平安京

 夜の平安京は暗かった。女君たちに会うため、牛車で都大路を行く光源氏の目に見えたのは、従者のたいまつに照らし出された足元だけ。周囲は漆黒の闇に沈んでいた。その時、光源氏の心に浮かぶ「みやこ」のかたちは、一千年後の今、平安京の復元図や模型から想像される見通しのいい都市空間とは全く異なっていた。それは暗黙の秩序に支配され、ブラツクホールがぽっかり口を開けたワンダーランドだったはずだ。

 平安京の東西の街路は、北から順に一条、二条、三条と名付けられ、南端が九条。光源氏が若いころ住んだ二条院は、道幅約51メートルの二条大路に沿って建っていたと考えられる。

「源氏物語」はもちろん架空の物語だが、古代学研究所(京都市)の角田文衛理事長は「歴史の実態を具体的に、しかも精密に描いているから、住所が明示されていなくても場所がほぼ特定できる」という。

「読者であった宮廷社会の人々は、モデルとされた土地や人物、事件に思いを寄せ、そこに感興を覚えることができたはず」

風俗小説、社会小説としても「源氏物語」は読めたから、同時代には先を争って耽読された。

 平安中期の二条大路には、実際に皇族や藤原摂関家など大貴族の邸宅が並び、大内裏の正門、朱雀門もこの通りに面していた。大内裏で政務を終え、帰宅する貴族や夜遊びの貴公子が行き来した道だが、夜になると不気味だった。特に、大内裏の南東角にあたる二条大宮の交差点は「あははの辻」と呼ばれ、怪奇が現れる地点として有名だった。

 中世の説話によれば、右大臣藤原師輔(908ー60)や、その娘婿で左大臣に進んだ源高明(914ー82)もここで鬼や物の怪に出会ったという。

 鬼たちが夜、集団で徘徊する現象を「百鬼夜行」という。この「百鬼夜行」が目撃されるのは二条か、一条大路。田中貴子・京都精華大学助教授(中世日本文学)は、この「あははの辻」こそ「夜行」の出発点だったと考えている。

 「大内裏周辺に出没したのは、古代から中世にかけ、王権と密着した都市・平安京の空洞化が進んでいたからではないか」。華やかな王朝生活を描いた「源氏物語」だが、足元の平安京は荒廃の度合いを深めていた。

 慶滋保胤の「池亭記」(982年)によれぱ、平安京の西半分である右京は早くからさびれて廃虚に近く、大内裏は町外れになっていた。東半分の左京でも、にぎやかなのは四条以北だけ。これは光源氏の行動半径ともほぼ重なっているが、その足跡はときに、外へはみ出す。

「源氏物語」の地埋について考証を重ねている加納重文・京都女子大学教授(平安文学)は「夜の二条を東西に動くだけでも遊び人と言われたが、光源氏の場合、夕顔が住んでいた当時は場末の五条まで足を延ばしている。そんな所まで行かなくても不自由はないはずだが、そうしたのは冒険が光源氏の恋の本領だからだ」とみる。

 ごみごみしてむさくるしい五条あたりで、だれとも知らない夕顔と一夜を過ごした翌朝、周囲の家からは庶民の男たちの声が聞こえてくる。「ああ、まったく寒いことよ」「今年は仕事がさっぱりで、田舎通いも期待できないから心細い」

 ゴロゴロという唐臼や、布をたたく砧の音も光源氏にとってはもの珍しい。男女が身分を超え、匿名のまま愛を交わすところに都市周縁の地理的特性を見ることもできる。

 この後、栄華を極めた光源氏が造営した広大な六条院は、さらに南の六条大路に面する。当時の平安京の状況からいえば、もう町外れだった。

 モデルは一世紀前の左大臣源融(822ー95)の河原院。ただし、「源氏物語」の時代には荒れ果てて、化け物屋敷になっていた。

 「六条は洛中の田舎で、別荘地帯。そこに邸宅を営むということは、当時の読者には、光源氏が政界の一線を退いたような印象があったはず」と加納氏はいう。

 平安京研究の村井康彦・京都造形芸術大学教授(日本文化史)は「さらに南の七条には東市という大きな市場があったが、六条は家もまぱら。ここに白河上皇(1053ー1129)の院御所ができる。光源氏の六条院がその先駆けとなったともいえる」と話す。

 上皇の御所は複数あったが、中でも光源氏邸と同名で、その西約200メートルに造営された六条院は、院政の一大拠点となっていく。

 「「源氏物語」に傾倒した白河上皇だから、光源氏をまねたのかもしれない」

 天皇の実父という立場で最高権力を握った点でも、光源氏と上皇は似ている。

 院政期に台頭する平家もこの周辺に館を構える。藤原氏の摂関政治が二条界隈を舞台としていたのに対し、平安後期の政権は重心を南へ大きくシフト。それが古代から中世への政治的転換となった。ただし、「場所の持つ文化的な力は想像以上に大きい]と村井氏はいう。

 平氏は「源氏物語」の舞台に暮らし、王朝文化の「毒」におぼれてしまう。一方、平氏を打倒した源頼朝は、あえて京に入ることを避け、武家のたけだけしさを保っていく。

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