コラム


様々な事を語っていきます。

開戦前夜 その三 NEW!!


開戦前夜 その3
 これらはすべてまた聞きにしろ作が入っているにしろ、帰還兵や元下士官、将校から聞いた話である。それ以外の武勇伝や軍国美談のたぐいは、それこそトラックに積んで運ぶほどあった。今でも多くの人に語り伝えられているような名将勇士の話は一切除外して、当時有名だったヒーローたちに限って言っても、矢野兵曹、西住戦車隊長、飯塚部隊長、南郷少佐、恩田二等兵など、何人でも挙げることが出来る。このうち何名かは、その武勇談または一代記が単行本になり映画になった勇士もある。
 この中で矢野兵曹というのは、乗っている飛行機がすでに致命傷を負っているのに、なお片翼飛行で敵機に激突飛散したという、いわば「体当たり攻撃死」の元祖であった。また名は忘れたが、ある水兵は、受け持ちの砲に駆けつける途中で敵弾にあたり、その弾丸を体中にとどめたまま(当時こういう傷を盲貫銃創といい、弾丸が体を突き抜けてしまうのを貫通銃創といった)「チャンキーめ、やりやぁがったな!」と叫びながら砲座に走りより、それから数分間、命が絶えるまで撃ち続けた。
 二人で壮烈とも無残とも言いようのない働きをしたのは、「二人三脚として伝わったもので、ぜひ後方の味方の陣地へ報告しなくてはならぬことがあって、しかも手が足りない。負傷していない者は戦い続けなければならぬという局面で行われた。一人の一等兵は目をやられ、もう一人の上等兵は両足をやられている。その目だけ無事な上等兵が、目の見えない一等兵に負ぶさってそこは川だ、そっちを右へ、と口で指示しながら味方の陣地までたどり着いたというのである。
 華々しく伝えられたのは、白襷決死隊、はだか工兵隊の突撃、歩兵が渡らなければならない川に、板だけで橋を架け、「肩で支えて渡らせた「人柱の橋」工兵隊などの忠勇ぶりで、これらは日本軍特有の完璧に近い組織力や協力ぶりを示す団体行動であった。軍国美談とはこのようなもので、決して隊長や猛蒋の個人的雄略だけを伝えるものではなかった。
 奇談として伝えられるものも少なくなかった。ある軍曹は支那人と接触しているうちに覚えた片言の支那語で、「ニイ・ライライ」と呼んで敵をおびき寄せた。支那兵は大きな唐傘と青龍刀を背負っているが、「不思議にこの青龍刀で斬られて負傷した日本兵はない」と信じられていた。内地のわれわれさえ、「マンマンデーとクヮイクヮイデー」「イー・アル・サン・スウ・ウー・リュー・チー・パー」とかを流行り言葉にした。兄とともに出征し、戦場は違っていた弟が、やがて兄の戦死を聞く。その後彼は夜、数人の敵兵からあちこちで「スイヤー?スイヤー?」と誰何されながら、幻のように現れた頭に包帯を巻いた亡兄に導かれて危地を脱したという、霊験譚に近い話もあった。ほとんど講談に近いのは、灘上恵教という従軍僧の話だ。従軍僧であるから部隊について歩いて、戦死者の菩提を弔うのが仕事だ。ところがその日の戦況は味方に大変不利で、まわりをほとんど包囲され、味方は次々と倒れる。伏せの姿勢でじっと耐えていた灘上和尚は「うぬ、小癪な仏敵!もはや堪忍ならぬ!」と叫んで、近くに倒れている兵士の銃をとり、取り囲む敵兵の中に躍り込み、「南無妙法蓮華経!」ブスリ、「南妙法蓮華経!」ブスリと突きまくったから、支那兵は「アイヤー、花和尚魯智深があらわれたある」「私逃げるある」と言って次々に退却したという!
 戦意高揚の目的で、こういったような敵をばかにし、嘲笑する話が無数に宣伝された。支那兵といえば弱虫で逃げる専門だと誇称された。そんな怯兵、弱兵になぜ何年もてこずるのかといえば、相手は人数が多く土地は広大で、ソ連や米・英が尻押ししているからというのであった。支那兵のどこがそんなに憎むべきなのかと言うと、彼らは「嗚呼通州」のときのように残虐で、降伏するとすぐ味方の悪口を言うように卑怯だからであった。ことに憎悪されたのは便衣隊と督戦隊だった。
 督戦隊は、敗北したり恐怖したりして、退却しようとする味方の兵を後ろから監視していて、陣地へ戻れ!戦闘を続けろ!と脅し、ときには見せしめに殺すとされた中国軍の一部である。この味方を虐げ、脅かすということが、もっとも日本人を激昂させた。日本で続々と描かれ出版された戦記マンガにも、必ずといっていいほど、この憎むべき督戦隊の姿が描かれている。
 便衣隊は変装した敵の正規兵である。督戦隊よりははるかに悪い。戦いの結果はまだ不明というときも、占領地でもしばしば農民に扮した中国人が、ときには女子供までが、服の下や荷物の中に小銃や拳銃を隠していてふいに撃ってくる。今でいうと「ああ、ゲリラだな」というところであるが、そのころは正規兵が負けたふりをして逃げ、こっそり伏せて待っているとか、ふいに後ろに回って襲ってくるようなやり方をゲリラ戦術といった。猛獣ですら、ハンターに不意打ちを食わせるような猛獣は「ゲリラ戦術を使った」と表現されたものである。これは戦前戦後と用語の意味が違ってきた例だ。


 そうした機運に乗って、少年文芸の世界では、戦記物語を越えて、冒険SF、軍事探偵の大活躍がさかんに書かれるようになり、幾多のヒーローが輩出するようになった。
 それではおとなしい児童文学のたぐいはどうだったかというと、こちらのジャンルは例の「感心な少年」戦時下にあっても、父母・祖父・祖母、兄弟と仲良く生活するリアルな少年の家庭小説もあまり衰えを見せなかった。これはオトナの戦時文芸と比してはっきりした差異といえた。オトナの世界では十分後世に残るような普遍性を持った純文学は衰微し、侍的,義士的な時代小説は、さまで衰えを見せなかったのが特徴だったとされている。それに反し児童文学はけっこう健闘していたのだ。
 たとえば「騎兵の母」というのがあった。その騎兵は、戦地にあって慰問袋が来ても、一度も戦友たちに見せたことがない。しかもそれが来るといつも陣営から離れたところへ行って、泣いているのだそうだというので怪しまれる。小隊長はそれは女々しい奴だといって叱り付けようとし、尾行していくと、果たして慰問袋を持って遠く陣地から離れた物陰に行って、その騎兵はさめざめと泣いている。小隊長に貴様は故郷へ帰りたくなったのか、女々しい奴だといわれて、騎兵は烈しくそれを否定し袋の中身を見せると、それはすべて人参ばかりである。
 聞けば、彼の故郷で畑を守る母は、日本にいたとき兵営に面会に来ると「お前の馬を見せておくれ、騎兵には馬が一番大切なものだからね」という。騎兵が厩舎へ母を案内して、「お母さん、これが私の馬です」といって見せると、母はじっとその軍馬を観察して「少し痩せている、これでは出征したときにお国の役に立てないかもしれない」と嘆く。それ以来、面会に来るとき持ってくるものも、出征してから送ってくる慰問袋の中身も、いつもいつも人参ばかりであった……。
 やがて、故郷の母の丹精で、逞しい肥馬に仕上がった彼の乗馬は、彼を乗せて、その方面の日本軍全体を壊滅から救うような手柄を立てた、と話が結ばれるのは申すまでもない。
 もう一篇、私が覚えている戦時児童文学は、中支派遣軍所属上林清作氏の老母の話として書かれているカタカナ書きの実話ものである。田舎の小学校の男の子や女の子が四、五人連れ立って学校から帰る途中の山道で、杖を立てかけた一人のおばあさんに逢う。「私は字を知らないのでな、お前さんたちに教えて貰いたいのだよ。」「え、何という字?」「カミのカの字さ」なぁんだと言って子供たちは、カミのカ、カミのミの字を教える。おばあさんは南京豆を一つかみずつ子供たちのお駄賃に与え、「明日も頼みますよ」と言って帰っていく。いぶかしんだ子供たちは、次の日にバの字とヤの字、次の日にはシとセというふうに、得意になって教えてゆくうちに、カミバヤシ・セイサク・ドノとわかって、おばあさんはそういう名の人に手紙を出そうとしているとわかる。「子供さんたち、これだけ習えば手紙は書けるんだろうね!」「ううん、まだだよ、おばあさん、宛名の漢字だって、一、二、三、四だって習わなくちゃあ」「おお、そうかえ、そうかえ、じゃあ、あしたもお願いしますぞい。」こうしてついに田舎の老婆は戦地に行っている息子、清作にカタカナの手紙を書き上げ、こどもたちについてきた先生にも見せる日が来た。
――セイサクドノ、コトシハ コメモイモモタクサントレタ ムギマキモスンダシ カキハゴヒャクモアッタゾ。ナンノオカアサンヒトリ、マダゴネンヤジュウネンハ ジョウブデハタラケル オマエハシンパイセズニ テンシサマニゴホウコウスルダヨ。
 先生も老婆の努力と子供たちの親切に感心して、その手紙が無事中支の前線に届くよう手配してやった。――これなどは、私は申し分ない児童小説だと思える。これのどこが「軍国主義」であろうか。
 戦争中に軍国主義などというものはなかった。私は軍閥などというものは日本にはいないと考えていた。それは中国にだけあるもので、張学良とか馬占山とかいうのがその首領だと思っていた。年賀状にまで防毒面をかぶって突撃する兵隊がよく描かれていたが、あれはあの怪奇な仮面が印象的で、そのためウケたもので、日本軍がホスゲンとか、イペリットとかいう猛毒のガスを使って支那軍を苦しめたとは聞いたことがなかった。かの国には青幇・紅幇・紅槍会・大刀会などという結社があって、しきりにわが軍に刃向かって来るとか、ダムダム弾という残忍な弾丸を使うと聞いては怒り狂った。お椀帽子をかぶって、支那人に変装した軍事探偵寺岡伍長の活躍手記というのを読んで興奮したこともあった。そういう大陸方面を満州、外蒙,内蒙まで征服し、しかも開墾し、開拓して、日満支ことごとく相和して生活するのだというのが北進論、南洋に進出して山田長政、天竺徳兵衛、冒険ダン吉のような活躍をするのが南進論と、私たちも心得ていた。ただしそんなふうに、実在の人物も芝居の登場人物もマンガの主人公も私たちはごっちゃにしていた。


 こうして昭和十七年春、四ツ谷の学習院初等科の卒業式が行われて、何年ぶりであったろうか(いずれにしても初めてではなかったと思うが)天皇陛下が行幸された。
 私たちは卒業生なのだから、式場の一番前に並んで席につくのである。だからすぐ目の前が教壇よりも高くなっている席、正面に陛下はご着席になっているのである。われわれは初めて「天顔に尺咫(しせき)し奉った」のである。最も近くで見たのである。頭を上げてありありと見ては目がくらむとされていたが、そんなことはなかった。畏れ多さのあまり、全身がこわばるともいわれていたが、そんなこともなかった。僕たちの下級生、皇太子殿下のお父様なのだ。あちらにもあり、こちらにもあった御真影とそっくりである事がわかった。当たり前である。
 ただ、明治天皇よりも少し威厳が足らないようにも感じられた。それは歴史上の大帝と現役の今上陛下との違いだが、やさしい温厚なご性質でもあるからのように思われた。陛下は陸軍の軍服をお召しになり、肩章をつけておられた。つまり、大元帥陛下であった。軍人の位階では大将から上はなく、元帥というのはお一人しかない。つまり天皇だけの称号だと私たちは教えられていた。椅子にかけた両膝の上に白手袋の両手を置かせられて、天皇はそこにおわした。微動もなさらなかった!われわれを見下ろしたり、見回したりさえなさらない。この分では、お言葉など賜りそうもないと私は思った。
 表情もお変えにならない。お髭すら動かない。陛下のおかけになっているお眼鏡はフチなしで、八角形であることもわかるほど近いのに、瞬き以外一切あそばされない。ムズムズと座りなおしたりもなさらず、咳払い一つ聞こえなかった。陛下はある演習をごらん遊ばされた事があり、ざっと二時間も同じところに佇立しておられた。やっとその演習がすんで、還幸あそばされたとき、あとにくっきりと靴型が印せられたという例を洩れ承った事がある。
 このエピソードは日本海海戦のときの、東郷平八郎のそれとして語り伝えられているが、昭和帝にも全く同一のエピソードがあるのだ。この不動の姿を馬上でもお保ちになり、あるとき突如、その馬が跳ね上がった。然るに陛下は眉も動かさず一瞬にそれを乗り鎮められたというエピソードもある。こんなところが本当に神人かもしれないと感じさせるところである。その御乗馬が、名馬白雪と呼ばれる純白の夢のように美しいサラブレッドであった。
 私たちは総代の一人が卒業の辞を奉読し、下級生の総代が私達を送る言葉を読み上げ、院長山梨勝之進、宮内大臣松平常世両氏の挨拶があり……式次第は何の滞りもなく進んだけれども、天皇はやはり一言も発せられず、微動もなさらなかった。
 君が代はもちろん奉唱されたが、わが校では伝統的に「仰げば尊し」は歌わない。式日に歌われるのは校歌であった。それは「学びの園生(そのお)は広けれど 分け行く道はただ一つ……」と歌いだされていた。私たちはいつもより昂揚して声張り上げて歌ったが、こんなときに涙なんか出るものではなかった。
 卒業式は必ず、高松宮か三笠宮のような陛下のご兄弟に当たる皇族殿下のご来臨を得て行われるものであった。だから今年の天皇ご自身の行幸し給うことは、特別にありがたい事であり、君たちは特別に恐懼感奮しなければならぬということを初等科長も担任のアカヒゲのS先生も、几帳面が洋服を着て歩いているようなO先生も、繰り返し我々に言い聞かせたけれども、男の形の感情はそうおあつらえ向きに、修身の教科書通りに感涙にむせびはしないものであった。中等科に進んだ上級生も、一つ下の五年生も、別に羨みはしなかった。
 「聖天子におわしまし、国民下(しも)にあって、一致奉公のまことを致す」と本に書いてあるのだが、生徒たちは別に無理に自己暗示をかけて泣こうとはしなかった。私たちは陛下と同じく咳ひとつせずビクリとも動かず、整列し最敬礼を捧げているのみであった。
×             ×
 陛下は真紅のロールス・ロイスでお帰りあそばされた。私たちは全校そろってそれをお見送り申し上げたはずであるが、これも残念なことに記憶がなくなっている。そのときのお供揃いとか、皇太子殿下はどうしておられたのか、沿道の民衆という人々はどうであったか、一切覚えていない。


 それが昭和十七年の三月だったのだから、その前の年の十二月八日に、日本は「本当に開戦」したのである。十六年十二月八日――天皇は今度こそ宣戦布告を――ただし支那に対してではなく米英蘭(オランダ)に対して――発し給うたのである。今度はもう「事変」ではなかった。大東亜戦争であった。私たちは初等科六年生の年の末にそれを知り、次の年十七年に卒業し、そのときに陛下の行幸を辱(かたじけな)うしたのである。
 それは昼の授業中であったような気がする。あるいは教師全員が召集され、そののち大切な知らせがあるとて、教室に集められたような気もする。見慣れた日本地図の巨大で真っ赤な背びれを生やしたブタのような満州の形をばかに鮮明に覚えている。「戦いを宣す」という言葉をはっきりと耳にして、私はああ今度こそ本当の戦争だと理解した。それは陛下のお言葉をラジオのアナウンサーが伝えたもので、むろん直の「玉音」ではなかった。ご英断であったか、やむを得ない苦渋の選択であられたのか、もとよりわれわれ輩の知るところではなかった。
 教師は厳粛な語調で説明し、他のオトナたちも全員いたるところで歓喜したり、ああやっと!と肩の荷が下りたような声を出す者もあり、峻烈な決意を述べる名士たちもいたわけだが、私は一体何を感じたか、何をやったか、当時殊勝にもつけていた日記は爆焼してしまったし、覚えているのはただそこらをうろつきながら、ああ、容易ならぬことだ……ああ、容易ならぬことになった……と呟いていたことだけである。そのころの男の子は普通に、そんな漢語混じりでしゃべり、独り言でもそんなふうに呟いたのだ。
 名士たち、詩人、文学者たちが嘆息して、ああやっと、と叫び、あるいは歓喜したことはすぐ報いられた。途端に人々は日支事変から目が反れてしまった。大東亜戦争は始まり、当分の間は信じられぬほどの快勝が続いたからである。(終わり)

開戦前夜 その二


開戦前夜その二
 小学校だからまだ軍事教練というものはなかった。柔・剣道も正課ではなかった。支那事変の勃発は三年生のとき、昭和十二年(1937年)だった。朝日新聞社が「神風号」を飛ばしてロンドンまで八万キロを翔破し、飯塚飛行士、塚越機関士の大ブームが起こったのはその年の四月。横光利一が新聞に「旅愁」の連載を開始し、ヘレン・ケラー女史が訪日したのも四月半ばであったが、奇しくも七月七日の七夕祭りの日、盧溝橋で日支両軍が激突したと伝えられた。当時それは中国軍の方から撃ってきたので、間もなく双方から交渉がおこなわれて、そのまんま戦争にならないですんだ。これはアムール・コミンテルンの巧妙な謀略であって、辛うじてそのまま乱戦に突入するのをまぬかれたのだ――などということは、ずっと後年になって、過ぎ去った戦史の研究がおこなわれ、ソ連邦が瓦解し、秘密文書が公開されるまではわかりはしなかった。
 直接の起爆剤は、同じく中国側から挑みかけ、仕掛けたもので、通州において支那の冀東政府保安隊が反乱し、日本人百八十人を惨殺したことにあった。これは当時にあっても、「通州事件」などと軽々しく扱われはしなかった。報道は決まって「嗚呼通州……」の一語を以って始められた。私たちはもし通州にいたら、簡単に虐殺屠戮されたにちがいないのだから、ある点オトナ以上に憤激した。私たちは支那兵、ソ連兵を日本の将校兵隊がいくら斬りまくっても銃撃しても同情しなかった。それは彼らがしょっちゅうこういう女子供の弄殺という乱虐なことをやるからであった。義和団の乱のときもそうであった。ニコライエフスクの事件のときもそうであったと、私たちはかなり正確に教えられていた。
 そこで華北に派兵が声明され、同じ年の七月末に日本軍は華北で総攻撃に入り、八月十三日には上海で、日支両軍が交戦した。次の年(昭和十三年)に歌われた軍歌に「去年(こぞ)七夕の宵なりき……」と歌われているのが、この日支事変勃発の日である。
 そうして、まず昭和十三年・十四年が日支事変の真っ最中と言っていいと思う。わが軍が破竹の勢いで進撃し、大陸の広汎な部分を制覇したのは本当である。そして始めのころは十分に勝ち味を占めながら、なお政府が戦場の広がるのを恐れて、「不拡大」という言葉がはやったのも本当であった。私たちですら不拡大という言葉を覚えた。それは田川水泡のマンガ「のらくろ」にさえ現れているのであって、猛犬軍が豚軍と戦端を開くか、どうかを連隊長が部下たちに「どう思うかね」と相談すると、言下に一番親任の厚い中隊長が「不拡大がよいですね」と答えている。やがて開戦のやむなきにいたるのであるが、その際使われている「断乎膺懲」も「隠忍に隠忍を重ねたるわが方」というのも、当時新聞ラジオで毎日のようにもちいられた常套句である。こうなると「たかがマンガ」も立派に歴史の証言である。「純然たるマンガ」として読んでいた私などは「のらくろ」にそんな常套句を見出して、なあんだ、またいってらあ、ここでも言ってるのかと興ざめしたものだ。
 その「のらくろ」にしても昭和十三年まではオールカラーの本綴じ布表紙、箱入りの単行本が十冊もシリーズで出版され、おお売れに売れていたのだ。「アサヒグラフ」には十三年以後もアメリカのマクマナス作の翻訳マンガ「親爺教育」(ジグスとマギー)が用紙払底ギリギリまで連載されていた。そのアメリカの成り上がり者を風刺する成人用マンガと同じページに、「支那の子供たちと仲良く橋を渡る兵士」とか、「野菜を運ぶ兵隊さん」などの写真が載っていた。いまでもちゃんと国会図書館で見られる。それが「中国の子供や農村の作物を略奪したり連行する日本兵」ということにされて、反日左翼の宣伝に使われてしまったのである。
 そのような社会の中で、千人針、千人力、慰問袋ブームが起こっていた。千人針は長い布に糸で結び玉を千人分縫いつけ、千人力は、同じく長い布に「力」の字を千人分、墨書きするもので、これを戦地の将兵に送り、将兵はそれをお守りとして腹に巻きつけて戦ったのである。一人が一千人ずつ協力・激励の人たちを集めては縫い、書いてもらって送ったのである。また慰問袋に入れる慰問品というものを発売するものもあって、その中で一つ覚えているのは、さびない銅鉄製の丸鏡で、鏡として使える他に、胸のポケット(軍隊ではポケットをわざわざ物入れと言わせていたそうな)に入れておく。するともし胸の急所に銃丸が命中しても跳ね返すと言う着想であった。
 慰問袋も千人針、千人力もオトナの仕事であったが、中に入れる慰問文はよく少年少女が書かされた。作文の苦手な子には、これは大変な苦労であった。いかにその兵隊さんを慰め励ましたくても、どこの誰ともわからぬ他人にどういう文言でその誠意を表すのか、私は幸いに作文の成績ははじめから(小学校二年生から)良かったので、すぐ要領をおぼえた。要するに「兵隊さん、このお手紙がどんな兵隊さんに届くのかわかりませんが、どなたに届いても、僕の気持ちは同じです……」と挨拶を述べ、今日本はどんな天気か、景色か、ボクはどんな生活をしているかを日記風に叙すればよいのである。でも受け取った兵士の喜びは大変なもので、大抵返事が来た。その兵隊に私と年の近い子供でもいれば、もう熱中的で、何度もその兵隊と手紙をやり取りする少年もあった。何しろそのころあった、いわば軍国マンガに、かわいい男の子が小ヒコウキに乗って戦地へ慰問に行く、兵隊たちは大喜びする。男の子が何か歌ってあげましょうかというと、髭だらけの一人が「歌よりオトウサンと呼んでくれよ」と言う。少年がうなづいて「オトウサン」と呼ぶと「ボ、坊ヤッ……!」と抱きしめて涙ボロボロ、他の兵隊も次々におれにも言ってくれといってギューギュー抱きしめるので、少年は「小父さん、お髭が痛いよッ」と悲鳴を上げるというのがあったくらいなのだ。
 作文には一向困らなかったが、まれに「傷痍軍人の慰問」というのがあった。それは戦地で負傷し、後方、つまり本国の病院に送り返されて入院中の兵士を小学生が見舞いに行くのである。無論学校からの命令で、担任の教師が引率してくるのである。並んだ寝台に、あるいは眼帯をし、包帯を巻き、片足を伸ばしたままでいなければならない「白衣の勇士」たちが、ずらりと並んですわり、そこへ私たちは一人ずつ行って、用意してきた慰問品をすすめ、サテ――これからが大変だ――何か見舞いの言葉を述べ、一定の時間、彼らと話をしなければならないのである。こんなことが上手な少年なんているものだろうか。こんな無理な難しい役を少年たちにやらせようという計画を一体誰が立てたのだろうか。
 一体学習院の生徒というものは、おめず臆せず社交なれがしていて、オトナたちと付き合う術を心得ている。それが特性だとされている。しかしそれは、むしろ同じ華族たち、年上の紳士、お母様方に対してであって、宮様相手ならごく自然にお相手も出来る子が多いのだが、見知らぬ傷痍軍人に対して発揮できるものではない。厚顔でおしゃべりな私も、どうぞと言って慰問品を勧めてから、さあ、なんと言ったものか、困り果ててしまった。オトナ並みにお名前はとか、どの方面で戦っておられたのですかとか、負傷はどんな具合ですかなどと、いえそうなものであるが、言えたとしたらそれは小説である。小説なら作者がこしらえて言わせることができるが、実際には、上等兵さんぐらいですか――どんなところで負傷されたんですか、というくらいのことは言えたと思うが、相手はどんな青年だったか、体のどの部分に負傷したのかも覚えていない。
 彼ら、白衣の勇士のほうでもずいぶんてれくさくて具合が悪く、間が持てなかったろうと思う。中には勇士の方が社交的で、傷の説明をしたり、どんな戦いであったかをしゃべりだし、相手の少年とやや楽しげな時間を過ごした者もあったようだが、ほんとのところわれわれが帰ったとき、彼らの方もほっとして、やれやれと思ったのではなかろうか。

