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瑞光HTML版 ――22――

2004年3月20日

百花春到る候、お集まり頂きありがとうございます。

1 お彼岸のこよみ    (文雅和尚のこよみ)

17日 禅定の日 (反省の日) 落ち着いて考え感謝をしましょう。
18日 持戒の日 (実行の日) 約束と決まりを守りましょう。
19日 精進の日 (努力の日) 何事も必ずやり遂げましょう。
20日 (合掌の日) お釈迦様の様な偉大な人たちの教えを学んで、先祖の方々に感謝しましょう。
21日 忍辱の日 (笑顔の日) 何事もにこにこ仲良くしましょう。
22日 布施の日 (奉仕の日) みんなに喜ばれることをしましょう。
23日 智慧の日 (工夫の日) おかげとご恩に目覚めましょう。

受 容 の 先

 初めまして、気賀東林寺の雅芳と申します。「医者の経験を」とのお題を頂きましたので、僭越ながら投稿させて頂きます。
 「ご臨終です」という死亡確認の儀式………。

 ある時はその数分・あるいは数か月前、医者は、その使命を終え儀式に向かいます。生命と医療技術の限界に折り合いをつけ、技術者としての努力を放棄する瞬間は、各医者の生命観に委ねられますが、それは確実な実感として、医者に迫ります。唯物的な生命感を持つ医師は、物理的な死の寸前まであきらめられません。また、その判断が揺らぐ者もいるように思います。いずれにしても、実感を確信し、諦めをもって死の演出に向かいます。

 この実感を、患者様自身やご家族に伝えることは難しいことです。出来得れば、患者さん自身の意識がはっきりしているうちに、共有できたらすばらしいと思います。

 西洋医学においては、人間が死に至る過程を、否認、怒り、取引、抑鬱、受容の5段階に分けて分析したキュブラー・ロスの研究が有名です。今や古典的な分類とされ、もっと細かく分類したり、その後の段階を模索する動きもあります。これらの研究や、病院で行われるケアに違和感と限界を感じるのは私だけでしょうか。

 私の尊敬する医者の一人は、愛する人の死の前日、病室へ牧師を呼びました。卑山先々代は、まだ小学生の私にも言葉を残し、最後の入院に向かいました。先代も、最後の入院を自覚して病院に向かいました。入院前に風外和尚様の掛軸を床の間に飾り、私に遺言を残しました。一週間の入院中には、法類様や友人、親戚を次々呼ぶように言いつけ、忙しく過ごしました。
 大慧禅師様が願った七日には、受容の先があるように思えます。私たち禅僧の使命も、この「間」に用意されているように思います。

(方広寺派青年部会報 「円明」原稿より)

合掌

      静岡県引佐郡細江町気賀1022-1  瑞光山 東林寺 小住 木村雅芳