与謝野晶子の紫式部伝記

 今から85年前、1917年5月に与謝野晶子は「紫式部の伝記に関する私の発見」という一文を書いている。

古来の日本の婦人の中で何と云っても特に大きく輝いて居る星は「源氏物語」の作者紫式部です。遺憾なことには、此人の伝記が今日まで精確でありませなんだから、世人は紫式部の盛名を耳にするだけで其の本体を知らずに居ります。私は此に自分の推定を述べて、天才の伝記の輪郭だけなりとも明かにしたいと思います。(原文のまま)このような書き出しで与謝野晶子は紫式部伝記を書いている。要約すると

家系について

 紫式部は太政大臣藤原冬嗣の七世の孫に当たり、曾祖父中納言兼輔までは上卿の列に入って謂ゆる「上達部」の地位にあったが、為時に到って地方官となる。曾祖父兼輔は堤中納言と云われた著名な歌人、小説も書いて世間は「堤中納言物語」と呼ぶ。但し、現存する同名の小説は後人の偽作。

 為時は大学を卒学して文章生となり、当時の大儒菅原文時の門で詩賦文学を学び、詩は「本朝麗藻集」に入り、歌は「拾遺集」以下の選集に選ばれている。為時の弟で紫式部の叔父太皇太后宮亮為頼も歌を善くして、歌集「藤原為頼朝臣集」一巻が遺っている。

 紫式部には文章生で式部丞を経て蔵人の辨になった惟規という兄と、人に嫁して早く歿した姉と、常陸介惟通、阿闍梨定暹という二人の弟がいた。

 惟規は、父と同じく学問文藻に富んだ少壮官人であった。当時、才女の一人であった斎院選子内親王の侍女の中将と恋をし、門衛から名を問われて、「神垣は木の丸殿にあらねども名宣りをせねば人咎めけり」と詠んだ歌は世に逸話として遺っている。紫式部が幼い時に、父が兄に史記を口授して居るのを聞いて兄よりも善く語誦して、父から「此子が男でないのは自分に幸が無いのだ」と云って歎じたと云う逸話の中に出る兄は此の惟規である。此の兄は、愛情生活の経験を豊かに持つて居た謂ゆる「なさけ知り」で、紫式部の「源氏物語」の資料には直接間接に此の兄から供給された所が混って居るものと想われる。「帚木」の巻の婦人の批評の席に出て来る式部丞は此の兄をわざと滑稽に取扱ったのかも知れない。

 は常陸介藤原為信の娘で名を堅子という。平安朝の婦人で特に名が伝はって居るからには、母は公式の女官として仕えたことのある人に違いない。当時の習慣として一般の女には実名が無く、実名の必要は公式に朝臣として登録される際に初めて起るのである。

生い立ちと「源氏物語」

 紫式部の歌集によると、歌を贈答して居た童女時代からの親友があるが、これで思うと紫式部はその少女時代に童女として何れかの宮に奉仕して居たが、それが当時の皇后や御母后で無いことは後に一條天皇の中宮彰子の御用掛になった時に始めて宮中を見たということが歌集の詞書にある。 当時では母と小さな娘とが同じ所に宮仕をする習慣があったので、紫式部も恐らく母に伴なはれられて同じ宮に仕えて居たのであらうと思われる。私(与謝野晶子)はいろいろと調べた結果、紫式部母子の仕えて居た宮は冷泉天皇の中宮の昌子内親王であると推定。圓融天皇で無いことは、中宮の御弟の藤原公任と紫式部とが寛弘五年の秋まで交際の無かったことで想像される。また斎院や斎宮で無いことは「源氏物語」の中に野の宮の描写が一箇所あるだけで斎院や斎宮の生活に筆がつけられて居ないことで想像される。

 昌子内親王は康保四年に立后の宣下があったが、冷泉天皇に精神的の御病患がおありになった為に殆ど一生を独棲してお送りになった皇后である。聡明と仁慈とに富まれた方で、崩御の時には、自分の葬儀其の他のために公物を費すな、必ず普通人の作法で葬れ、法事も喪も無用であると御遺言になった。紫式部はこの童女時代の見聞を想像の資料として「源氏物語」の中に貴人の生活を描写した所が少なからぬことであらうと思う。

 紫式部は歌集によると、結婚前に父の任地の越前國敦賀へ遊びに行った。長徳三年の夏、此の式部の二十歳位の時と推定。翌年の春に帰京し、更に次の年の長保元年(西暦999)の初春に右衛門権佐藤原宣孝と結婚する。紫式部は二十二歳の時だと思う。これより以前に、紫式部は少女時代から短篇小説風のものを書いて居る。中流以上の家の女子が漢書、佛典、國史を読み、詩賦に親しむことは奈良朝以来の風潮であり、平安朝に入って、殊に紫式部の両親の生れた天暦頃から一層、その風が盛んに行われたので、学者の子に生れた紫式部が、そうとうの高等教育を人知れず受けて居たことは云うまでもないが、歌を詠み小説を書くことは早くから女子に許されて居たことで、漢書や佛典の研究は或はまだ女子に生意気な学間として遠慮せねばならない場合もあったが、歌や小説は何人も怪まない普通の事になって居たから、紫式部は「源氏物語」以前に既に幾種かの短篇小説を書いて居た。これは紫式部に限らず当時の教育ある官人の家で男も女も常に試みて居たことで、時の内閣総理大臣である左大臣藤原道長も小説を書いていた。