 こうした奉仕活動とか陰気な話題を述べると、現在の人はまるで反射するように、軍部の専横とか、そのころの社会は戦時色一色に染められ真っ暗だと思い込む。しかし当時、未成年者であった私たちが、戦時色一色に染められていたのなら、今の人は戦後色一色にそめられているのである。「もはや戦後ではない」(大宅壮一)時代になって以後に生まれ育った人たちならなおのことである。昭和十二年~十四年ごろ、いや大東亜戦争がおっぱじまってからさえ、当分は日支事変の戦争下にあった社会相と基本的には変わりがない。賀陽宮殿下の初等科四年か五年ごろの作文の一節に、「父と共に銀座に出ると、非常な混雑で、その中でもサラリーマンが多い」と書いてある。そのころの大衆雑誌「キング」の随想に「人……嬌声……煙草の煙……、そして……、いやもう止そう。現代の小説には、あまりにもカフェーの描写が多すぎる。」とある。戦争協力は常識だったが、グラフ雑誌のマンガ部分に、依然「ゆうもあ・こんくうる」という題がつけられ、マンガの一つには主人公の画家が新聞を読んで、「この時節にバー大繁盛とは!」といって憤慨する場面がある。
 社会の緊張状態市民的自由が余りなかった事を強調しようと思えばネタはいくらでもある。たとえば「非常時」という流行語があり、何ぞというと、「そんなことし取るときか、非常時だぞ!」と怒鳴られたように言い伝えられている。しかし実際はそんなことをいって怒鳴るよりも「なるほどオレの懐は、非常時だ」としゃれ返したり、子供マンガに西洋人の女が、同じく西洋人の強そうな男をポカポカッとぶんなぐりながら「しっかりなさい。非常時ですよ!」と叱りつけるというのがあった。
 同じく戦時下流行語に「非国民」というのがあって、これもずいぶん詳しく戦前戦後の歴史を調べている作家さえも、ちょっと遊んでも贅沢をしても、「非国民ッ」とガミつけられたように書き伝えている。だがこの罵り言葉についても、何人かの職人が酒に酔っ払って歩いているのを、「いまどきそんなことをしているのは非国民だッ」と怒鳴ったら、いっこう平気の平左衛門で、「ワッハッハそんならおれたちゃあ非国民か!」と笑い飛ばして酔歩まんさん、立ち去ってしまったという例がある。「国民・臣民」というのは、このようにタフで剛毅なものであった。またある少女雑誌に、かのすばらしく可愛いユーモラスなマンガや挿絵を描いた松本かつぢの「△△ちゃんの活躍」といったタイトルの(正確なところは忘れてしまった)マンガがあった。その年の夏、△△ちゃんは海水浴に行って大いに日焼けして、今年はあたしが一番黒いわよと自信満々で登校する。それまでに毎年「黒んぼコンクール」でもあったらしい。ところが時世は非常時に突入していて、同級の女の子は感嘆するどころか、「何よ、海水浴なんか行って贅沢な」「非国民ね!」とささやいているから△△さんは大怒り、「何よ!海に行ったぐらいで何が非国民よッ」といったがそこは女の子だ。気になって仕方がないので、タライの水に浸ってゴシゴシ石鹸で洗う。お母さんがそれを見て、「いまさら洗ったって白くなりませんよッ」とひとさわぎ。
 「バー繁盛記」という話にしても、その当時ある落語家は平気で「バーと言っても、いろいろございますな。本郷バー、須田町バー、いないいないバー」などと演っていた。その一方では、これは米英が蒋介石を尻押しするため相談をしているという記事がさかんに書かれたころの話だが、徳川夢声が演芸場で「ウィンストン・チャーチルと申しますから、イニシャルで書きますとWC。ルーズベルトのほうはルーズなベルトですな。つまりユルフンと便所が相談してますので……」と言って、ドッと観客を爆笑させていたのである。まずこういった調子で敵をあざけり、それを以って自国民を笑わせる芸人はいくらでもいた。またごらんのように外国語も平気で使っていた。

 私の学年で言うと四年生、日支事変勃発以来二年ほどたったころから、傷痍軍人というものが目につくようになり、標語には、「国を守った傷兵守れ」というのがあらわれた。社会復帰した彼らは傷痍の勇士と呼ばれ、神武天皇の軍士の服装をした人物を彫った金色の徽章が授けられた。各駅には、その名誉の徽章を佩用した背広姿の男が(それが彼の、すでに軍服を脱いで市民に帰ったことを意味している)電車に乗ろうとしているポスターが掲げられ、そこに、傷兵守れ」という例の標語が添えられている。
 負傷はしないで、無事戦地から他の部隊と交代して返ってきた兵隊は、「帰還の勇士」と呼ばれ、同じ徽章を賜り、ポスターに描かれたにこやかな背広姿にソフト帽をかぶった男は、「傷痍の勇士」に「帰還の勇士」も含むものと考えられた。軍歌の一つ「国民進軍歌」にも「傷痍の勇士背に負うて」「帰還の勇士先立てて」と歌いこまれている。
 「傷痍の勇士」はもちろん皆で援護し、慰労してあげなくてはならないとされ、私たちも、もし跛行している傷痍軍人でもいないかなあ?早速肩を貸してあげるんだがと、町を歩くにもキョロキョロしていたこともあった。さっそく「講談社の絵本」の読み物ページに、風呂屋で帯を解こうとして片腕を失っているのでこまっている傷痍の勇士に、帯を解いて上げ、背中も流してあげた感心な少年の話というのが書かれた。
 「帰還の勇士」のほうは四肢五体は無事で返ってこられたのであるから、祝すべき身の上なのだが、年々交代要員が減ってくるので、一遍帰って来られても、また応召しなければならないことを覚悟していた。私が戦後入信したカトリック世田谷教会の主任神父今田健美師もその一人であった。神父として従軍したのではない。戦場で下士官などに「オイ、お前は耶蘇の坊主か?!」「ハッそうであります!」と言う騒ぎであった。今田師は、前線で歩兵銃や軽機関銃を撃つ兵士ではなく、軍医についている衛生兵であった。
 もちろんそれでも、後方の医療テントまで敵兵が迫るようなこともないとは限らないのだから、そのときは銃を取って戦闘もしなければならないのだ。そこで最初に召集令が出たときは、船に乗りながら、イザやるぞッと勇み立っていた。しかし二度目になると、「ああ、またか!くそッ!」という心境であった。これが三回目になるともう船底にドカッと体を投げ出して、「エエイ、もうどこにでも連れてゆけッ」とぼやくしかなかったそうである。
 学校へも「日清日露のころは――」と長嘆する老人ばかりではなく、帰還の勇士でその学校の卒業生である人物を招いて、その体験談を聞くという特別授業が、ときどき行われるようになった。「少年たちは手に汗を握り、目を輝かせて聞き入っていた」と書きたいところだが、事実は何だかわからなかった。たとえばある丘の陰から攻め上ろうとしたとか、塹壕の縁にひじを持たせかけて撃っていると、左前方から支那兵が……などと説明されても、それがどうにもありありとは想像ができないかったからである。げっぷが出るほど見慣れ、読みなれている戦争画、軍国美談、ニュース映画のどれを思い浮かべても似ているとは思えない。そういう報道や、出来上がっている絵や写真や話とは、どうにもちがうからである。あるいはそれらの帰還兵は、物語ることが下手で、難解であったからであろう。たいてい例話を伝えられるはずなのに、覚えていない。一つだけ印象にのこっているのはこうである。塹壕で撃っているともちろんぴゅん!ぴゅッと飛翔音が聞こえて敵弾が飛んでくる。多分鉄兜や肩などに命中するには高すぎるとカンが働くが、しかしひょい、ひょいッと頭を低くする。そうするとひゅッぴゅッと飛来する弾丸には頭を低くする癖がついてブスン!ザッと音がして目の前の土に弾丸がめりこんでも、ひょいとお辞儀をしてしまうと言うのである。弾丸が下へ来ても頭を下げる癖がつく。これなどは実戦を経験した者の口からしか聞けない例であろう。
 これが、多少とも作った武勇段になると、鉄兜をかすめるほどの弾丸に対しても「そんな弾丸にゃあお辞儀はしねえぞ」とニヤリ不敵に笑う兵卒などという話になるのである。いよいよ至近距離まで敵陣に迫って、ついに肉弾戦になるという話は実体験としては結局聞けなかった。何でも銃剣術というのは、ほとんど格闘技の役に立たず、ただわれを忘れて寧猛に踏み込み、ぶち当たっていくしかないという。軍刀で斬った話も又聞きや、戦争物語なら幾らでもあるけれども、武装した人体というのは容易に刃が入るものではなく、肩口へみごと斬り込んだ場合でも、たいていバスッと言って、刃が滑ってしまうものだそうだ。いっそ突くほうがよいので、銃剣で戦う平兵隊の方が有利なわけであるが、うまくいってずぶっと切っ先が入った場合、これがまた厄介で、ぎゅーっと筋肉が締まって、片足を踏みかけでもしないと抜けない由であった。突き刺しても、殴り伏せても、人は容易にすぐには死なないものだということや、刺すと敵兵は一生忘れかねるぐらい物凄い、しかも一瞬、笑ったような歪んだ表情で睨み付けるという。これはたしかに戦場という実感がある。斬り込み隊というのは大勢の中を斬りながら通るのだが、面も胴もあったものではなく、ただ×の字形に袈裟にかけ、ざっくざっくと斬って通り、人のいないところへ出たらまた引き返して同じことを繰り返すという勇猛話も、どうも聞いた人から人へ話が作り添えられ、大分作が入っているようである。戦いがすんだらすぐ軍刀の血のりを拭って置かないと、抜けなくなる――ふたり以上も斬ると刃が曲がって鞘に入らなくなる――陣へ帰って、刀にぬぐいをかけ、油を差し,打ち粉を振ってよく手入れをしておかねばならないのだが、ときたま刃の面に、斬った奴の顔が映っているような気がして、うわわわわあッ!と躍り上がり、一時的に発狂するものがある、というのも、無事帰還した伯父から聞いたというので、間にあまり人が入っていないから、実情に近いかもしれない。


開戦前夜 その一

開戦前夜 その一

 私はその日、学校帰りにあたりを見回し、級友の姿も下級生たちの影も見えないのをたしかめて、道を左へ曲がった。そこは省線(国鉄)四ッ谷駅の手前で、ちょっと左へ上がったところ、道路から見えるくらい近くに映画館があった。そこへ寄ってちょっとショーウィンドウを覗いて来ようというのだ。たったそれだけで、当時(昭和十五年・1940年)の小・中学生にとっては不良行為だった。少なくとも冒険だった。ショーウィンドウからそのときかかっていた映画の写真や、主演者のブロマイドを見ていた、というだけで、「さては一人で入ってこっそり映画を見て来たナ!」と言う嫌疑を避けることはできないからである。
 初等科(小学校)六年生であった私は映画館に近づくだけでもドキドキした。むろん映画会社も、そのとき上映していた映画のタイトルも、監督も、主演スターも覚えていない。写真のほかに、でかい毒々しい絵看板がかかっていた。そこには乱髪に鉢金の半仮面ともいうべき変な頭巾をかぶって髭をたらし、らんらんと目を光らせた怪人物が和服とも洋服ともつかぬ服装で、だんびらを下げて睨みつけているところが描かれていた。ウィンドウの中に貼りならべられていた宣伝写真を見れば,大よその内容はわかるはずであったが、そのころの私にはわかるはずがない。主人公らしい武士が捕らえられているシーンだけは覚えている。後に考えれば、坂東妻三郎であったかとも思うが、幕末に時代設定した剣劇映画だったことしか推定できない。
 私が多分、数十秒も見ていなかったかと思う。そこそこに映画館の前を去って、四ッ谷駅に向かった。
 時代劇には一向不案内だったが、そのころの私が映画をほとんど見たことのない子供だったわけではない。そのころとしては、むしろ見ることの多いほうだったとも思える。私はすでに、少年講談に熱中し、少年雑誌には時代小説が多かったのだから、ちゃんばら映画を見たくってしょうがなかったのだが、母がマゲモノと呼んで、ああいうものは見るものじゃありません!と言って、連れてってくれなかったのである。そういうものは母に言わせると下品・下司なもので、自分が大嫌いだから、子供にも見せなかったのである。
 では何を見たのか、どんな映画なら許されたか(連れて行ってくれた)かというと、覚えているものではまず、「宝島」である。「家族ロビンソン」である。ミッキー・マウスやポパイはいうまでもないが、たしか「三匹の子ブタ」や「冬の女王」はアニメで、しかもカラーであった。悔しい事に長編カラーアニメの「白雪姫」さえも米国ではもう出来ていたのだが、日本では上映されず、多分そのイラストだけは入っていたと見えて、大型漫画絵本に(その絵本はいたずら小僧の少年が支那の戦場へ行くという戦争協力マンガであったにもかかわらず)その中にマンガ絵物語「ザンボーと虎」(後のちびくろさんぼ)や白雪姫も入っていて、その挿絵がディズニーの「白雪姫」の剽窃だった。横井福次郎であった。のちにずいぶん活躍した漫画家である。
 「王子と乞食」も「シー・ホーク」も見ているはずだが記憶が薄らいでしまい、戦後になってから「見直した」のである。それでも小六か、中一のころ、「へ、王子と乞食!あんなもの見たのかい?」と言って見下す同級生がいたことや、日本の剣道でなくフェンシング式にまっすぐな棒を振り回すと「おッ、シー・ホーク!」と声をかけた同級生がいたことも覚えている。
 邦画では、「金語楼の水兵」「五人の斥候兵」「善太と三平」「見かえりの塔」などを見た記憶がある。このうち、いくつかは学校で上映されたのだ。しかも皆戦後は上映されなくなったものばかりだから、「見直し」ができず、今そのストーリーや印象を語ることはできなくなっている。そのほかに、いくつかの「文化映画」というのがあり、たとえば運動・電気・健康などについて説明したり、奨励したりするものであった。ほとんどが面白くなかった。――だんだん娯楽がなくなっていくので、それでも映画のうちだと思って、わずかに心慰めにしているようなものが多かったが、中には「もし敵が毒ガスを撒いたらという恐ろしい設定のものもあって、カゴの中のカナリアがバタリと止まり木から落ちるワンカットがあった。これなんかは冴えていた。また「干潟の生態」と言う題名だったと思うのだが、魚やカニ、貝類などの非常に精細なドキュメント映画もあった。これはたしか戦後にも評価が高くて、かろうじて「歴史に残った」のではないかと思う。
 (戦後も大分たってから「桃太郎の荒鷲」というマンガ映画が再評価され、ばかに世評が高かったが、あれはすでに大東亜戦争に突入してからの作品であった。リアルタイムでそれを見た私達は、自分たちの世界でヒーローとして、すでに評価の定まっている桃太郎が軍服を着て前髪を海風にハタめかせながら、「本日の作戦は成功で本官も嬉しく思う」なんていうのでがっかりした。)
 私が当時見た映画のうち「見かえりの塔」というのは、修徳学院という実在した不良の少年少女厚生施設の実録映画で、今思えば非常な名作であり――後にテレビで共演した老俳優も、「ああ、あれは名作でしたよ!」と言っていた。私はその「原作」であるらしい修徳学院の訓導たちの手記を読んだ。たしか「悩みの教育」と題され、訓導たちの苦悩や労力よりも、私にはそこで教育を受け、また脱出し、ついに更正して「自己修養訓」をめいめい唱えて卒院していく元不良たち――院生の不良行為の描写が猟奇的で、おののくくらい刺激された。映画も脱出した二人の院生が、カン…カン…カン…と鳴る「見かえりの塔」の鐘を聞いて、「帰ろう……」「う、うん、帰ろう……」というシーンは感激的であったが、訓導に反抗して大格闘を演ずるところは、どんな活劇映画よりも興奮した。
 いうなれば、「鐘の鳴る丘」は「見かえりの塔」の戦後版であったといっていいのであるが、それ以外の、「五人の斥候兵」その他はみな戦争映画であった。それもみな支那事変(日中戦争)が舞台で、大東亜戦争はまだ勃発していなかった。それ以前から、上海事変、満州事変があり、私達は生まれたときから昭和二十年(十六歳)まで自分の国は常に戦争をしているという時代であった。「後の世」になると、「若者はみんな兵隊に取られる。取られる」と言いはやすようになったが、そうではない、取られるのなら「徴兵」である、無理やり行かされるのである、「兵役」というのは二十歳になると、五体満足で病身でもない者は全員、二年間軍隊におつとめにゆくのであって、だれでもそう考えていた。二年経つと、志願してもっと務めたいというもの以外はすべて退役となって民間に帰り、再び従来の生活に帰るのである。今兵役があったら大変だと皆思うらしいが、もしあるのなら、今のほうがいい。なぜなら二年経てば帰れるし、戦争なんか行かずに済むからである。しかし万一……などと言う事を考えたら、大抵の職業にはつけない。現代は「募兵」制度である。それで間に合っているのである。私が小六で、恐る恐る映画のショーウィンドウを覗きに行ったころ、「歩兵の本領」と言う軍歌があって、その中で日本の軍隊は「すべてその数二十万……」と歌われている。今の自衛隊は二十万以上ある。私達はそれだけの大兵力を擁して,ビクリともせず、維持していられるのである。呑気すぎるくらい、いい時代である。

 私がこっそり覗きに行った映画館は四ツ谷駅の近くにあった。私はそこから歩いて十分とかからない学習院初等科へ通っていた。学習院はそのかみ、京の公卿がその子弟たちを教育するために設けた学校であった。明治以来、皇族も入学するようになり、文部省ではなく宮内省の管轄下にあった。私の通学していたころは、青山に女子学習院と幼稚園があり、四ツ谷に初等科、目白に中等科・高等科があって、大学はなかった。華族学校と呼ばれていたが、入学して来るのは公侯伯子男の爵位を持つ者の子ばかりではなく、教授や博士、実業家、軍人、大地主などの子も大勢あった。皇族も日本の皇族ばかりではない。朝鮮王家の子弟も入学するので、私たちが確か、三、四年生のころ、お二人の李王家のお子さんが入って来られた。それら全員で約四百人、一クラス三十人で、各学年約六十名というところで、小さな小学校と言うべきだろうが、私自身ものちに専門学校の教師になってわかった。ざっと三十人というのが教え、かつ統率する最適の人数だ。がんばっても四十人そこそこ、それ以上になるとまとめきれない。三十人くらいいると必ず(まるで掟でもあるかのように)四、五人はワルイ奴がでてくるものだが、そのワルイ奴らに気を配れるのも、四十人以下が限度なのだ。
 皇族の子弟は私たちの上に二人、同級生に一人おられたが、六年生の時には一つ上の生徒はもう中学(中等科)へ行ってしまっているから、下、つまり五年生以下には、李王家の子弟も含めて五人ぐらいおられたと記憶する。
 もし彼ら皇族が大変成績が悪かったとか、喧嘩をしたとか、何か校則違反行為をやったとすれば、必ず私たちにはわかるはずである。それがなかったところを見ると、皇室のご一門にも、李朝の子孫にも、目立つ人はいなかったことになる。天才的だというほど優秀な方もおられなかったことになる。私たちのクラスにおられたのは賀陽宮章憲王殿下であったが、いつでもごくおとなしく、口数少なく、一向に個性を示さない人だった。示した宮様は一人だけいらせられた。一つ上のクラスの、二人のうち一人がそれで、それも主に中等科へ進んでからである。この人はジャーナリズムには「電車でご通学なさる宮殿下」で知られる。普通宮殿下はお車でご通学あそばされるので、ひどく民主的に思われたのである。ところがこの殿下、喧嘩もなさるし、やんちゃ坊主でもあって、乱暴殿下を略して、ランデンと呼ばれていた。こういう時困るのは級友である。殿下の子分になってヘエヘエしていれば楽なんだが、ずっと同級生なのだ。中には何をッ、こいつと思う者もある。堂々と喧嘩になり、武道や競技で叩き負かしてやればいいのだが、あいにく相手は金枝玉葉のおん身である。ぶちまかしたりすると「不敬にあたる」。その辺は全校生徒が「皇室の藩并と教えられているから、わかりすぎている。しかし、これは中等科へ上がってからだが、柔・剣道が正課になると、武士道の上からは実力で勝つのなら、ぶちまかしてもいいことになる。しかしお互いは子供だ。上手に手加減をして勝つなどと言う事だ無理だ。かといって負けてあげると、これはへつらいになる。武士道の最も恥とするところである。そこで生徒たちは、サテ困ったということになる。
 事実は殿下に怪我をさせたからといって、大事件ということにはならなかったであろう。しかし少年にそこまでの分別はないから困るのである。ランデンについて言えば、大した不良だったわけではない。のちにバカデンと呼ばれる有名なプレイボーイがいるという事を、世間のうわさで聞いたが、よもやあのランデンの成れの果てではあるまい。

