日本の歌曲と短歌 (その一)

    坂下 晴彦

 私は短歌を詠むが、日本の歌を歌うことも好きだ。声を長く伸ばして歌うのはとても健康にもよい。日本の歌といっても明治以降の学校の音楽に西洋の音楽が取り入れられてからの歌である。歌っているうちに、それらの歌が短歌といろんなところで関わりがあることに気付かされた。考えてみれば日本には古代の歌謡から、中世・近世にかけてさまざまな流派の歌があって、そういう歌謡の方が短歌とは深く結びついているはずであるが、それらには知識がないので、触れることができない。みなさんにとっては周知のことがらで「なにをいまさら,,,,」と思われるかも知れないが、少々お付き合いをお願いしたい。

 

 (1)青葉の笛(敦盛と忠度)

    大和田建樹 作詞

    田村 虎蔵 作曲

 (出典‥長田暁二編『日本叙情歌全集2』ドレミ楽譜出版)

 一、一の谷の 軍(いくさ)破れ

   討(う)たれし平家の 公達(きんだち)あわれ

   暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐に

   聞えしはこれか 青葉(あおば)の笛(ふえ)

 この唱歌も若い人には歌われなくなった。大和田建樹・作詞、田村虎蔵・作曲の名作であると私は思う。

 「一の谷の軍破れ、、、、」の歌い出しで、討たれた平家の公達というのが出てくるが、もちろん、それは平敦盛のことである。私がここで書こうというのは「二番」の歌詞のことで、これが短歌と関わりがある。

 

 二、更(ふ)くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き

   わが師に託(たく)せし 言(こと)の葉(は)あわれ

   今(いま)わの際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に

   残れるは「花や 今宵(こよい)」の歌

 

 ここで出てくるのは平忠度(ただのり)のことで、官職としては薩摩守だった。(蛇足であるが、後世、汽車の無賃やキセル乗車のことを「さつまのかみ」と言うのは、この忠度をもじっている)

 忠度は忠盛の子である。多分、一番若い子ではなかったか。つまり清盛の末弟である。忠盛と仙洞御所の女性との間に産まれた子であると『平家物語』の巻三の「鱸の事」のくだりにそれが書かれている。忠度は熊野の別当家の女性と結婚して、熊野と縁が深かった。しかし、和歌にはとても熱心で、藤原俊成に教えを受けていた。

 歌詞の中の「わが師」というのは俊成のことで、平家が都落ちをするときに、忠度は俊成の邸を夜中に訪れ、自分の詠歌集を託したということが『平家物語』に出てくる。つまり「せめて一首なりとも勅撰集に、、、、」という願いであったのだ。俊成はそのとき「千載和歌集」の選をしているところだった。(「平家物語」巻七・忠度都落の事)

 忠度は須磨の海岸で壮絶な死に方をするが、そのとき矢を入れる箙に結わえてあったのは「行き暮れて木の下闇を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」の歌であったと言われる。

 つまり「花や今宵」は四句めにあるわけだ。

 この唱歌を歌うとき、息継ぎの関係で「残れるは花や」で切り、「今宵の歌」とつづいて歌ってしまうのだが、それはよろしくない。一番とちがう切り方であっても「花や今宵」はつづけて歌わないと短歌に心得のある人とは思ってもらえないだろう。

 なお、千載和歌集に忠度の歌は一首採られた。それは「故郷花といへる心を」と題された次の歌である。

 

 さざ波やしがの都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

 

 残念なことに平家一門はマキャベリストである後白河院の院宣のため「朝敵」になってしまい、平忠度も同様であった。だから、この歌は「よみ人知らず」になっている。忠度は冥土で口惜しかったろうが、知る人はみんな知っている。