 紫式部が早くから小説を書いて居たことは、結婚前に宣孝と贈答した歌の詞書の中に、宣孝が紫式部の書いた幾つかの作品を持って帰って人に見せ散らしたのを恨んでそれを取返した記事があり、また「紫式部日記」の中に、紫式部の居ない時にその部屋に隠して置く草稿類を道長が勝手に取リ出した記事のあるのでも想像される。そう云う経験が早くからあるので無くては如何に天才と云っても一躍して「源氏物語」のような傑作は書けなかろうと思う。

紫式部の結婚

 紫式部と宣孝との結婚関係に就て古人は何事をも述べて居ないようだが、私(与謝野晶子)の推定では、初めから紫式部に積極的な愛情があったと云うので無くて、宣孝の方からの熱い恋心に負けてしまったと云う形である。宣孝は学間も趣味も普通にあった人だが、紫式部と結婚した時は少くも三十七、八歳の官人で、十六、七歳年上であり、既に十四、五年間も情人関係を結んで三人の子までも生ませた女のあることが知れて居たので、紫式部はつとめて宣孝の恋を避けようとしたが、そうされて、激する男の心は有らゆる手段を尽くしてその恋の真実を示そうとする。終には一概に情を知らぬ者のように「賢くも身固めて不動の陀羅尼読み、印作りて居る」ことは紫式部の女性としての理想で無かったので、己むを得ぬ運命とあきらめて其の恋を容れたのだと思う。

 二人が結婚したのは長保元年の正月中旬。此の恋に対する紫式部の態度が受動的消極的であった証拠には、宣孝の歌に答えてその恋を拒んた時の歌が三四首あるばかりで、二人の恋を詠んだ歌らしいものが他に一首も見当らない。結婚の翌年に娘(大貳三位)を生み、翌、長保三年の四月に宣孝が疫病に罹って歿した為に紫式部の結婚生活は二年半で終る。長い関係でも無かったので、紫式部の着けた喪服は薄い鈍色のものだったが、此の宣孝の死は紫式部の一生に二つと無い不幸の影を投げた。紫式部の宣孝に対する熱愛は結婚して後に目ざめたので月日が立つに従って亡き良人のことが偲ばれた。後に宮中に入り、地上の美を集めた道長の土御門殿に在っても、常に心の中で快々として楽しまなかったのは宣孝を亡くした悲哀と寂しさとの為だ。それは「紫式部日記」に於て自ら語って居る。

源氏物語はいつ書いたか

 紫式部は寡居して後に排悶の料として「源氏物語」を書く。私(与謝野晶子)の推定では良人の歿した翌年、即ち長保四年(西暦1002)の春頃から筆を起して寛弘元年(西麿1004)の冬頃までに完成さしたと思われる。足掛三年、紫式部の二十五歳から二十七歳までの間である。私(与謝野晶子)は、かの物語が初めから五十四帖の大作を成す構想は無くて、先ず第二巻の「帚木」を書き、雨夜の徒然に若い貴公子や若い官人が集って女の批評を交換する所を叙したのが本で、次第に感興を得て書いて行ったのであらうと思う。「桐壷」の巻は総序として後から加え、短日月の間に「源氏物語」の大作を完成させた。

宮中生活

 「源氏物語」に由って紫式部の才名は世人の間に喧伝された。中宮彰子の周囲を飾るために藤原道長は一代の才女を多く網羅した中に、先づ誰よりも第一に招致しようとした紫式部は当時の教育ある婦人達が無上の栄誉とした宮仕を却って喜ばず、人中に立交って気苦労の多い生活をする事を好まなかった。勿論紫式部の高く清く生きて行かうとする超俗的な性格にもよるが、一つは良人歿後の悲哀が其の心持を淋しくさせた。しかし又、兄を通して威圧的に来る道長の招きを強いて拒むこともならず、出来るだけ延ばし、終に中宮が土御門邸から新しい皇居へお還りになつた数日後、即ち寛弘二年十二月の二十九日の夜に押迫って初めて中宮の御用掛として宮中へ入った。紫式部はその頃「不本意なことの決定されて行くのを嘆く」と云う意昧の詞書の下に「数ならぬ心に身をば任せねど身に従ふは心なりけり」と詠んでる。また宮中の栄華に接しながらも紫式部の心は慰まないで「身の憂さは心の内に慕ひ来て今九重に思ひ乱るゝ」と云う歌を詠んでいる。

