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そ の 他    O _ 0 2 0

興 味 を も っ た こ と な ど ・ ・ ・
  

   国 立 屋 内 総 合 競 技 場 ( 代 々 木 体 育 館 )

中学校の修学旅行は、東京だった。バスを連ねて静岡の登呂遺跡や富士五湖を巡り、富士山もたしか 5合目まで登った記憶がある。でも、なん と言ってもお目当ては、東京だ。銀座や東京タワー、そして浅草・雷門という、あの頃の「おのぼりさん」お決まりのコースである。ところ が、なぜか「代々木」の国立屋内総合競技場が見学コースに入っていた。1,964年に開催された東京オリンピックの屋内プールとして建てられたそ れは、7年後にはすでに東京の「名所旧跡」の仲間入りを果たしていたことになる。その頃の多くの日本人がそうであったように、「代々木」はぼ くが初めて体験した「建築」であったし、「丹下健三」という名前は「建築家」という肩書きは知らずとも、「代々木をつくったひと」というこ とで知っていた。ぼくがこの体験を機に建築家を志していれば、それなりの美談となるのだけれど、建築など見向きもせず、相変わらずロック音 楽にうつつを抜かす「ぼんくら」であった。次に「丹下健三」という名前を意識したのは、15年後の東京都庁舎コンペということになるのだけれ ど、それだけ間が空いたのは、なにもぼくが「ぼんくら」だったからではなく、「丹下健三」自体がすでに「過去のひと」になっていたからである 。「代々木の丹下」ということで、都庁舎に世間は騒いだけれど、ぼくたち建築家は、低層案で師匠に立ち向った磯崎新に喝采を送ったものだ。 振り返ってみれば、1,970年の大阪万博までは、「国」が主導した権威的なものを「国民」が見上げて喜んでいたシンプルな時代であったのだけれ ど、以後「市民」が台頭し、大上段に構えた企画はことごとくそっぽを向かれるようになっていたのである。そういう意味で、「丹下健三」とい う人間としての生命は 21世紀まで生き延びたけれど、建築家としての生命は 30年以上前に息絶えていたことになる。しかしそれでも、「代々木 をつくったひと」としての「丹下健三」は、永遠に忘れ去られることはないはずだ。ご冥福を祈る。



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