第二部

恩讐の彼方に清兵衛と瓢箪路傍の石伊豆の踊子

           ●雪国銀河鉄道の夜風立ちぬ斜陽夫婦善哉               


 はな

芥川 龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)大正四年発表

 池の尾の禅智内供の鼻は、長さが五、六寸もあって、腸詰めのように上唇の上から顎の下までぶら下がっているという不思議なもので、池の尾の周辺でも知らない者はいなかった。みんながこの鼻のことを話のタネにし、陰口をきいたり、あざ笑ったりするものだから、内供の心はいつも晴れなかった。そこで、彼はこの奇異な鼻で傷つけられる自尊心をなんとか回復しようと考え、鼻を短く見せる工夫をしたりしていたがいまのところ全く効果がなかった。第一、日常生活のうえでもこの鼻は不便きわまりなかった。たとえば、食事をするときなど、弟子のひとりに広さ一寸、長さ二尺ぱかりの板で鼻を持ち上げていて貰わなくてはならない始末である。それで、鼻が持ち上がっている間に、急いで食べるものを食べるのだからせわしないし、食べているものの味もよく分からない。

 ところが、ある年の秋、弟子の僧のひとりが、知り合いの医者から、そういう長い鼻を治せるという方法を教わってきた。そして、その治療を熱心に勧めてくれるので、内供はそれに従うことにした。そして、習ってきた弟子の言うとおりに、まずは熱湯で長い鼻を茹でて、それから痛くない程度に人の足で踏ませ、さらに毛抜きで鼻の中の脂肪を抜き取らせたのである。すると、ウソのように鼻は小さく萎縮した。早速、鏡を磨いてのぞいて見ると、まだ十分とは言えないものの、普通のかぎ鼻ぐらいにはなっていた。

「−−こうなれぱ、もう誰も哂うものはないにちがいない」

 禅智内供は、小さくなった鼻をそっと撫でながら、内心で喜び、ほっとした安堵感さえ感じながら、ひと心地ついていた。

 ところが、訪問客も周囲の人々も、禅智内供の鼻を以前にも増して無遠慮にジロジロと眺めたり、あれこれ批評めいたことを言って笑うようになったりした。そこで内供はいっそう機嫌が悪くなり、弟子たちをやたらに叱りつけたりした。ところが、ある夜、鼻に手をやってみると、なんと鼻は元どおり長くなっているではないか。それで、内供はむしろホッとして、晴れ晴れした気持ちにもなれたのである。


 この作品は「宇治拾遺物語」の「鼻長き僧の事」を一応の典拠としているが、内容を大幅に改変して創作したものである。夏目漱石の激賞をうけ、芥川の文壇登場のきっかけとなった。近代文学の古典の一つに数えられる。他者との関係の中で自意識にふりまわされて、その結果、却って自己そのものを失ってしまう近代人の過剰な自意識の問題がテーマである。

恩讐の彼方に おんしゅうのかなたに

菊池 寛(きくち・かん)大正八年

 無頼の若侍「市九郎」は、主人中川三郎兵衛の愛妾お弓と通じ、それが露顕して三郎兵衛に斬りつけられ、分別を失って主殺しの大罪を犯してしまう。市九郎とお弓は江戸を逐電する。

 東山道を上方に向かった二人は、悪事を重ね、やがて信州鳥居峠に茶店を開き、夜は強盗を働いた。彼は金のありそうな旅人を殺しては、巧みにその死体を片付けた。江戸を出てから三年目の春、若夫婦を殺めた市九郎は、お弓のあまりの強欲さを嫌悪し、身一つで逃げ去る。翌日,美濃の浄願寺に駆け込み、悪行を懺悔した市九郎は、以後、名も了海と改め、ひたすら仏道修行をする。道心定まった彼は、諸人救済の大願を起こし、諸国雲水の旅に出た。旅中、善根を積むことに腐心した市九郎は、九州耶馬渓の難所に至り、この二百余間に余る絶壁をくりぬいて道を通じようという大誓願を立てる。人々に寄進を求めるが誰も耳を傾けなかった。彼は独力でこの大業に当たろうと決心し、渾身の力こめて第一の槌を下した。里人の嘲りをよそに遅々ではあったが、穴は確実に掘り進められる。里人たちは協力してはまた落胆するという繰り返しで、市九郎は一人黙々と槌を振るい統ける。十八年目の終わり、穴はいつの間にか二分の一に達していた。この奇跡に里人も全面的な援助を惜しまず、工事は一気に進んだ。

