旅の小道具 1
「浪花講 道中記」

大阪府立中之島図書館のHPの「浪花講定宿帳と道中記」 (http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/43_kou.html)に依ると、「大坂玉造で、綿打ちのための唐弓の弦を商っていた松屋甚四郎の手代源助は、諸国を行商していたが、誰でもが安心して泊まれる旅籠の組合をつくることを思い立ち、文化元年(1804)、旅宿組合『浪花組』を結成した。松屋甚四郎が講元、まつ屋源助が発起人となり、三都にそれぞれ世話人を置いた。『浪花組』は、天保12年(1841)には、名称を『浪花講』と変更している」とあるが、この道中記にも講元「松屋甚四郎」、発起人「まつ屋源助」の名が見える。

振り分け弁当

本の資料ではよく目にする物ですが地元の骨董市では出会えた事がありませんでした。竹の子の皮等にお結び程度のものを入れるのだろうと想像していたら、何と中には鉄を薄く延ばした容器が、4個程重ねられておりました。資料には武士が使った物と説明しているものもありますが??定かではありません。でも隙間の無いつくりには、良くできた細工だと感心します。

弁当とは、面桶、めんとうの転だとする本もあるが、「和漢三才図会」によれば、和名は「わりご」あるいは、行厨で、ヘントウ、俗にいう弁当だとある。こうして見ると、器に食物を入れて出かける時に携えた物が弁当かと思われる。さらに進むと、享和四(1804)年にでた「絵本江戸錦」にでてくる会話、弁当はちらし、という言葉は、出先で使う食事の中にも弁当という言葉が入り込んでいることがわかるし、幕末の記録でも芝居を観る時に用いる物を幕の内といい、よそに出かける時にはこれを利用するともある。その容器の型も場所により、持っていく所によって変わっていた。(道具で観る江戸時代 高橋幹夫著 芙蓉書房出版より概説)

携帯用酒器





瓢箪形の携帯用の酒入れと、腰杯です。酒入れといっても旅や遊山に出掛ける時は、水筒の役目も果たしたのでしょうか。盃も酒ばかりでなく、旅先では清流の水を飲むのにも大いに役立ったであろうと思われます。ところで、瓢箪ですかが、安岡路洋氏に依ると、本来は酒の容器を瓢(ふくべ)、肴となる塩辛い漬物などの容器を箪(たん)といい、ふたつが揃って初めて瓢箪といったらしい。携帯用の弁当箱が欲しくて出掛けた骨董市で、こちらの方が気に入って手に入れた物なので、とても満足している一点です。
携帯用日時計
携帯用の日時計・いろいろ

江戸時代の時刻法は不定時法と呼ばれるものである。これは夜明けより日暮れまでを六等分し、同様に夜間を六等分する。四季によって夜明けと日暮れは動くから、明 け六ツといっても夏と冬とではかなり差がでる。したがって一時(いっとき)の長さも、昼夜、四季によって異なってくる。夏至の昼間の一時は約2.6時間。冬のそれは約1.8時間である。このため江戸時代に制作された和時計は、昼間と夜間とで針の動く速度が変えられるようになっているのである。簡単に言えば、現在は午前6時と正午と午後6時の間がどの季節でも同じままの定時法を使っているため、同じ午後6時も、季節によってまだ日が高い場合も真っ暗な場合もある。これに対して不定時法の同じ時刻は、どの季節でも同じ明るさになるように決めてあるということである。つまり不定時法は、人間が太陽の明るさに合わせて生活するための時刻なのである。上記のものは、磁石と日時計を一つにまとめた旅道具である。日の出、日の入りが明け六ツと暮れ六ツ、それを一日の時刻の標準とした時代だけに日時計は今よりは正確で重宝なものだった。まずは磁石で方角を決めるのだが、曇りやまして雨の日は...さて困りました。腹時計にでも頼ったのでしょうか。自然と共に生きる時代だったんですね。

(参考文献 道具が証明する江戸の暮らし 小学館 、大江戸庶民事情 講談社 、古文書入門事典 柏書房)
携帯用根付型日時計

日時計
上図のものは「徳川時代旅行者が用いた日時計」と、ある骨董書籍に紹介されているものと同手のものです。時計部としては重要な方位磁石などの部品が欠損して大変残念ですが、中々お目にかからないものなので、この状態でも良しとして手に入れました。

いわゆる一般的な懐中日時計です

正午計
「南中したことを計るための物で別名”正午計”とも呼ばれています。時鐘や機械時計(和時計)を運用する為の標準時を知る目的でも使われたようです」とオークションの説明文にはありました。確かに通常の日時計にはある時刻線が、刻まれてはおりません。右下の斜めの棒を下板の刻みに差し込むと直角になり、糸がピンと張ります。縦板の真ん中に下がったものと、左端のふたつの調整ネジで水平(垂直)をとります。ピンと張った糸の影が下に刻まれた線に一致したとき、南中つまり正午を表示します。通常の時刻を計るものではないので、正午日時計などと呼ばれているようです。

