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第2日目(富良野→滝川→モエレ沼公園→札幌)
■ニングルテラスとSoh's BAR
新富良野プリンスホテルには「ニングルテラス」という森の中のショッピン
グロードが隣接していた。これは、「北の国から」の原作者である脚本家、倉
本聡さんがプロデュースしたもので、ニングルとは森に住む小さな森の番人の
ことだという。森の中に木の歩道が行き交い、その道を挟んで小さなログハウ
スが点在している。そのログハウスのそれぞれが手作りの商品を商うお店にな
っていた。夜、それらの店店に灯りが点くと、北欧のおとぎ話の世界のような
幻想的な雰囲気になる。いかにもニングルが出てきそうだ。紅葉の季節、ある
いは雪の季節にも素晴らしいだろうなと想像できた。僕たちは、昨夜の内に、
この「ニングルテラス」にある喫茶店でコーヒーを飲んだ。実は、この「ニン
グルテラス」も「北の国から」の撮影場所になっている。雪子さんが、この店
の一つで働いているという設定だった。
 
2日目の朝、ホテルで朝食を済ませて、富良野を発つ前にもう一度「ニング
ルテラス」へ行った。なにか土産を買おうと思ったのである。結局、鋳物の店
で、キタキツネを型取った栓抜きを買った。朝の「ニングルテラス」は爽やか
だった。思いついて、朝の散歩をかねて、森の奥にあるというSoh's BARを
見物することにした。Soh's BARは倉本聡さんが林の中につくった隠れ家の
ようなバーの名前である。中には、倉本さんの書斎を模した一角があるそうだ。
五郎の石の家と同じ素材でつくられている。もちろん、朝に行っても、中に入
れないのはわかっていた。夜に一人で歩いたら淋しいだろうなと思える林の中
を何分か歩いた。Soh's BARは林の中にひっそり建っていた。玄関の看板には
「For miserable smokers」とあった。倉本さんはどうやらかなりの愛煙家
らしかった。それにしても、倉本聡さんとプリンスホテルの関係は相当深いよ
うだ。芸術家とパトロンという関係だろうか。ま、そんなことはどうでもいい。
「北の国から」という素晴らしい贈り物を我々に与えてくれた倉本さんには、
大いに感謝したい。そして、できればまた続編を。
 
■富良野から札幌へ
富良野から、国道38号線を北上して、滝川まで走った。旭川へ向かう237
号線とは違って、この道沿いには観光地はない。途中、芦別、赤平というよう
な町を通過した。北海道の家は、大雪対策のためか、急な傾斜のトタン屋根の
家が多い。どの町にも人気があまりなく、貧しげな景観だった。北海道経済の
近年の沈滞ぶりを連想させた。でも、車中のラジオから聞こえてくるのは、ア
テネ五輪での日本選手の活躍であり、今年から札幌へ本拠を移した日本ハムの
新庄選手活躍の話題であり、甲子園で快進撃を続ける駒大苫小牧高校の活躍だ
った。ラジオの中の北海道は元気だった。
滝川で道央自動車道へ入った。ここからは南下して札幌へ向かう。この高速
道路は北海道の幹線道路のはずだが、あまり交通量はなかった。側壁のある高
速道路ではあるし、左手奥には夕張山地が迫っているので、視界が開けず、大
平原の中を疾走するというわけにはいかないのは残念だったが、快適なドライ
ブだった。美唄、岩見沢といったICを通過して、札幌の手前、江別西ICで高速
道を降りた。
■モエレ沼公園
高速を江別で降りたのは、札幌市の北東部にあるモエレ沼公園に行くためだ
った。モエレ沼公園は、そもそも、今回の北海道旅行を企画するきっかけにな
った場所である。話は昨年の11月に遡る。数年前から少しずつ四国八十八カ所
巡礼を進めている我々夫婦は、1泊2日で、高松市周辺の寺数カ所をまわった。
その時に、石の町、牟礼町へも行った。牟礼町は、イサム・ノグチが仕事場を
持ち、長年暮らした土地だった。その仕事場の跡は、現在、「イサム・ノグチ
庭園美術館」の日本分館になっている。予約しないと中に入れないので、その
時は外観を見ただけで帰ってきたのだが、旅行から帰ってから、ドウス昌代さ
んの名著「イサム・ノグチ」を読んで、ますますイサム・ノグチへの関心が高
まってしまった。イサム・ノグチの名前は、特に、大阪万博の噴水のデザイン
や、和紙を使った<灯り>シリーズなどで、日系の著名なアメリカ人彫刻家と
して、昔から親しいものだったが、イサム・ノグチの遺作としての「モエレ沼
公園」の名前は、このドウス昌代さんの本で初めて知ったのである。