 中宮御用掛としての紫式部は中宮と道長とから特別の寵遇を受けたのみならず、父為時の才学を愛せられた一條天皇は同じく紫式部をお愛しになり、其の作品を御覧の後に「日本紀に精通した女であろう」と云う御褒詞をさへ下され、紫式部のあることが中宮の光輝をいやが上に増したので、それだけに同輩の侍女達の多くに嫉妬と憎悪とを以て対せられた。清少納言とは反対の紫式部はその婦人達と敢えて争そうとはしなかったが、あまりに侮辱や批難を受けては「わりなしや、人こそ人と云はざらめ、みづから身をや思ひ捨つべき」と歌って自重し、親しき友への返歌に「挑む人あまた聞こゆる百敷の住まい憂しとは思ひ知るやは」と云って歎息を洩らし「紫式部日記」に於て宮仕の苦痛を細かに書き留めて居る。

 寛弘四年の夏から中宮の望に由って「楽府」を講したりもしたが、それも同輩の目に触れる場合を避けてこっそりと講じた。同五年の五月五日に道長の土御門邸で催された法華経三十講の五巻の講席へ中宮にお供して列なって、人は皆歓楽を語り藤氏の栄華を祝う日に、紫式部は自らの内心と周囲との対照に一しほ哀感の身を噛むのを覚えて眠り難く、夜明方に年下の気の合う友である小少将の局の格子を叩いて、共に廊へ出て池水に映る我が影を眺めながら手をとりあって泣いた。藤氏栄華の裏面にこう云う天才婦人の冷い涙が流れて居ようとは誰が知ろう。

 寛弘七年に紫式部はその日記の筆を置く。同八年六月に一條天皇が崩ぜられたので、四十九日の忌を終って一條院を退出する時、紫式部は「ありし世は夢に見なして涙さへ留まらぬ宿ぞ悲しかりける」と詠む。宮中にあって日夕親しく天顔を拝し参らせた紫式部の悲嘆は言外に深かったと思われる。

 此年に兄の惟規が父の任地の越後国で歿した。紫式部は兄を悼んで「いづ方の雲路と聞かば尋ねまし、列離れけん雁の行方を」と嘆く。

その後

 虚弱体質であったらしい紫式部は寛弘七、八年の頃からは病気で私邸へ帰りがちになり、長和二年(西暦1013年)にはずっと弱くなり全く私邸にばかり引籠って居た。その頃の歌は死の近づくことを予感した悲観的なものばかり詠んでいる。翌、長和二年の六月に撫子の花を見て「垣根荒れ淋しさまさる床夏に露置き添はん秋までは見じ」と歌って、その年の秋までは自分の命が保つまいと云ったが、九月三十日に「花すすき葉分の露や何にかく枯れ行く野辺に冴え止まるらん」と詠んでその年の秋まで永らえて居たことを自ら怪しむ。その頃、前に述べた年若の同輩の非常に美人であった小少将が先きに歿し、その遺稿を見ながら「暮れる間の身をば思はで人の世の哀れを知るぞ且つは悲しき」と嘆き、自分が死んだら親しかった友の遺稿を読む人も無いのを思いやって「誰か世に永らへて見ん、書き止めし跡は消えせぬ形見なれども」と詠んでいる。

最後に

 紫式部の聡明な理想の然らしめた所であるのは勿論だが、文学の著作に傾倒して現実以上の「美」を想像の世界で経験し、現実の世界に理想通りの恋の対象を求めることは容易で無かったし、また其れを求めることが煩さく感ぜられたかも知れず、その上、早くから文筆に親しむような気質の人であり、若死をした人でもあるだけに体質の関係もあって、貞操的に終始することが自然に出来た点もあろうと思う。文学者として思想家として一人当時に抜群であったのみならず、貞操の純潔な点に於ても馬内侍、小大君、清少納言、赤染衛門、和泉式部、相模などとは正反対を成して居た。

以下は与謝野晶子の結びの記述(原文とおり)

 「在来の学者が紫式部の貞操を感歎しながら、猶、平安朝の男女道徳が徳川時代の其れのやうに窮屈で無かったと云ふ先入見と、後拾遺集や新千載集に載った歌とに依って、一人や二人の情人が宣孝の外にあったのは咎めるに足らないと云ふ説を立てられるのは、私の飽迄も紫式部の為に辨じないで居られない事の一つです。後拾遺集と新千載集とにある歌は何れも女友達との贈答の作で、其事は紫式部歌集に就て直接に調ぺると明白なことであるのを新千載集の選者が「浅からず頼めたる男の心ならず肥後國へまかりて侍りけるが、使につけて文をおこせたる返事に」と云ふ風に捏造して書いた詞書を学者達が信用した為めに起つた誤解です。丁度假作小説である伊勢物語の文章を後の選集の選者が業平の歌の詞書として抜いたりした為めに、後人が其れを軽信して業平の伝を誤解する結果に陥ったのと同じ径路です。九州へ行ったのは前に云ひました童女時代からの女友達で、共に手紙の往復をして居たのは紫式部の越前の旅行時代に初まって帰京後の四、五年にも亘って居ました。「玉鬘」の巻を書くのに其友の見聞した事実が重な資料になって居ます。「めぐり合ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな」は其友に寄せた作です。 湖月抄に添へた系図の註に「藤原道長の妾云々」とあるのなどは、何等の根拠も無いことで、天才に対する冒涜も甚だしいと想ひます。」

(一九一七年五月)    与謝野晶子の「紫式部の伝記に関する私の発見」から

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