長編随想


動物学校の教師


以下に掲げる随想は、私が二年前に書いたものです。
内容は私の学校生活についての報告で、動物専門学校に学ぶ現代男女学生の生態をお伝えします。



第一話 カイベンとは何ぞ



私はもう20年以上も専門学校で動物学を教えている。高校を出たばかりの若者たちが生徒である。その大部分は女子である。もちろん口の利き方を心得ない。教室の外の廊下やエレベーターの前でいきなり「先生、有名人?」ときく。「先生の娘歌手?」と問いかける。もし小説に書くとして、「現代の若者らしく描写する」としても、「先生の娘さんって歌手ですか?」くらいに書き直すだろう。これらは男子生徒の例だが、私がときどきTVに出ていて、ビートたけし、所ジョージなどを知っていることがわかると、言うことは決まっている。2つしかない。「サインをもらってきてよ」か、「アシスタントということにして、スタジオへつれてって下さい」である。絶対にこの二か条である。例外はない。そのほとんどの者は女の子と同級で、交じり合っていても、彼女たちと接触しないようにしている。男の子同士だけでつきあっている。むろん先生(私)に対して失礼なことをいえば叱りつけるが、どの子もへへッと不明瞭に笑うか、叱られたイミがわからない。モノ知らずだという以前に、叱られ方をわきまえない。
 大多数を占めている女子生徒はたいへん元気で屈託がなくて、何をいわれてもへっちゃらである。いくつだときくと「えっと、二十」。はたちといえよっとどうしてもどうしても言いたくなる。もちろんおとなしくてかわいくて、よく勉強もする子もある。そういう、いちばん先生のお気に入りになりそうな少女が、あるときムササビの飼育法について私にたずねた。私は一通りそれに答えてから、ふと思い出して、「ああそうだ、たしか○○君がムササビを飼っていた、彼にもきいて見ろよ。」まもなく、ドドドドドッと階段を駆け下りながら、「オイ、○○ッ、待てよッ!」と怒鳴るその娘の声が響いた。
 おとなしくてかわいくてよく勉強する女の子にしてこの始末である。この娘のばあい、二学期も終わらないうちに退校するといいだして、担当の女の先生を悩ました。ああだこうだ、すべったころんだと三十分もわるびれもせずしゃべったあげく、彼女はいった、「それにイ、結婚もするしイ。」そんならそれを先に言えッ。
 この節の女の子はどうかしているのが多い。学期はじめに病気で休んでいて、その日、はじめて登校した一人の女生徒は、私を見ると、「ああ、これがTVに出てるって先生?さわって見よう。」と、私の肩をうしろから撫で回した。アル食べ物がとてもおいしいことを強調するのに、「クソうめえぞ」という。男の子とケンカするのに暴力も辞さない。たいていの男の子は暴力でさえ、もう女の子にはかなわない。仰向けに引っくりかえって、よせよ、やめろといっている。そういえばもうずいぶん昔から、小学生の男の子が、女の子たちが、ムシルとか言って、男の子をいじめるんだといっていたっけ。女の子ってこえーよ、とその小学生は私に訴えていた。野獣女子というのもその後、中学校で発生・命名されたようだし、スカートめくりも実は女子の方が女子にさかんに、しでかしていたとあとで知った。
 学校へ弁当を持ってくる生徒もあるという話をしていたとき、カイベンと言う言葉が耳に入った。快便???怪弁???弁当を持ってくると、作ってくれるお母さんが、栄養のことをよく考えて作るから、順調に大便が出る、というイミかと思ったら、とんでもない。
メ買い弁モのことであった。たいていの生徒は近くのほかほか弁などで昼食を買ってくる、その種類、店、値段、味などは生徒にとって大へん大きな話題である。その弁当を買いに行くのをたのみ、たのまれたりする。その行動をカイベンというのであった。



第二話  吸血コウモリとブタ



今さらおどろきもしない。笑えもしないというのが二十前後の男女生徒たちの生態である。鳥類について教えていて、ガンカモ目のところまで来る。ガチョウと言う家禽は、卵用、肉用,時には番犬がわりに飼われたが、鵞ペンをとるためにも飼われていたことを説明する。図を描いてわからせ、やがて鉄ペンが発明されて鵞ペンの需要は減った、と説き及んでも、全員シラーッとしている。インキにひたして書くペンを知らないのである。これではペン拭きの海綿についても教えにくい。まして五十人のうち4〜5人しか万年筆を知らないとわかったときは、私はわが耳を疑った!
 鳥類の次には哺乳類である。翼手目まで来たとき、私は必ず生徒にスリリングな興味を持たせようとして、吸血コウモリに言及することにしている。私がブラジルに住んでいたころ、アマゾナス州に入植した日本人移民たちは、吸血コウモリを防ぐために蚊帳を吊る。
朝になるとその蚊帳の天井に、吸血コウモリの糞が積もって、グーンと丸く下がっている。もし蚊帳の外に手や足をニュッと出しているような、寝相の悪い子供がいると、吸血コウモリは鋭い門歯で、その皮膚に微傷を与え‥‥‥‥と、そのへんまでしゃべり立てて、フト気がつくと、だれ一人私の説明がわかった顔をしていない。
 彼らはもはや蚊帳を知らない世代に属しているのだ!カニに挟まれたことのある子も、ハチに刺された経験のある子もほとんどいない。このぶんでは、蚊に刺されたことのない子も多いことだろう‥‥‥ノミの方は幸い、動物学校は愛犬美容師や獣医のアシスタントやペットショップの店員を養成するところであるから、イヌネコを扱いなれている。そのため、ノミを知らない生徒はいないが。
寄生虫については他の専門学校生より詳しく知り、愛犬美容師というのは犬にシャンプーをかけ、決まったスタイルに毛を刈り込み、目やに、耳掃除も入念にしあげて、飼い主に引きわたす実技を習ったプロのことである。してみれば器具や実習室の掃除をし、雑巾がけもし、それをよくしぼって干しておくなどのことも出来なくてはならないのだが、多くの生徒が家事を習っていないので、担当の先生は雑巾バケツで洗うことやしぼり方から、よく教えなければならない。女子生徒は、ふつうの女の子たちと違って、寄生虫やイヌネコの排泄物や、汚いものをいやがる子は一人もない。もしもイヌにかまれることがあっても平気である。その点は大変よい。しかし一方、清潔をむねとする仕事を習っているにしては自分の身体や服装に、あまり潔癖ではない。キレイ好きにならない。海綿について教えにくいというのも、その一つである。海綿はペン拭きにもなるが、女性が入浴するとき、体をこすったり拭いたりするのにも用いられ、お肌が傷つかない、お化粧にも使われると、私は女の子たちの関心を引くだろうと思って、海綿動物の講義のとき、きっと言うのだが、彼女たちの目はちっとも輝かない。待てよ。この娘たちは、もしやこのごろ流行るという,汚ギャルなのではないかと思ってしまう.この間うちは茶髪やガングロもいたが、それらのほうが身体的には清潔で、質問もするという反対現象が現れた。偶蹄類まで来れば、哺乳類十八目は教え終わるのだが、その中には無論、ブタも入っている。ペット・ブタも開発され、仔豚の肌は人間に近いので、新しい化粧品が肌にもしや有害ではないかという実験には、仔豚が使われることなんかも私は教えるのだが、やはりほとんど女の子たちは関心を示さない。オウカミの野生状態について説明したついでに、「赤頭巾ちゃん」に言及し??赤ん坊はどうして生まれるかについて教えるとき、伝説ではコウノトリが赤ん坊を運んでくるという言い伝えがあるといっても、彼女たちはペローもグリムもアンデルセンも読んだことがない。ときどき、私は、教壇から白い霧のごとき、「空白」に向かって熱弁をふるっているような気がする。