今年の2月に、本屋で立ち読みしたり、時々買ったりしている建築愛好家向
けのグラビア雑誌、「BRUTUS Casa」が、イサム・ノグチの特集号を発行し
た。今年はイサム・ノグチの生誕100年の年なのである。イサム・ノグチの
ファンだという歌手の宇多田ヒカルの写真を表紙に使ったこの雑誌は、イサム
・ノグチの生涯と業績を要領よく、美しい写真とともに紹介していて、とても
参考になった。宇多田ヒカル自身が訪れた「庭園美術館」の紹介と写真も掲載
されている。でも、僕がこの雑誌の記事で最も関心を持ったのは、16年もの
歳月を経て、今年完成するという「大地の彫刻」モエレ沼公園の写真と紹介だ
った。これは、何としても見に行かねばならない。というわけで、今年の夏の
旅行先に、僕は北海道を提案し、家内にあっさりと同意された。

予想通り、モエレ沼公園は広大だった。あまりに広いので、レンタサイクル
のサービスがあった。早速借りたのだが、生憎、大人用の自転車は出払ってい
て1台しかなく、僕が借りたのは、チャイルドシートがハンドルに付いた特殊
自転車だった。バランスが悪くて漕ぎにくい代物だった。しかも、普通の自転
車より100円高い、2時間300円だった。まず、ガラスのピラミッドへ行
った。ルーブルのガラスのピラミッドを連想させる建造物だ。中にイベントホ
ールや事務所、売店がある。レストランもあったので、昼食をとろうと思った
が、料金が高かったので、テイクアウトの弁当を買って、園内の芝生の上で食
べることにした。弁当はなかなか美味しくて、木陰に吹く風は心地よかった。

昼食後、ガラスのピラミッドに戻って、ホールで開催中の催し、「イサム・
ノグチ、ランドスケープへの旅」を見学した。イサム・ノグチ生誕100年の
記念催事であるこの展覧会は、ノグチがボーリンゲン基金の支援を得て、19
49年から8年間、ヨーロッパ、エジプト、インド、東南アジア、日本などを
回った時のノグチ自身が撮影した各地の遺跡写真等を中心に展示したものであ
る。この時のノグチの研究テーマは「レジャー環境の研究について」というも
のだった。この研究は結局ものにならなかったが、この一連の旅は、イサム・
ノグチの芸術家としての人生に大きな転機をもたらした。
イサム・ノグチは、1904年、詩人、野口米次郎と野口のアメリカにおけ
る秘書のような存在だったレオニー・ギルモアとの間に生まれた。野口はレオ
ニーと結婚せず、イサムを認知しなかった。日本に帰った野口を追って、レオ
ニーとイサムも来日したが、父親は二人を拒絶し、日本人女性と結婚してしま
った。レオニーは教師をしながらイサムを一人で育てる。14歳で単身渡米し
たイサムは、父親代わりの保護者を得て、コロンビア大学医学部に進んだ。こ
の時に、父と同姓である野口英世の知遇を得る。だが、イサムは医学の道を選
ばなかった。選んだのは、ギルモアに代わるノグチの姓と、彫刻家への道だっ
た。自分を拒絶したままの父親だが、国際的に高名な、父の野口という姓は、
若く無名のイサムにとって、将来を切り開く武器になることを冷静に判断した
のである。イサム・ギルモアは、イサム・ノグチになった。
彫刻家としての才能に溢れたイサム・ノグチは、日米混血のエキゾチックな
顔立ちと神秘的な魅力にも富んだ男だった。女性にもてまくった。その生涯に
登場する女性たちは、フリーダ・カーロ、アナイス・ニンら、名前をあげるだ
けでも、実にきらびやかである。しかし、大不況から第二次世界大戦に至る時
代は、日米混血であるイサム・ノグチにとって辛いものだった。かれは強制収
容所に入り、日本のスパイの疑いをかけられる。そのようにして、時代は過ぎ
た。母レオニーは、貧しいまま、既に戦前に亡くなっていたが、愛憎半ばする
父、米次郎が戦後まもなく亡くなる。
今回の展覧会の元になった、イサム・ノグチの旅が始まるのは、それらがす
べて終わってからのことである。イサム・ノグチは既に中年の男になっていた。
これら一連の旅の最中である1950年、イサム・ノグチは19年ぶりに来日
して、戦後の日本美術界に大センセーションを巻き起こす。なにしろ、日系で
あるのにも関わらず、戦勝国、アメリカを代表する彫刻家の一人なのだ。この
時、イサム・ノグチは、父の祖国である日本に受け入れられた事を実感した。
後に離婚するが、日本女性、山口淑子と出会い、結婚したのも、この時期であ
る。しばらく、北大路魯山人が提供した家で新婚家庭を営んだ。今回の展覧会
には、そんな幸福だった頃の山口淑子の写真も何点か展示されている。イサム
・ノグチが四国、牟礼に仕事場を持ったのは、これから約20年後、大阪万博
の直前だったが、その遠因は、この時期に建築家、丹下健三と出会ったことに
ある。ドウス昌代さんの本で知った、そのようなことをいろいろ思い出しなが
ら、この展覧会の展示の数々を感慨深く眺めた。

