ミッドウエー海戦 ●山本 五十六の死 

潜水艦イ52号 ●当時の暗号とは ●新高山ノボレ

無線学校の一教師の話(尋ね人)


ミッドウエー海戦とは…

 ミッドウエー海戦は短期間であったが 連戦連勝を続けてきた日本軍側が初めて経験した挫折であり、太平洋をめぐる日米両軍の戦いにおけるターニング・ポイントとなった。まさにミッドウエー海戦は「太平洋の戦局はこの一戦に決した」というべき戦いであり、「戦史上特筆大書さるべき」海空戦であったが、それは日本側にとってではなく戦果絶大なものがあったのは米軍側であった。この作戦は山本五十六司令長官のシナリオ通り進行。ミッドウエーを攻略することによって米空母部隊の誘出を図り、これを捕捉撃滅することは 現在の戦力からみて容易であると判断 ミッドウエー上陸予定日は月齢や気象を踏まえて6月7日(昭和17年)と計画され、同じにアリューシャン攻撃も行われることとなっており本作戦には日本連合艦隊の決戦兵力のほとんど動員されていた。(350隻の艦隊、飛行機1000機、将兵10万以上の大出動)

 山本五十六司令長官に「日本海軍暗号の解読は絶対にありえない」と言はした暗号であったが、守勢の立場にあった劣勢の米国海軍の強い力となったのがこの暗号解読であった。日本海軍主力が太平洋のどこかで遠からず積極的な作戦に出てくることは確実であったが、その時期や目的地について判断がつきかねていた。その時期、日本海軍の最も広く用いられた戦略常務用(海軍暗号書D)の解読に取り組んでいた米軍海軍情報部は5月26日までに ほぼその解読に成功。ミッドウエー作戦の計画に関して、日本側の作戦参加艦長、部隊長とほぼ同程度の知識を得ていた。

日本海軍の損失→空母4、重巡洋艦1、飛行機322、兵員3500の大敗。


山本 五十六の死

 連合艦隊指令長官山本五十六は、もともと日米開戦には反対だった。開戦が御前会議で決定し、山本長官率いる海軍の真珠湾攻撃によって戦争の火ぶたが切って落とされた。真珠湾での戦いは圧勝で、海軍は太平洋の大半を制したが、わずか半年後のミッドウエー海戦の大敗北によって一挙に制海権を失い、劣勢に陥ってしまう。山本は、兵士たちの士気を高めようと、前線基地の視察を計画、昭和18年4月18日、ラバウルからソロモン諸島へ向けて飛び立った。護衛は零戦たったの6機であった。海軍の最高責任者が危険区域を視察することに、部下たちは大反対した。城島高次少将などは涙を流して順察の中止を諌言したという。が、山本は聞かなかった。そんなことから、劣勢に責任を感じた山本が、あえて敵機に打ち落されるために視察に出た、すなわち自殺だったのではないか、との説も出ているほどである。

 事実、アメリカ軍はすでに日本の暗号の解読に成功しており、山本が前線を訪れる日時を正確に把握していた。ジョン・ミッチェル陸軍少佐が、山本機撃墜計画の責任者となった。ミッチェルは18機の戦闘機で部隊を編成、同日早朝、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を飛び立ち、ブーゲンビル島のジャングルを低速低空飛行しながら、山本長官の乗った飛行機を待った。7時半すぎ、山本長官一行を確認した米部隊は急上昇して急襲攻撃を展開し、長官機を撃墜した。機体は煙を吐きながら、ブーゲンビル島へ墜落、山本五十六長官は帰らぬ人となった。

 余談だが、戦後、誰が長官機を撃墜したかをめぐって大論争に発展するのである。ランフイア大尉が終戦直後に自分が撃墜したと申し出て、それをアメリカ空軍が承認。公式記録に掲載。ところがやはり作戦に参加したバーバー氏が自分こそが撃墜した張本人であると名乗りでた。連邦高裁まで争った。「殊勲は両者半分ずつである」の裁定を下したがバーバー氏は承服しなかった。権威ある「空の勇士退役軍人会」は山本長官機の撃墜はバーバー氏単独の手柄であるとの見解をだしている。調査の結果、山本長官機は後方から撃たれたものでバーバー氏の言い分に軍配があがったようであるが、まだ論争は続きそうな気配である。


