ソ連収容所における日本人捕虜の生活と死
                          2012年3月 Minade Mamoru Nowar

この特別報告書は国立国会図書館及び外務省外交史料館所蔵の資料である。
掲載分については、平成18年7月20日、国立国会図書館の許可
(国図資050104005-6-12号・13号)を得てインターネットに掲載している。
原資料は米国国立公文書館に所蔵されている。

英語の原文の作成者名及びタイトルは下記の通りである。




 この特別報告書は、当時の厚生省引揚援護庁(当時の職員数:5,066人)と、
その前身の復員庁、及び当時の外務省(当時の本省職員数:1,556人)
全面的な協力によって、当時のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)
作成した米国の公式文書である。

 この特別報告書は、ソ連からの帰還者ほぼ全員からの聞き取り調査に
基づいて作成された。以後、日本政府は、このような徹底した調査は
行っていない。

志村英盛訳文:


特別報告書:
ソ連収容所における日本人捕虜
の生活(Life)及び死
1950年2月1日

第1章 日本人送還に関するソ連と日本の数字の不一致

 国民の支持の増大を狙って日本共産党書記長、徳田球一氏は、
1949年5月6日、モスクワのソ連共産党中央委員会に嘆願書を提出した。
徳田氏は【同志としてのあいさつとして、現在、日本において
深刻な政治問題となっている日本人捕虜の帰還を急ぐよう要求した。

 1945年以来、肉親の帰還を待ち続けている数万の日本人家族に
とつて、この問題が、緊急かつ重要な問題であることに何の不思議もない。
1949年の送還時期が近づくにつれて、日本の各新聞もこの問題を
大きく取り上げた。

 4月28日の毎日新聞は、ソ連が未だに何らの説明を行っていない
約40万人の消息不明の日本人捕虜の運命について、ソ連を厳しく
問いただす論説を発表した。

 同日の朝日新聞は、消息不明者の数は、シベリアでは324,000人、
樺太及び千島列島では84,000人、中国共産党が支配している地区
では60,000人との数字をあげて、この問題についてソ連を問いただす
論説を発表した。時事新聞も、同日、同じ様な論説を発表した。

 モスクワ放送は、明らかにこれらの論説に注目し、当惑して、
急遽、朝日新聞の論説に反論した。
すぐウソと判るデタラメな反論であった。
「日本人捕虜は日本に送還されても失業問題に直面するし
住居にも困るであろう。」さらには「ソ連政府は日本人捕虜を
養うために巨額の費用を支出してきている。」

 このデタラメ極まるモスクワ放送の反論に対して、同じソ連の宣伝新聞
『日本新聞』は、解説者のコメントとして、「このモスクワ放送の反論は、
日本人捕虜の家族に、不必要な関心と心配を起こさせる思慮を欠いた
相手を傷つける反論であると述べ、結論として、
「これはソ連の帰還運動を阻害しようとする日本と米国の
プロパガンダたちによって企まれたものである」としている。

 これらの矛盾する共産党陣営の各部門の主張に対して、ソ連政府は
沈黙を守った。

 連合国軍最高司令官は、ソ連に対して、再三再四、日本人
捕虜の送還を再開するよう迫った。引揚げのための船舶は準備万端
整えて出航を待っていたのである。

 突然、驚くべきソ連のステートメントが入ってきた。5月20日、ソ連の
タス通信は、送還される日本人捕虜の人数は95,000人であるとの
ソ連政府のステートメントを報道したのである。

 この数字は日本政府復員庁が作成した数字とも、あるいはGHQの
G−2とG−3の復員引揚記録部門の数字とも、全く異なるものである。
日本の復員庁とGHQは、1949年5月26日現在で、ソ連地区から
送還されるべき日本人捕虜の人数は469,041人であるとしている。

 数年間にわたって、ソ連政府に対してソ連が抑留した日本人捕虜の
総数、あるいは日本人捕虜の死亡者数について正確な数字の提供を
要求していた連合国軍最高司令官(SCAP)の努力はソ連政府に無視され
徒労に終わった。

 ソ連政府は帰還者たちが死亡した仲間の遺骨を故郷に持ち帰ることを
拒絶した。遺骨の持ち帰りは日本古来の習慣である。

 ソ連政府の死亡者情報提供拒否を補うための死亡者名簿の持ち
帰りもソ連政府は禁止した。

 従って日本政府は帰還者たちに対して詳細な聞き取り調査を行い、
多大の手間と時間をかけて死亡者リストの作成を行わざるを得なかった。
ただしこの聞き取り調査においては、2人以上の目撃者が死亡日、
死亡場所、死亡原因を証言しなければ、公式に死亡したとは
認定されない。

 4年間以上にわたつて、ソ連側がシベリアの捕虜収容所における
日本人捕虜の死亡数を報告しなかったことが、ソ連政府の数字と
日本政府の数字との大きな不一致となった。

 数字の食い違いが374,000人にも達するということは驚くべきことで
あるが、忘れてはならないことは、これらの日本人捕虜たちは
4年間以上も、信じられないような重労働を強制されたということである。
さらには、信じられないような苛酷な生活条件の下におかれたということ
である。これらの結果、日本人捕虜の死亡率は非常に高いものであった。

 ソ連側の記録と日本側の記録の食い違いは1949年5月現在の
公式数字において歴然としている。

外地より引き揚げてきた日本人数一覧表

地理的区分 元来の数 引揚者数 未帰還者数
豪州地区 138,680 138,680 0
中国 1,501,225 1,501,225 0
台湾 479,050 479,050 0
ハワイ 3,547 3,547 0
香港 19,217 19,217 0
南朝鮮 594,714 594,714 0
付近島嶼 62,389 62,389 0
蘭印 15,563 15,563 0
ニュージーランド 797 797 0
北部仏印 32,015 32,015 0
太平洋地区 130,906 130,906 0
比島 132,907 132,907 0
琉球 69,221 69,221 0
東南アジア地区 710,670 710,670 0
ソ連支配地区 2,723,492 2,254,451 469,041
内訳@満州 1,105,837 1,045,525 60,312
内訳A大連関東州 223,093 223,093 0
内訳B樺太千島 372,016 287,880 84,136
内訳C北朝鮮 322,546 322,546 0
内訳Dシベリア 700,000 375,407 324,593
総計 6,614,393 6,145,352 469,041

志村注:
 ソ連に抑留された日本人捕虜の人数と死亡者の問題は、満州と
北朝鮮における日本人の問題と合わせて調査しなければ真相は
究明できないと思う。

ソ連支配地区(満州・大連を除く)からの引揚者数一覧表

時期 日本人引揚者数
1946年12月 28,421
1947年1月 83,438
1947年2月 63,693
1947年3月 90,606
1947年4月 58,083
1947年5月 51,920
1947年6月 49,125
1947年7月 46,564
1947年8月 30,418
1947年9月 36,181
1947年10月 35,181
1947年11月 47,667
1947年12月 3,676
1948年1月 0
1948年2月 0
1948年3月 0
1948年4月 0
1948年5月 46,345
1948年6月 44,999
1948年7月 46,034
1948年8月 40,030
1948年9月 37,214
1948年10月 37,420
1948年11月 37,929
数字不一致 14
合計 914,958

第2章 ソ連捕虜収容所における死亡原因

 日本参謀本部によれば、1945年日本軍降伏時、ソ連の責任の下に
置かれた日本人の数は2,723,492人(民間人及び軍人)である。

 この中、約700,000人が満州及び朝鮮から抑留のためソ連地区に
移送された。

 1949年5月現在において、469,041人の軍人及び民間人が、
今なお未帰還者として残され、ソ連捕虜収容所管理当局の責任と
されている。従ってソ連捕虜収容所管理当局は
本季の95,000人の送還予定者を除いて、尚、374,041人についての
説明責任がある。

 日本政府は、1947年及び1948年に、抑留者の家族が受領した葉書を
基礎として、153,509人が生存していると推算している。この推算は、
もちろん、結論的なものではないが、次の数字の示す通り、1949年5月1日
現在の日本人捕虜の抑留者数は、ソ連捕虜管理当局が示す送還予定者数、
95,000人を超過することは、如何なる基準から見ても明かである。

消息不明者374,041人の推算根拠

地域 ソ連領内 満州 合計
未帰還者合計 408,729 60,312 469,041
内訳・死亡と推定される者 39,937 17,418 57,355
内訳・生存と推定される者 153,509 0 153,509
内訳・所在不明の者 215,283 42,894 258,177
ソ連が送還を予定している者 -95,000 0 -95,000
差し引き計算 313,729 60,312 374,041

 日本降伏前、永年にわたり日本政府は日本軍および民間団体の
動きについて詳細な記録を持っていた。この日本政府の記録は
1945年マニラにおいて、日本軍降伏に関する記録作成の
担当者であるG−2によってまず確認された。以後、日本人
送還に関する計画、及び送還海上輸送の監視担当者である
G−3により定期的にチェックされてきた。

 日本人捕虜に関するこれらの数字は、利用可能なあらゆる方法で
チェックされてきた。すなわち消息不明者の家族に対する全国的な
調査、ソ連軍によって武装解除された日本軍軍人の帰還者との
面談調査、及び数千数万の捕虜収容所からの帰還者に対して
行われた詳細な質問等である。

捕虜の4分の1(25%)が死亡した

 帰還者たちは、1945年、捕虜収容所に到着したが、収容所の
生活環境及び衛生状態は、到底、生活できないほどひどい状態で
あったと報告している。このような耐え難い生活環境及び衛生状態が
数万数千人を死亡させたと報告している。

 日本政府の復員庁が1947年1月に作成したソ連地区に
おける125箇所の収容所の図表には、これらの収容所において、
209,300人の捕虜が収容され、その中、51,332人が、
栄養失調と伝染病により死亡したとの数字も報告されている。
死亡率は24.5%である。この高い死亡率は、捕虜の生活環境及び
衛生状態が、明らかに最悪であった日ソ戦争直後の抑留第1年目
(1945年)のものである。
英語原文:
 A tabulated list of
125 prisoners of war camps in the Soviet Area;
giving the number of prisoners and number of dead, was compiled
by the Japanese Demobilization Bureau in January 1947,
bssed on numerous interrogation reports, oral and written stataments
by repatriates. Of
209,300 prisoners of war in these camps,
51,332 died from malnutrition and communicable diseases.
The mortality rate obtained was thus
24.5 percent.
This cumulative percentage deals with the first years after
the war, when prisoners treatment and general camp conditions
were admittedly at their worst.


ソ連の日本人捕虜収容所所在図−1

ソ連の日本人捕虜収容所所在図−2

ソ連の日本人捕虜収容所所在図−3


 抑留者数及び死亡者数は、帰還者たちに対する詳細な質問と、
帰還者たちの口頭及び書面による供述に基づいて作成された。

 1947年後に生活環境改善があったにもかかわらず、この4年間の
死亡率は驚くべきものであった。日本人捕虜の生命を尊重するとの
考えが全く欠けた人間の生命の使い捨てともいうべき捕虜虐待である。

 集計された各種の数字の分析に加えて、数十万人に上るソ連からの
帰還者は宣誓をして供述をしている。これらによると、栄養失調、苛酷な
重労働、厳しい寒さ、及び伝染病のため、各収容所において信じられない
位の高い死亡率が報告されている。

 ある帰還者は次のように語っている。
「我々は満州の興安で武装を解除された。蒙古のモロドイ所在の
炭坑町に連れていかれた。伝染病が我々の間に発生した。
収容所にいた全捕虜がこれに感染した。600人以上の捕虜のうち
生き残った者は225人であった。死亡率は60%に達した。」

 さらに別の帰還者はいう。「我々の大隊350人はハバロフスクの
第3収容所に抑留された。200名が病気と栄養失調のために死亡した。」
この死亡率もまた60%に達する

 1948年ある帰還者は彼の同僚の未亡人に次のように語った。
「1945年10月、我々はチタの西方の1収容所に送られた。そこで我々は
森林伐採に従事した。食料の不足と厳しい寒さのために多くの捕虜が
病気になった。1946年の3月末までに同収容所の捕虜は、その50%が
死亡した。あなたのご主人は発疹チフスにかかった。医薬品不足のため
ご主人は死亡した。」

 アムール地区の収容所からの帰還者は次のように述べている。
「この地区の20箇所の収容所にいた11,000人のうち、3,000人が
死亡した。死亡率は実に27%に達する。」

 アムール地区からの帰還者の他の一人は次のように報告している
「第888地区のクイビシエフカ特別病院においては、埋葬した死亡者の
人数は墓の数から見て、全体で1,500人である。ブラゴエシェンスクの
病院では500人の捕虜が痘瘡、その他の伝染病で死亡した。ムイノ及び
トウ収容所では400人が死んだ。これらの数の合計は3,000人に上る。」

 ある地区の捕虜病院で墓掘りに使用された帰還者は次のように報告
している。「あまりにも多くの人が死ぬので、50人の墓堀では死体埋葬が
追いつかなかった。医官の話によると、1945年と1946年の間の死亡者は
その地区の捕虜の30%に達した。」

 集計上の誤差を考慮しても、30%の死亡率ということは、米国空軍に
よる日本主要都市空襲の最高時の死亡率2.9%に比較して実に高い
比率である。

 我々は、1945年、1946年、1947年のそれぞれの冬期間について、
死亡率の統計的分析を行った結果、各収容所において状況は異なる
ものの、3年間で累計21%の死亡率であったとの結論に達した。

