第一部

五重塔たけくらべ高瀬船外科室高野聖

野菊の墓細雪晶子曼陀羅明暗


五重塔
 ごじゅうのとう

幸田露伴(こうだ・ろはん)明治24〜25年発表

 江戸谷中の感応寺(かんのうじ)では造営が成り、余った浄財で、「五重塔」を建てることになる。寺では先の工事をみごとに完成させた武州の国川越の源太という名棟梁に、今度も依頼するはずであった。しかし、そこに貧之大工の十兵衛が、丹精込めた模型を持って現れ、「この堂塔はぜひ私の手で」と住職に泣きついた。彼は日頃、源太の下で働く大工で、腕前は抜群だが世渡りが下手なため、「のっそり」と呼ばれる男である。源太の女房お吉や弟子たちは怒りを露にし、十兵衛の女房お浪もまた、親方に対する忘恩の行為であると言った。棟梁源太も不快である。

しかし、十兵衛は気持ちを変えない。彼は一生に一度自分の腕をふるって、自己の存在をアピールし、後世に名を残したいと考えていた。そんな彼の気持ちを感応寺住職の朗円上人だけはよく理解して、源太と十兵衛を呼んで仕事の譲り合いを提案、最終的には二人の話し合いに任せた。源太は持ち前の義侠心から共同で建てることを提案するが、十兵衛はこれを拒否し、あくまでも自分一人で建てなけれぱ、年来の願いは全うされないと言う。源太は途方に暮れ、結局「五重塔」の工事に辞退を申し出ると、寺は十兵衛に発注する。源太は智恵を貸そうとするが、それも断られて怒る。工事が始まると、十兵衛の意気込みはさすがに激しく、鬼気迫るものがある。ある日、源太の弟子に襲われて片耳を失うが、十兵衛はそれでも仕事を休まない。その意気込みが現場を動かし、五重塔は立派に完成する。落成式前夜、江戸は暴風に襲われたが、十兵衛は自信をもって動かない。が、最後は「塔の倒れるときが自分の死ぬとき」と心に決めて、塔に上る。塔の下には心配して見守る棟梁源太の姿もあった。一夜明けると江戸中は大きな被害を受けていたが、十兵衛の建てた五重塔は無傷ですっくと聳えていた。上人は落成式で「江都の住人十兵衛之を造り、川越源太之を成す」と記した。十兵衛の近代的自我と、源太の侠気、それに朗円上人の無我や互譲の教えなどを、作者は強調したかったのである。


(谷中の五重塔は、太平洋戦争を無事切り抜けたが、戦後に火事を出して焼失していまは無い。「感応寺」はいま「天王寺」という名になっている。)

 

「たけくらべ」

樋口一葉(ひぐち いちよう)明治28〜29年発表

 この作品は、江戸時代に始まり新東京以降も「花街」として賑わう、古原遊廓地帯に隣接する大音寺前の町並みで、夏から初冬までの季節に展開した少年少女の初恋の物語である。吉原の妓楼「大黒屋」の養女美登利は、いまはもう一四歳となった。長く伸ばした豊かな黒髪、生き生きとした身のこなし、加えて、みんなで遊ぶ時の金離れがきれいだったから、表町の「田中屋」の正太郎や、横町の三五郎らの子供の仲間にとっても、女王的な存在だった。

 ところが、この表町組の子どもたちと対立しているのが、「頭の長」と呼ばれる一六歳の長吉とその配下たちである。日頃から乱暴な長吉は、千束神社の祭りには、表町の連中に負けまいと、同じ町内の龍華寺の跡取り息子の藤本信如を仲間に引き入れる。そして、千束神社の祭りの夜、長吉たちは表町組へ殴り込みをかけ、美登利の顔に向かって泥の草履を投げつけたのである。