 一方、中川三郎兵衛の一子実之助は敵の市九郎を求めて諸国を遍歴し、今この地にたどり着く。里人たちは、敵討ちはせめて貫通の後でと押しとどめ、実之助も了海の姿に打たれ一緒に槌を振るう。二十一年目、ついに洞窟は開通し、二人はすべてを忘れて感激の涙にむせんだ。


仇討ちの非人間性とヒューマニズムの勝利という明快なテーマの小説である。

 

清兵衛と瓢箪 せいべえとひょうたん

志賀直哉(しが・なおや)大正二年発表

 清兵衛は十二歳の少年で、まだ小学校に通っている。彼は瓢箪が好きで、一○箇くらいも持っていたろうか。彼はそれの手入れを怠らず、しきりに磨いてはあかずにながめている。父は子供のくせに、と苦々しく思っていた。清兵衛の瓢箪はどれも普通の瓢箪形をした平凡な格好のものばかりで、周りの大人たちが、「もちっと奇抜なんを買わんかいな」と言つても、「こういうがええんじや」と澄ましている。

 ある日、いつも見られない場所に、二○ぱかりの瓢箪が下げてあるのを発見し、その中に、五寸ほどで普通の形をした、彼には「震いつきたい程いいのが」あった。彼はそれを一○銭で買う。それからその瓢箪を離せなくなり、授業中でも磨いていて、受持ちの教員に見つかってしまう。教員は武士道の好きな男で、おまけに修身の時間だったから、「到底将来見込のある人間ではない」と怒り、瓢箪は、教員に取り上げられた。教員はその後、家へも注意をしに来る。父は清兵衛をさんざん殴りつけ、瓢箪を一つ残らず玄能で割ってしまった。清兵衛はただ青くなる。

 さて、取り上げられた瓢箪は、教員から小使いの手に渡り、小使いは何気なくそれを骨董屋に見せる。骨董屋はためつすがめつ眺めていて五円の値をつけ、瓢箪の価値を察した小使いはそれから交渉をして五○円で引き取らせることに成功する。それを彼は誰にも口外しなかった。その小使いといえども、骨董屋がそれを地方の豪家に六百円で売ったことまで想像できなかった。

 清兵衛は今、絵を描くことに熱中している。父はそろそろ絵にも小言を言い出してきている。

 自分の目で発見した美にあくまでもこだわる清兵衛と、権威によるものさしでしか測れない周囲の大人たち、ここには芸術家対俗人という縮図も読み取れる。初期の短編の代表作である。


 志賀直哉は「創作余談」で、これに似た話を汽船の中で人がしているのを聞き、書く気になったと書いている。また、その動機として、「小説を書く事に甚だ不満だった父への私の不服」をあげている。しかしこの作品には、そういった父子の葛藤という面より、白樺派の人々に共通する、自我の尊重、個性の重視、美への賛仰といった面が強く、ユーモラスな味わいの名品となっている。

路傍の石 ろぼうのいし

山本 有三(やまもと・ゆうぞう)昭和十二年発表

 明治の世、「愛川吾一」の家は貧しかった。父親は士族出で、プライドは高いが、働きもせず、ある訴訟事件に走って家庭をかえりみない。吾一は高等小学校で成績も良く級長だった。彼は中学校進学の希望を持っていたが、母一人が支える家計ではそんな余裕はなかった。学校の次野立夫先生は、そんな吾一をなんとか中学校にやらせたくて、慶應義塾出の近所の書店の主人黒川安吉に相談する。

ある日、子ども同士の肝試しで、意地になった吾一は汽車の走ってくる鉄橋にぶら下がる。汽車は急停車して無事故で済んだが、次野先生はそんな無謀な吾一に、「吾一というのは、われひとりなり、という意味だ、愛川吾一という人間は、この広い世の中にたった一人しかいない。それに、たった一度しかない一生だ。それを輝かさなかったら、生まれてきた甲斐が無い」と諭すのだった。やがて、本屋の安吉は匿名で吾一に学資を出すことを決心。その話を次野先生が知らせると、吾一は大喜びで中学校に一番で合格すると張り切る。