 教師たちも私たちも、皇室・李王殿下を同じように尊べということはわきまえていたが、別に崇め奉りもしなかったし、「オイ、殿下ッ」と呼び捨て同然にした事もある。ほとんど対等であったし、まして級友同士、上下のへだてはなかった。入学するとき父兄が書かされる身上書に「族籍」という欄があるのが、他校にない学習院の特徴だったが、そこへは華族、新華族、平民などと書き入れるので、男爵とか中将とか、伯爵とは書かない。私の「族籍」は新華族で、本家は子爵で、この爵位は金では買えない。つまり国家に幾ら莫大な献金をしても、男爵にはなれるが子爵以上にはなれない。新華族は国家に何か功績があって、明治天皇から爵位を賜った家筋を称する。いわば実力華族で、大名や徳川将軍や公卿の子孫ではない。私個人はその子爵家の八男坊の長男だから、「世が世であっても」爵位はない。
 これらは制度上の事で、学校にそんな不平等はなかった。しかし、私がこっそり映画館のショーウィンドウを覗きに行った年の四月には、国家的な慶事があった。私たちが六年生になったと同時に、皇太子継宮明仁親王がご入学になったのである。実は四ツ谷の初等科校舎そのものが新校舎と呼ばれ、それ以前からあった校舎を取り壊して、四年もかけてその日のために建てられたものであった。その四年間、私たちは目白の仮校舎に通学していたのだ。
 この親王殿下が現天皇である。多分ご入学にもご誕生同様「日本中が沸きかえった」のであろう。「全臣民が心からお祝い申し上げた」のであろうか、新聞も読まず、ラジオもろくに聞いていない私は、当時の社会的状況はよくわきまえない。殿下は毎日御所から専用の門を入られ、校庭を斜めに突っ切って、これも専用の大玄関から校舎に入られるのだが、そのときは全生徒たちが校庭一面に散らばって遊んでいるのだから、いっせいに道を開けて敬礼をする。皇太子殿下は慣れた手つきで制帽のヒサシに指間をお当てになって、右に左に敬礼をお返しになりながら、校庭を遮断される。
 その大玄関というのは、われわれが普段出入りしている下駄箱のある出入り口とは別で、白または色大理石で壮麗に造られている。階段があって、二階の専用待合室で朝礼までお待ちになるのだが、その階段もゴムのような白い特別な材質で造ってあって、他の木の階段とは違っていた。無論待合室の外にあるトイレも、殿下のお使いになるためのものだが、これらの中でも、玄関、階段、トイレはわれわれがいつも勝手に使ってもかまわないのだが、お部屋にノコノコ闖入することは出来ない。同級生でもお迎えには行かない。おつきが二人ばかりついていて教室に案内して来る。馴れてくるとお一人でおいでになった。図画、理科などの特別教室には、教師の控え室に錦繍の布をかけた机・いすが用意してあり、殿下のいらっしゃる授業の直前に、教師自身が運んでいき、済むとまた元のところへしまうのである。新品であることはもちろんだが、机・いすの形の大きさは他の生徒と変わりはない。
 向こうは一年生、私達は六年生だから、普段は接触がなく授業も見たことはない。たまに廊下を歩いていらっしゃるのをお見受けする程度だった。わが校の校風は特に初等科ではひどくよそよそしく相互隔離的で、上級生、下級生の交流は全くなかったといってよい。殿下がいらっしゃると廊下の一方へよけてお通しすればよく、別にいろいろ恭しく敬礼しろとは言われていなかった。殿下も同級生とさえ、私語したり笑ったり、ふざけたりなさらないようであった。私たちより二十年ほど前までは、わが校はドイツ風で、つまりユンカーを育てるという方針で高級ホテルのような寄宿舎まであったというのだが、これでは「アルトハイデルベルク」のカール・ハインツほどの自由もない。(フォン・ハウク)「王族方は皆玉座の上で淋しい生活をお送りでございます。彼らはどの臣下とも隔てられております。王族方は淋しくお過ごしにならねばなりません。そこに彼らの力があるのでございます。」

そのような校風であったから、学年は二クラス(東組・西組)に分かれていたが、それだけで両クラスの生徒は「他人」であった。隣近所に住んでいるとか、親類関係でもない限り、違うクラスの生徒たちは付き合いもないといってよかった。そこで同学年と言ってもクラスの違う賀陽宮殿下とかほとんど口を利きあったこともなかった。やや接触があったのは中等科へ進んでからであり、やや親しくなったのは社会人になってからであった。同クラスのある生徒は、カヤデンと冗談を言い合い、口争いをしたといい、ある生徒はほとんど本当の喧嘩をしたと言っている。私同様、「不良型」であったN君は、カヤデンのシャツの下に背中から毛虫を入れたことがあるそうである。桜の花の美しいころだというから、あの毒々しいカラフルな、しかし毒はないサクラケムシだろう。どの桜の木でもうようよいたものだ。草取りの最中で両膝を突いて後ろ下がりに近づいてくる。その背中に毛虫を入れて叩いたのだそうである。
 ところが殿下は、おっとりと振り向いて、背中へ手も遣らず、「君何をしたの」とおっしゃったそうである。N氏は華族の出身ではなく、半世紀ものちに回顧して、「はあ、下々の者とは大分違うな」と思ったと書いている。担当のアカヒゲという仇名のS先生は、怒髪天を突いて怒ったというが、これはいつわりであろう。この先生には天はおろか、桜の枝に届くほどの髪もないからである。N君はこの先生、今にも血圧が上がって、お亡くなりになるのではないかと心配したと書いている。こういうところが、不逞で不良型なのだ。S先生の十倍も怒り、驚きあわてたのがお付きの人で、大急ぎでシャツを着替えさせながら七転八倒していたらしい。
 あわれや、毛虫はやんごとなき少年皇族のシャツの裏で惨死していたという。
 同級であっても皇族との接触はこのように少なく、彼らと親類関係を持つ者の子弟もいたのだから、それは別として、普通に彼らについて書こうとしても材料は少ない。まして李王殿下については、その方々が下のクラスにいるということしか知らないといっていい。今の人はすぐ併合した国の王族だから差別があったのであろうと――まるで是非あってほしいかのように言うが、そんなものはありようがない。当時から終戦後まで彼らは日本人であった。李王殿下とは言うが、私より四、五年下におられた二人の朝鮮王族は、李朝最後の国王、李王坧の確かお孫さんだったと思う。その一人はリ・キというお名前であったが、このキの字はこの方の名前以外には使われない漢字で、覚えてもいないし書けもしない。たしかこのリ・キ殿下の一年生のとき、学校雑誌にバシャと題する詩が掲載されたのは覚えている。三番まであったが、一番を忘れてしまった――「ソレハ ムカシノ オウマノ バシャデス バシャハ ユックリ ユレテ ハシリマス」――
 私が大学へ入ってから、まだまだ蛮風を伝え暴力的であった上級生に私は学習院を出ているということを言ったとき、とたんカッと怒ったその上級生が、「何をッおれだって李王家と付き合いがあるんだ!」と言った。すなわち彼も華族の向こうを張るのに、まさか皇室と付き合いがあるとは言えない、そういうとき李王家の名を上げたのは、この王家が皇室と同格の威光があると彼は信じていたことになる。日本が朝鮮の王室を皇室と同格に待遇したということの例証である。
 次の年、すなわち昭和十六年に私達は初等科を卒業し、四ツ谷から目白の本校の中等科に進級するのだが――その年の卒業生にとって一台の栄誉と考えられた行幸があった。ご在学中の皇太子の父君今上陛下(昭和天皇)がその式にご臨席下さったのである。

 その小学生としては最後の一年間にも、砂糖やマツチは配給制となり、春日正一ら共産主義グループの検挙が始まり、政府はイギリス大使にビルマ、香港経由の援蒋ルートの停止を要求し、大本営は連絡会議で南進政策を決定し、日本軍は北部フランス領インドシナに進駐し――支那大陸では汪兆銘が上海において和平建国宣言を行い、蒋介石は「全国民に告ぐるの書」を発し、八路軍は華北で大遊撃戦を展開したかと思うと、重慶政府は米国から二千五百万ドルの借款を引き出す、ソ連も一億元の援蒋バーターを貸す――といったふうに戦雲は刻々と動いていたのだが、私たちは全く、すでに大東亜戦争は始まっているのだと言う認識はなかった。ただし支那で蒋介石の率いる軍隊と連年戦っているのに、米・英・ソなどが後ろからそれを助けそそのかしている、卑怯な奴だ、憎らしい奴だとしかわきまえていなかった。
 つまりわれわれの国はまだ正式に「開戦」していなかった。大東亜戦争はまだ始まっていない。今延々と続けられているのは戦争状態であるにすぎない。やむを得ないと心得ていた。なぜなら、これは「支那事変」であって、天皇の宣戦布告がまだ発せられていないからである。
しょっちゅうオトナたちから教えられているから、誰だってそれくらいの軍事知識はあった。その年(昭和十六年)までは戦争といえば支那事変のことであり、上海事変や満州事変の続きであった。私たちは一方で国防、過去の大戦争の事をさんざん聞かされているので、これは勅命の出ていないやむをえない戦争だと思うと、悔しくて心が逸りたってしようがなかった。もし戦場に立っても、これは仕方なく防戦しているのだと思えば「晴れの戦場」ではないような気がするからである。
 本当の大戦争と言ったら、いつも日清・日露の両戦役であった。あれこそ陛下の宣戦布告を得た「今日を晴れの戦場」であった。初等科長・中科課長、一学期に一回ぐらい、請われて講話をする老将軍などが、「諸君はいまだ日清日露の両戦役を知らぬ,まっこと,あの日清日露の両戦役と言うものは……」と、出征せず日本に残っていた農夫、漁民、女子供まで、いかに辛酸を舐め、犠牲を払って国を守り保つ為に苦労したかを長大息して語るので、もううんざりしていたのだ。それだけに、その輝かしい護国の民を誇りに思い、うらやましくも思い、それらを知らなくてはダメの川だみたいなことをいわれたって、われらはまだ子供なのだということから、「今に見ていろボクだって……」と、「お山の杉の子」のように背伸びをし、勇み立ったり切歯したりしていた。小学生でも三年生、四年生あたりがそうであった。六年生にもなると、大分生意気になり、それほど純朴じゃないと言わんばかりに、多少斜めに構えるようになったが――

平成24年2月13日

内原訓練所 

内原訓練所




私は中学三年の同級生と一緒に満蒙開拓青少年義勇軍訓練所へ何ヶ月か行く事になったとき、あれエー?はてな?あれじゃないのか、ここは?という疑問に取り付かれた。茨城県へ行ったこともないのに、不思議な既視感があるのだ。
 入所して間もなく、あれだッやっぱり!――と私は叫んだのだが、いつも大きな声でわめくので、級友にうるさがられる私なので、心の中で叫ぶだけにしていた。その心当たりは昭和十四年十二月号の「少年倶楽部」に掲載された山川惣治の絵物語「われ等の大地」であった。その中には農村の少年が、満蒙すなわち満洲や蒙古(モンゴル)で、農耕に従事したり、工場で働いたり、操車場の警備についたりするというものであった。
 その少年たちの回想場面「厳しい訓練所の生活、所長加藤完治先生の温顔。………」という説明が入っていた。
 そうして初めて訓練所長、加藤完治氏の清正といわんよりは、むしろ関羽といいたいような黒髭を生やした顔を見たとき、私はやっぱりこれだッと胸のうちで結論したのだった。私たちはあの少年雑誌に描かれていた訓練所に来たのだ、と私は「不思議な運命」のようなものを感じた。
 では何ゆえ同級生たちに、「ほら、あの山川惣治の絵物語の……」と思い出させ、あッそうかと言わせなかったのか。その年われわれはまだ十四歳にしかなっていなかったが、当時の少年たちの「衒気」あるいは「気取り」からすると、「中学三年〔旧制〕にもなりやがって、少年倶楽部なんぞまだ読んでるのか、幼稚くせえ、幼稚くせえ」とあざけられても仕方がないからである。「貴様はばかだなあ」と言われたって,フフンといっていればいいのだが、幼稚くさい、オクテな奴だと軽蔑されるのは業腹だった。そういう侮辱を受けてはならなかった。
 そこで、山川総治の画筆によって描き出された加藤完治氏の実物は、画像よりずっと迫真的であった。体格偉大で眼光炯炯、これぞ国士というものに違いないという風貌をしていた。彼は満蒙開拓者であり、青少年の特異な教育者であった。郷土に起臥した勇将、篤農、農村漁村の人格者、そのような人の話を両方の耳にたこができるほど聞かされていた私たちであったが、本当にそういう人がいるんだなあと思った。かつてこの訓練所に、天皇がお見えになり、畑に立って「この訓練所は何をするところか」とのご下問があった。加藤氏は言下に、「大和魂を作るところであります」と答えたという、このエピソードは、ちょっと出来すぎている。ご下問も昭和帝らしくない、これは内原でつくられた加藤完治伝に出ているのだが、彼を崇拝する編者が、誇張して伝えているのではないかと思う。
師を崇拝する弟子が何人もいて、そのうち二人が私たちに剣道や銃剣術を教えたのだが、少年講談に精通していた私はびっくり仰天した。加藤氏は実際に一流の剣客で、明治の剣聖山田次朗吉、榊原健吉の流れを汲む直心影流の達人だというのである。私は柳生新陰流と聞き間違えて、エーッと叫びそうになった。山田、榊原両剣聖について、講談には語られないから、ろくに知りはしなかった。
われわれに訓練場付属の道場で武道を教え、日ごろその訓練や監督もするのが加藤先生の門人で、二人とも下士官ぐらいの軍人に見えた。一人はイノズメ職長といい、もう一人はそれより年上で中年に近いソエジマ先生といった。加藤完治の流儀や系統はこの人たちから教えられたのである。
満蒙開拓青少年義勇軍訓練所、略して内原訓練所は、茨城県鯉沼郡内原村にあった。戦後六十年も経ってから、福井県の山本保男氏が、雑誌「正論」特別号で、そのころの少年がどういうふうに内原訓練所に入ったかの一例を書き残している。それによるとまだ十二歳であった山本さんは、高等小学校二年の卒業式を待たずに家を出て、町内の神社で大勢の人に日の丸で送られて、昭和十九年三月十七日に内原へ向かった。それが担任の先生に「満蒙開拓青少年義勇軍に志願したまえ」と強く勧められ、『お国の為』が皇国少年の心を躍らせ、勇み立ってすぐ思い立ち、実行に移したというのである。
山本氏は内原訓練所で四十日余り、粗食と体力を鍛える訓練を受け、釜山から新義州国境である鴨緑江を渡って満洲国の安東へ送られた。内原訓練所はそのように、少年たちを満蒙の地へ、いわば働く少年兵として送り出すためのものであった。そのころ私はここで半年も一年も教練に励んでから、外地へ送られるものと思っていたのだが、山本氏の思い出によれば、わずか四十日余りの訓練期間である。私たちはおよそ二ヶ月であったから、同氏より長い。入所は昭和十九年だったから、同じ年なのだが、私たちは秋の稲の収穫をした覚えがある。山本さんは十九年三月十七日に入所して、四十日の訓練だったから、四月にはもはや満洲へ行ってしまった後である。そこで私達が訓練中、山本さんと会わなかったのはわかるが、そういえば私達以外の少年義勇軍の隊員たちとの接触も、共同訓練もなかったと記憶する。瀧ヶ原でも鶴岡でもそうだったが、私の行っていた学校は華族学校なのでいつも一般人の師弟とは隔離されていたようである。だから無論私たちはその後、満蒙方面に送られるわけではなく、いうなれば校外実習期間を送ったのであった。宿泊するところは例によって兵舎で、日輪兵舎と呼ばれる妙な建て方をしてあった。それは満蒙へ行って入植しても、住居はやはり訓練所と呼ばれ、屋根だけは妙に軒の反り返ったような、満蒙風?を取り入れてあったので、内地の宿泊所もそれ式で、日輪兵舎と呼ばれていたものらしい。こういう兵舎に住まわせて、軍隊と農民兵式訓練を施すにあたり、前もってかの地の雰囲気を学ばせておこうという加藤完治の方針だったようである。
兵舎の中は左右に柱と寝床が並び、中央通路に食卓といすが並び、寝食をともにするという生活であった。その寝食、身の回りのことは一切自分でやらねばならなかった。交代で当番が決められ、飯の支度から食った後の食器洗いまで、自分たちでする。その食事の有様などはもうよく覚えていないが、めいめい食後の洗い物は、外にある屋根の長い建物で行う。すると洗い流した飯粒が一方へ流れる。その時刻をおぼえている放し飼いのアヒルが数羽、流しだし口へ寄って来て、飯粒を食っていたのだけは、変によく覚えている。
たとえわずかなりとも、飯粒が流れてきたのだから、内原での給食はそう足りなくはなかったという証拠になる。いくら人数が多くても、食べ残すことなんかもってのほかで、必ず一粒一粒戴いて食えというしつけを受けているのだ。それでも少々残している奴がいたのだ、それを洗い流しては何羽かのアヒルが食いに来ていたのだ。毎回腹いっぱい食べたという記憶はないが、五年生になってから瀧ヶ原、鶴岡に比べるとよほどましだった。

だが、当訓練所における加藤完治のヤマトバタラキには仰天した。今からいえば神がかり教育に近かった。ヤマトバタラキは、本来は日本体操と書いて、加藤氏の考案した体操なのだが、その名で、彼の特異な教育法がよばれているのである。訓練生は早朝に飛び起きると太陽を天照大神として礼拝し、水を浴びて身を清める。それをみそぎと称する。武道はもちろん、日々の農作業も神事として行われるのである。
一日の作業が終わって、その事を班長に報告するとき、「アッパレー アナオモシロ、アナサヤケ、オケー」と高唱する。今の人は一人だってわからないだろうが、そのころの「古事記」を元とし、「日本書紀」もそれに加えた神話教育を受けていた生徒だって、実はわからなかった。生徒だって、「記・紀」の原文を詳読している子なんて、なかったのである。これは日本神話に名高い『天の岩戸』がくれの条に出ている言葉で、岩戸に隠れた天照大神を再び外に出ていただくために神々が宴し、アメノウズメノミコトが、伏せた桶の上で、滑稽な性的舞踊を演じ、八百万の神々が大いに喜び笑ったので、岩戸にこもっておられた天照大神はいぶかしんで、岩戸を少し開けて覗いてごらんになった。とたんに怪力の神、アメノタジカラオノミコトがその御手をとって外へ引き出してしまうという一幕である。
私たちの習った教科書にも、鈴木三重吉の『古事記物語』にも、ここのところはアメノウズメの性的舞踊に『神々はいっせいに喜び笑った』としか書いてないのだが、原書には神々が『あわれ、あなおもしろ、あなさやけ、おけ』と叫んだと書いてあるのだ。加藤完治は訓練も、日々の営みも、『大いに笑って、たのしく、あかるくやれ』という趣旨から、この神々の笑いさざめき喜ぶ声を、毎日の唱え言葉にしたのであった。
学校の剣道、柔道の先生も、教練の教官も、必ずニコリともせず、まじめ顔一方で教導するのが常だった時代に、「常に和諧をむねとして」愉快にやるべしという方針であった。加藤氏の思想は珍重すべきものだったが、イノズメ、ソエジマ級の教官では、人物がそこまでは到らず、冗談を言ったつもりでも、級友たちはお付き合いに多少笑って見せるだけだった。かえって、イノズメが軍歌演習のときに、『箱根の山』を歌って、「かくこそありしか往時のさむらい……、」というのを聞いてひそかに失笑した。武士と書いて「サムライ」と振り仮名してあることが、講談や小説では多いので「かくこそありしか往時のもののふ」なのに、ここでも「サムライ」と歌うのだと、イノズメ職長は信じていたのだろう。
それに比べて、加藤完治先生は多忙だったから、めったにわれわれに訓話をしたり、武道を教えてくれることもなかったが、まれにその機会があると大抵微笑を浮かべていて、話はユーモラスであった。先生は剣や銃剣を教えるときも、素面、素小手であった。私たちは天下の剣豪というものが、本当にいることがわかった。きそって竹刀をふるい、タンポつきの木銃で突いてかかったが、手も足も出なかった。本当に足元にも寄れなかった。寄っても迫っても、得物が跳ね返されてしまうのだ。手ごたえだけで萎縮してしまった。しかし先生は片手使いでごくお手柔らかにあしらっておられるということがわかった。毎日稽古試合のつもりでも、もし本気になったら、われわれ如き群雀のようなものは、羽目板まで吹っ飛んでいっただろう。
現にあるとき、われわれの中に立ち混じって、先生が笑いながら語られるには、「以前は私も打ち返しを多少やったものだが、あるとき若い者の面をかるく打ったつもりだった。ところがその男はひっくり返って気絶してしまったんだ。そこでそれ以来、私のほうからは打たんことにしたよ」

私たちはもし千葉周作とか、斉藤弥九郎が今生きていたら、きっとこんなだろうと恐れ入ったのだが、実はこれらの剣客にたとえるのはふさわしくない。加藤完治は直心影流であった。
この流儀では心気とか、一念とかいうことを尊び、打ち込むときの必勝を教える。実際に直心影流は型稽古が本当で、竹刀や面・小手・胴の防具は重んじない。使われるのはものすごい、丸太のように太く重い木刀なのである。反りは少なく、われわれにはとても振り回せない。それをたとえば、イノズメ職長が振りかぶるのを見ていても、切っ先が少し左へかしぎ、振り上げたころから、ウ、ウウウーッとうめき声を発し、その念圧が次第に上がってくることがわかり、ウムムーッ!……、とそのうめきの極まったところでブンッと切り下ろすのである。型であるから相手の面に当たる寸前にヒタと止めるのだが、見ているだけで恐ろしい事この上もない。当時の剣道の稽古というと、やたら「そりゃーッ」とか「えいそらッ!」「ほりゃほりゃあッ!」などと叫び声をあげるのが多かったが、直心影流ではそんなやかましい叫喚は上げない。
この流儀が珍しいだけではなく、銃剣術がまじっているのも私たちには新しい経験であった。学校の剣道場にはタンポつきの銃剣術用の木銃も備わっていて、希には上級生でこれを使う者もあったが、私たち三年生ではまだ習わなかったのである。
私にはどうもそういう長い得物は使いにくかった。突き一方というのも受け払いがうまくいかなかった。しかし同級生の中にはこれが好きになった子も少なくない.N君は白狐のような顔をした、私同様「非行の多い少年」であったが、内原である日の稽古に、イノズメに稽古をつけてもらい、戻って私としゃべり、また乱取りの中を回って歩いているイノズメに挑戦し、三回これを繰り返した事があった。職長は稽古が終わっての講話で、「きょうは三回も私に稽古を申し込んだ人があった」と褒めた。N君は面目をほどこした。
イノズメ職長は若いだけにいくらか甘く見ても大丈夫というところがあったけれど、もう一人のソエジマ教官は、われわれを監視するときの基準がもっと厳烈であった。内原へ来て間もなく、ソエジマは夕方、休み時間中に兵舎に入ってきて、われわれに向かい、昨日も今日も、兵舎の近くを通りかかると大変さわがしい。ガヤガヤガヤガヤ、キャッキャッキャと(それを言うときソエジマは変な風に手を振り回したり、体をひん曲げたりして、私たちの不謹慎さを表現した)耳がどうかなりそうだった。私は何が起こったのかと思った。ここで訓練を受けて満蒙へ渡っていくものたちは、休み中でも就寝する前でも、そんな事はしまいと叱責した。私たちは学校の先生より厳正な教官があらわれたことを知った。
元よりそのときは神妙にしており、はいッと答えたのだが、この教官はどこの出身かは不明ながら、かなり訛りがきついので、言葉は三分の一しかわからなかった。それに小太りで大男のおじさんというものは、少年にとってどこか可笑しく見えるもので、カゲでは笑いものにしていた。当人もそれは感知していて、一度、「標準語を使えない、かわいそうなソエジマと思ってください」と殊勝なことを言ったことがある。

