B-29爆撃機

日本本土の戦略爆撃と米軍暗号の解読 コールサイン


 米軍は、サイパン、テニアン、グァムの三島に昭和十九年九月にはすでに五十機、十月には七十機のB−29を進出させた。              、

 航空本部の調査班、陸軍中央特種情報部(特情部)と緊密に連落をとって、サイパン方面のBー29の情報把握に努めたが、硫黄島失陥後は、日本の重爆機による攻撃も不可能になり、日本から四千キロも離れたところにある飛行場に、いま現在何機のBー29がいるかを知るのは至難のことになった。海軍機が奇跡的にサイパン飛行場の写真偵察に成功したのが、昭和十九年九月、その後十一月に陸軍機が、かなりの高々度から、サイパン、テニアンの二島の写真撮影に成功したのが、硫黄島失陥前に挙げた手柄であった。それ以後は、もはや一機もこれらの島に日本機は飛べなかった。海軍との協力を受けた特情部は鋭意サイパン方面のBー29の割出しを急いだが、その間にもBー29の日本本土爆撃は一日一日と猛烈になってきた。いわゆる戦略爆撃であった。

 戦略爆撃は、日本本土の戦略的目標である航空機生産工場、兵器生産工場、製鉄工場、鉄工製作工場などを狙い、名古屋及び東海地方、京浜地区、大阪神戸地区、九州北部地区と昭和二十年一月以降本格的となり、遂に三月九日夜の東京に対する焼夷弾爆撃から、名古屋、大阪、神戸と都市爆撃に移っていった。このため三月九日夜の東京大空襲では、東京での焼失家屋三十万戸、死者七万二千、負傷者二万五千というベルリン、ハンブルグの米軍の絨毯爆撃に匹敵する大被害を受け、日本国民の戦意を著しく喪失させた。

 その上、跳梁するBー29に対して、日本軍の防空部隊は高射砲も戦闘機もほとんど歯が立たなかった。その理由はBー29の高度に対して、日本防空戦闘機の高度が及ばなかったし、高射砲も一万メートルの高度のB−29には弾丸が届かなかった。さらにB−29は雲のあるような天候不良のときを狙ってやってくる。レーダーを使っていたからであろうが、目視を原則とする日本の防空戦闘機は、Bー29の高度に達し得なかった。

 かくて戦略爆撃は米軍の占領した空域下で、日本列島が太平洋の小島のようにも弄ばれていた。

 こうなれば特情部が出来るだけ正確に、サイパン方面のB−29の状況を偵知する以外に、本土の被害を最小限にする方法はなかった。

 当時の特情部の横山幸雄中佐は、特情部の働きについて、戦後の手記に次のように述べている。

「特情部中野大佐のマニラ進出によって、一時空(から)になった米英暗号解読研究班を、二十年五月、町田大尉を中心に再建し、釜賀一夫少佐らの援助を受け、数学、語学の学徒を動員して、極めて科学的に研究を続けた結果、解読に約八十パーセントの成功を収め、暗号解読の曙光が見えたとき、惜しくも終戦を迎えてしまった。

 このように暗号解読の進展が意の如く進まなかったので、その補助手段として、海軍と協力して通信諜報調査を系統的に行った。特にこの調査中特筆すべきことは、戦争中本土に来襲するB−29の進発を確実に捕えて、防空部隊に正確に通報し得たことであった。また特に広島、長崎に投下した原爆機を探知し、参謀総長から賞詞を授与されたことである。戦争末期には、全国に探知の網を張り、B−29の無線電話傍受のため、五十人以上の二世を徴用した」

 これから判明するのは、出来れば暗号解読でB−29の行動を知りたかったが、解読はうまく進まなかったので、通信諜報による以外になかった。しかもこの通信諜報がBー29の進発までを、はっきり掴んで各方面に連絡したので、あとは防空戦闘機や、高射砲の性能の悪さに責任があったと言外に言っている。しかし参謀総長から賞詞を授与されたことは事実であったが「原爆機を探知し」というのはいささか言い過ぎである。戦後の回想にはこのようなことがしばしばある。