 ところが、父親は「武士の子が他人の金なんかで中学に行くな」と怒鳴りつけた。吾一は進学を断念し、呉服屋の「いせ屋」に奉公に出る。なれない店の仕事はつらいものだった。そのうえ吾一の母親が心臓病で急死してしまう。東京にいる父親に電報を打ったが、彼は葬式にも顔を出さなかった。

 東京に行きさえすればと思った吾一は、勤め先から使いに出たまま東京行きの汽車に乗り、父の手紙にあった住所を訪ねたが、その下宿屋にも父親はいなかった。やがて印刷所の文選工の見習いとして工場に住み込むことになった。半年後、見たことのある文字の原稿を発見、それは次野先生のものであった。先生は学校を辞めて文学を志し、東京にいたのである。そしてその日、偶然にも印刷所に出張校正に来た先生に再会する。その夜、小料理屋で先生は意外な事実を吾一に告げたのである。それは吾一の理解者の安吉が死んだことと、安吉が吾一の学資にと先生に預けた百円の大金を、先生が使い込んでしまったというのである。次野先生は涙をいっぱい浮かべて吾一に陳謝した。しかし、吾一は先生にお金のことなど、もういいと言って、次野先生が行かせてくれるという夜学に夢を託すのである。


 向学心にもえる愛川吾一少年とその行く手を阻む大人たちの理不尽。

 山本有三も十五歳の時、家庭の事情で浅草の呉服商に奉公にだされ、苦学した後、一高に入学。大正四年東大独文科卒業。

伊豆の踊り子 いずのおどりこ

川端 康成(かわばた・やすなり)大正十五年発表

 二○歳の一高生である「私」は伊豆に一人旅に出て、旅芸人の一家と知りあう。その中に目の美しい一四歳の踊子がいた。「私」は二度ほど踊子たちを見かけ、天城七里の山道で追いつけるだろうと道を急ぎ峠の茶屋で落ち合ったのだ。彼らは大島の波浮の港の人たちで春に島を出て旅を続けているのである。「私」は下田まで一緒に旅をしたいと打ち明け、道中を共にすることになる。旅を続けていくうちに、「私」は踊子の清純な姿にひかれて行き、頭が洗われたように澄んで来るのだった。そういった「私」の好奇心もなく軽蔑も含まない、彼等が旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような好意は、彼らの胸にも沁み込んでいくようで、「私」は大島の彼らの家へ行くことに決まってしまっていた。下田への道すがら、女たちが「私」の噂をしていた。「いい人ね。」「それはそう、いい人らしい。」「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」この踊子のことばに、言いようなく有難く思う。というのも二○歳の「私」は、その時、自分が「孤児根性で歪んでいる」と反省し、その息苦しさに耐え切れず、伊豆への旅に出て来ていたからである。下田からの船で、「私」は東京に帰らねぱならなかった。旅費ももうなくなっていた。出立の朝、踊子の兄・栄吉が一人見送りに来てくれていた。他の女たちは昨夜遅く寝て起きられないが、冬会えるのを楽しみにしていると言う。乗船場に行くと踊子が待っていた。話したい事があるが一言も口をひらくことなく船へとのりこむ。船室に入った「私」は頭が空っぽになり涙をぽろぽろ流した。しかし、泣いているのを見られても平気だった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。そこには、すべてを自然に受け入れられる「私」が居た。


 「伊豆の踊子」は何度も映画化されている作品である。昭和八年、五所平之助監督で田中絹代と大日方伝出演を最初として、野村芳太郎監督(昭和二十九年・美空ひぱり・石浜朗)、川頭義郎監督(昭和三十五年・鰐淵晴子・津川雅彦)、西河克巳監督(昭和三十八年・吉永小百合・高橋英樹)、恩地日出夫監督(昭和四十二年・内藤洋子・黒沢年男)、そして西河克己監督(昭和四十九年・山口百惠.三浦友和)