潜水艦イ52号

 イギリスの出版社ドーリン・キンダスレー社が出版した『難破船と財宝の地図』には、世界の七つの海に沈んだ、さまざまな財宝を積んだ船の物語が書かれている。この夲の中に日本の潜水艦イ52についても書かれている。

時価30億円の金塊

 昭和19年3月10日、広島県呉軍港からドイツの占領下にあるフランスの軍港ロリアンにむけてたを出発した潜水艦イ52には時価30億円、純度99.5%の金塊2トンと天然資源、大量の生ゴム タングステン モリブデン等が積み込まれていた。乗組員115人 途中シンガポールから民間の技術者7人を乗せ、6月に南米大陸とアフリカ大陸にはさまれた大西洋で消えた。

 関わったわずかな人には語られていたが、戦時下の日本とドイツを結ぶ深海の密使、潜水艦イ52と金塊の話は、まったくの秘史であり戦後は完全に埋もれたままであったが、半世紀(1995年)たって海面下5000米の闇の中から船体が見つかり話題となり、NHKテレビのスペシャル番組にも取り上げられ、本も出版されている(消えた潜水艦イ52 日本放送出版協会)。しかし、高い水圧の深海であり、引き揚げ費用は総額で推定800万ドル。およそ10億円かかる。これまで最も深いところでの沈船の引き揚げはあのタイタニック号、水深4000米、しかもいったん水面近く引き揚げられたが、バランスを崩し再び海底に沈んでしまった。

アメリカの完全暗号解読に潜水艦イ52は消えた

 イ52について日本にはほとんど資料はない。アメリカの最高機密文書(ウルトラトップシークレット)にはイ52に関するさまざまな情報が記載されている。海中の隠密行動をとる潜水艦の追跡は、肉眼による監視より、主に通信の傍受によっておこなわれた。当時、連絡は短波の無線通信によって交されていた。通信は暗号を使っておこなわれたが、アメリカは完全に暗号解読に成功しており、イ52の乗員、積荷、形態をほぼ正確に把握し、出発から撃沈地点まで徹底的にイ52を追いつづけている。暗号解読書の余白には、前の訪独潜水艦イ8やイ29にあった飛行機格納筒を「イ52はもたない」という手書きのコメントも添えられている。 

なぜ、ドイツに金塊を運んだ

 日本は明治維新後、外国の技術を急速に吸収し、真似することによって国力を増強してきた。しかし、日本の技術水準は欧米に比べて低く、ドイツの最新技術に対して、日本は交換出来るような技術をもってなかった。ドイツが同盟国だといっても、無条件に新兵器を譲りうけることはできない。新兵器導入の条件として天然資源の譲渡だけでは不足、その上に金塊の支払となった。

潜水艦イ52の任務

 レーダー対空射撃装置、高速魚雷艇用エンジン。これらの最新技術を学ぶ7人の技術者をドイツに送り届けることと もう一つ重要な秘密任務は、レーダーやエンジンはもちろん、世界初のロケット戦闘機、実用化されたばかりのジェットエンジンなど、さまざまな兵器とその製造技術をドイツからできるだけ多くの最新兵器とを持ち帰ること。

 日本海軍は190雙の潜水艦を保有。艦体の大きさで、イ号、ロ号、ハ号と呼びわけ、イ号は1番大きいタイプの潜水艦だった。訪独潜水艦は大戦中に5雙、出航しており、無事 帰国したのは1雙「イ8号」だけ。 

当時の暗号とは

 日本軍が採用していた暗号は複数あったが、ほとんどが暗号書と乱数表を使ったものだったと考えられている。暗号書とは辞書のようなもので、ある数字とある単語がそれぞれ対応しているものである。