 抑留に肉体的に適合しないものは続々と死亡した。より強い抵抗力
のある健康なものだけが生き残った。強い抵抗力によって生き残った
日本人捕虜に対して、1948年及び、1949年においては、共産党を
支持させるための思想教育を行うというソ連の打算的・政治的な政策が
行われ、日本人捕虜の生活環境の改善がなされた。従って、1948年・
1949年の死亡率はかなり減少した。

 1945年の最初の冬の死亡率は異常に高かったということを考慮しても、
あるいは、1947年のある地区の高い死亡率を、その他の収容所に一律に
当てはめることはできないと考えても、次のような推定死亡率をあてはめ
なければ、ソ連の送還予定者数、95,000人を差し引いた、残りの消息
不明者、374,041人の運命は説明されない。

Classification
その年の状況
Percentage
死亡率
Losses
1945年 すべてが最悪の冬 10.0% 272,349人
1946年 僅かだが改善された 7.0% 77,816人
1947年 かなり改善された 3.7% 19,668人
1948年 思想教育が行われた 2.0% 4,208人
総計 374,041人

志村注:
 この表あるLossesは、未確認を含む死亡者数であると思う。

Losses÷Percentage=母数(=残留抑留者数)を計算すると次の通りである。

未確認を含む死亡者数 272,349÷0.1=2,723,492  残留抑留者数
未確認を含む死亡者数  77,816÷0.07=1,111,657  残留抑留者数
未確認を含む死亡者数  19,668÷0.037=531,567  残留抑留者数
未確認を含む死亡者数  4,208÷0.02=113,729   残留抑留者数

 ソ連捕虜収容所管理当局は、これらの消息不明者の運命に関する
問い合わせに対して、常に回答を拒否している。374,041人の
消息不明者について、最近会ったソ連の代表者は、この数字の食い違いは、
日本政府や総司令部の集計方法の誤りが原因であると冷淡に言い放った。
かかる暴言は父や子の帰還を願っている数十万人の肉親にとって、実に
気の毒なことである。

 国際社会は数十万人にのぼるに日本の軍人および民間人を死亡
させたソ連収容所管理当局の劣悪な生活環境管理や衛生管理や
苛酷な取扱いについて、ソ連収容所管理当局の責任を問題にする
であろう。

第3章 ソ連捕虜収容所における
     栄養失調症と医療の欠如


 帰還者が異口同音にいうところによれば、彼らのシベア抑留の
最初の年の食糧の供給は、寒気と疲労とを克服するに必要な
最少限度を遙かに下廻るものであった。

 彼らは余儀なく食糧不足を補うために近在を探し廻り、樹皮、蛙、
カタツムリ、その他食べ得るものは何でも食べるという有様であつた。

 衛生施設が全く欠けているために、病気は、既に疲労、野宿、及び
栄養失調で弱つている全身に激しく広がるという有様であつた。

 収容所に到着する前の移動途中において多数のものが死亡した。

 ソ連当局は、膨大な数の日本人捕虜を収容するための、収容所
施設の準備を全く行っていなかった。。

 捕虜たちは、どのような建物であれ、建物でありさえすれば、
手当たり次第そこに収容された。生活するための設備を欠き、
環境も劣悪で、衛生設備もないところに収容された。多くの収容所の
建物は、到底、人間の住む所とは思えない粗末な建物で、多人数が
居住するための施設としては、全く不適当なものであつた。

 帰還者のいうところによれば、捕虜たちは狭い建物に横たわる
すき間もないくらいに詰め込まれたということである。この事実は
数千人の帰還者の陳述書においても述べられている。

 ある帰還者は次のように述べている。「収容所において自殺者や
逃亡者が出た。そのため我々は満3か月間、ジャガイモのみしか
与えられなかつた。従って我々は全員、収容所周りの蛙、カタツムリ、
ナメクジまで食べた。」

 典型的の陳述は次の通りである。「我々の多数は、食糧不足に加え、
衣服も十分でないために病気になつた。時には4人の捕虜が1人分の
配給食糧を分けて食べた。食糧の配給のない日もしばしばあつた。
住居は居住者が多過ぎ、設備は不適当であつた。」

 1946年5月、咸興(朝鮮)附近の一地区に約26,000人の民間人
集められた。その中、7,000人が野宿と飢餓のために死亡した。

志村注:
 
民間人とあるが間違いであると思われる。

 後述するこの後の部分は「重病者及び不具者30,000人を送ってきた」
とある。当時、厚生省引揚援護庁も、GHQ/SCAPも、帰還した日本人
捕虜の証言するこの内容について、「ソ連政府が、
北朝鮮の健康な
捕虜
と、シベリアの病気の捕虜を交換した」という、およそ、
まともな国家においてはあり得ない非人道的な犯罪行為を
想像できなかったため、北朝鮮の健康な捕虜については
civilian」と書いたのではないだろうか。しかし、民間人を集めたと
いうこともあり得ることである。後述するように、死亡したと述べている
7,000人は病気の捕虜の方である。

 ある帰還者は次のように述べている。 「我々は1945年9月13日に、
綏芬河を出発した。空腹と寒さと疲労に悩みながら、黒龍江を渡つて、
約1か月間、シベリアの荒野を徒歩で移動した。我々が到着したところは
山の中の鉱山地区であつた。そこは家もなければ、人間もいないところ
であった。このようなところで生き残るのは容易なことではないと、全員が
感じた。その場所はそれほど劣悪な生活環境・衛生環境であった。

志村注:
徒歩で満州・北朝鮮からシベリアへ拉致移送された日本軍軍人、及び
民間人の中から、移送途中において、疲労と飢えでかなりのものが死亡
している。自殺したものもいるはずである。逃亡を図ってソ連軍兵士に
殺害されたものも少なくないはずである。さらには逃亡に成功して満州
南部に逃げ込んだものもかなりいるはずである。

 衛生環境は極めて悪く、チフス、発疹チフス、肺炎、その他の各種の
病気が蔓延した。発病の原因は栄養失調、疲労、野宿である。
これらが原因で身体の病気に対する抵抗力が無くなったためである。

 帰還者たちは次のように断言している。収容所に伝染病の蔓延を防ぐ
防疫施設が無かった。捕虜の病気についてソ連当局はまったく無関心で
あった。この二つが伝染病を蔓延させた。ついには手の施しようがなくなる
までに伝染病の感染が広がった。かくて、もっとも感染者が少なかった
収容所ですら、日本人捕虜の死亡率が10%という悲惨な事態となった。

 衰弱の極みにあった捕虜たちは、普通では死ぬことの少ない病気でも
容易に死亡する有様であった。都市から離れた奥地の収容所においては
死亡率はさらに高いものであった。

 捕虜に対する医療は稀であった。利用できた薬局と病院も人員不足で
かつ医療設備も医薬品も無いという状態であつた。従って旧日本軍から
引き継いだ医療関係者がいなかったならば、捕虜たちは、医療は全く
受けられなかっただろうと帰還者たちは述べている。

 医療を施すどころか、ソ連当局は、日本人捕虜から搾れるかぎりの
労働力を搾る取るという計画であった。従ってソ連当局は、傷害を受けた
者や病気の者たちにも労働を強制した。

 傷害者たちや病人たちは、与えられた仕事を十分にやり遂げないとして
しばしば殴りつけられたり、矯正的処罰を受けたりした。

 華氏100度(体温37.8度)以上の熱のある者、及び傷害が一見して
判る者のみが労働から除外された。

 ヘルニア、盲腸炎、肺炎、結核、及びその他の病気にかかっている者は
医療が受けられないために死亡した。

 捕虜たちは、医療を希望すると、当局から仮病であるとして、
矯正的処罰を課せられるので、どうにもならなくなるほど病状が悪化
するまで、病気であることを申し出なかつた。

 送還開始に際しての方針は、労働に耐え得ない病人や、衰弱者のみを
まず送還するということであつた。これらの多くは、送還前に療養の
ために暫く入院する状態であつた。しかし彼らは健康が著しく回復すると
捕虜収牧容所へ戻された。

 病気があまり回復しないものは送還されることになつた。若干の者は
病気が悪化して病院で死亡した。

 ソ連から北朝鮮の病院に移された捕虜の10%〜20%が死亡した。
生き残つた日本人捕虜たちは実に惨めな有様であつたと多くの帰還者
たちが語つている。いたるところで、彼らは重労働を課せられた。
食糧は少く栄養は足りない。

 ほとんど、どこでも住居は貧弱で、衛生設備を欠き、飢餓と密居と不潔の
当然の結果として罹病率は著しく高まった。ついには伝染病が蔓延した。
ソ連当局は病人に対して、なんらの処置をとらなかったことは明白な事実で
あった。

 この時期において、ソ連当局は比較的軽度の病気に封しては注意を
払わなかった。その結果、少しの医療をほどこせば治癒したであろう
病気で多数死亡した。

 真の悲劇が不潔から生じた伝染病が蔓延した時に起こった。

 死亡者がいちばん多かったのは発疹チフスである。発疹チフスの患者は、
最初は熱を出し、次いで桑の実の色をしたふきでものを出し、その次に
精神が錯乱して悶え狂う。次いでふきでものは潰れ、下痢に悩まされる。
その後、死亡直前の麻痺に陥る。

 年間を通じて伝染病は非常に多く発生した。伝染病は衛生状態が
非常に悪い収容所で猖獗を極めた。間島と延吉の収容所だけでも、
10,000人以上が伝染病で死亡したと帰還者は語っている。

 チフスを免れた者も、極度の疲労と食糧不足から起こる壊血病に
よって呼吸器を冒され、酷寒のための凍えで、足の指や、手の指や、
腕が脱疽になった。

 捕虜たちの、このような深刻な病状を全く無視して、ソ連当局は
一定量の仕事を捕虜たちに強制し続けた。

 同僚100名と共に無蓋貨車で比較的楽な(in the "comparative
comfort" of an open freight car )
シベリヤ旅行をしたある帰還者は
次のように述べている。

志村注:無蓋貨車で移動中は労働を強制されなかったということ。

 「我々は最初は日中のみ働いた。後になると夜も働かなくてはならなく
なつた。その間食糧事情は極めて悪くなった。われわれは空腹を
かかえて働いた。気温は、時には、零下40〜50度になった。
空腹と重労働のため衰弱した。多くの同僚が病に冒されて死んだ。
我々は雑草でも何でも手当たり次第食べた。」

 ソ連からの 帰還船が着く度に、毎船の帰還者たちが、シベリアの
日本人捕虜収容所における、ソ連当局の日本人捕虜に対する、
このような、信じられないような、鬼のような無慈悲な行為について
語っている。

 軍医であつた帰還者は次のように報告している。「私はソ連軍の
命令で1,000人の病人を収容する病院を北朝鮮に建てた。

 1946年6月と7月に、そこへソ連軍は30,000人の労働不可能な
重病人と身体障害者を送り込んできた。

 送り込まれた人数があまりにも多いのと、医薬品が無いために
重病人・身体障害者たちも、我々医療スタッフも形容すべからざる
困難に陥った。

 帰還のための乗船時おけるソ連軍の検査について、この軍医は
次のように述べている。

 「ソ連軍は、帰還する捕虜の所持品について驚くべきほど厳重な
検査を行った。書類、遺骨、毛髪等、死亡した日本人捕虜に
関連するものはすべて没収された。この厳しい所持品検査は、
ソ連当局の死亡した日本人捕虜に対する残虐行為の証拠品を
隠滅する目的で行われた。

 しかし、私と私の部下は、この証言に関連するいくつかの書類を
ソ連検査官の目をかすめて持ち出すことに成功した。」

 元日本将校であつた帰還者は、この軍医の話を裏書して
次のように語つた。

 「衛生環境が極めて悪かったので、原因不明の熱病が発生した。
我々の仲間から、毎日この熱病に感染するものが出た。

 この収容所においては、非常勤のソ連の衛生将校が一人いた
だけで、衛生施設もなければ、医薬品も無かった。我々の熱心な
懇願にもかかわらず、ソ連当局はこれらの熱病患者に対しても
仕事の割当てを行い、労働を強制した。熱病は隊全体にあまねく
広がった。熱病と共に隊の全員が栄養失調症になった。

 しばらくたってから、我々は病院に入院することを許された。
一人の日本人看護婦の努力にもかかわらず、多くの仲間たちが
熱病で死亡した。自分は25体の遺骨を携えてきたが、悲しいことに、
ソ連当局は頑として持ち出しを認めなかったので、遺骨全部を
埋葬せざるを得なかった。その上、貴重な名簿までソ連当局に
没収された。わが隊の死亡者は全部で80人であった。」

 シベリアにおける大石炭産地にあるチエレンホフからの帰還者は
次のように述べている。
「3,000人以上の日本人捕虜がこの地区の鉱山で強制労働を
させられた。我々は、奉天、満州里を経由してシベリア鉄道で
チエレンホフに送り込まれた。

 チエレンコフはバイカル湖湖畔のイルクーツクの西にある。
苛酷な寒さともいうべき極寒と、粗悪で量もごく少量の食糧と
最悪の衛生状態にひどく苦しんだ。」

 こうした悲惨な環境におかれた日本人捕虜の死亡は必然であった。

 捕虜病院で墓掘りに従事していた帰還者は次のように述べている。
「1945年12月から1946年2月までのわずか3か月間で、飢餓と
伝染病で約1,000人の日本人捕虜が死亡した。石炭鉱山で
強制労働をさせられていた日本人捕虜たちは、全員、飢餓と伝染病で、
3分の1もが死亡したという事実に直面して恐怖におののいた。