雪国 ゆきぐに

川端 康成(かわばた・やすなり)昭和十年〜十二年発表

 上州からの国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。汽車は信号所に停まった。駅長を呼ぶ悲しいほど美しい娘の声を「島村」は聞いた。都会で無為徒食の生活を送る「島村」は現実に即していない生活に不安を感じて旅に出て、いま上越本線の車中の人となっていた。その年の春、新緑の登山季節にはいったころ、山歩きの帰リに泊まった温泉宿の女に心ひかれた。芸者代わりに座敷にきた十九歳の「駒子lであった。女は「不思議なほどの清潔感」をもっていた。そのとき、女は「島村」の傍で一晩過ごして夜が明けきらないうちに去っていった。島村はその日に東京に帰った。それから時間がたち、再び雪の季節に山国の温泉宿を訪れたのである。こんどは駒子は芸者となって座敷に出ていた。汽車の中で一緒であった娘「葉子」(駒子の妹分のような女)は病人の行男(駒子の世話になっている踊りの師匠の息子で、駒子の許婚者であった)の面倒を駒子から依頼されてみていた。駒子は行男の治療費をつくるために働きに出たのであった。時がたつと、駒子は真剣な愛を「島村」に注ぎ、「島村」のところに入りびたりになっており、泊まりこむことも多くなった。「島村」が帰京する日、送りに駅頭にいた駒子のところに葉子が行男の危篤の報を持ってかけつけた。駒子は帰らなかった。白くカヤが光る秋になると、「島村」は三たび温泉宿を訪れる。そのとき行男の死んだことを聞かされる。行男の看病にはずっと葉子が当たっていたのであった。いまでは、葉子は行男の墓参りを日課としていた。駒子は時に葉子を使って「島村」宛の手紙を届けさせたりしていた。「島村」はストイックな葉子にもふしぎに気持ちが動いた。駒子に対する愛は、どうにもならないもので、これ以上進めることはできなく、また駒子を苦しめてはならないと考えて「島村」は彼女と別れる決心をする。東京に帰る前夜、「島村」は駒子を誘って夜の町に出る。映画を上映する繭倉が火事になる。燃える二階から葉子が落ちる。駒子は狂ったように駆け寄る。その葉子の姿は、「島村」と離別する駒子の悲痛な状況をそのまま体現しているようであった。島村は悲哀によろめく。夜空の天の河はそんなかれらを艶めかしく抱きかかえるようにも思われた。


 「雪国」は川端文学の代表作であるぱかりでなく、まさに近代日本文学の中にあって、抒情文学の典型とされるものである。完成までには長い時間がかかっているが、的確なリァリズムの上に象徴的、超現実的な手法が加わっており、全体にはたぐいまれな美の世界がみなぎっている。

 

銀河鉄道の夜 ぎんがてつどうのよる

宮沢 賢治(みやざわ・けんじ)生前未発表、昭和二年頃執筆

 北方の漁に出て帰らぬ父と、病気の母をかかえて、少年「ジョバンニ」は、学校の授業をおえると、新聞配達や活版所の文撰工の仕事に従って忙しかった。友達にもからかわれたりするが、父親どうしが友達の同級生カムパネルラだけはあたたかく接してくれる。「ジョバンニ」はケンタウル祭の晩、にぎやかな祭の中に溶けこめず、級友のザネリたちにひやかされて町はずれの天気輪の柱のところに走って行き、柱の下に臥して銀河を仰いでいるうち疲れから眠ってしまう。夢の中で、いつの間にか銀河鉄道に乗っていて、隣にはカムバネルラがいた。セロのような声が銀河世界は地上と約束の違う世界だと教えてくれる。白鳥停車場で、二人はプリオシン海岸へ行き、くるみ化石を拾い、獣化石採取の現場を見る。再び、車中、鷺や雁を捕って食べものにするのを仕事とする、人のよい鳥捕りと会話をする。途中で車掌が切符を調べにくる。「ジョバンニ」がポケットの中の紙を出すと、それはどこへでも行ける切符であった。いつか鳥捕りが消え、こんどは小さい姉弟を連れた青年が乗ってくる。乗っていた船が難破してここに来たのであった。カムパネルラがその姉と話をしているとき、「ジョバンニ」は嫉妬を感ずる。列車がコロラド高原らしい所、双子の星、蠍(さそり)の火を通過し、サザンクロスへ到着すると、青年たちは降りてゆく。いろいろな体験をした「ジョバンニ」は、みんなのためにほんとうの幸福をさがす決意をする。石灰袋の所で「ジョバンニ」が二人でどこまでも行ってみようと呼びかけたとき、カムパネルラの姿がふっと消えてしまう。「ジョバンニ」は激しく泣き出し、夢から醒める。「ジョバンニ」は町に戻り橋の所にくると、カムパネルラが川に落ちたザネリを救おうとして水に飛び込み、かえって自己犠牲となって死んだことを知る。カムパネルラの父はきっぱりとカムパネルラの死を認め、「ジョバンニ」に父は間もなく帰ることを告げるのであった。