第三話  眠れよい子よ、コヨーテよ。




 そのような「未少年」や、「小娘」に対してお作法を教えることができるか?私は「起立・礼!」のとき、ニホンザルでも順位の高い個体に対しては、一定の姿勢をとることを学習しているんだぞ!ということを強調する。貧乏ゆすり、机をコツコツ、私語をする生徒たちには、それは緊張状態から逃れるための、転位行動というものであることを述べる。居眠りに対しては呼び起こすしかないが、これについてはいくつかの珍談がある。たたき起こしてもまた寝てしまう奴がある。三回もそれを繰り返した後、あと十分だ、せめてそれくらい起きていろ!と叱ると、ぶつぶつと無表情に、おれは先生の授業を邪魔した覚えはないと抗言した男子生徒がある。それが別に「反抗的」でもなく「生意気」な印象を与えない、単にものうげであるだけなのが、いっそ不気味である。いくら起こしてもまたスヤスヤと、安らかな寝息を立てて眠ってしまう男の子に、その子にも他の生徒にも、よく聞こえるような声で、「いつも楽しい 幸せな子よ おもちゃいろいろ 甘いお菓子も‥‥‥。」とモーツァルトの子守歌をうたってやったこともある。他の生徒は笑ったが、その男子生徒は、私の歌がうまかったせいか(?)よけい「眠れよい子よ ねむれよや‥‥‥」というていたらくであった。
 およそ詩的なことや洒落や冗談の通じる手合いではない。フクロウ目の夜行性について教えたときだ。ある男が、見て見ぬふりをしたという話をした、もう一人の男が「見えないはずはないでしょう、いまはまっぴるまですぜ」というと、「俺はフクロウの鳥目だ」。これを聞かせて、さて効果のほどはいかに?と待っていると、だれも笑わない、ぽけーッとしている。説明すると少しは笑うのだが、洒落を説明したのでは土台、洒落にならない。北米のイヌ科動物コヨーテについて、私がカナダでそのコヨーテの掘ったに違いない穴を見つけた。もう暗くなりかけたころだったから、穴の奥までよく調べることが出来ない。あしたにしようというと、通訳の青年がすかさず言った、「あしたまたコヨーッテ言うんですか?」これくらい簡単な洒落なら笑ってくれる。師走のカエルで、考えるとか、材木やのトンビで、お高く止まるというたぐいの、古典的な洒落や、江戸っ子弁なんていうものは、彼らには外国語のように聞こえるらしい。
詩的といえば動物にひっかけて、短歌や俳句を引用することもできないでもない。索餌回游をするカツオや、托卵習性を持つホトトギスについて解説するついでに、「目に青葉 山ホトトギス 初ガツオ」の句を引用し、江戸の風物誌だと説明するのだが、面白がってはくれない。シカの角の脱落、生え変わりについて教え、それにちなんで「夕されば 小倉の山になく鹿の‥‥‥」これは駄目だった。やむなく、「奥山に 紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋はかなしき」これを聞かせたとき、知っている人というと、五十人中四?五人が手をあげた。百人一首をやったことのある子が、それくらいの割りあいでいることはいるのだ。日本文化の継承は、まことにほそぼそと続いているらしい。
 かつては私は昆虫学も教えていた。昆虫24目の中に、噛虫目というのがある。そのなかにチャタテムシという微小な昆虫がいる。これについて、小説の中に書いたのは、私の知る限り、池波正太郎さん一人である。このチャタテムシは、茶筅でサラサラと茶をたてるような音を発する。そこまで説明しておいて、私は教室を見回し、「だれかお茶を習ったことのある人!」と挙手を募る。このときも五十人中、五人くらいが手をあげた。みな、茶道を教えている高校を出た子ばかりであった。これも、極細のホソボソと、日本の風雅の道は続いているのだ、と私はわずかに安堵する。





