君はいかにして民間療法(健康食品)の信奉者となりしか?

(98.3.15)

民間療法の中には効果の証明されているものや証明されつつあるものもある。あるいは一部の健康食品は健康に有益かもしれない。しかし、巷の民間療法や健康食品の宣伝文をみると、医者の目から見て明らかにインチキであると分かるものが多い。しかしそれでもその効果を信じて疑わない人たちが存在する。何故であろうか?一部は他で解説したプラシーボ効果で説明できる。しかし何故彼らがそれほどのめりこんでしまっているかについては別の理由があるのだ。即ち、人々はすでに備わった性向のために信じてしまう場合があるのである。その仕組みについて、最近の認知心理学は興味ある情報を提供している。私は、T.ギロビッチ著、守 一雄、守 秀子訳「人間この信じやすきもの」を材料に、何故人は効果のない民間療法や健康食品を信じてしまうのかについて考えてみた。

この本では、まず次の2点について心しておかなければならないといっている。
1)人が誤った考えをもってしまうのは、正しい事実に出会っていないからと言うわけではない。
2)だまされやすい人や頭の悪い人が誤った考えをもってしまうわけではない。

実は、通常は物事を知るのに効果的な方法でも、それに頼りすぎたり、その適用を間違えたりするなら、誤った考えを持つことになってしまうのだ。自分はだまされることなどないと考えない方がよい。
さて、上記の本の内容を元に、どのようにだまされてしまうかについて私なりに解説してみよう。


さて、ここに本来何の効果もない民間療法Aがあるとする。医学的に言っても、その理論はめちゃくちゃだし、効くという臨床データもない。(これはあくまでも作り話であり、特定の民間療法を想定しているわけではない。「民間療法」を「健康食品」と置き換えても良い。実際、いくつかの民間療法はその効果が証明されている。別の項目を参照されたし。) ある人物B氏は最近腰痛に困っていた。かといって、医者にかかるのもおっくうだし、できれば簡単に治したい。すると、彼はある日、新聞の折り込み広告に、民間療法Aがでているのに気がついた。そこには腰痛に劇的に効いたという体験談が出ていた。費用はやや高いが、出せない程度ではない。しかも、その治療院は自宅からそう遠くもない。彼は、ダメもとと思って試しに一度体験してみることにした。仕事の都合でぐずぐずしているうちに数日がたってしまった。しかし、以前よりいくらかよいものの、まだ腰痛はある。彼はその民間療法Aを受けに行った。そこの施術者は意外と優しい人で、彼の愚痴も聞いてくれながら、治療をしてくれた。すると翌日から何となく腰痛がひけてきたような感じがした。その数日後には、腰痛がなくなった。彼は、以外とこの民間療法は効くのだなと思った。

効かないはずの治療が効いてしまう、これは良くみられる現象であり、プラシーボ効果と呼ばれる。しかし、効きもしない治療法が効くと信じられてしまう原因は他にもある。人は、本来無秩序である物事に、何らかの秩序や意味、パターンを見つけずにはいられない。日常生活ではこのように物事の法則や因果関係を見いだすことにより、行動の能率を上げたり、危険を回避している。従って、これはやむを得ない性癖なのだ。しかし、まかり間違えば、関係のないものも関連づけてしまう。病気になったのはあのときあんなことをしたからだ、とか、前世の報いだとか。上記の場合も、放っておいても腰痛が治ったかもしれないのに、民間療法Aを受けたばかりに、「民間療法Aを受けたから腰痛が治った。」と結論づけてしまったのである。しかも、放っておいても腰痛が治ったという他方の経験をすることは不可能であるため、正当にその治療効果を評価する方法がない。(効果があったかないかについては、民間療法を受けた場合と受けない場合とを比較するしか、判定のしようがないのである。)


さて、どうも彼は腰痛が持病(あまり科学的な言葉ではないが)であるらしく、その1ヶ月後にも腰痛が出てしまった。あの民間療法が効いたことを思い出し、さっそく出かけた。すると数日後には腰痛はなくなった。そこで彼はその民間療法の効果をさらに信じるに至った。

さて、ここで考えなければならないのは、自然の変化や回帰現象である。物事には自然の変動がある。慢性的な病気であれば悪いときもあればよいときもある。物事が極端に振れれば、元に戻る現象が起こる。たいして頭の良くない私であっても、たまたまヤマがあたれば、試験の点数がよいときもある。しかし、年中ヤマがあたるわけではないので、その次にはまたもとの成績に戻る。上記の場合も、腰痛が出たり、引っ込んだりしたにすぎないのだが、腰痛が出る度に、その民間療法を受ければ、元々進行性の病気でなかったため、治ってゆく。こうして、彼はその民間療法を信じてゆくのである。