 Bー29のコールサインを追う

 では、どのようにして特情部はB−29を追跡していたのか。

 陸軍特情部研究班は、田無の特情部で耳を澄まして二十四時間、サイパン方面のB−29が発信する電波を一語も洩らさじと聞いていた。暗号解読が出来なかったので、取れるのは電波だけであった。もちろん、その取った全文は、内容がわからなくても、解読のための大切な研究資料となるから没にするわけにはいかない。その電波の統計を作っていくと、電波通信の冒頭部分には、一定の符号のあることが判明してきた。さらにそれを方向探知機で綿密に調査していくと、

 サイパンのBー29は、V四〇〇番台

 グァムのBー29は、 V五〇〇番台

 テニアンのBー29は、V七〇〇番台

 と判明してきた。このコールサインをさらに丹念に調査していくと、例えば、15V576と出たら、第五七六戦隊の第十五番機であることがわかってきた。従ってV576の中に何番機まであるかを調べれば、機数が判明する。Bー29はサイパン付近で、盛んに訓練を実施したが、そのときも同様のコールサインを出すので、いま第何戦隊が第何番機から第何番機まで訓練飛行中ということまでわかりだした。

 米空軍は日本の通信諜報を、当初の間はあまり気にかけないで無警戒であったようだ。日本ではこのコールサインを昼夜にわたって克明に数えて調査していた。そうするとこの戦隊はグァム、この戦隊はテニアン、その編制、機数などをほとんど掴むことが出来て、最大機数は、三島で六百機以上になることもあった。もちろん、日本の上空で撃墜されたもの、途中事故で墜蕗したものなどは欠番となってくるので、各戦隊の損害も判明した。

 さて、いよいよ爆撃に向うための発進であるが、発進命令を受けた戦隊は、まず飛行場の周辺で無線機の点検と電波の調整をする。このときの発信電波は、全機が一斉にV、V、V、V、V…・とキーを叩く、その電波の喧ましいほど賑やかなこと、「何かあるな?」と聞いている特情部の方ではすぐ判る。空中に舞い上ってしまえば、この電波が唯一の命綱であるから、発進にあたって十分に無線機を調整するのは当然であった。

 このV、V、V、V、V……があってからおおむね三十分ぐらいで発進したようだ。

 発進後十分程度の飛行中に、また一回電波を出す。「15V575…・」大体簡単なのが多かった。想像するに、「第十五番機異常なし」とでも発進直後の搭乗機の状況を報告していたようだ。

 それから後は、日本本土の富士山を目標に真直ぐ北上する。富士山がそんなに遠くから見えるわけでなく、富士山には日本のレーダーがあったので、その電波を利用して米軍は夜間でも曇天でも北上することが出来た。皮肉なもので、こちらが敵機を早期に発見するために設けたレーダーの電波が、米軍に方向を間違えないように案内役をしてやっていたから、情報の世界はややこしい限りである。

 B−29の戦隊は途中硫黄島近くまで来ると、そこでまた、コールサインの入った電文を発信する。それはごく短いのもあり、長文のものもあった。恐らく日本本土の爆撃目標、任務、将来の集合点などの確認ではないかと思われたが、解読が出来ないので内容は不明であった。この時機に全国の方向探知機が、コールサインの位置を求めて、「何機どこどこを北上中」と報告する。

 さらに一回、いよいよ日本本土に侵入の直前、指揮官機と思われるものが短文を出す。それ以後は電波封止となるので、「これから電波封止」とでもやったのかもしれない。この電波を捉えて方向探知に成功すると、「何機○○の方向へ進攻中」と大体の目標が判明する。この情報を防空部隊に通知するのが、特情部の重要な仕事であった。第六課では特情部がコールサインから割り出したサイパン方面の、戦略爆撃部隊の今後の作戦が何かを判断していかねばならなかった。

 日本本土上空は米軍の無線封止空域になっていたので、ほとんど電波の捕捉は困難であった。しかし緊急事態、例えば某機に事故が発生したとか、爆撃目標を変更しなければならないとか、日本の戦闘機が接近してきたとかいう場合には、無線電話で編隊長に緊急に連絡する。待ち構えている日本の全国の傍受組織がその声をキャッチする。帰路の集合点付近ではしばしば無線電話で話し合うので、その声はほとんど聞きとれたし、その内容も判った。

