第五部

山椒太夫雲の墓標.●風の又三郎忍ぶ川.夜明け前

金色夜叉老妓抄千羽鶴銀の匙.●ヴイヨンの妻


   
「山椒大夫」
さんしょうだゆう      

 森 鴎外 もり・おうがい     (大正三年発表)

                     一

  越後の春日から今津への道を四人連れの旅人が歩いている。三〇歳ぐらいの「母」、一四の姉「安寿」、十二歳の弟「厨子王」、それに四〇歳ぐらいの女中の四人で、岩代の国(いまの福島県)信夫群(しのぶごおり)から筑紫の国へ行ったままの父に会いにいくところだ。日が暮れかかる頃、一行は汐汲み女に野宿をするのに最適な橋の下を教えてもらう。

 そこに「山岡大夫」という船乗りが現れ、自分の家に泊めてやろうと言う。また、その勧めで、翌朝は船路で旅発つことにした。しかし、実は、山岡大夫は人買いであった。そして母と女中は佐渡へ、子どもたちは丹後の由良へと、母子は引き離されてしまい女中は入水する。

 子どもたちが買われたのは「山椒大夫」という金持ちの邸で、ここで安寿は汐汲みを、厨子王は柴刈りを命じられた。姉と弟は父母に会いにいく手立を話し、お互いを慰め合っていたが、それを山椒大夫の息子三郎に聞かれてしまう。二人は父母に会いたい余りの空言だと三郎に弁明したが、その夜、二人は三郎に引き出され、額に十文字の焼き印を押されてしまった。小屋に帰って母から渡されていた守り本尊の地蔵を拝むと焼き印の痛みが消えたが、翌朝目覚めて、その仏像を見ると、百亳(びゃくごう)の左右に十文字の傷が出来ていた。

 それ以後、安寿は口数が少なくなる。やがて年が暮れ、また春がやって来て、外の仕事を始めることになった日の前日、安寿は自分を弟と一緒に柴刈りに出させて欲しいと申し出る。厨子王は事前の相談もなかったので非常に驚くが、山椒大夫は安寿が髪を切ることを条件にそれを許可した。翌日、厨子王とともに山へ出かけた安寿は、守り本尊の地蔵を厨子王に渡して、厨子王を逃がした。安寿が口数を少なくしていたのも、この機を狙っていたからなのだ。

 その後、安寿は入水したが、厨子王は守り本尊の導きで山椒大夫の手を逃れ、果てには丹後の守に任ぜられた。父は筑紫ですでに他界していたが、厨子王は母を探すため佐渡に渡り、再会を果たしたのであった。母はその時、こう呟いていた。「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。烏も生あるものなれば…」。


 この作品は昭和二九(一九五四)年、大映京都で映画化されたが、スタッフは監督が溝口健二、脚本に依田義賢(よだ・よしたか)と八尋不二、撮影に宮川一夫と、当時隆盛を極めた日本映画界の強力スタッフが顔を並べた。キャストも豪華で、田中絹代・花柳喜章・香川京子・進藤英太郎・菅井一郎・浪花千栄子・毛利菊枝らの有名女優・男優が名を連ねた。ラストのパン撮影で捉えられた美しい海のシーンは、ジャン・リュック・ゴダールが後に『気狂いピエロ』のラストで再現してみせた。

「雲の墓標」くものぼひよう

阿川弘之 あがわ・ひろゆき     昭和三○年発表

                 

 昭和一八年一二月一二日の海軍飛行予備学生「吉野次郎」の日記に始まり、昭和二○年七月九日の遺書で終わる、この作品は、中に二編ほどの級友「藤倉」の手記をはさんではいるが、ほとんど日記によって物語られていく異色の戦争文学である。作者がさる友人を介して入手した学徒出陣兵の手記をもとにして編んだ若き特攻隊員の散華に至るまでの心の記録である。