 暗号を送る側は、まず文章を暗号書をもとに数字に置き換える。それを今度は乱数表にかける。最後に、受け取った側にどの乱数を使ったか、どの箇所から乱数を使ったかを示す符号を巧妙に電文の中に隠す。解読するほうとしては、数多くの電文資料から同じ乱数表を使っているものを割り出して、その乱数を「剥ぐ」作業を行う。乱数をどのように使ったかを解き明かした後に、ようやく暗号書の割り出し作業に入る。一つひとつの数字が何を意味しているか、それを解明するための気の遠くなるような作業が繰り返される。

 アメリカ軍の解読資料を見ると、昭和17年ごろには電波の傍受からだいぶ時間が経ってから解読されていた。しかし、昭和19年ごろにはほぼリアルタイムで解読することに成功していた。通信が行われてから4、5日で英訳化した報告書が作成されていた。

西暦2001年は日本海軍がしかけた真珠湾攻撃から満60年、各種のイベントが日米両国で行われた。映画や書籍、そしてルーズベルト陰謀説、又、反論とにぎやかであった。2001年12月5日のニュースでは真珠湾攻撃直前、日本が米国の外交暗号を解読してたことを示す日米両国の文書が見つかったと報じている。 


真珠湾攻撃 「新高山ノボレ」「無線封止」各説

(阿川弘之「山本五十六」より)

 昭和16年12月2日、聯合艦隊の各部隊には、午後五時三十分、山本五十六の名前で、「新高山ノボレ 一二〇八」という電報が発せられた。

 これが、「X日を十二月八日午前零時と定め、開戦」の意味であることは、周知の通りだが、一般に誤って解されているように、この短文そのものが暗号で、「ニ、イ、タ、カ、ヤ、マ、ノ、ボ、レ」とモールス符号が打たれわけではない。機密保持を二重にするためと、電文を簡略化するために、艦隊では各作戦毎の陰語書が作られるのが例で、「新高山ノボレ」も、開戦に関する隠語書の中の一つの陰語で、謂わば電信略号の如きものであった。各艦隊への通信に使われていたのは、主として五桁の数字の乱数暗号である。

 これからのち、山本五十六の戦死にいたるまで、暗号の問題は、かなり大きな蔭の問題になって来るので、書き添えておけば、「D暗号」「呂暗号」「波暗号」など海軍の乱数暗号は、五十音順に約五万語から十万語の語彙を収録した発信用暗号書と、同じだけの言葉を00000から99999まで数順に並べ直した受信用暗号書と、使用規定と乱数表の四冊から成っていた。乱数表というのは、全く無意味で無作為な五桁の数字を、何万と収めたものである。

 発信用暗号書をひいて、「ニ」の欄に「新高山」という地名を見出し、それに対応する暗号符字が、仮に40404であったとすると、暗号員は使用規定にしたがって、乱数表の一定の頁がある行の、ある五桁の乱数を選び、それが仮に56789であったとすれば、40404に56789を加えて、(但し、実際の算術のように繰上げはしないので)96183という答を得る。この96183が、実際に暗号として打電される「新高山」である。「ノボレ」も「一二〇八」も、同様の操作で暗号化される。

「新高山ノボレ」をふくむ、あらゆる命令や情報は、海軍省構内にある東京通信隊の第一放送系の電波にのせられて、出先の艦隊に届けられていた。

 無線通信のやり方は、普通、一局がコール・サインで相手の局を呼び、その出現応答を待って通信を開始し、相手が了解の符号を送って来て終了するのであるが、放送系というのは、ラジオの放送と同じく、中央局の一方的な電波出しっぱなしの方式である。

 どのように高度の暗号を使っていても、電波を出せば、無線方位測定によって、その艦の所在地点は突きとめられる。コール・サインに関しても、これを隠す色々な方法が採られていたけれども、相手に悟られている可能性は大きかった。たとえ、呼出符号が相手に分っておらず、暗号が解かれておらず、ただ電波がとらえられて、発信艦船の位置が分明になっただけでも、その電波をオッシログラフにかければ、無線機の癖があって、「長門」の電波と「赤城」の電波とでは、かたちがちがう。    

 要するに、、一言口をきいたら、機動部隊の意図は暴露するわけで、南雲艦隊の各艦船は、無線機のキイを封印し、或は取りはずし、耳だけ聞えるだんまり態勢になって、ハワイに向っていたのである。頼りにするのは、東京通信隊の第一放送のみで、これはずいぶん不安なことであった。

