雑然とした街並みに真っ白い建築を投入する

「街並み」という言葉をよく耳にする。「美しい街並み」とか「街並みに合った建築」など、普段あまり意識していないけれど、知らない街に行った ときや見慣れた場所に新しい建物ができたときなど、ふと意識したりする。芦原義信( 1,918〜2,003 建築家)が著書「街並みの美学」で街並みを問 うたのが 1,979 年だけれど、建築家がそれを提唱するずっと以前からその言葉は、たとえば倉敷や金沢の「歴史的(情緒的)街並み」という具合に 用いられ、一般化されていたような気がする。しかしそれらの「街並み」は、歴史的な価値や、旅行で遠路はるばる訪れる価値をもつ、ある意味特権 的「町並み」でもある。今わたしたちが意識する、あるいは意識しなければならない「街並み」は、わたしたちが住んでいる街についてであり、各人 がその「街並み」の形成に関わることができる身近な概念なのだ。建築を建てるひと(施主)のほとんどは、自分の建物をどのようなものにするか、と いうことだけに関心をもつのだけれど、わたしたち建築家は「街並み」も含めたより高度な観点から建築に取り組まなければならない。古色蒼然で雑然 とした「街並み」に建築を建てることが多い。このような場合、建築を「街並み」に「同化」させるのか「異化」させるのか、難しい判断に迫られる。 それはどちらでもよいと思うのだけれど、「自閉」してしまわないことが肝心だ。敷地の周囲に高い塀や壁(それも、無味乾燥なコンクリート打放し! )を巡らし、開口部(窓)や植栽は中庭だけ、外出は玄関から車なので隣近所のひとと立ち話もしない、という自閉した世界は社会や「街」を拒否し ていることになる。これではとても「街並み」を議論する余地もない。たとえゴミ溜めのような街に「白鳥」が舞い降りても、その「白鳥」が積極 的に街と関わり合うことが、周囲に「街並み」意識を喚起し、新たな「街並み」形成の第一歩になることができると思うのだ。なにも啓蒙的なことを するわけでなく、ただそこに建っているだけで、美しい「街並み」形成に働きかけるような、そんな建築をわたしは目指したいのだ。