 もうひとつ蛇足。「門を敲き」が楽譜集によっては「叩き」になっているものがある。唐代の詩人・賈島の「僧推月下門」の句で「推」か「敲」にするか迷って、韓愈の助言で「敲」にしたいという故事があり、原稿を「推敲する」などの表現はこれに由来する。忠度が急いで京都を脱出するときだからと言って、ここで「叩く」と印刷するのは、まるでボクシングで叩かれてノックアウトされる寸前のような間違いである。

その二

「平城山」

人恋ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき

古もつまを戀ひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ

 

みなさんがよくご存知のはず、北見志保子・詞、平井康三郎・曲の名曲で、随分と多くの声楽家たちが歌っている。「平城山」と書いて「ならやま」と呼ぶが、これは大和と山城の国境では西の方の「歌姫越え」と言われる一帯のなだらかな丘陵を指すのである。奈良は市街地が東に延びたから、中世以降、最近まで多くは「奈良坂」といわれる般若寺のある坂を越えて木津に行くが、昔はそうでもなかったようだ。

 北見志保子の詞は「短歌」である。所収された歌集は『花のかげ』であるが、詠まれたのは昭和のはじめころではなかろうか。というのは平井康三郎がまだ本名の平井保喜のころ、昭和八年に作曲したということがはっきりしているからである。

 この歌は男性の声楽家が歌っていることが多いようだ。いまは亡き立川清登にも名唱が残されている。その理由は二番の「いにしへもつまに恋ひつつ越えしとふとの「つま」を「妻」と誤読しているからではなかろうか。これは明らかな間違いで、北見志保子の自選した創元文庫の「現代短歌全集」第七巻では次のようになっている。

 いにしえも夫にこひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ

 妻でなく「夫」の「つま」なのである。もうひとつ「つまを恋ひつつ」を「夫に」と改めている。また、この歌の連作で、この歌曲に採られた二首の前に「ひと恋ふはたはやすからず磐之媛が陵にふく松風の音」という歌があり、これらが仁徳天皇の正妃であった磐之媛のことを歌ったシリーズであることがわかる。もちろん、北見自身が自分を磐之媛になぞらえていたということはあるかもしれない。彼女は夫の橋田東声と別れ、ともにこの平城山一帯をさまよった若い恋人はフランスに行ってしまい、彼女は彼の帰国を待ちわびていた時期でもあったから。

もうひとつの間違えやすいところは「越えしとふ」のところで、この短歌からは明らかに(磐之媛が越えたといわれる)と解するのが正しい。それを「越え慕う」と誤解したままで歌う人がなきにしもあらずで、かくいう私も最初はそう思っていた。

とすれば、これは男性歌手の歌う歌ではない。女性が歌う歌である。しかも今の日本の音楽大学の教育の、イタリア風な発声で歌うべきではない。その点では伊藤京子も鮫島有美子も落第である。私が見つけたのは、ナクソスというレーベルに「日本の旋律」というCDがありそこで歌っている正木裕子は「眼からウロコ」の思いがする歌唱だった。どちらかというと日本の寺院の声明に近い、ポルタメントを利かせたものだ。また波多野睦美の歌唱もなかなか良い。

 このような歌い方は、記紀にいう磐之媛(いわのひめ)の「嫉妬深さ」を表現しているのではない。ここにも大いなる誤解があって、悪いのは夫の仁徳(オオサザキ)なのだ。漢風のおくりな「仁徳」がそもそもおかしい。「民の竈から煙の出ぬ」ほどに収奪した天皇である。まず自分が天皇になるために兄弟殺しをした。また母違いの弟・妹の速総別と女鳥が恋し合っていたのを女鳥に横恋慕して、二人とも殺してしまった。(この話は若いころの田辺聖子が『隼別王子の叛乱』という小説に書いている)ほかにも吉備の黒姫を後宮に入れようとしたり、人倫に反することをたくさんした。磐之媛はよく自分の主張を貫いて、不潔なオオサザキを許さなかった。磐之媛の歌として伝えられ、万葉集巻二の冒頭を飾る四首は、苦しい愛の歌として私たちの前に残されている。私は磐之媛(いわのひめ)に味方する。