軍歌演習というのも訓練科目のうちなのだから、皆で歌をうたうといっても、楽しいものではなかった。しかし「箱根の山」をイノズメが歌唱指導したことでもわかるとおり、歌がすべて軍歌だったわけではない。特徴的だったのは、ここにも加藤先生の個性が反映していることで、彼のヤマトバタラキ教育に従って、内原にしかない歌がたくさんあることであった。
むしろ「戦友」とか、「勇敢なる水兵」とか「道は六百八十里」「抜刀隊」などはあまり歌わされなかった。例えば訓練所の生活歌というのもちゃんと作曲されていて、朝の起床は「朝霧破る法螺の音に高原の朝あけゆけば……健児禊に奮い立つ」と歌われ、以下食事・農作業・軍事教練など一日の日課を歌いこんで、十番まである。
無論、満洲や蒙古(モンゴル)へ行ってからの青少年軍を励ます歌もあって、これも長いのでほとんど忘れてしまったが、その中に「広漠千里満洲に、未墾の沃野われを待つ」というのがあり、これを「未婚の婦人われを待つ」と歌い替えてひそかに歌っている奴があった。また「地平の果てに日は赤く興安嶺の森暗し、いざ起て健児いざ行かん」という歌詞も覚えている。
この「興安嶺」の一句に、万感胸に迫って、しばし沈黙するという人は、もう八十を越えているであろう。その時代、大興安嶺は「益良男中村震太郎 行く手は暗し興安嶺……」と歌に歌われ、山中峯太郎によれば、悪の秘密結社シオン同盟がひそむところであり、赤魔バザロフの支配する敵地であった。軍事探偵や蒙古の荒鷲王子カッサルは、必ずこの暗い森に包まれた連山をめざして潜入しなければならなかった。戦後始めて実際にこの山のふもとに佇んだ私の級友の一人は、しばし頭を胸につけて思いに耽ったが、フト気がつくと、同行した日本人たちは皆若いので、シラーッとしていたという挿話もある。
加藤完治氏は風雅の嗜みもある人で、これらの歌の歌詞を作り、歌集さえ出している。それらの小冊子は私達にも配られ、幸い一首だけは覚えている。「右に剣 左に鍬を握り締め 進めや進めシベリヤの原」
軍歌演習の他に詩吟さえ教えられた。私は生まれてはじめて「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更――」などと唸るのを覚えた。歌唱と同じくソエジマやイノズメが一行一句ずつ、先に吟じ、歌い、それをわれが真似して歌い、唸るのである。何しろ物覚えのよい年頃だから、大抵その時間内に覚えてしまった。
当時、方々にこのような訓練機関があったのであろうが、そのどこでも一日中囚人のようにしめつけられ、牛馬のごとくこき使われたように伝わっているのは大ウソである。内原がとくに寛大な訓練所であったとは主張しないけれども、それらのたぐいがすべて、牢獄か奴隷農場のようだったと思っている人たちには信じられないだろう。内原では映画上映さえあったし、学芸会のような劇を演じた事もあったのである。映画は「小太刀を使ふ女」で、一口にいえば女剣士を主人公とする時代劇だった。むろん主演女優も監督もおぼえていない。大体そのころの男の子はそんなものを覚えていないものだ。覚えていて詳しいのは少年小説のストーリーや挿絵画家、漫画家の名前だった。「小太刀を使ふ女」は幕末に美人の女剣士が活躍するのだが、そういうタイトルでありながら、あんまり剣劇場面はなかった。
劇は驚くべし、「シーザーの暗殺」で、しかもシェークスピア原作でもなく、プルターク英雄伝からとったのでもない。西洋史のツバメから教わったシーザーの話を文学的才能のあった級友の一人、池上君が脚色創作したのである。
ツバメというのは眼鏡をかけた声の甲高い、いささかヒステリー気味の歴史教師であった。仇名の由来は今でも知らない。「――そこでイギリスは二つに分かれて争ったのであります。しょうび戦役、薔薇戦役、どちらでもよろしい」とせっつくように言う、私が怪我をして所内にある病院に入っているとき、見舞いに来てくれたが、小説が読みたいというと、なんと、森鴎外の「吟遊詩人」を持ってきた!整列中に後ろのほうでおしゃべりをしている生徒があったとき、とつぜん「そこ、何をしゃべっている。ヤメヤメヤメイ!」と叫び立てた。一同そのけたたましいのにびっくりした。
ツバメはローマ史のシーザーの部分を教えるに当たって、用いられていた中等西洋史の表記法に従って、ケーザル、ポンペイウス,ブルーツス(ブルートゥス)カシヤス、カスカと発音した。もちろんシーザー〔ケーザル〕を前半生は英雄、最後になって心驕り、共和制ローマを専制王国にしようとし、おのれ自らが王たらんとした者、ブルーツス(ブルートゥス)はケーザルと親交があったにもかかわらず、その人徳と正義心ゆえに、ケーザルを斃さねばならぬと決心したもの、カシヤスは過激でケーザルを私的に憎むもの、カスカはそれを煽り,媚びるへつらい者として教えた。それらの原料を基にして、この素人劇をつくった級友は、もちろんケーザルとブルーツスを対立者として中心におき、ツバメの教えた通りの性格設定を行なった。衣装も舞台背景も一切なく、ただの大広間で行われるのだから、出演者すべてはシーツや毛布を体に巻きつけて、何とかローマ人らしい形をつくった。といったところでわれわれの頭には、教科書と当時少年の間に流布していた澤田謙の要約本、プルターク英雄伝の挿絵しかなかったのだ。後から考えると、噴飯物でしかない。
私は独演で、滑稽講談雷電為右衛門かなにかを演ることになっていたから、「シーザー劇」には出ていない。シーザーはハン公が、ブルーツスはキンサイと呼ばれていたK君がつとめた。大マジメでギャグの一つも入っていないのだから、ツバメ自身も他の教官たちまでも見物席から拍手してくれた。
演芸会などでついハメを外すと、厳格なソエジマ教官などの叱責を招くこともあり得たのだが、この夜は幸いそんな事はなかった。演芸会がかなり夜遅くまで行われ、大半の生徒は見物席にいたとはいえ、こっそり抜け出してどこかへ遊びに行くというような違反行為も考えられないのだが、実はいくらかそのような、ツバメ、クロトン、チグリスたちの神経にさわるようなことをした奴も、少数はあったらしいのだ。演芸会の直後、私は妙な秘密命令を受けた。今夜全員就寝の一時間後、教官宿舎に出頭せよ。ただし、このことを誰にも言ってはいけないというのである。
私は肝心のその密命を下した教師がだれであったかも忘れてしまった。さしあたり、叱責されるような違反行為はしていなかったにもかかわらず、私はどうせ何か咎められ、懲らしめられると思ったはずだ。それでもひそかに起きて、教官宿舎に向かいながら、辺りを見回して、俺は夜の密使だとつぶやいた記憶があるから、そんなにこわがってはいなかったのであろう。
教官宿舎といったって、私たちと変わりのない日輪兵舎である。教官たちといえども、まあさかんに煙草を吸うぐらいのところで、生徒の寝静まるのを待って、酒を飲むとか、何らかの手段で手に入れたうまい物を食っているとか、そういうことはなかった。担当教官が私を迎えて、座りたまえと言い、近頃こういうことはないか。耳にしていないかと聞いたとき、私にはしかられるのではないことがわかった。彼らは私に一種の密告提供者であることを求めているのだ。そのときの私の感覚では、友達を裏切らせるのか、先生の癖に卑怯ではないかという反応は起こらなかった。さりとて先生方のスパイを勤めることを名誉だと思うほど、私は教師というものに対して忠順ではなかった。第一、級友たちのひそかな行動とか、内緒話などで、彼らのうちのだれそれが、違反行為をしているなという事を感づいてもいなかった。私は知りませんと答えた。私は級友たちよりオクレ始めていて、お調子者、腕力も大したことはない奴と見られていたから、悪事の一味に引き入れても、信用ならねえ奴だったらしい。ということは、私が何も知らないということである。私はしばしば非常識な言動をとる級友と評価されていて、その点――仮想上の不良行為の一味に加わるには向いていなかったのだ。
教師はこいつ案外小心でお人よしだなと思ったらしい。そうか、実はな、と言って遠まわしに、夜ひそかに脱走してどこかへ行き、またこそこそと帰ってくる奴があるようなのだと、それだけは打ち明けた。私は仰天した。ここは内原村という田舎の田園地帯なのだ。夜こっそり数キロ先まで出ていったとしても、喫茶店、映画館はもとよりのこと、ろくな町も、飲食する店もないはずだ。もしそのように不心得者があっても、何が得られるというのだろう?
今後も気のついたことがあったら密告せよという事をいわれて私は帰されたが、その後も、何も少年たちのスリル感を煽るような噂も、コソコソ話もなかった。教師からまたの呼び出しもなかった。内原訓練所から東京へ帰ってから大分たって、こんな噂が伝わってきた。ある少年がさびしくなって、あるいは強行訓練に耐えられなくなって、東京の自宅に帰ろうとして、失敗した。ところが次の機会に彼は成功して、まんまと夜のうちに自宅へ帰ってしまった。父母は狼狽して学校へ連絡してきた。――これだけの事だった。悪の一味の活躍でも非行でもなかった。気も弱く、体も丈夫でない一少年の、今思えば同情すべき行動にすぎなかった。

一日の農作業が終わると、訓練場の中央にある農具庫へ、その日使った農具を返しにゆく。たいていは刃が三本ある備中鍬であった。本来この訓練所にいる訓練生たちは、その農具返納の際にも、例の「アッパレー、アナオモシロ、アナサヤケ、オケー」という句を唱えてから、鍬の刃についた土を落としにかかる。私たちには加藤完治先生はそれを強制しなかった。この句を訓練生が高々と唱えている間、それぞれの班長は黙って聞いていて、それから「よしッ」というのである。
われわれはその儀式はなしで、そこらに落ちている小石をひろって、鍬の刃に突いた土をこすり落とし、ほとんど元通りのピカピカにしてから、農具庫の中の「鍬かけ」に整然とかける、徹底的な整理整頓はそのころの軍隊教育の「病癖」であった。
備中鍬はその三本の刃から考えても、平たい一枚の刃でつくられている普通の鍬と違って、ザクッザクッと土を突き崩す「開墾用」であった。ザクッ!と一堀りした土をグイと引いて、刃にかかった土をひっくり返す、すると日光と、そこに植えてあった作物のおかげで、地味のやせていた表土が、その下の、まだ地味豊かな土と交代する、これを「天地返し」というのだと、私たちは教えられた。さらに土を細かに砕いて耕し終わったところに溝をつくる。そこへ施肥する。それが済んでその排泄物を畑の土に鋤き込むのである。そうしてやっとその畑に作物の苗を植え、または種を蒔く準備が整う。問題はこの「施肥」なのだ。
のちになって学生だったころの思い出を語り、また書くときに、内原訓練所といえば、皆それが一番臭くて、辛くてキタナイのでやりきれなかったと回想するのがこれである。
それは毎日われわれが排泄しているものを、桶と柄杓で汲み出すことから始まる。私たちは二人ずつ組んで、共同便所の汲み取り口から、肥柄杓でその汚物を汲み出し、一人が縄を支えている肥桶にあける。これもずいぶん大変だったが、最も臭くて辛かったのは、その満杯になった肥桶を二人、天秤棒で担いで、畑の現場へ運ぶ労働であった。ずいぶん重く、畑は遠いのだが、イヤそんな事は苦労のうちに入らない。歩調を二人逆にしないと、桶の中のものがピッチャピッチャ刎ねて先棒はまだいいが、後棒がかなわない。その波うち漲る汚物を、縄でゆれないように押さえながら、全コースを運び終わるまで、じっとみていなければならない。一呼吸ごとにその臭気をかがねばならない。
生まれでこの方、そんな労務をしたこともないわれわれは、はじめてお百姓さんの苦労ということがわかった。乃木希典が玉木文之進の下で、この作業もやらされた。その伝記をさんざん読んでいる。「うまくやらないと、顔に汚いものがハネかかります。」という描写をマザマザと思い出した。この臭さ、辛さばかりは終生忘れられない。
施肥を終わるとカラになった肥桶へ肥柄杓を放り込んで、近くにある池まで行かねばならない。その池が「肥桶、肥柄杓洗浄池」で、そこにいくつか束ねてあるワラで中まですっかりキレイに洗い、池へ流し捨てなくてはならない。これも相当に辛かった。あとでいくら手を洗っても、悪臭は抜けなかった。何しろシャボンというものがないのである。
ある同級生はこのときの思い出の中に、サツマイモ掘りのとき、手についたアクが落とせず、共同浴場でも、湯で洗うばかりで、次第に手が汚くなったと記している。イモ収穫の後、ムギを蒔き、十一月には筑波おろしの寒風の中に、夕ぐれまでムギ踏み、軍歌「歩兵の本領」〔万朶の桜か 襟の色 花は吉野に嵐吹く……〕と歌いながら、日輪兵舎まで帰る――という農作業の一日をも述べている。
級友の回想の中には、このときより一年後に行って、終戦をその地で迎えた山形県鶴岡市でも、多少は米軍の空襲があったと記録してある。私はポンツクでその記憶がない。しかし、右に記した同級生は内原では空襲こそなかったが、訓練所の隣に筑波海軍航空隊があり、そこに最近配置された戦闘機、「鐘馗」が、毎日飛び立ってゆくキィーンという音を聞いたという。「その都度離着陸の頻度が加わるので、近くの海での戦いの烈しさを感じたのであった」と記述している。「その証拠に、一日一回必ず魚雷を一本積んで、飛び立った複葉機が帰ってきたときには魚雷が見えないことが多かった。それは近海に出没した敵潜水艦に、たった一本の魚雷を落として来たのだと、それとなく戦いの厳しさを察したのである。」
この生々しい描写でもよくわかるように、戦況は月に日に切迫していたのだ。われわれの訓練が辛苦だったなんていっている時ではなかった。次々に満蒙へ送られ、農耕し労働し、同時に銃もとって戦っている訓練生――少年義勇軍の身の上はちっとも他人事ではなかった。同じころ〔昭和十七年~二十年〕すでにフィリッピン方面で、偵察や空輸の軍務につき、二十年には特攻隊に加わっていた同級生もいたのである。

私たちはその年〔昭和十九年〕の末に内原から東京へ帰って行った。この十一月に煙草は配給制となり、新聞のページは週十四ページと決められた。
東京初空襲があったのは、その年の十一月二十四日であった。すでにグアム、テニアンの日本軍は全滅し、レイテ沖海戦も済んでいた。真に驚くべきは、この年の十二月七日、東海地方に大地震と津波があり(死者九十八人)次の年昭和二十年一月十三日にも同じ東海地方に、死者一九六一人の「三河沖地震」が起っているのに、私はもとより、当時を生きた者、誰一人それを覚えていないことである。(厳重な報道管制がしかれていたのだ。)

ヤマトバタラキ教育の国士加藤完治氏は、戦後二十年もたってから、「かつてご薫陶を受けた」というある社長から承ったところでは、戦後も県民諸氏の尊敬を失わず、普通の学校の校長として、一生を少年の教育に捧げられたということである。 H23.12.19


終戦間近 



終戦間近(「大空襲」の続編)


前篇「大空襲」では、「私は瀧ヶ原演習場から自宅の最寄の駅、省線恵比寿駅まで、貨物列車で帰ってきて、もっと先まで行く二、三人の級友たちとあっさり別れた」と書いた。いま、列車の左右に惨憺たる焼け跡が広がっているのを、初めて見た十五歳の少年同士である。これから帰る彼らの家も、父母兄弟も無事かどうかわからないのである。それなのに、「さよなら」でもなく「明日また会おう」でもなく、敬礼を交わしただけで、貨車から飛び降りて別れるなんて、どうかしていると今なら言うであろう。
それでもそういうのが当時の子供同士であった。「明日また会おうぜ」といったって、明日まで空爆はないとは、誰にも言えないのだ。「じゃあ、元気で」とも「君んとこ無事だといいね」とも、空々しくって不自然で、口から出ない。「それじゃ、命があったらまた会おうや」という冗談も、洒落ももう使い古していたのだ。
そのようにして別れた級友の家の何軒かは失われ、家族を失ったものもあり、いやそれどころか、もう瀧ヶ原へ軍事教練に行く前から空襲があって、級友のK君は小学校からずーっと無欠席という健康児だったのに、焼夷爆弾による火災によって焼死し、子豚のようなのでイリブーという仇名であったI君は、日ごろごく目立たない生徒だったのに、一旦家から逃げ出す事ができたのに、お母さんが見当たらないというので、燃え崩れている家の中へ引き返し、引きずり出すようにしてお母さんを連れ出し、そのとき負った火傷で死んでいるのである。ごく普通の小中学生でも、男女を問わず、戦死に近い死に方をしたものがあったのだ。駅であっさり別れた同級生だって、明日、あさって、また登校してくるとは限らなかった。「命があったらまた会おうぜ、アハハ」などといってる場合じゃないのに、それが日常生活だった。
一例として、級友に本を貸す場合、「焼くなよ」と言って貸す。借りるほうも「さあ?」と言って受け取るほかはない。返すときまで、「焼けやしねえよ」と言える保証はない。焼けたって自分の責任ではない。「気をつけろよ」と言っても気をつけようがない。「アハハ」とでも言うしかない日々であった。
ほとんど毎日のようにラジオは、「東部軍管区情報。東部軍管区情報。敵一機、九十九里浜方面より接近しつつあり」とか、「横鎮中管区。横鎮中管区。警戒警報……。」などと放送していた。警戒警報なら、まだ敵機は上空から現れるとは限らないが、「空襲警報!」とラジオが伝えればもう二、三分で上空に「不気味な爆音、魔鳥のごとき大翼」のB29が現れるのである。あらゆる公共機関はもちろん、学校からも火の見櫓からもサイレンが鳴り渡る。それも警戒警報と空襲警報とでは音が違っていた。市民は――われわれは――震え上がったであろうか? うぬ、とばかりキッと空をにらんだであろうか。初めのうちはそうした者もいただろうが、すぐ慣れっこになってしまった。慣れという学習行動ほど恐いものはないが、しかしこれがなかったとしたら、毎日毎日ドキッとして,はっとして、驚き慌てていなければならない。市民もわれわれも、初空襲のあった一九四四年〔昭和十九年〕十一月二十四日以来、二ヶ月もたたないうちに、ラジオのない場所で突然サイレンを聞いても、空を見上げなくなってしまった。
防空演習というものが、民間でも学校でも頻繁に行われていた。これは私達中学生にとって、初めは多少刺激的だったが、まもなく退屈してしまった。防空壕へ飛び込むのも男の子だから一番早いに決まっているが、壕の中は狭苦しかったし、鳶口でもつきたてて、壕の入り口に歩哨のように立っているほうが格好がよかった。とうとう爆撃を食らったら、出来るだけ地面に伏せて、目及び耳を指でふさげと教えられた。そうしないと爆風で失明したり鼓膜を吹き破られると言うのであった。伏せるのも爆風でぶっ飛ばされるのを防ぐためだった。何でも爆弾という奴は、地面に落ちて炸裂する途端、ごーっと烈風が起こる、それは逆三角形に吹くもので、伏せていればその爆弾の破片や土や石が飛んでくるのにぶつからない空間にいる事になり、ぶっ飛ばされずに済むという理屈である。もっともこの方法で、無事助かったという子の話は一つも聞いた事がない。
一方降ってくるのが機関銃弾であったら、そのほうが恐い。それは敵機の低空飛行による機銃掃射であるから、敵は私たちの一人一人を狙って撃ってくるのだ。もう無我夢中で逃げ、僥倖を祈るしかない。それを食らった幼年学校生の級友は、走っている足元にジグザグにバシッバシッと砂煙が立った。目を上げるとめがねをかけた白人の顔がチラッと見えたと語った。「いや、そんなに恐いもんじゃねえよ」と彼が言うから、「強がり言ってやがるんだろう。なに、恐くねえことがあるものか」と言ってやると、「しかしいっぺんで頭上を飛びすぎてしまうから、もういっぺん機首を返して撃ってくるまでに、どこかへ逃げ込めばいいんだ。」との答えであった。またあるオトナの男に戦後になって聞いた話では、このように盛んに機銃掃射をやらかしていた米機が故障を起こしたらしく不時着した。村の人たちがワーッと押しかこむと、米兵は両手を挙げたが、なに、この野郎、散々俺たちを撃ちまくりやがってというので、寄ってたかってぶちのめしてしまったと。


