下伊那における柴崎芳太郎の仕事

はじめに

茶臼山方面の三角点を訪れるようになって、点の記に柴崎芳太郎の名前を見つけたときは意外な感じがした。劔岳方面での仕事は小説・映画でおなじみだが、下伊那でも測量を行ってたのは知らなかったのだ。
そこで下伊那周辺の配点図を調べて、柴崎の冠字である「景」のものを拾い出してみた。あわせて、その地域の二等三角点も抜き出した。その結果をまとめたのが下図である。△記号は柴崎のもので、すべて三等三角点。◎記号は二等三角点で、選点は松本音松(冠字は「呂」)である。北端の「雨堤」と南端の「岩伏」は南北に16キロ、西端の「老沢」と東端の「千本立」は東西に15キロ離れている。

例:「景1 岩伏」 「景」は冠字、数字は選点番号で、「岩伏」は点名
下伊那の三角点網 景1 岩伏
景2 家ノ島
景3 大舟山
景4 丸山2
景5 畑ヶ洞
景6 苅安
景7 三方ノ根
景8 大平
景9 老沢
景10 洞
景11 高峰
景12 合川
景13 桐山ノ根
景14 十六本ノ根
景15 千本立
景16 雨堤
景17 梨木
景18 売木峠
景19 井ノ口
景20 牛ヶ鼻
景21 猪古里
景22 川北山
景23 大笹
景24 細野
景25 大倉
景26 月ヶ平
景27 才ノ神

呂1 三国
呂2 代立
呂3 稲橋
呂4 木戸ヶ洞
呂6 坂宇場
呂7 茶臼山

下伊那周辺の三角点、一等から三等へ

三方原基線の測量から始まって出来た一等三角網だが、図の下伊那の周囲には四つの一等三角点がある。茶臼山を基準にしてみると、北(24キロ)の恵那山、東(22キロ)の熊伏山、南(26キロ)の白倉山、西(23キロ)の出来山である(点名は山名と同一、また熊伏山と出来山は補点)。明治13年から28年にかけて、選点・埋標された。これらの一等三角点を基に、二等三角点が松本音松の選点・埋標により、明治35年に設置される。なお、周辺(図の外)にも「呂○」の二等三角点が同時期に設置されている。そして、これらの成果を基に、三年後の明治38年に柴崎芳太郎の選点で1から27の三等三角点が設置されたという訳である。なお、その翌年、柴崎は劔岳周辺の下見をして、翌々年の明治40年に測量を行った。

一等三角点(恵那山・熊伏山・白倉山・出来山)の選点・埋標 明治13年〜28年 
二等三角点の選点・埋標 明治35年 松本音松
三等三角点の選点・埋標 明治38年 柴崎芳太郎

選点番号と27という数字

劔岳周辺の三等三角測量の時、柴崎は劔岳に登頂したものの、三等三角点を設置することは出来なかったので、正式記録としての点の記は残せなかった。この時の冠字選点番号は「景1」の「真川」で始まって、「景26」の「佐布谷」で終えている。そして、97年後の2004年、劔岳山頂に三等三角点「劔岳」が設置されるのだが、柴崎の冠字「景」を用い、冠字選点番号は「景27」を付与された。下伊那での「景1」は「岩伏」で「景27」の「才ノ神」で終えている。この選点番号というのは、選点の順番のことなのだろうか?

小説「劔岳 点の記」では「柴崎測量官が残した公式記録の三等三角点の記のうち、選点の日付が一番早いのが、この気和平である。」と書かれている。しかし、さきほど述べたように「景1」は「真川」であり、「気和平」は「景4」である。また、小説のほうでは「西大谷山の選点を最後として予定の二十四ヶ所の選点を終わった。」とあるが、「西大谷山」は「景25」で、実際にはもうひとつ「景26」の「佐布谷」がある。

