本蒔絵青貝螺鈿桐の花図煙草入れ蓋物盆付

 「本蒔絵青貝螺鈿桐の花図煙草入れ蓋物盆付」・・・いやはや凄い命名である。骨董が好きで安物を集めだした頃は物しか見なかったが、これは何に使ったのだろうとか、意匠への興味から少しずつ本をめくるようになった。骨董とは名前からして難しいものだと思った。単なるそばチョコが「古伊万里染付七宝繋ぎ格子文蕎麦猪口」となる驚きを、何だ単に技法と文様を適当に組み合わせただけじゃないかと思えるようになったのは、書籍のおかげかもしれない。まぁ書籍の知識だけで眼は養ってもらえないのも確かだが、そこから得るものも多く無下に否定することもできない。

 「本蒔絵青貝螺鈿桐の花図煙草入れ蓋物盆付」という圧倒される名前も、つまりは物の説明文の要所を題名として羅列したようなものである。「蒔絵」とは漆で描いた文様が生乾きの間に、金銀の粉末を様々な方法で塗布したものである。「青貝」とは鮑貝、夜行貝などを薄く削ぎ落としたもの。「螺鈿」とは漆等の表面を図柄通りに切り抜いて、そこに先の青貝等の貝類の細片(勿論こちらも文様通りにしたもの)を埋め込む、一種の象嵌技法のこと。「桐の花」については、2004・7/11の「思いの儘の記」で触れておりますので、興味のあるかたは読んでみてください。以下「煙草入れ蓋物盆付」とは状態そのままのものだから説明も要しないであろう。骨董に馴染んだ方には何を今更の講釈となってしまいましたが、私が骨董を集め始めた頃の戸惑いを思い出した話と、笑読していただければとおもいます。

「本蒔絵梨地薺図 古伊万里錦手火入れ煙草盆」  

 蒔絵で薺(なずな)の絵柄が表現されています。なずなは春の七草のひとつですが、ペンペン草とも呼ばれその辺に観られる野草です。「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」とは芭蕉の句ですが、古伊万里の裏面に走り書きれたタンポポや、蕎麦猪口に描かれた薊などの野の草花をみると、当時の人達の優しい眼差しが伝わってくるようです。

 例によって難しい名前が付いていますが、タバコ盆と伊万里の火入れです。煙草盆は側面の段々からも想像できるように、ここに煙管を置きました。箱の中にはへそくりも入れたのでしょうが、定番過ぎて貯まったためしはなかろうと思います。火入れは、灰の中に炭を埋めて、つまり火種として埋め火をしたものです。本来は灰吹き(主に竹製)もあったのでしょうが・・・・・次の骨董市で探してみます。

会津塗り 小椀

会津塗りについては、「会津漆器共同組合」(http://www.chuokai-fukushima.or.jp/aizushikkikumiai/)の「会津塗りの歴史」のHPに、 「室町時代、この地方で力のあった一族が、漆の木を植えることを奨励したのが始まりです。安土桃山時代に、近江の武将が会津を支配することになり、近江の漆器職人を呼び寄せ、その技法を会津に広め、漆を使った工芸の養成と技術の進歩を図ったため、会津の漆器作りは一気に産業化されました。その後、京都から蒔絵技術を取り入れ、着実に発達し広まっていった会津塗は、江戸時代中期には幕府の許可を得て、海外輸出を試みるまでになりました。明治維新の混乱で一時産地としての力が弱まりましたが、その後再び活気を取りもどし、最盛期を迎えました」と歴史的背景が説明されております。

 漆などの塗り物については、絵画技法などに応用が効くものとして、大変興味を持っておりました。平泉の金色堂で知られる岩手県には、「秀衡塗」がありますが、共に菱形の金箔が印象的です。調べてはいませんが、何らかの共通項があったのかもしれません。そしてそれらは、塗り物に限らず、着物のの意匠や絵画、陶磁器への絵付けなどに相互に影響しあっていることが判ります。ひとにもよりますから断定的に云う訳ではありませんが、「芸術」という”言葉”で特殊であろうとすることや、「骨董」という”言葉”に偏見を持つことの偏狭さや意味の無さを、こういう物達は無言で語ってくれます。

蒔絵の煙草盆

 蒔絵の煙草盆。江戸時代のものということであったが?、通常見かける竹の煙草入れが金物に代えられ、把手が取り付けられている。直ぐに元に戻せるので、今度の骨董市で竹の煙草入れを探してみようと思っている。1本の木を繰り抜いたもので前面の、木目を水の流れの様に利用した彫刻もいい感じである。蒔絵の意匠は紫陽花、牡丹、芍薬、菊?片方は桐の花と葉らしい。若し詳しい方がおりましたら教えてください。煙管の羅宇には、「??天空走馬源泉全集」とあります。