見学の後、公園内を自転車で一周した。まさに「大地の彫刻」だった。今ま
で見たことのない風景だった。ここは未来の都市で、人間達は地下に住んでい
るのではないかと幻想した。公園はまだ未完成だった。中央大噴水とモエレ山
の工事が続いていた。グランドオープンは来年だという。あれ?今年完成じゃ
なかったのと思って、帰ってから調べたら、「BRUTUS Casa」の記事には、
小さい文字で、グランドオープンは2005年とちゃんと書いてあった。どうや
ら、施設が完成するのが年内で、正式オープンは来年ということらしい。やれ
やれ、また何年か後に見にこないといけない。
さて、ここで問題がある。果たして、このモエレ沼公園はイサム・ノグチの
作品と呼べるのだろうか。確かに、公園のグランドデザインは、イサム・ノグ
チが1988年に描いた。でも、彼はそれからすぐに亡くなっている。今、目の
前にある公園をイサム・ノグチは一度も見ていない。いったい、彼はどんな構
想を残したんだろう。この公園は、彼の構想をどの程度忠実に実現しているの
だろう。考えれば、いろいろと疑問は湧いてくる。でも、そんな疑問は、この
途方もない公園を見れば、どうでも良いことだというのも実感だった。

■札幌
札幌市内へ入った。宿舎のチェックインの時間までには間があったので、前
回、12年前に札幌に来た時にはまだ存在しなかった札幌ドームを見学しよう
と思った。地図を見ると、札幌ドームは市内南部、羊ヶ丘公園の近くにある。
南に向かって車を走らせた。前方に巨大な宇宙船のような札幌ドームが見えて
きた。さらに近づいた。標識に従って車を右折させ、駐車場の入口を探した。
だが、駐車場の進入路は封鎖されていた。札幌ドームは休日だった。中に入れ
ないのだった。仕方なく、ドームを周回して、また市の中心部へ戻った。その
まま、この夜の宿舎である札幌プリンスホテル・タワーの地下駐車場に車を入
れた。
部屋に荷物を置いて、すぐに外へ出た。12年ぶりの札幌である。前回は、
道庁の横にあるホテルに2泊して、北大構内のポプラ並木や時計台など、主な
観光地はだいたい見て歩いた。すすきのにも、ラーメン横丁にも行った。今回
は新しいスポットを見物しようと、僕が選んだ先は、なんと札幌駅ビルだった。
前回と同じく、移動には地下鉄を利用した。札幌駅ビルを見たいと思ったのは、
半分は、職業的な興味からである。大丸がテナントとして札幌に進出して、札
幌の小売業界や消費者トレンドに変化をもたらしているという、新聞やテレビ
の報道に接して、一度、現地を見たいと思っていた。もうひとつは、建築ある
いは街並みウオッチングという、僕の長年の趣味からであった。
札幌の駅ビルは巨大だった。百貨店やホテルがテナントに入ると、巨大にな
らざるを得ない。駅ビル自体がひとつの都市になるのが、最近の傾向だ。札幌
駅ビルには、大丸とホテルの他に、ショッピングセンターもある。ここを主に
見て歩いた。全体の印象は、東京の新しい丸ビルに雰囲気がとてもよく似てい
るということだった。インテリアの洒落た趣味や、通路のゆったりとした広さ、
店舗や商品の構成に至るまで、似ているなと思った。東京と札幌の違いはない。
札幌は同じ大都市でも、大阪より東京に似ていると思った。入った喫茶店の客
層や、紅茶の値段も東京と変わらなかった。夕食をとるため入った寿司屋は、
全く東京風だった。ただ、寿司のネタが新鮮で美味しかったにも関わらず、東
京の寿司屋よりかなり安かったことだけが、違いだった。

大丸で、札幌土産のロイズの生チョコを、クール宅急便で岸和田の自宅に送
るように手配した後、札幌駅から、職場帰りのサラリーマン達で賑わう街を歩
いて、大通公園に出た。札幌の中心部は、いかにも大都会らしい風格がある。
電柱が地中化されているのと、広い歩道と、よく育った並木のせいだ。誰だっ
たか、都市の格は、並木の大きさで表されると言っていたが、札幌は、日本で
もトップクラスの都市だろう。大通公園は、そんな札幌の象徴のような場所だ
った。夏祭りをやっていた。久しぶりに大通公園にやってきたので、ここで観
光客らしいことをする事にした。屋台でトウモロコシとジャガイモの蒸かした
のを買って食べたのである。家内がトウモロコシ、僕がジャガイモだった。美
味しかった。ああ、札幌へ戻って来たんだという感慨があった。噴水の水しぶ
きが心地よかった。その後、公園で開催されていた骨董市をひやかしながら、
とうとう、ホテルまで歩いてしまった。大通公園の中には、イサム・ノグチの
作品、<ブラック・スライド・マントラ>が設置されてあった。子供達が乗っ
て遊んでいた。
 
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