「銀河鉄道の夜」は大正末年に書かれ、改稿、推敲を統け、作者の死によって未定稿のまま残され、死後に発表された。賢治の描きだす世界は、自然・宇宙・科学の渾然一体となったミクロコスモスであった。その点がユニークなものとして注目され、ひろく関心を集めている。

風立ちぬ かぜたちぬ

掘 辰雄(ほり・たつお)昭和十一年発表

   この小説は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の五章から成る。

 夏の高原にはすでに秋を思わせる涼風が立ち初めていた。「私」は節子という少女と知り合い、愛し合う。ヴァレリーの「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句をつぶやきながら、それが私の心だと思った。(序曲)。二年後の春、「私」は節子と婚約した。彼女はすでに肺結核で病床にあったが、「私、なんだか急に生きたくなったのね…」、「あなたのお陰で…」とつぶやく。愛し合っているという思いは、なんと生き生きとした切ないまでに愉しいものであろうか。彼女の病状はかなり重く、彼女を八ケ岳山麓のサナトリウムに入院させるため、「私」は付き添って出発することとなる。「あたかも蜜月の旅へでも出かけるように」−。(春)。サナトリウムに入ってすぐ彼女は入院患者の中で二番目に重症だと告げられる。二人は、大切に生きようとつとめ、真の「幸福」と「生の愉しさ」を味わおうとする。しかし、時には、行く手に立ちふさがる死の影におびやかされて不安におののくこともある。(風立ちぬ)。彼女の病状が次第に悪化していく中で「私」は小説の仕事にとりかかり、「夏の婚約の主題……二人の人間が余りに短い一生の間をどれだけお互いに幸福にさせ合えるか」という問題について考える。二人の愛を砕くかのように、死の影は刻々と近ずいてくる。十二月初旬には彼女の末期が迫っているのであった。(冬)。

 それから一年後の冬、「私」は一人、節子と愛し合った高原の小さな谷に小屋を借りて滞在する。彼女の追憶にふけることは苦しかったが、やがてリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」に啓発されてこんなふうに生きていられるのも、節子の無償の愛に支えられているのだと思い知る。(死のかげの谷)。

 すでに諸家によって、散文で書かれた最も純粋な詩であるといった定評があり、こうした世界特には弟子筋の立原道造の鮮烈な叙情詩に受け継がれていく。


  節子のモデルは堀辰雄の婚約者であった矢野綾子。付き添って入院したサナトリウムは富士見台高原診療所。綾子はは昭和十年暮れに亡くなっている。この後、堀辰雄は昭和十三年に加藤多恵子と結婚し、晩年は信濃追分に住んで、今度は自らが結核で、多恵子夫人に看取られながら昭和二十八年にその地て亡くなっている。ちょうどこの作品を逆にしたような運命であった。後にその信濃追分の家を訪れた歌人の吉野秀雄は次のように歌っている。「浄かりし人の跡守(も)るこの家よ白樺二本を門柱として」。

斜陽 しゃよう

太宰 治(だざい・おさむ)昭和二十二年発表

 もと貴族であり、数年前結婚に失敗した二十九歳になるかず子は、母とともに伊豆の山荘で静かに暮らしている。しかし、蛇の卵を焼き、火事を起こし、かず子の胸に悪い血が少しずつたまるようであった。大学の中途で召集され、南方へ行ったまま消息が絶えていた弟の直治が終戦になって帰って来た。そこから地獄の生活がはじまる。直治は帰ると酒におぽれ、やがて上京する。東京の友達や文学の師匠である小説家の上原に逢わなけれぱといって出ていったきり帰ってこない。デカダンな作家上原のとりまきとなり頽廃的な生活を重ねていると想像する。かず子は直治の部屋で、「夕顔日記」を見つけ、それによって、苦悩する若者の姿を知る。母は病気が重くなって死んだ。「日本で,最後の貴婦人」と心から慕っていた母が。以前かず子は弟のことを心配して無頼の作家上原を訪ねた。その時突然上原にキスをされ、それまで恋愛を知らずに結婚生活を送っていた彼女の「ひめごと」として残った。一切を失った彼女の生さる道は恋愛以外になかった。

