そもそも、学生の学力低下を文部省や国のせいにしてはいけない。
数十年前、日本は学歴偏重社会のピークであった。なぜなら、高学歴者ほど、堅実で努力家である確率が高かったからだ。また、学閥による同族意識が学歴偏重を促す要因でもあったろう。企業もこぞってそうした人材を社内に取り入れた。そして、堅実で努力家の人材によって、日本は高度に経済成長を遂げた。
そして近年、日本は経済的に裕福になり、同時に人材の質も低下することになった。堅実で努力家な人材が減ってきたのだ。そうすると企業はないものを求めてもしょうがないので、努力をしたがらない人材を使うために、高度にマニュアル化した体制を構築してきた。マニュアル化社会とは、一部のマニュアルを作る人材が優秀で、他のマニュアルに従う人間は特に優秀である必要はなく、むしろ低学歴低賃金が望ましい。
それが、ここ20年ほどで広がってきたゆとり教育とそれに伴う学力低下の社会的必要性だと考えられる。教育内容の削減や、大学の一芸入試などはその典型だろう。
ところが、ここ数年になって事態は変化した。マニュアル化するだけで最下層の人材教育を行わないことは、非常にリスクの高い制度であった事に気づき始めた。最近些細なミスが社会全体に広がりつつある。医療ミスは言うに及ばず、出版物やテレビの字幕の誤字の何と多いこと。銀行は偽造印鑑による不正出金や夜間金庫利用者の強盗被害など、問題があることを認識していながら何ら対策を講じていない。食品会社は簡単に不良品を市場に流出させてしまうし、原発は発見された異常がどのくらい重大か説明する能力がないし、一介の作業者が異常レベルを判断する能力がないのだとさえ感じる。
優秀な企業は、底辺の従業員への人材教育をすることで、リスクを回避し、高い収益を上げることに成功している。逆にそれが出来ない企業は淘汰されつつある。
同時にその戦略に適した人材の要望が教育界に注がれることになる。それに応じて、教育界は需要に即した人材を育成する必要性に迫られるのである。そして、高等教育が必要とする人材に合わせて義務教育も変わっていくことになる。
つまり高等教育とは、国家によって勝手に決められるべき分野ではないということである。高等教育・大学界は、市場経済の原則に即した経済活動を行う社会的責任と存在意義をもたされているのである。
したがって、教育は社会が変えていくといえる。現在の教育に問題があるとすれば、それは社会が容認したことであるのだ。そして、問題を是正するのも社会である。決して国家が改善していくべき問題ではない。
2003年4月26日