薩摩の猫マクドとマック続マクドとマックたぬきの話  ●「ヤマンバ.ガングロ」いずこ三猿の話あそぼうよ大阪人の原形(河内の民話)アニミズムと回転寿司屋  

薩摩の猫

 わが故郷、鹿児島の話である。藩主島津公の別邸跡仙巌園に「時計塚」というのがあるそうな。西南戦争の時、西郷隆盛が時刻を知るために猫を何匹か従軍させたという。「猫の目が変わるように」などというたとえがあるように、猫の目の虹彩は縦型になっていて、光が当たると細く、暗い所では丸く変化する。そこで、携帯出来る時計がなかった時代のことだから、猫の目を日に当てて時計代わりにした。複数の猫が従軍したようだがすべて名誉の戦死を遂げた。その猫をどうやって戦場へ移動したのだろう。実吉達郎氏の本には「お時計衆」が一人一人籠に猫を入れて背負ったとあるが。この猫達を祀ったのが「時計塚」らしい。これはある新聞で見た記事だ。

  なんかおかしい? 

   

 だって日本の藩の中でもっとも文明国で金持ちの薩摩の国の西郷どんが時計を知らないなんておかしい。その頃。外国からだって入ってきてただろうし…

 仙巌園に早速尋ねてみた。「いいえ西郷さんではありません。十七代義弘公が朝鮮出兵(文碌の役)の時の事、やはり、猫の目の虹彩を見て時を知るために七匹連れて行って二匹生還。その猫達を城山に祀ったが、その後、仙巌園に移したのです。時計塚ではなく『猫神』と申します。」との答えが返ってきた。

 猫の瞳の瞳孔の開き具合を「六つ丸く五七卵に四つ八つは柿の核なり九つは針」と詠んだ古歌があるらしい。

 かってわが家に、猫好きの夫が一匹の猫を連れてきた。その後、六匹に増えて、動物嫌いの私は多いに世話に悩まされた。猫とて生き物。食事やトイレはどうしたのか。またキャツらがおとなしく籠に入っていたはずはない。猫の目で正確に時間がはかれるのだろうか。「お時計衆」は戦争より猫との戦いだったかもしれない。

 島津軍は猫達の功績により「鬼石蔓頭(おにしまづ)」と敵兵から恐れられ、華々しい功績を挙げたと言われる。

「時計のかわりになった猫」 田中祥太郎著もある。

マクドとマック

「いねいねと言われ田を指す関東人」 先日、娘がこの川柳を見て笑った。大阪育ちで関東に住んでいたからわかったのだが、話によると関東と関西ではいろいろと違って面白いそうな。最近はテレビなどの影響があって共通化したものもあるが、うどん屋(関東では大概、ソバ屋)で「たぬき」を注文する と、大阪では油揚げののったソバが、東京では天カス入りのソバが出てくる。「おもろいなあ-」と二三、 聞くと「肉」と言えば関西では牛肉を指し、関東では豚肉を指すらしい。関東では鶏肉を「かしわ」と言 わない。「がんもどき」と「ひろうす」もそうだ。ハンバーガーの「マクドナルド」のことを大阪 の子供達は「マクド」と言い、東京は「マック」。東京の喫茶店で「冷コー」を注文し、そんなものは無 いと言われた。私も東京で「ぜんざい」を注文して変なものを出された経験がある。それからポリの灯油缶の色が違う。関西は青で関東は赤。赤い灯油缶など関西ではあまり見ない。先日東京で注意された事、駅のエスカレーター「急ぐ人」は東京は「右」、関西は「左」なのに・・・。醤油やインスタント ラーメン、それに納豆も関西向けと関東向けで味を違えているが、食品メーカーは東西の味覚の違いを掌握しているのかなー。大阪はカッターで、東京はYシャツ うなぎとまむし それも背開きと腹開き ばらずしとちらしすし 夏のかき氷の蜜のかけ方が違うよ まだまだ話は続いたがこの辺で・・・