第四話  創成神話とツツガムシの害



それでは、私の教えている生徒たちに、動物学に事寄せて、日本神話や歴史を、たとえ切れ切れなりとも、教えることはできないものであろうか。
 全体から見れば、ごくわずかな分量とはいえ、出来ないことはない。動物の進化については、ぜひ教えなくてはならないし、教わりたいという希望も多い。しかも、進化という学説を教えるためには、ダーウィン以前は、ヨーロッパの学界は、生物界をどのように見ていたのであろうか、という設問が必要である。必ずその序論には、「昔は生物はすべて神の創造したものであるとのメ創造説モが信じられ、18世紀においてもなお、リンネのような大家すら、『生物不変説』を信じていた。」と説き起こさねばならない。そこに機会がある。そのモ創造説メとはいかなるものであったかと問いかけて、それは1つや2つではない、各国、各民族によって違うモ天地創成神話メが伝えられていると述べる。まず、旧約聖書の創造説を紹介し、インド・中国の天地創造神話を語り、次に日本では‥‥‥と引っぱり込んでゆくわけである。
 日本の神話では一人の神が天地を創ったとは言いません。耳を澄まして聞いていろ??「いにしえ あめつちのいまだわかれず、陰陽の分かれざりしとき、まろかれたること、鶏の子のごとく、くぐもりてきざしを含めりき‥‥‥‥そのすみ あきらかなるものたなびきて天となり、にごれるものとどこおりて、土となるにおよびて‥‥‥‥、どうだ、わかるか、わからないだろう、いまこれを口語で説明しますといって、神々の生れまし、なりませるところ、日本のアダムとイヴとも言うべきイザナギ、イザナミのミコトが現れて、この国を生みたもうたと伝えられていますと結ぶ。このときは大抵、生徒たちも、へーエと言う顔をして聞いている。
 この話の後、ビュッフォン、ラマルク、そしてダーウィンと説明していくと、かろうじてそっかー、日本にもそんな話があったんだ、ぐらいの印象は与えることができる。ウサギ、サメ、カメ、アキツ(トンボ)、イノシシ、トビ、クマなど、古事記、日本書紀には、ずい分動物の話が多く、以後の歴史には、動物はほとんど出てこなくなるから、このときがよい機会になる。
 日本が古代から大陸の帝国を恐れず、独立を保ったということを、動物学の授業に織り込むことはできるか。
これについても機会はわずかしかないが、節足動物・蛛形類の説明のときに1つある。リケッチア感染症を引き起こす恐ろしい害虫、ツツガムシは、蛛形類(クモ類)なのである。ダ二の一種である。今でもこの感染症、即ちツツガムシ病は恐るべきものであるが、昔はさらに、さらにその害は甚大で、子供が無事に大きくなることをつつがなく育つといい、大人同士、それどころか君主と君主の挨拶にも用いられてきた‥‥‥ということで、かの聖徳太子が隋の煬
帝に呈した国書の文句を引用することができる!
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、羔なきや(無羔乎)。????ここのところを、「お元気ですか?」「ご壮健でござるか?」と訳し、中学高校で習ったかいと聞くと、以前は大抵の生徒が、「そういえば習ったみたい‥‥‥」「あ、覚えてる‥‥‥」という反応であった。そこで私は「この有名な話はーー、それにもツツガムシが使われているのはーーどれくらいその害が恐ろしいものであったかを語っているのです云々」と、授業を進めて行くことが出来た。ところが近年、だんだん「知らない」「覚えてない」と言う子がふえて、「有名な話」「君たちも知っている通り」と言う前提では、授業が進めにくくなった。そこで旧1万円札の聖徳太子と、桀紂煬帝と並び称せられる中国の暴君との歴史的背景を一通り,講釈しなければならないようになっている。そして、聖徳太子が代表する日本が大帝国、隋朝に対し、いかに独立心とプライドを示し、保ったかに力点をおいて話し、それからーーそのように、外国の帝王と日本の代表者との挨拶にも使われるくらい、ツツガムシは怖いのだと、まとめていくわけである。
正直なところ反応は鈍い。せいぜいヘーエ? 正確にはなんでクモ類の勉強に古代史が出てくるのか、「?‥‥‥」と言う表情の生徒が多い。しかし幸い私は、こんなわずかな、しかも動物学から言うと『より道』に近い話題が、生徒たちの社会人になった後、あるときフッと浮かんで、それがけっこう人生観とか、おのれの見解にプラスするものだということを経験で知っている。



第五話  なぜ質問をしないのか。



かつて、彼ら20前後の男女学生は「とかくメダカは群れたがる」であった。トイレに行くにも一緒に行く、「皆がどう思うか」によって支配されていた。そのことを動物の群集生活を教えるときに言う。つまり、目の前の生徒たちを実例に使うのである。「寄り集まり」と「群れ」とは違う。クラゲ、イトミミズなどは前者である。互いにどんな関係があって一緒にいるのか見当もつかない。しかし、一個体だけ離れてしまっても、生きていけないというわけではない。
 メゴンズイ玉モもそうだと考えられていた。ゴンズイの稚魚は、メ玉モと呼ばれるくらい、びっしり固まって泳いでいる。一匹が偶然一方へ泳ぐと、盲目的に全群がついていく、その中の一匹をメ玉モから隔離して水槽に入れると、あっちこっち、あっちこっち泳ぎ回って、他のゴンズイを探し、一瞬も落ち着かず、餌も食わず、過労と飢えで死んでしまう。彼らはメ接触刺激モへの反応によって行動し、生きているので、それを失うと生命さえ保てないのである。そこがイトミミズやクラゲと違うところである。
 この事例を、君たちの日常生活にたとえると、そっくりだ、トイレにも一緒に行くし、「皆が」「皆が」と言って他から孤立することを怖がるじゃないかと言うと、生徒たちはいつもの半ばあいまいな表情で、アハハ、へへ、ニヤニヤと笑う。
 次に、ニホンザル、ライオン、レイヨウ類などの群れ社会について説明し、その個体間には、「分業制」「リーダー制」「順位制」などが成立していて、整然と組織されている、そこがイトミミズだの、クラゲだの、そしてゴンズイとも違うところだ。つまり高等動物なのです。??と言ってやると、よく聞いている生徒は変な顔をする。自分たちは人間であり、「個体性」を持っているはずなのに、行動学的には、ゴンズイ同然なのか、ということがわかるからである。
 以前??十年くらい前まではそのようであったが、近頃は違ってきた。ちゃんちゃらおかしいが、教育だけはメ個の確立モということを教えられたからか、『確立できない個』ということを、それなりに感じて、接触刺激への適用ができなくなったのか、よく言えば個人本位になった。一人を叱ると、言い訳しながら、「ねええ?」「な?」と隣の一人を窺う。何か抗議することがある、と珍しく強気な申し出をした男子生徒に会うと、何だ、もう一人「ねええ」の相手を連れてきやがって、いちいちその子の同感を求める。試験がないとわかると、男子、女子とも、ノートさえ取らないやつがときどきいる。叱ると依然叱られ方がわからない、なぜ叱られるのかもわからない。叱られ終わると眠ってしまう。その後ノートは取るようになるが、そのかわり前よりもよく寝るようになったりする。個人本意で逃避的になったのである。
 彼らはいくら促しても質問をしない。大学教授たちに聞くと「大学でも大抵そうですよ」という。しかし話の上手な特殊な先生には、生徒は休み時間であっても控え室まで押しかけてきて質問するから、これは先生の性格、表現法によるらしい。おそらく私は圧倒的にしゃべりすぎるのであろう。だが一般に生徒の好奇心が乏しいと言うことは言える。
 ところが小・中学生は決してそうではないのである。私はある小学生の団体旅行に、野外講師としてついてゆき、行き帰り約4時間の間、バスの中で質問、応答サービスをした。驚いた。幼い子から6年生まで実によく質問する。中には毒蛇の管牙と溝牙の違いについてきいた男の子がいた。「世界には、なぜ害虫やバイ菌が存在するのですか」と、すばらしく思索的な問いを発した女の子もあった。私はすっかり生き甲斐を感じ、行き帰りのバスの中で立ちっぱなしで語り続けた。いや実にたのしかった!それが大きくなると、だんだん質問しなくなってしまう。高校から上になると、生物界に対するみずみずしい知識欲を失ってしまうのだろうか。ひねてしまい、退化しているとしか思えなくなる。彼らの時間の過ごし方が、もったいなくてもったいなくて仕方がない。    