 このことがあってから、美登利はひそかに慕っていた信如を恨むようになるが、結局は恨みきれずに、ある雨の朝、門前で下駄の鼻緒を切って困っていた彼に、紅色の友禅の布切れをそっと投げ与えてやるのだった。美登利は内心では信如を強く慕いはじめ、信如もまた美登利にほのかな思いを寄せはじめていたのである。その布切れは残念ながら信如の手許まで届かず、そぼ降る雨にずぶ濡れになってしまった。しかし、この象徴的な描写のように、美登利の身の上には女性特有の大きな変化が起さて、大鳥神社の祭礼を境にして、あれほど陽気で勝気、そして、おきゃんだった少女が、急に人が変わったように、うち萎れていってしまった。最近は心憎からず思う信如が、一輪の白い水仙そっと持ってきてくれたりもしたが、彼は龍華寺の跡取り息子として仏門に人り、二人は別々の道を歩み始めることになったからである。


 「紅色の友仙の布切れ」と「一輸の白い水仙」とが、シンボリックな形で登場する。その紅と白とがこれは何を表しているのかという疑間を投げかけている。作家の佐多稲子は「それは養女として妓楼「大黒屋」に入った美登利も、所詮は先々の遊女として先行投資の形で買われた身。それが、ついに初店に出されたからである」といった趣旨の解釈をしている。

 「雁」がん

森 鴎外(もり・おうがい)明治44〜大正2年発表

 この小説の時代は、明治十三年のことである。語り手の「僕」と同じ下宿屋には、この話の主人公の医科大学生の岡田が居る。彼は体のがっしりした美男子で、毎日夕食後散歩に出かけるのが日課のようになっている。いつしか無縁坂のある家の一人の若く美しい女性「お玉」と顔見知りになる。彼女はいわゆるおめかけさんで、その妾宅に住んでいる。彼女はある時、且那の末造の商売が高利貸しであることを知り、それを悔しいと思い、途方に暮れる。そんなところに、知的な美男が毎日、わが家の前を通り、ひょんな切っ掛けから会話を交わすようになったものだから、それ以来、だんだん自分というものにも目覚めて来て、岡田が、自分を今の境遇から救ってくれないかと想像にふけるようになる。末造が千葉に出張して留守になる夜、お玉はそれをよい機会とみて、岡田を招き入れようとして待ち構える。ところが、そんなこととは露知らない「僕」は、その日の下宿の夕食が青魚(さば)の味噌煮と知って、それが大嫌いな「僕」は珍しく岡田と食事をしようと誘って散歩に出た。それに、岡田にとってのこの夜は、ドイツ留学を面前にして下宿を引き払う最後の夜でもあったから、こちらの誘いにも喜んで乗ってくれたのだ。そんなことが起こったとは知らないお玉は、招き入れる予定の岡田を待ち構えていたが、彼が自分の家の前を「僕」と往き帰りとも通り過ぎたものだから、ただ空しく見送るしかなく、万感の恨みをこめて坂の中途に立ちつくす。その日、不忍池で岡田の投げた石がたまたま雁に命中して、その命を奪ってしまうという小さな事件が起こっていたのだが、そのように「運命のいたずら」というべき「偶然」が作用して、お玉が頼りとする「救い」への夢は、永遠に失われてしまった。


 この作品は、作者が東大医学部を卒業する前年の「明治十三年の出来事」として語られている。くすんだ哀愁味を漂わせている点が私の心をとらえる。この小説の主人公お玉のモデルについては、「ヰタ・セクスアリス」に出てくる古道具屋秋貞の娘であろうと言われてきた−−その娘は近所の寺の住職の仕送りを受けていたが、そのことにからめて、この説は有力であったが、戦後、森於莵(おと)が〈鴎外の隠し妻)児玉せき女のことを公表してからこのせき女こそお玉のモデルである、と考える説が有力になっている。語り手「僕」は鴎外自身と考えられるから、お玉のモデルを詮索することは鴎外の理想的な女性像との関連において大さな意味をもつものである。

 高瀬船 たかせぶね

森 鴎外(もり・おうがい)大正5年発表

 いつ頃のことかはっきりしないが、多分「寛政」の頃の春の夕ベのことであったと思う。弟殺しの罪を問われた「喜助」という三○歳ばかりの住所不定の男が、京都から大阪へ、島送りのため、高瀬川を上下する高瀬舟で送られるところであった。その舟に同乗している護送役の同心羽田庄兵衛は、これから島送りされるというのに、この喜助の様子があまりにも晴れやかなのに不審を抱いて、心情を聞いてみることにした。すると、喜助の答えは、こうであった。京都での喜助の暮らしは、極めて貧しくて困窮していたのに、この度は司直の手で「島送り」にしてもらい、しかも、これまで懐中に入れたこともない二百文というお金をいただいたのが、とても嬉しく、ありがたいという返事なのである。同心役人の庄兵衛はそれを聞いて、自分がいつも「扶持米(武士が給料代わりに貰う米)」が「足らぬ」と言っては不平不満の心を抱いていることを反省し、この貧しい罪人の「足る」ことを知る心の持ち方に感心したのである。