前期の「東京初空襲」以来、小編隊の爆撃はときどきあったが、私が瀧ヶ原の夜の空で見た爆撃はまさに希に見る大編隊で、被害も甚大であったというので、特に「東京大空襲」と称したのである。私達は空襲警報があり、爆音が聞こえると、家族、子供同士、屋上へ上がって見物した。爆音は不思議に味方の軍用機と違って、ドロロン、ドロロンと重層して聞こえた。これも不思議にドカーンという爆裂音に伝わらず、ばあっと立つ火柱も見えず、やがて空のほうへ真っ赤な火や煙が見えるのであった。それは大変美しく、何やら瑠璃色を帯び、パッパッと閃動し、雲に反映していた。私達は花火を見るように、ワーッきれい、きれいと叫んで眺めていたものだ。数十年隔てた現在から思い出すと正気の沙汰ではない。そのころの少年少女は、木か石のように鈍感だったのか、冷血で馬鹿だったのか。「嵐にほほえむ幼子」のように幼稚であったのか?しかも大抵当時の少年少女に聞くと同じ事を言う。無論戦災を受けた当事者、その爆撃点の近くにいたものはそれどころではない。だが、夜景としてははるかかなたに見えるくらい離れたところにいた者は、相手は飛行機なのだ、まもなく自分たちの上にも爆弾が落ちてくる事は承知で、なおきれいだと叫びつつ,アハハと言っていられたのである。現在でも自分の住む町や村が戦時下にあって、上空から死が降下し、自分たちも銃を取って戦い、敵兵に狙撃される事もある国の子供たちはそうだろうと思う。
 必ずしも勇敢なのではない。「生活の責任」を持たない男の子たちは、生命を軽んじ、「ヘッヘー、命を投げ出していれば恐い事はないよ」と軽口を叩いていられた。その中にも特に愛国熱血的で、「君ら、そんな事を言っているときか、非常時だぞ!」とまじめな顔をして怒る者もあった。当時にあってさえ、熱狂的愛国者は希であった。ただ、そのように激しく信条を吐露して叫ぶ友達を冷笑はしなかった。せせら笑うにも、無法に振舞うのにも限度があった。終戦の数年前から与太ついている軟派、不良少年という者は次第にいなくなっていた。困るのは校内でもその風潮に乗って、いわば硬派の不良、無頼浪人みたいに肩をいからせた武断派が幅を利かせることであった。彼らは上級生の命令には絶対服従だぞと称し、お前たちはたるんでるぞと呼号し、生意気な下級生にヤキを入れ、校内で偶然出会った一人に、「だれそれを呼んで来いッ」と命じ、「そんな無理な」と言いかけただけで、「なにッ?」と鉄拳を示してすごんだ。気に食わない先的にジャックナイフをぶつけた凶暴な奴もあって、長らく黒板にグサと刺さったその傷跡が残っているという、伝説の持ち主もあった。
 そういう手合いに反抗してもかなわないし、そやつが落第でもして来ないうちは、集団で復讐することもできないので、「心ある者」は武士道の心得で、木村重成に倣って、耐え忍んで将来を期した。例の機銃掃射を食らった幼年学校生も、柔弱なくらいおとなしい少年だったし、喧嘩なんかした事もない塚原君というのもそうだった。しかしこの少年については、柔・剣道やスポーツの達者な級友は、「あいつは本当は強いぜ、けっこうやるぜ」と言っていた。あるとき、そんな事は気にかけない無神経な奴数人が塚原君の帽子を隠したり、何かしてからかいかけた。しばらく黙っていた彼は、突如席から立って、「貴様ッ!」と一言帽子を取り返した.その気迫には二、三人もいたのに,皆引き下がった。あるいは彼は本当に塚原小太郎(卜伝)の子孫だったのかもしれない。
 その「貴様」という言葉であるが、そのころまではずいぶん乱暴な言葉で、喧嘩をする決心をしない限り使わない言葉とされていた。お互いを呼ぶにも「僕、君たち」であった。一般にうちの学校には代々陸軍の家柄というのがあって、幼年学校へ行った少年もその一人であった。海軍の家系というのは少なかったように思うが、不思議に姿風端麗なのは、海軍士官ということになっていて「俺、貴様」と呼び合う海軍用語が、昭和十八年から二十年にかけて流行し始めた。ボク、キミなどというと柔弱呼ばわりされかねなかった。父か兄のお古か、ポケットのない海軍士官のズボンを穿いて得意になっている奴もあった。もし腰に下げるのなら、陸軍の野暮な軍刀よりも、海軍士官の金モールのついた短剣のほうがよいと、多くの級友が思っていて、私もその一人であった。巡査のような長いサーベルにはあこがれなかった。何しろ当時、おまわりさんは、剣吊り虫と呼ばれていたのだ。


 私もそのころは、海軍系で父は技術将校であった。航空発動機の専門家で、日本初の飛行船の設計に加わったことがあった。理数に強く、ドイツ語が達者で、秀才で物堅くて何しろ手がつけられない。私の苦手なことばかり得意なのだ。
だから技術師で航研にも勤めていたわけだが、軍人ではないので、いつも背広を着ていた。しかし、海軍工廠〔呉軍港〕の出身なので、軍装一揃えは授けられていた。着ているのを見たことはない。私はあるとき、こっそりと父の洋服箪笥を開けて軍服を出し探した。父のそのときの階級は大佐だった。したがってズボンの裾は広がっていなかった。あれは水兵がもし海に落ちたときに、すぐ脱げるように、ベルトもなく裾は広がっているのだ。そこで歩くとズボンの裾がバラリバラリと足に当たってとてつもなく格好がいいのである。「スマートで目先が利いてきちょうめん、負けじ魂これが船乗り」と、そのころ言われた江田島の言い習わしは間違いではない。
父の軍服の裾が普通なので、がっかりした私は、続いてそこにある金ごしらえの短剣を手に取った。なるほど少年たちがあこがれるはずだ。まっすぐで鞘は黒く、こじりには金色の玉がついていた。抜いてみようとしても抜けない。だがそのころの男の子だ。抜き方ぐらいは心得ている。柄のところにボタンがあって、それを押せばスラリと抜けるのである。手入れしているのを見たことはないのに、煌々と輝いていた。そっと刃に指を当ててみたが、刃はついていなかった。陸軍の銃剣にも当時は刃なんかついていず、出兵となると、先端から三分の一まで刃をつけていくのだ、とある陸軍軍人に聞いた事があったが、海軍もそうなのだろうか。銃剣は(剣つき鉄砲)というとおり、銃の上に装着して、敵を突き刺すものだが、海軍の短剣を抜いて戦うことはまずあるまいけれど、陸戦隊で地上の家の中にいたとき、出し抜けに敵に襲撃されて、とっさに短剣で応戦した話もあり、これを用いて割腹した仕官もあると聞いているから、少なくとも三分の一は刃がついていたのだろう。
瀧ヶ原から四ヵ月後、私たち〔旧制〕中学四年生は、山形県鶴岡市に集団疎開することになった。実情は帝都上空がいよいよ危険なので空爆のほとんどない他県に避難させようということだった。しかしそこで訓練も作業もあったから、いわゆる学童疎開とは言えない。かといってその訓練や作業が軍部から課せられたものではないという点から言うと、徴用されたとも〔挺身隊〕とも言えない。今になってどういう性格の移動・団体生活だったのか、正確にはわからないが、汽車を一輌半ほど借り切っての旅行だった。鶴岡駅で下車、隊列を組んで、荷物を担いで着いたのは、一見旅館のようなところで、めいめい布団包みを親から送ってもらって、畳の上で合宿するのだ。だから、初めのうちは旅行気分でないこともなかった。
だが、他には泊り客などなく、第一宿の人たちというものをほとんど見たことがない。とっくに営業できなくなった空き宿屋を学校が借りたのだと思われた。それも普通の宿屋ではなさそうだ。「こりゃあ料亭か、妓楼だぜ!」と私は級友たちにひとっぱしの口をきいた。
私達は三年生のとき〔満蒙開拓青少年義勇軍〕の内原訓練所で、合宿生活をした経験があった。そのため、多少ながら農作業をしたこともあったから、除草をしたり畑を耕したり、鋸鎌で稲を刈ったりする事は覚えていた。生徒たちは三つの作業班に分かれ、一つが農作業であった。私はその班に加えられた。
第二班と第三班の作業というのは、完全に大東亜戦争的であった。第二班は市街各地に行かされて、松の根っこを掘って、掘り倒すのであった。そのようにして掘り出された松の根から、代用ガソリンの原料を採取するというので、これによって皇軍将兵の乗る飛行機を飛ばすと教えられた。教官はもっともらしくそういっていたが、実のところこの「松根油」なるものは、ガソリンの代用品と言えるかどうか、すこぶる怪しいものであった。松ノ木の丸一本分の松根油で、戦闘機が数十メートル飛ぶかどうかというのだから、お話にも何にもなったものではない。教官も知っていてやらせたのかもしれない。勤労精神の訓練だと言えば、何であろうと有無を言わせず、正当化できるのだ。私たちはまじめに戦地の兵隊さんの必要とする物を生産しているのだと信じて、細腕にシャベルをふるっていた。


第三班の仕事、缶詰工場でのお赤飯の缶詰生産を手伝うという作業は、さらに究極的な戦争参加であった。当時日本軍は熱帯アジア全域に戦争を展開していたのだから、そこへ将兵が祝日に食う為のお赤飯を送るとすれば、缶詰にしなければ腐ってしまう。だが多くの将兵にいきわたるほどの赤飯はもう行き詰った日本では生産できなかった。少数しか送れなかった。その少数とは神風特別攻撃隊の隊員であった。彼らがついに明日出撃という日に食う、いわば「名残の飯」がその缶詰の中身だったのである!
そこへまわされた少年たちに、特攻隊の人々に送る缶詰を作る気持ちはどんな気持ちだと聞く者はなかった。第三班の少年たちも、べらべらとそれをしゃべるものはいなかった。いくら戦地でも銃後でも、人命が草芥の如く散って行く時代だといっても、特攻隊の噂は、アハハ口調でしゃべりあうには深刻すぎた。第一、そのような攻撃に加わり、実行する年上の若者たちの心情が、わかりはしなかったのである。事実上実戦に出る少年兵と、半ば同じような教練を受けていた私達でも、特攻兵になるかならないか、選択せよと言われるまではわからなかったであろう。
そのような生活であったが、軍事教練専門の瀧ヶ原生活とは違って、警報は鳴らなかったし、空爆もない鶴岡での生活は、そんなに切羽詰っていなかったし、とりわけ教練は辛くもなかった。
学課のほうはおろそかになっているのだから、こんな楽なありがたいことはない。当時の教え方では、「勉強好き」なんか一人もいなかった。私はもちろん国語、作文、理科が得意なのだが、その私にして当時は国語や作文や理科が好きで、授業が楽しいと思ったことはない。危なくそれらさえ嫌いになるところだったのであるから、他は推して知るべしである。
それらの苦役はあまりしなくてもよいというのだから、猛烈な作業の最中だってそのほうがましであった。暇だとすら感じた。それでいて生徒たちの文学的志向とか、科学する心とかが、依然健全だったのは、市内のもうろくに本が残っていない本屋から、休日ごとにどんどん本が減っていく事でわかるであろう。本屋でありながら、店の棚はほとんど空っぽで、どうしたことか改造社の「世界大衆文学全集」のSF小説「メトロポリス」だけが何十冊もあった。それが忽ち十冊以下に減った。自由時間の度に親からもらってきたお小遣いで、級友たちが買っていくのである。町の他のところで、何か飲食物を買いたくても、菓子屋も喫茶店もパン屋もほとんど廃業中か、品物がなかった。
私は「メトロポリス」を買わなかった。その必要がなかった。実は私は暇があったから読む本がなく、退屈することを十分に予想して、布団包みの中に三、四十冊の小型本をひそめていたのである。読んだことのない新本の大衆小説ばかりであった。そんなものが物資欠乏の時代にどうしてそんなにあったのか。
それにもまことに戦争中らしい理由があった。渋谷代官山で戦災後、私達が転げ込んだ伯父の家は世田谷にあって、巡洋艦艦長の伯父には三人の娘があった。
支那事変の最中、キャンペーンが起こったのは「慰問袋」で、布袋の中に菓子、衣類などを〔特に兵隊を励ます手紙、歯磨き、甘納豆、蚤取り粉、手ぬぐい、便箋、絵葉書などがいいとされた〕を、「関東軍司令部御中」と書いて送れば満州に着いた。受け取った不特定の兵隊と手紙のやり取りをしている子もあったし、慰問文の書き方のうまい子さえあった。これらをめぐって、数々の失敗や小事件や感激美談が伝えられた。
世田谷の伯父の家には、この慰問袋ブームが終わってからも、かつて送ろうと思って大量に買い込んだ小型本が残っていたのである。私は狂気して片っ端から読み始めた。そしていくらも読破しないうちに鶴岡行きということになったのである。伯母からもらい受け、父に布団包みの中につめてもらってどっさり持って行った。それを暇暇に読んでいると、もちろんそれだけの用意をしてこなかった級友が多いから「何だ、何読んでんだ」と覗き込んで間もなく、オイ貸してくれ、俺にも見せろ、けちけちすんな,減るもんじゃねえと、口々に勝手なことを言って借りていくようになった。あっちの座敷でもこっちの柱の下でも、読んでいるのは私の小型本であった。
私はたちまち私設図書貸し出し屋になった。およそ面白くもない日常の無聊に苦しむ少年たちの大方は、南洋一郎や赤川武助や、山中峯太郎は卒業し、父兄が児童図書なんか送ってくると、チェッ幼稚くせえやと吐き捨てる生意気盛りである。そこへ行くと私の布団包みに忍ばせてある本ときた日には「神変呉越草紙」「島原美少年録」「幻の義賊」「疑問の黒枠」「剣侠受難」「博士邸の怪事件」「緑衣の鬼」「雪之丞変化」といったような通俗小説の精髄ばかりだったのだ。
喫茶店に入るのはもとより、映画をオトナの同伴者なしに見に行っても純然たる不良行為とされていた時代のことである。中学に入るとき、さすがに〔学校を仲立ちにして本の貸し借りをするべからず〕というおきてはなくなったが、私達の多くは中学二年までは飲食店に入ることさえスリリングな冒険行為であった。しかし、四年ともなると、自由時間あるいは家庭内で通俗小説を読むくらいは許されていた。鶴岡の宿舎でも教師に私の小説本を見られてもとがめられることはなかった。級友たちが熱中して借りに来たのも無理はない。全員娯楽としての読書に餓えているのだ。借りたきり返さない奴というのもなかった。私はそのころ少年たちが保守的になり、厳粛になっていたといったのはそのような意味である。


一番辛かったことは何か、予想されたとおり、腹が減る事であった。内原訓練所でもしょっちゅう空腹だったが、そこは農本主義の教育をするところで、米を作りサツマイモを生産するところであったからそれほど辛いことはなかった。だがそのように、飯だけは十分食えても、“腹の中にオオカミが一匹ずつ住んでいる“男の子である。それなのに、鶴岡では米が乏しく、飯が少なかった。交代で給食係をする生徒たちは、常にしゃもじを上手に使って、ふわーっとたくさんあるように見せかけて、盛るのに苦労した。飯が少なく大抵大豆であった。汁の実はサツマイモのつるであった。足りねえ、足りねえ、とこぼす生徒たちに、クロトンやチグリスは教えた。まず豆を拾い出して、一粒六十回咀嚼せよ。次に飯を一箸ずつ口に入れて、同じくトロトロになるまで噛み、ゆっくりと嚥下せよ。そうすると凌げる!……”武士は食わねど高楊枝“だの、”空腹なときには頭がよくなる”などと、強弁されるよりは合理的だったが、言われるままに咀嚼してみても、粥を食べたほどの効果もなかった!
「雑草が食えたらいいんだけどなあ!」「おれは軍馬になりたいよ!」「くそ!岩角に食らいつきたいくらいだ!」毎日のようにわれわれはこぼしあった。小説の中で侍が、竹の皮包みからオムスビを出して食べたという描写を読んだだけで、口の中が唾液で一杯になった。農作業をやるにも腰がふらついてきた。元落第生でハン公というやつがいた。私とライバルでいつも憎み合っているグチという奴がいた。この二人は負けず劣らず獰猛なやつだったが、ある日とうとう、「何をッ、黙れッ」「貴様ア!」と言うことになって、掴みかかるか、拳骨を振り上げるところまで行ったが、ハン公のほうが「止めよや、腹が減るから」と言い出し、グチのほうもあっさり同意して、二人ともドカリと畑道の草の上に尻を落とした。
これが飢餓状態の極点で、八月に入って間もなく、とうとう、われわれは事実上のストライキ状態に入った。多くの少年が宿舎のたたみの上や廊下の壁にもたれかかって、ぐんなりしてしまい、教官に呼ばれても、その教官に命じられて班長をやっている少年が一人一人手を引っ張っても、説得しようとしても応じなくなった。誰もストライキをやろうじゃないかなどと呼びかけた者はない。実際に力が衰えてしまったのだ。ほとんどが栄養障害を起こしていて、神経も多かれ少なかれおかしくなっていたのだ。反乱というよりも、衰弱怠慢という状態だった。そういうときも良い子ぶる奴はいるもので、二人三人、立っていく者もあった。それに続いてしぶしぶ各班の仕事場に向かう者もあったが、それでも半数に達しなかった。 こんな状態が続くと、さすがに剛愎を以て乗り切ろうとしていた教師たちも策を考えたらしく、これも後で考えたのだが、多分われわれの説得係として修身の教師であった、哲学者だというイソベというのがやってきた。不思議にこの先生には仇名がない。
イソベは東京から来るのだし、自分の仕事を片付けてから来なければならないので、しばらくかかった。広島に「特殊爆弾」が投下された、長崎にもという報道が入ったのはその間の事だった。われわれは十分軍事化学の知識があった、〔水素原子の分解に成功した?!〕「それはもういかん!」ということはわかった。すでに北方の赤い巨熊、ソ連の参戦の噂も聞こえていた。おぼろげに、もう最悪の状態だなあという事が感じられたが、「もう、いかん!」とはいっても、それならどうなるのかを論評できる子はいなかった。中に井上という生徒は愛国の熱血に燃えて、かつて校長に士官学校志望を打ち明けたが、校長は温順で「井上サン、この戦争は、負けます。君は命をむなしく散らしてはなりません。」と諭したそうである。これは戦後何年もたってから、井上君に打ち明けられたのであるが、原爆の投下、ソ連の戦闘通告を続けさまに耳にした日、彼は何も語らないでいた。


イソベは来た。彼は陰気な浅黒い顔の禁欲的な倫理学者だった。イソベは訓話をする前に私たちの状況を探る為に、私達がごろごろ怠けて雑談している中に入り混じって胡坐をかいた。私は同級生の一人をダシにして、イソベを意識して、「先生たちは了見が狭い」というようなことなどを、あてつけがましく言った。イソベはその言葉を捕らえて、君たちは何を欲しているのか、われわれは今何をしなければならないかという事を、まるでソクラテスのような問答法で説き始めた。ハン公や塚原君が私の次にその相手に選ばれ、イソベは無論そこにいた十何人かの生徒全員に向かって、「君らは帰りたいというが、われわれはこうして、この地まで来た以上、旗を巻いて帰るというわけにはいかんのだ、」と、アリストクラシイという用語を使って説諭した。
私達は正直に叫んでいいのなら、「しかし僕たちはもう、我慢できない、耐えられないんです!」ということを言いたかった、しかし、そういえば、「その我慢できないところを我慢するのが我慢というものだ」という常套句が返ってくるのがわかっていた。教師の言う事など先の先までわかっているのだ。その内容は少しも豊富ではなかった。
イソベは次の日、学科の行われる部屋で一条の訓話を試みたが、誰も奮起したようには見えなかった。
その日は一九四五年の八月十五日であった。すなわちその日の午前十一時半、クロトンとチグリスが、変に改まった口調で、本日正午に天皇陛下の特別なお言葉があるから、全員ラジオの前に集まれと伝達したのである。
―――――――
ずっと後になって、このときの終戦の詔勅放送を各地で聞いた人々の記録によると、東京、横浜では大体聞き取れた。〔理解できた〕ようだが、新潟、山口、滋賀、大分、沖縄、長野県などでは、雑音が強く、ほとんど聞き取れなかった。後、広報担当官などによって、「日本は負けたんだ」ということがわかった。というのが多い。無論海外でこの玉音に接した人々も数知れずいたのだが、そのほとんどは、よく聞き取れなかったと回想している。山形県にある鶴岡市内で私が聞いた陛下のお言葉がおおよそわかったのは幸いであった。「朕広く世界の大勢と、帝国の現状に鑑み……」と始まる陛下のお声はずいぶん震えを帯びていて弱々しかった。表現は容易に理解しにくい漢語調であるから、教育勅語をはじめとしてそのような荘重な漢語調に慣れていた私たちでも、一瞬一瞬にわかったのではない。理解できた語句をつなぎ合わせておぼろげに、四箇国共同宣言〔ポツダム宣言〕の後の受諾を中核とする大東亜戦争、日支事変の終結をお告げになったのだと察しをつけただけである。
居合わせた教師と生徒全員は、ほぼその放送の内容を予想していたものはなかったのだから、驚愕し、仰天し、まさかと思ったに違いないが、放送が終わってもだれもいないかのようにシーンとしていた。やっと物事が胸に落ちてからも同じであった。同じ時刻に日本中で、中国、東南アジアの各地でわっと泣き伏すとか、わめきだしたとか、号哭し天をにらんだとか、あるいは突然ある方向へ向かって移動を始めたとか、書き残されてはいるが、私たちは石塔の群れのように、静止し、沈黙しているだけであった。
泣く者は一人もなく、熱血愛国派の少年も、激情的に振舞うものはなく、後になってもそれから何をしたか、誰が何を言ったかも記憶が空無である。教官も押し隠したような無表情さで、各部屋へ帰ってよろしいということを告げたに違いないが、チグリスだったか、クロトン、イソベだったかも覚えていない。私も皆と少しも違った行動は取れなかった。級友たちとともに、のろのろとばらばらに席を立っただけである。部屋へ帰ってぶつぶつと、「日本は負けたんだなあ……」「これからどうなるんだ?」「わかるもんか」「うん……」といったような会話を各自目の前に座った友と取り交わしたはずだが、これも思い出せない。修飾してもよければ、「私は黙って庭へ出た。虚脱したように空を見上げた。空も庭も暑かった。やっとせみの声が耳に入った。うつむくと初めて涙が出た……」などと描写するところである。事実そのようにし、そのような感慨にふけったのかもしれないが、傍らにじっとたたずむ親友。東京の伯父の家で待つ母の俤。連年、七年に及ぶ戦時下の思い出たち、などが次々に頭の中をよぎっていったと思うのだが、確かにそうであったと記憶する確信もない。
この瞬刻の間に日本中で、軍務、軍役が停止したとどの手記にも書いてあるし、忽ち迫る生活難と、貧痛の日々……という予想よりも、二三日うちにも、いや今日、明日にも、恐ろしい米軍、青服の支那兵が上陸してきて、われわれを虐使し、略奪し、支配するのではないか――まで、さまざまな事を考えたはずである。近くは、幸い内地勤務で済んだらしいかの幼年学校出身の級友、遠くは南冥の果てに散ったかもしれない従兄のことまで考えたに違いないのだが……(実際、それから間もなく東京へ帰る汽車に乗った私は、早くも各駅で重要書類らしき物を焼き捨てている駅員たちを見たし、学校の銃器庫へ返納した銃も剣も、米軍の命令を待たずに焼却してしまったそうだし、一部それを盗んで、どこかへしまっておいた奴もいたという。後のある作家は、このように一日にしてガラッと変わるのが日本人の習癖だと評した。また、内地勤務の級友は無事帰って、学校で再会したが、制服が焼けてしまって、まだ軍服を着ていた。私も当分戦闘帽をかぶっていた。また私の従兄《伯母の長男》茂さんは果たして戦没していたことがわかったし、その父、つまり私の伯父は、民間人であったがパラオ島で当分行方不明とのことであった。)


私たちの一団は鶴岡で現地解散し、「旗を巻いて帰る」ことになった。何人か仲良くいっしょに帰っていった友もあり、近くにある別荘へ悠々と帰り、途中まで家族が弁当を持って迎えに来てくれたという贅沢な友人もあった。私は途中から一人になり、溢れ返るどころか、張り破れそうに混み合っている列車に立ちっぱなしで運ばれていった。そのころからまわりの、「国敗れて山河あり,城春にして草木深し」といった景色や混雑する駅のまわりの男女、何一つかかわりのない草間を飛ぶ蝶などを眺め、車内のぎゅうぎゅう詰めから身を守りながら「何一つ考えないでいること」ができた。車内の人々は皆妙に好人物ばかりで親切であった。全員が避難民のようなものであった。夜に入ると方々で明かりがつき、電灯が輝いて、ああもう公然と明かりをつけてもいいのだ、灯火管制は解けたのだということを実感した。
そのようにして私は幸い、運行を続けていた小田急線に乗り換え、世田谷の伯父の家へ、さながら小復員兵という格好で辿りついた。