第六話  勇敢な女の子の絶滅




勇敢な女の子の絶滅
もちろん動物専門学校の生徒にもいいところはある。私も彼らに好意や愛情を持てないのではない、批判してばかりいるのでもない。第一、専門学校であるから、動物なら動物への愛情があって、その道を選んで入学してきたという「行動を選んだ」ということだ。少なくとも「何をしたらいいかわからない」「自己実現のための目標が決まらない」若者たちよりはずっといい。きけば専門学校へ行くなどということは、世間に対して外聞が悪い。親戚への体面もあるからやめてくれと親が泣いて頼むから、大学へ行ってやったんだという学生が多いという、そんなやからにくらべれば、ずっとましである。
 見学のために動物園へ連れてゆく、全体の四分の一も見ない中に、一生のうちで一番無理が利く年ごろだというのに、それぞれの動物について一生懸命説明をしている私をよそに、べたべたと生徒たちは座り込んでしまう。「若いくせに何というざまだ!しっかりしろ。立つ!」と私は叱責し、一体私をいくつだと思ってるんだ、もう七十だぞ!」とたん、彼らはニヤニヤしながら立ちあがって一斉に拍手したものだ!
 いったいに若い奴らには年配者の年がわからない。いつぞや私が少年のころ、昆虫採集に熱中し、標本箱が二十四個も出来たことを語り、「そのうちに戦争がだんだん激しくなってきて、それどころではなくなった‥‥‥」と言いかけると生徒たちは「エエーッ?!」と叫んだ。私をそんなに若いと思っていたのか、それは甚だうれしいことではあるが!
 だが彼らは観察力がないわけではなく、ある日、一コマの授業が終ると「先生、首痛いんじゃないの」と聞いてきた子がいる。そもそも動物学を興味深く教えるためには、身ぶり表情を効果的にあらわさなくてはならない。たとえばミミズクやカマキリはほとんど首を一回転させることが出来る。このことを示すために、自分の首をグルグルとまわさなければならないが、そのとき、筋肉痛に襲われていた私の首がギリギリと激痛した。そのことを、弱みを見せまいと隠していたのに、その生徒は看破して、彼なりのぶきっちょなやり方で、私を「ねぎらってくれた」のである。二時間目に私は首の痛みをそのクラス全員の生徒に告白し、きょうはいっそ休講にしようかとも思ったのだが、彼らを待たせたり、がっかりさせまいと思って、無理して出てきたのだと言った。言ったとたんに彼らは一斉に拍手した。
彼らには、たしかにそのような美点もある。善意である。教師に服従しようという精神もある。また、見識に於いても、全くないでもない。たとえば捕鯨問題で、日本でも、やはり一頭もクジラを殺さないほうがよいのではないか??、少なくとも動物に関係する職業についている者は、そうあるべきだと考えられていたころから、教室で「クジラを絶対に殺すべからずという主張に反対の人は?」と言ったところ、全体の三分の一以上の生徒が挙手した。捕鯨は日本の漁業の一部、それに従事する人々の権利、米国の主張は何だか感情的、という理由で、「一定数なら殺すことに賛成」だったのである。その後の推移は、彼らの考えが正しかったことを示している。
 教室内の静かであること、私語をしないことについては、「いまに-学級崩壊世代-が入学してくる。」と言って、ふるえている先生もある。四十人くらいのクラスで、悪い奴、しゃべる奴、授業を妨げる奴は、大抵五?六人である。そいつらは教師泣かせである。教師泣かせに対する防止策は、学期初めにビシリとやることである。朝礼や、「起立、礼!」を厳正にやることである。まさか最初の授業、一学期前半に騒ぎ出す者はない。夏休みをへだてて、だんだん悪くなるのだから、初めのうちが大切である。前半を過ぎたところから、ガヤガヤ、ペチャクチャがソロソロ始まるのであるから、そのときグイと引きしめる。二十年ぐらい前には、たまにはガヤガヤやっている同級生に「あんたたち、静かにしなさいよ!」と叱りつける勇敢な女の子もごくまれにいたものだが、それは一回か二回で、その後はぱったり絶えてしまった。




第七話  マニアは未来のエリート?




