兵士が、戦後、日本人女性数万人に対して行った
強姦致死犯罪と、ソ連政府が、戦後、戦犯裁判と称するエセ裁判で、
まったく無実の日本人軍人・民間人数千人を殺害・虐待した犯罪を、
ロシア国民に認識させない限り、
北方4島どころか、歯舞・色丹ですら、ロシアから取り戻すことはできない。

自民党政権も、自民公明政権も、民主党政権も、
みごとなくらいに、このことの重要性を100%無視してきた。

これらの政権が、ソ連の戦後の戦争犯罪の隠蔽に狂奔してきた結果、
ロシア国民どころか、若い日本国民ですら、
極悪非道なスターリンのソ連の戦後の戦争犯罪の存在を知らない。


メドベージェフ大統領に徹底的にバカにされていながら、
外務省と内閣府北方対策本部も、みごとなくらいに、
このことの重要性を100%無視してきた。

日本のマスメディアも、「カネをどんどん出して、粘り強く交渉せよ」と
ロシアの新聞と見まがう論説を掲げて、
みごとなくらいに、このことの重要性を100%無視してきた。

その結果、歴史が証明している通り、
戦後、66年間たっても、北方4島どころか、
歯舞・色丹すら、ロシアから取り戻すことはできなかった。

日本政府と日本のマスメディアが、現在の事実隠蔽姿勢を変え、
ロシア国民に、極悪非道なスターリンのソ連の日本人に対する諸犯罪を訴え、
認識させる必死の努力を行わないかぎり、

今後、100年間の、いや、数百年間の歴史も、北方4島どころか、歯舞・色丹ですら、
ロシアから取り戻すことはできなかったことを証明すると思う。

関連サイト:北方領土返還要求大会は税金のムダ使い大会

日本人捕虜のシベリアにおける
奴隷労働被害


09年8月23日の千鳥ヶ淵戦没者墓苑の『シベリア・モンゴル犠牲者追悼の集い』で
戦場体験放映保存の会・元兵士の会監事の猪熊得郎氏は追悼の辞で次のように述べた。

「それでも、地獄の淵を這いつくばり、生きて帰れた者は幸せだ。
亡くなられた犠牲者の方々のことを考えると、
くやしい。悲しい。むなしい。情けない。
誰がこんなことに追い込んだのか。
激しい怒りを禁じ得ない。」

筆者は、この言葉は、自民公明政権外務省・文部科学省によって
日本の歴史から抹殺された14万人以上の犠牲者を含む
極悪非道なスターリンの帝国主義侵略戦争・日ソ戦争(ソ連の対日参戦)
50万人以上の犠牲者たちの悲痛な訴えであると感じた。









ポツダム宣言

スターリンはポツダム会談に出席したが、当時はポツダム宣言には
参加していない。対日宣戦布告文の中で、
「ソ連はポツダム宣言に参加して対日宣戦布告する」としている。

-日本に要求内容を全部受け入れる降伏
(the Unconditional Surrender)
求める米国、中華民国、英国の声明−
ベルリン(ポツダム)時間:1945年7月26日午後9時20分発表

(日本時間:1945年7月27日午前4時20分発表−
発表と同時にトルーマン大統領は、あらゆる手段を使って、
この要求内容
(A statement of terms )を日本国民に知らせるよう指令した。)

カイロ宣言の条項は履行される。日本の主権は本州、北海道、
九州、及び四国、並びに、我々の決定する諸小島に限定される。
 
日本の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰して
平和的、かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。

カイロ宣言(日本国ニ関スル英、米、中三国の宣言)1943年12月1日発表
(本宣言の原文はロンドンタイム紙1943年12月2日号による)

ルーズベルト米国大統領、?介石中国大元帥、及びチャーチル英国総理大臣は、
各自の軍事、及び外交顧問と共に、北アフリカにおいて会議を終了し、下記の声明を発表した。

各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。三大同盟国は海路、陸路、
及び空路により、この野蛮なる敵国に対して仮借なき弾圧を加える決意ヲ表明した。
この弾圧は既に増大しつつある。三大同盟国は日本国の侵略を制止し、かつこれを
罰するため、今次の戦争を為しつつある。