 京都大学国文学科在学中に学徒動員で海軍航空隊に入隊した「吉野」「藤倉」「鹿島」「坂井」の四人は共に万葉集演習に参加し、友情をはぐくみあった仲間であった。四人中で「藤倉」と「鹿島」の二人が一番海軍の気分に対して反逆的で、「坂井」が最も素直だが、気が弱くやや愚痴が多く、「吉野」はその中間といったところである。彼らは土浦・出水両航空隊での訓練を経て、一九年九月に宇佐航空隊に配属された(「鹿島」だけ途中で一般兵科を選んだ)。

「吉野」は「のこしてきた学業への未練・父母への思慕、多くのなつかしい人人への気持、それが十重二十重になって自分を幾つにも引き裂」かれながらも、「自分たちにはもはや、なにものかを選ぶということは出来ない。定められた運命の下に、自分を鍛えることだけが、われわれに残された道だ」と観念しつつ、自分で納得しうる主体性を確立しょうと苦悶する。一方「藤倉」ははっきりと反軍的、反戦的でE先生へは「此の戦争に日本が勝てる素因というものは、すでに全く無くなっている」と書き送り、「生還ののぞみは、私に、ほとんどゼロになりました。」が、「私は自分だけの非常の手段をかんがえております。」とその心中を吐露するが、飛行訓練中に図らずも事故死してしまう。かくして本土決戦も避けられない状況下に至った昭和二〇年七月九日、吉野は「二五年の御慈愛深く深く感謝いたします。」の遺書をしたため特攻出撃した。


「おそらく大半の人が、この小説を泣かずに読みとおすことは出来ないだろう。(略)死ぬことだけを目的に訓練されている異常な集団が、落ち着いた筆致で描かれているだけに、その異常さは一層強く胸にこたえた。」と評したのは安岡章太郎であったが、志賀直哉の最後の門下生を自認する作者のリアリズム精神とヒューマンな特色が見いだされる佳品である。

「風の又三郎」 かぜのまたさぶろう

    

宮沢賢治 みやざわ・けんじ    (生前未発表、昭和九年発表)

                         

 九月一日、谷川の岸の分校に赤毛の子が北海道から転校してくる。「高田三郎」である。その朝「三郎」がみんなをきょろきょろ見ると強い風が吹く。ちょうど二百十日に現れ、名前も三郎であるところから、嘉助たちは、この少年を「風の又三郎」だといった。

 二日、始業前、「三郎」が運動場の広さを歩測していると風がざあっと吹く。嘉助はやっばりあいつは又三郎だぞという。授業中佐太郎が妹の鉛筆をとりあげるのを知り「三郎」は鉛筆を佐太郎に与えて、自分は消し炭を使う。

 四日、六年の一郎は、嘉助や「三郎」などを連れ上の野原(放牧場)へ行く。競馬ごっこをして遊ぶうち一頭の馬に逃げられ、それを追いかけた嘉助は霧の中で倒れ異様な幻覚を体験、「ガラスのマントを着た又三郎」が空に飛びたつのを見る。意識回復し、馬と「三郎」に会う。「あいつは風の神」と思う。

五日、放課後「三郎」は嘉助や耕助などと葡萄取りに出かける。知らずに煙草の葉を一枚むしった「三郎」を耕助がしっこくせめる。耕助はその時二度も栗の木の下でしずくを浴びる。それが「三郎」のしわざとわかって喧嘩となる。やがて和解し、「三郎」は葡萄を五房手に入れる。

 七日、むし暑い放課後水泳に出かける。水にもぐっていると、向こうの河原で大人四人が発破をかける。みんな下流に泳ぎつき発破で浮き上がった魚を捕る。三郎はそのとき浮かんだ魚を返したりして、ひとり変わった行動をする。