江戸 眼鏡 と 木製ケ−ス

 眼鏡の歴史は13世紀のイタリヤに始まると云われていますが、ファン・アイクが1436年に描いた「ファン・デル・バ−レの聖母子」の中で、寄進者バ−レの右手に黒縁の眼鏡を描いていて、大変興味を引きます。日本には室町時代ごろには伝えられていたらしいのですが、一般化するのは江戸時代まで待たねばならなかったようです。レンズにはガラスや水晶が用いられたといわれています。耳宛は輪になった紐で引っ掛ける形式で、現在のような耳宛になるのは明治になってからのことのようです。

 さて、上記の写真でも確認できると思いますが、鼻あては日本人の発明らしいのです。「鼻が低いため」などともいわれておりますが、勿論さだかではありません。これはたまたまそれが付いていたので、手に入れたようなものです。左右の眼鏡の大きさが異なるのは、レンズが違うためです。きゃしゃな作りですが、レンズの取替えには素朴で便利な作りかと思います。

墨壷

 左は獅子を線彫りした墨壷である。李朝のものか日本のものかはよく解らないが後日、韓国の仁寺洞(インサドン)に行った時には目にしたことがある。左はよく見られる物であるが、欅の肌艶と、その曲線が何ともいえない美しさを見せてくれる。

日用雑器・雑貨
天草灘物語
お燗器 竹製籠

面白い形をしていますね。囲炉裏の灰の中などに入れてお酒を温めたものです。
 
 長い年月に燻され、まるで燻製のようになった竹製の籠である。持ち合わせがなく確か1,300円で手に入れたものである。高価な物ばかりではなく、手頃な価格でも骨董は充分に楽しめる。そんな一品であると思っている。 

箪笥
 本当はもっと別の形の時代箪笥が欲しかったのだが、箪笥は値段もいいし輸送の問題が絡んでくると、そう簡単に手も出せない。しかし我が家の玄関の中央で、インテリヤとしても実用としても、充分にその役目を果たしていてくれている。
竜吐水
竜吐水


 本来の竜吐水は、木製の手押しポンプで、水桶の上に据えられて横木を上下する事によって、放水したものである。明和元年(1764年)には江戸町火消しに官給され、火事の多かった事情もあり短期間で日本各地に広まったらしい。明治時代になると、外国製の人力ポンプが輸入され、竜吐水は姿を消すが、この小型の手突きポンプも竜吐水とか生竜水、独竜水などと呼ばれ、地方ではかなり後まで使われたと言う。
銚子
 銚子という酒注ぎのことであるが、江戸時代の頃はこういう鉄製のものが使われたらしい。湯沸し鉄瓶と違わないが、注ぎ口が特有の形状をしている。お銚子無いよ!の徳利からは思いも浮ばない形ではあるが、確か結婚式の時の三々九度の時には、こんなものが出てきたような??「そっちは明治、こっちは江戸だよ」というので、状態は良くなかったが迷わず江戸の方を選んだ。時代は読めないので江戸かどうかは判らないが、漆塗りの蓋が気に入った。しかしこの朱色の蓋、明治の物にはピッタリなのにこちらに付けると多少小さめな気もしないではなかったが、最後はウ〜ンまぁいいかぁ。どちらも5千円だったが、状態も状態なので三千円にしてくれた。
火熨斗
 火熨斗の手彩色絵葉書を手に入れたので、あったら欲しいなと思っていたらその月の骨董市で直ぐに見つかったものです。3千5百円の値札が外れそうに着いていた。店主が居なかったのと、別に欲しい物が見つかるかもと思って、他の店も一回り。これと言ったものも無く戻ってみると、店主は戻っていたが値札はどこかに行ってしまっていた。「これ幾ら?」、「ウ〜ムもう珍しいから4千円かな〜」。ムムム、3千5百円の値札付けといてそりゃないだろう!!前後の話しをしたが、3千5百円までは戻したが、唾を飛ばし意地丸出しで、それ以上まけられないという、既にこちらも足元見られてるし....。翌月に「別の骨董市」に行ったら、5百円でいいからと云われた。
 アトリエでは、テ-ブルにモチ−フがのって場所をとってしまっているので、お茶も出せない。以前友人から貰った「繭枡」に本箱の余った棚を置いてテ-ブル代りに.していたので、それに変る「釜蓋」を捜していた。ただ繭枡が結構大きいので、それに合う蓋がなかなか無かった。これは直径62センチ、高さ22センチもある、珍しく大きなものだったので用途にはピッタリのものだった。ただ区分けもしっかりしてあるので、六人用として使うか回転寿司のように使うかは思案のしどころである。

 一般家庭用とは思われないが、お寺とか宿屋ででも使ったのだろうか?ご存知の方がいましたら、是非ご連絡お願いします。
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