宮尾登美子

 好きな作家を一人と言われたら

 宮尾登美子は文章の人である。凝集度の高い華も根もたっぷりと織り込まれた煌びやかな文体、すくい上げれば「ピチピチ」と跳ね回るような文章は読む側を鼓舞し、励ます。作中に登場する人物達の滾る思いや陰翳に富んだ感情がこちらに真直ぐに届いてくる。ああ、人間はこうもあるものか、と新鮮な感嘆にかられる。

 かって、「櫂」を読んだ時の強烈な感動。喜和、岩伍、綾子を初めとして登場する人物たちの息吹が行間に躍動し、沈潜する。張り詰めた作品世界であり生と生が激しく呼び合い、あるいは交感しあう。それが「春燈」「朱夏」「仁淀川」へと続いていく。それ以後、私は宮尾文学に引き摺りこまれた。「蔵」の時も同様、烈の気魄、そして佐穂、意造に引っ張られて一気に上下を読んだ。又、NHKのテレビドラマの「一絃の琴」でも分厚い人間ドラマが繰り広げられ、原作の素晴らしさに感動を覚えた。彼女の随筆も読み手に真直ぐに届いてくる靱さをもっている。それは並外れた重量の人生の経験が文学に磨きをかけ内側から光らせているのかもしれない。

 随筆の「お酉さま」では、お酉さまに詣でる途中で見かけた乞食の話から、かって彼女の父がよく、乞食と見ると拾ってきて男衆として家に住まわせた話に及ぶ。父は人助けという自己満足で上機嫌だが、穢い衣類を脱がせ、髪を刈り、風呂に入らせ、食事の習慣と挨拶を教え、彼らを一人前にするまで躾ける母は重労働を背負わされて大変だった。しかし、拾われた彼らは幸福といえたかどうかなど、淡々とした筆づかいでこの世の縁を浮かびあがらせる。 実生活においての彼女は、人の出入りの多い家で贅沢に育ち、幼少の頃から夥しい人生そのものに触れる事の出来た立場。家との格闘。お嬢さん育ちから一転して十七歳での、農家の嫁の生活。間もなく開拓団の教師の妻として生後五十日の娘を抱えて旧満州に渡り、新京近くの飲馬河村(いんばほうむら)で、部屋は別ながら、児童たちと同じ寄宿舎で暮らし、何かと彼らの面倒を見る。そして、敗戦後の満州で、中国人による襲撃の中をくぐり抜け、何度も死と直面しつつ、着のみ着のまま、収容所や収容住宅で厳寒期をも生き抜いた、渡満から数えての五百余日。引き揚げた時着てたのは道ばたで拾った麻袋をじゅばんとスカートに仕立たもの。夫の実家へと帰る道々では「珍しい乞食が来た」と人々の好奇の目。その夜の風呂は一年三ヵ月ぶりに身体が湯に接したという。その後、二十年近い結婚生活に終止符を打って、お子たちを連れて再婚し、家族一蓮托生のような思い切った上京・・・。一人のひとがよくこれだけのことを、と思う、何と覚悟の据わった潔い人生であろうかと感心する。

 才能のある先生方はたくさんいらしゃるけれど、読者に満腹感を与える作家はそれほど居ない。私は宮尾登美子の小気味よい文章が好きだ。

宮尾文学の入門書「櫂」

「作家 加賀乙彦」の解説より

  作家として彼女が世に出た作品は1962年「婦人公論」女流新人賞を受けた「連」であったが、出世作といえるのは、1973年太宰治賞を受けた「櫂」であったと言ってもいいと思う。私自身もこの作品を読むことによって宮尾登美子という独自の小説家の存在を知ったのである。この作品以後、彼女は堰を切ったようにつぎつぎに小説を発表して作家としての地歩を揺るぎのないものにしてきた。

 岩伍という男のもとに十五歳で嫁いできた喜和は龍太郎と健太郎という年子を生んで育てるが、渡世人の夫はいつも出歩いてばかりいて家に帰ってくれば箪笥の内をさらって子供の物まで博打のかたにしてしまう男であった。途中から岩伍は芸妓紹介業を始め、しだいに店を大きくしていく。この過程で、病気しがちの龍太郎を育てる辛労、他人の子をあずかり芸妓に仕込んでいく気骨の折れる毎日で、喜和の苦労は絶えない。激しい気性の夫と柔和で辛抱強い妻との生活が高知の下町の土地柄を丹念にえがき込んでいくで手法によって、その土地ならではの雰囲気のなかで展開していくところが、小説の前半の読み所であろう。四季おりおりの風物詩と、人をそらせない、和文脈のなめらかな語り口に乗って、小説は、淀みなくしかも哀切な余韻を漂わせなが進行していく。

 転機は岩伍が娘義太夫の巴吉といい仲になり、妾として囲っていることを喜和が知ることでおとずれる。しかし相手が夫とのあいだにできた赤ん坊を引き取ることを喜和は頑強にこばむ。それまで夫に忍従していた内気で寡黙な女性がにわかに頑固で強い意志の女に変身するあたりの描写は、物語の回転点をしたたかに印象づけて読者を驚かせ、さらに女の奥深さをかいま見せてくれる。

 喜和は家に連れてこられた綾子という赤ん坊に徹底した無関心を示す。が、赤ん坊が過失で瀕死の有り様になったとたんに自分で養育をし始め、こんどは自分の子にもまさる愛情をそそいで育てるようになる。小学生なった綾子の髪を洗ってやる喜和の様子など、実にこまやかな心遺いに満ちている。