で、こういう男歌と女歌の取り違えをしてしまうのは、日本の音楽大学の声楽教育が西洋かぶれになって、国語や歴史などはまともに学ばない、または学ぶ必要がないと考えているからではないか。畑中良輔先生あたりが大いに嘆かれる所以である。

(文中、失礼ながら敬称は略させていただいています)

その三

 「海行かば」(禁じられた歌)

 

海行かば 水み漬づく屍かばね 山行かば 草くさ生むす屍

大君の 辺へにこそ死なめ かへり見は せじ

詞・大伴家持  曲・信時潔

 

 一九四五年の敗戦のときに、国民学校の高学年か旧制の女学校で学んでおられた世代くらいまでが、この「海行かば」に暗い印象を持っておられるのかもしれない。私は、ようやくにして、この歌が大本営が戦死者をラジオで告げるときのテーマ音楽だったということを知っている世代である。

 作詞はなんと大伴家持、作曲は信時潔である。日本が長い十五年戦争に突き進むころ、NHKが「国民歌謡」として作詞・作曲を委嘱したシリーズのなかのひとつである。簡明にして荘重、名曲だと思う。

 まず詞の出典から明らかにしよう。万葉集巻十八の「陸奥の国に黄金を出だす詔書を賀く歌」と題された長歌のなかにある。

 …大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負い持ちて 仕へし官つかさ 「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」と言立て ますらをの…

 (「1)の部分がこの歌の歌詞に用いられた。万葉集の番号では四〇九四)

 この部分は近畿天皇家の親衛隊として存続してきた大伴氏の誇りを詠い上げた箇所で、このくだりを取り上げた作曲者の素養もさすがなものと言える。しかし、それがあだとなって、戦後、この歌はだれも手を触れない、事実上の「禁じられた歌」になってしまったのである。版権の問題もあったようだが、一九五〇年に出版された『信時潔 独唱歌集』(春秋社)にはこの曲は収められていない。二〇〇五年に復刻された同名の『独唱歌集』の末尾にようやく入っている。実に五十年以上もの間、この曲を歌いたくとも楽譜がないという状態がつづいたのであった。

 私には悔恨の苦い思い出がある。高校一年生のとき、国語の担当は西川宗雄先生であった。先生のあだ名は英語で言えば「ヒッポポタマス」だった。悪童だった私が音頭をとって、その授業の時にこの曲を歌ったのである。しかも「…行かば」「かばね」のところで声を張り上げて、西川先生のあだ名をからかったわけである。

 私は叱られはしなかった。しかし、そのとき、先生が実に悲しそうな顔をされたことを私ははっきりと記憶している。先生の同年代で、異国の山野や海で亡くなられた人は多かったであろう。私の父もまた「南洋群島方面で戦死」した一人である。そのことを思えば、生徒を叱ることより、まことに悲しい気持ちが先に立ったということなのであろう。そんなことに気付かなかった私はまったく愚かな生徒であった。

 信時潔は戦時中に交声曲「海道東征」を作曲した。これは北原白秋が詞を書いた壮大なカンカータである。山田耕筰がさまざまな軍歌を作ったことは知られていて、彼は居直って反省することがなかった。本居長世は軍歌を作らなかったが、明治天皇の御製に曲をつけることで、軍部の圧力をのがれようとしたと推察できるふしがある。詩人、歌人にかぎらず、画家にも安易な戦争協力者はゴマンといる。信時潔の「海行かば」は不幸な歌曲ではあるが、その芸術性の高さはいまも光を失わないと私は思う。この歌が「禁歌」になったことにNHKは一半の責任があると私は考えている。

 忘れてはいけないことだが、信時潔は多くの日本の短歌に曲を付けた。人麻呂から川田順にいたるその作品群は、だれかがきちんと歌って残しておかねばならないだろう。

 

 

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