 万一、の聞き逃し、受信不能を防ぐために、東京通信隊は、キロサイクルで、一万台、八千台、四千台と、三つの有効到達距離のちがう短波と、潜水艦が露頂潜航状態で受信し得る超長波と、四つの波を使って、同じ暗号電報を送信していた。

 十二月二日の夜、機動部隊は、作戦緊急信の指定のある、東京からの短い数字電報を受信した。暗号士が、それを翻訳して文章に直し、受信用紙に、「新高山ノボレ 一二〇八」と書きこんで、暗号長に届けに行き、暗号長はそれを通信参謀に届けた。そして、南雲長官以下、賽がついに予定通り投げられたことを知った。

「赤城」の増田飛行長の残した日記には、この日の欄に、「すべては決定した。右もなく、左もなく、悲しみもなく、また喜びもなし」と記してある。


(ロバート・B・スティネット「真珠湾の真実」より)

ルーズベルト陰謀説。

 ルーズベルトが刻々と真珠湾に迫る日本の機動部隊の動きを知っていた。彼は日本による「卑劣な不意打ち」を演出してアメリカを大戦へと導いていった。「新高山ノボレ」の電報は片仮名の平文で打電された。連合艦隊、とくに空母機動部隊が気軽に「無線封止」の命令を無視、南雲長官は連絡発信を何度もくり返している。


海軍通信作戦史(第二復員局残務処理部資料課)によると

 ハワイ作戦に於いては主として聯合艦隊特定の隠語を使用 中央にて特別の措置はとらず 但し11月 第一航空艦隊 佐伯入泊時 作戦行動を予測して新航空通信用暗号書(下)及び新戦術用暗号書(乙)を在庫の殆ど全部を盡し之に交付した。


(泰郁彦「検証・真珠湾の謎と真実」より)

スティネット「真珠湾の真実」の反論。

どんな兵力の機動部隊が12月第1週の週末に真珠湾を攻撃するか、もしアメリカがJNー25bを解読してたら確実に知り得たが、JNー25bの解読はわずか4人の士官しかいないコレヒドールのステーションCにさせ、ハワイのロシュフォートのステーションHには高級指令部用の暗号と取り組ませ、JNー25bの解読をアメリカは出来てなかった。日本は秘密保持に細心の注意を払った。「無線封止」は守られていた。真珠湾攻撃の成否は米側に発見されずに近くまでしのび寄れるか否かにかかっていることは、末端の水兵でも理解していたから、この指事は涙ぐましいほどの努力で守られた。

「暗号戦争」の著者デービット・カーンも、ステフェン・ブディアンスキーの「知恵の戦い」でもこの時期に日本海軍の暗号は読まれてなかったと精密に論証。

「トラ、トラ、トラ」(我、奇襲に成功)「ニイタカヤマノボレ」(開戦の決定を知らせた)は平文と暗号文の中間に位置する「隠語」。後者については隠語をさらに暗号に組んでいる。日本海軍は通信の保全に神経を使い、秘密保持に細心の注意をし、日本海軍が戦略的、戦術的場面で平文を使ったという話は耳にしたことない。平文は原則として使用しなかった。日米交渉が妥結して引き返す場合は「筑波山晴レ」であった。


ともあれ「無通告」のうちに始まったという真珠湾攻撃は戦艦部隊のほぼ全部を失い3000人の人命を奪い「リメンバー・パールハーバー」の合言葉で米国世論を一致団結させる結果となった。4年後の原爆投下を正当化させたことまで考えると、差し引きアメリカは損をしなかったと言ってもよいのではなかろうか。

    

筒抜けの大島電文


 ドイツ総統ヒットラーや外相リッベントロップの信頼の厚かった駐独大使大島浩はナチス・ドイツのソ連進攻作戦を予言し、インド洋に送られたUボートの詳細を伝え、ロンドンその他へのVロケット攻撃計画を予告していた。彼の電文の内容はいかなるスパイ情報にもまさり、そして彼の最大の“功績?”はノルマンデイー上陸作戦前の昭和18年10月、上陸地点が想定されるフランス沿岸部のドイツ側防衛陣地を視察した後、本省に送った報告。早速連合軍側に解読される。大島のベルリン発進の暗号電報は確度が高く最重要視される貴重な情報であった。

