興味ある女君

  六条御息所
 ●葵の上
 ●フランス人の書いた花散里 
 ●夕顔
 ●「源氏」の子育て
 ●その後の玉鬘
 ●朧月夜の君
 ●紫の上女三の宮
 ●弘徽殿末摘花
 ●慈母としての大宮
 浮舟
 ●空蝉

六条御息所

 興味ある女性は六条御息所である。御息所は完全に独立した人格であって、サロンの女王として男性たちのあいだに君臨していたが、七歳年下の源氏と結ばれて、結婚という形態をとらない。何人かの妻妾のひとりとなることを、彼女は男性に対する屈服と感じたのである。妻という安定した形をとらなかったために、彼女の嫉妬は、生霊となり、死後も死霊となって、源氏の女性たちを苦しめ、その地獄的な苦悶の描写は「源氏物語」を、世界文学史上、比類のない嫉妬文学の傑作としている。

「いとものをあまりなるまで思ししめたる御心ざま」と紫式部は御息所の性格を断定して書いてある。彼女の性格は理知的の反面、情熱的でしつっこいという感じがする。そして七つも年上の思慮あるべきはずの自分が、という意味のほうが強い。まだ嘴の黄色い多情で軽薄な少年に誘惑され、すぐ捨てられるという屈辱に耐え難いと、御息所は思い悩み苦しむのである。御息所にとって、失恋の辛さよりも、自尊心が傷つけられる屈辱のほうが強い。

 どこか六条御息所はシャーマン的であり、又、「源氏物語」より一時代前に書かれた「蜻蛉日記」の作者と二重写しになると言う人もいる。

葵の上

  葵の上は誇り高い妻である。そして、彼女ほど妻であることの悲しみを味わった女性はいないことであろう。彼女の父は左大臣、母は当時の天皇の妹(大宮)である。東宮に入内をと望まれていたし、美貌であった。葵の上というと気位ばかり高くて親しみのない女性、というイメージをもたれがちだが、彼女は源氏を強く愛していたのだと思う。彼女は源氏をはじめて見たときに、その美しさにまったく心を奪われてしまう。当時の常識で言えば、皇女を母に持ち、父は高位高官、宮中に入内するのこそふさわしいのに、敢て臣下の源氏と結婚しなくてもという考えもあろうが、彼女はそんなことはどうでもよかった。むしろ、自分が年上であることを恥ずかしいと思う。彼女は一対一で源氏を心から愛そうと思ったのに、源氏にはじめて接した時、彼の魂は既に藤壷への強い思いで他所にあることを直感するのは当然ではないか。「若紫」に語られる場面にしても、源氏はその直前に、紫の上の幼姿をはじめて見て、藤壷の姿に似ている彼女に心をとらえられている。どんなふうに育っていくか、年齢的には自分にはまだ不似合いだが、あっさりと自分の邸に引き取ってしまえば・・・。

久しぶりに現れた夫の心は既に他所に置き忘れられている。彼女はそれらの事実をまったく知らない。しかし、彼女の勘はすべてを感じとっていたはずだ。

 死に際になって葵の上の言葉は「ではさようなら、あなた。この世で誰よりも愛しているあなた。さようなら」ではなかっただろうか。

花散里

 源氏物語の女君の中で男性に人気のあるのは「朧月夜の君」。高貴な姫君なのに明るさと奔放さで恋にも積極的。登場する数多くの女性の中で人気投票だったら第一位だと思う。しかし、「末摘花」の純情に隠れたフアンも多い。その投票でも下位にしか入らないと思われるのが花散里。源氏の愛した女たちの中で、花散里ほど無個性で、魅力に乏しい、印象の薄い女はいないと言う人もあり、物語の脇役。しかし、源氏の最も心の安らぐ女として源氏物語の終りまで登場する。 空蝉や末摘花同様、不美人に列せられ、毛も薄く若くない花散里を私は物語中で一番好きな女性。(ひかえめでつつましく自分をわきまえて他の女君と比べると大人と思う。)

フランス人が書いた花散里

 フランスの女流作家マルグリット・ユルスナール(1903年生「ハドリアヌス帝の回想」でフェミナ賞受賞)が「東方綺譚」の中の「源氏の君の最後の恋」で花散里を主人公にした短編小説を書いている。読んでみて花散里フアンの私は「なんで?」と当惑した。外国人には花散里を理解できなかったのか。六条御息所の生霊、死霊のおどろおどろした話から花散里の淡泊さに何か無理があると感じて、こんな小説を書いたのだろうか。

