青森の旅〜金木町と斜陽館〜

2001年/8月・神須屋亭主人


「斜陽館」へ

 三内丸山遺跡を出た我々は、青森市街へは寄らずに、金木町へ向かうこと
にした。東北自動車道の終点である青森ICを越えて国道7号線へ入り、い
ったん、青森方面へ向かい、市街地へ入る直前で左折した。油川あたりで更
に左折して「津軽あすなろライン」へ入った。
 ナビゲーターの僕としては、入ったつもりだった。「るるぶ」の地図には
そう書いてあった。でも、左折した地点にも、入った道路にも、そんな標識
はどこにもなかった。
 道路の両側には森が迫っていた。10分以上走っても、一台の車とも行き
かわなかった。ちゃんとした舗装の道ではある。でも通行量ゼロ。さびしい。
だんだん不安になってきた。やっと、一台の車が向こうからやってくる。そ
の後は、また無人の山中の道に戻った。この道は、津軽半島の根元近くを横
断する道路で、行き先は五所川原市だ。そのはずだった。地図通りならば。

 途中、不動滝という所へ出た。キャンプ場があった。この時、はじめて、
この道が「津軽あすなろライン」そのものであることが確認できた。本当に
ほっとした。五所川原市街はもうすぐだった。

 車は、五所川原市街へ入る直前、津軽飯詰というところで右折した。金木
町への近道である。自分たちの現在位置を確認できたので、僕は、もう余裕
しゃくしゃくで、ゆっくり景色を楽しむことができた。車は、津軽鉄道に沿
って北上する。道の両側はりんご園だった。紙袋で覆われたものや、青いリ
ンゴが多いが、中には真っ赤なりんごが満開の木もある。遠くから見ると薔
薇の花のように見えた。

 国道に合流する。「太宰のふるさと金木町」という大きな文字が目に入っ
た。その横に太宰治の大きなレリーフ像が建っていた。しばらく走ると、赤
い屋根の大きな建物に気づいた。人だかりがしている。よく見ると、「斜陽
館」という看板が立っている。その前には、広い駐車場があった。その周辺
は、金木町の一大観光センターだった。斜陽館の前には金木町観光物産館が
あり、その横には津軽三味線会館があった。本当に観光地だった。

 今回の青森旅行の最大の目的は、この斜陽館に入ることだった。太宰の読
者にとっての聖地巡礼である。巨大な建物だった。誰かが、旅館にでもする
しかない巨大さと形容した。事実、この建物は、津島家が手放して以後、し
ばらく、旅館として使われていた。「斜陽館」という名称は、その時につけ
られた。その後、町が買収して、平成10年に太宰記念館としてオープンし
た。赤い鉄板葺の屋根に赤煉瓦の塀。赤の色彩が強烈な印象を放つ建物だ。
明治40年の建築。太宰の父親が建てた。莫大な建築費がかかったという。

 全館に青森産のヒバを使った。ヒバとは、あすなろの事だそうで、檜より
も高価なのだそうだ。和洋折衷の豪邸である。洋室は、青森県有数の資産家
であり、貴族院議員だった、太宰の父、源右衛門が、東京からの賓客を泊め
るために造ったという鹿鳴館風の豪華なものだった。よく宴会が開かれたと
いう和室は、ただただ広大である。ふすまを開けると、4つの部屋がひとつ
の大広間になる。だが、何よりも驚くのは、玄関土間のだだっぴろさ。普通
の家なら、この土間の敷地内に収まるだろう。ここには、秋の収穫期になる
と、小作人たちが持ち込んだ米俵が山のように積まれたという。蔵は三つあ
った。そのひとつが、いま展示室になっていて、太宰の原稿や遺品などが展
示されている。子供の頃、太宰は、この蔵の前でよく遊んだそうだ。

 今回の旅行を企画してから、少しだけ予習をした。その中で、朝日新聞青
森支局の記者が書いた「津島家の人びと」が面白かった。今、ちくま文庫に
入っている。この連載記事の主役は、太宰治ではない。特定の主役のいない
津島家の年代記なのだが、あえて一人、主人公をあげれば、それは太宰の長
兄、津島文治だろう。

 津島文治は、源右衛門、たね夫婦の産んだ、11人兄弟の3男として生ま
れたが、上の兄ふたりは幼少の頃に死んでいるので、津島家の総領息子とし
て育てられた。後に太宰治となる修治は10番目の子で、父、源右衛門が建
てた広壮な屋敷に一家が移ってから、始めて生まれた子供である。当時、総
領息子とそれ以外の子供との身分の違いはとても大きかった。これだけの大
きな家でありながら、修治には、自分のための部屋が与えられなかったとい
う。
 病弱の母と厳しい祖母、優しい乳母の存在、父親の急死と父親代わりの兄。
汗牛充棟の太宰研究書の数々が好んで語る、一種の「貴種流離譚」がここか
ら始まる。太宰治の39年の生涯は物語に満ちている。

 しかし、太宰の話は後にして、まず津島文治のことだ。父、源右衛門が東
京で急死した時、文治は早稲田大学を卒業したばかりだった。よく引用され
る有名な文章だが、ここでも引用しよう。太宰治は、第一創作集「晩年」に
収められた短編「思い出」にこう書いている。

「父の遺骸は大きい寝棺に横たわり橇に乗って故郷に帰って来た。私は大勢
のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の蔭から幾台
となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しい
と思った」

「津島家の人びと」によると、その夜、弔問客の波がひいた津島家の大広間
に、文治と、年老いた爺やの与助の二人が残った。家人はみな寝静まってい
た。柩の前で、二人はしばらく黙っていたが、やがて文治の肩が小刻みにふ
るえ出し、与助の膝に突っ伏した。「これからどうやっていけばいいのか。」
与助が、文治が泣くのを見たのはこれがはじめてであり、以後、二度となか
った。

 若くして大きすぎる責任を負わされ、文学青年だった津島文治としてより、
金木の貴族である、津島家の家長として生きることを余儀なくされた兄と、
溢れるような才能を持って生まれながら、自分の居場所が見つからない弟と
の、長くもあり、短くもあった葛藤の物語が始まる。それが、なんとも面白
いのだが、これから先は、「津島家の人びと」を読んでください。繰り返さ
れる太宰の自殺や心中さわぎに、文治がいかに振り回されたか。これまで、
太宰の側からだけ語られてきた物語を、文治の側から見直してみるのも意味
があると思う。

   津島文治は、若き金木町長を振り出しに、最年少の県議となり、戦後は民
選初の青森県知事、衆議院議員、参議院議員などを務めた。まずは申し分の
ない人生を送ったことになるが、戦後の農地解放により財産をなくし、父の
建てた巨大な屋敷を手放すことになる。政治家としての文治の地盤は、今、
太宰治の娘婿である津島雄二氏が継いでいる。


戻る 太宰治へ