 八日、この日佐太郎は、用意しておいた 「魚の毒もみ」用の山椒の粉をもってさいかち淵に来て、魚を浮かせようとして失敗する。きまり悪くなった佐太郎はみんなと鬼ごっこをする。そのうち、黒雲が垂れこめ雷雨となる。誰ともなく、「雨はぎっこぎっこ雨三郎/風はどっこどっこ又三郎」と叫び「三郎」は一目散にみんなの所に走ってきておびえている。

  十二日、嵐の朝、一郎は嘉助を誘い登校する。二人は、「三郎」の父が仕事の計画が変更して会社から呼ばれ「三郎」は父に伴われて転校したことを先生から聞かされる。「やっぱりあいつは風の又三郎だったな」と嘉助は叫んだ。風はまだ止まず、窓ガラスは雨にうたれてガタガタと鳴っている。


 この作品のみどころは「あいつは風の又三郎」という嘉助のことばを信じなかったが、次々におこる出来事と三郎の少し変わった行動と結びつけて、それを信じてゆく、子供の心理が描かれその点の絶妙さにある。現実と超現実とがわかちがたくからまっているところに限りない魅力がある。

         「忍ぶ川」しのぶがわ

 三浦哲郎 みうら・てつお        (昭和三五年発表)

   

 「私」は東北出身の大学生で、東京の西北にある私立大学に通っており、山の手の国電の駅近くにある料亭(忍ぶ川)で、そこで働く「志乃」と出会った。二人はいつしか互いに愛し合うようになる。「志乃」も不幸な出自で深川のくるわにある射的屋の娘として育ち、母はすでに亡く、病に臥す父と兄妹は栃木で貧しく暮らしていた。深川へ「志乃」と初めて出掛けた日に「私」は素直に家のことを語る「志乃」の告白に触れ、「私」の恥多き家庭の不幸を手紙に書いて「志乃」に告げる。「私」の兄姉の次々に続いた自殺と失踪の暗い血の宿命を告白し「私は、かつて私の誕生日を祝ったことがありません。その日が、なんだか私たちきょうだいの衰運の日のような気がするからです。」と書いた。「志乃」はその返事にたった一行「来年の誕生日には、私にお祝いさせてください」と書いてよこした。「私」は、そうした「志乃」の深情に触れ、ますます「志乃」に没頭した。そんな時「私」は「志乃」に婚約者がいることを知り「なんとしても志乃を奪いとらねばならぬ」と決心した。「志乃」も破談に賛成してくれた。

 秋のおわり、「志乃」の父の容態が急変した。ひと目、父に会っていただきたいと言う「志乃」の願いに応えるべく「私」は栃木の家に向かった。「志乃のことはなにぶんよろしゅう」と喘ぎながら言い「志乃」の父は死んだ。その年の大晦日、「私」は「志乃」をつれて「私」のふるさとに向かった。出迎えた父と母と姉がささやかであるが心のこもった結婚式をあげてくれた。その雪の夜、雪国の習慣だといって二人は素っ裸になって抱き合った。豊かな新婚の夜であった。

 翌朝、近くの温泉への一泊の新婚旅行の汽車の中から「私」のふるさとの家を見つけた 「志乃」は「ね、見えるでしょう。あたしのうちが!」 と興奮して叫ぶのだった。


奥野健男は記す。「『忍ぶ川』は、昭和の名作のひとつとして、人びとにながく愛され、いつまでも繰り返し読みつがれて行く作品であろう。(略) 『忍ぶ川』一作と共に、作者は後の世の、かなしく、弱く、美しい人びとの心の中に生き続けるに違いない。樋口一葉の 『たけくらべ』、鈴木三重吉の『千鳥』、中勘助の『銀の匙』 中村星湖の『少年行』……などのように。

夜明け前」よあけまえ

       

島崎藤村  しまざき・とうそん      (昭和四〜十○年発表)

 

 「木曾路はすべて山の中である。」この一文から始まる「夜明け前」は藤村最後で最大の長編である。藤村の父、正樹をモデルにした主人公「青山半蔵」 の一生を縦糸に、黒船来航ら明治一九年までの維新史を横糸にダイナミックにつづった近代歴史小説であるとともに、自伝的な藤村文学の集大成である。