 話のあらすじは「出家して盲目となった源氏の前に百姓の娘と偽り、又は、大和の国司の妻と名乗り、花散里が現われて源氏に愛を求める。やがて死にいく源氏がかって愛した いとしい女たちの名を口にする。紫上 藤壷 夕顔 空蝉  百姓の娘 「もうひとり、もうひとり、やさしい女だった花散里を想い出してくださいませ」花散里は源氏にとりすがったが源氏は微笑をうかべたまま、こときれた。」

(そもそも源氏の臨終なんて何処にも書いてない。「雲隠れ」という表題だけである。宇治十帖の「光隠れたまひし後、ーー」で源氏の死を示しており、紫式部だって書きたくなかったと思うし、私だって読みたくない。それを、わざわざフランス人が我が源氏の老醜を何故書いたのか。私の好きな花散里までも。)

夕顔

 [夕顔」は個性もなく容色も際立って美しいわけでもなく家柄もさほどよくない。(と源氏は思っているが三位の中将の娘)もっとも性格はおだやかなうえ、万事に控えめで、外見もそれに合わせるように細身でなよなよとして、頼りない。要するに平凡でもの静かなだけが取りえ。だが、この女性が、源氏や頭中将といった、当代一流の、女遊びに長けた男達の目をとらえ、心を惹きつける。わずか十九歳で物の怪にとらわれたような形で急死する。円地文子さんは自然に備わった娼婦性を見ている。瀬戸内寂聴さんは無色でどんな色にも染まり、飴のように身を曲げると男は思う。「可愛い女」的な自我のない幼児性を感じている。

 頭中将に愛され、[夕顔」は女の子を産むが、中将の本妻に脅しをかけられると、何の抵抗もせず、頭中将に自分の窮状を訴えずに身を隠してしまう。そして身分も名も明かさぬ源氏に、やすやすと誘惑され、なびき、男を通わせる。男が別の静かなところで、ゆっくり二人きりで過ごそうと誘えば、ついて行き、そこで物の怪におそわれてはかなく死んでしまう。

「人(夕顔)のけはひ、いとあさましく柔らかに、おほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから世をまだ知らぬにもあらず」と紫式部は「夕顔」を表現する。

 角田文衛さんは「夕顔」の連れ込まれた「某の院」は具平親王の千草殿と推定している。「夕顔」はこの親王に愛された雑仕女の「大顔」という人物がモデルとしていて、現に名月の晩に、親王に連れ出されて、この娘は頓死している。親王は悲しみのあまり、その牛車に彼女の肖像を描かせて使っていたといわれる。この親王家と紫式部の家は親戚で、道長もこの家のことを、彼女に訊ねた記事が「紫式部日記」中にある。

「源氏」の子育て(近江の君と明石の姫君)

 源氏が親友の内大臣(昔の頭中将)に「若い頃の頭中将は見境もない乱行が多かったから、ずいぶん いかがわしい落としだねもあるだろうな」と皮肉っているが、「近江の君」はその落としだねである。彼女の生母は身分が低い。母親の身分が人の一生を左右した時代であった。光源氏でさえ、生母「桐壷更衣」の身分の低さによって臣下に下った時代なのである。内大臣が夢占いによって、急に娘を探しだす気になって現われたのが「近江の君」である。彼女はことごとく内大臣を失望させる。教養がなく、することなすこと下品で的はずれで、愚かで、人の嘲笑の的になっているのに、本人は一向に気がつかない。容貌は小づくりで愛嬌もあり、髪も見事なのだが、額がたいそうせまいのが難で品がない。とはいっても、内大臣とその顔はよく似ていて、まぎれもない落胤だとみとめないわけにはいかない。声が上っ調子で、あきれるくらい早口でせかせかしているのでいっそう下品にみえる。この時代はすべておっとりとして、声など小さく、物言いはゆっくりしたのが上品だとされていた。

 ところが、内大臣にもうひとり「玉鬘」という落胤が現われる。「玉鬘」の母は、あの「夕顔」で、やはり身分は低い。それでも「玉鬘」は育てられた乳母がよかったのか、九州まで流れて育ったものの、一応の貴婦人としての基本的な教育は受けている。

 鎌倉時代、江戸時代、いろいろと有名な事件をおこした乳母制度だが、近代の日本(皇室等)にも最近まで残っていた。当時、貴族社会では乳母が生母にかわり幼児に乳を与え、育児もまかせる習慣があった。この乳母を見て幼児は立ち居ふるまい、言葉、ものの考え方を見習うのである。幼児教育には大事な存在であった。