 彼は東京の上司に送った情報は1941年の11ヶ月間に75通、1942年には100通、1943年が400通、19944年が600通、19945年の最初の五ヶ月間は300通。彼への回答の数もこれに近い。長さはシングルスペースで一枚から三十枚さまざまだった。大島は軍事秘密を収集、報告には慎重、かつ徹底的であり、ドイツの重要な軍事機密のすべてを完全に知っており、そのすべてを東京の上司に報告していた。

 連合国の勝利に大きく貢献したの大島大使の報告

(1)独ソ戦の情勢 (2)ドイツのフランス沿岸防備状況 (3)ヒトラーの戦略構想、

これに次いだのが外相と大島大使の間の通信

(1)日本が対ソ戦に踏み切るどうか (2)日本の独ソ和平のための働きかけ (3)視察旅行の成果を含むソ連の国内情勢の分析

 西側暗号専門家の中には「大島情報はドイツの崩壊を2年早めた」と言う者もいる。


 英国人は「ウルトラ」(ドイツのエニグマ暗号を解読した情報)でもドイツ指導部の最高機密の通信の解読は得られなかったが、アメリカ人はベルリンの日本大使大島が東京に送った報告を読むことのよって、ヒトラーの計画と心の中についての情報を集めた。

「大島が提供した情報は第二次大戦における連合軍の勝利にとって測りしれないほど重要だった。ウイリアム・F・ロウレット」「私は戦争の歴史のすべてを通じて、大島の情報ほどに重要で価値あるものを知らない。かかる貴重な情報に匹敵する実例を説明するだけの言葉も能力も私にはないのである。カーター・W・クラーク」   

 盗まれた情報(カール.ボイド)より


 日本の暗号のうち、最も早く解読されたのは外交暗号(1940年秋)である。開戦から60年たった今も外務省が非難されるには最後通告宣戦の通告でも 国交断絶の通告でもなく 交渉打ち切りの通告)の遅れであるがそれよりも、開戦の一年以上前から戦争が終るまで外交暗号の電報がことごとく解読され、かつそれに気がつかなかった責任の方がはるか重大だったと思える。

 大島浩はA級戦犯として服役、55年12月に保釈、58年4月に特赦、その後、ひそっり余生を送り、75年(昭和50年)6月6日、89歳で亡くなったが、最後まで自分の暗号電報が解読されていたことを知らなかった。


 大島浩  1886年岐阜県で生れる。1905年陸軍士官学校を卒業。父大島健一は大隅、寺内両内閣の陸相。1934年、大佐で陸軍武官としてベルリンに着任。1939年には中将で大使になる。ほとんど欠点のないドイツ語を話し、興隆する日本に忠誠を尽くすという大島家の伝統を守りながら順調な軍歴をかさねた。

 

日本最高の数学者を集めた陸軍暗号学理研究会 


 大戦末期、米英との情報解析・処理能力の格差に気付いた日本陸軍は土壇場でトップクラスの数学者を集めて挽回を図った。米軍機の本土爆撃が激化し始めた昭和19年11月、第一生命保険(東京)、日本生命保険(大阪)両社に陸軍参謀本部から奇妙な書状が届く。陸軍数学研究会幹事長仲野好男(陸軍大佐)の名による両社保有の米国IBM社ホレリス式統計機“召集令状”だった。

 実はこれは暗号戦争で劣勢を痛感した日本陸軍中央特種情報部(特情部)が打ち出した起死回生の策だった。暗号解読に必要な記号、数字の頻度や反復の調査、分類整理、乱数表の出発点の割り出しに統計機は役立つ。数学研究会とは隠れみので、本当の名称は「暗号学理研究会」。陸軍暗号の画期的向上を図るとともに、敵国の暗号解読法を発見する特務を帯びていた。昭和19年4月の発会式であいさつした参謀総長東条英機(首相)は「新暗号方式を創造することは戦時下で緊急である」と訓示している。