インターネットで公開されている冠字「景」の点の記(注.参照)で、劔岳周辺のものを見ることが出来るのは27のうち5ヶ所(「劔岳」は除く)だけ、下伊那のほうでは逆に見ることが出来ないのが27のうち5ヶ所である。それらを調べると、冠字選点番号と日付の順序は一致していないが、下伊那は日付順のものが多く、基本は選点順なのだろう。

劔、下伊那ではたまたま最後の選定番号が27であった。小説「劔岳 点の記」には白地図を縦横約20キロで区画割して、その一つを柴崎に割り当てたというシーンがある。三等三角点の設置間隔は約4キロだというから、一区画で25ヶ所となり、27という数は妥当なところだ。松島湾のほうでも柴崎は選定しているが、そちらでは「景40」(点名「蛇島」)というのもあった。松島湾方面での担当区画は平地もあるので、もっと広く割り当てられたということだろうか。

注. 国土地理院のサイト>基準点・測地観測データ>基準点成果等閲覧 (2010.6.18時点)


妻、葉津よの実家

映画「劔岳 点の記」で宮崎あおいが演じた柴崎芳太郎の妻は「葉津よ」という。月刊「測量」誌(2009.5)に掲載された「伯母 柴崎葉津よの思い出」によれば出身は下伊那郡羽村小川の出身であるという。羽村というのは根羽村の誤りだろう。図の「22 川北山」(鉢盛山)のすぐ南東側の谷間が小川だ。見て分るように、実家はこの時の測量区域のほぼ中央に位置している。
小説の「劔岳 点の記」を読み直してみると、その実家のことも書いてあった。葉津よの実家は根羽村の素封家で、柴崎が測量官として滞在(葉津よの実家に滞在したのかは書かれていない)しているときに、葉津よの父に認められ、その年の秋(この下伊那の測量を終えてすぐ)に見合いをした。そして翌年東京で結婚し、上野お玉ヶ池の近くにあった葉津よの祖父の屋敷の離れを新居にしたということだ。


「熊伏山」点の記をめぐって

一等三角点(補点)「熊伏山」の点の記によると、選点は明治27年に舘潔彦が行い、埋標は明治28年に柴崎芳太郎が行っていた。この舘潔彦、どこかで耳にしたと思ったら、三方原基線の測量絵図の下書きを描いた測量士ではないか。この人は一等三角測量を担当して、「アルプスから九州、四国、中国、北海道、そして千島の果てまで日本国中の山野を跋渉し」「測量技術者としてよりも登山家の中で有名」(ともに地図測量人名辞典による)ということだ。柴崎より26才年上であり、熊伏山選点の明治27年の時点で、柴崎は18歳、舘は44歳だったことになる。

しかし、この「熊伏山」の点の記、どうもあやしい。舘潔彦の選点というのは、他の資料にもあるので間違いないだろう。問題は柴崎の埋標だ。ネット検索していたら、あらたな資料が見つかった。月刊「測量」誌(2009.4)の「それからの柴崎芳太郎(上)」である。これによると柴崎は明治37年に陸地測量部修技所を卒業して、翌年にここで述べた下伊那の三角点測量をしているのだ。熊伏山の埋標を明治28年に柴崎が行ったというのはあり得ない。

このことを2010年6月9日、国土地理院に指摘したら、六日後に回答があった。この点の記はワープロ化したもので、後に作り直されたものなのだか、その時、明治38年を28年と写し間違えていたそうだ。そして明治38年の埋標というのは、実は改埋で、それを柴崎が行ったという。もともとの埋標は明治28年で、古田盛作だったそうだ。古田盛作は、映画「劔岳 点の記」では役所広司が演じていた。 話が古田盛作にそれてしまったが、ここで紹介した下伊那の三等三角点網を完成させる仕事の中で、一等三角点「熊伏山」を改埋する必要が生じて、それを柴崎が行っていたということだと思う。

柴崎芳太郎
1876年(明治9年)8月13日 - 1938年(昭和13年)1月29日

舘潔彦
1850年(嘉永3年) -1903(明治36年)


更新日:2018年11月14日 作成日:2010年6月8日 低山(mail:woodpecker35jp@yahoo.co.jp)