 源氏物語の「澪標」を読むと、源氏の自分の娘にする気配りがよく書かれている。明石に「姫君」が産まれる。生母「明石の君」の身分は もと受領の娘 という低いものだが、この「明石の姫君」を「予言者の占い」どうり皇后にするため、まず、明石のような片田舎で産まれたことを近習に口止め、源氏は高貴な身分なのに わざわざ乳母の家まで行き”面接”、歌も贈って反応を”テスト”、そして明石に送り込む。やがて、京都に呼び寄せると生母から離し、「紫の上」の養女とし養育させ、最高の教育をする。そして皇后として入内させ、男の御子を産んだ。この御子はやがて東宮に立ち、天子になる将来の幸運を約束されているのである。

 この「明石の姫君」(中宮)は源氏の栄華の中心的存在であるばかりではなく、宇治十帖においても、匂の宮の母、薫の君の姉として、相当に大きな役割を果たしている。

玉鬘のその後

 玉鬘を引き取った頃の六条の院は 既に中年になってしまった妻達と、そして、「明石の姫君」はまだ幼く、この六条の院には人の心を浮き立たせるような「年頃の若い姫君」が居なかった。源氏にとっては寂しいことであったので、血のつながってない、「頭の中将と夕顔の間に出来た娘」を強引に養女とする。源氏にとってこの玉鬘はまず最初、美しい邸を更に美しく輝かるみごとな調度品のようなものだった。そして、この新しく手に入れた「美しい養女」を、大層可愛がる。「これで邸にやってくる若い男達の心を騒がせることも出来るな・・」と、彼のいたずら心も騒ぐ。何人かの求婚者が現れて、しかし、同時に、源氏の心は、若くて美しい娘、玉鬘へと傾いていく。だが、玉鬘は予期せぬ男(鬚黒)によって奪われてしまう。

 その後,太政大臣にまでなった鬚黒に死なれ「竹河」の巻から始まる後家になった玉鬘の奮闘記があるが、決してハッピイエンドではない。「高貴」というポジションを占めてしまった女達の変貌も書かれている。上皇となった冷泉院の許に、玉鬘の娘は側室として上がり、始めはよかったが、徐々に古い妃達の嫉妬に苦しめられて行く。かって「秋好中宮」と呼ばれたおしとやかな女性が六十を過ぎて嫉妬を剥き出しにする。その事態に堪えかねて玉鬘は遂にヒステリーを起こしてしまって、「竹河」の巻は終る。

朧月夜の君

 朧月夜の君は源氏の為に東宮妃としての予定された運命に狂いを生じ、それでも姉の弘徽殿が御匣殿として入内させ尚侍になった。だが朱雀帝の寵愛を受けながらも大胆に源氏との密会を重ねる。父親に見つかり弘徽殿に知られ、これが原因で源氏は須磨に流れることとなる。源氏とは二十七年続いた。年を経て源氏のつれない仕打ちも味わってきたし、朱雀帝の誠実な愛も感じてきた。朱雀帝の出家後、源氏に何も相談せずに 突然、出家する。源氏は驚き、冷たいとか、須磨の浦で辛い月日を送ったのはあなた故などと恨みがましくいい、「毎日の回向の時は、まず第一に私のことを祈ってくださるでしょう」とずうずうしいことを言っている。「どうせみんなのために祈るついでに祈ってあげましょう」と全く冷たい返事を朧月夜の君はする。高貴な姫君なのに明るさと奔放さで恋にも積極的、などと人は言うけども、本当は親泣かせの不良少女だとずっと思っていたが、ここで、これまでの朧月夜の君の印象をくつがえしてしまう。何と見事さ、源氏に対しての皮肉で冷たい応答の小気味好さ。すっとした。

(モデルは和泉式部ではないかと云われる 紫式部日記には和泉式部の品行が悪いなどと書いている)