困るのは教えることがありあまるほどあって、時間が惜しいので、五?六人の騒ぎグループやある一人の居眠り生をいつまでも説教していられないことである。もう一つの悩みは、若い彼らのその後の人生にもう二度と経験できない貴重な知識を授けているのに、あまりにも質問が少ないことである。たまに何べんか質問をしてくる子があって、私は喜ばされるのだが、かの小学生たちのように新鮮で大いに必要だと思える質問ではなくて、いわゆるマニアックな子であることがわかってくる。しかも男の子は今でも日本にオオカミがいるのかということに執拗にこだわる。ある生徒はアオボウシインコと、バタン類のオウムと、どちらが物まねが上手であるかということを、こいつ、知能が低いのではないかと思うぐらい、何べんでも聞いてくる。またある生徒は「なぜ中ぐらいに首が伸びたキリンがいないのか?」「アフリカのUMA(いわゆる未知の生物)チュペクェというものの正体は、進化の遅れたカバではないのですか」ということに拘泥し、そんなことに対する追及が動物学だと思っている、大抵そんなことに凝りだし、はまり込むのは男の子の本性の一つではあるが、ときには女の子もいる。今学期の新入生の一人の娘は、カモノハシに毒の爪があるということはきいたけど、ハリモグラにも毒があるって、なんかの本で読んだ、それによるとハリモグラには毒を出す装置は備わっているけど、それを用いないという、これは本当ですかと食い下がった。次の機会にはトラが獣に噛みつくのは梃子の原理だと書いてあったけど、そうですか?と問い詰めて来た。その本というのを読んでみると、顎骨を閉じる筋肉の作用は梃子の原理によるというあたりまえのことに過ぎないのであった!
 よく質問する子は、大抵このタイプの凝り屋であり、マニアであって、基づくところの書物や、TVの説明や、人から聞いたその説を、よく理解していない。もちろん動物学は自然科学で、細部にこだわることによって積み上げられ、成り立っていくものではあるが、マニアの心理は一点にしか集中しない。
だがーーと私は思い返す。たとえごく一部にすぎないマニアでも、いつまでも一点にしか集中せず、全体??自然界??に向かってひろがっていかない生徒ばかりではない。歴史に名を残し、業績をいまに伝え、将来も伝えられてゆくはずの偉大な学者でも、少年のころ、学生のころは変に一点に拘泥する奇人変物であった、あるいはごく平凡で平均的に見える一介の-書生-であった。いま私が少々てこずっているマニア生徒、あるいは可もなし不可もなし、人並みで均一化された奴ばかりだなどと呟いている他の生徒たちの中からも、オズボーンやコープやコンラート・ローレンツ、デスモンド・モリスが現れないものでもない。大島正満や岡田要や、古川晴男や、八杉龍一、高島春雄に、私の生徒たちがならないとも限らない。
いまの若者たちは遊楽のみを望み、本を読まないという。そう聞くと絶望的になるが、そのような遊び好きで、知識をたくわえることは面倒で、いやだと言う人が多くなればなるほど、自然から学び、本を読む楽しみを知る少数の若者がぬきん出る理屈ではないか。例外的な若者がエリート化するのではないか。スズメでいい、ミミズでいい。ニホンカモシカでよろしい、モンゴリアン・ハムスター一匹でもけっこう、それを観察していると、次第にその性別や老若が見て取れるようになる。野外へ足を向ければ、つまらぬ野の花にも巧妙をきわめた花粉媒介者への誘惑手段が備わっていることがわかる。立って歩いているままで足元を走るコオロギの雌雄も見て取れるようになるーーその面白さは科学の本を読みふける面白さに匹敵する。その科学の、解説と情報を与える目的で書かれた書物が、漫画、映画、「純文学」「大衆小説」に読みふけるのと同じぐらい深い悦楽を与えてくれるのである。
これからはエリートが「一般人」をリードしていく社会になる。あるいはもうそうなっているのかもしれない。いつの時代の、どこの教室でも、未来のエリートはごく少数である。いま教えている先生にも未知数である。あの生徒こそゆくゆくはーーと予見することはまず出来ない。私にしても、もう二千人以上の生徒を教えたと思うが、その中に一人か二人?いや、一人も出ないかもしれない、だが、あらわれるかもしれない。そこに望みをかけて、きょうも私は専門学校で教えている。
                (おわり)