 かず子はいつか道徳革命の願いとして、上原の子を宿すことを夢みるようになっていた。かず子は恋と革命の生活を開始するために、直治の師である上原に会いに行く。上原の荒廃した姿に失望したが、古いものと戦う犠牲者を彼に感じた。やがて二人は結ぱれる。二人が一夜をともにした翌朝直治は自殺する。

 直治は最後に、「僕は貴族です」と書きのこしていた。かず子は、直治も上原も、古い道徳の犠牲であると思った。直治のあと始末をしてのち冬の山荘にひとりで住んでいたかず子は、上原の子を宿していることを知る。上原への手紙の中で、「私は古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足」がありますとしたためた。自分はその古いものと戦い、太陽のように生きようと決心し、上原の子を生む喜びに新たな生きがいを見出だすのであった。戦後の没落貴族を背景に四人の主要人物が各自の生き方を模索する。登場人物はいずれも作者の分身であり滅びゆくものの美である。


 太宰の愛人太田静子の日記を素材として書かれた作品である。没落していく華族の娘である「私」は中年の作家を愛して妊娠するが古い道徳を無視して私生児を生み、育てることによって道徳革命を完成さセようとするのである。ここには一人の女の生き方を通して人間性を抑圧するものすベてに反逆する太宰の姿勢がみられる。斜陽は太宰の文学の集大成をなす作品であるといえる。雑誌「新潮」に連載中から注目され、単行本が刊行されるや、またたく間にベストセラーになった。「斜陽族」という流行語も生まれた。

夫婦善哉めおとぜんざい

織田作之助(おだ・さくのすけ)昭和十五年発表

 大阪は道修町の化粧品問屋の跡取り息子「維康柳吉(これやすりゅうきち)」は三十一歳の妻子持ち。お人よしのボンボンだが、金さえあれば飲んでまわる放蕩息子だった。一方、曾根崎新地の芸者「蝶子」の実家はその日ぐらしの細々としたてんぷら屋。蝶子は小学校を出ると、あちこち女中奉公に出て苦労した。十七歳の時、自分で希望して芸者になった。陽気で声自慢、座持ちがうまかったので、たちまち売れっ子になった。その蝶子が柳吉にぞっこん惚れた。惚れた身には柳吉のどもるしやべり方にも誠実さを感じた。柳吉の並はずれの遊興に父親はさんざん意見してきたが、中風で寝込んでから、柳吉を打つ、殴るのできないじれったさもあって、とうとう柳吉を勘当する。

 蝶子はヤトナ(芸も見せる出張仲居)までして、二人の生活をささえ、将来は小さな店でも持つ算段で、少しずつ金を貯めるが、柳吉はその金で安カフェーへ出かけて、女給を口説いたりする始末だった。

 実家で妹に婿を迎えるとの話を聞いた柳吉は蝶子の前から姿をくらました。蝶子と切れたと思わせる策略だと柳吉は弁解したが、それでも妹から無心してきた金で関東煮屋を出したが、柳吉が腎臓結核にかかってしまい、蝶子は店を売って療養費にあてる。やがて病気も治り、蝶子は昔の友人から借金してカフェーを始めた。店は順調にいったが、柳吉の父が死に、その葬式に出席できなかった蝶子は自殺を図る。なんとか命をとりとめると、一か月も姿をくらませていた柳吉が蝶子のもとに戻ってきた。久しぶりに連れだって法善寺境内の「夫婦善哉」を食べに行く。


 作者が「大阪の市井という魂の故郷を再発見しよう」と意気ごんで書いたこの作品は、大阪下町の男女を通して、大阪人の生活感覚をユーモラスに描いているが、単なる風俗小税ではない。

暗い時代背景の中で、しっかり者の蝶子とだらしない柳吉のコントラストがかもす雰囲気が秀逸。

織田作之助は五人姉弟で、姉が三人、妹が一人いた。この「夫婦善哉」のモデルは、次姉 山市千代と、その夫 乕次だと言われている。長姉の竹中たつは、作之助が世に出るまで、夫婦仲が険悪になるほど物質的援助を惜しまなかった。

「夫婦善哉」」は昭和三十年東宝で映画化された。

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