 彼らは栄養失調症のためここへ来た。1945年の冬、彼らの多くは
腸炎を患い、罹病者の90%が死亡した。

 毎晩、50人が墓堀りに従事した。初めは1人づつの墓を掘ったが、
死亡者が増えるにつれて、2人用墓、5人用墓、さらには、25人用の
墓を掘った。

 しかし、それでも墓が足りなくなったので、遺体を重ねて埋葬した。
死亡した捕虜たちの多くは若い人たちであった。厳しい寒さのために
死亡したものも少なくない。

 ソ連軍の医療将校によれば、1945年と1946年の期間の死亡率は、
この地区においては30%にも達していた。

 古谷和穂はバイカル湖西方の石炭鉱山における日本人捕虜の
悲惨な状況についての証言を裏付ける次のような手紙を
東京朝日新聞に送っている。
「ソビエトのチナゴルスカヤ収容所に抑留中、飢餓、酷寒、及び我々に
強制された度を超した重労働のために多数の死亡者が出た。ソ連軍の
兵士は捕虜の遺体を裸にして積み重ねてどこかへ運んでいった。

 沿海州地区においても日本人捕虜は他の地区と同じ様に、
重労働を強制され、多く者が死亡した。

 1945年10月20日、100人の日本人捕虜がマンゾフカ収容所に
送られ、そこで農作業を強制された。発疹チフスが発生して、最悪の
事態になった。40人が死亡した。帰還できたのは60人だけであった。

 その近所の製材所では、200人の中、120人が熱病で死亡した。

 モンゴルのウランバートル収容所からの帰還者は、ウランバートルに
送られた日本人捕虜と収容所の仲間たちについて次のように述べて
いる。

 「ウランバートルには15,000人の日本人捕虜がいた。人口が
50,000人であった町に、新たに15,000人もの捕虜を送り込んだ
のである。食糧不足が起こるのは必然的結果である。日本人捕虜は、
皆、飢えに喘いだ。

 日本人捕虜たちは、仲間同士でいがみあい、それぞれが相手の
ことについてソ連当局に密告したりした。このようなことは、
いかに戦争に負けて、生き残るためであったとはいえ、
まことに情けないことであった。

 我々は、森林伐採、石材の切り出し、建設、及び鉱山における
採掘作業なといろいろな仕事を強制された。

 我々が強制された仕事は、ソ連復興5か年計画を達成するための
ノルマ(絶対達成を義務づけられた仕事量)であるとして、ソ連当局は、
我々の基本的人権とか健康状態とかは頭から無視していた。
とにかく、ノルマを達成しろの一点張りであった。このため
日本人捕虜の健康状態は日ごとに悪くなった。

ウランバートルは泥棒と嘘つきの町である。」

 ハバロフスクの北西にあるロンドコよりの帰還者は次のように
報告している。
 「ここの収容所の捕虜たちは、高梁(Kaolian)、大豆、塩、
及び油だけで命をつないできた。1945年10月から1946年
1月までは、栄養失調と肺炎が猛威をふるい死亡者が続出した。
まさに【この世の地獄であった。」

 シベリアのアントノフカ及びサンタゴからの帰還者たちは次の
ように語っている。
 「バイカル湖から400マイル西方にあった捕虜収容所から出る
ことができたのはたいへんな幸運であった。その収容所では
多くの仲間たちが、飢えと酷寒と重労働で次から次へと死亡した。

 我々が経験したソ連の捕虜収容所での生活と比べれば、
日本での現在の私の生活は全く楽すぎて、夢のようである。
今でも捕虜収容所での生活を思い出すと血が凍るような恐怖に
襲われる。

 私は日本国民が、我々日本人捕虜がソ連の収容所で味わった
苦難と絶望感とを、少しでも理解してほしいと願っている。」

多くの他の帰還者たちがこの意見に全く同感であると言っている。

 チタの北180マイルのある部落で森林伐採作業を強制されていた
帰還者は、苦しかった抑留時代を回想して次のように述べている。

「多くの日本人捕虜が、重労働と食糧不足に起因する結核と栄養失調で
死亡した。このような状態で死ぬまで強制的に働かされるくらいなら、
早く死んだほうがマシだと思った。本当にあの時は先に死んだ人が
うらやましかった。」

 帰還者の供述は次のような話で満ちている。
「シベリアにおける我々の生活を思い出す度に全身、身震いする。
あまりにも食べるものが少なかったので、我々は切実に空腹に
悩まされた。」

 日本人捕虜は、全員、飢え・酷寒・重労働ノルマに苦しんだが、
これらの苦難に加えて、ソ連は共産主義思想教育でも日本人捕虜を
苦しめた。

 ウラジォストク地区の収容所からの帰還者は次のように述べている。
「この地区の収容所には多くの民主主義者と共産主義者がいた。
しかしながら彼らの多くは、エセ進歩主義者であつた。
生活条件は良くなかった。さらに我々は日本人捕虜仲間の中の
密告者の密告に悩まされた。」

 ソ連はこの共産主義思想教育において、捕虜の中から思想教育
教官志願者を募った。

 これを嫌ったある帰還者は次のように語っている。「自分が帰還する時、
【民主同盟】なるものが組織された。この同盟は共産主義思想教育を
担当すると共に、捕虜の中から誰を帰還させるかを決定する権限を
ソ連当局から与えられていた。」

 捕虜によって組織された青年共産党の指導者の一員であった
ある帰還者は、この共産主義思想教育が、いかに事実を歪曲した
デタラメ極まるものであったかについて次のように供述している。

 「自分はソ連に抑留されている間、青年共産党の指導者の一員で
あった。ナホトカにおいて日本への帰還船に乗船するに先立ち、
自分は他の仲間たちと同じく、【スターリン大元帥バンザイ】と大声で
叫んだ。そして民主同盟グループに対して、反動分子が満ちている
日本に帰還次第、日本共産党に入党することを誓った。

 日本の故郷に帰って自分が知ったことは、我々はソ連の収容所に
おける共産主義思想教育で、事実を歪曲したデタラメ極まること
ばかり教えられていたということである。

 ソ連は、米国占領軍は日本人の帰還を妨害している最大の敵
であると教えたが、事実は全く正反対で、米国占領軍は、日本人
捕虜の帰還を促進するために最大限の努力を行っていた。

 ソ連は、日本の故郷の人たちは、日本人捕虜の帰還に対して
全く冷淡であると教えたが、事実は全く正反対で、日本国民は
日本人捕虜の帰還促進のために強力なキャンペーンを行っていた。

 日本の実情を自分の目で見て驚いた。ソ連で教わったこととは
全てが正反対であった。ソ連で教わった思想は全て間違いであると
悟った。」

第4章 ソ連の日本人捕虜に対する強制労働

 日本に送還する前に日本人捕虜から徹底的に搾り取り尽くす
というソ連の政策がおびただしい数の日本人捕虜の生命を奪った。

 日本人捕虜を拉致移送したソ連の第1の目的は、戦後、様々な
産業分野において経済力と軍事力を増強するために、日本人技術者と
日本人労働者を最大限に使用することにあった。

 ソ連は、戦後の5カ年計画の各年次において、農業においても、
鉱工業生産においても、資本主義各国を打ち負かし、凌駕するための
明確な目標を立てた。その目標を達成するために、休むことなく、
もっと働け、もっと生産量を増やせと労働者に要求し続けた。

 日本人捕虜たちは、哀れなほど不十分な食糧と衣服と住居という
環境に置かれた上に、このソ連の5カ年計画達成のために、極端に
苛酷な労働を強制された。

 収容所に到着するやいなや、捕虜たちは直ちにその収容所が担当
している分野の仕事に従事することを強制された。

 捕虜一人一人の労働能力を判定するための医学的検査は極めて
いいかげんなものであった。

 収容所によって、それぞれ異なる方法で捕虜の区分が行われた。
共通する結果は、重労働に耐えうるか、到底、重労働には耐えられない
かの二つに区分するということであった。しかし、このような区分さえ
行わず日本人捕虜全員に重労働を強制した収容所も非常に多かった。

 身体検査は捕虜を腰まで裸にして医者が簡単に身体の外見と体格を
見るというものであった。内臓疾患やその他の慢性の病気を診察することは
無かった。

 医者がチラリと見て捕虜が健康に見えさえすれば、重労働に耐え得る
と機械的に決められた。

 熱が華氏100度(体温37.8度)以上あった場合のみ病気と認定された。

 怪我をした場合でも、外傷がはっきりと認識されない場合は、入院を
認められず労働を強制された。外傷が認識されても熱が華氏100度
以下であれば労働免除はされず労働を強制された。

 帰還者たちの報告によれば、彼らが強制された重労働は次のような
ものである。

 森林伐採、鉄道貨物の積み卸し、鉱山での採掘、、道路及鉄道の
補修及び建設、埋蔵物の掘り出し、港湾における荷役作業、
その他強靱な体力を必要とする筋肉労働である。

 これらの重労働を強制された日本人捕虜たちは、体重が半分に減る
ほど憔悴し、疲労の極限に達した。

 すべての重労働において、毎日達成しなければならないノルマを
課せられた。日本人捕虜に課せられたノルマは、ロシア人労働者に
課せられたノルマよりはるかに多かった。

 ノルマは日本人捕虜のグループに対して課せられた。ノルマを課すに
当たって、ソ連当局は個々の捕虜の健康状態を完全に無視した。
ノルマはグループの人数に応じて課せられた。従って、健康状態の
良い捕虜は、健康状態が悪く十分な労働ができない者たちの分まで
労働せざるを得なかった。

 もしグループ全体が決められた時間内にその日のノルマを達成
できなかった場合は、そのグループはノルマを達成するまで、
1日18時間もの労働を強制されたことがしばしばあった。

 天候がわるくても、捕虜の中に健康を損なうものが出ても、
捕虜たちは、1日最低8時間の労働を強制された。彼らに課せられた
ノルマは、1日8時間の労働では到底達成できないものであったから、
彼らは毎日、8時間をはるかに超える長時間の労働を強制された。

 帰還者たちの報告にによれば、彼らに与えられた食糧は量が少なく
栄養のバランスを欠いたもので、これに加うるに長時間にわたり
労働を強制されたので、日本人捕虜は、全員、栄養失調症になった。

 日本人捕虜に与えられる食糧の量は、ノルマ達成度に応じて
加減された。このため衰弱してノルマを達成できない捕虜には
食糧が与えられなかった。そのため衰弱者はますます衰弱していった。

 ついには死亡直前という状態になって、やっと労働を強制されなく
なるが、もう手遅れで、これら労働を免除されたものたちは、
すぐに栄養失調症で死亡した。

 その他の死亡原因は、屋外で厳しい寒気にさらされるのに
寒さを防げるようなまともな衣服を着ていないことと、
労働時間中には休憩することが許されないことに起因する
極度の疲労である。

 日本人捕虜がどんなに衰弱しても、ソ連当局は絶対に
ノルマを減らすことはしなかった。

 帰還者たちの報告によれば、1948年になってからソ連の日本人
捕虜の取扱はいくらか良くなった。

 作業現場において、ソ連の監督官は言うことをきかぬ日本人
捕虜を殴打することは禁止されていたといわれている。

日本人捕虜の生産量をふやすために様々な手法が用いられた。
収容所間で生産競争が行われた。優勝した収容所には優勝カップが
与えられお世辞たっぷりな賞状も渡された。生産競争に負けた
収容所は捕虜仲間から冷酷な侮辱で見下されるように仕向けた。

ノルマ120%達成キャンペーン、ノルマ150%達成キャンペーンなど
顕著な成果をあげたものに対しては、メダル、バナーが与えられた。
ソ連当局の宣伝紙『日本新聞』紙上で賞賛された。

 この生産競争やノルマ超過達成キャンペーンの日本人捕虜の
リーダーたちは、これらの賞賛に対して非常に感激して、ますますの
協力をソ連当局に誓った。その結果、日本人捕虜たちは、ノルマの
超過達成のため、1日、12時間〜13時間も強制労働させられる
羽目に陥った。

 同時に、ソ連当局は、帰還者の選別は、個人及び収容所の
ノルマ達成率を基準として行われるという噂を流した。

 1948年になって、ソ連経済は、拡大し安定するようになったので、
日本人捕虜の強制労働に対して新たなインセンティブが工夫された。
その日のノルマを100%以上達成したものに対して、食糧あるいは
金銭の賞金が与えられるシステムが発表された。

 そうはいうももの、この中の、金銭賞与は「費用として差し引く」と言われ、
日本人捕虜には実際には与えられなかった。

 しかもソ連はこのシステムについて、これは日本人捕虜の労働に対する
賃金支払いであると称している。従って、日本人捕虜の労働は
強制労働では無かったと称している。

 ソ連の日本人捕虜の労働生産に対する飽くことを知らない要求は
日本人捕虜の中の狂信的共産主義者リーダーたちの、
仲間に対する冷酷な仕打ちによって拍車をかけられた。

 1949年4月、リブストロイ収容所において次のような事件が起こった。
足の負傷で医療を受けていた一人の捕虜は、ソ連の医者により、
熱は華氏100度(体温37.8度)以下であるから、負傷をしていても
仕事のノルマは完全に達成せよと宣告された。

 足の負傷による痛みに悩むこの捕虜は仕事を十分に行えなかった。
すると、日本人捕虜の中の狂信的共産主義者リーダーは、彼を
いわゆる【人民裁判】にかけ、彼を【非民主的】な態度で
仕事をやっているとして強く非難した。そして、彼に、
「君はソ連当局による裁判で裁かれるであろう」と告げた。
この負傷した捕虜は【人民裁判】における仲間たちの非難に
耐えかね、さらには自分の将来を悲観してその夜自殺した。