大空襲 

大空襲


 私が十五歳の(旧制)中学生であったころは、学校に正課として軍事教練というものがあった。体操と剣道と柔道のほかに、銃と銃剣を身につけて、行進や駆け足や射撃を学ぶ「体育」もあったわけである。それとは別に夏休みを利用する水泳訓練もあって、プールのほかに沼津などの海岸に合宿生活をして、毎日、海で泳ぐと言う課目もあった。軍事教練の中にも、この「海の鍛錬」に対する「陸の鍛錬」があって、数日間軍隊生活をするということがあった。これを野外訓練といった。
 むろん中学生が軍隊に「仮入隊」するわけではない。学校には二~三名の軍事教練のための教官がいた。そのうち一番上官なのは大佐で、太っているのでビヤダル、次が中尉だったと思うが、ズーズー弁なのでズートク、三人目も階級は忘れてしまったが、顔が似ているのでアザラシという仇名であった。みな休職軍人だった。しかし何百人という生徒をこの三人では監督しきれないので「野外訓練」のときはそれぞれ受け持ちの先生と看護婦、ときに校医までついて来ることになっていた。
 十五歳で中学四年生であった私が、同級生約百人で、その年、野外教練に行ったのは富士の裾野にある瀧ケ原訓練場であった。百人で三クラスなので、それぞれの主管教師は一人が国漢の先生で、まっくろで恐いのでクロトン、二人目は東洋史の先生で「人類の文明はチグリス・ユーフラテスの流域でおこったのである」とまず説き出すので、チグリス、もう一人はもっとばかばかしい仇名デテンツク――これは英語の教師で陸軍中尉あがりだった。
 瀧ヶ原の訓練場は、いつもは本当の軍人の演習をするところで、従って何百人でも宿泊できる兵舎がついていた。タテ割りで真ん中の通路、その左右に古畳を敷いた寝室があり、そこでゴロ寝やザコ寝ではない、整然と頭を並べて就寝し、何枚もの毛布をいちいち箱のように角をそろえてキチーッと片付けておかねばならない。これなどは生徒のいたぶり装置のようなもので、毎朝片付けが終わると班長が廻ってきて、少しでも角がそろっていないと「やりなお―しッ!」と怒鳴られる。食事は今なら犬の皿のような瀬戸引きの食器、金物のお椀で、中央通路に整列して腰かけ、号令がかかると一斉に食い始めるのである。なんのことはない。飼育舎の乳牛である。
 なにしろふざけてばかりいる乱暴な男の子たちである。こんなところで団体生活をしても、海岸で水泳訓練をしても、キャンプや海水浴に行った気分で騒ぎ散らすところなのだが、来てみるとそれどころではない。本当の兵営生活とそう変わりはなく、「起床!」「点呼、番号!」「歩調とれッ!」「組々右へッ!」「になえー、銃ッ(つつ)!」と号令ずくめである。自由時間に同級生と二人で歩いていても、自然に右足から踏み出し、歩調がそろうという習慣づけが行われているわれわれである。この「自然に」ということが恐い。よそで偶然二人の少年が出会ったら、互いに敬礼せよとまでは命令されていないのだが、それでも終戦間ぢかのころには、会った途端二人ともサッと右手をあげて、「右手の人差し指と中指の間を帽子のヒサシに当てる」という「挙手の礼」を交わすように仕立てられたのである。もうだいぶ慣れているから、まごつく子やおじける子もなかったが、到底旅行気分とか、遊び半分にはなれなかった。


皆、なにやら生真面目になり、厳粛になり、よく言えば武士的になった。「湖畔の宿」や「トッケテ流れてノーエ…」を歌ったというだけで、教官でなくクラスの中の厳粛派に攻撃され、反省を強いられ、皆の前で自白し、あやまらされた者もあった。――何だか、聞いたような話である。人民中国成立以後の中国人が、しきりにあちこちでやらされた自己反省、人民裁判の形式は、とうにわれわれ世代が先取りしていたのである。(?!)
 この瀧ヶ原へ来たあくる朝も、次の日の午前中も、ものすごい濃霧なのでめんくらった。何しろ自由行動の最中も、五、六メートルも離れると互いの姿が見えないのだ。ただ離ればなれに立ったり歩いたりしているだけで、かくれんぼが出来るほどなのだ。うっかり歩くと、木や兵舎の壁にぶつかった。裾野一帯の訓練も出来かねるぐらいであった。そのような霧の中で、全員が裾野の草原に五メートルごとに一人ずつ正座させられると言う「集団処罰」を受けたことがあった。事件のタネは忘れてしまった。たしか、誰かが何か大切なものを無くしてしまい、全員で兵舎や草原のいたるところを探し回ったが見つからないという事だったと思う。探すのも連帯制なら、罰を受けるのも連帯責任で、広い野原に点々と正座し、沈黙を命じられるのである.しばらくたつと退屈して、俄然―思い出したのは「槊杖かえせェ……」という軍隊怪談だった。
 軍隊でも学校でも怪談はつきものだが、この話は当時、「またも負けたか八連隊、それでは勲章くれんたい」とあざけられた。ある軍営で、一兵士がものもあろうに槊杖を紛失したという事件だった。兵士にとって武器は大切なものだから注意して扱わねばならない。しかし軍隊には悪習があって、その一つが武器の尊重を天皇に結びつけ、その部分品までいちいち陛下のものだから神聖である。損傷したり紛失したりしたら大罪だぞと脅かすことであった。
 槊杖(サクジョウ)というのは銃の銃口の下に普段は突き出している小さな細い鉄棒のことで、先端がややふくれて矩形の穴が明けてある。全体が銃身の下に差し込んであって、銃の掃除に使う。必要なときにそれを抜いて、その穴に油を染ませた布切れをはさみ、それを銃口からさしこんで押したり引いたりし、それによって中を掃除し、油をさすのである。無論使わないとき銃口の下に装着しておいても、抜け落ちるものではない。しかるにその兵士は使用中にちょっとどこかへ、その槊杖を放置しておいてなくしたらしいのである。
 陛下のものだということになっているのだから、見つからぬとなると大事件である。所属部隊の全員で大捜索が行われたが見つからない。隊長からは叱責され、他の隊員からは怨まれ、責められてとうとう不幸なその兵士は銃剣で自殺してしまった。
 そして妖異はその後始まったのである。演習場の兵士が切腹したその時刻になると、夜風に乗ってどこからとこなく「槊杖返せぇ……」という声が聞こえる。他の兵隊、上官の耳にもしばしば聞こえる。全員が本来つとめている軍営に帰ってからも、その怨霊は隊についてきたのか、営内でも、なおときどき「槊杖返せぇ……」という妖声がつづいたというのである。


 私たちは互いに五メートルずつ離れて草原の上に正座している。こっそり隣の同級生と話をしたくても、あいにくその表情もほとんど見えない霧の中だ。しかも時々教官のズートクやアザラシが回ってくる。われわれの出会った事件は、あの怪談の状況そっくりだと考えていると、昼間なのにぞくぞくしてくる。幸いに私はもう自然観察ということを身につけていた。あの上空から聞こえてくるキビーヨ、キビーヨという声は何の声だろう。ときどき、ガッガッガッガッというすさまじい連続音が上から迫るので、思わず首を縮める。と、フィフィフィフィ!という何やら飛翔音が伝わる。やがてチラリチラリとぼやけた鳥影が眼にうつる。あれは何という鳥だったろうと考えていると、恐怖も退屈もしのげた。
 鳥は私たちの頭上の空に、はなればなれに群飛しているのであった。霧がなければよく見えただろう。それは大地鴨(オオジシギ)という野鳥だった。空中を舞いながらキビーヨ、キビーヨと鳴き、やがてガッガッガッガというものすごい羽音を立てて降下し、ついに地上近くなってフィフィフィフィと風切りの音を立て、また舞い上がるのである。この怪音ゆえに一名カミナリシギともいうのであった。
 この観察や記憶によって私は耐えられたのだが、おそらく全員不動の沈黙という訓練中にズートクもチグリスも、クロトンも骨休めができたことだろう。
 夜になっても交代で、不寝番というものがある。これにはときどきスリルやいたずらが出来ることによって、そんなに辛くはなかった。一時間交代で二名ずつ、叩き起こされて銃をにない、銃剣を下げて、当直将校の詰所へ行き、二人並んで兵舎の内外を巡回するのである。これも実際に敵兵や賊が侵入するはずはなし、夜間訓練のうちなのだが、まれには非常呼集をかけられることがあった。――皆がぐっすり眠ってから、教官らがしめし合わせて置いて、突然大音声で「非常呼集―ッ!非常呼集―ッ!」と呼ばわって歩くのである。生徒たちは飛び起き、服を着替え、武装し、ゲートルを巻き、靴紐を結んで兵舎から走り出し、整列しなければならない。その全部を二分間で終わるのがよしとされた。並んでからすぐ服装検査というのがあるから、ボタン一つ、靴紐の結び方一つ、ちがっていてはならない。(ただし後に、このような場合、一つでも間違うと整列ピンタをくらわしたり、残忍な暴力を振るった、いつもそうであったと伝わっているのは誤伝である。そのころの軍事教練というものは、それほど粗暴なものではなかった。(ちがったり、過ちがあると、叱られてやり直せといわれるだけであった。)
 不寝番は何しろ深夜、真っ暗な中、各兵舎を巡視するのだから、それだけでもスリルがあっておもしろかった。不思議なことに、眠たがる子や起こしてもなかなか目を覚まさない子はなかった。
 いたずらで一つ覚えているのは、不寝番日誌である。それぞれの勤務中にもし異常事があれば、その項に報告書を書いて去るのだが、どうせ何事もありはしない、一度ぐらいは「のらくろ伍長」のように、「当直将校殿、報告!」とやりたいのだが、何も起こらないのにそんな事をしでかすわけには行かない。いつも「異常なし」「同じく」と書くのだが、ある悪い奴が、「勤務中、挙動不審な男、付近を徘徊」と書いたのである。それ面白いというので、交代して勤務を引き継いだ少年たちも「厳重注意するも、その人影なし」などと書きたてたものだから、当分毎晩この不審人物の騒ぎが続いて、クロトンやアザラシを手こずらせた。


 私ともう一人の級友に不寝番が回ってきた夜も、むろん挙動不審な怪漢なんぞ徘徊も彷徨もしていなかった。巡視中に、私達二人は建ち並ぶ兵舎の外側に出た。
 幸いその夜は霧が出ていなかった。そのように八方の見通しが聞く日には、瀧ヶ原というところは広大な、ゆるい斜面をなす大平原が、そのまま上がっていって富士山のふもとにつながっているという、壮大な景色なのだ。午前中の山容の秀麗、夕暮れのシルエットをなす富士の姿がもっともすばらしいが、夜景もずいぶん印象的な景観を呈する。
 その上に明晃々たる月の光でも照らしていたら、それはもう宇内の絶観という域に達したであろうが、あいにくその夜は月明とは言えず、空は曇天のような印象であった。
 が――それにしても何やらおかしい――東のほうの空が赤茶けているような気がして――私たち二人は立ち止まった。東のほうへ首をふりむけた。
そして立ちすくんだ。その方角の地上が、赤褐色に光っている。真っ赤ではない。鈍く、くすんだような色合いを帯びた、強くぼやけた柿色とでもいったらいいだろうか。
―火光だ!
―火事が空に!?
我々二人は低声に口走った。
しかもあの方角は東京ではないか!
 富士の麓からさえ、赤々と見える火事なら、それは恐ろしい大火災のはずだった。
二人ともすぐそこに気がついた。
―空襲だ!
―東京が燃えているんだ!
―それが空に反映している……
どうすべきか?誰も気がついていないのか?
とすれば―われわれのすべきことは?
そこまで二人で尋ねあい、相談したわけではない。私たち二人はゲートルを巻いた足を飛ばして駆け出した。教官宿直室へ!
 こうして私達は一度やってみたかった緊張、切迫場面――「教官殿、報告!」をやる事が出来たのであるが。
 その日は昭和二十年(1945年)、三月九日、私が遠方から見た東京大空襲の実景だった。


訓練期間を終わり、帰郷して見た我が家の一帯は変わり果てていた。
 それまで教官たちは何をしていたのか。全然無神経に現地解散したのか、色々配慮しようにもどうにも出来なかったのか、実は何も私たちには知らされなかった。一切、オトナの世界はわからなかった。帰路も品川から先は覚えているが、それ以前どうやって帰ったのか覚えていない。
 品川駅そのものは存在していた。鉄道も無事であった。しかしそのあたりから先はところどころに空爆の痕があった。私は最後に二、三人の級友と共に品川から貨物列車に乗った。そのほかの列車は走っていなかった。ただの無蓋貨車であった。客席のない、鉄ばかりで出来た汽車というものが、あんなにガタガタゆれるものだとは知らなかった。当時は貨車や駅や町の中に、三八銃をかついでゴボウ剣(銃剣をそのように卑称していた)を下げた、作業服の少年が何人歩いていようと目立たなかったのだ。
 私は渋谷区に住んでいた。最寄りの駅は省線(国鉄)の恵比寿駅であった。友人たちとあっさり別れて下り立った駅には、目印のヱビスビールの工場が見当たらなかった!私は小高いところにある駅のホームに立って、初めて米軍爆撃機の襲来が、どれほど徹底的に酷烈なものであるかを知った!記憶にあるものと一致するのは道路だけなのだ!あとはほとんどすべてが壊滅していた。人間は何人も歩いていた。死骸はなかった。電信柱や太い樹木は、まだ煙をあげてくすぶっていた。しかし建物はなく、駅から私の家まで歩いて十分かかるのだが、そのうち五分も歩く間のコースが道筋だけで見通せるのだ!
 私は駅のある高台から降りて、道だけは残っているその道を歩き出した。呆然として?機械的に足を運んだ?うつろな目をして?――小説ならどうしてもそう書くところだが、そんな表情も感慨もなかった。ただここから右は曲がるのはわかるぞ――坂と塀は残っているんだな――あちこちに、厚い壁だけが焼けずに突っ立っている。ああ、防火壁か、なるほど防火壁だけあって焼けなかったんだ――ドアのあったところだけ四角な穴になってらァ――などそのつど考えながら歩いていっただけである。虚無でも空白でもない、初めての世界に入り込んで、あそこは焼けなかったんだ、あの木は半分生き残ったのか、へえー、ほほう……と呟きながら歩いていた。すれ違う人たちも何の関心もなく、その人たちも私を見かえりもしなかった。
 最後の曲がり角へ来た。そこを曲がれば自分の家が見えるはずだった。その近くから大分焼け残っている家が多くなって来たので、まさかまさか、多分……と望みを抱きながら曲がり角を曲がった。そこが後の若者の町、代官山の邸街だった。
 望みは石塀が残っているのを見るまでつないでいたが、二つの門扉は焼失していた。ただの穴と化した裏門をくぐって、私は知った。わが家はなかった。私はそのころ、もう呼ばれ始めていた「戦災者」になったのだ!
 私は見回し、庭や玄関へ通じていた敷石の上を歩き始めた。肩に負う銃の重さも忘れていた。いったい十五にしかならない当時の私が、そのときどんな心境にいたのであろうか?記憶は朽ち古びてありありとは甦らない。いわゆるショックではなかった。絶望感に打ちひしがれたのでもない。まして天を仰いで戦争を呪ったなどといえば真っ赤な嘘になる。いったい何を思ったのか?単に庭石はこげていたが、頑然と元あった所に据えてあった。柱のあったところには特に真っ白い灰が積もっていた。大きな土管を埋めてセメントで囲った小さな池は空っぽになっていた。我が家を直撃した焼夷弾のすさまじい熱力は、一瞬に池の水を蒸発させてしまったのだろうか?もしくは池の水を汲み出して消火に使ったのか?泳いでいたはずの鯉の姿もむろんない……、そんな事を一つ一つ見ては考えていただけである。
 とりわけ私の勉強部屋の戸棚に積んであった私の至宝、命から二番目の二十四個の昆虫標本箱が、灰と、くにゃくにゃに熔け、固まったガラスの塊と化しているのが強く記憶に残っている。それでさえ、私なりに数年の心血をそそいだ昆虫採集の精果を一夜にして失ったという衝撃とか、怨み怒りの激情とかは、湧いて来ないのである。そんなものだ。そのようであった、としか語れない。


突っ立っている私の背後へ、燃えなかった数軒先の新居家に非難していた母が声をかけた。私は振り向いた――とすれば、小説ならずとも、「お母さん」「まあお前よく無事で……」というのでヒシと抱き合ったという描写がきっと入るところだが、それはなかった。それが実況だ。こうした情景がその日東京中で何万例もあったはずなのだが、「お母さん!」「オオお前!」と叫んでヒシという例はなかっただろう。せいぜいしっかり手を握り合ったくらいのところだろう。小説、映画でもそういうシーンはヒシと抱き合ったり、感激的な言葉を交わしあわないと間が持てない。演出のしようがないから、そのように描写するだけなのだ。とりわけその時代、母子、夫婦でも抱き合うという“文化”は日本にない。私と母も、「……どこへ泊まっているの?」「新居さんのところよ。」「あそこは焼け残ったのか」「そうよ。うちは直撃が黒澤さん(左隣)に落ちてね。」「そうか……」というような会話を、日常的な口調で交わしただけであった。
 私の家は角から二軒目で、角から六軒ばかりの家が続いており、お向かいの家の数も同じであった。全部で十二軒、そのうち六軒が爆砕、類焼していた。母の言うところによれば、左隣の黒澤家が直撃弾を食らい、あいにく風下で私の家にも爆火が移ったのだそうである。そのときの状況も後々「猛火の中を逃げまどう人々」といった描写で伝えられてばかりいるから、点描しておく必要があると思う。
 うちの場合,B29の爆音が迫ってくるのも、爆弾の落ちた音も聞こえなかったそうだ。父、母、姉、弟と皆空襲警報直後、ラジオを聴いていた。黒澤さんのお宅に爆弾が命中したときも、何やらグアンという衝撃があって、たちまちのうちにぼあーっという感じで、火事になったそうである。うちでは全員庭に飛び出してみていたそうだが、その夜黒澤家の旦那はごひいきの相撲取りを呼んで一杯やっていた。忽ち家の上半分に火が回って、皆命からがらで外へ飛び出した。振り返ってみただけで,もう駄目だとわかったという。まもなく、風によってあるいは火そのものが起こす噴流によって、火は塀の上を越え、庭を渡って、私の家の軒に火がついた。それがまた、恐ろしい速力で家中に燃え下ったそうである。初めのうちは父も母もバケツで水をかけて消そうとした。隣へ来ていた客のお相撲さんたちも大きなバケツを持ってきて、それっ、それっと水をかけてくれたそうだが、まもなく「こりゃあ駄目だ、ワッハッハ」と笑い出してやめてしまったそうである。
 今それをきいた人々は、なんと呑気な、不人情な、不謹慎な、まさか、あほういえ、というでもあろうが、これがリアルというものである。家に爆砕を受けたその真っ最中でも、人というものは、そう悲壮、必死、惨烈に行動するものではない。うちのほかに、マダラに一軒おきぐらいに焼けたのだから、恐ろしく不公平な話であるが、そんな怨みを言うものもなければ、多年の生活を一夜にして失った打撃を口にするものもない。やれやれ、これでうちも丸焼けで、かえってさっぱりしましたよというものもあれば、これで焼け出された方々たに申し訳が立つような気がしましてねと語るものもあり、しかし大部分のオトナたちは無反応でむっつりしていた。
 新居家はうちより四軒奥にあり、そこの娘さんは、私の姉の同級生であった。私の一家はそこへ避難し、泊めていただいたのである。そしてあくる日は「何事もなかったように」登校したのである。何よりも学校の備品である銃と銃剣を返納するためである。省線が無事走っているかどうかもわからず、駅から降りて、学校まで歩く間にいつまたボオーというサイレンが鳴り渡って、敵機の爆音が聞こえるかもしれないのにである。父母もその状況下で子供を毎日平然と送り出し、父も平然と航研へ出勤していたのである。
 学校では平常どおりの授業や教練があったのかどうか、はっきりした記憶がない。その日が三月十八日で、一週間後には閣議で「学校授業一年間停止」を決定していたのであるが、そんな事を私達が知ったのはずっと後の事である。私達はそれから四ヵ月後、山形県鶴岡市へ集団疎開し、教練のほか、米飯の缶詰工場や松根油掘りに動員され、暑い夏の日、「終戦の詔勅」を聴くのである。 H23.12.1



天眼開  

天眼開  
 水滸伝には一つの結節点がある。その点を過ぎると物語の展開は明らかに次の段階へ進む。その場面は第七十一回「忠義堂に石碣天文を受け、梁山泊に英雄座次に排(なら)ぶ」である。百八人の豪傑が出そろい、それをひとまとめにするためにこの回はある。梁山泊の首領宋江が羅天大蘸と称する星祭りを思い立つ。その儀式の七日目、西北の天、そこに天門があって玉皇上帝の主宰する天界があるとされている方角から絹を裂くような音響が聞こえ、「両端がとがって中央の開いた直立した金の盤のようなもの」が光り輝いた。これは天門開、あるいは天眼開と呼ばれる現象なりとある。その中から「籠のような形の、一塊の火の玉」が転がり出して、いま祭の行われている虚皇壇のところまで飛びくだり、壇から真南の方の地下へもぐりこんでしまった。宋江が部下たちに命じて掘り出させてみると、それは一個の石碑で、両側にそれぞれ「替天行道」「忠義双全」の文字が彫られ、その間に宋江たち百八人の英雄豪傑の人名表が彫り出されてあったという。
 水滸伝のこの場面を読んで以来、もちろん私はこんな天象の奇変は虚妄だと思い、大袈裟な作り事であると感じ、「天意」をそんな物質的な形で示さなくては百八人の豪傑たちを結合させることはできないのかと思いもした。似た場面がどこかほかの物語になかったかなあと思いめぐらしたが、かろうじて米国のSF小説に、暗黒の宇宙空間に向かって突進するロケットの行く手に「突如、暗黒の空が開く!」と言う現象が現れ、その先に全く異次元の世界があった……という例しか思い浮かばなかった。


