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一雨潤千山

いちうせんざんをうるおす

2002年8月


 皆様はじめまして、千山雅芳と申します。いきなり歴史ある「道標」に取り上げて頂き恐縮いたします。当誌編集人であり、人生の大先輩でもある全得寺和尚様から、「何でも良いから思ったことを書いてみなさい」とのお言葉を頂き、僭越ながら寄稿させて頂きました。

 「一雨千山を潤す」とは、わずかに身を濡らすだけの雨も、まわりを見渡せば、あらゆるものをゆったりと潤している様子を表しているそうです。これは、お釈迦様のすばらしい教えを雨に例え、何者も区別することなく、等しく恵みを与えて下さっている様子を語っています。

 皆様はこの言葉から、どの様なイメージを思い浮かべられたでしょうか?

 早春の山に降る雨によって新しい緑が芽吹いてくる様子、初夏の雨によって新緑が一段と冴え渡る様子、夏の通り雨の後に感じる清々しい様子、秋雨が作物の実りを一段と膨らませる様子、台風一過の晴天と山々の様子、冬の雨が地中の種にじんわりと時を教える様子など色々にとらえる事が出来るでしょう。

 今は、盛夏。午後の夕立の後、適度な過ごしやすさ、西に傾いた日差し、一段と輝きを増した山々の緑の潤いというところでしょうか。

 檀信徒様を山に例えると、上手に雨を降らせるのが和尚の役目です。 「あまねく檀信徒を潤しなさい」と言って、師匠が私に「千山」という名前をつけてくれました。江戸時代のように身分が固定した時代であれば、高い山(身分の高い人)も低い山(身分の低い人)も分け隔てなく潤すことが大事だったでしょう。

 身分制度が無くなった今でも、まわりを見渡してみると、会社で偉くなった方、子供や孫に恵まれた方、友人がたくさんいる方、元気に長生きをしている方、研究や趣味で成果を得られた方など、いろいろな形で良い人生を送っておられる方々がいる一方、その逆の方々もいらっしゃいます。お寺の近くに住んで毎日お参りをなさる方もいれば、遠方でお参りが出来ない方や、膝が痛くてお墓まで登れない方もいます。

 また、外から見れば幸せに見えるご家庭にも、様々な事情によって、必ずしも幸せを感じられない方がいらっしゃると思います。そんな皆様に常に等しく、少しでもお役にたてれば幸せだと思っています。

 しかし、法華経では「雨潤す所、而して諸草木に各差別あり」とあり、ありがたいお釈迦様の教えでも、人によって受け取り方に違いがあるのも事実です。

 伝統的なしきたりや行事、当たり前であった人々のお付き合いが失われつつある一方、目の前には、無限とも思える情報と、限りないとも思える新商品が、ずらりと並んでいます。テレビでは、将来の不安を増幅するようなニュースもたくさん放送されています。

 ところが、一人で座って目を瞑ってみると、今より貧しかった時代に、自分も精一杯の生活をしながら、ご先祖様にも子供達にも精一杯尽くしてくれた私達のご先祖様がいるからこそ、今の私達があることに改めて気づきます。今の自分から、要らない物を取り除いていき、自分さえも取り除くと「縁」だけが残ります。

 お盆にご先祖様をお迎えします。人生が縦糸ならば、家族や親戚や友人とのお付き合いが横糸でしょう。さらに、自分が生まれたのはご先祖様のおかげ、自分がご先祖様になっても子孫が受け継いでいく血縁を縦糸だすれば、仏縁で結ばれた檀信徒様同士のお付き合いは、人生を超えた横糸でしょう。

 お寺施餓鬼に皆さんが一同に会してお参りをするのは、この縦糸と横糸を立派な織物にしていく作業だと思います。二千年以上前からずっと続いている仏教の教えや、穏やかな心、檀信徒様同士の繋がり………。

 さらに、地区のお盆行事は地縁によってさらに人々の繋がりを広げてくれます。

 お寺には、私達が本当に必要とするもの全てが用意されています。

 その証拠に、今も雨は全ての山々を潤しています。   合掌

                  ::道標(細江町仏教会報) 2002年お盆号より一部改変::

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