 この捕虜やその他、数え切れないほどおびただしい数の
日本人捕虜が、ソ連の戦後復興5カ年計画の犠牲となって、
この4年の間に死亡した。

志村英盛訳文の第4章までは以上

関連サイト:シベリア抑留の事実隠ぺい−固く閉ざされたパンドラの箱

参考情報:NHK『引き裂かれた歳月 〜証言記録 シベリア抑留』

引揚援護庁編 『引揚援護の記録』 資料第52頁〜第57頁より転載
第5章〜第6章 (用語修正・かな使い修正・表現修正を行っている)
第52頁
第5章 ソ連の日本人捕虜に対する思想教育

 ソ連領と外辺のソ連支配地区に4年間抑留されている間、日本人抑留者は
ソ連内務省の管理の下に置かれた。この官庁は、単に捕虜の生活および福利厚生を
担当したばかりでなく、日本人捕虜を、日本民族の信念、および道徳力の根元に
正反対なソ連の思想道徳に転向させなければならないという巨大な任務を
課せられていた。

 この転向教育計画は、それ自身、各捕虜の生活、および政治的将来を転換させるため
工夫された巨大な遠心的機関である。この転向教育計画は、日本人の思想様式、および
習慣に適合するよう巧みに仕組まれ、捕虜の現在の境遇とその各々の発展状況に
歩調を合せ、よつてもつて捕虜の生活及び思想の一部に近似するよう次第に
転向させようとしたものである。

 内務省の構想および実施に適合するよう各収容所に、ソ連人指導の下に、日本人
共産主義者の一団を配置した。信念に基づくか、或は生きるための便法かはともかく、
共産主義に転向した捕虜たちは、宣伝者と情報通報(密告)者という香しからぬ両役を
勤めた。あたかも、ナチスの捕虜牧容所における欧州人の片われといった役である。

 いわゆる「啓蒙」計画と銘打つた初期の用語は消極的のものであつて、ソ連に対する
伝統的な否認および嫌悪の感情を除かんとするものであった。この感情は日露両國の
間で永年にわた醸成されたもので、最近、勝利者ソ連の手で行った暴虐行為も、なんら、
これを解消し得なかつたものである。ここにおいて、これに続く積極主義に対する一つの
準備が必要となつてきた。

 捕虜が意氣沮喪して國境地方に到達した1946年3月にこの運動が開始された。

第53頁
 彼らは、突如としてきた敗戦に驚き、シベリアの冬の酷寒に気力を失った。さらに
苛酷な労働と飢餓的食糧とによって、かれらの道徳心と抵抗力は次第に低下するに至った。

 彼らの生命を支えた唯一つの力は早期日本帰還の希望のみであつた。
飢餓と寒さと虐待によって数百人の仲間が死んでいく有様を見つめて、
彼らは、もはや、生き長らえる希望を失うに至った。

 この失望落胆の虚に乗じて、内務省は「友の会」として知られる一種の反ファシスト・
グループを作ることで転向教育計画実行を始めた。当初、政治および社会問題に
興味ある者は、収容所毎に作られたこの「友の会」と称する討議機関に参加するよう
勧められた。しかし、これに対する反応があまりなかつたので、急遽、「友の会」の
性格は、捕虜の生活状態を改善するための思想の勉強会という形に変更された。

 不思議な話であるが、ソ連内務省はロシア農民に対する強圧的な思想教育には
失敗している。しかし、ロシア農民は貧困にめげず、愛国心と自己犠牲の精神をもって
働いていた。日本人捕虜は、かれらの周辺に貧困にめげず、黙々と働くロシア農民の
姿を見て感銘するに至った。日本人も、また、愛国心と自己犠牲という厳格な主義に
育成されてきているからである。

 積極的な政治教育は、人民革命の最も強固な障害となる天皇制、軍閥等の日本の
社会組織に対する攻撃をもって開始された。「日本新聞」は連続して、煽動的、かつ
反軍国主義的な論説を掲載した。捕虜の不運・不幸を招いた原因は、天皇制と軍閥の
存在であると説いた。「友の会」は、各収容所の、いたるところに、「将校の特権を打破
せよ」「捕虜の生活を改善せよ」「天皇制を打破せよ」との標語を書いた旗をたてた。

 この計画実行はただちに成功を収めた。将校の支配を離れた兵士たちは手放しとなり、
あたかも全面的反乱が各収容所に発生した観を呈した。ソ連はこの機会を逸せず、
これに論理的結論を打ち込んだ。「日本にある同胞も、また、帝国主義的支配と
軍人専制から解放されねばならぬ」と捕虜たちに教え込んだ。

 「友の会」は、その個性を維持しつつ、転向教育計画と不離一体であった。その業務は、
捕虜の構成する収容所委員会によって遂行された。委員会は戦術を計画してソ連当局の
指令を収容所の諸政策に具体化し、他の委員会の事業との関係を調整した。

 「日本新聞」も、まもなく捕虜転向教育計画の分離すべからざる一部となった。
「日本新聞」はソ連の命令を、敗戦日本人に伝える機関として作られたものであるが、
1946年2月、ソ連軍が満州から撤退し、関東軍が混迷した50万人以上の元軍人の
集団と化するや、「日本新聞」はシベリア、欧露の一部、満州、北朝鮮、および外蒙に
散在する無気力な日本人集団向けの宣伝機関へと発展した。

 その論説は、帝国主義および階級制度を攻撃し、反米宣伝がたくみに同紙の各部分に
織り込まれた。ウソと真相を混合した記事は、米国の占領下にある捕虜の家族と故郷とに
対する抑留者の心痛をかきたてた。米国に対する抑留者の恐怖と嫌悪の情を高めた。
「日本新聞」の日本人記者は捕虜の心情をたくみに捕えることができた。「日本新聞」が
急速に効果をあげることができたのは、有能な日本人記者の働きによっている。

 捕虜転向教育計画の第2段階は1947年1月に開始された。このころ、収容所の生活
状態はいくぶん良くなり、1946年の飢餓状態も緩和し、食糧も少しは豊かになった。
あたかもこの時、米国は強硬な言葉遣いでポツダム宣盲に言及し、日本人捕虜をソ連領
およびソ連支配地区から、米国により平和的に占領されているかれらの故郷・日本へ、
できるだけ速やかに帰還させるようソ連に要求した。この要求を充たすための充分なる
船舶提供の申入れによって、ソ連は、やむなく同意のジェスチュアを示し、日本人捕虜
送還計画は軌道に乗った。この月以前に送還されたものは、重体の結核患者と重労働に
堪え得ない捕虜のみであった。

 淘汰工作が完成するや、一層積極的な「転向向上」教育課程が抑留者のために定められた。
これは知識階級を引き抜き、将来に向かっての有効な思想統制を計画したものであった。
新「転向向上」教育課程は次の如きものを含んでいる。理論的共産主義の研究、労働組合と
階級闘争の研究、戦後の米国とソ連の政策の比較、および「共産党小史」などなど。

 これらの課目は各収容所で実施され、宣伝機関は組織的政治教育学校になった。
転向見込充分な学生と有力なグループ指導者は、肉体的労働を免除され、厳重な理論的
標準を維持するよう命令された。彼等の立派な身なりと清潔な衣服は、ボロをまとい風雨に
さらされて強制労働に從事した一般捕虜の人々の姿と比較して、顕著な対照であった。

 「我々は、現在の日本社会組織の中に、強力なプロレタリアの戦線を結成せねばならぬ。
そして天皇制の拘束を打破せねばならぬ。このプロレタリア戦線は、やがて、米帝国主義から
日本を守る力の防壁となるであろう。」

 「日本新聞」のこの宣伝文句は、これ以降の転向教育計画の基調を示したものである。
「日本新聞」は、米国の日本占領政策を終始一貫して攻摩した。同時に米国とソ連のやり方の
比較は、反米宣伝に絶好の機会を与えた。理論的共産主義の課程は、捕虜をして、日本の
真の民主的再建の道はただ一つ、ソ連と同盟して、あらゆる米国の政策と影響を根絶する
ことにありとの信念を持たせるに至った。

第54頁
 日本におけるプロレタリア革命の準備として、帰還兵士を日本共産党に入党
させることが転向教育計画の主目的となった。

 収容所において変則的な存在であった各グループは、1947年の夏には
ソ連公認の政治組織として強化された。彼らは、先の反階級運動や将校排除運動
において、当局にとつて有用な存在であつた。
これらのグループは知的教育を受けていない暴力的な青年から成り、
戦前の日本陸軍における、天誅組、血盟団、あるいは青年将校連盟と同類の観が
あつた。いまや、ソ連当局は、これらの青年を選んで、特別訓練を施し、彼らの
指導者に特別の権限を与えた。保守的分子を排除するために、未熟な熱血漢を
利用するという1930年代に流行った右翼暴力団の手法を踏襲したのである。

 収容所内において、マルクス・レーニンを真剣に学んだ知的グループと、
激烈な手段で日本の共産化を図ろうする暴力的青年グループとの間で
感情的対立が激化した。しかしマルクス・レーニン学習の知的グループの
理論家は組織されていなかったので、収容所内では、暴力的青年グループが、
当局の後援の下に、勢力を拡大していった。それは、太平洋戦争前
10年間の日本陸軍内部における動きと同類のものであった。

 これら暴力的青年グループの表面上の義務は、日本共産化計画に対する
捕虜の興味を刺激することと、労働生産力の増強であったが、ソ連当局の
真の狙いは、収容所内と各地区内における内部情報の収集であった。
暴力的青年グループにスパイ活動をさせたのである。
グループのメンバーは、当局より、秘密に命令を受け、
捕虜仲間の行動を監観した。反共産主義と思われるもの、
もしくは労働意欲を欠くと思われるものを当局に報告した。

 暴力的青年グループの究極の使命は、革命運動の核心たる日本共産党内に
強力な行動隊を作り上げることであった。当局の後援を背景に、彼らは
収容所内の保守的分子との闘争を続けた。、この暴力的青年グループは、
内務省管轄の警備隊が全収容所内の秩序維持責任を持っていたにもかかわらず、
刑罰手段を手中におさめ、思うままに振る舞った。

 青年グループのメンバーになる事は、最低限、捕虜として生き残れるいう
保証が与えられる。最善の場合、虐待、飢餓、および重労働が免除された。
彼らには、組織内で細胞活動を行うための特別な訓練が施された。彼らは、
日本へ帰還後は農民組合、あるいは労働組合に潜入することを命ぜられていた。

 暴力的青年グループの指導者の手に、日本人捕虜に対する或る一定の
司法権が委ねられた。被らはこれによって嚴格な規律を維持した。
転向教育が進んだ収容所においては、日本人が裁判長兼検事となって
人民裁判が行われた。人民裁判の仕事は、共産主義転向運動に
協調しない捕虜を裁判形式で迫害することであった。
裁判長兼検事により起訴状が読み上げられる。
いわゆる被告は、弁護のための何等の機会も与えられない。
刑の宣告はなんらの手続きなしに行われる。
裁判とはまったく無縁の「リンチ」として知られるこの人民裁判形式は
共産主義忌避者や「腐敗したブルジョア」に加えられる共産主義国では
一般的な刑罰方式である。

 いわゆる被告は群衆の前に立たされて、群衆に激しく罵倒される。
最悪の場合、極度に激昂した群衆が、被告に直接、暴力をふるい、
いわゆる被告をその場で殺害するのである。
身体的傷害を受けない場合でも、いわゆる被告は、精神的に極度のショックを
受ける。ソ連収容所における人民裁判においては、いわゆる被告は、次のような
宣誓書への署名を強要された。
・天皇制を打破すること
・日本に共産主義の政府を樹立すること
・日本共産党に加入し、これを支持すること

 重大な犯罪、およびソ連当局の命令の違反者はソ連軍によつて起訴され判決される。
被告は、通常、ソ連軍の手で、死刑、もしくは無期懲役に処せられる。

 すべてのグループ指導者は、日本における将来の活動のために特別に訓練された。
日本人捕虜の全員が共産主義教育を受けた。さらに、厳しく選抜された転向者のみが、
次の重要な訓練所で特別教育を与えられた。「モスクワ政治教育学校」「共産主義学校」
「青年学校」及び「政治学校」である。後に挙げた3校はホルモリンにある。

 共産主義転向の最も進んだ学生は、さらにモスクワの「諜報学校」に入れられる。
この学校は、欧州とアジアにおけるスパイ活動とサボタージュに関する
ソ連の計画に参加する事を予定されている特別情報員の訓練所と信じられている。

 共産主義研究のための「ホルモリン共産主義学校」は今なお開かれているとの
ことである。通学は自由意思で、学科は大要、次のようである。
・国際情勢、・ソ連と日本の時事問題、唯物論とその金融的発展。
ホルモリン青年学校も同一科目であるが、その訓練は一層集中的である。
学生は25歳以下で、各自、個別の住居を与えられる。
「ホルモリン政治学校」にも重きをおいているが、ここでは収容所の
指導者を養成する。これらの教育機関から狂信的共産主義者、青年指導者、
雄弁家などが出てくるのである。

 ソ連は日本人捕虜の中の暴力的青年を共産主義者に転向せしめ、さらには
彼らを危険な狂信的共産主義者にならしめることにまで成功している。これは
あたかも共産主義という危険な伝染病の病菌を健康な人間の肉体に植え付ける
ことに成功したともいえよう。