彼は何回か、その治療院に通っているうちに、そこにきている客とも知り合いになった。その客は、慢性の頭痛と肩こりに悩まされており、ここに通うようになってよくなったという。彼は、頭痛にも効くのかと、その民間療法の効果に驚いた。その治療院では他にも何人かいろいろな病気に効いたという体験談を聞いた。彼は次第にその民間療法の信望者になっていった。

ここで注意してもらいたいことは、この治療院に行く人は、その民間療法が効いたと信じている人だけである。たとえ、十人に一人しか効かなくても、その治療院にはその一人だけが行くわけだから、治療効果は100%ということになる。彼は、その民間療法が全く効かず、その治療院に通わなくなった他の9人を知らない。このため、彼はすごい治癒率だと信じてしまうことになる。彼はこの治療法が効果的であると信じ始めているために、どうしてもそれを確認するような質問をし、それに見合った回答が得られると、満足するのである。しかも、もう一つ注意しなければならないことは、治る病気がいろいろあることである。この治療法は腰痛だけに効く、というだけでは患者の数が限られてしまう。腰痛にも頭痛にも膝の痛みにも、肝臓にも・・・というふうに病気の数を増やしていけば、全体の患者数が増えるのである。腰痛に効いた人が十人に一人、頭痛に効いた人が十人に一人、肝機能のよくなった人が二十人に一人、というように増えていけば、いかにも何にでも効きそうだし、すごい治療法だということになる。実は、このことは何にも効いていないことの裏返しなのだ。新聞の折り込みチラシには、毎日のようにいろいろな体験談ののった健康食品の広告が混ざっている。一つの病気の体験談だけをいくつも集めるより、ずっと簡単なのだ。
かの本には以下のように書いてある。
「何をもって仮説を支持する証拠とするか厳密に決められていない限り、お気に入りの仮説を支持する証拠をいくらでも見つけることができる。」
しばしば、民間療法や健康食品の宣伝文句には、「健康」、「快調」、「心身の調和」、「体質改善」などの反証不可能な効能効果を掲げ、どのような病気に対しても効果があるとうたっているものが多い。


その民間療法をすっかり信じ込んでしまった彼は、たまたまその民間療法を受けたことのある友人にあった。友人はめまいを繰り返していたため、知人に勧められていたその民間療法を受けてみたという。しかし、効果がなかったので一回行ったきりであったという。彼は、「あの民間療法が効かなかったのは、一回だけしか行かなかったからだろう、何回か通えばきっと治ったんじゃないかな。」と友人に言った。その友人は、彼があまりにその民間療法に心酔していることに気づき、それ以上その民間療法にはふれないことにした。やがて、彼もその友人がその民間療法を受けたことなど忘れてしまった。

ここで注目すべきは、人は自分の考えに会わないものを排除する傾向があることである。しかも、考えにあうものは詳しく詮索することなしに受け入れてしまうが、あわないものはその考え方の欠点を詮索し、その問題点がある故に、友人の考え方が間違っていると解釈する。結果的に自分の考え方が正しいという結論に達する。否定的な見解をもっている友人は、自分の意見が否定的にとらえられるために、さらにその話題に触れなくなる。B氏の意見に肯定的な考えをもっている人は、積極的にそのことを話題にする。その結果、彼は都合のよい情報だけが選択的にはいるようになるのである。しかも、都合のよい情報は記憶に残りやすく、都合の悪い情報は忘れられやすい。その後、話は口伝てに広まってゆくが、効果についての話は次第に誇張され、大事な部分であっても細部は省略されてゆくのである。そして次第にその民間療法の効果は注目されることとなる。


ギロビッチは本の中で次のような警告を発している。

私たち、特に自分は客観的であると思っている人は、次の事実を自覚する必要がある。客観的であると思っていることは、実は錯覚であるかもしれない。
人は、
  1. 推論過程が当面の目標によって影響されていること。
  2. 関連する知識のうちの一部だけを考慮に入れているにすぎないこと。
  3. 目標が違えば、違った推論規則や違った信念が考慮されていたかもしれないこと。
  4. 状況が変われば、全く逆の結論が正しいとされるかもしれないこと。

に気づかないのだ。
[ 「メインページ」へもどる ]