紫の上

 紫の上は源氏の女君の中で最も悲しい人だと私は思う。他の女君はその本人を愛されたのだが紫の上の場合は違う。 紫の上は初めて物語に登場する時は、雀の子が逃げたと泣き顔を手でこすっていかにも可憐で可愛くいきいきしている。「かぎりなう、心尽くし聞ゆる人」と十歳ばかりの少女に藤壷の面影を見出し源氏は泣く。「かの人の御かわりに、明け暮れのなぐさめにも見ばやと思う心」が強くおこる。紫の上の存在理由は彼女自身でなく瓜二つなため藤壷の「身代わり」である。「源氏物語」断層の長嶺 宏氏はこれは言わばイブセンの「人形の家」(1879)のヒロイン・ノラと同じく源氏の「人形子」愛玩物として扱われている。したがって二人の関係は男女ではなく親子から出発する。源氏は紫の上を将来の妻として過不足のないように飼育する。もともと紫の上は「大方らうらうしう、をかしき御心ばえ」で「思いし事、かなふ」と満足する。かくて紫の上は自ら意識することなく ノラと同じく源氏の「人形子」から次第に「人形妻」となっていく。源氏妻として紫の上の存在が確定するのは須磨退去にあたって源氏留守中の二条院の財産・家政管理の一切の権限を委ねられたときからである。しかし源氏帰京後は明石の君、朝顔斉院にゆさぶられる。けして紫の上の存在は安定したものではない。結局六条院造営によって不安は解消され源氏妻として紫の上の存在は不動のものとなる。永久に続くと予想された二人の至福の関係は朱雀院の女三の宮の六条院降嫁を機として崩壊する。三十八歳になった紫の上は源氏と暮らして自分の人生がなにであったかを見通す視点を獲得した。覚醒したのである。この際出家の願望は源氏の「人形妻」を捨てて、真の存在にたちかえることを意味するだろう。それはノラの家出にほかならない。紫の上の孤独とノラの「ひとり」との間にはむろん相違があると長嶺 宏氏は指摘する


「源氏の人びと」大塚ひかり氏の「紫の上」と「女三の宮」には次ぎのように書かれている

 光源氏の最愛の妻として君臨する時代は、愛されている者の強みで、泣いたりすねたりといった感情表現を素直に見せた。だが、かって光源氏が朝顔の宮という貴婦人に夢中になった時、本気で辛いと思っていても少しも辛さを見せない。明石の君のような受領階級の女は、子供ができたところで、その子を紫の上に差し出すハメになるような扱いしかうけない。しかし宮家の姫君となると、紫の上の正妻的な地位をおびやかす。そういう深刻な時に限って、紫の上は感情表現を隠す。その紫の上も三十二歳。光源氏との同居二十二年。「もう大丈夫」と安心していたところへ降って涌いたのが女三の宮と夫との結婚話だった。その時、女三の宮十四、五歳。内親王という極上の身分と若さを持った女三の宮は、かっての朝顔の宮とは比べ物にならぬ脅威だった。紫の上と女三の宮とは「いとこ同士」だが朱雀院を父、東宮を弟にもつ女三の宮と、早く母に死に別れ、父とも疎遠の孤児同然の紫の上とは、身分の差はあきらかだった。

「逃れ難い縁談なのだから、ご自分の心から出た恋ではないのだから、せき止めることの出来ない結婚なのだから、落ち込んでいる様子を、世間の人に見せるのはやめよう」ときわめて意志的に、感情を隠すことを決意する。その時、彼女の心を強く支配したのは「人に笑われたくない」という意識だった。「人わらへ」(笑い者)になるという貴族が最も恐れる状態に、自分がなるのではないか?と紫の上は恐れた。自分の不幸を見せぬよう、女三の宮側とはトラブルを起こさぬよう、つとめておっとりとふるまい続けた。二夜、女三の宮と過ごし、その幼さに幻滅した光源氏は我ながら縁談を受けたことが情けなくて涙が出る。紫の上が「たまらなく可憐で美しい」と思う。新妻を迎えた光源氏の方が泣き、夫の新婚三日目と言う最も悲しい時を迎えた旧妻の紫の上が「すこしほほ笑みて」という感情表現を見せる。本当に深く悲しい時、紫の上は悲しみを見せまいとする。見せまいとして、笑う。


 ここに日本人特有の感情表現のルーツがある。国際社会で理解されにくいという、とりわけ欧米人に不可解といわれる、謎めいた日本人の微笑がある。日本人がひそかに理想としている感情表現がある。いざという時、取り乱さずに静かに感情を抑える。物柔らかに見えて、実は芯が強い紫の上のような女は、とくに日本男児が長らく理想としてきた女性像でもあるが、こんな女性像は、古典史上、紫の上が元祖なのである。泣きたいのに笑うという複雑で微妙な感情表現を描くのはもちろん「源氏」がはじめてなのであると大塚ひかり氏は言う。

女三の宮

 紫の上からみれば女三の宮の降嫁は悲劇だが、宮にとっても光源氏との結婚は悲劇だった。皇女の結婚が没落視されていた当時、鳴り物入りで光源氏の屋敷に来てみれば、実質的な正妻の地位も夫の愛も紫の上ががっちり握っている。あげく心ならずも柏木の子を妊娠した上、夫にばれてしまう。自分をなめきり軽蔑した夫は、世間や朱雀院の手前、大切にするふりをするだけ。ところが、もうこんな生活はたくさんと出家を願ったとたん、夫はあわてて泣いて反対する。反対すればするほど宮の出家の願いは深まる。さあ出家してやった。宮の快哉!