 「マクド」と「マック」

 上記の「マクド」と「マック」を見た友人が大谷晃一氏の夲を送ってくれた。それによると、原語はMacDonaldだから、マックが正しい。ところが、大阪ではマクドと言う。しかも、「ド」にアクセントを付ける。東京の若者は、これをダサイと軽蔑しているらしい。そしてミスター・ドーナツは東はミスターで、西はミスド。モスバーガーは東がモス、西はモスバ。ケンタッキー・フライドチキンはどちらもケンタだが東はケに、西はタにアクセントを付ける。

 なるほど、東は軽快で歯切れがよい。きりっとして、知的である。おしゃれで通っぽい。西はもっさりして鈍重で、間が抜けたところがある。大阪は耳に入ったまま、とにかく三音にする。身近で庶民的な訳し方をし、東京のように格好をつけない。大阪は自分の身体に消化してそれを受け入れている。

 次は、東西で味付けを変えているカップ麺の話。日清食品の「きつねどん兵衛」は関西味は、薄口醤油で昆布味。色はやや薄い。関東味は、濃口醤油でカツオ味を利かす。面白いことに、日清食品で東西の味を分けているのは、このきつねに限られている。

 エースコックは「天ぷらきつね」だが、これにOとTが小さく印刷されている。Oは大阪向き、Tは東京向き。同社は他に「イカの焼そば」「力うどん」に味分けしている。

 これらの境界線は、おおむね三重県の名張から岐阜県の関ヶ原を通り、富山県を経て新潟県の糸魚川までとなっている。名張などでは、流通の関係でどちらも買える。実は、静岡市と糸魚川を結んで南北に大地溝帯(フオッサ・マグナ)が走り、さまざまな東と西の文化の違いをつっくている。きつねの味の境界も、この地溝帯に近い線上にあるとのこと。


「たぬきの話」

 きつねうどんが大阪で誕生したのは確かだ。明治十年頃が有力。信太ずし、一名いなりずしが先にあった。油揚げを三角に切って飯を入れる。その油揚げをうどんに応用した。きつねうどんが大阪で愛されたには、なんといっても安くて、うまいからである。きつねうどんは高級な店でも屋台でもひどく味が違うわけではない。

 東京のだしの色はどす黒い。辛い。濃口醤油そのものの味。大阪のきつねは最後の一滴までも惜しんで汁をすする。

 きつねと言えば「たぬき」と来る。日本中どこでもきつねを注文するとうどんの上に油揚げが乗って出てくる。ところがたぬきは全国区ではない。大阪のたぬきはそば台のきつねに決まっているが、隣の京都はきつねうどんにあん掛けしたものをいう。東京のたぬきは揚げ玉(天カス)をのせたうどんである。大阪では立ち食いうどんの店にこの天カスを丼に盛り上げて、タダである。が 東京は”かけ”と”たぬき”の間に三十円から五十円の差がある。東京人の何んというがめつさか。きつねはあるが、たぬきは九州ではなかなか見つからないとか。小倉で「ハイカラうどん」と名前が化けていたという。明治の終りごろ東からたぬきが九州にやって来た。東京からおいでなさったからハイカラだと錯覚したのだろうとの説。そう言えば我が故郷、鹿児島にたぬきがあったかな。国分市に居る弟に聞いてみたら「たぬきは知ってる」と言う。しかし考えてみたら彼は大阪に住んでいたのだから知ってるのは当り前だ。「調べておく」と言ったまま、まだ返事はない。 

「ヤマンバ・ガングロ」いずこ

 毎月、大阪天満橋で「山崎雪子源氏物語」を聴講している。その後の「お茶の時間」にHさんが「ヤマン バ・ガングロは驚くものでない、日本には昔、お歯黒や眉を剃る習慣があったのだから、出るべきして出てきた風俗」と、この話題になった。なるほど、「源氏物語」の時代、藤原氏は美貌の娘に皇子を産ませ、その後見役として政治の実権を握った。美は権力に直結してた。当時流布した仏教思想は醜さは前世の悪行の報いとし、道徳的な罪悪と結びつけられ、軽蔑の対象。だが「源氏物語」には「醜」の登場人物 をも描く。末摘花、空蝉、花散里と物語にはなくてならない人々だ。「醜」は「美」とともに人間に不可決なのだ。現代の画一的な「美」の基準に風穴を開けた十代の「ヤマンバ・ギャル」「ガンクロ」「ヨゴ レ」と呼ばれる少女達。何とも不思議な化粧。日焼けサロンで焼いた黒い肌、目と唇だけを白っぽく彩るメーク、白に近いメッ シュの髪、厚底靴の彼女たちは、従来の「美」の常識からは、軽々と身を翻している。自分に起きたあらゆる出来事を、不快なものも含めて、「私、ヨゴレだもん」と笑って容認して一種の開き直りを見せる。大人の社会からの「いい子」や「かわいい子」の規範から身を守り、行動の自由を確保するバリアだったのか。

