旅の小道具 2  
携帯用火打ち金
昔、石と石をぶつけて火花を飛ばして遊んだ事は、多くの人が経験してるでしょう。私は、昔はそうやって火を起していたと、信じて疑わなかった。しかし、実際は石(主に石英や瑪瑙)と鉄をぶつけて、赤く高熱を帯びて飛び散った鉄の火の粉が、火口(良く乾燥させた植物の茎等)に落ちて、発火させていたんですね。だから、ここに展示したものは正確には、火打ち石ではなく「火切金」(火切鎌)というんです。目からウロコが落ちるような、思いでした。
上図は、携帯用のもので、皮製の中に火口を入れられるようになってます。また上部の金具には、本来は鎖か紐で火打ち石が取り付けられていたのです。


携帯用燈火器
右は面白い形をした「雀燭台」と呼ばれる、銅器製の携帯用燈火器です。容器みたいな形状からして、単なる燭台て゜はなく、懐炉みたいな使い方もされたのかもしれません。

下は「携帯用根付型燭台」です。灯芯の根元はネジ止めで、芯自体は釣竿のように収納出来ます。部品がみんな取り外せて根付の中に納まるように工夫されております。旅には非常に便利なものであったと思われます。
雀燭台

「根付型携帯用燭台」

「折り畳み式携帯用職台」


折り畳み出来る燭台は、天保時代に、田中久重という人が発明したといわれ、右図のように薄く折畳む事ができます。ただ残念な事に、これは、受け皿だけ当時のものではありません。本来は、丸くくり貫かれた所の四角い切り込みに、ピタっとおさまるようになっているのですが、受け皿だはなかなか見つからないのです(一度見つけたけど、本体の半分の値段付けてて、びっくり仰天で手がでませんでした)。


提灯、燭台というとロウソクが必需品ですが、「日本で蝋燭ができるようになったのは、室町時代末のことだが、本格的な生産がはじまったのは江戸時代から。和蝋燭は、はぜという木の実から取った<木蝋>を使った。製法ははぜの実を蒸して圧搾機にかけて生蝋を絞り出し、これを火にかけて、ゴミ等を濾し取り、灰汁とまぜて固め、カンナかけして1ケ月ほど日光にさらして白蝋という製品になる。ろうそくは100gぐらいのなら、行灯の五倍くらいの明るさだと言う。ろうそくの値段は非常に高く、広間に使う大型の百匁ろうそくともなれば、十九世紀はじめ頃で一本200文(5千円)くらいだった。庶民の日常生活でろうそくを使ったのは、提灯だけではなかろうか」(石川英輔著の「大江戸庶民事情」”講談社”より概説)
(伸高31。折畳10.5X13.5 、H 0.5)


きざみ入れと煙管入れ
「江戸市中に煙草屋ができたのは明暦年間だが、火災の原因ともなりかねないから幕府がたびたび禁止令を出しても、喫煙者の数は一向に減らなかったと言う。紙巻煙草は明治からで、当時は刻みだけだった。煙草入れと煙管はいつも持ち歩くものだから、多くの愛好家が煙草入れ等の小道具に凝った」。(大江戸ものしり図鑑、花咲 一男著、主婦と生活社より概説) (長 22)

上のものは、竹製の煙管入れと、印伝(鹿皮)のきざみ煙草入れです。ピッタリと納まる竹の煙管入れは、昔の職人の技が感じ取れます。
早道(江戸期の道中財布)
これは、「守貞漫稿」にも紹介されている、江戸期の「早道」と呼ばれる道中財布です、材質は鹿皮のようです。鹿皮と言えば、甲州印伝が有名ですが、元は平安朝の頃、インドから伝来されたといわれる、鹿や羊のなめし皮で、袋物などの皮製品が作られたようです。

「外出に際して持ち歩く袋物は、懐におさめる懐中物、帯の外に露出している提げもの、手に持つ手提げ物の三つに大きく分かれる。懐中物は着物の内側、帯の上に入れるものだから嵩ばらない必需品、つまり財布、紙入れなど男女共通の品々。財布に入れるのは金銀貨だが日常の範囲内ならそう重くない。紙幣は存在しないから(?)紙入れは名称そのまま鼻紙入れ。腰にものを下げるのは男だけになるから、提げ物の袋物は煙草入れ、銭や薬を入れる巾着、小銭を素早く取り出せる早道などがあった」(大江戸ものしり図鑑 花咲一男、監修。主婦と生活社より)。
馬図印篭
印篭といえば、薬入れと黄門様しか思い浮かばなかったが、印の篭と何故書くのか、なんとなく不思議にも思っていました。それで今回、旺文社の古語辞典で調べてみたら納得です。印篭は「腰に下げる三重または五重の長円形の小さい箱。箱を緒で貫き通し、緒締め、根付けをつけて帯にはさんた。蒔絵などの細工が施されている」とあり、さらに「もともとは印判、印肉を入れるものであったが、江戸時代には薬を入れて携行するのに用いた」とあります。桃山時代から薬を入れ腰に下げた、との説もありますが、どちらにしても江戸時代には、漆や金粉に依る蒔絵等の華麗な工芸技術によって実用性よりも装飾を競うように発展していったようです。私のは、緒締めと象牙の饅頭根付けが付いていていますが、赤漆でも出来は、シックなものです。
柳行李(弁当箱)
弁当の名前の由来は、旅の道具の「振り分け弁当」に紹介しましたが、文書に残る最も古い例は慶長20年(1615年)大阪夏の陣で戦没した小平次重克の遺言に「一,ふるきよるの物、きる物ども、かね一両、十人まえのべんとう...」と妻への形見分けとして残されていると言います(道具が証言する江戸の暮らし・前川久太郎著/小学館文庫)

この弁当箱は柳製か竹製かよく分かりませんが、その質素な成りに庶民の生活が偲ばれます。柳行李は弁当箱ばかりではなく、富山の薬屋さんに代表されるように、携帯用の荷物運びには重宝されたようです。芭蕉の句に「柳行李 片荷は涼し 初真桑」 というのが残されています。
携帯用手鏡/合わせ鏡
当時鏡は銅製または鉄製で、錆が浮くうえ、手入れが難しかった。定期的に磨かないと光を失うため、金剛砂をつけ、木賊で磨き、仕上げに銀や水銀を張る事もあった。今のようなガラスの鏡は明治からで、英泉画には、女性が懐に入れて持ち歩いた、自惚鏡というガラス製の携帯用の鏡が描かれている」。(大江戸ものしり図鑑、花咲 一男著 主婦と生活社より概説)。この鏡も大きさからいって携帯用の手鏡であろう。裏面には掬の図が描かれ、「津田薩摩守藤原○長」の銘が入っています。昔社会の教科書で、なんとか神獣鏡等という写真を見せられたが、どうしてあんな模様の所に顔が映るのか不思議でならなかったが、上野の博物館で、その謎が解けるまで、随分の時間を要したことを懐かしく思い起こします。
(手鏡−8.2X5.2)

江戸の魅力目次へ戻る 旅の小道具3へ