 「実は当時でも世界に誇りうる日本最高の数学者を集めた。英知を出し合ってどうすれば日本の暗号を守る理論を作れるか話し合い、向こうの暗号解読についても助言をお願いした」。創設時からの参加者である元大本営暗号班陸軍少佐、釜賀一夫は述懐する。研究会機関誌創刊号によると、会長に額田坦(大本営第三部長)、副会長に高木貞治(東京帝大名誉教授)が就任した。委員達は、のちに「数学のノーベル賞」と言われるフイールズ賞を獲得することになる小平邦彦(東京帝大助教授)も含むそうそうたる顔ぶれだった。

 爆撃を避けて上諏訪温泉(長野)の通信省寮で開いた研究会には東大、文理大(現筑波大)の優秀な数学専攻の学生も参加した。だれもが祖国の壊滅を防ごうと必死だった。釜賀は東京・高井戸に移転した研究所で、米軍の機械暗号解読に成功した昭和19年8月1日のことをよく覚えている。米軍暗号機(戦後N(M)209であることが判明)と同じタイプとみたスウエーデン製暗号機を使っているうちに、文章がうまく出て来た。これをもとに模造機を製作させたのだ。

 第一、日生両保険会社のホレリス統計機徴用については、保険業務に支障があるとの強硬な反対で、結局、東京の第一生命の社員に統計機による計算処理を依頼したという。釜賀自身も皇居前の第一生命ビルに出掛け、地下階に設置されている統計機を利用させてもらった記憶がある。

(20世紀 どんな時代だったのか 読売新聞社)より


 日本陸軍の暗号は暗号解読の硬さでは比類がないものだったが、多数の人員と複雑な仕事を必要とし、仕事は繁雑過労、非能率的で、「先頭が戦闘」「戦果が戦火」「向後が交互」などの誤りが多く、中には意味不明のものも出てきた。これに対して米軍は機械暗号であったから彼らは「キー」を日々変更するだけで一人で暗号操作が出来る仕組みになっており、日本の手仕事式暗号作業とは、能率の点で大きな隔たりがあった。

(米国ストリップ式換字盤の利点がみとめられてローマ字使用の案もあったがローマ字それ自体普及せず、停頓の状況であった)


特情部の最後

 昭和20年夏、暗号解読のための資料は、紙一片たりとも残さず一切を焼却し、黒煙は3日間に亘って高井戸の空を焦がし、機械類はその一片に至るまで破壊し、暗号書の一部は土中深く掘って埋め、如何に占領軍が特情部の仕事と内容を追求しても、その解明は不可能な状態とした。更に将来の米軍の追跡調査を予想して、陸軍の編制表から特情部の名称を消し、特情部の主要人物の姓名を、陸軍省の人名簿から抹消する処置もとられた。かくて一切の処置を終った特情部は、殆ど全員が浴風園の特情本部裏の広庭に集まって、8月15日の天皇の玉音放送を待った。玉音放送を聞き終るや否や、西村特情部長から悲壮な解散の詞があり、あらかじめ指示されていた通り、一人も残さず全国に散って地下に潜ってしまった。

(特情部第一課長 横山幸雄中佐の手記より)

 日本の暗号のうち、最も早く連合国に解読されたのは外交暗号で、1940年秋であるから開戦の1年以上前である。日本海軍の主暗号は真珠湾攻撃までほとんど解読されなかった。10%程度解読できたというが価値ある情報は生まれてない。海軍の商船暗号は43年1月に解読され、陸軍の主暗号は海軍から約1年後の43年4月であるが、月200ないし300通程度だった。同じ4月には陸軍の商船暗号、9月には陸軍武官用暗号が解読された。陸軍の主暗号の解読電報数が一挙に増大したのは44年1月からである。

 外務省、陸軍、海軍に共通しているのは、戦争の終るまで暗号が解読されているとは考えず、したがって暗号の抜本的な更新はしなかったことである。海軍の場合、山本長官機が撃墜されたあとなど、解読されたのではないかという疑問は浮上したが、解読されるはずないという結論になっている。暗号に責任ある立場の者としては、疑問は抱いたものの解読されている恐れがあるとはいえなかったのであろうか。