 美白という言葉がある。美は白とセットなのだ。色の白いは七難隠すとも言われているのに、あえて顔を黒くする。少しでも見場をよく、かわいらしく装うためだったはずの化粧を、わざと不気味にしてしまう。十五センチはゆうにある厚底の靴を履いてさらに身長を一気に伸ばす。これまで、長身の女の子は、男の子より大きくならないように気を使って、ヒールのないペツタンコの靴を履いたりしていたのに、厚底は一気に男の子を抜いてしまう。ヤマンバたちは、おおむね女の子同士でいた。男の子にぶら下がっている姿はあまり見なかった。これまでの、かわいい、好ましい、美しいといぅイメージの、全部逆張りで闊歩(かっぽ)していた。

 ヤマンバギャルは、何からか自由になろうとしていたんだろうか。私も内心では応援してたのかもしれない。社会の常識を破って自由になりたいと誰にでも一度や二度は思う事もある。

 一度、厚底でコケたヤマンバを見た。誰も手を貸そうとしない。ギュッと足首を掴み、ちょっと顔をしかめた彼女は、ひとりで立ち上がり、痛そうなそぶりも見せずに歩いていった。その後ろ姿に、思わず「よ−し」と心の中でエールを送ってしまった。

「まったく、近頃の女の子は・・」という非難を一身に集めて、いたく評判が悪かった彼女たち。 ところで最近、町中にヤマンバはいなくなった。もう、三段逆張りで意地を張らなくてもいい世の中になったのか、それとも敗れ去ったのか、ちょっと気になるところである。

  

三猿の話

 目、耳、口を手でおさえた、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三頭の猿をセットとしていて、日本語で否定形をあらわす「さる」と猿の語呂あわせがもととなって創られた人形だ。日光東照宮の三猿は有名なので、三猿は日本固有のものと考えられがちである。しかし、海外の土産物屋で三猿を売っている。三猿は東アジアから東南アジア、南アジアをへて、アフリカ、ヨーロッパ、さらにアメリカにまで分布するが、さすがに偶像を禁止するイスラーム圏には普及しない。

 邪魔なものを、見聞きするな、口外するな、という三猿のしめす教訓も場所によってニュアンスを変えている。アメリカのキリスト教の日曜学校では、三猿の像をもちいて、ポルノなどを見たり、うわさに耳を傾けたり、うそを言ったりしないように教育するという。ヨーロッパやアフリカでは「見ろ、聞け、言え」という積極的な教訓に解釈した三猿がある。股間に両手で隠した猿を一頭つけくわえた、四猿の人形も各地でつくられている。非道徳をつつしめという「なさざる」である。

 猿がいないという朝鮮半島やヨーロッパでも、三猿がつくられているというのも変な話。 日本が三猿の起源地であるという説が有力だがそれがどうして世界に広まったのだろう。

「遊ぼうよ」

 私が子供の頃は、どこからか、「遊びましょ」などという呼び声がよく聞こえてきた。遊びたい相手の家の前まで行って「何々ちゃん、遊びましょ」とか、「遊ぼうよ」などと、どなる。のどかな時代の話。

 近ごろの子供は、電話をかけて遊びの予約をするのだろうか。あるいは、遊ぶひまもないくらい忙しいのか。あの牧歌的な呼び声を耳にすることがなくなった。多分、遊びの場が横町や原っぱから幼稚園や学校の中などに移動したのかもしれない。