 馬籠(まごめ)は木曾十一宿の一つで、西から入る木曾路の最初の宿場である。青山半蔵は、この馬籠で庄屋・本陣・問屋(といや)を兼ねる青山吉左衛門の長男に生まれた。生まれてすぐ生母と死に別れた半蔵は、幼い頃より憂鬱の気が強く、考え深いその目は不幸な村民に向けられていた。嘉永六年、浦賀の沖に黒船が来航したという噂がこの馬籠にも届いたとき、半蔵は二三歳になっていた。

 妻籠(つまご)宿の本陣の娘お初と結婚した半蔵は、江戸に上り、国学平田派の門人となった。もともと向学心が強く、山里にあっても国学や漢学を学んでいたのである。平田派門下となり、本居(もとおり)国学を学んだ彼は復古思想に心酔し、黒船という外からの脅威に対して「自然に還れ」と考えるようになり、勤皇の運動にも関心を寄せる。しかし、年老いた父の跡を継いだ彼に本陣・問屋・庄屋としての仕事は重く肩にかかり、実際の運動には参加できず、庄屋として誠実を尽くそうと思い定める。歴史は激しく動き、ついに大政奉還、王政復古がなり、半蔵はより善い古代への復帰を思い、新しい歓びにひたった。(第一部)

 明治維新を迎え、半蔵は期待に心を躍らせていたが、新政府の政策はことごとく彼の夢を砕いていく。混乱の後、江戸は東京と改められ、本陣も庄屋もなくなり半蔵は戸長となる。木曾の山林もすべて官有地となる。半蔵は嘆願書を出すが、戸長職が免職になっただけだった。「御一新がこんなことでいいのか。」半蔵は無念の思いをかみしめる。家庭でも、娘のお粂が結婚のもつれから自殺未遂事件を起こす。半蔵は憂国の歌を記した扇を天皇の行列に「投進」し、罪にとわれたりもした。その翌年、長男の宗太に家督を譲り、飛騨の神社の宮司になり、四年ほど過ごして、故郷に帰ってくる。青山の家は既に屋台骨が揺らぎ、財産も整理することになる。次第に半蔵に異常な言動が目立ち、ある日菩提寺に放火して、精神の変調を言われ座敷牢に入れられた。明治一九年、半蔵は憂悶のうちに五六歳で生涯を閉じたのである。(第二部)


 作品中の半蔵は、子息の教育にも熱心で、明治一四年、五一歳の時、三男森夫と四男和助を東京に遊学させている。この和助が島崎藤村その人。藤村が上京したのはわずか九歳の時である「夜明け前」は馬籠の島崎家の隣人大脇信興(おおわきのぶおき)の書き残した「大黒屋日記」を大いに参照したという。

       「金色夜叉」こんじきやしや

 尾崎紅葉 おざき・こうよう    (明治三〇〜三五年発表)

 

 高等中学の生徒である間貫一(はざま・かんいち)は早くに親を亡くし、鴫沢(しぎさわ)家に引き取られて養育され、一人娘の「宮」とは許嫁の間柄で、相思相愛の仲であった。しかし、ある時、宮は銀行家の息子富山唯継に見染められて、プロポーズを受けていた。そして、鴫沢夫妻も宮も、富山家の莫大な財産に目がくらみ、幼馴染みの貫一を裏切って富山からの求婚を受け入れてしまった。

 貫一はこれに憤激し、宮を熱海の海岸に呼び出して、その富山との婚約を破棄するように、懇願するが聞き入れられなかった。これに絶望した貫一は宮を足蹴にすると、それ以来、家にも戻らず行方をくらます。そして、前編最終部分が、あの有名なセリフになるわけである。

 「一月の一七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか! 再来年の今月今夜の……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ」。