 紫式部日記では「宮仕えはいやだ」といってる。紫式部が仕えたのは、中宮彰子。この彰子を決して手放しで誉め称えてない。六条の院に降嫁して来た女三の宮のモデルは、この中宮彰子であったのかもしれない。)

弘徽殿

 弘徽殿は「源氏」の貴婦人では珍しく感情と感情表現の合致した人だ。「源氏」は彼女の性格を「いとおし立ちかどかどしきところ」ー実に強引で、才気に走りすぎたとげとげしさーのある人だという。彼女は夫の愛妃を憎み、その憎しみを抑えず表現した。それを受けて、ストレスで桐壷更衣は死んだが、更衣を亡くしていつまでも涙に沈んでいる夫を見た弘徽殿は「死んでまで人を不愉快にさせるご寵愛ぶりね」と容赦なく口にし、聞こえよがしに音楽会まで開いたりする。三歳で母に、その後祖母とも死別、七歳の光源氏が内裏で育てられる。桐壷帝が更衣に似た藤壷を寵愛し、その藤壷に光源氏がなつくと藤壷もろとも光源氏を目の敵にした。妃藤壷がお産を迎えると「うけはしげ」ー不吉ーな言葉を吐く。弘徽殿は、左大臣の娘の葵の上を、息子のお妃候補に予定していたが、桐壷帝の意向もあって、左大臣は光源氏を婿に選んでしまった。それだけならいざ知らず、光源氏は弘徽殿が「息子のお妃候補に」と大事にしていた朧月夜を入内前に犯してしまった。が弘徽殿は朧月夜を無理に入内させた。ところが朧月夜は息子と結婚後も光源氏と付き合っていた。弘徽殿の怒りは当然だし、怒りの発言の内容は実にかっきりと理路整然としていて、彼女の頭の良さを示している。「かどかどしき」性格とされるゆえんである。(紫式部が知っているかは疑問だが、弘徽殿大后は則天武后に似ている)

末摘花

 故常陸の宮の姫君「末摘花」は背丈が高く、そして軽く猫背、異様なのは鼻で象のように垂れさがり、しかもその先端は赤く、額はとてつもなく広く、長い顔で下半分はのびきっている。肩は痩せて骨張り、着物の上からでも痛々しく尖っている。朝の光で末摘花の容姿を見た源氏はびっくり仰天とあるこの「末摘花」はどのような姫君なのか。

 末摘花は「極端な恥ずかしがり屋で人見知りをする」とあるが、末摘花という女性は、ちゃんとした和歌が詠めた上で人見知りをするというタイプではない。ろくな和歌も詠めないままに世間から隔離されてしまったという、二重の苦難が彼女の上にはある。

 当時の娘の教育となると、これはどうやら父親の仕事のようで、父親が娘に対し、女として必須の教養を教え込む姿は、幼い紫の上と光源氏以外にも、源氏物語には多く登場する。末摘花の父親たる常陸の宮は、僅かに琴(きん)の琴(こと)の手ほどきをしたばかりで世を去ってしまった。

 末摘花は、字が読めない、字が書けない、和歌が詠めないというレベルではないのだけれども、どうやら物事のレベルは、初歩を僅かに出たところでストップしてしまった女性のようだ。

 琴(きん)の琴(こと)は弾けるけども決して上手ではない。和歌は詠めるけれども、決して上手ではない。紫式部は、なんでもかんでも「唐衣」という言葉を使う以外に能のない末摘花の和歌の程度の低さを盛んにからかっているが、こんな風にあるところでストップしてその先には決して進めないままの姫君というものは、やはり当時は当たり前に存在してたのだろう。