回想録 終戦私記


第一話  終戦




第二次世界大戦(日本にとっては支那事変と大東亜戦争)の終結といえば、もちろん昭和天皇の-終戦の詔勅-によって決しられたのだが、私個人はそれをガーガー雑音が入ってよくききとれないラジオで、教師、同級生たちと共にきいた。時は昭和二〇(一九四五)年、八月十五日、場所は山口県鶴岡市内の疎開先で、我々(旧制)中学生一同はそこにある旅館に寄留して軍事教練、農作業、カンズメ工場などで労働奉仕をやっていた。「天佑を保有し・・・」うんぬんの-終戦の詔勅-はのちに玉音放送と呼ばれるようになったが、天皇の声があんなに心ぼそく、ふるえ声であろうとは想像もつかなかった。
 まもなく私たちはめいめい家へ帰ったのだが、団体行動でもなければ学校の制服でもなかった。カーキ色の陶器のボタンで留める訓練服に戦闘帽、鉄砲をかついで銃剣を下げ、ゲートルを巻いてドタ靴という格好であった。鉄砲は三八式歩兵銃というもので、当時の水準では大変性能が高いとされたのだが、むろん教練用の古銃だから実弾はついていない。銃には負い革がついていて肩にかけて歩くことも出来たのだが、きわめて大切に扱わなければならないとされていたので、めったに肩にかけたり、銃床をドンと下へ突いたりしなかった。銃剣はその銃の先に装着するためのもので、刃はついていず、四〇センチくらいあった。鍔に押しボタンがついていて、そこを押さないと抜けなかった。いまから考えると乱暴な男の子ばかりだったのに、これを抜いて喧嘩に使った奴は一人もいない。これもいかに大切に扱えと命じられていたかの証拠である。
 銃だけで六キログラムもある。それをかついでギュウ詰めの汽車に乗っていった。まだ敗戦、降伏という実感はなく、少年が剣つき鉄砲で乗っていても何ともいわれなかった。それを見知らぬおじさんにヒョイとあづけて、走っている汽車から放尿したことを覚えている。途中の村々、駅では何やら軍関係の書類らしいものを燃やしている人々を見たことも覚えている。
 そんな有様でも主な鉄道は動いており、東京へ帰ってからも学校は一日も休みにならなかった。あとできけば終戦の日やその直後でも、ガラすきのボロ劇場で歌舞伎は演じられており、次の月の九月にはもう街頭に闇市が氾濫し、映画も作られ、少年倶楽部は二ヶ月合併号で発行されていた。全国民が泣いたというのも、東京は全土焼野原だったというのも正確ではない。たいていの国民は泣いているヒマはなかった。八月三十日にダグラス・マックアーサーが厚木飛行場に気障なコーンパイプをくわえ、ノーネクタイで到着したが、それをタブロイド型の新聞が手ののひらを返すように「親しみ易いボッブの小父さん」と書いてあったので呆れかえった。ついこのあいだ「出て来い ニミッツ マッカーサー 出て来りゃ地獄へ逆落し」という景気のいい歌が歌われたばかりなのだ。
 やがて復員兵士が続々帰還しはじめた、ある復員兵士が村へ帰って来ると、なじみの芸者に逢い、家で待っているはずの妻が外の男と怪しいということをきかされる???そんな小説がザラ紙のうすっぺらな雑誌にあらわれた。帰ってくるやいなや赤化洗脳されている元兵士たちが肩をくんで「立て万国の労働者・・・」と合唱し、それを父母や妻が一人一人無理やり列の中から引きずり出す、そんな光景が見られた。「ある夜の殿様」(主演大河内伝次郎)という映画はそのころ作られた。鞍馬天狗の嵐寛十郎も「飛ぶ唄」というそのころの映画では「暴力はつつしむべきだ」などというセリフを吐いていた。早くも「ニュートーキョー・ソング」などという流行歌がつくられ、「向こう通るはジープじゃないか 見ても軽そなハンドル捌き あなたに私に君に僕・・・」と歌い流したが、流行はしなかった。流行したのは、「リンゴの唄」や「東京の花売娘」だった。「花売娘」の中にも、「粋なジャンパーの アメリカ兵の 影を追うよな 甘い風」と-進駐軍の兵士-が歌いこまれている。はじめは朝日新聞さえ、日本は負けたけれども、屈せず祖国再建にはげまなければならないと書いていたし、占領軍といっていた。それがいつのまにやら、それまでにはきいたこともない漢語(?)の進駐軍というようになったのだ。
 戦後、最初に建ちはじめた家は料亭のたぐいであり、最初の出版物は-英語会話の手引き-のたぐいであった。最初のころの雑誌記事には「アメリカ人とは」という戦前アメリカをよく知っていた人の執筆で、色々紹介したのち、「まず、淡白で大らかで、それでいて抜け目のない、実業家の御曹司というところである」と書いてあった。かねがね母や姉からアメリカ人は浮薄な成りあがり者だときいていた私は、その歯の浮くようなお世辞タラタラに舌打ちをした。国会で重要議題がもちあがったが投票用紙がないので決議できなかったという話であった。そういう中で紙といっても手すきのようなワラバン紙であったが、紙をくめんしてきて、いわゆる-カストリ雑誌-がドッと出はじめた。第一ページから女性のヌードばかりという始末で、ヌードとエロなくしては夜も日もあけなかった。奇怪なバクロ記事、ウソッパチと決まっているような「実話」が紹介され、殺伐な話、小説が喜ばれ、ごくくだらないワイ談コントが流行し、これをエログロナンセンスと称して、そんなものにうつつをぬかしていると、今に暴動内乱が起こって政府は引っくり返るぞと共産党はわめき立てていたが、いっこうにそんな暴乱は起こらなかった。「猟奇」「リベラル」などの雑誌が戦前の通俗小説家、挿絵画家、マンガ家、カメラマンを動員し、覆面作家や芸能記者が活躍した。今にもハチ切れそうに混んだ小田急電車にやっと立っていると、前に腰かけている和服と洋服の二人の女性が高峰秀子と三益愛子だったりした。そういう時代であった。その中にあって少年雑誌もノシ出そうとしていた。冒険活劇文庫というマンガ雑誌が発売され、やれ、ドラゴンタイガーだの、ジャングルキングだの、怪物ロボットブルタンクだの、ツルテン頭のポッカチだのと、その「エキゾティズム」は鼻持ちならなかった。少年の目から見てもそれらは俗悪、粗野で三流品であった。紙芝居でウワハハハハハの黄金バットが始まったのもそのころだったと思う。夜ごとにバカーンとピストルの音がきこえ、米兵が厚化粧のパンパンガールを引っかかえて押しまわっている世の中では、もう角でバッタリ赤マントだの人さらいにさらわれて曲馬団に売られてしまうどころの騒ぎではなかった。
 吉田茂の-治世-(昭和二九年・一九五四年まで)が始まっても、当分は親類を訪ねてもまん中にライターを立てて、ともしておいて話をする、伝記はおろかロウソクもない、出すものは紅茶がもしあっても砂糖がないので無糖紅茶であった。電気がついても毎日しょっちゅう停電した。そうした中で数え年・十七‐十八(年令を満で数えることになったのは昭和二五・一九五〇年初頭からである)であった私は何をやっていたのか、次回以降にー