 さらに弟殺しに至った理由を尋ねると、それにも一理があった。心情を聞いてみることにした。ある日、喜助が外から家に帰ってみると、病気だった弟が剃刀をのどに突き立て、自殺を図って苦しんでいた。弟は「早く剃刀を抜いて死なせてくれ」と、懇願する。喜助は、弟の苦を和らげるためその通りにし、弟は死んだ。近所の人がこの様子を目撃し、弟殺しの罪を負うことになったというのだ。庄兵衛はこ喜助の話を聞いて、この事件が果たして「殺人罪」に当たるのだろうか…と大きな疑問をもった。そして、これは最後は裁きの決まりに従うほかないとは思うが、お奉行に聞いてみたいという気持ちが残ったのである。


(「安楽死」の問題は世界中の重いテーマだが、医学者鴎外は早くから「安楽死」問題に大きな関心をもち、明治三十一年にはM‐メンデルスゾーンの説を「甘瞑の説」として抄訳している。「安楽死」の訳はまだなく、鴎外はユウタナジイ(甘瞑)という語を用いている。

 「安楽死」の問題に関しては、鴎外の長女茉莉(後に小説家)が、明治四一年に重病にかった時、わが児の安楽死を真剣に考えた体験もあったと言われている。また、陸軍で多数の戦死傷者を迎える「軍陣医学」分野の医学者として、当然の命題でもあった。)

 「外科室」げかしつ 

泉 鏡花(いずみ・きょうか)明治28年発表

 貴船伯爵夫人の手術が始まろうとしていた。執刀は高峰医学士。手術を始めるため、高峰医学士は夫人に麻酔をかけようとするが、夫人はそれを拒む。「そんなに強いるなら仕方がない。私は、心に一つ秘密があろ。麻酔劑はうわ言を言うと申すから、それが恐くってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治が出来ないようなら、もう、もう快らんでもいい、よして下さい。」と言って、麻酔をかたくなに拒むのである。夫人は執刀医が高峰であることを、念を押すように確かめると、「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、大丈夫だよ。切ってもいい」と言い放ち、看護婦たちが手足を押さえようとすることさえ拒む。

 高峰は夫人の望みを容れ、麻酔をかけずに手術を始めた。そして、赤い血潮も吹さ出したが、夫人は足の指一本も動かさない。刀が骨に達したと思われた時だった。夫人が1あっ」と声を上げ、高峰の右手の腕に、両手で取りすがった。「痛みますか」と、高峰。「いいえ、貴方だから、貴方だから」と言いかける夫人。「でも、貴方は、貴方は、私を知りますまい!」そう言うのとほぽ同時に、夫人は高峰の手にしていた手術刀に片手を添えて、乳の下を掻き切った。高峰は顔色を失うほど驚きながらも、「忘れません」と夫人に告げる。夫人はそれを聞くと、嬉しそうな微笑を浮かべて息を引き取った。実は、この手術から九年前の五月五日、高峰は「予」と小石川の植物園を散策中に、華族の一行と行き違った。その中にかの夫人がいたのである。彼女の美しさは、一行の中でも特に際立っており、この世の人とは思われないほどであった。それ以来九年間、高峰ば親友である「予」にすら、夫人について一言も語らなかったが、恋人も求めず、結婚もしなかったのである。

そして、貴船伯爵夫人の亡くなった同じ日、高峰医学士もまたなぜかこの世を去ったのである。ただし、眠りについた場所は、青山墓地と谷中墓地とに、所は変わっていたのだが…。


(この「外科医」をはじめ、鏡花の作品には「他人の妻」のモチーフを強くもっているものが多い。先年玉三郎が演じて評判を得た。)

