飛脚便(遠州日坂宿 三度飛脚取次)
飛脚便(遠州日坂宿 三度飛脚取次) 飛脚便(遠州日坂宿 三度飛脚取次)

印譜で「遠州日坂宿 三度飛脚取次所江戸屋善左エ門」と読め、三度飛脚問屋の宿次証文であろうと思われる。

飛脚は、もともとが幕臣の公用便だったのを、大阪の商人達が幕府の許可を得て、寛永三年に、京、大阪、江戸の三都定飛脚の組合を作り、民間の郵便や荷物を運ぶようにしたのが始まりである。最初は、大阪を毎月2日、12日、22日の三度出発したのでこの名がついた(大江戸庶民事情 講談社。「東海道53次の魅力とその矛盾」の中の゛平塚゛やここの「江戸時代の魅力」の中の゛古写真゛に紹介してあります。

飛脚というのは、現在の郵便制度の様なものであり、幕府公用の為の継ぎ飛脚、諸藩専用の大名飛脚、民間で営業する町飛脚に分類される。約三十日で往復するのを並み飛脚といい、費用も安かった。実際には受け渡しに2日余計にかかる。商売に差支えるというので、10日限りさらに6日限りというのも出て来るが、これも実際には7日かかった。さらに早い飛脚が要求され、正6日限りというのが天保に現れ、これが、大阪、江戸間を片道6日で結んだ(参考文献 「道具でみる江戸時代」 芙蓉書房出版)とある。この記述は、「守貞慢稿」に依る記述と思われるが、守貞慢稿には、飛脚屋として「京阪より江戸に往来するを第一とす。号して三度飛脚と云ふ。これもまた京阪を元とし、江戸を末とす。−略−並便は昼往き、夜は必ず宿す。十日限り以下は、昼夜往きて宿することこれなし。また特に火急を報ず書簡には、四日限仕立て飛脚と云うあり。これは常にこれなし。三都ともにもとめに応じてこれを発す。おほむね賃金四両ばかりなり。この仕立てには宰領付せず放ち送り、兼ねて毎駅に得意の者ありてこれを掌る。毎駅夫を代え続けてこれを遣わし、発日より必ず四十八時にてこれを達す。また差込というあり。右の仕立ある時、その幸便に付すをいう。大略金二,三分なり−略−。(近世風俗志−”守貞慢稿” 岩波文庫)というから、一番早い飛脚だと昼夜交替で走り続けて、大阪と江戸を片道2日で行ったことになる。

早序
「早序(飛脚便)美濃地方」 日本初めての郵便局

「早序(飛脚便)美濃地方」

円という通貨の単位は明治以降のものであるし、「早序」という言葉からして、飛脚と郵便が併存していた時期の物であろう。ただし「早序」が飛脚便を示すものであろうことは想像できるが、これがいろんな資料を漁ってみたが見つかりません。どなたかご存知の方いましたらご教示願います。どちらにしても飛脚は明治6年7月に禁止され、郵便事業は国営化されたので、それ以前のものと思われます。

右の写真は明治4年始めて開設された郵便役所である。今の日本橋郵便局の前身で四日市にあった魚市場を利用したものです。

宗門人別
宗門人別

文久3年(1863年)の宗門人別帳?

切支丹禁止政策のもとで、住民の宗旨を調べるために作成された。宗門改人別帳、宗旨人別帳ともいう。寺請制度と関連し、各人の檀那寺を調査し、寺院が切支丹でない旨証明する形をとる。記載方法は時期、地域によって異なるが、檀那寺、戸主以下奉公人を含む家族構成、年齢が記され、戸籍台帳としての機能を果たした。宗門改により切支丹でないことが証明されると寺請証文(寺請手形)が発行された。これは旅行、奉公人雇い入れの際の身分証明書として使われ、縁組み、引越しなどで住居が移動する場合添えられた。

寛政六年の暦
寛政六年の暦 クリックすると大きい画面が見れます

寛政六年の暦

寛政六年というと、写楽が活動した時期である。「真説.写楽は四人いた!」(村中 陽一著 宝島新書)にも触れられている、「東州斉 写楽が浮世絵師として活動したのは、今から二百余年前の寛政六(1794)年五月から七(1795)年正月にかけての、わずか十ケ月である。そういうと『五月から翌年の正月にかけてというなら、九カ月間じゃないのか?』と疑問に感じるにちがいない。実は、この寛政六年は閏年であったため、「十一月が二回」、つまり一年が「一三カ月」あった年なのだ」と紹介されている時期の暦である。右の写真をクリックすれば、もっと大きい画面が見られますので、興味ある方は確認なさってみてください。


旧暦について

旧暦は月の満ち欠けに基づき、それを太陽の運行に合わせて修正した太陰太陽暦と呼ばれるものである。月の朔(新月)から朔、または望(満月)から望までを朔望月と呼ぶ。この長さは平均すると29.5306太陽日、ほぼ29.5太陽日である。そこで一カ月を大の月(30日)と小の月(29日)とし、これを実際の月の満ち欠けに合うように、適宜組み合わせるわけである。しかしこれでは1年が354日となり、一太陽年との差が11日ほどできてしまう。この太陽年との食い違いを調節するため、19年に7度の割合で13カ月の年をおいて太陽暦に近づけたものが太陰太陽暦、つまり旧暦である。この1追加の1カ月が閏月である。
(古文書入門事典 若尾 俊平編著 柏書房)


版木資料
広告版木 醤油の広告

時代は分かりませんが、それほど古い物とは思えません。醤油の売り出し広告のようです。もともと版木だけ手に入れたのですが、悪戯でプリンタ−の紙に刷ってみましたが、やはり和紙でないと上手くいかないようです。それでも日野屋又兵衛商店の、醤油の割引売り出しであることは解ります。商売の今も昔も変わらない風景と言えるでしょうか。
下の物は、漢字を適当に並べ変えると、なんとなく意味は解ると思います。質入れの念書みたいなもので、利子が月三分、半年過ぎたら承諾なしに処分しますという意味合いでしょうか?ネズミにも注意しないといけないようですネ。
上手く読める方おりましたら、是非ご指南下さい。
薬り広告(ひぜんの薬/快通丸/奇應丸)

「ひぜんの薬」の他「奇應丸・快通丸」の薬の広告です。ひぜんとは疥癬に因る皮膚病の一種のようである。男女の用い方が書かれて護摩の油がどうのとか、湯上りに乳房に付けてよし、餅、酒、油気のものが禁物と書かれてあるが、いまでいう効能と副作用の説明と変わりがない気がする。「調合所」「売弘所」「取次所」はほぼ共通した項目なので、既に分業体制が出来ていたのであろう。「奇応丸・快通丸」には「官許」とあるが、厳密に管理されていたというより権威を示すお墨付き程度のものだったのだろうか?

「1874年10月3日・ロンドンニュ−ス」
1874年だから明治7年のイギリスの新聞記事である。時代を考えたら状態も非常によい。古文書として紹介するのも変かとも思ったが、この図版の裏に幕末期の日本の世相が、ワ−グマンやビゴ−などによって、その情報が西洋にも伝えられたとある。ワ−グマンは、日本の洋画の草創期において忘れる事の出来ない人物ではあるが、残念ながらこの木版は氏に依るものではない。しかしこれは、そんな過去の様々な資料を元に描かれたものと思われる。
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