紫式部(評判記)源典侍

現代の紫式部(評判記)

 大抵の人が高校の古文で 「源氏物語」の一部を途切れ途切れに読まされ中途半端で終わるといった感じに教わった事があると思う。学校の先生が決まってこの授業中に紫式部日記の話となり「父が紫式部が男の子だったら」と嘆いた事と「清少納言などの人物批評」の件では生徒を笑わすのが定番。ちょっと思い出してみよう。


紫式部自身が言っている自慢話

 紫式部が幼いころ、兄(弟との説あり)が父の漢籍の講義を受けているのを、横で聞いて彼女の方が早く覚えこんだ。父はこの利発な娘が「男だったらよかったのに」と嘆いたという。「童にて書読みはべりし時」と紫式部自身が言っているのだから大いなる自慢話だ。

紫式部の人物批評

 「すこしもかたほなるは、いひはべらじ」(少しでも欠点のある人のことは言いますまい」と前置きして、和泉式部や清少納言のことを実に辛辣に悪口をいっている。和泉式部は歌はうまいが、品行が悪いとか、清少納言は、得意がって漢字を書きちらしているが、よく見れば大したことない、思い上がっていい気になっているが、どうせ末はみじめに落ちぶれるだろうなどと書いている。


 今、源氏物語はブームで紫式部もいろいろといわれている。

 各先生にちょっと聞いてみよう。


紫式部とはどんな人(敬称略)

 清水 好子の「紫式部」ではどこか少年っぽい頭のよすぎる女の子とは書かれている。

 田辺 聖子は27歳くらいで父ほどの年齢の派手好きでドンフアンの藤原宣孝と結婚した式部は、その前に他の男に失恋していたのではないかと小説的空想している。

 瀬戸内寂聴は、血色のいい、色の浅黒い額ぎわのすずしい、目のきらきら輝いた宝塚の男役みたいな娘だったが、短い結婚をして一人の女の子を産み、中年になって宮仕えする頃は、すっかり、引っこみ思案で人嫌いの、陰気めいた女、顔色は青白く貧血気味で、冷え症で、意地悪そうな冷たい目をいつも伏し目にして、人に自分の心を覗かせまいとしている。血液型は陽気な社交型のB型でもないし、神経の太いO型でもない、純情可憐なA型ではおさまらない。やっぱりAB型ではないか。子持ちで気丈な、そしてズバ抜けた教養と情報収集能力を持ったキャリア・ウーマンだったはず。理想の男性像として語られている光源氏は「女性に経済的な世話をしただけ。誰一人幸福にしてないし、彼自身も本当の得恋は一度もない」

 円地文子は物語の中の「空蝉」に紫式部が自分を一番託しているとの見解。肉感的で派手で美貌の、彼女の継娘「軒端荻」より、「空蝉」の方がずっと奥ゆかしくて魅力的だと源氏にいわせるところに、紫式部のナルシシズムがこっそりかくされているという説。

 紫式部は美女の容貌を書くのが苦手のようで「いとにほひやかにうつくしげ」等、漠然と抽象的にしか表現しないように思う。ところが醜さを書く時には溌剌と筆が躍動している。

 「空蝉」の顔は、まぶたがはれぼったいとか、鼻筋もすっきりしていなくてひねこびた感じだとか、「末摘花」は背丈が高い、そして軽く猫背、異様なのは鼻で象のように垂れさがり、しかもその先端は赤く、額はとてつもなく広く、長い顔で下半分はのびきっている。肩は痩せて骨張り、着物の上からでも痛々しく尖っている。朝の光で末摘花の容姿を見た源氏はびっくり仰天。しかし源氏は空蝉や末摘花、花散里に対して生涯面倒を見る。美女たちより、むしろ、醜女たちに幸福を与えたがる紫式部の心の内には、同病相憐れむところがあったのか。

源典侍(げんのないしのすけ)

 物語の中で ああ、あの人だとわかるモデルがいた。源典侍で、家柄もよく才気あり御所内で尊敬されているが、この還暦のころの宮廷女性と二十歳にもならぬ貴公子の源氏との情事の滑稽譚である。「目皮らいたく黒く落ち入りて、いみじうはづれそそけたり」この源典侍に当るモデルが当時、実在し、それが紫式部の兄嫁にあたる源明子だという。彼女は源典侍とよばれ、年も五十七、八だった。彼女は紫式部にモデルにされ、さんざん物語の中で辱められたと思い、居たたまれなくなり辞表を出した。もし紫式部が実在の兄嫁をモデルにしたならば、ずいぶん意地悪でいけずな女だということになる。兄嫁をモデルにして好色と書くなど有りえない。源氏物語は紫式部が作者だという説は怪しいというのは藤本泉。そして、中村真一郎は明らさまにその人を名指して物語の中で兄嫁を愚弄したのは、余程の恨みがあったのか、紫式部の陰気な気質をはからずも暴露した挿話である。角田文衛は紫式部は兄嫁が大嫌いだったので物語の中でカリカチュール化して復讐したのだそうである。

 余談だが「伊勢物語」の中に「百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足りぬつくも髪われを恋らし面影に見ゆ」という、”百歳に手のとどきそうな白髪の老婆に惚れられたらしく、そのおぞましい顔が夢に出てくる”という滑稽な民謡をもとにしての話がある。紫式部はこの「伊勢物語」の「つくも髪」のエピソードが念頭あり、源典侍の挿話を、あの物語の中に登場させるヒントになったのではないかという。


 だが、「源氏物語」の出現は当時の宮廷人を驚かせショックだった。建国以来、常に先進国、中国の文化に押しまくられ、その模倣をひたすら事としていたわが国に、世界語の漢文でなく、民族の俗語、大和言葉で書かれたということは、聖徳太子の外交姿勢以上の、民族的誇りを刺激した。当代一流の漢詩人の家に生まれ、幼児から漢文学の最高の教育を受け、同時に夢見がちな少女時代に、ロマンチックな日本の古物語に耽溺したあと、結婚生活という現実のなかで、物語の虚偽に目覚め、のちに宮廷女性となって自分の過去の文学的教養を総動員して「源氏物語」を書いた。(中村真一郎

 国語学者の大野晋は「源氏物語」の前半が明るい調子であるのに、後半に至って、その調子が著しく暗く変化しているのは、この前半と後半との執筆のあいだに、権力者道長と女房紫式部とのあいだの、男女関係に変化が生じ、それが彼女を暗い人生観に追い込んだのではないかという推理。

三枝和子は内裏の女房「生活と意見」が精神的、経済的自立を求める現代女性と酷似しており全盛期にあった藤原道長から言い寄られた紫式部の不快はまさに職場のセクハラではないか。「光源氏の漁色の優美さなどが主題ではない。男性は紫式部の強烈な皮肉にどうして気づかなかったか」

駒沢喜美ここまで歴史がうごいてはじめて、人々は女の立場にたって考えるようになった。一千年早く生まれ過ぎたフェミニスト紫式部の真意が今こそ正当に届きはじめた。  


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