三大同盟国は、自国の為に、何等の利得をも欲求するものではない。
また、領土拡張の何等の念をも有しない。

三大同盟国の目的は、日本国が1914年の第一次世界戦争開始以後において
日本国が奪取し、又は占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、
並びに満州、台湾、及び膨湖島の如き、日本国が清国人より盜取したる一切の地域を
中華民国に返還させることにある。

日本国は、暴力、及び貪欲
(どんよく)により、日本国が略取したる
他の一切の地域より駆逐されなければならない。

三大同盟国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、朝鮮を自由、かつ
独立国たらしめる決意を有す。

上記の目的をもって三大同盟国は、同盟諸国中、日本国と交戦中なる諸国と協調し、
日本国の無条件降伏をもたらすために必要な、重大、かつ長期の行動を続行する。

国連憲章107条の条文は次の通りである。

第107条〔敵国に関する行動〕
この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に
関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり
又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。
カイロ宣言と国連憲章は以上



日本経済新聞06年8月の【私の履歴書】で
遠州茶道宗家の小堀宗慶氏は次のように述べている。

乗せられた汽車はやがて、ぽっんと小屋が一つ建つだけの荒野に停まった。
シベリア中部のタイシェトという山間の地だった。貨車から降ろされた我々は、
後から来る捕虜の住む小屋を造ることから始めなくてはならなかった。

酷寒の中で、小屋もなくテント生活をするのは死を意味する。
迫り来る冬に備えて急がなければならず、作業は夜を徹して
昼夜二交代の苛酷なものとなった。

飢え、寒さ、ノルマの三重苦に加え、厳しい自然環境が身を苛み、
言葉で表すことのできぬほどの苦しみだった。

兵隊は、最初の数ヶ月間で次々と死んだ。
当初の各収容所の平均死亡率は60%にも達したという。

私のシベリア生活は延々4年に及んだ。
何度も「何月何日にはダモイ(帰還)だぞ」という噂に踊らされ、
その度に裏切られて絶望のふちに沈んだ。

雪の中を歩いていて、いっそこのままどこまでも行って、くたびれ果てて
雪の中に倒れ死んでしまおうと考えたことがあった。

日本帰還後30年目の1979年7月、シベリア墓参団の一員として
ハバロフスク、ブラーツク、イルクーツク、タシケント各地の日本人墓地を
詣でて法要を営み、心を込めて献茶を行った。

私には見えるのだ。井桁に組んだ屍を包む炎が。
永久に解けることのない氷の上を、ボロをまとったやせた男たちが
隊列を組んで歩く姿が。

歩きながらばたばたと倒れ、苦悶と無念の表情でこと切れる兵士たちが。

我々が敷設した線路の脇には枕木と同じ数の死体が並んでいるのだ。

我々が作ったブラーツク水力発電所のダムの底には、
礎とした石垣の数ほどの死体が眠っているのだ。

世界第二ともてはやされる水力発電所のダムの底には、
我々が切歯扼腕しつつ働いた捕虜収容所が沈んでいるという。

湖底をのぞき、我々の血と涙と汗で築かれた発電所を前にして、
戦友よ、私がいかなる激情に襲われたか、察してください。

我々日本人を強制労働に就かせ、劣悪な環境の中で
何十万人もの同胞を死に追いやったソ連という国を、
私が好きになれようはずもない。



ソ連軍兵士の凄まじい日本婦女暴行

若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行
第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人に対して強姦(婦女性的暴行)・強奪・殺害をほしいままに
したのである。

程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。

兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを略奪する。

そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女に性的暴行(強姦)をはたらいた。

抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。

しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の略奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。

鬼畜・ソ連軍兵士許し難い強姦犯罪

ウィリアム・ニンモ氏は著書 『検証・シベリア抑留』 加藤隆訳 (時事通信社 1991年3月発行)
第47頁
「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
口ではいい表せないほどひどいものだった。
暴行と略奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。

・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
抵抗するものは片っぱしから殺した。
ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
いまでもぞっとするほど残虐なものだった」
    と述べている。

筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の強姦・強奪・略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後66年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。強姦された日本人女性の多くが、その後、
絶望死している。

犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちと
最高指導者たちが引き起こした満州事変と、それに続く、満蒙開拓団送り込み政策の
犠牲者でもある。

再び戦争の惨禍を引き起こさないために、忘れることは許されない歴史事実である。

以上