 通信諜報はあくまでも内容のわからない電波から、なにがしかを探り出そうという手法であったから、判明する内容には限度がある。しかもそれは極めて小幅の限度であった。しかし発進から本土接近までの行動は見事に捉えることが出来た。これに米軍の発信する電文の内容が暗号解読できていたら……とそれが残念でならない。


 原爆投下機のコールサイン

 B−29を追跡中の特情部は、昭和二十年五月中旬、ホノルルを発ってサイパンの方向に向ったB−29一機の奇妙な行動を捕捉した。このB−29は曾てないことをした。つまり、かなりの長文の電報をワシントンに向けて発信したのであった。たった一機のBー29がワシントン宛に電報するとは異変であった。

 その上このBー29のコールサインはV六〇〇番台で、テニアンに進出してきた。V六〇〇番台は今までにない新しいコールサインである。六月中旬頃までの追跡で判明したことは、不思議にもこの部隊は十機から十二機までの部隊であることも判った。従来から捕捉している戦隊とはまったく違った極めて小さな部隊であった。それまでの電波諜報で判明していたサイパン方面の部隊は、

 サイパン島 第七十三戦隊(ウィング)

 テニアン島 第二百十三ウィング

 グァム島  第三百十四ウィング        ・

 テニアン島 第五十八ウィング

 グァム島  第三百十五ウィング

 で、これらのウィング(戦隊)は、通常百十二機で出来ていたが、これに比較していかにも小さい部隊で六〇〇番台のコールサインを持っているのが、特異な現象であった。

「新コールサイン部隊出現!!」

 特情部、第六課、航空本部はそれぞれの立場で緊張した。ここにも敵情判断の難しさがあった。情報とは実に皮肉なものである。爪先だけを出しても、常に全貌は出してくれなかった。暗号の解読が出来ない悲哀である。微かな爪先だけを通信諜報で見て、霧の中の全貌を判断しなければならないのである。

 それには、既往の戦場や戦闘から得た情報の知識、米国や中立国の国内放送、大公使舘や武官からの電報、新聞、ニュース放送などあらゆるものから、それらしい匂いを嗅ぎ出して、通信諜報のキャッチした電波情報とで、二線三線の交叉をして、何かをその交叉点から求めるのだが、それらしい匂いの線はどこからも出てこない。霧は極めて深かった。

 つまりわれわれの頭の中には、V六〇〇番台コールサインに関するいっさいの知識がなかった。B−29の小さい部隊で、ワシントンと一回だけ連絡したーーそれ以外には何の正体も手がかりも現わしていない。

1)新しい司令部が進出したか?

  ーそれならば何もワシントンに電報を打つ必要もない。

2)日本占領に関する視察のため、連合軍の政治的大物が乗っているのか?

  ー可能性はなくもないが、まだ早すぎる。

3)マリアナ方面戦略爆撃空軍の指揮系統の変更か?

  −それもなしとしないが、すでに中国からグァムに進出してきた、第二十一爆撃コマンド司令部は活動を開始している。

「では何のために、どんな関係があって、ワシントンに電報を打ったのか?」

 終始頭に残る疑問であった。「正体不明機」と命名した。

 ところが、この正体不明機の一群が、六月末頃からテニアン近海を飛行しだした。その都度コールサインで確認したが、七月中旬になると日本近海まで脚を伸ばしてきて、再びテニアンに帰投するという妙な行動が出はじめた。まさに正体不明の行動だったが、通信諜報と方向探知機で正確にキャッチできた。しかも正体不明機は単機か、せいぜい二、三機の編隊でそれ以上の数ではなかった。

「この行動はある種の訓練と見る。何を企図しての訓練だろうか?」

 この時点で前述 1)〜3)までの可能性は薄れて、ますます正体不明になってきた。第六課は特情部に要求して、二十四時間態勢で、全神経を集中して傍受と方向探知の監視を続けさせた。

 特情部ではこの頃から、正体不明機を「特殊任務機」と呼びだした。無気味な臭いを感じたらしく、日本の航空機でテニアンのこの飛行機の基地を、挺進して攻撃するよう参謀総長や防空部隊に意見を具申したが、日本の重爆の航続距離では、硫黄島失陥後の日本にはすでにその可能性はなくなっていた。