 ろくな歌は詠めない、古歌や物語を嗜むほどの教養がないから、風情ある景色に心を動かすことも出来ない、しかしそれでも彼女は一向に困らないし、悩まない。彼女につかえる年老いた女房達も、その女主人のレベルを疑うことをしない。「末摘花」の巻には、その老女房達が源氏から末摘花の姫に送られた歌の返しを批評するところが出て来る。

”「御歌も、これよりのは道理聞こえて、したたかにこそあれ。御返りはただをかしき方にこそ」など口々に言ふ。姫君もおぼろげならでし出で給へるわざなれば、ものに書きつけて置き給へりけり”(「お歌だってこちらからのものは筋道が立っていてしっかりしている。あちらからのお返しは、ただ外見の風情だけね」などと口々に言っている。姫君も、大変な苦労の末にしでかした作だから、これをノートに書き付けて残しておいた)

 そのレベルでストップしているから、苦労はしても苦悩はしないし、周りの人間は、「姫君は一通りのことがお出来になる」と思い込んでいるから、それ以上の修練なんか要求もしないで、へんに持ち上げたまま外の風をシャットアウトするだけで終わっている。宮家の姫君の教育ということになれば、一介の召使いである「乳母」(めのと)の口出しする領域ではないから、残された唯一の保護者であるはずの乳母は何も教えない。高貴な姫君というものは「”世間知らず”であってこそ正しい」というのが当時の教育であるから、乳母達は知らないでいることを称え、ほんのちょっとだけ、「こうした場合にはこうなさいませ」というアドバイスをする。アドバイスされる領域というものは、「知らないでいる方が正しいこと」だから、知らないことに関する恥などというものは湧きようがない。だから平気で、そのレベルに留まっていることが出来る。何もしないでも平気でいられるパーソナリティーというものはこのようにして作られるわけなので、当時の姫君のあり方というものは、多かれ少なかれこうしたものだったはずだ。

「蓬生」の巻には、こうした記述も登場する。

”今の世の人のすめる、経うち読み、行ひなどいふことは、いと恥づかしくし給ひて、見奉る人もなけれど、数珠など取り寄せ給はず。かやうに麗はしくぞものし給ひける”(最近の人達がするというお経を読んだり勤行などということになると大層気の引けることと思われて、お勧めする人もいないのだけれど、数珠などをお取り寄せになることもない。このようにきちんとしておいでになるのです)最後の「かやうに麗はしくぞものし給ひける」は、勿論紫式部の皮肉だが、ともかくこのように末摘花の姫は何もしなくて、そこに「麗しくきちんとして」という修飾語がつく。「ここまで極端に何もしなければ皮肉にもなるけれど、ともかく彼女のあり方が高貴の姫君として”きちんとしている”の一種であることだけは間違いない」ということだ。

 ここにある「経うち読み、行ひなどいふこと」がどうして「いと恥づかしく気が引ける」のかというと、お経というものがすベて漢字で書かれているものだからだ。当時の女性にとって、漢字を読む、読めるということは、とても女らしくない慎みのないことでもあったから、それで気が引けた。お経が漢字の文章だから、とてもはしたないような気がして読めないということは、源氏物語にも紫式部日記にも枕草子にも出てくる。

 父親である常陸の宮に死なれてしまった末摘花は、同時に教育の機会を逸してしまった姫君でもあったのである。

慈母としての大宮

 光源氏の実母、桐壷は彼に対して「母」としての役割をほとんど果たさなかった。桐壷の影をひいている藤壷も、むしろ母としてよりは、母のイメージより生み出されてくるアニマ像としての意味の方が強かった。結局のところ、源氏に対してある程度の「母」を感じさせたのは、彼の妻、葵の上の母である大宮であったと思われる。

 大宮もあまり幸福な女性とは言えない。天皇(桐壷帝)の妹として左大臣と結婚し、娘は光源氏と結婚、息子(一般に頭の中将と呼ばれる)はだんだんと出世して太政大臣にまでなると言えば幸福な生活だが、なにしろ、その娘が子どもを生んですぐ亡くなったのだから、その悲しみは常に彼女の心のなかにあったと言っていいだろう。

 それにしても、彼女の娘(葵の上)と娘婿(源氏)に対する気持は常に細やかで優しい。源氏との間にはたびたび和歌の贈答があり、互いに感情をわけあっている。情の通う母子関係を感じさせる。

 源氏が失意のうちに須磨に下るとき、紫の上と別れを惜しむのは当然であるが、彼は大宮のところを訪ねて惜別の和歌を交換している。大宮のところには、源氏の息子の夕霧がいるので、息子に別れを告げようとして訪ねていったとも言えるが、大宮と源氏の歌のやりとりには、母子に近いほどの気持が通っている。