第55頁
 軍人捕虜および民間人抑留者が、全員、日本共産党へ集団入党するようにとの
共産主義教育が施され、「帰還闘争」という特殊教育が行われる。この特殊教育の
目的をを正確に表しているのは次の二つの標語である。
「ソ連の真の姿を日本に伝えよ」
「日本における反ソ連思想と反共産主義宣伝を打破せよ」
これは日本において全面的共産革命を行う準備として、抑留者が日本に帰還した
ならば、全員、日本共産党に入党するようにとのソ連の強烈な努力である。
「帰還闘争」特殊教育は日本人捕虜の転向教育計画の第4段階である。

 「帰還闘争」特殊教育は抑留者が日本へ帰還のためナホトカ港に到着しても
継続して行われる。彼らはナホトカ港で最後の広汎な教育を受ける。
この教育は、彼らの間では「仕上げ学校」として知られている。

 ここでの受講成績がわるいと日本帰還が取り消されることが少なくない。
「仕上げ学校」という言葉は、日本帰還を目の前にした日本人捕虜が
帰還適格性テストという最後の、しかしもっとも難しい試験を前にした
恐怖感を的確に表現しているとは言い難い。この帰還適格性テストに
失敗すると、日本への帰還は取り消され、無期限的に元の労働大隊に
送り返されてしまうのである。

 帰還適格性テストという苦難に対する準備は、彼らが収容所を出発する
ずっと前から始められる。仲間の中にいるスパイや内部情報報告者の、
単なる一つの密告によって、日本への帰還が永久に引延ばされるかもしれない。
密告を免れる対策が必要なのである。

 捕虜たちがまとっていた衣服はお粗末極まるものであったが、彼らは精いっぱい
努力して、見た目だけはできるだけスマートにしようと努めた。
彼らは強制労働現場への往復において、軍隊的規律を守り、指導者の指示する
歌を歌って行進した。指導者が招集する集会には必ず参加して、
「赤旗の歌」「インターナショナル」を合唱した。

 彼ら等は共産主義の標語憶え、帰還のための乗船港、ナホトカへ向かう途中、
通過する停車場毎に、この標語を叫び、「赤旗の歌」「インターナショナル」
合唱した。そして誰に封しても、【同志】といって言葉をかけることを実行した。

 ナホトカに到着すると、調査隊が、一人一人の共産主義教育体得度(洗脳
浸透度)を調べて判定する。各個人のみならず、グループが、一定以下の
共産主義教育体得度(洗脳浸透度)と判定されれば、彼、及びグループは、
日本帰還を取り消されて、無期限的に労働大隊送り返される。
日本への帰還を許されるものは、ソ連を愛し、ソ連を尊敬し、ソ連を去る
ことを欲していなかった者だけにするというのが明確なソ連の方針であった。

 捕虜たちに有無を言わせぬこの徹底した洗脳教育は、締めくくりの大会合を
もって終わるが、この大会合においては、徹底的に訓練された狂信的共産主義
雄弁者たちが、「日本民衆の米国化を阻止」して、「平和的な共産革命を実行」
して、「奴隷的日本の米国植民地化を防げ」と激励するのである。

 ナホトカに着いてからも、捕虜たちは、労働現場や、食事施設や、集会会場への
往復において、腕を組んで行進し、「赤旗の歌」「インターナショナル」
合唱する。こうして、彼らの感情を白熱化させた段階で、指導者が
日本共産党加入の宣誓書を持って現れる。捕虜たちは、集団心理に背くことが
できず、否応なしに宣誓書に署名せざるを得ない。

 捕虜たちが、日本へ帰還後、ただちに、日本共産党の懐に
彼らを追い立てようとするこの方法は、捕虜たちを共産主義に転向させたとしても、
かれらが、いつまでも共産主義者であるはずがないというソ連の疑念を示している。

 中国清朝末期の歴史学者・梁啓超(りょう けいちょう)は、
「民衆の間にに深く根ざず事なき或る制度を作るとしても、
それは自分の枯れかかった樹を飾ろうとして他人の花を折るようなもので
到底永続はしない」と述べているが、これはソ連の疑念を表現した言葉でもある。

第6章 日本人引揚者の共産主義教育

 1949年(昭和24年)6月27日朝、シベリア引き揚げ第1船の高砂丸が
舞鶴に入港したときの光景は、ソ連は、ソ連に対してまったく好意を持たない、
いわば反ソ主義者でさえ、マルクス主義的に教育できることを、日本国民に
印象的に示し、日本国民を驚愕させた。

 カーキ服を着た約2000名のシベリア引揚者たちは岸壁側の船のレールに
集台して、1947年秋のプラグの国際青年会議においてにおいて採用された
世界共産党青年歌である「国際青年歌」「インターナショナル」を、訓練された
調子で歌った。彼らは、4年間以上も、ソ連に不法無道に抑留され、重労働を
強制されたにもかかわらずである。

 引揚者たちは、おそれることなく、ソ連に対する愛着を宣言した。日本共産党に
入党するとの誓約書を読み上げた。さらには、日本をソ連と同様の社会主義国に
変えてみせると誓った。

 如何にしてソ連がこれほどまでに日本人捕虜を共産主義狂信者に転向させることが
できたのかは、個人心理研究分野、群衆あるいは集団心理研究分野における
実に魅力的な研究課題である。

 引揚者たちに対しては徹底的な聞き取り調査が行われた。一般的な日本人と同様、
引揚者たちも、ロシア人やロシア人のやり方は嫌いである。日本は幕末から
ロシアとさまざまな形で対立してきた。ついには日露戦争を起こした。
昭和時代においても、満州国建国後、日本とソ連とたびたび国境紛争を起こしてきた。
このような、歴史的なわだかまりが日本人の心情に残っていたにもかかわらず、
ソ連は強力な、かつ多面的な、共産主義転向教育を実施した。

 1946年、最初の引き揚げが開始されたとき、ソ連は、病弱者、不具者、および
老齢者を選んで帰還させた。この選別基準は明瞭である。彼らは労働に堪えられず、
何の役にもたたないからである。共産主義への転向教育をしてもムダになるだけ
だからである。ソ連は病弱者、不具者は早期に死亡すると判断していた。
ソ連は、高齢者は転向教育を施しても転向しないだろうと判断していた。
病弱者、不具者、および老齢者たちも、ソ連に対する極度の憎悪感、嫌悪感を
露骨に態度に表していた。

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 ソ連が行った次の手段は捕虜を区分分類する工夫であつた。
老齢の高級将校は分離された改容所に送られた。中間級の将校も分離された。
残りの大部分は、若年の人生経験の少ない純真な青年であった。
彼らの精神段階は、ソ連思想を正しく認識し得るほど成長進化してはいない。
ソ連思想を批判できるような信念や判断力をもっていない。

 さらにソ連は、赤紙で徴兵された召集兵士が、多年にわたって抱いている
将校に対する反感、すなわち軍隊内の階級差別についての強い不満を煽って、
一般兵士と将校を分裂させる運動を始めた。

 その結果、従順な将校たちは、将校が持っていた特権的地位を恥じるようになった。
ソ連は、この兵士将校分裂運動で二つの目的を達成した。先ず、将校に
率いられていた規律正しい軍隊は、指導者不在の大衆集団と化した。
次に、捕虜の大半を共産主義思想に近づかせた。

 将校階級の特権に反発する大衆心理を煽り立てることによって、
ソ連は召集兵士の心情に訴えるには何をすべきかを把握した。

 そこで、ソ連は、捕虜に直接開係するいくつものデタラメ極まる小話を創作した。
捕虜たちがシベリアで、飢えと酷寒と重労働に苛まれ、日本帰国を熱望しているのに、
日本政府はソ連が要求した引き揚げのための船舶派遣を拒否している。
捕虜たちが日本に帰還しても、米国の占領下にある日本には、かれらを世話する
なんらの施設・設備もない。

 ソ連こそが彼らを拉致して捕虜虐待をしているという事実とはまったく正反対の
このデタラメ極まる小話を真に受けた捕虜たちは、彼らに冷淡な日本政府に対する
悪感情と米国に対する憎悪感をますます高めるに至った。

 デタラメ極まる小話はさらにエスカレートして、ついには、日本政府は
国益のために、捕虜たちをソ連の地に遺棄したのだとまで言い出すに至った。

 事実とはまったく正反対の、ソ連の恥知らずのデタラメ極まる宣伝に惑わされて、
捕虜たちは、ソ連は自分たちの味方だと誤解・錯覚するに至った。

 その結果「友の会」なるものが作られた。ここにおいて、ソ連は機を逸せず
【サクラ】を「友の会」に潜り込ませた。【サクラ】を通じて共産主義浸透の
道をつけたのである。

 捕虜たちが知らず知らず引き込まれた、いかにももっともらしい転向計画の
洗脳テキストは次のようなものである。

 日本が戦争に負けたのは、日本を統治するための政治組織が悪かったからである。
日ソ戦争の勝利者であるソ連の政治組織は国の統治において最高にの成果をあげる
ことに成功している。敗戦前の日本の政治組織はもはや存在しない。代わりに、
米国の帝国主義者にバックアップされた、いわば米国の傀儡といえる新しい国賊が
新しい政治組織で日本を統治している。日本はアジアの白人帝国主義者たちの
植民地を解放して、アジア人のためのアジアを建設しょうとした戦争に負けた。
等々。

 捕虜たちは、敗戦前、白人嫌悪についての思想教育を受けてきている。
米国、豪州などが日本からの移民受け入れを拒否していることは誰もが知つている。
元来日本人は、日本人を蔑視する諷刺については歴史的に極めて敏感である。

 シベリアにおいて捕虜たちは、人種的差別を受けることなく、ソ連人の農民や
労働者と同等の立場で労働していると教え込まれた。たとえば、あるソ連人農民は、
捕虜をその貧しい破屋に招いて、スープと黒パンだけの粗末な食事でもてなした。
その捕虜の語るところによれば、ソ連人の貧しい農民や労働者たちは、日本人
捕虜たちが帰国のため出発する時、見送りのために集まり、別れの悲しみの涙を
流していたと述懐した。数多くの貧しいソ連人農民・労働者が、日本人捕虜と同様な
奴隷としての苦難に苛まれていたのである。

 日本人捕虜の思想教育のため、ソ連が使用した最も重要、かつ唯一の道具は
日本新聞であった。日本新聞は意図的に将校と兵士の間に横たわる相互嫌悪感を
煽り立てた。

 日本新聞は、捕虜の政治的再教育のいくつもの段階において基本的教科書として
用いられた。同時に、日本新聞はモスクワが発する数々の命令のすべてを支持する
役割を務めた。日本新聞は日本人捕虜にとって唯一のニュース源であったから、
その影響力は絶大なものであつた。

 日本新聞はハバロフスクで、ソ連情報部の政治宣伝専門家の指揮下で、
日本人捕虜によって制作発行された。彼らは、新聞記者を務められるほど
知的レベルの高い者や、以前に日本で新聞制作に携わっていた者たちから選ばれ、
ハバロフスクの特別収容所で念入りな政治教育を施されてから新聞制作を
命じられたのである。

 日本新聞はそのニユースの大部分をソ連から提供されている。日本の弱点、
現在、支配権を持っている日本の政治家の売国的行為、日本民衆が飢餓に
苦しんでいる状況、ならびに世界支配をめざしている米国の帝国主義者と資本家が
日本を米国の軍事基地化しつつある現状、等々。

 ソ連情報部の政治宣伝専門家の指揮下の日本新聞は、巧妙、かつ打算的に
仕組まれた宣伝の弾幕によつて、学校における講演、グループ研究の指導、
「友の会」会合における情報伝達などを通じて、共産主義転向教育計画を着々と
実行している。狂信的共産主義者が増えて、彼らが計画実行の担い手となって
いくにつれ、元来、共産党に賛成も反対もしていなかったどっちつかずの日本人
捕虜たちの多くが共産主義の破壊的原理を受け入れるようになっていった。

 頑固にソ連の共産主義に反対する一部の者を除いて、多くの日本人捕虜たちは、
「共産主義者に転向したフリをする」ことが極めて有利、かつ便利であることを
よく理解するようになっていった。このような似非(えせ)共産主義者は表面的には
ソ連抑留当局の命令指示を極めて素直に従順に遵守するようになった。

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 1947年の後半期になるとソ連当局は日本人捕虜を仮借無く虐待する政策を
変えて、捕虜の生活状態の改善を図った。これは抑留を始めた1945年と
1946年のあまりにもの苛酷な虐待は続けられないと判断した結果と思われる。

 支給食糧の量が増やされ、かつ幾分、良質になった。住宅内部、医薬支給、
浴場設備、休養設備等も幾分、改善された。

苛酷極まる1日10時間労働は、多くの収容所において、1日8時間労働に
変更された。

 さらに、日本人捕虜たちに、少ないながらも労働賃金の支払いを行うようになった。
労働賃金を支給されるようになった日本人捕虜たちは、収容所内の売店で、
少しばかりの嗜好品を買うことができるようになった。

 日本人捕虜たちと同様な奴隷的労働や生活を強いられていた貧しいソ連人農民たちや、
ソ連人労働者たちの生活状態も向上し始めた。日本人捕虜たちは、自分たちの
生活が幾分良くなったことと、周囲のソ連人農民ソ連人労働者の生活向上を
目にして、ソ連の共産主義は良い結果を生みつつあるとの錯覚を深めるように
なっていった。

 1946年の引き揚げ者より高度の共産主義思想教育を
受けた1947年の引き揚げ者たちはまったく破壊的であつた。
1948年後半期の引揚者はさらに一層高度の共産主義思想数育を受けており、
より一層破壊的であった。1949年の引揚者は、更に進歩した
共産主義思想訓練を受け、さらには、米国に対する悪意に満ちた反米思想を
徹底的に叩き込まれていた。