 では、数人の子供が遊んでいる場合、そこに入って一緒に遊びたい子供はどういう行動をするのか。仲間入りしたい子供の行動は日本と欧米とでは違うそうだ。欧米の子供は、遊びに入れてもらいたい時、まず断られる可能性の少ない行動から始める。遊んでいる子供たちの周囲をうろついてから、その集団の行動をまねたり、その遊びにふさわしい言葉を発したりする。

 日本の場合は初めから「入れて」という、特有のリズムと音調を持った儀式的、定型的な言葉をよく使う。しかもこの方法による成効率が高い。欧米の子供たちには、こういう定型的、直接的な表現はないという。いきなり入れてくれと言うのは、断わられる確率が高くて危険なのだ。仲間入りの技能には上手下手の個人差があり上手な子供はつきあいがうまく、人気があると思う。

   北河内の民話を考える

(大阪人の原形)

 かっての大阪府北河内郡に広く伝わる民話の一つである。京阪電鉄「大和田」駅東北二○○米のところには千数百年前に築かれた日本最初の築堤、茨田堤(まんだのつつみ)のなごりで、いま門真市だけに残る貴重な遺跡がある。 茨田(まんだ)は枚方から森小路におよぶ広い地名だ。

 古代の淀川は、現河道より南方、旧茨田郡の中央を流れており、この頃、河内は絶えず洪水に見舞われ、人びとは困り果てていた。低湿地帯の集落を、水害から妨ぐために、茨田堤が築かれる。時代は仁徳天皇の頃で、茨田堤の完成によって、北河内地方の農耕文化が、急速に発展したことを伝えている。

 古代淀川の流れは多くの中州の間を数流に別れて流れていた。茨田堤はこれら左岸の堤防である。この茨田堤築造に「日本書記」にも記されている物語があった。

 工事は難航した。堤には二ケ所どうしても水勢が激しくて決壊する。ある夜、仁徳天皇の夢に神が「武蔵の人、強頸(こわくび)と河内の人、茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)を人柱に立てよ」と告げる。二人はさがしだされ、強頸(こわくび)は泣き悲しみながら水に入って死に、一ケ所の堤防は出来た。

 衫子(ころもこ)は、堤防の切れ目に立ち、瓢箪を水中に投げて、そんな事は信じられない。本当の神ならこの瓢箪を沈めてみよ。沈められなかったら、「にせの神だ」とさけんだ。つむじ風がたちまち起こって、瓢箪は沈まず、波の上を流れ去った。彼は助かり、やがて、堤もでき上がった。

 衫子(ころもこ)の絶間(たえま、決壊場所をいう)は寝屋川市太間附近、強頸(こわくび)の絶間は大阪市旭区千林附近で千林町二丁目に強頸(こわくび)の絶間(たえま)の碑がある。

 ときは五世紀の前半で、神のお告げや占いは絶対だった。武蔵の国の強頸(こわくび)は嘆き悲しんだがこれに従い命を失う。だが地元の衫子(ころもこ)は神など信じない。瓢箪は口をふさぐと沈まないのも知っている。まんまと死を免れた。それは、近代にも通じる実証主義、合理主義である。この昔話から、いかに大阪の人の智恵が進んでいたか、そして、この様な大工事をする高度な技術を当時の人が持っていたことを証明する。これらの土木工事が摂津や河内で盛んに行われ、大阪はどんどん開けていった。

 もう一つ、茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)は天皇が夢に見た神のお告げに堂々と反論し、権威を恐れず、また、命令を自分に有利な方向に解釈して実行するしたたかさで自分を守り抜いた。勇気ある古代の河内の男である。そこに大阪人の原形をみる。

 古代から時が流れると考え方も変わるだろうか。中世にもう一人の河内の男を考える。楠木正成は、戦前の日本歴史最大のスターであった。尽忠報国の手本として礼讃されたが、敗戦とともに無駄死にをしたように言われ忘れられていく。古代の衫子(ころもこ)と共通しているのは、智恵あり、賢く、そしてしぶとさ、したたかさであった。やはり、そこにも大阪人の原形をみる。しかし、彼は最後に潔く美しく死のうと決意した。さわやかな、思い切りのよい中世の河内の男である。