 高野聖 こうやひじり

泉 鏡花(いずみ きょうか)明治28年発表

 若い修行僧の宗朝は、飛騨から信州への山越えをする際、麓の茶屋で感じの恐い富山の薬売りにからまれた。その先の二股道で二人は道を別にしたが、宗朝は薬売りが行った道はいまや人の往来のない旧道だと知った。そこで、仏の道に仕える宗朝は、いくら感じの悪い男とはいえ、薬売りが危難に遇うのを放っておけず、その後を迫って旧道に入った。

 急いで歩いていくと広いなだらかな道に出たが、大蛇に何度も道を妨げられて、立ちすくむ。それをやり過ごしたかと思うと、次は山蛭が樹の上から雨のように降ってきて、宗朝の血を吸った。そんな恐ろしい目に遭い、疲れきった頃、宗朝はやっと一軒の山家に辿り着いたが、そこには小作りの美しい女が、智恵遅れの夫と暮らしていた。女は宗朝を泊めることを承知し、馬市に出す馬を連れて来た親仁(おやじ)に留守を頼むと、旅の汗を流すために谷川へと宗朝を案内した。

 谷川に着くと「すっぽり裸体になってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう」と言つて女が宗朝の脊を流してくれた。いつの間にか、女は着物を脱いで、全身を練絹のように露にしていた。すると大蝙蝠や猿が女にまとわりつく。来る途中にも、女の足にがま蛙がからまったが、女はいたずらの過ぎる子供をあしらう母親のようであった。

 その夜、宗朝は山家の周りを鳥や獣が二十も三十も取り囲んで、鳴いているような異様な気配を感じた。そして、その気配のうごめくのに応えるかのように、女がうなされる声が聞こえてくる。宗朝が一心不乱に陀羅尼経を唱えるとやがて気配は静まり、女もうなされなくなる。翌朝、宗朝は一夜の礼を言ってその山家を発ったが、女の妖艶さが忘れられず、引き返して女と一緒に暮らすことを考える。

 しかし、そこへ例の親仁(おやじ)が現れ、昨日連れていった馬は、女の魔力によって姿を変えられた薬売りの男であり、女にまとわりついた動物たちは、女にもてあそぱれた男たちの成れの果てであると教えてくれた。それを聞いた宗朝は、ぴっくりして一目散に里へ下りていった。


 泉鏡花代表作であり、浪漫的神秘的怪異小税の最高峰といわれている。鏡花は十歳の時、若く美しかった母に死別。この作品についてフロイト的解釈を加えると僧は鏡花、山の女は母、智恵遅れの夫は母を独占していた幼児期の父親への嫌悪願望のイメージともみられる。

野菊の墓 のぎくのはか

伊藤左千夫 (いとう・さちお)明治39年発表

 千葉県松戸に近い矢切村を主な舞台にして、十年余りの歳月を回想した形式の物語。

 さて、話の中心になる農家の斎藤家では、「僕」(斎藤政夫)の母が以前から病気がちのため、親類で従姉で市川に家のある「戸村民子」が農作業の手伝いや母の看病に来てくれている。政夫は中学入字を控えた年齢だが、その二歳年上で一七歳になる民子とはよく気持ちが通じ合い、たいへん仲がよい。しかし、年ごろの娘のことだから、周囲の人間も心配したり妬んだりで、「民子さんは、すぐ政夫さんのところへ行きたがる」と言い、母もまた気にかけて二人に注意したりする。綿摘みの帰りが遅くなったりすると、母は不審をいだいたりもした。

 それでも、二人はあまり気にかけず、「僕」の部屋でほんとうの姉弟のように、楽しそうに話をし遊んだりしている。ときには野に出て花を摘みながらこんな会話も交わしていた。「僕はもとから野菊が大好き。民さんも野菊が好き…・」「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると、身振いの出るほど好もしいの」「民さんはそんなに野菊が好さ…。道理でどうやら民さんは、野菊のような人だ」「政夫さん、私、野菊のようだって、どうしてですか」