矢立て
@@@@@@@@@@
@@@@@@@@@@

矢立てとは今の万年筆かボ−ルペンのようなものです。長い柄のところに、筆を入れて、丸い容器に墨を染み込ませたものを入れて、持ち運び出来るようにした筆記用具です。矢立ては大まかに分類してふたつのタイプがあり、墨壷一体形(下図)と分離形(上図である)。この分離形矢立てに貴重な記録が残されている。「世の姿」と題する作者不詳の江戸後期の随筆に「天明の末までは真鍮にて柄杓の如きものばかりなりしが、寛政年中、印籠矢立てというもの行われ、筆入れと墨入れは別にして墨入れは印籠の如く作り、紐を筆入れに通して結び、腰にさせば墨入れ印籠の如く下がるなり。また文化の初めより生赤銅の矢立て新製して、これより印籠形真鍮製のもの絶えたり」とある(道具が証言する江戸の暮らし 前川久太郎著 小学館より概説)。これでこの矢立てが寛政時代に短期間流行したものであることが解る。よくみると筆入れが2重構造に成っている事がわかり、筆の他にペ−パ−ナイフのような物を入れたらしい。長年捜していた物であり、その後も目にした事はない。と、言う訳で見つけた時の喜びは...。

下の物はごく一般的な矢立てですが、巾着状のものがついてます。黒い袋は薬入れという説明でしたが、最初から付いていたものかどうかは不明です。この皮は何の皮なんでしょうか?写真ではお分りにくいとは思いますが、ご存知の方がいましたら掲示板にでも書き入れて下さい。 豚皮は毛穴が3つづつ並んでいるのが特徴で、少し固いとのことですが...?よく解りません。
余談ですが、江戸時代、四足の動物は仏教等の影響で食さないと言われ、豚は飼われていないと思っていました。しかし、これは、「ブタを猪と書いたのが、その後の多くの誤解を招いたようで、京ではそれほどでなくても、関東では豚も飼育されたようです。九州の黒豚は有名で、彼の司馬江漢も長崎で豚を食し「至って旨し」と書いた記録も残っています」。(江戸時代、食生活事典 雄山閣出版)

(長 22.5)
方位計

江戸、明治時代の帆走専用弁財船に使われた方位磁石と言われてますが、同型でこの4倍位の大きさの物を見たこともありますので、あるいは陸地の旅の方位計として使用したのかもしれません。

鎖国が決められてからは外国に行けるような大型船は建造禁止になり、天保年間に大阪の弁財船を改良して荷が多く積める北前船ができたが、これが最も大型の船である。また、菱垣廻船があり、これは大阪の商品を独占的に江戸の問屋に渡した船で名称は船の垣根が菱形だったことによる。小さな川の渡しや隅田川を行き来した猪牙船、大阪などから来た大型船の荷を揚げるための荷足船など、大きな船から小さな船まで江戸時代には多くの種類の船が日本国内を行き来していた。旅が一般人に可能になった証拠だろう。
(道具で見る江戸時代 高橋幹夫著 芙蓉書房出版)
小田原提灯

携帯用の提灯です。今ならさしずめ懐中電灯と言った所でしょうが、内部に蝋燭立てがあって旅には欠かせなかったものと思われます。いわゆる小田原提灯様式です。今は蛇腹も紙も残っていません。左は新しいものですが、使用状態の参考までに展示しました。
、(径12x伸高22.5)

さて、江戸の旅といえば宿泊は旅篭となりますが、提灯を下げて着いた旅篭の宿賃のお話しです。深井甚三著「江戸の宿」(平凡社新書)によると「天保十三年に品川宿で定められた旅篭賃は200文(約5千円)であったが”守定漫稿”によると東海道が200文、中山道が148文であり、京都の通常の旅篭も200文から250文であったという。(深井氏は2000年近くの米価から1文10円から20円、総務庁のが出している資料による、かけうどん代より、平均1文28円としていますが、私は簡略的に、1文25円、つまり二八蕎麦16文を、今のかけそばで400円として、全て計算してあります。。さらに蛇足として付け加えれば、旅篭は朝、夕の食事も提供する宿であり、食事は出さず、客が持参した食料を煮炊きするための薪を提供した宿を、木賃宿と称し、広重の浮世絵等にも描かれています。定火消しだった広重さん、退職金出たかどうか知らないけど、これなら「お金が無くて東海道旅行出来なかった」なんてことないよね


旅の小道具2へ
江戸の魅力目次へ