 諸星大二郎に「諸怪志異」という連作があり、その一つに諸星氏は天眼開を使っている。ひっくり返してタイトルは「天開眼」。この漫画では天眼開は山東の梁山泊ではなく、四川の峨眉山上空にあらわれる。その天眼から地上に集まった豪傑たちに天帝の意が示されるのではない。そのとき開いた天眼から飛び込めば、仙気道骨のある者はみな天仙になれると信じられ、全国から地仙・半仏そして邪仙のたぐいまで集まって来る。
 少年というより、幼年主人公は生来「能く鬼を見る」能力をもっているので、阿鬼(アクィ)と
よばれる子供で、その師、道士五行先生、半仙費張道、女剣侠眼光娘娘、邪仙張角などが、この峨眉山上にあらわれる天眼をめぐって争う。ここでの天眼は光輝と共に一方の空が上下に開き、やがてゆるい曲線を描く凸レンズ形になる奇現象で、梁山泊上空の「直立した金の盤のような」形とは異なっている。
 こちらも軽々しく、「そりゃ今でいうUFOだろう」などと解釈出来ない中国的特徴をもっている。そして、こんなに中国風なのだから、日本はもちろん、西洋世界には類似した現象は語られていないだろうと、私は久しく考えていた。
 ところがーー
 ものもあろうにヨーロッパの「プルターク英雄伝」に、天眼開に類似した天上の奇変が語られているのを、私は発見した。すでにこの「プルターク英雄伝(プルータルコスの対比列伝)」は入手可能なのにほとんど顧みられなくなって久しい。その中のエピソードや歴史上の人物の名が引用されることもめったにないが、カエサル、アレクサンドロス、アントーニウス(アントニー)ポンペイウスくらいは、覚えている人が多いだろう。
 もし歴史や文学に詳しい人なら、記憶にある方もおありだと思うガ、どこかで「ルクルスがルクルスの家で食事をしている」という言葉をお聞きになっていないか。そのルクルス(ルークルルス)はローマの将軍・大富豪・快楽主義者として有名で、いつも客を招いて一回五万ドラクメーもかかるご馳走を振舞っていた。その日珍しく、ルクルスが一人で食卓につくと、料理は一品だけしかなく、大したご馳走も出ていなかった。そこでルクルスは奴隷たちに向かい、「お前らは今日はルクルスがルクルスの家で食事をするということを知らなかったのか!」と言って叱りつけたという話である。
 そのルクルスもそのような快楽生活に入る前は、大変優れた公平、正義、温厚な名将であって、黒海王ミトリダーテス、「王の王」ティグラーネスの率いる数十万の大軍と戦って勝利を得ている。その何年もつづいた戦闘のあるとき、ローマから自立叛争していたセルトーリウスがミトリダーテスに協力しようとして、イスパニアから派遣した武将マリウスと対陣したことがある。ルクルスはマリウス軍に向かって布陣したが、
――見たところの天気が少しも変わらないのに、突然空が割れて大きな火の塊が両軍の間に落ちてくると見えた。
 その形はまるで葡萄酒の甕のようで、色は火で熱した銀に似ていた。そこで両軍はこの前兆を恐れて互いに別れた。さてこの異変はフリュギアーのオトリュアイという場所に起こったのだと言われている。(河野与一訳・岩波文庫)
 ルクルスはこの異変を神々の警告と考えて、激突や力攻めを思いとどまり、「敵の胃袋を攻める」という最も効果的な戦略、つまり兵糧攻めに切り替えるのであるがーー
 状況は中国の天眼開とはまるで違っているが、天象にあらわれた奇変としてはかなりよく似ている。しかも天眼開はあくまで小説の中に描かれた空想であるが、ルクルス伝にプルターコスの史筆によってとどめられた「天空の火の玉」は明らかに戦史の中の記録として伝えられているのである。もし二つとも小説中の出来事だとしても、東と西、時代も何も、これほどへだたった場所に似通った記事があらわれているのは、驚くべきことである。 H23.11.18


誤用に抵抗しよう 

誤用に抵抗しよう  
 猫ババというと、盗むことである。少なくとも現代では猫ババしやがったといえば盗んだという意味に通用している。ところが以前、動物ことわざ集や猫の本を書いたときに調べてみると、これは違っていた。猫ババとは猫のフンのことだと私の調べた本には書いてあった。フンといえばキタナイに決まっているが、「ばっちい」ことを「ばばっちい」ということもあるのに気がついた。しかるに、もう一つ前の正解があった。
 三田村鳶魚(えんぎょ)翁の考証によれば、猫ババとは、本当に猫ばばあという意味で、江戸の中期、本所に住んでいた医者の祖母が猫ぐるい。つねに三十頭以上の猫を飼い、猫専門の一部屋をつくり、猫専属の女中さえ置いていた。そのばあさんが人に物を贈られても、一度も返礼をしないので、人々はこれをののしって、猫ババといったのだという。
 どうやらこれが語源だとすると、今通用している猫ババしやがったというのは、甚だしい誤用である。しかしもはや定着してしまってどうしようもない。
 現在この種の誤用で甚だしい例は、こだわる・檄を飛ばす・なにげに・私淑する、などがある。
 こだわるとは元来は実際に何か物体は出っぱったりしていて、狭い穴から出られないというようなときに、「何かがこだわっていて出られない」といったものらしい。それがだんだん抽象的に使われるようになって、拘泥する、全体を見ないで一部だけ執着するという意味に使われていた。ひろやかに、正大にものごとを眺めようという立場からは、こだわっているといえば、あまり褒めた話ではなかった。つまり、こだわるとはいい意味ではなかった。
 それがテレビなどで(しかも他の多くの言い癖と同じく、殆どテレビだけが犯人なのだ)何々にこだわってというときは、その部分だけを特に注目し、研究し、追求使用というときで、むしろ肯定的で、いい意味に使っている。そこのところが誤用といわざるを得ない。


 今の新聞記事、評論、まれには小説、そして無論テレビでも、監督が選手たちに檄を飛ばしたーーというような表現が見られる。これは目の前で、面と向かって、監督が選手を激しく叱りつけ、励ました、尻をぶっ叩いたという意味である。そこのつかい方が間違っている。檄を飛ばすとは、そこにいない人々を叱り、励まし、奮起させようとすることである。叱り、はげまされている人々は「そこにはいない」のだ。檄というものを「飛ばす」のである。遠くへ送るのである。「激しい」という意味ではない。叱り「飛ばす」のでもない。昔の中国で牓という板に、「われらここに起つ!諸君も決起せよ!われに続け!」というたぐいの「檄文」を書いて回したのである。ほうぼうへ貼り出し、連絡し、宣伝するための板なのだ。従って、叱り励まされる人は、その文を発した人の前にはいない。
 それが檄を飛ばすと言うことの条件なのに、そこにいる人たちを怒鳴りつけ、励まし、尻を叩く意味にこの言葉を使うのははっきりした誤用である。
 同じように、そこにいる人、あるいは知り合っている人に「私淑する」という使い方もまちがいである。前からよく知り合っている人を尊敬し、その人を先生として学んでいるなら、「師事する」といって、「私淑」するとはいわない。たとえ一回でも会っていれば、師事するのであって、全然会っていない人に敬服し、敬慕して、「心の中で師と仰いでいる」のが私淑である。私は柳田国男や今西錦司などを非常に尊敬し、心の中で先生と呼び、その思想や見解を著書によって学んできた。しかし一度もお目にかかっていない。そういうときに私はその先生に「私淑している」という。頼山陽や吉田松陰には無数の私淑者があった。しかしその人のうち一人が、頼山陽に弟子入りし、松下村塾に通っていたならば、それは師事したのであって、私淑ではない。


語感からつい誤用が起こることもある。このごろ「綺羅星の如く」を「キラ星の如く」と書く人があるのは、その一例である。これは綺羅、星の如くであって、キラキラ星ではない。綺羅とは華やかな衣装、装いのことである。そのような装いを凝らした人々が、ズラリと並んでいるようなとき、綺羅星の如くと形容する。むろん、きららか、きらきらしいなどの言葉もあるが、綺羅星の如くとはかかわりがない。
 これは多分、語感から来る誤用だと思うが、このごろ著しく耳障りな、「何気に」という言葉は、まず書き間違いと言っていい。正しくは「何気なく」である。必ず「なにげ」の後に「ない」「なく」「なしに」という否定の言葉がついて意味をなす。何気なくは、「何の気もなく」であるから、怒りとかおかしさとか、皮肉とか、そんな意味はなしに「なんとなく」「ただ言っただけ」という場合、「何気なく」というのだ。ついこの間までは「何気なく」で通っていたのに、誰が言い始めたのか、誰がそれに倣ったのか、いつのまにかテレビで、あるいは個人個人で、使い始めた。多分、いい間違いだろう。そのうち修正、復帰するだろうと思っていたら、意外に広まり、「何気に」という言い方でいいという傾向さえ現われはじめた。言葉は力であり、人類の印であり、すべてだともいえる。語感・発音・口調もそれに含まれる。誤用語を耳にしたら、いちいちそれを指摘するのも、「人の和」を破ることもあるから、自分だけは誤ちのない表現をとることで、それに抵抗しようではないか。H23.11.15


新・古語じてん

新・古語じてん
近年、と言ってもいつのことでもよい。その時期以前のたかだか十年、二十年そこそこで使われなくなってしまう言葉というものがある。それが畜生とか、くそったれとかいうような、使わないほうがいいもの、または洋モク、ミスターポスト、リゾラバ子、アッシー君のような、一時の流行語で、すぐ消えて行っても惜しくないものはかまわないが、末長く我々の間で使っていきたい、昔から伝わって来た、そして今でもちゃんと使える言葉が、変に言いかえられて消えてゆくのは残念である。むろん、いつまでも残したいと思っても、よい言葉でも、いつかは消える。かしぎ(炊飯)よなげる(米をとぐ)さわに(多くの)おもぶせ(不名誉)などという、ほんとうの古語はもう伝わらないが、それは仕方がない。今、ここでいうのは比較的最近まで通用していた美しい日本語が、軽々しく消えてゆき、わからなくなった言葉である。それを仮に新・古語と名づける。
 主に、たいていひらがなで書け、言えるような言葉に限っても、ずいぶんたくさんの言葉が、わからなくなっている。私はあるとき、教えていた生徒たちに、つい「つまびらかにしない」と言って、それが一人も理解できないのを目撃した。原稿を書いていて「その中に(うちに)」と表記するのがもはや許されないのを知って愕然とした。このような品のいい言葉が絶滅に瀕している。なよやか、みやびやか、ほのめく、かそけく、そぞろ、あらび、すさぶ、たおやか、たばかる、さやけく、さざめく、あまねくなどである。それを聞いて、そんなの大抵知っている、と言う人は今でも多いだろうと思うが、日常つかわなくなって、知っている人も、それに気をつかって、みやびやかと言いたくても、上品だぐらいに言いかえていると、それは絶滅に向かうのである。すさぶ、ほのめく、などはまだわかるが、かそけく、さやかになどは解釈してみろと言われるとちょっと困る。それだけ微妙な意味合いが、多く含まれているのが日本語なのである。
一方、エドエド、エコエコ言いはやして、耳にうるさいくらいであるが、江戸時代からしゃれた垢ぬけた用語もどんどん失われていっている。粋というのは今でもいうようだが、小粋、無粋というとなると、もう通用していない。無粋なら野暮であるが、現代の風潮はおよそ野暮の骨頂で、つまりダサイのである。あだ(阿娜)という女性の美しさがかつてあったのだが、あだっぽい女といっていい女性がいなくなると、その形容句もなくなったのである。同じように、可憐な少女、妖艶な成人女性も見当たらなくなって、この漢語の形容詞もなくなった。濃艶、驕娜,沈魚落雁、閉月羞花、星眼月眉、児女満前、こんなものは、昔と言っても戦前戦後の時代劇、大衆小説に満ち溢れていた。誰でも知っている慣用句であった。
 中学生の活躍する漫画に、ある少年と少女の関係を聞きほじるのに、一人が「かいつまんで教えてよ」と言うのを、作者が別枠を設けて、「カイツマム」の解釈を入れている部分があった。すでにかいつまんでということすら、わからなくなったのだ。そっちの方面でもアイアイ、アイアイとまるでマダガスカル島の原猿類を売りに来たみたいだが、近頃数年は、さすがにアイばかりでは足りなくなったらしく、惚れるという言葉が復活している。これは新・古語絶滅時代には珍しい例である。
 そっちの方面の話題が次第に下品になってゆくことを、下(しも)がかるというが、一番下まで落ちてしまえば、もうそれはトイレの話になってしまう。トイレだってもうそれしか使われていないのは残念で、ついこのあいだまではダブルシー(WC)と言い、はばかり、お手洗いといっていたのだが、なるべく上品に言おうとして、かわや、おちょうず、お小水、せっちんとも言ったのである。こういうお上品志向は一般市民のものであった。私の記憶では、このうちはばかりと、お手洗いとが最近まで残っていた。こうした一般市民の良識によって、かろうじて私達の用語は「一番下」まで落ちないでいるのである。 H23.11.13


とんぼつり今日はどこまで行ったやら

とんぼつり今日はどこまで行ったやら

 加賀の千代女の名句である。私は子供のころ学校で習ったとおり、千代女という人がその子供のことを、とんぼつりに行ったきり帰らないので心配しているという心境を詠じたものと信じていた。ところがそうではなかったのであった。嘘つき教師め。新渡戸稲造の『武士道』をオトナになってから読んで、はじめてわかった。この句は「いまは亡きわが子を、いつものようにとんぼつりに行ったものと想像して、わが心を慰めようとしたもの」であった。五七五のわずかな語句の中に秘められた、血のにじむような母の心を、それこそ教師は生徒たちに教えなければならないのに、まるで「いつまでも外で遊んでいて、お母さんに心配をかけてはいけませんよ」といったような浮薄な考え方をした先的こそ、句の心を知らないものであった。もしそれが幼い生徒には深刻すぎ、むずかしいだろうと思って配慮したものなら、こんどは子供の心を知らないといわなければならない。小学生というのは、そんなに知能の低いものではない。
 教科書には、このほかに千代女の代表作、「朝顔につるべ取られてもらい水」が載っていた。この句については私にはとくに何の記憶も残っていないが、一つ年上の姉が一年早く、この句を学校で習ったとき、奥山先生という大変やさしい女の先生が、「つるべ取られて」の「て」に高いアクセントをつけて「もらい水」を終わりに近いほど低音で吟ずるという、特異なイントネーションで教えたーーそれを学校から帰った姉がさかんに母に口まねして伝えたので、おかしくって、それが印象に残っている。
 私はオクテで、トロイのヘレンだったから、のちに他の書目で、千代女の「立ってみつ寝てみつ蚊帳の狭さかな」を知ってからも、そこに暗示された閨悶愁怨の思いをついぞ味わうことが出来なかった。少女だった千代女が、宝井其角に入門し、ほととぎすについて句をつくれといわれ、夜通し案じ、考え抜いたが出来なかった。あくる朝、出来たかと宗匠にきかれて、「いえ、ほととぎす、ほととぎすで明けてしまいました」と言うと,其角はハタと手を叩いて、「ほととぎす ほととぎすとて明けにけり、出来たじゃないか!」と言って、ほめたと言う話は、いかにもしゃれているので覚えている。こういう教師こそまことの教師ではないか。


 とんぼ捕りといわないで、どうして「とんぼ釣り」というのであろうか。現代でとんぼを捕まえようと思ったら、補虫網を使うであろう。それなら「とんぼ掬い」である。今はベトベトしていて、手や洋服にくっつくと始末が悪いので、おそらくお母さん方に嫌われたためであろう。鳥黐というものは売っていないから、昔ながらに黐竿を振り回してとんぼを捕る子はあるまい。あるいは、かつてその方法でとんぼを捕った老人たちは、とんぼつりというのを、黐竿で捕ることだと思っておられるかもしれない。
 しかしその採集法は、あのまことに始末の悪い、扱いにくいネバネバベットリの黐を竹竿の先に粘りつけて、それをふるってとんぼをくっつけて捕るのだから、どこも「釣った」とはいえない。竹竿を使うところが共通しているだけである。私も御多聞に洩れず、幼いころ一度はこの黐竿でトンボを狙ったことがある。だが小鳥でも捕れる黐の使いにくさに辟易してやめてしまった。第一、あの方法では、粘りつけて捕ったとんぼを竿から外し、カゴに入れたり、標本を作ったりするのがまことにやりにくい。その上、飼っておこうという場合、もちろん黐は揮発油を脱脂綿に浸して拭けばキレイに取れるものであるが、ぬぐい終わったころ、とんぼは必ずといっていいくらい死んでいるのである。
 以後私は寒冷紗の捕虫網を用い、二百メートルも向こうから、青い目をきらめかして飛翔して来るオニヤンマを一掬いで捕る技術を必死になって練磨した。べットベトの竹の棒なんぞ振り回すのは邪道だといばっていた。
 そうして、私が“とんぼ釣り“の語源を知ったのは、当時、少年昆虫界の最高指導者であった加藤正世先生の著書の中からであった。その手法は思いもかけず奸智に富んだもので、まずメスのとんぼを捕まえて糸でくくり、オスの飛んでいるところへ飛ばしてやるのである。この糸のくくり方にコツがあって、必ず、二対の翅の間、胸部を縛るのだ。そうしないととんぼは飛ぶのを妨げられて、うまく飛べないし、長く飛んでいられない。必ず四枚の翅の間をくくることである。飛んでいたオスは、そのメスの引っ張っている糸には気がつかず、寄ってきて交尾する。それを糸でたぐり寄せれば、何匹でも捕ることが出来る。それはメスをオトリにするというよりも、エサにして釣り寄せるのである。まさにこれこそ「とんぼ釣り」である。メスオスともとんぼはエサとなる小さな昆虫で”釣る“ことは出来ないから、この方法がとんぼ”釣り“である。女流俳人、加賀の千代女の愛児は、毎日のようにこの方法でとんぼを捕りに行っていたのである。
H23.11.12


吸わなかった煙草の味

吸わなかった煙草の味


今回は煙草に関する実話です。


 一八七〇(明治三)年、普仏戦争(プロシャとフランスの戦争)が行われ、その絶頂ともいうべき激戦が九月一日に火蓋を切った「セダンの戦い」であった。千軍万馬のウィルヘルム一世はプロシャ王であったが、まだ、「独帝」(ドイツ皇帝=カイゼル)に登極していなかったにもかかわらず、オットー・フォン・ビスマルクはすでに名うての「鉄血宰相」であった。
 ビスマルクは、この激戦が普仏戦役全体の雌雄を決するものであること、必ずフランス皇帝ナポレオン三世に打ち勝てるものと予期していた。彼は兵卒たちと辛苦を共にするタイプであったから、殆ど吸い尽くしてしまった葉巻のうち、一本だけを取っておいて、勝利の日にそれを吸おうと、大切に軍服の胸ポケットに入れていた。
 予想通り、戦場がプロシャ軍の支配に帰した日、ビスマルクはまだ進撃路も戦死者の処理もすんでいない戦場を巡回した。銃も鉄兜も砕け散ったあとに倒れた一人のプロシャ兵が、息も絶えだえに、ああ! さいごに煙草を一本吸ってから死にたい!・・・・・と嘆いているのを、ビスマルクは発見した。ビスマルクは立ちよって、あれほど楽しみにしていた一本だけの葉巻を取りだして、その瀕死の傷兵にくわえさせ、火をつけてやった。兵士はその三分の一ほどを、かろうじて吸って、閣下・・・・・これで思いのこすことはありません・・・・・・とささやくように言いながら息を引きとった。
 ビスマルクは、のちのちまでこのことを人に語るたびに、その吸わなかった葉巻ほど、うまかったものはない、と付けくわえた。


 そして、ここに、わが軍が中国大陸で戦った第二次大戦(「支那事変」)の最中に、多くの従軍記者によって取材され、送られて来た実録の中に、これとそっくりな話があるのです。


 年代、場所、人名などのデータは明らかでないが、恐らく北支派遣軍の一中尉より、保定付近で取材されたものと記憶する。中尉はその日の戦場で、硝煙と弾雨の中に、身を投げ入れるようにして奮戦した一人の上等兵が傷つき倒れて、看護兵によって後方へ運ばれたのを記憶していた。
 中尉はその方面の戦場がほぼ占領されると、大急ぎで引きかえした。最前線であるから、後方へ運んで手当をするといったところで、テントの中で横たわって、応急手当をしただけであった。中尉は跪いて、きょうはよくやったぞ! とねぎらったが、もう上等兵の命は風前の灯火であることがわかった。
 中尉はポケットから煙草の包みを取りだして、一本をその蒼ざめた唇にはさんでやり、マッチで火をつけてやった。それは、ときどき最前線の末端の兵士にまで配られてくる「恩賜の煙草」であった。天皇はつねにこのような物資を私財を費やして戦線に送り、兵士たちを慰問していたのである。
 一本々々に金色の菊花の御紋章が入っていて、銘柄はゴールデン・バットであった。当時から、もっとも大衆的な労働者用の煙草とされ愛用されていた。
 上等兵は仰臥したまま起きあがることも出来ない状態ながら、自分の指先に礼拝するようにして煙草を支え、かろうじて一服、二服吸い込んで、うまそうに吐きだしたが、それ以上吸い切る力もなく、ホトリと指間から煙草を落として目をとじた。彼の勇魂は、恩賜の煙草と共に天上へ上っていった。  H23.7.31


「儒艮とアジモの海」


「儒艮とアジモの海」


 いま大変な問題になっている沖縄の宜野湾市の米軍普天間飛行場の移設問題で、取材したある雑誌の記者は、キャンプ・シュワブのすぐそばにある辺野古港で、漁師に質問した。移設反対派がそのあたりの海を「じゅごん(儒艮)の海を守れ」と宣伝しているが、今でもジュゴンは見られますか?
 ジュゴンがいることはわかっていますが、生きているのは見た事がありません、と漁師は答えた。「たった一度、子供のジュゴンがさしアミに引っかかって死んでいるのを見たことがある。珍しいものだから写真に撮って今でも持っていますよ」「ここを反対派は環境保護のシンボルとしてジュゴンの海と呼んでいますが、どうですか?」「飛んでもない、ジュゴンの海なんて!」漁師は吐き出すように言いすてた。
 この漁師は「初老の」と書いてあるから、アミにかかって死んでいたジュゴンの子を撮影したのは少なくとも二十年くらいは昔だろうと思われる。その頃はまだ、まれにはジュゴンがとれることもあったのだろう。日本以外の国々(東アフリカ・スリランカ・オーストラリア等のそれぞれの沿岸)では、アミや槍や銃でジュゴンを漁獲していた。そのためにジュゴンは激減しはじめたのだか、古来、沖縄では素潜りで、泳いでジュゴンに近づき、尾のつけねを一撃して舟に帰る。するとジュゴンはスピードも抵抗力も、牙などの武器もない無防備な動物なので、もう泳げなくなって浮かびただよっている。それを舟に引き上げてしまうという漁法で、ザンノイオ(ジュゴン)を手に入れていた。とる目的は肉、皮、脂肪、漢方薬の原料にするためであった。
 その上、ジュゴンはもともと多数が群れをなして泳ぐものではなく、多くても六頭くらい。互いに争わず仲良く暮らし、立ち泳ぎしながら赤ん坊に乳を飲ませる。(このためにジュゴンは“人魚の正体”と呼ばれていたのである)魚をとって食べたりもしない。主食は、アジモ、アマモ類の海藻だけである。これらは海産の顕花植物で、ザンノイオ(ジュゴン)は褐色の藻よりも緑色の藻を好むということである。どっちにしろ、これ以上もっと平和におとなしく暮らせといっても無理なくらいである。
 それだけに「環境保護のシンボル」にかつぎ出されやすいのだが、チョコザイな話である。はじめ引用した雑誌記者の取材によると、辺野古港にある沖縄日教組の「テント村」には、ジュゴンの人形まで置いてあったそうである。彼らがジュゴンの本当の不幸はどこにあるか知っているわけがない。運動家という手合いは、その運動中にだけ、その地区にいる「滅びゆく動物」の名を利用するからである。
 ジュゴンが絶滅に近づいている原因は、海水の汚染によって繁茂する海域を狭められたアジモ、アマモの減少にある。ジュゴンはそれらの海藻の繁茂しない海には生息できないのである。日本では、戦前から、ジュゴンを天然記念物に指定していた。いまジュゴンが危ないのは沖縄漁民が密漁したからではない。その海域全体の汚染のためである。
 だが、とっくの昔に絶滅したと信じられていた巨大なステラー海牛(ジュゴンの大型種といってもよく、全長七〜十メートルもあった)すら、最近生存説がおこった。どうやら少数はまだ生きのびているらしいのである。私はそこに希望を持つ。捕鯨反対に努力し、諸外国の圧力と戦っている方々は、幸いゆくゆくはクジラ以外の海産動物の保護にも目を配っている。不幸なジュゴンの生存にも、そのあたりから光が射すであろう。