 大宮の母性性が発揮されたのは、源氏に対してというより、彼女の孫である夕霧と雲居雁の恋愛より結婚に至るまでの過程においてであろう。、彼らば相思相愛でありながら、結婚できない。それを妨害している張本人は、雲居雁の父親の頭の中将(当時は内大臣になっている)である。この結婚話の経過のなかでは、源氏と頭の中将の意地の張り合いのようなことが関係して、それも話を円滑にする妨げとなっている。

 ところが、大宮は直接的には手を下さないにしろ、二人の孫の結婚をバックアップし、息子の頭の中将と娘婿の源氏との間の緊張感をほぐすことに、やんわりと役立っている。まさに「太母」的な役割をもって、現象全体の背後に存在している。紫式部は自分のなかに、このような慈母的な人物の存在を感じるとともに、それとまったく対立する、否定的な母親像の存在も感じとっていたようである。それが、弘徽殿の女御である。

浮舟

 浮舟は長い「源氏物語」のアンカーを務める女性である。光源氏をめぐるたくさんのランナー(女性)たちはそれぞれ源氏との関係において自分の存在を規定していた。源氏の息子の夕霧に対しては、一対一関係に生きようとする雲居雁がいた。それでも、その後の夕霧は彼女の期待を裏切り、落葉の宮という女性を引き入れてくる。女性たちも苦しむが、一応、隔日の妻訪いという解決に落ち着く。ただ、作者の紫式部はこんなことに満足できなかった。そこで、次ぎは男性像を分裂させ、薫と匂宮という対照的な人物を導入する。両者に深くかかわった浮舟は、苦しみの果てに入水という道を選ぶ。彼女は身分は高くない。(当時としては決定的なマイナス要因)薫の慕った大君に似ているということを唯一の取り柄として出現してくる。薫と匂宮の間で浮舟は身動きが取れぬ状態に追い込まれていくが、これは浮舟のあまりに受動的で、ものごとを拒む力が弱すぎたために起こったことである。ひたすらすべてを受け入れ、死さえ受けいれるほどであった。彼女は大君と容貌は似ているが、性格は反対と言ってもよいだろう。

 浮舟は死ななかった。いや、死んで再生したのである。再生後の浮舟の厳しさは、見事なものである。自分の中から生じてくるものを基盤にもって、個として生きる。このような態度は道心をもって生きようとした薫にも理解できなかった。宗教者の横川の僧都も同様であった。世俗的な幸福観に従って還俗をすすめ浮舟の拒否にあっている。紫式部はおそらく宇治十帖に至ったとき、現実は不明としても、心理的には出家を経験していたのかもしれない。浮舟の出家の場面で、はじめて紫式部は、出家の儀式を具体的にリアルに書き残している。

 浮舟の苦悩に対して薫と匂宮の二人の男はどれほど悩んだというのだろうか。匂宮の悩みは、ただ単純に、気に入った女を独占したいという感情のあせりであり、薫の場合は愛より世間体を気にしていて、女の裏切りに対しても、自分のメンツが傷つけられたという怒りが先に立っている。

 二人とも、浮舟の四十九日までは、嘆き悲しんでみせるが、それ以後は呆れるほどの早さで、他の女との情事に右往左往している。このあたりの男の下らなさを、なぜ紫式部はめんめんと書いたのか。所詮、男の心はその程度のもので、情熱も誠実もたかが知れていると言いたかったのではないだろうか。

 自殺未遂の浮舟に記憶喪失症という病気を千年前与えた紫式部に驚きを禁じえない。ある時、たしかに完全に記憶を喪失していたと思う。徐々にそれはよみがえったと見る方が納得いく。しかしその後も浮舟は引きつづき記憶を失ったふりをしつづけ、決して自分の素性も名前も明かさない。

 嫋々と見えて、投身自殺を決意したり出家を尼君の留守に決行したり、最後は薫を拒み通す浮舟は、意外に芯の強い女だったのであると瀬戸内寂聴源氏には書かれている。

空蝉

  私は「映画 旅情」が大好きだ。ヴェニスまで行ってみた。その「旅情」のキャサリーン・ヘップバーンと空蝉を重ね合わせた人がいた。「源氏物語」断層の長嶺 宏氏だ。

キャサリーン・ヘップバーンと空蝉  長嶺 宏

 デヴィッド・リーン監督映画「旅情」(原題Summer-time)に出てくるヘプバーンを見ていると、私はなんということもなく「源氏物語」の空蝉のことが思いだされるのである。