 年度を経るにつれて、日本人捕虜たちの共産主義狂信度や、反米思想が高まって
いることは驚嘆すべき事実である。ソ連が日本人捕虜たちに施した共産主義思想教育と
反米思想教育は、かなりレベルの高いものであったという事実を否定することはできない。

 ソ連の共産主義思想教育の大胆さと効果は誠に注目に値する。
これは世界各国においても前例のない、かつ大成功した試みであった。
ソ連の共産主義思想教育によって洗脳され、狂信的共産主義者に転向した
引揚者たちを、ソ連は、日本において、共産主義革命のための道具として、
スパイ、シンパとして活動せしめた。

志村注:GHQ/SCAP(連合国軍総司令部)情報機関の、
この根拠薄弱の、いわれなき誤解・中傷によって、シベリア抑留者たちは、本来、
日本帰国後、日本政府から手厚い生活支援を受けるべきであったものが、
正反対に、日本政府、特に、日本の治安警察から厳しく迫害された。
彼らは「アカ」と中傷され、就職を妨害された。
日本の歴史に残る一大汚点である。

 ソ連は老齢者・病弱者をできるだけ早く殺すために、さまざまな非人道的行為を
実行した。それとは正反対に、狂信的共産主義者に転向する見込みがある若者は
徹底的に優遇した。

 ソ連は老齢者・病弱者の死を容易ならしめるため、彼らに対しては病気になっても
医療を施さなかった。彼らに対しては最低限度の食糧しか与えなかった。
飢えに苦しむ彼らを極寒期にも野外労働させた。ソ連抑留当局は、彼らに対しては、
「早く死ね」という態度を露骨に示していた。

 非常に若くて、純真な、つまり容易に狂信的共産主義に転向する若者たちは
徹底的に優遇した。これらの若者たちはソ連の厚遇に深く感謝していた。
ある若者は日本に帰国6日後の7月9日に、次のような驚くべき手紙を
友人たちに送って顰蹙(ひんしゅく)をかっている。

 「自分は1949年7月3日朝、舞鶴港に上陸した。自分は、友人や周囲の人が
驚くほど肥っていた。ソ連抑留中、自分は十分な食物で生活した。ソ連人と
同様に生活し、ソ連人と共に働いた。1日、8時間以上は働かなかった。
睡眠も8時間十分にとった。その他の時間の行動は自由で、収容所のクラブで
各種の娯楽に興じた。シベリアでの生活は日本より安楽で、人々が、自分に
「ご苦労様でした」と言われる毎に恥ずかしい気持ちだった。」

 もちろん、この若者は、当時の日本の生活を実地でまったく見聞きしていない。
彼は、ソ連の共産主義転向教育機関から指示されたことを正確に手紙に書き
友人たちに送ったのである。

 この若者が、その後、ソ連の捕虜虐待により、飢え・重労働・病気、極寒で、
痩せ衰えて死亡して共同墓地に埋められた数万人の悲惨な捕虜仲間の
ことについて、友人たちに、どのように説明したのか興味あることである。
以上



昭和24年(1949年)帰国のシベリア抑留者が受けた
極悪非道なスターリン
のソ連の
【共産主義思想教育】
による【心の傷】

資料出所:読売新聞1949年(昭和24年)8月3日第1面
ソ連抑留生活の実相  元巨人軍主将 水原茂氏 談


待ちに待ったソ連抑留の同胞が6月27日舞鶴に入港してからすでに16隻の引揚船が
なつかしの祖国に帰ってきた。きっと喜んでくれるだろうと温かい心で出迎えた家族や
歓迎者をまず驚かせたのは、予期もしなかったデモや合唱、あるいは沈黙戦術であった。
いままでの引揚者に接していた家族たちは、この行動に対して、いまだに、何か割り切れない
不安を抱いているがはたしてその本心はどうなのか、また、いかにしてここまで教育されたか・・。

こんど英彦丸で帰国した元巨人軍主将、水原茂氏に「ソ連抑留記」を語ってもらう。

青年を狂気の淵に 自由意思完全に抹殺

@政治教育積極化

今年の引揚者の行動が、いままでみられない過激なものであることは、ここ1〜2年、
抑留者に対して行われたソ連の思想教育が、どんなに積極的であったかを知らないものには
理解できない。

私たちがいたタイシェットの奥地でも、昭和23年に入ってまもなく、ソ連の命令で、若いものが
続々と政治学校に入れられて、3か月間、共産思想教育を受けた。そして、彼らは、ソ連の
言う立派なアクティブ・リーダーとなって帰ってきた。彼らは、見ちがえるようにアジ演説がうまく
なり、共産思想を強引に捕虜たちに押しつけた。彼らの言う共産思想に反するものは、すべて
【敵】として懲罰隊へ送られるようになった。

注:アジる =自分の考えに同調して行動するよう過激な言葉でそそのかす。
        扇動する。
        アジとは、アジテーションの略。
アジるはアジを動詞化した語。

私の親友の一人も、作業後、毎日、実施される教育時間に余り喜んで出席しないという理由
だけで、【日和見主義者】のラク印を押され、懲罰隊へ送られていった。

さらに、ある者は、この者に同情し、「懲罰隊送りは少し酷だ」といっただけで、組織を乱すもの
だとして、同じく懲罰隊へ送られた。

私の知っているかぎりでも、このような不幸な人は数え切れないほどいた。
こうなっては、もう、何も言うことはできず、あきらめきった気持ちが先になるばかりであった。
ときには、アクティブ・リーダーたちに媚びを売ったことさえあるが、身を護るためには仕方が
なかった。また、それが、一日も早く祖国へ帰れる手段でもあったわけだ。

A文化教育始まる

ところが引揚港ナホトカはなおひどかつた。ここの指導者は、われわれが鬼とまで
ののしった部隊のアクティブ・リーダーたちに輪をかけたような連中だった。

営門をデモの歌とスクラムを組んで入らなかったといって、【ダラカンども】と猛烈な
アジを浴びせたのが手初めだった。ナホトカの指導者はソ連政治部員と直結しているので、
部隊のアクティブ・リーダーたちもおどおどしていた。

「反動日本」、「天皇制打倒」のアジが耳にこびりついて、本当に気が狂いそうだった。
こちらは、日本へ帰りたい一心で、心にもなくおつきあいしたのだからやりきれない。

そのうち、彼らは、「文化の再教育をする」と言い出した。それは、革命歌と踊りであった。
朝食後、営庭に集まって、歌い踊ることが1週間続いた。朝から夜まで、
ほとんど休むことなく、歌わされ、かつ、踊らされた。その間にもアジ演説を聞かされた。
若いものならいざ知らず、四十、五十の坂を越した人間には、とても正気の沙汰とは
思われなかった。これが【文化】かと疑う気持ちがいつも頭をもたげたが、そんなことは
オクビにも出せない。その踊りが、内地に帰って皆さんを驚かせた例の【踊り】である。

B船員も逃げ出す始末

しかし、ソ連は、こんなバカバカしいアクティブ・リーダーを教育するのに非常に巧妙で
あった。まず20歳台の青年に目をつけた。その中から、満州や中国を転々としていた
身寄りのない青年を選択した。青年にありがちな、無思慮と単純さをうまく利用して
ソ連の手先としてしまった。

日本で教育に恵まれなかった青年が、「ブルジョア国・日本では、学校へすら
行けなかったが、ソ連では平等に教育を受けられる」と洗脳され、簡単な
共産教育を受けると、「慈悲深きスターリン」と思いこむのである。動機が
単純であるだけに、その結果は一層おそろしい。こんな人間がアクティブ・リーダーで
あるから、冷静な理論も行動もあったものではない。

ナホトカへ行く輸送列車の中で、帰還後は全員、日本共産党に入党するという
決議が血判によってなされた。その時のやり方があまりにも高圧的であったので、
4名が「強制ではなく、自由意思でやるべきだ」と言ったところ、
「何を言い出すのだ」と、直ちに【吊し上げ】られた。

だから、「1人で1万人の共産党員を獲得する」という動議のときも、
「スターリンに感謝決議文を出す」という動議のときも、みな、子羊のような
従順さで【スターリン万歳】を叫んで賛成した。

いよいよ乗船ということになると、船長や高級船員は階級闘争の敵であるから、
決して彼らの言うことはきくなとアジり、歌と踊りの乱暴な乗船が始まった。
ソ連の将校たちが見送りにきてるから、その狂乱ぶりはなお激しくなる。

乗船を終えたものは、「階級の敵はどこにいる」と船長らを追い回していた。
そのうち、船員たちをつかまえて。「反動の手先になるな」、「君たちは
だまされているのだ」とアジり出した。

船員たちは、はじめのうちは内地の実情をありのまま伝えていたが、
逆上している帰還者たちには通じなかった。反対に、逆上している
帰還者たち大勢に取り巻かれ、アジりたおされた。

しまいには、船員たちも手のつけようがなく、「内地に帰れば真相は
わかります」といって逃げ出す始末であった。

C船中で形勢は一変

英彦丸の船中では幾回となく集会がもたれた。アクティブ・リーダーたちは、
どこできいたのか、第一船高砂丸で帰つた引揚者の状況をよく知っていた。
「高砂丸の引揚者は京都駅で無謀なる警察官に検挙された労働者を救った」
「舞鶴に上陸の際、出迎者は涙を流し、もったいをつけたが、これこそは
反動のギマン政策であり、偽りの涙であった」「同志は革命の歌も高く上陸した。
われわれも、決してごまかされてはならない」と気炎をあげた。

乗船前なら、ここで、「賛成、賛成」で終わるのだが、船中では、これまでの不満が
いっぺんに爆発した。

引き揚げが遅れた理由も、船長の配船計画を見せてもらってはじめてわかった。
ソ連やアクティブ・リーダーたちが言っていたアメリカ側や日本政府の責任ではない
ことをはじめて知った。

それに、ここまでくれば、再び奥地に帰される心配は絶対ないという気持ちが手伝って、
若いアクティブ・リーダーに対する反対の声が起こったのだ。

「スクラムを組んで上陸したり、労働歌を合唱して歓迎者をおどかすことは好意を無に
することだ」「スクラムを組んでも共産党は就職のあっせんをしないぞ」
「日本人をわれわれの敵のように行動することには絶対反対」など、4年間の抑留生活の
不満がいっぺんにせきを切った。

Dやがて反省は来る

そのとき若いアクティブ・リーダーは場の雰囲気に押しまくられて、目を白黒させている
ばかりだった。内地の山々が間近に見えだしたころには、温かい心で迎えてくれる
ものには素直な気持ちで「ありがとう」をいおうということになった。

上陸の際、われわれは心から歓迎された。しかし、われわれの態度・行動に不満をもった
アクティブ・リーダーたちは沈黙戦術に出た。合唱もデモも行わないわれわれの行動に、
感情の持って行き場を失ったアクティブ・リーダーたちの、【すねた気持ち】の表現が
沈黙戦術となったのであろう。

積極的な共産党礼賛者であったアクティブ・リーダーたちは、舞鶴の収容所で
常に反抗的態度をとっていたが、それでも、1日2日と日の経つとともに、収容所の隅で、
一人、ぽつねんと窓外を眺めるものも現れるようになった。温かい父母のそばで、
しばらく休養をとれば、そのかたくなな心もほぐれてくると思って私は喜んだ。



外国通信社記者のインタビュー記事

6月30日、舞鶴で永徳丸の入港を迎えた。かねて予想していた通り、今になってソ連が
引揚再開を許可したのは、共産主義者化した引揚者を日本へ送り込み、米国の日本占領の
根本を破壊し、社会不安を拡大せしめるというソ連の巧妙な計画に基づくものであることを
まざまざと感じ取ることができた。しかし、この引揚者たちの中に、はたして、骨の髄まで
共産主義者になった者が何人いるだろうか。記者が引揚者収容所で3人の引揚者から
3時間にわたって、つぶさに聞き得たところによれば、引揚者たちの多くは、日本に帰国する
ために必要と感じ偽装した【偽装共産主義者】だと断定しても大過なさそうだ。
以下、3人のインタビューをまとめた報告である。




英語原文:(第4章まで)




         TABLE OF CONTETS
TITLE
Discrepancy Between Soviet and JapaneseRepatriation Totals... I
The Death-Factor In Soviet Prisoner of War Camps............... II
Malnutrition And Lack of Medical Care in Soviet P.W. Camps..III
Soviet Exploitation of Japanese Prisoner of War Labor........ ...IV
Soviet Indoctrination of Japanese Prisoners of War.................V
Communist Indoctrination of Japanese Repatriates..................VI
The Recalcitrant Repatriates: Season 1949...................... .....VII
ILUSTRATIONS
1. Repatriation Statistics.....................................TAB I page 3
2. Map: Soviet PW Camps...................................TAB II page4
3. Flotsaa of War: Displaced Civilian......................TAB IV page 3
4. Recalcitrant Repatriates: 1949..........................TAB VII page 5
5. Communist Interference: 1949 Repatriation.........TAB VII page 6
6. Soviet Repatriates: Men or Beasts?....................TAB VII page 7

T
Discrepancy between Soviet
and Japanse Repatriation Figures


 Climbing on the band-wagon,
Secretary General Kyuichi Tokuda
of the Japan Communist Party addressed a petition to the Soviet
Communist Party Central Committee, in Moscow, on 6 May 1949,
with "comraely greetings" he urged a speed-up of repatriation
of Japanese war prisoners, a serious political issue in Japan.

 That the subject had become a burning issue is not strange
since thousands of Japanese families had been waiting
for their men-folk to return since 1945.