稀虫コロギスとの遭遇


稀虫コロギスとの遭遇


 私が子供のころ毎夏を過ごした御殿場の別荘の近くに、東山湖という小さな湖水があった。その湖水から、国道の巡っている山道にかかり、2キロばかり登ったあたりは、草木の茂った並木道が分かれ出ており、その道が私の昆虫採集に行く道でもあり、帰り道でもあった。地上にはシデムシが、樹幹にはキマワリが、草むらにはナキイナゴが多いところで、その間にジャノメチョウ、スミナガシ、ルリタテハ、ホシミスジ、コミスジなどが飛び交わしていた。
 ある日その並木道を下ってくると、ふと足元の草間に、妙な直翅目の昆虫が死にかけているのを発見した。
 コオロギのメスのように平たく畳まれた薄茶色の翅。しかし全体は緑色。触角は折れていたが非常に長いことがわかった。産卵管がないのは、オスであることを示していた。しかし翅には模様が無く、網の目状だから、メスにも見えた。後ろ足は跳躍用のはずだが、いやに短い。ほとんど6本とも長さに差がない。してみると、コオロギにもキリギリスにも似ていることになる。そしてどこかで、昆虫参考書の図版で見た記憶がある。
 『コロギスだ!』私は全身の毛が逆立つ思いだった。いままで取った昆虫を全部逃がしても惜しくはなかった。加藤正世先生が、『一番採りにくく、オスでも鳴かず、常に木の上にいるので、偶然の場合でないと手に入らない』と書いていたコロギス。いまがその偶然の場合だった。
 それから瞬く間に過ぎる数十年。2002~2003年ごろと記憶する。ある夜、窓から飛び込んできたコロギスを見てどれほど驚愕し、歓喜し、信じられない思いをしたか。少年時代に最初に見た、死にかけのコロギス以来、その採集者が、再会したことはなかったのである。この長い期間中、私は友人が夜間採集で、灯火に誘われてきたコロギスを一匹採ったという例を聞いただけである。
 コロギスはそれほどまでに、稀な昆虫である。私は原稿用紙の上に、こんばんはとも言わずに飛び降りて、長い触角であたりを探っているコロギスを呆然として眺めていた。その後、『とても信じられないと僕は繰り返した。何しろ、コロギスなんだからね。あっちにも、こっちにもいる虫とは違うんだ!』と、説き立て、強調しても、相手は,ホホウ‥‥‥、へーンと不明瞭な表情を浮かべるだけだった。誰も私の驚きや喜びを理解してくれない。
 コロギスはヤブキリのように樹上生活をし、他の虫を捕らえて食べる。一体キリギリス科の昆虫は肉食性が強く、口器が鋭く、ヤブキリなどは、よくセミを襲撃して殺して食うぐらいだが、コロギスは、コロギス科で、樹上肉食性だけはキリギリスに似ていると言える。そこでコロギスという名は、コオロギとキリギリス、両方から採った名だと思われるが、コオロギ類の全くやらないことをやる。それは、幼虫も成虫も、口から糸を吐いて、木の葉をつづり合わせて住むことである。たとえば、ハネナシコロギスはアリマキなどを食べ、夜明け方に葉に切り込みをつくり、葉を巻いて縫い込み、その中に隠れて昼を過ごす。この巣を毎日つくるのである。
 次の特徴は、発音器も聴器もないことである。このためにメスもオスも翅に模様がないのだと思われる。さらに著しい特徴は、発音器がない代わりに、後ろ足を他のものに打ちつけて音を出すということであった。こういう発音は、普通メスオスが互いの存在を知らせるためにあるはずなのに、なぜ聴覚器がないのか。それが謎なのだ。この発音法は、昆虫では、かのチャタテムシという神秘的な微小な昆虫が、口器で障子の紙を引っかいて微かな音を立てるという例しか、比較するものに思い当たらない。
 衣手の 山冷えわびぬ 茶立虫 〔鼎子〕
 このチャタテムシについては,池波正太郎の『仕掛け人梅安』の一部に引用されている。   
 秋の夜、私の机の上に飛び降りてきたコロギスを、私はとりあえず幼虫管の中へ収容した。木の葉についたカイガラムシをえさとして与えておいて、当分飼っておくことにしたが、さて、このすばらしい価値のある昆虫を、どうしたものかと考え込んでしまった。当時、私は既に昆虫の標本を作ることを止めて久しかった。いろいろ考えた末、誰もその値打ちがわかる人はいないのだから、せめてわかる人に提供し、その標本をコロギスの死後、保存してくれる人に託そうと思った。そこでそのころ奉職していた動物学校の教師の一人、昆虫学者某氏にコロギスの採集データを書いたラベルを添えて生きたまま提供した。
 氏は本当ですか、本当ですかと繰り返し、大変喜んでくれた。稀虫コロギスはついにその価値の判る人を見出したのである。


アマゾニアの昔昔物語




アマゾニアの昔昔物語


 この原稿を読んで下さる80%の方々が、まだお生まれになっていないという昔、私はブラジルの移民生活七年を終えて、アマゾニア地方を放浪、昆虫採集に耽っていた。
 アマゾニアとは「大アマゾン」という意味で、ブラジルのアマゾナス州を指している。
 そのマット・グロッソ(大森林)や、三十七もあるという大河アマゾンの流域を放浪するとはどういうことか。各地にすむ日本人移民の開拓地、日本人農業組合の宿舎などを、むろん宿泊料を払って、渡り歩くということである。ちゃんと日本人が管理している農場の入口の通路に、八本の足をひろげるとスープ皿からはみ出すほどのトリトリグモが這っていた。魚市場には五メートルもあるピラルクーが放り出してあり、その鱗を一枚ひっぺがすと靴ベラのかわりになった。ピラルクーの肉は黄色で、質が緻密で、いくぶんシャケに似ていておいしいのだが、市場の地べたに放り出してあったとき、ガサガサと寄りたかっているゴキブリは一匹一匹がカブトムシほどあった。
 主な農産物はピメンタ(こしょう)であった。コーヒーはあまり栽培されていなかった。農場は経営しようにも、放しておく馬にヴァムピーロ(吸血コウモリ)が襲って来るので、とても馬は飼えないのであった。移民の家に泊まると珍しく蚊帳をかけて寝るのだが、朝になると蚊帳の天井が丸くたわんで、その上にコウモリのフンが溜まっているのだ。
 人間の種類は白人と黒人と日本人というふうに、簡単には分けられなかった。インジオ、カボクロ、ムラット、シネース、ネグラなどと様々に呼ばれ、見分けなんかつきはしない。
 マットの中には意外とモルフォ蝶のようなすばらしい昆虫は少なかった。疲れて倒木に腰を下そうとするのなら、まずガンッと蹴飛ばして、ヘビ、サソリ、サシアリなどをゾロゾロ追い出してから腰を下すのが、その心得であった。やみくもに捕虫網をふりまわして歩いていて、ヤブ地の中に入りこみ、絡みとまれたようになって、前方にマットの中を通っているアスファルタードの道路が見えているのに、どうしても出られなくなって、困りはてたこともあった。
 日本人移民の子供たちが、家の前を流れる川で、バチャバチャやっている。その中流の辺りにピラニアがチラホラしている。そんな光景を見ることもザラにあった。飼っているブタたちが柵をこえて川のむこうの畑へ泳いでいき、その作物を荒らして、また平気で泳ぎ戻って来る。そのブタが途中でウギャアッ、ギァーッと叫んだ。岸へ上って来ると血だらけで、ピラニアに食いつかれたのだということがわかった。普通にはピラニアは漁獲して、自転車に乗せて売りに来るのを、奥さんたちが買って食べるものであった。人に噛みついた例はないんですかと訊くと、二年に一ぺんくらい、そんな噂を聞かんでもない、という程度の話であった。
 私はそのような生活の中で、日本から来てインジオ研究をしている大給近達(オギュウ・チカサト)氏に会い、しばらく行動を共にした。大給氏と一緒に歩くと、妙にこの人はツキを呼んでくれる人物で、四十メートルもある巨木の根方、三角形に裾野を形づくる板根(地上に出ている板状の根)の間などに、珍しい昆虫を見つけることがあった。氏のキャンプを訪ねて、日本から持って来た粉末ジュースを御馳走になった。そのときの感激は忘れられない。こんなおいしいジュースは飲んだことがないと本気で思った。本当のオレンジの汁をしぼって甘味をつけた飲料としか思えなかった!そのとき、私は日本の粉末ジュースと七年以上も御無沙汰していたのだ!
 一九六二年。日本の“インスタント文化”が盛んになりはじめた時代の「はるかな国 遠い昔」の話である。


ネコは昔のネコならず


ネコは昔のネコならず


長いこと「動物学者という職業」をやっていないと、気がつかないことがある。私は何十年ものあいだ、自然界・動物界と言うものは変わらないものだと思っていた。昭和初期だろうと平成二十年以後だろうと、シカはシカであり、ミミズがミミズであることに変わりはない、従って、昔得た生態行動上の知識を今用いてもまちがいではないと信じていた。
 ところが最近になってよく見直してみると、私が小さいころ、幼年雑誌で見たネコの写真は、今のネコの写真と、どこか違っているのである。実物も精細に観察してみれば、第二次大戦の最中、町や家庭の内外に生活していたネコたちと、今の幸せそうなネコたちとは微妙に違っている。昔のネコの写真は、当時としては最も理想的な栄養状態にあるネコであっても、やや貧相で野暮くさい。どこか矮小で短命の相がある。肥満型もいないし、スラリとした長身型も少ない。
 同じことは犬にもいえる。現代のシェパードはどう見ても本来の精悍な「万能犬」のイメージがない。小型犬も犬というよりネコ化していて、愛玩用に徹してしまっている。撮影しようとしても勇壮で躍動的な一瞬というものが、とらえにくい。
 そこで飼育されていない動物をも観察し直してみると、数が激減しているばかりではない。各個体が、やはり変化してしまっていることがわかった。たとえば、三十年ばかり以前のミンミンゼミは、ミーンミンミンミンミンミンミンミーン‥‥‥と、「ミンミン」の部分を六回繰り返したものだが、今のミンミンゼミは、「ミーン、ミンミンミンミーン‥‥‥」と三回ぐらいしか繰り返さないのである。しかも、コガネムシもスジグロチョウも、昔より捕らえやすくなった。これはどういうことか?感覚や反応が、やや鈍くなったということなのだ。鳴き声の変化はスズムシとかコオロギにも現れているし、バッタのいる草地では、十分間以内に七、八匹捕まえることができる。わずか二、三十年前には到底なかったことだ。これはいったい何を意味しているのだろう?
 それは、すべて人間が及ぼした影響である、というのはいかにも辛いが、事実である。コオロギが翅をすり合わせる力や、セミの腹筋力が弱まったり、持続力が減ったのは、なんらかの内分泌を撹乱する化学物質のせいだと考えるほかはない。ネコの人相(?)体形が変わったのは、人工繁殖によるものと断定できる。 かつての日本には、尾の短いネコや、尾のよじれているネコが普通だったのである。私たちは最低限、せめて自然を意識して生きなければならない。

『花は此花」

『花は此花」


『花は此花」は、最近『桜に朝日」というタイトルであることがわかったが、昭和3年6月、国文学者八波則吉氏の作品で、そのほかの多くの童話、歴史断片、神話、教育物語、などを集めて『趣味本位、幼年課外読本」として、宝文館から出されたものであった。天狗の話、牛若丸の話。優しいお母さんの話、子供たちの話、詩、歌など、その内容は大変豊富であった。幼年と題されたとおり、私は小学校の1,2年生のころ、読んだのだがその中でほとんど全部暗誦できるほど印象に残っているものが『花はこの花」であった。私が生まれた孫に咲耶という名前をつけたのも、この神話物語に由来している。
 「花はこの花」は、「古事記」「日本書紀」で活躍される姫神である此花咲耶姫を主人公とする。この姫神は、実に皇祖神武天皇の曾祖母君に当たられ、いまなお富士山に祭られている。
 物語のあらすじは次のとおりである。此花咲耶姫は雲に乗って、あちこちの国々を見回られ、その中で一番よい国に住もうとお思いになった。まず西のある国へ行かれると、バラの花が咲いていた。「なんときれいな」といいながら、バラの花のそばに下りると、チクリと咲耶姫の足を刺した。「おや、とげが花の番をしているのだな、」とにっこり笑ってその国を去った。諸国を経て、やがて女神は東のある国に來かかった。そこには広い野原に一面にケシの花が咲いていた。「優しい花」とつぶやいて女神が花のそばによっていくと、かぜもないのにその真っ赤は花びらが落ちて、花は皆坊主になってしまった。「かわいそうな花」女神の目には涙がたまっていた。
 次に、その隣の国に行かれると、大きな河のほとりにボタンの花が咲いていた。「大きな花」といいながら女神が雲の上から見ておられると、獅子が一頭現れて、花の下で狂い回っている。「ボタンに唐獅子、きれいだが怖い」咲耶姫はあわててその国を去った。
 さらに、国々をめぐってさらに東の方へ行かれると、海の中に連なる島があって、山にいっぱい、桜の花が咲いている。まるで白い雲のようだと女神が見ておられると、ちょうどそのとき、朝日が桜の花に輝いた。「まあ何と言うきれいな花だろう」女神は躍り上がって喜ばれた。「色もにおいも淡いのに、バラの花より、ケシの花より、ボタンの花より、何の花より景色が大きい」こういって咲耶姫は歌をおつくりになった。


  国は日の本   桜に朝日
  花はこの花   国はこの国


このように歌って、咲耶姫はこの国の一番高い山、富士山に住むことにされた。
こうしてこの花咲耶姫は花の守り神として、今でも富士山にまつられている。




私は咲耶の誕生を機に、再び「花はこの花」を探しにかかった。
パソコンで探して手に入った八波則吉の「五色の鹿」という本があるという資料を手始めに、町田中央図書館に通って、新藤さんの協力を得た。「五色の鹿」というのは「花はこの花」の出ていたと同じ本で、そこでそれらを新藤さんに探してもらうと、実に国会図書館にもないということがわかった。さらに全国に問い合わせてもらうと、大阪のある児童図書館にあるということがわかった。ところがその「五色の鹿」が入っている八波則吉の童話本には、「花はこの花」は出ていないという。新藤さんは「なお、探してみます」といってくれたが、私はほとんど絶望しかけた。然るに何日もたってから、「花はこの花」は、「桜に朝日」というタイトルで、八波則吉の「幼年課外読本」に入っているということがわかった。どちらにしろ貴重な本なので、持ち出し禁止、貸し出し禁止で、そこへ出かけて閲覧し、コピーをとるしかない。私はついに大阪まで行かなければならないかと思っていたが、新藤さんの得た情報によると、幼年課外読本は上野公園内の、国際子供図書館に一部だけ所蔵されているという。
 そこで、私は3月13日、上野に出かけ、ついにその本の実物を手にすることができた。できれば全部コピーをとってきたかったが、そうもいかないので、桜に朝日〔花は此花〕の部分、どんな本であるかを知るために、表紙,見開き、口絵、奥付までコピーして、喜び勇んで家に帰った。私は咲耶を祝福するためにこのコピーを贈り、かつ、他の人々にもこのすばらしい物語を広めたいと思う。


天体、分類、類人猿の覚え方


天体、分類、類人猿の覚え方


  中学のころ数学の教師が太陽系の惑星の名の覚え方を教えてくれたことがある。スイキンチカモクドッテンカイメイというのだったが、“水金地火木土天海冥“ で、ドッテンカイという口拍子のおもしろさで、すぐ覚えてしまった。中国の歴代王朝を、カントーソーゲンミンシンと覚えたこともある。漢唐宋元明清で、さいしょの三皇五帝とか、とちゅうで入る五胡十六国とか、南北朝とかは後で考えることにした。現代まで続けたかったらゲンミンシンのあとにチューキョーと付け加えればいい。
 この覚え方は自己流で、その後、「四つの氷河期」(ギュンツ、ミンデル、リス、ウィルム)とか、“北米五大湖”(ミシガン,スペリオル、ヒューロン、エリー、オンタリオ)などはなかなか覚えられなかった。専門の動物学のほうでは、生徒たちが分類でも、動物の名前でも、容易に覚えないので、いくつか工夫した。効果があったのは分綱階級の名称順序で、カイモンコーモクカーゾクシュ(界、門、綱、目、科、属、種)と記憶させた。すなわちヒトの分類上の地位といった場合、動物界、脊椎動物門、哺乳綱、霊長目、ヒト科、ヒト属、ヒトとなるわけである。このうち脊椎動物とは何と何かといえば、五グループしかない。だったらそれぐらい覚えられそうなものだが、それもそうはいかない。そこで一字ずつにして生徒たちに教示した。ギョリョーハチョーホである。魚両爬鳥哺だ。これを魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類だ。正確には綱だ、サア言ってみろといったって、いえる子はほとんどない。それをギョリョーハチョーホとインプットしておくと、その日のうちにたいてい記憶する。
 ウケたのは類人猿で、これには幸い四種しかない。コビトチンパンジーを入れても五種だ。そこでコビトチンパンジーといってもピグミーチンパンジーといっても、差別用語に引っかかるから、NHK ではボノボノなどというアフリカ語をつかっていやがるんだという話をする。これによって、生徒はこの小型チンパンジーを記憶してくれる。あとは、ゴリチンプ、オランテナガと覚えさせる。これで笑い出せば、もう頭に入ったのだ。もっと短く、ゴリチンオラテナというと、さらに笑い出してインプリントが完了する。ゴリラ、チンパンジー、オランウータン、テナガザルだが、前の2つはアフリカ産、あとの二種はアジア産だから、この順序でゴリチンオラテナといっておいて、産地まで覚えさせる、という私の計略である


″年頭所感″とでもいうか


″年頭所感″とでもいうか

今年の旧友からの年賀状への返事に、気取って、「去る年や 昭和も遠くなりにけり」という駄句をかきそえて“所感”とした。山田風太郎が“一閃の大帝”と呼んだ天皇逝いて十七年。まさに二昔に近い。昭和も遠くなりにけり以外の何事でもない。昭和とはどんな時代や世相であったか。象徴するものは円タクか氷の冷蔵庫か。レビューか。モガか。“ローマンス”か。大人が他人の子供を引っ捕まえて叱りつけるとき、「それでも学校へ行ってんのか!?」と怒鳴った。まだ人力車も、菅笠でナタマメ煙管をくわえた百姓も、下駄履きに和服の尻っぱしょりで、カンカン帽、荷物を引っちょった田舎からポット出のおじさんもいた。渋谷の市街も平らで、新しく出来た七階建ての東横百貨店だけが、たった一ヶ所、ニューッと聳えていた。秋になると四ツ谷あたりの空もギンヤンマでいっぱいだった。スマックという棒型のアイスクリームがあった。アメリカ漫画「おやぢ教育 Brinnging up father 」 (ジグスとマギー)は永遠に朝日グラフに連載されているのかと思われた。ドイツのベル・サーカスというサーカス団が大当たりし、宝塚ではターキーとオリエが覇を競っていた。少年少女漫画も決して少年倶楽部、少女倶楽部が独占していたのではない。もっと卑俗で大衆的で、二流的なナカムラ・マンガ・ライブラリーというのがあった。[チン太二等兵][魔法の昭ちゃん]「仙術王ゝ五九」「ハヤブサ探偵長」「小狸たんちん十二ヵ月」「土丹馬太衛門」などの単行本、布張りの漫画シリーズに、新関青花・石田英助・謝花凡太郎・大城のぼる・我孫子つねじ・賀川草一などの天才的漫画家が筆をふるった。怪人赤マントはさしづめ怪盗二十面相の先輩であり、説教強盗は実在した怪盗であった。天下の三憲と呼ばれた凶悪犯人がいた。山憲、ピス憲、杉憲の三人だ。「昨日チャンバラ、今日エロレビュー モダン浅草 ナンセンス ジャズが渦巻く あの脚線美 投げるイットで日が暮れる」という流行歌なんかは、その時代のギュー詰めエッセンスのようなものであった。暗い貧窮な時代であったようにいうのは嘘のコケである。そういったような時代が第二次大戦を経て戦後に及び、今やはるかに遠くなったのである。

私のトレードマーク



私のトレードマーク






 このトレードマークに別に名称はない。何の昆虫かといえば、てんとう虫がモデルである。
私は昔の昆虫採集熱中少年らしく、加藤正世先生を崇拝していた。三十を超えて、ブラジルから帰り、念願かなって、加藤正世先生とテレビで対談できたときは、天にも昇る心地であった。
その加藤先生に「昆虫標本整理法」(昭和8年 三省堂)という名著がある。
私の“昆虫マーク”は、この「昆虫標本整理法」の表紙に出ていた“カメノコテントウ”を図案化したもの“を、さらに勝手にデフォルメした。カメノコテントウは平べったく、その前翅が大変厚くて硬く、複雑な模様がある。それを斑紋が二つしかないテントウムシに、描きなおして、触角や三対の肢を勝手に長く、描きやすくしたものである。
二十歳代のころ、デザインして一人で得意になって名前の下に描いていた。このマークの下に、イニシアル“Tを書き入れて、さらにしゃれたつもりで鼻をうごめかしていたこともあった。
成人して、印鑑というものが持てるようになってから、実吉と彫った印鑑のほかに、特注して大小二つのスタンプやハンコをこしらえた。
以来数十年。私はこのトレードマークを愛用している。もし私が署名してその下にこの昆虫マークを捺したならば、それは実吉という三文判を捺したよりも、さらに厳粛(?)で、私としては格式が高くて、相手の方に親愛の情と、敬意を表していることになるのである。少なくとも、捺した本人はそう思っている。