 ヘプバーンはアメリカの、もうそれほど若くない独身の女性秘書の役である。彼女は休暇をとって、こつこつ貯えた金で、ひとり憧れのヴェニスへの旅に出かける。映画は列車がヴェニスの駅に近づくところから始まる。彼女は列車の窓から美しい水の都の風景を見て夢中になり、しきりに撮影機をまわす。しかし美しいヴェニスの街なかで痩せぎすな彼女は、ときおりふっとなんともいえない寂しげな横顔を見せる。そんな彼女が、ある日ふとしたことから年配の骨董店の主人と恋におちる。二人がヴェニスの港の壮大な落日を背景にして語り合う場面は、彼女が今までアメリカで送った灰色の日常生活のなかでは、決して味わうことのできなかった至福の時間であった。彼女はこのときはじめて人生を経験する。しかし至福の時間はたちまち過ぎ去る。男には妻子があったことが分かる。男は妻を離別するから結婚してくれと女に嘆願する。女の心はゆれ動くが拒否する。くちなしの花を運河に落として、彼女は必死にそれを拾おうとするが、どうしても手がとどかず、花はながれ去ってしまう。彼女は愛を断念して、来たときと同じ駅からアメリカに向かって発つ。そのときホームに男が駆けつけてきて、彼女にくちなしの花をわたそうとするが、すでに列車は動き出していて、花はホームに落ちる。最後に女が車窓から身を乗りだして、男にむかって何度も何度も手をふるところで映画は終わる。ゆっくりふられる手の表情は深いかなしみを表している。彼女が帰ってゆくところは、いつまでもつづく灰色の日常生活である。

 いま私がヘプバーンに空蝉を重ね合わせるのは、寂しげな横顔や腱ばかりのような痩せた腕などの印象だけからではない。空蝉の容姿は頭つき細やかに、小さき人のものげなき姿ぞしたる(はえない姿をしている)。 (略)手つきやせやせにて、いたうひき隠しためり。(「日本古典全書」以下同じ) (空蝉)

と書かれている。しかし私が空蝉を連想するのはそれだけではない。所詮愛の断念の意志からきている。

空蝉もただ一夜の源氏との偶然の逢瀬によって、今まで夫伊予介との日常的な夫婦生活でまったく知らなかった、新しい生を経験する。しかし理性的な彼女は一方では深く心を惹かれながら、ただ一度の逢瀬を最後として源氏への愛を断念する。

とてもかくても、今はいふかひなき宿世なりければ(何れにしても、今となってはどうにもならない受領の妻という宿命なのだから)無心に心づきなくて止みなむ(情知らずの嫌な女として押し通そう)と思ひ果てたり。(帚木)

心底では愛しながら「無心に心づきなくて止みなむ、と思ひ果て」る愛の断念は苦渋にみち て哀しい。そうして親子ほど年のはなれた夫とともに任地伊予に下る。それからの彼女には「まぎるることなきつれづれ」(蛍)の灰色の日常生活が、いつ果てるともなくつづくはずである。思うに空蝉という女性は、境遇・性格の相似から、作者自身の最も深い投影の見られる人物の一人ではなかったか。

人がらのたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに折るべくもあらず。(帚木)

 これは源氏から見た空蝉像であるが、よく作者の性格を衝いている。古来空蝉が作者の自画像と見られたことも、こういう所からきているのであろう。だからこそ作者は、空蝉を空蝉巻で終わらせるに忍びず、物語の進展とは何の関係もない掌篇関屋巻を書き加えた。 この巻は二人が逢坂関で、すれちがうだけの話であるが、しかしここで始めて二人が別れてから十七年の歳月がながれ、源氏は内大臣となり空蝉は旧態依然として受領の妻であり、源氏にとって空蝉は路傍の草花にすぎなかったが、空蝉にとって源氏は生涯ただ一人の忘れがたい男であったことが明らかになる。

(空)行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ

え(源氏は)知り給はじかし、と思ふに、いとかひなし。(関屋・傍点筆者→太字)

「いとかひなし」という言葉に作者は、どれほどの思いをこめたか。 なお右の歌について「岷江入楚」は「心の内に源氏をふかく思う心は見えたり」と書いている。

千年の時間のへだたりを超え、日本とアメリカとの違いを超え、女の生きがたいかなしさの、不思議な暗合に私は想いふけるのである。

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