 本人たちには何でもない会話だが、端から聞けば、それは若い二人の甘いささやさに聞こえたかも知れない。近くの村人たちなどは、少なくともそう感じて中傷の声を上げた。母はそれを聞いて、政夫を東京の学校の寄宿合に早めに返し、民子も彼女の家に帰してしまう。そして、年の暮れに矢切村に帰ってきた政夫は、民子がいないことに気づいた。母に問いつめると、母の差し金で民子は気の進まぬまま、他家に嫁いで行ったのてあった。。だが、少し経つと民子は身ごもり、その後、流産をおこして命を落としてしまったのだ。その手には、政夫の写真と手紙がにぎられていた。母は「私が殺したようなもの」と詫びたが、政夫はもとより許していた。そして、政夫はその墓にしばらく通い詰めて、一面に民子の好さだった野菊を植えたのであった。


 (漱石は「自然で、淡白で、可哀相で、美しくて、野趣があって」「何百遍読んでもよろしい」と賛辞を送った。)

 細雪 ささめゆき

谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)昭和十八年発表

 この小説は、昭和十二、三年頃の関西が舞台で、大正時代に全盛を誇ったが家運の傾きかけた大阪船場の商家「蒔岡家」に生まれた四姉妹と、その周辺人物の生きざまを、中流旧家の生活感情も交えて家族史的に展開していくものである。

 四姉妹のうち、まず本家の長女「鶴子」は、銀行員の夫を養子に迎えて父母なきあと家運の傾きかけた本家を守っている。六人の子持ちで苦労しているが、どこかおっとりしている。次女の「幸子」(谷崎松子夫人がモデル)は、これも婿養子の夫「貞之助」(谷崎自身がモデル)を迎えて分家して芦屋に住むが、彼女は経済力豊かな夫に支えられて花のように自由に暮らしている。派手好みだか情はこまやかで、未だに結婚しない二人の妹たちのために心を砕いている。三女の「雪子」は内気な女性だが、ピアノやフランス語など趣味は洋風で、芯はしっかりしている。すでに三○歳を超えているが縁遠く、姉たらは心配している。四女の「妙子」は才能も生活力もある近代女性だが、とかく問題を起こす。

 物語は貞之助の芦屋の家を舞台とし、雪子の五回の見合いを軸に展開し,あいまに妙子のいくつかの恋愛事件が彩りを添える。そして、再三の見合いの不調のあと、ついに雪子の結婚式が挙げられるところで小説は終わる。

 この縦の筋書きに、花見、音楽会、蛍狩り、月見などの四季の風物や年中行事が、絵巻物ふうに展開されてゆくのである。その話の進め方は、谷崎がその少し前まで取り組んで来た「源氏物語」の現代語訳の過程で得た手法が取り入れられている。

 大阪を舞台にし、関西人を登場人物にしたこの小説が、典型的な東京人の谷崎によって書かれたことは興味深い。この作品にあふれている上方気質は、生っ粋の大阪人があまり意識しない感じ方、見方であると言われる。やはり、谷崎の美的理想や、洗練された上方文化に対する賛美が、実在のモデルによって表現されたものと言えよう。


〔この第一回を昭和十八年「中央公論」に発表したが、「こいさん、頼むわ。−−」の冒頭に統く華やかな幸子の化粧の場面は、第二次大戦下の時局にふさわしくないものとして、軍部からの圧力ですぐ連載禁止とされた。しかし作品は書き継がれ、本格的に発表できたのは戦後になってからのことであった。初めから、時代の圧迫を受けたこともあって、谷崎には珍しい健全な家庭小説になったとも考えられる。)

晶子曼陀羅あきこまんだら

 佐藤春夫(さとう・はるお)昭和二十九年発表)