 さて、河内の民話から、大阪人の原形を考え、現代の大阪の男性はと思ってみた。日本中が共通化され、智恵あり、賢く、そしてしぶとい本来の大阪の男はどの位いるだろうか…。

アニミズムと回転寿司屋

  先日、上本町のアウイナー・ホテルで短歌「橙」の座談会が開かれ「短歌とアニミズム」についての話がなされた。アニミズムは短歌では沢山に取り入れられており、「短歌朝日」でも「アニミズムとはなにか」と特集を組んでいる。この中で穂村弘氏が、今の自分がアニミズム的な世界とは正反対の場所にいて、その場のエネルギーにどっぷりと浸ってることを痛感させられる。としてその反アニミズム的なエネルギーと呼ぶものを簡単に表現するならば寿司屋を回転寿司屋に変える力であるとして次の様な文が書かれていた。


 現在、回転寿司屋は隆盛を極めている。新宿や渋谷の繁華街には幾つもの回転寿司屋があり、真夜中に若いカップルの行列ができている。だが、数十年前の、正常な(?)寿司屋しか知らなかった時代の人間がみたら、回転寿司屋とは、悪夢のなかの光景そのものではないだろうか。

 そこではさまざまな色の皿に乗った寿司がくるくると回っている。トロやイカやヒラメやイクラに混ざって、鴨肉や茄子や(なんだかわからないもの)の寿司が回っている。プリンやヤクルトやプラスチックの玩具が回っている。「おすすめインドマグロ」「カニ汁」などと書かれた(紙)が回っている。外国人客が「ワサビクダサーイ」と叫んで、小皿にてんこ盛りのわさびをもらっている。同じく外国人の店員に手元に残った皿の種類と枚数をチェックされ、カタコトの「アリガトゴザイマース」に送られて店を後にする。

 本物の悪夢がそうであるように、回転寿司屋もまた、人間の心や欲望の反映なのだろう。目の前の寿司の流れをみているうちに、ウイスキーのミニポトルや煙草や栄養ドリンクやビタミン剤や女の子の写真や男の子の写真や誰かの恋文や遺書が流れて来るような気がする。いや、それらのうちの幾つかは実際に回っていたように思う。

 回転のすしに置きたる文違ふ女(め)にとられしと嘘のよな話    岩田正

 タコ来(き)穴子来(き)タコ、タコ来(き)海老来(き)稲荷も来(き)ねこいらず来ずショーユも来(く)  小池光 

これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ  小池光

 この歌では、そのような(回転寿司屋的変容)に対する拒否感がユーモラスに表現されている。だが面妖な「サラダ巻」をパスして昔ながらの「河童巻」を求める心とは、思いのほか真剣で、同時に儚いものであろう。作者にはこの現実世界における「サラダ巻」的な面妖さの加速が実感されているはずだ。

 寿司屋を回転寿司屋に変容させる力のなかに、人心の荒廃や堕落を読みとることは簡単だが、間題はその裏側にリアルな必然性のようなものが張り付いていることである。少なくとも私には、回転寿司屋の繁栄の理由を自らの心のなかに見出すことができる。

 現代では悪夢的だということがすなわちリアルなのであり、そのリアルさこそが、対極にあるアニミズム的な世界から生命力を奪っているものの正体だろう。ふたつの世界を根本的に分けるものは死の受容に対する感覚の差のように思われる。回転寿司屋とは死を拒否してゾンビ化した寿司屋ではないだろうか。


 アニミズムと回転寿司屋との組み合わせが面白い。私自身は、まだ、街にちらほらと出来出した頃に珍しさもあって行ったが どうも回転寿司屋は馴染めない。かっては寿司は特別な日(来客やお祝いの日)に食べたものだったと思う。寿司の来る日は嬉しい日だったはずだ。それを回転寿司屋は変えてしまった。やはり正常な(?)寿司屋で正常な寿司を食べたいと私は願っている。

 そもそも近年のアニミズムについての関心は、現在を覆う回転寿司屋的な発想に対する反動なのか。

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