 As the 1949 repatriation season approached, the Japanese press
made much of the subject.

 Mainichi_Shimbun, on 28 April, published a sharp editorial inquiry
into the fate of approximately 400,000 Japanese still unaccounted for.

 On the same date Asahi_Shimbun, in a similar plea, listed figures
unaccounted for as 324,000 in Siberia, 84,000 in Sakhalin and the
Kuriles and an estimated 60,000 in the Chinese Communist controlled
areas; Jiji_Shimbun covered the same subject and on the same date.

 Moscow radio (Pietersky), obviously touched and embarrassed,
hurriedly answered the Asahi_Shimbufl editoria, with the flimsy
argument that " the prisoners, when. repatriated, are faced with
unemployment and lack of. housing" and that the "Soviet Government
has been spending huge sums of money to feed the Japanese prisoners
of war."

 The Japanese spontaneous newspaper protest, said the commentator,
was a "deliberate and vicious intent to arouse unneceasary concern
and anxiety among relatives of prisoners of war in Japan." Closing
in the classic Soviet manner, he asserted that all this was caused
by "Japanese and American propagandists who are deliberately trying
to obstruct the work of the Soviet repatriation movement."

 The paradoxical combination of a Simon-pure Commiunist Party
petition, with a nation-wide editorial campaign, gave the Soviet
Government pause.

 SCAP had repeatedly pressed them for the resumption of repatriation.
Idle ships were waiting steam-up to report to Soviet ports.

 Then came a shattering Soviet announcement. A "Tass" press release
in Moscow on 20 May indicated that only 95,000 former Japanese troops
remained to be repatriated.

 This figure was at complete variance with official Japanese Goverhnient
Demobilization Bureau compilations and General Headquarters G-2
and G-3 Demobilization/ Repatriation Record Sections.

 These records listed a total of 469,041 persons still to be repatriated
from Soviet controlled areas as of 26 May 1949.

 For years, repeated efforts by SCAP to obtain precise statistical
information from Soviet Authrities on general prisoner of war totals
or deaths of Japahase internees had been abortive.

 Soviet repatriation authorities had refused to allow repatriates to carry
ashes of their dead back to their homeland, an old Japendse tradition
and had suppressed the transmittal of Japanese rosters of deceased
internees to offset this official silence.

 Instead Japanese authorities at home had been required to compile
death lists through exhaustive and time-consuming interviews of
returneees; under this system, Japanese internees were not officialy
listed as dead until the exact date, place and cause of death could be
a substantiated by at least two witnesses.

 This Soviet failure to report deaths among Japanese prisoners held
for over four years in Siberian camps probably accounts for the wide
discrepancy between Soviet and Japanses repatriation figures.

 The difference between the Soviet and Japanese figures is roughly
374,000 persons.

 Though this figure appears staggering, it must be remembered that
the prisoners were held for over four years under unbelievably hard
working and living conditions conducive to an extrely high death rate.

 The discrepancy between Soviet and Japanese records is glaring1y
evident, in the official tabulation as of May 1949, the beginning of
this year's repatriation season.
(See attached Table)


U
The Death-Factor
in Soviet Prisoner of War Camps


 Surrender of the Japanese Army in 1945 placed
under Soviet responsibility 2,723,492 Japanese
(civilian and military)
according to the Japanese General Staff.

 Approximately 700,000 of these were transported
from Manchuria and Korea
into Soviet territory for internment.

 As of May 1949, the repatriation account showed
469,041 military and civilian personnel
still to be repatriated and chargeable to
Soviet prisoner of war authorities.

 The Soviet authorities consequently will be accountable
for 374,041 persons after deducting this season's
announced repatriation of 95,000.

 The Japanese Government estimates
153,509 possibly alive,
based on the receipt of post cards by relatives
in 1947 and 1948; this is by no means conclusive,
but exceeds, under any criterion,
the official Soviet figure of 95,000 to be repatriated
as of 1 May 1949;



 For many years prior to the surrender,
the Japanese Government had kept a detailed record
of the movements of military and civilian contingents.

 Their official records were initially checked by G-2,
in clarge of
the Agenda for the Surrender Delegation in Manila,
in 1945,
and have been under periodic scrutiny since,
in the G-3 surveillance of the repatriation programs
and related naval transport.

 The statistics have been checked
through every possible means,
including nation-wide surveys of the families
of missing personnel,
conferences with survivors of
Japanese military units disarmed by the Soviets
and the countless interrogations
of thousands of returnees from various Russian PW camps.

 Repatriates report that intolerable conditions found
upon arrival at prisoner of war camps in 1945
resulted in thousands of fetalities.







 A tabulated list of 125 prisoners of war camps
in the Soviet Area,
giving the number of prisoners and number of dead,
was compiled by
the Japanese Demobilization Bureau
in January 1947,
based on numerous interrogation reports,
oral and written statements
by repatriates.

 Of 209,300 prisoners of war in these camps,
51,332 died from malnutrition and communicable diseases.

 The mortality rate obtained was thus 24.5 percent.
This cumulative percentage deals with the first years
after the war, when prisoners treatment
and general camp conditions were admittedly at their worst.

 In spite of improvements after 1947,
the cumulative death rate for the four year period
would still represent an appalling
and reckless waste of Japanese lives.

 In addition to statistics
arrived at through analytical research
and compilation,
thousands of repetriates have made sworn statements
which substantiatean
excessive mortality rate
of prisoners of war,
in certain periods,
through malnutrition, overwork, cold and disease.

 Said one returnee: "After the surrender,
we were disarmed at Haingan, Manchuria,
and taken to the coal mining town of Morodoi, Mongolia.

 Later an epidemic broke out among us
and all the prisoners in the camp contracted it.

 Only 225 prisoners out of more than 600 survived.

 This constitutes a catastrophel death rate
of approximately 60 percent in this particular area.

 Another one stated:
"Our battalion of 350 men was detained
in the 3rd PW Camp in Khabarovsk.
About 200 men died from illness and malnutrition,"

 This, again, is a death rate of almost 60 percent.

 A 1948 repatriate explained
to the widow of one of his PW comrades:
"In October 1945 we were sent to a camp west of Chite,
where we felled trees.

 Owing to meager fcod rations and severe cold,
many prisoners fell ill,
and toward the end of March 1946,
50 percent of the prisoners in the camp died.

 At that time your husband fell ill
with eruptive typhus.
Owing to the shortage of medicines, he died."

 Another 1948 returnee said:
"Our group of about 1,000 was taken prisoner
in Menchuria when the war ended.

 We were taken as far as the Ural Mountains
in European Russia, and interned in a camp.

 About 70 percent were repatriated safely,
but the rest died either from malnutrition
or accidents while working.

 Repatriates have expresscd extreme bitterness
concerning the camps in the Amur area,
reporting 3,000 deaths in a total of 11,000 internees
in some 20 camps,
a death rate of approximately 27 percent.

 One returnee from this area reported:
"The number of dead buried
in the Kuibyshevka Special Hospital, Area No. 888,
from a count of graves, totaled 1,500.

 At the hospital in Blagoveshohenak,
500 prisoners of war died of smallpox and other diseaaes;
in the Mukhino and Tu Camps, there were 600 dead;
in other camps 400 were reported;
these figures aggregate 3,000."

 A repatriate employed as a grave digger
at one of the district PW hospitals reported that
"So many died from starvation and disease that
a crew of 50 men could not keep up
with the job of burying the dead.

 According to a medical officer,
the deaths between 1945 and 1946
ran as high as 30 percent of the prisoners in that area."

 A death rate of 30 percent,
even allowing for cumulative errors,
assumes more serious proportions
compared to the Japanese domestic death rate
at the height of the American air blitz of only 2.9 per hundred.

 If we strike an average of the statistical death rates
applied to the three winters from 1945 to 1947 inclusive,
under variable camp conditions,
we arrive at a certain annual cumulative rate of 7%.

 With a weeding out of the physically unfit through death,
the sturdy survivors, with greater resistance,
show a decreasing mortality rate, combined with
a factual improvement in living conditions in 1948 and 1949
for calculated political effect,
in order to support the systematic Communist indoctrination
of the remaining prisoners.

 Discounting that the initial high percentages,
reported in certain localities in 1947,
apply uniformly to all camps,
the general application of these macabre percentages,
in a descending scale after the murderous winter of 1945,
will account for the discrepancy
between Soviet figure of 95,000
and Japanese totals of 374,041 prisoners of war
unaccounted for at the end of the repatriation season of 1949:


 Soviet camp authorities have repeatedly refused
to answer queries into the fate of these unknown thousands.

 When confronted recently with an eccounting
for the 374,000 misaing,
a Soviet spokeaman coldly brushed aside all implications
and voiced indifference to "the book-keeping methods"
of the Japanese Government or SCAP.

 This is poor comfort for the thousands
of bereaved Japanese families
that have awaited thc return of a father or son.

 The world will hold
the Soviet camp authorities responsible
for tolerating conditions and treatments
that have resulted in the probable death
of several hundred thousand Japanese prisoners of war,
in military and civil categories.

V
Malnutrition and Lack of Medical Care
in Soviet PW Camps

 Repatriates are unanimous in asserting that especially
during the first year of their captivity in Siberia
food supplies were far below the minimum needed
to offset cold and fatigue.

 Internees were forced to rely on whatever they could scavenge
from the countryside to supplement their deficient diet,
eating bark rrun trees, frogs, snails
and anything else they could find.

 Accentuated by a total lack of sanitary facilities,
disease spread through bodies already weakened by fatigue,
exposure and malnutrition.

 The death rate was high in all of the prisoner groups
even before they arrived at the make-shift internment camps.

 Camps reflected almost total unpreparedness
by Soviet authorities
to care for large numbers of prisoners.

 Prisoners were generally housed
in whatever facilities were available,
usually in labor camps that lacked any serious provision
for sanitation or welfare.

 Many camps were far from human habitation
and almost all were considered totally unfit as living quarters
because of poor construction and overcrowding.

 Repatriates allege that it was not unusual for prisoners
to be herded into buildings so tightly that they could not lie dawn.

 Statements bearing out these facts have bean furnished
by thousands of Japanese repatriates. One reported that
"in the camp some prisoners killed themselves, others escaped.
For fully three months we were given only potatoes,
so we ate all the frogs, snails and slugs around the camp."

 Typical coazuents follows "A number of us fell ill
because of insufficient clothing
in addition to the poor food supply;
four prisoners scuetimes shared one ration;
often no food was received for an entfre day.
Quarters were crowded, facilities inadequate."

 Approximately 26,000 Japanese civilians were assembled
in an area around Hamhung (Korea) in May 1946.

 "Seven thousand died from exposure and starvation;"
and "we left Suifenho on 13 September 1945,
crossed the Amur River
and marched for about a month across the Siberian wilderness,
suffering from hunger, chill and fatigue.
Our destination was a camp in a mountain mining area
where neither house nor life could be seen."

 All prisoners agreed that
conditions were so bad that only the strong could survive.
Sanitary conditions were so inadequate
that typhus, eruptive fever, pneumonia
and other diseases were rampant.

 To a large extent
this was due to a lack of resistance
resulting from malnutrition, fatigue and exposure.

 Returnees assert that the lack of facilities in the camps
to prevent the spread of disease
and the general apathy of Soviet authorities
toward the illnesses of the prisoners
often permitted the epidemics to become critical
before anything was done.

 Thus many deaths, estimated at 10 percent
in even the best camps, were caused by disease.

 The prisoners, in weakened condition, were easy victims,
even succumbing to diseases that are not usually fatal.

 The ratio of deaths to number of prisoners was still higher
in camps in obscure localities.

 Medical care was scanty and existing dispensaries
and hospitals were understaffed
and lacking in equipment and medicines.

 Indeed, had it not been for medical supplies and stores
from the Japanese Army in Manchuria and Korea
and the availability of trained Japanese medical personnel,
repatriates believe that
medical assistance would have been entirely lacking.

 In their attempt to get all the labor possible from prisoners,
Soviet authorities reportedly forced injured and sick prisoners
to work and these individuals were often subjected to beating
and other disciplinary action
if they were unable to complete their work satisfactorily.

 Only prisoners with fever temperatures of over 100°Fahrenheit
and those with visible external injuries
were relieved from work.

 Thus hernia, appendicitis, zieumonia, tuberculosis
and other illnesses often killed the prisoners
because of lack of treatment.

 Individuals seeking medical attention were usually
suspected by authorities of "malingering"
and so prisoners did not seek attention
for fear of disciplinary action in the event
that nothing serious could be found.

 With the start of repatriation the policy was
to repatriate only internees too ill or weak to work.

 However, most of these individuals were interned
in hospitals for a time to recuperate before actual repatriation.

 If their health improved markedly
they could always be returned to PW camps.

 Those who did not show improvement,
however, were repatriated.
Some were so ill before entering hospitals that they died there.
Some 10/20 percent of the prisoners transferred
to hospitals in North Korea, from the USSR,
are reported to have died.

 Innumerable other reports from returnees
round out a picture of abject misery
in which Japanese intcrnees found themselves obliged to exist.

 Everywhere they were forced to perform heavy manual labor
while the food issued was both meager
and lacking in nourishment.

 Almost everywhere housing was poor
and deficient in proper sanitary facilities.

 The inevitable result of the conditions of starvation,
over-crowding and filth was that the sickness rate soared
and finally assumed epidemic proportions.

 It was obvious to internees that
the Soviets had no serious plans to care for the sick.

 In this period the Soviets could not control
even comparatively minor illnesses and many died who,
with a modicum of care, would have recovered.