「どんな特殊な任務か?」

第六課ではあらゆる情報をひっくり返して調査したが、

「七月十六日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」

 という外国通信社の記事が目についただけで、あとは特殊任務機に交叉する情報は一つも見当らなかった。第六課、特情部、航空本部のそれぞれの情報担当者は、連日のように研究会議を重ねて、まさに日夜懊悩苦悩した。だが深い霧は晴れなかった。


 八月六日午前三時頃、このコールサインでごく短い電波がワシントンに飛んだ。内容はもちろんいっさいわからない。コールサインからは、二、三機の編隊と判断された。

 午前四時やや過ぎて、硫黄島の米軍基地に対して、この飛行機は、

「われら目標に進行中」

の無線電話を発信。「特殊任務機前進中」と特情部が大緊張を始めたが、捉えたのはそれだけで、以後は無線を封止したのか電波はいっさい出さなくなってしまった。特情部ではすでに防空部隊に、「二、三機のBー29編隊北進中」の連絡をしていた。全神経を鵜の目鷹の目にして電波を待ったが、それ以後は皆目電波は出さなかった。

 午前七時二十分頃、豊後水道水の子燈台上空から広島上空に達したBー29の一機が、播磨灘の方へ東進中、簡単な電報を発信したのを、海軍通信諜報も陸軍特情部もキャッチしたが、奇妙なことにこのBー29には後続の編隊がなかった。この一機のBー29の電報発信は、後続編隊があればそれに対する気象の連絡であることが統計からは判明していたが、このとき豊後水道方面には全然後続編隊が見つからなかった。豊後水道に編隊が出るはずだと、目も耳も気もとられていたその瞬間、八時六分、二機のB−29が豊後水道とは反対の東の方から広島上空に向って突入していた。彼らはいままでの常套戦法の裏をかいた。

 午前八時十五分、広島市上空に一大閃光とともに原子爆弾が投下された。

「ああ、万事休す」

 第六課が追跡した正体不明機は、原爆投下という特殊な任務機であったことを、最後まで見抜けなかった。

 硫黄島基地に「われら目標に進行中」の電話を傍受した時点で、特情部は防空部隊に警戒を促す情報を送っていたが、最後まで特殊任務が何であったかを見破れず、その上、無線封止と、従来の戦法の裏をかいた侵入方向で、日本軍の防空部隊までが欺かれて虚をつかれてしまった。

 あのときの「ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」という外電情報が、原爆実験であったと結びついたのは、広島に原爆が投下されてから数時間たってからであり、確実に原爆と確認したのは、八月七日早朝ワシントンでトルーマンが正式に発表した放送内容を特情部がキャッチしたときであった。正体不明、特殊任務の内容がはっきりしたときには、広島十万市民の生命はすでに失われてしまっていた。

 予備知識の程度でも、また原爆の「ゲ」の字のかけらでも、知識の片隅にあったら、また米国国内の諜報網が健在していたら、通信諜報のコールサインだけでなく、一部でもよいからBー29なかんずくV六〇〇番部隊の暗号の解読が出来ていたら、あるいはスウェーデンを経て入手したM・二〇九暗号機での解読が、もう一ヶ月早く完成していたら、あの不明機の正体は必ず判明していたであろうに。V四〇〇番、V五〇〇番、V七〇〇番とあって、V六〇〇番が最初からテニアンで欠番であったことは、米軍ではBー29戦略爆撃部隊がマリアナに進出した昭和十九年八月頃から、すでに原爆投下部隊(実際には第五百九混成部隊という)を使用する計画があったと推量されたからである。

「あそこまでは出来ていた」という言い逃れは、戦争の中での情報の世界では通用しない。判断の間違いは直接敗戦の導火線に点火してしまうからだ。

 原爆投下を、たとえ半日でも前に情報的に見抜けなかったことは、情報部の完敗であり、これが日本始まって以来の敗戦の導火線に点火してしまったことを思うと、情報の戦争に対する責任も、作戦課と同罪であろう。

M・二〇九暗号機の解読で、「ヌクレア(核の)」という文字が出たのは正確には八月十一日のことであった。陸軍特情部も地団駄踏んで悔しがったがすでに遅かった。 

(大本営参謀の情報戦記)より

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