 息子の龍太郎は結核で若死するが、健太郎のほうは、頭がよく世渡り上手な反面、大の放蕩者になり、結婚してからは、無学な母親を踏みつけるようになり、喜和は二階に追いやられる。息子からは十分な生活費ももらえず、生活にも困るようになった彼女が、それを夫に告げると岩伍は叱りつけ、そんな父親に綾子は刀で「殺す」と突っかかっていく。紆余曲折のすえ離縁された喜和を慕っていくのは、実の子ではなく継子の綾子である…

 私は別に小説の筋を明かしているのではない。ここまてなぞったのは小説のほんの骨格にすぎず、こうして筋のおおまかな起伏を示すことで、この小説がじつに巧みな語りで、読んでいて、先へ先へと興味と引っ張られていく牽引力を備えていることを証明したかったまでである。細部のいきいきとした心理描写、土佐弁を縦横に使った血の通った会話、なによりも人物像をきっかりと彫り込むような文章は、これは小説をじっくり読んでいかないとつかめないし、また楽しめない。

 たとえば、喜和が成さぬ仲の綾子の存在を知る場面。こっそりと秘密を打ち明けるのは裏長屋に住む自称大工の寅というお調子者である。・・・寅に限らず、こんな風に持込んで来る話には碌なものがなく、大抵は小遣銭欲しさにそこら廻り人のありもしない陰口を告げる絡繰は喜和にも読めている。

 その手には乗るまいとしている喜和に、寅は慌てた風もなく、右の人差指と中指の腹で自慢の鬚を撫りながら、半ば独り言のように、「此の町内、誰もが知っちょることで……姐さんにはいわれん、姐さんにはいわれん、と皆がいいよることで…それを若し姐さんが知ったら、一体誰が喋った、という詮議になりやすきに・・・」喜和はそれを聞くと、熱い血が一時にこめかみに上って来る思いがした」(第二部 五)

 その人にとってもっとも重大な秘密が、えてしてその人だけには伝えられないという世間の事情。それを明かすのが無責任な軽薄男であるという設定。、冷静一方の女が一時に興奮してしまう始末。この瞬間に小説の世界が蝶番をきしませながらぐるりと回転していく趣きをこの地の文と会話は、簡潔ながら見事に示している。この語りの堅実さが、精選された木綿糸で織られた布のように小説世界をくっきりと描いていくのが宮尾登美子の小説の持ち味である。

 綾子はついに家を出て継母の喜和と一諸に住むが、綾子が女学校に進む段になって、継母だけの保護者では見識の高い女学校に合格しないという問題がおこる。喜和は綾子の進学のためにあえて、綾子と別れる決心をする「櫂」の終りの部分は綾子を見送る喜和の悲しい愛惜に満ちた場面となっている。

 人物がそれぞれ独特で面白い。とくに喜和という女性が、女の弱さと強さと、嫉妬と愛と、喜びと悲しみをそえて、忘れられぬ造形となっている。

 夫の岩伍は、短気な乱暴者で博打にふけり家をかえりみない極道者だが、どこか憎めないこっけい味のある男である。

 綾子の先生たちや友人たちも、それぞれに陰翳深く描けていて、作品の奥行きを増す役目を十全にはたしている。長篇小説を読む喜びを、この作品は存分にあたえてくれる。

 「櫂」は宮尾登美子の小説を読む入り口とし格好の作品である。というのはこの小説は「春燈」「朱夏」「仁淀川」「岩伍覚え書」とこの五つの作品は、視点や方法や時代や場所が少しずつ異なっていて、おのおのが独立した作品でありながら、全体を一つの長篇とみなすことも可能なのだ。

 五作品に一貫して登場する綾子を中心として考えれば、「櫂」は継母の喜和の視点で描かれていて、大正の末から昭和にかけての高知を舞台に展開する物語である。もっとも厳密に言えば、父岩伍の視点が一部分混入しているけれども。

「春燈」は「櫂」の後日談であって綾子の視点から書かれてある。幼い綾子が、小学生、女子師範付属高等科生、山間の小学校の代用教員と成長して、三好という教員から求婚されるまで、昭和のはじめから昭和十九年までで、昭和十四年に綾子が喜和と別れて岩伍の家に行くまでは、「櫂」と年代が重なっている。

 そのつぎに来るのが「朱夏」で、結婚した綾子が満州に渡り、敗戦後、無一物になり、散散苦難の道を歩みながら、昭和二十一年に引き揚げてくるまでが綾子の視点で描かれている。

「仁淀川」は引き上げてきた二十歳の綾子が戦後の混乱と復興のなかでの綾子の苦悩と葛藤、最愛の母喜和と父岩伍の死までを描く。綾子のもとに父の日記が残された。

「岩伍覚え書」は今までの作品とは違った趣向で書かれていて、父の語る四つの事件という体裁となっている。喧嘩早く、人を刺して警察沙汰をおこしたり、やくざ同士の血の斬りこみ騒動があったり、「櫂」でお馴染みの岩伍の隠れた剛直な側面が浮かびあがってくる。

 「櫂」を出発点として、これらの作品を読みおえると、複雑に入り込み、さまざまな人物が活躍する大長篇小説の世界が開けるので、私は「櫂」を宮尾登美子の世界の入り口と呼びたいのである。

 ところで「櫂」を私は完全なフイクションとして読んできたし、今もそう思っているので、そこにどの程度作者自身の自伝的事実が投影されているかについては、何も知らない。それでも、高知に生まれ育ち、高知を舞台にする数々の作品を書いてきた宮尾登美子という作家と諸作品のなかに登場する綾子という聡明な女性とを重ねあわせて、作品を読むのは、これは読者の特権だと思う。綾子は大正の終りに生まれ、昭和の激動の時代を生き、戦争や海外からの引き揚げを体験した。その時代を小説に定着させていく作者の執念が「櫂」という秀作を創りあげたこと、これだけはたしかである。

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