 But real tragedy befell when malignant,
filth-bred epidemics appeared.

 Top killer was eruptive typhus.

 Victims first developed a fever
accompanied by a mulberry-colored rash.
Next they would thrash in delfrinm,
become covered with ulcerations
and suffer severe attacks of diarrhea,
after which they would fall,
into a deep final stupor preliminary to death.

 During all these stages
the possibility of contagion was great,
and the disease swept through the crowded,
filthy encampuents.

 In the Chien-Tao and Yen Chi internment camps alone,
repatriates report that more than 10,000 succumbed
to the disease.

 Those who lived through the typhus epidemic
faced lung diseases brought on by extreme exhaustion,
scurvy resulting from diet deficiencies,
and the occasional amputation of gangrenous toes,
fingers, arms or legs
which had been frozen in the bitter cold.

 Regardless of the suffering that prisoners endured,
camp authorities forced them to produce a set amount of work.

 Someone who made the trip to Siberia
in the "comparative comfort" or an open freight car
loaded with 100 of his fellow prisoners,said:
" We worked during the day only at first,
later we had to work even at night.

 In the meantime rations had become very bad
and we worked on empty stomachs.

 The temperature was sometimes 40 or 50 degrees
below zero.

 Due to hunger and hard work, we gradually became weak
and many comrades were taken ill and died.

 We ate weeds and anything we could get...."

 Cumulative evidence of the incredible heartlessness
of the Soviet camp authorities toward the Japaneso
interned in Siberian prison camps
came in with every shipload of men returning from captivity.

 One repatriate, a surgeon, reported that
under Soviet Army orders he established
a 1,000 patient hospital in North Korea.

He added that in June and July 1946,
the Soviets sent 30,000 serious cases and cripples
who were unable to work to North Korea
where, hampered by overcrowding and
lack of medical supplies,
both the patients and the hospital staff
went through "indescribable hardships".

 The Soviet troops, the surgeon went on,
"searched the prisoners for any documents,
ashes, hair and like items in order to conceal
their atrocities and seized all evidence
by making surprise inspections".

 The doctor concluded his report with the statement
that he and members of his staff managed
to evade Soviet searchers by concealing
certain documents and records in secret places.

 Another repatriate, a former Japanese Army captain,
after verifying the surgeon's story,
made the following statements
"Due to unsatisfactory conditions
an unknown fever broke out
and our comrades were infected daily.

 There was only one non-commissioned sanitary officer
and he had no sanitary equipment and very few medicines.

 Despite our earnest entreaty,
the Soviet authorities still enforced the allotted work,
while the fever spread throughout the whole company.

 Together with the fever,
all members of the company suffered malnutrition.

 By this time, we were allowed to enter the hospital,
but despite the efforts of a Japanese nurse
many of our comrades died.

 I carried the ashes of 25 dead with me,
but to my regret, I was obliged to bury all of them
due to the stubborn rejection of the Soviet authorities.

 Moreover, a name list which I valued very much
was also confiscated by the Soviet authorities.
The total dead in my company was 80."

 Another repatriate reported that
Cherenhov was one of the major coal mines in Siberia
and more than 3,000 Japanese PWs
were forced to work in the coal mines.

 "We were sent via the Siberian Railway
from Mukden, Manchuria to Cherenhov,
which is west of Irkutsk on Lake Baikal."

 We suffered greatly from the acute cold climate,
poor and insufficient food and bad sanitation."

 The unfavorable conditions under which
prisoners of war were employed
took their inevitable toll,
"with compulsory hard labor under such bad conditions
about 1,000 died of malnutrition or eruptive typhus
during a period from December 1945 to Febrw'ry 1946."

 The horrors faced by the Japanese coal mining crews
who saw one-third of their fellow prisoners die
of starvation and disease
in a period of three months
can be gained from the story of a repatriate
who was employed as a grave-digger at a PW hospital:

 "They came here becauso of malnutrition.
In the winter of 1945,
many of the patients had loose bowels
and about 90 percent of the men
who contracted this sickness died.

 Fifty men were on duty digging graves every night.

 At first individual graves were dug
but as the death rate grew
we dug graves for two, five and 25 bodies,
but even at that
we were unable to bury them all
and they were stacked up.

 Most of the soldiers that died were young;
some of them also died from the cold....

 According to the medical officer,
the deaths between 1945 and 1946
ran as high as 30 percent of the prisoners
in that area."

 Bearing out the statements made
by the Lake Baikal coal miner,
Kazuho Furuya wrote a letter to the "Asahi" in Tokyo:

 "During our internuent in the Chinagolskaya Camp, Soviet Union,
the starvation, coldness and excessive heavy work forced on us
resulted in many victims.

 Soviet soldiers would carry away the naked bodies
of the dead PWs piled up on a sled."

 The Maritime Provinces also provided the customary hardship
and death for the imprisoned Japanese.

 On 20 October 1945, one hundred PWs
were assigned to a camp in Manzovka
where they were employed as farmers.

 Eruptive typhus broke out and became so deadly
that only 60 were returned.

 At a sawmill nearby 120 out of 200 died of the fever.

 A former inmate of a PWs camp in Ulan Bator,
Outer Mongolia, had this to say about his imprisonment
and his jailers:

 "The fact that 15,000 Japanese prisoners of war
in Ulan Bator
fought and persecuted one another in order to live
is an unprecedented tragedy caused by the defeat.

 We here forced to engage in various kinds of work
such as lumbering, quarrying, construction and coal mining.

 Since 15,000 of us were detained in a town
with a population of 50,000
starvntion was a matter of course.

 To make matters worse
we were forced to fulfill the "norn"
fixed under the Five Year Reconstruction Plan (of the Soviets)
and all our human rights were utterly ignored.
Ulan Bator was a town of thieves and prevaricators."

 A returnee from Londoko, northwest of Khabarovsk,
reported that prisoners in his camp existed
on Kaoliang, soy-beans, salt and oil,
and that a death rate from malnutrition and pneumonia soared,
making the period from October 1945 to January 1946
"really a livig hell on earth".

 A returnee from Antonovka and Santogo,
both in Siberia, remarked,
"Compared with the life of a PW ,
my present life in Japan is so easy
that I feel as if it is a dream.

 The mere thought of the life I led as a prisoner
makes my blood run cold.

 I wish to let my countrymen have a sight
of the prisoner's hardships and worry of those days."

 "I was fortunate to get out of the region
400 miles west of Lake Baikal
where many of my comrades died one after another
due to a starvation diet, severe cold and heavy work",
admitted another returnee.

 A Japanese who spent his period of imprisonment
felling trees near a small mountain village
180 miles north of Chitc, Siberia1,
bitterly recalled:
"Many Japanese died of tuberculosis and malnutrition
due to hard work and the food shortage.

 Having been prepared for the worst,
that we would be forced to work to our dying day,
we often thought that
we would rather die than suffer from heavy labor any more.

 Really we were envious of the dead at that time."

 Repatriate interrogations are full of remarks such as:
"Whenever I recall to memory
the life I had in Siberia
a shudder runs through my frame" or
"As the food situation was bad, we suffered acutely from hunger."

 But this comment from a repatriate
formerly imprisoned near Vladivostok
is an important clue to one of the real problems facing PWs:

 "In this camp there were many democrats and communists,
however, most of them were false progressives.

 The living conditions were not so good,
but we were especially annoyed
by the. Japanese who acted as informers."

 To the miseries of starvation, bitter cold
and hard labor burdening the PWs,
the Soviets added their indoctrination plan
which was furthered
by self-seeking stooges
recruited from among the PW ranks.

 One disgusted returnee reported that,
"at the time of my repatriation
the 'Democratic League' was organized
and the greater part of its members
consisted of former military personnel
and civilian workers.

 The league was conducting
a communist training course
and had great power
in deciding who was to be repatriated."

 One of the leaders of the Youth Communist Party
formed by the PWs said:
"I was one of the leaders
of the Youth Communist Party
during my detention in the Soviet Union.

 Prior to cur embarkation for Japan at Nakhodka
I, like other conrades, hailed
" Long live Generalissimo Stalin !"
and pledged before the Democratic Group
to join the Japan Communist Party
as soon as we landed in the country of the reactionaries.

 After I returned home I learned
that the Occupation Forces,
which we were told to be our greatest enemy
were exerting the utmost effort
to accelerate our repatriation
and the people at home,
whom we believed to be indifferent towards our return,
were making a strong campaign to expedite our repatriation.

 I was surprised at the real situation of the country
and became aware
that the ideas
with which we were indoctrinated were false."

IV
Soviet Exploitation
of Japanese Prisoner of War Labor


 The Soviet policy to exploit prisoners of war to the fullest
before repatriating them resulted in a heavy toll of lives.

 The Soviet Union's primary interest
with respect to Japanese PWs
was the complete utilization of manpower and technicians
in various fields of industry
to increase their postwar economic-military potentials.

 More labor, more production,
were the Soviets' unceasing demands
to attain their avowed goal of overtaking
and surpassing the capitalistic world
in agricultural and industrial production
by a series of Five Year Plans.

 To this end, Japanese internees
were compelled to engage in extremely arduous labor
with pitifully inadequate food, clothing and shelter.

 On arrival at Soviet PW camps,
internees were immediately forced to work
on the projects
for which that particular camp was responsible.

 Exceedingly perfunctory medical inspections wore given
by Soviet medical personnel
to determine the work capacity of individual prisoners.

 Physical classifications varied at different camps.

 The main distinction was
between those capable of performing heavy labor
and those fit only for light duties.

 In many instances,
no attempt was made to follow these classifications,
and prisoners were forced to perform heavy labor
regardless of condition.

 Physical examinations consisted
of the PWs stripping to their waists
and the doctors cursorily glancing at their general physical structure.

 Very little attempt was made
to diagnose for internal disorder or other chronic ailments.

 If a person appeared to be healthy,
he was automatically classified
as fit for heavy labor.

 Only PWs with fever of over 100°were considered ill.

 In case of injury, when external change was not apparent,
the injured were not hospitalized
but were put to work.

 External injury without accompanying increase in temperature
was often not considered as an excuse from labor.

 Work projects for manual laborers, according to ropatriates,
included lumbering, loading and unloading railcars, mining,
road or railroad repair and construction, excavation, stovedoring
and other labor requiring heavy physical exertion.

 Japanese Pws, noted for their industry,
were driven to the point of emaciation
and complte fatigue.

 All projects were placed
under the "norm" basis of production quotas,
which were usually much higher
than those assigned to Russian labor groups.

 These "norms" were reportedly based
on the number of individuals in each labor group
regardless of physical condition.

 Thus strong prisoners usually had to do much more
than their individual quotas in order to make up
for the weaker prisoners.

 If the daily production of a group was
below the demands of the Soviet authorities,
the prisoners were often forced to work continuously
as long as 18 hours or more.

 Regardless of weather or individual physical condition,
the prisoner' a minimum working day was eight hours.

 Very rarely were the prisoners able to complete
their "norm" in such a short time.

 Repatriatos report that food supplies wore so inadequate
that, combined with enforced labor and long hours,
all of the prisoners suffered from malnutrition.

 Tho amount of food allotted to tho prisoners
was contingent upon the percentage of the "norm" accomplished,
and thus already enervated prisoners
who could not complete their "norm"
were further weakened
when food was denied thern.

 Only in the most extreme cases of malnutrition
were prisoners relieved from work,
and it is reported that many of these subsequently died.

 Othor deaths were reportedly caused by
exposure or fatigue
during working hours as a result of inadequate clothing;
and lack of rest.

 Although all were in weakened condition
which became progressively worse,
the work "norms" wore not lesse

 With the beginning of 1948,
many ropatriates have reported,
the Soviets began to treat Japanese PWs more kindly.

 Although Soviet labor commanders were reportedly prohibited
from boating prisoners of war
to gain more production,
other means just as effective wero used to increase the PWs output.

 Production races were held between camps,
with the "winning" camp receiving flattering panegyrics,
and the losing camps being looked upon with cold contempt.

 Campaigns for 120 percent production or l50 percent productions, etc,
were held, with outstanding work being rewarded
by presentation of medals and banners,
and perhaps rocognition being given
in the propaganda newspaper "Nippon Shimbun".

 Leaders of campaigns reached a point of frenzied enthusiasm,
with the result that PWs were often forced to work
for 12 or 13 hours a day to complete the daily work quota.

 At the same time, the rumor became prevalent
that repatriation depended somewhat upon the labor records
attained by individuals and camps.

 With the rising stabilization of Soviet economy in early 1948,
the pay system was added as a further incentive for labor.

 PWs completing more_than_100_percent of their daily quota
were awarded food or money.

 Most of this money was reported to have been "subtracted"
as "expenses" by the Soviet authorities.

 Through this subterfuge the Soviets now claim that
PWs were not engaged in enforced labor,
but rather were paid for their work.

 The Russians' insatiable demand for labor production
was abetted by highly indoctrinated Japanese fanatics
who were without regard for their hapless comrades.

 According to repatriate, a Soviet physician found
that an internee he was treating for a leg injury
in the Rybstroy PW Camp in April 19h9,
was not feverish and placed him on full duty status.

 The pain-wracked PW lagged in his work
and his Japanese foreman denounced him.

 He was prosecuted for his "undemocratic" attitude
by the People's Court and was told
that his case would receive further consideration at another court.
That night, scorned by his comrades
and fearful of the future,
the injured PW hanged himself with his leggings.

 This man and countless other thousands
paid the cost
of completing the current Soviet Five Year Plan
in four years.
以上で第4章まで終了