 この作品は、佐藤春夫が師事し、生涯傾倒した歌人「与謝野晶子」の伝記文学である。

 大阪、堺の菓子の老舗「駿河屋」に生まれた鳳晶子は、早熟の才と好学心を持ち、今は雑誌「明星」に短歌を発表し注目されている。明治三十三年八月、「明星」主宰者の与謝野鉄幹が下阪、初対面となった。その折、晶子は山川登美子とも知り合う。鉄幹二十八歳、晶子二十二歳、登美子二十歳である。以後三人の交流が深まる中、晶子は妻子ある鉄幹を熱愛し、登美子が身を引く形で、鉄幹と結婚する。新婚時代は前妻との葛藤があったりしたが、「みだれ髪」刊行で新進の流行歌人となった。三十七年、末弟への思いを歌った「君死にたまふことなかれ」の論争もあったりしたが、晶子の歌名はますますあがった。しかし時代の波は散文の勃興を促し、「明星」は廃刊に追い込まれ、鉄幹は傷心の身となる。多忙な晶子は、夫に死別した登美子と鉄幹の間に再び交情があることを知り、嫉妬に苦しむ。鉄幹のフランス行きは、海外留学に名を借りた別居であったが、費用の捻出は晶子の肩にかかった。夫の船を見送るとすぐ寂しくなった晶子は、結局パリに夫を追っていく。行ってみれぱ、残してきた七人の子供への愛情がつのる。そんな揺れる女心の晶子は、一人涙しながら帰国するのである。


 佐藤春夫はこの作品を「生きた時代の空気のなかにこの女恋愛詩人の人がらを写したいというのが作者の企てたところ」で、「根も葉もある嘘八百」と言う。集めた材料は、虚構もあり、事実もあり、それらの晶子の諸相を「曼陀羅」と見立て,晶子像を鮮やかに描ききった。叙述は、編年順という平面描写を避け、立体的に組み立てている。永遠の晶子像をとどめた。

明暗 めいあん

夏目漱石(なつめ・そうせき)大正五年発表

 新婚六か月の津田由雄はかって相愛だった関清子という女に突然裏切られた苦い過去がある。妻の「お延」は親代わりの叔父にさえ、自分が幸福な新妻だという演技を忘れず、他人の物笑いになることを何よりも恐れているような女性である。 痔の手術のため入院した津田は、人院費のことやふだんの兄夫婦のやり方に反感を持っている妹の「お秀」と口論になる。お延はお秀がチラッと漏らした言葉から夫の秘密に気づき、その真相を知ろうと腐心する。津田の上司古川の夫人は、その間の事情を知っているので、津田に清子に逢ってなぜ津田から離れていったのかを尋ねるようにと勧められる。

 病院から退院すると、古川夫人から教えられた清子のいる温泉場に向かう。宿に着いたその夜、迷路のような廊下に迷った津田の前に、ふいに清子が出現した。予期せぬ出会いに清子は青ざめ、棒のように竪くなる。しかし、翌朝、津田を部屋に迎えた清子は、昔に変わらぬ悠揚せまらぬ姿の人であった。

「明暗」はここで、作者の夏目激石の死によって中断してしまった。連載一八八回から成ってはいるが、時間的には二週間余りしか経っていないのである。その短時日の中に、過去・現在・未来を凝縮させ、夫婦、親子、兄弟、友人、親戚などの人間関係がそれぞれの役割を担って配置されている。

 一六八回で、津田が旅に出て以後、小説のトーンは明らかに変化し、破局の予感が漂い始める。旅のなかぱから津田を包む深い闇や温泉場での迷路に佇むような不安な「夜」の体験は、その覚醒へのある予感を示すかともみえる。津田の体験を媒介して、小説は新たな展開が予想をされながら「明暗」は中断した。


 大正五年十一月二十一日まで漱石は体調不良ながら「明暗」を書き統け、同日、辰野隆の結婚披露宴に上野精養軒へ出かけた。その時、前菜の南京豆をよく食ベ、妻鏡子にたしなめられるが、「大丈夫だよ」と言って食べ続けた。しかし、その夜から 胃痛がひどく、翌日は日課の「明暗」執筆ができないまま床に就いた。原稿用紙には「189」と連載の次回の回数が小さく書かれていた。

 「漱石」と言うペンネームが「負け惜しみが強い」という意味だというのはよく知られているとおりだが、夏目漱石は相当な「へそ曲がり」だったらしい。ある時、新米の編集者が漱石宅へ行った。女中さんに取り次いでもらうと、奥のほうから「いないと言え」という漱石の声が聞こえてくる。女中さんがそのとうりに主人の不在を告げたが、編集者は「声がしたじゃないか」と言って上がり込もうとした。すると漱石は大変な剣幕で飛び出してきて、「いないから、いないんだ!」と怒鳴ったそうである。

 

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