 こう言い切って、貫一が取りすがる宮を足蹴にするのである。その後、宮を見返す決意を回めた間貫一は、高利貸しの手代となるが、暴漢に襲われて怪我をしたり、店の主人夫婦が放火で焼死したり、心和むことはない。一方の宮も、良心に苛まれ、富山を深く愛することができず苦悩しながら、富山にも見捨てられてしまう。やがて宮から貫一の下へ詫びの手紙がしばしば届くようになるが、はじめ貫一は見向きもしない。しかし、ある夜、「宮が自殺し、自分がその宮を許す」 という夢を見たことから、貫一の心境も徐々に変わりはじめ、富山に見捨てられた哀れな宮のいまの境遇を知ってからは、彼女の真情を訴えている手紙を読むようになつた。


 この小説は連載途中で紅葉死亡のため、ここで未完となった。紅葉の残した覚え書きでは、その後、貫一と宮は結ばれる予定であった。そこで門下の小栗風葉は、その覚え書きを基に 「金色夜叉終編」 として続きを書いたが、これは蛇足に終わった。

  「老妓抄」ろうぎしょう        

岡本かの子 おかもと・かのこ        (昭和十三年発表)

 老妓「小その」は「平出園子」が本名である。永年の辛苦で一通りの財産もでき、座敷の勤めも自分の自由がきくようになったここ一〇年ほど、健康的な生活を好むようになり、和歌や排句を習ったりしている。遠縁の娘「みち子」を養女にして女学校に通わせ、勉強をさせて喜ぶようなところもあった。老いはしたものの未だ好奇心が旺盛で、母家を改築して「文化的な電化装置」を取り入れたりしている。新しい文明の利器があると、彼女は電気屋を呼んでそれを買い、壊れると修繕してもらっては、そのメカニズムを楽しんだ。

 その電気屋の蒔田がある時「これから、この男が来ますから…」と言って連れて来た若い快活な青年が「柚木(ゆずき)」であった。彼は「修繕などつまらない。発明をして専売特許をえることにいろ気がある」 と言った。新しもの好きの老妓は、柚木の発明への意欲に共感して家作の一つを工房にして住まわせ、援助することにした。柚木は最初は喜んで工房で発明に取り組む。それが思いどおりにいかなくなるとしだいに虚無的になり、老妓から貰った金でぶらぶらと遊んで暮らすようになった。

 老妓は仕事でも恋愛でも「一途な姿を見たい」と、自らの願望を柚木の人生に仮託したわけだが、柚木が焦りを見せると、焦ることは無いと言い、仕事でも恋でも「一揆で心残りないものを射止めなさい」と、若者の創造への意欲に賭けるのである。柚木はその期待に息苦しくなり、その家からしばしば脱走を試みる。それでも老妓は「年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり」と歌い、悲哀多くしてしかも華やかな心境であった。


 岡本かの子は、岡本一平の妻であり、あの「芸術は爆発だー」と叫んだ岡本太郎の母である。一平がまだ二二歳の画学生のときの結婚で、翌年太郎が生まれたが、それからの一〇年は売れっ子漫画家の夫と妻が激しくぶつかり合う「魔の時代」であった。しかし、一平が明治以来のポンチ絵とは異なる現代漫画を確立し、かの子が原始仏教に興味をもつに従って、家庭は安定した。

    「千羽鶴」せんばづる

川端康成 かわばた・やすなり         (昭和二四年発表)