(尋ね人)

東京、恵比寿の防衛研究所図書室での海軍文書の中で「無線学校の教師に暗号員の養成にあたらしむ」という一文がある。その無線学校の一教師の話。

 中央大学法科出の若い警察官藤崎栄が暗号に関心を持ち、独学で無線を学び 独自の暗号無線回路を論文にまとめて外務省の入省試験を受けた。一次試験は首位合格。しかし二次試験では落ちた。その頃 近くに住む従兄弟が思想問題で憲兵に連行されていたのが理由。この論文が中野高等無線学校の創立者高木章(戦後 衆議院議員)の目にとまり 自分の学校に教師として藤崎を招いた。藤崎の妻は警察官の薄給にくらべて破格の給料だったと云う。昭和14年の事。

 その年に九段より陸軍省通信研究所が同じ中野に移転。この地に移ったことから陸軍中野学校とよばれる。国民はおろか軍上層部も一部しか知らないスパイ養成校だが、何故か、陸軍はその後、同じ地にある 中野高等無線学校をスパイ養成校だと非難、そして閉校を迫る。その頃、陸軍と海軍との上部対立がだんだんと激しくなっていった。

 中野高等無線学校理事長の高木章は海軍に山本五十六の校長就任を「名前だけでも」と秘かに要請。その交渉に藤崎があたっていた。藤崎は山本五十六と初めて面会した時の事を次の様に語る。「射る様な目で自分をじっと見つめた。何か試されていると思った。目を反らさず話をした」この校長就任は実現しなかったが その後、「君は気に入った。海軍の仕事をせよ」と云われ藤崎は海軍暗号に関わるようになる。

 山本五十六は航空本部技術部長(当時少将)に就任した昭和5年以降、手がけていたのは技術要員、電波 電気技術者の確保であった。軍属でない技術系大卒者や、経験者を枠外に採用、折を見て技師(文官)に登用するというやり方である。

 山本五十六は昭和18年4月17日、海軍単独の「イ」号作戦の陣頭指揮にあたっていたが、ラバウル基地からブーゲンビルに飛び、着陸寸前、アメリカ機に襲われ墜落、戦死した。

 中野高等無線学校は、昭和18年9月1日に最後の卒業式が行われ、その日のうちに陸軍は職員室の書類をすべて押収した。その直後、海軍の傘下にある、東京通信機製作や東京航空無線の技師長だった藤崎が東京千駄ヶ谷に「海軍初年兵に無線を教える」との名目で電波研究所と藤崎無線養成所を設立。しかし、これは暗号員養成所であり、学生の多くは閉校した中野高等無線学校の制服を着ていた。


 海軍暗号員養成所は西船橋にあるのだが当時の海軍は暗号員が常時不足していた。そして暗号事故の多発、(18年1月1日より19年末2年間で暗号事故は大なるもの7件、小事故は相当数になる。それにより乱数表の強化される)

 戦時下の日本では陸軍、海軍、外務省と独自に暗号体系を開発していた。別に述べている様にほとんどが米英側に解読されている。米英側が無限乱数式暗号などを活用した陸軍の高度の暗号には手を焼いたという話はあるが、外務省、海軍のことはあまり聞かない。それどころか戦後はミッドウエー海戦(昭和17年)での大敗北は、その後の日本の運命が狂わされたとか、莫大な金塊を乗せて技術の導入に ドイツに向かった「イ52号」の撃沈は海軍暗号が解読された為、等と後で言う者もいる。

 正直いって海軍がああいう惨めな負け方をしょうとは、藤崎も思っていなかったようだ。戦争の話を嫌い、晩年は酒だけが友であったという。彼の家に山本五十六の「藤崎君に送る」と書かれた漢詩や書状が残されていた。

藤崎 栄の情報をほかにお知りの方がありましたら、教えて下さい(こちらへ)

次へ

B-29爆撃機  戦略爆撃  コールサイン

米英連合軍  付記  参考図書

表紙

案内

トップ