第二話 ー終戦ーからー戦後ーへ



第一次吉田内閣の成立が昭和二一年の五月で、その直前に悪名今や一世に高い私刑-極東国際軍事裁判-が始まり、「リーダース・ダイジェスト」の日本語版が創刊されている。その年からわずか六年後の昭和二七年(一九五二年)までに、国民の個人所得は戦前の水準に達したのであるから、すさまじい底力である。この昭和二七年には日本はヘルシンキ・オリンピック大会に復帰し、皇太子殿下(現天皇)の立太子式があり、国立近代美術館や新丸ビルが開築されている。
 そういったような-現代史的記録-とはまったく関係なく、私たち戦後の少年たちは生きていた。戦後の社会にあっては不良行為もろくにしようったって出来なかったが、ある程度父母の性格とか、家庭の内情によって、また-初年学校くづれ-という手あいがあって、その横行によっては、このときくらい不良少年がでかいつらをしてのさばった時期もない、とも言える。私の同級生にも、初年学校くづれや父の放任、母の不在、貧困などの原因によってヤケになり、性格が歪み、闇市や荒廃のあとが中々消えない盛り場などでタカリをやり、ヤッパをふるい、第三国人や愚連隊と仲間になり、格好をつけている奴らがいた。そのころは「番を張る」とはいわなかった。喧嘩をするとき「番長だ」といった。この隠語は当時は不良の兄貴分という意味ではなかった。「お控えなすって・・・お兄いさん、それでは仁義が成り立ちません、どうかお兄いさんからお控えなすって・・・」云々という仁義の文句を全部暗誦している奴がおった。「新宿に月夜はねえんだ」という脅し文句があった。私がきいた限りでは、ヤクに手を出したり、隠匿物質の情報を「あるスジ」から「組織」へ密報して歩くようなところまで深入りすると、もう何年かたっても足が洗えないとのことであった。
 私が「きいた限りでは」などといって自分の経験として語れないのは、私は意外と不良行為はしなかったからである。同級生にも年の近いゴロマキ連中もいたのだが、腕力に自身がないからこわかったのだ。その一面、私はクヮッとなると何をするかわからない狂的な部分があると相当本格的なワルからもはばかれていたそうで、あの野郎、いつかぶっ刺してやると放言していた奴も、結局は手を出さなかったのだとずっとあとになって耳にした。
 しかし万引きも親の金や時計を盗むことも、煙草を吸うこともやった。幸い、酒もビールもその味を好まなかったので、酒飲みにはならなかった。これは私が今でも幸いだと思っていることのひとつである。そこまでいうと、今の人はすぐ「ではあんなの子は?」ときくにきまっているが、私は友人たちから嘲笑されるくらいオクテで、そっちのほうも、悩み煩わされるばかりで、いっこう行わなかった。中学の卒業のときは、まだ全員丸刈り坊主で戦闘帽をかぶった者も、幼年学校の制服を着たままの者もいた。そのとき初めて‐内申書?と言うものがあることを知った。担当の教師浅沼氏は私に手こずり、高等科への進級はどうにも認めがたいというので困惑していた。ちょうどその呼び出しがあって、オイ実吉、おまえどうする気だといわれたとき、私は農大を受けるつもりですといったので、アアそうか!と浅沼氏をホッとした顔になった。そして恐らく内申書には私の成績を、ヨク書いてくれたらしい。
 そういう点では私は変にツイている男で、初等科(小学校)では一定の生徒を落第させなければならないかどうか知らないが、私ともう一人の生徒のうちどちらかを落とさなければならない(?)のを母が懇願してなんとかしてもらった。中等科でも当然落第(これをダブルとかドッペルとかいった)するところを、ヨソの学校へゆくからといって、まぬがれ、大学でも点数が足りなかったのを、担任が親切な人物で、レポートを出せばゆるしてやるというので、「ウサギ飼養法の研究」というのを提出して、「大学をドッペッタ」という「汚点」をつけられずにすんだ。
 いま堂々たる学苑の偉容を誇っている東京農業大学も、旧制の最後の学生が入学したころは、旧兵舎をそのまま使っているガタボロの建物で、そのむかしの「肥えタゴ大学・田吾作大学」よりひどかった。従兄の山田健児氏のお古じゃなかったと思うが、一応角帽に金ボタンの大学生姿になれたのも、多少は日本が復興して来た証拠であった。競争率は三人に一人と噂されたが、中学の教科書をしぶしぶ勉強したくらいで、どうして試験に通ったのか、今でもさっぱりわからない。試験問題は六問でその中の英語の問題が、フロム・ガーデン・トゥ・ガーデンという奴であったことだけは覚えている。発表の日に経堂の駅からどう歩いたか覚えていず、受験番号が掲示板に張り出されているのを見てまったく信じられず、帰りもどこかに黄色い菜の花が咲いていたような気がするが、どこをどう歩いて帰ったのか覚えていない。縁側で何かしていた母のところへかけこんで、「通ったよ!!」とわめいたのだけは覚えている。
 私が入学したのは農大の旧制専門部農学科であった。畜産、養蚕、動物病理、応用昆虫、農学などを学んだのだが、何よりその奥義を極めたい動物学はいっこう面白くなかった。ライオンもキリンも出てこないのだ。昆虫学も害虫について学ぶので、何年も昆虫採集に熱中し、空爆で丸焼けになってしまったが、二十四箱もの標本箱を持っていた私にはちっとも勉強する気にならなかった。外国語も独、英、仏のいずれかを選択することになっていて、私はドイツ語を取ったのだが、全然、アタマへ入って来ない。
 そのころアメリカの大統領はアイゼンハウアーで、農大にもキャノン博士というのがつかわされて、経営が米国へ移りそうになった。そのためそれもいいんじゃないかという一派と、米国資本の進入だ、断乎拒絶すべしというアカな連中とが激突し、連日アジ演説をくりひろげ、学長佐藤氏の机下に迫り、外部から左翼素人劇団、社会主義運動団体まで入って来て学生たちを煽動し、大騒動となった。このおかげで私もそれに加わって学長質に闖入し、アジ演説を逆にアジり返したりしたが、実はなんにもわかっていなかった。ともあれこのため、のちに全国的な大学紛争がおこった(一九六八年五月)とき、私たちはそれを一足先に経験したなという感覚があるわけである。
 この学園紛争に加わった男女大学生の思い出によると、その時期には大変燃えたという。だが終戦後の初期大学紛争での私は実は燃えていなかった。大学をアメリカに乗っ取られないようにするとか、にくにくしい学長をやっつけるとかいうことに、本心からの情熱は感じていなかった。思春期の焦燥感が再発したかのように、私は自己の確立を求めたが、依拠するところがなかった。戦争中はそれがあった。それは祖国であり、戦勝であった。と信じていた。今は何も頼るものがない。私における-戦後民主主義の影響-は少なかった。するとそれは自分個人しか頼るものがないということになる。だが、おれ個人とはそんなに強く、頼り甲斐のあるものなのか。ありはしない、つねに悩乱し、上下に動き、左右に揺れている。私は武者小路実篤の本にあったように、読む、書く、考えるの三つの行動によって、確信、確立を得ようとした。幸いにも私は読書癖があり、作文は自信があった。私は倉田百三を熟読し、哲学の本に読みふけった。しかし大衆小説、娯楽小説のほうがずっと面白いので困惑した。水滸伝を文語体で読み通し、東海道中膝栗毛を原文のまま読んだのもそのころだ。中学二年のころから-小説-を書いていた。その実体は少年講談のまねか、「老女白菊」の-小説化-にすぎなかった。大学へ入るころ、自分語りの-現代小説-を書きはじめた。自分が動物飼育によって経済的に独立し、思索し、町へ出て女性と交際するといったような、今あらすじを書くのも赤っ恥をかくような内容であった。当分私は細田民樹や三上於菟吉や菊池寛の影響下にあるような長編の-現代恋愛小説-に夢中になった。へたくそな人まねにすぎなかったが、たとえばその中でパーティーや大都会の中心部を書くとする、しかるにそれらのものは当時の日本にはまだ復活していない。やむなく作家の描写のまねをしたり、戦前あった観光地なり富裕な大邸宅の中などを思い出して書く、つまりやがて日本にもそれらのものが再現すると仮定し、予想して書くことになる。ところが後年になってみると日本には戦前差ながらの繁華街や、銀行家や華族の邸宅や、そこで行われる社交などは、ほとんど復活しなかった。出現したのはまったくといっていいくらい違った-大戦後の民主社会-であった。
 読みまくって一冊一冊おぼえてしまうくらいになろうと、大型トランク二個が一杯になるくらいノートや父の会社の不用になった用紙(四百字詰め原稿用紙なんていう贅沢品はそのころ手に入らなかった)に小説を書きためようと、考えこもうと、私の脳惑は少しも安まらなかった。では町へ出て異性とつきあったか?そんな度胸はなかった。せいぜいこっそり映画を見たり、そのころ流行のストリップショーへ忍び込んだりするのが関の山だった。とうとう私は行き当たりばったりにプロテスタントの協会へ入って、牧師のお説教に耳を傾けたりするようになった。日本キリスト教会、ナザレン協会、日本ホーリネス協会、、、、どこへ行っても倉田百三の「絶対的生活」の一節ほどにも、牧師や信者たちの言葉は私の胸に響かなかった。
 この彷徨の末、私は中学まで同級生であった浜尾文郎に再会した。これが切っかけとなって私は世田谷カトリック教会の主任司祭今田健美に出会い、公教要理を学んで受洗した。教養に服従する生活というのは何かに似ていた。やがて思い出した。かつての-軍国主義時代-の軍律に準した学校の規定であった。私はあるていど心の安定を得たけれども協会の掟には私の中の個人が反抗した。私はどこまでも団体に向いていないのだ。何かに帰依し、所属しているということは、たしかに安らかであるけれども、私は小学生のころから-人のあとについていく-ことを好まない傾向があった。以下は次回「戦後その二」にて。 