                            一

 「三谷菊治」は、亡父の愛人栗本ちか子の茶会で、鎌倉円覚寺の茶室に出かける。「菊治」の父親はちか子のほかに太田未亡人とも関係があった。友人の太田が死亡し、未亡人の相談相手になっているうち結ばれたのである。そのときちか子は激しく嫉妬し、自分の事はさて置いて「菊治」の母親にわざわざ注進してきたこともあった。それで「菊治」の父親とちか子との関係は切れたが、その後、父親の援助をがっちり手にして現在のちか子は茶道の師匠として独立していた。「菊治」の父母亡き後、ちか子は「菊治」の家に出入りしてあれこれ世話を焼いていた。今日も茶会で「菊治」に見合いの話を持ってきていた。相手の令嬢の稲村ゆき子は美しく、千羽鶴のちりめんの風呂敷を持って茶会に出ていた。「菊治」は心惹かれる。また、その席には太田未亡人が、娘の文子と来ていた。未亡人は「菊治」をみつけると、なつかしがり、茶会の帰り、待っていた未亡人と「菊治」は、父の話をするつもりで旅館に入り自然に結ばれる。

「菊治」は初めて女知ったように思い。自分の男の目覚めに驚いた。だが、娘の文子は母の行動を抑えようとし、また「菊治」に母と会わないように訴える。ちか子は「菊治」とゆき子を結婚させようとし、太田母娘を遠ざけようと画策する。憔悴した太田未亡人が「菊治」を訪れ、父の茶室で再び関係を持つ。だがその翌日に、夫人は睡眠薬で自殺してしまう。夫人の初七日が過ぎ、文子の家を訪れた「菊治」は、文子にその母の面影を見、形見に志野の水差しをもらった。

しばらく後、母愛用の志野の茶碗を持って訪れた文子は深く沈んでいた。夏に、菊治は、勤めに出はじめたという文子と、父の茶室で関係を結んだ。「菊治」は、今までの醜さから生きかえった思いがした。その夜、文子は「母の形見」 として「菊治」に手渡した志野の茶碗を、それが「最高」のものでなかったという理由で、つくばいに打ちつけて割ってしまった。翌日、文子の間借りしていた家に出向いた「菊治」は、文子が姿を隠したことを知った。帰途、死は足もとにあるといった文子の言葉が思い出され、文子の死を予感し、血の気が失せるのだった。


 父のの愛人だった女との妖しい恋愛感情、またその娘の純愛、その微妙で錯綜した恋愛関係は、「源氏物語」の世界をも想起させる。 この小説の題名である「千羽鶴」は、茶会において「菊治」の見合いの相手、稲村ゆき子が持っていた、千羽鶴の模様の風呂敷に由来する。ゆき子に、「令嬢のまわりに白く小さい千羽鶴が立ち舞っていそうに思えた」の章句に表現されるように純潔な存在の象徴となっている。それは「永遠」のおとめの具象でもあった。この作品は昭和二八年に吉村公三郎監督により映画化された。

      「銀の匙」ぎんのさじ

中 勘助 なか・かんすけ   (大正二年発表)

 

 主人公の「私」は引き出しの中に一つの「小箱」をしまってある。その中にある「珍しい形の銀の小匙」 のことだけは忘れたことがない。「私」は生まれつきからだが弱く、腫れ物がよく出る体質だった。漢方薬を飲むとき「普通の匙では具合が悪い」というので、わが家に同居中で母親代わりだった伯母さんが探してきて、その匙でいつも薬を飲ませてくれたのである。

「私」は母が産後の肥立ちが悪かったために、未亡人の伯母さんの手で育ったのだが、彼女は「私」を育てることが唯一の楽しみだった。信心深い伯母さんはいろいろな物語を話してくれた。

 健康のため神田から小石川の高台に引っ越してくるが、引っ込み思案の性格の「私」は外にも出なかった。そこで、伯母さんは遊び仲間を探してくれ、隣家の「お国さん」が 「私」 の最初の友達である。やがて小学校に入学。不勉強のため「私」は実に出来の悪い生徒だった。間もなくお国さんは引っ越してしまう。

学期の終わり頃、隣家に別の人が越してきた。その家には、「私」と同じ年の「お恵ちゃん」という美しい女の子がいた。同じ学級になったお恵ちゃんは、「私」の成績がびりなのを知って、馬鹿にする。それを悔しく思った「私」は、勉強するようになると、身体もめきめきと強くなり、級長になる。お恵ちゃんと「私」は親しく遊ぶようになったが、彼女の父親が亡くなり、また引っ越していった。(前編)

「大和魂」を言いたてる担任の教師や、厳格に教育しょうとする兄に反発する早熟な「私」は絵を描くことや、自然に親しむことに慰めを見出していた。伯母さんも亡くなってしまう。

 一七歳の夏、親友の別荘に行ったが、そこで友人の美しい「姉様」に出会った。しかし、恥ずかしさがこみあげてきてろくろく口をきけないまま、別れを迎えてしまったのだった。(後編)

 幼少年時代を描いた作者の自伝的小説である。


 「銀の匙」の前編が書かれたのは、明治四四年の夏、作者二七歳のときである。この原稿を送られた漱石は、この作品が、子供の世界の描写として未曾有のものであること、描写がきれいで細かいことなどを指摘して賞賛したという。漱石の推薦で『東京朝日新聞』に連載され、中は作家として認められた。後編は大正二年に書かれ、漱石はいっそう高く評価した。

  「ヴイヨンの妻」

太宰治  だざい・おさむ  (昭和二二年発表)

 

 私が病弱の坊やに添い寝をしていると、いつものように深夜、夫が泥酔して帰宅した。それを追って来た飲み屋夫婦を刃物で脅し、夫はすきを見て家を飛び出していった。私は、この飲み屋夫婦から夫の行状について知らされる。飲み屋の主人の話によると、夫は、今は長屋の汚い部屋で乞食みたいな暮らしをしているそうだが、実際は、ご身分が凄い。四国のある殿様の別家の大谷男爵の次男で、いまは不身持ちのため勘当させられているが、いまに父親が死ねば、長男と二人で財産をわけることになっている。頭が良くて天才というものだ。二一で本を書いて、それが石川啄木という大天才の書いた本よりも、もっと上手で、それからまた十何冊だかの本を書いて、としは若いけれど日本一の詩人ということになっている。そして夫はこの三年間、金も払わずに酒を飲んだ挙句、今夜はこの夫婦の売り上げ金の五千円を奪ったというのである。これまで、何回か警察に訴えたいと思ったが、連れて来た女が支払ったりしてなんとか事なきを得てきたが、今度という今度は我慢ならないと飲み屋の主人がいうのを聞き私はなぜかおかしさが込み上げて来て、夫の詩にある「文明の果の大笑い」というのはこんな気持ちかしらと考えた。なんのあてもなかったが、明日私がなんとかしますから、警察沙汰にだけはしないようにとたのんで夫婦に帰ってもらった。

 翌日、私はその店をたずねて、働くことになった。私は店に来る客の人気者になったが、店のひけどきになって、夫が女を連れてやって来て五千円を払ったので、私は引き続いてその店で働いて、この三年間の夫の借金を返すことにした。「椿屋のさっちゃん」となった私は忙しかったが、夫は時々顔を出し、一緒に楽しく家路をたどることもしばしばあった。

 しかし、正月末の雨の夜、送ってもらった店の客に明け方、私はあっけなく手に入れられてしまう。その日、夫が店に来たが、新聞で作品が非難されたことが残念そうであった。私は夫が、五千円を持ち出したのは、今だからいうけど、去年の暮れにさっちゃんと坊やにいいお正月をさせてやりたいと思ったからだというのを聞いたが、格別うれしくもなく、「人非人でもいいじゃないの。私たちは生きてさえいればいいのよ」といった。

 太宰は友人への手紙で「本気に『小説』を書こうとして書いたものです。」と言っている。自信作でもあり、また事実、太宰の作品の中でも最高のものである。


 フランソワ・ヴィヨン(一四三一頃〜一四六三頃)はフランス中世の最大の詩人。殺人事件や窃盗事件に関係し、度々入獄する。人間性の愚かさや悔恨の情、苦い哄笑に満ちた作品を残している

 明治書院企画編集部編参考 

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