第三話  終戦 その二



浜尾文郎は著名な探偵小説家、浜尾四郎の次男で、兄実氏は皇太子(及び浩宮、礼宮)の師鋪傅であった。その叔父は古川ロッパであった。本人は少年時代から秀才でスラリ型の美少年であり、長じては父浜尾四郎そっくりになった。私と再会したとき、すでに彼はカトリック信者になっており、やがて神学生となり司祭となって、司教に叙せられてローマに多年留学し、浜尾司教区の主任となった。
 いまはさらに昇進して、ローマ教皇つきの司教となり、ついに枢機卿になった。個人的には私の旧友で、カトリックに帰信させてくれた思友、洗礼のときの代父でもある。いまなお、あと二人の親友、武者小路公秀、石川隆三郎、清棲家隆と四人で、年に一回、必ず会合することにしている。
 私は学習院の幼稚園から初等科、中等科(旧制)までの生え抜きであったけれども、その上である高等科へは行かず、農大を受験したわけである。だから新制大学である学習院大学はそのころまだなかったから、むろん行っていない。
 農大には専門部、学部、大学院とあり、私はその専門部(三年)にしか行っていないのだから、旧制高校と同じ高さに過ぎない。当時は、戦前タイプの面白い教授も少なくなかった。学内の路上で何かというと学生を呼び止めて、討論に及ぶK教授、授業中ともすれば「外人は外出するにもパーティなどに出るにも、必ず妻を同伴するが、あれは妻を信用していないからである」と主張するA教授。自分の著書を教科書に使うが、天才的なほど一字一句違わないことをしゃべるので、教室にいる必要はないS教授。農学を講義しているのだが、感情が激してくると、「なるほどわれわれは戦争に負けた、しかしまだわれわれには、アマゾンがあるではないか!」と、机を叩いて絶叫する熱血教授など。この菊池教授に刺激されて私も-ブラジル渡航熱-にとりつかれるようになったのだ。
 農学科のクラスは一番多くて、五十人以上いたと思うが、無論傑作な奴も少なくなかった。先輩で従兄弟の山田健次さんによると、「ドン百姓大学とは言うが、行って見ると優男が多いよ」とのことであったが、私のクラスにはあんまり二枚目や、ルックスのよい奴はいなかった。色白で長身なのはよいが、目つきがヤギに似ているのでザーネン氏と呼ばれていた級友があった。(ザーネンとはヤギの品種の名である。)色が黒く、丸刈りでギョロッと目が丸く光って、「南洋の土人」のようだが、そう呼んでは気の毒だから、その中のリーダーだということにして、酋長とあだ名をつけられた奴もいた。まだ少年っぽくて、真っ白い歯が印象的な進藤君は、農場で馬を使っての実習中、突如ヒラリとその馬にまたがり、未耕の空き地を駆け回らせたので、クラスメートたちの喝采を博した。皆日本各地から集った若者たちだから、体力、労働力はすぐれていたが、たしかに性格的には優男が多く、喧嘩した記憶はない。また上級生が暴力を振るう蛮風を伝統的に残していて、私も生意気だというので、ヤキを入れられたことがあるが、クラスには凶暴な奴はいなかった。小柄でいつも人をからかう癖のある河原君とか、同級生にもていねいな、ですます言葉を使う平良君なども記憶に残っているが、寺島君と須川君は特に印象が深い。
 寺島はいかにも農村青年という感じで、なぜか相手を君ともおまえとも言わず、「オイ、彼!」と三人称を使う癖があった。変に世慣れていて、親切で、卒業のときも固く手を握り合って別れたが、いまでも謎がある。フルネームを寺島一四六というのである。まさかイシロウではあるまいというと、むろんさと答える.イヨロクか百四十六か、イシムかといろいろに読んでも、ニヤニヤしていて本当の読み方を明かさない。別れるときに明かす約束であったが、つい忘れたと見えて、今なお私はこの同級生の名を知らないのである。
 須川昭君は、川口の貧家の生まれであったが、常にハツカネズミやフクロウやノスリを飼育し、動物百科事典を精読暗記しているのに、学期末までそれをひけらかさないので私は知らなかった。あるときついペット愛好について論じ、それが入り口になって親しくなった。卒業して上野動物園にほんのアルバイト扱いで働くようになったときは、天にも上る心地で、もう思い残すことはないといっていた。それほど熱烈な動物愛者でありながら、質実で、内気で地味な男だった。私が大学時代に得た唯一の親友といっていいのだが、やがて亡友と呼ばねばならないことになる。須川は動物園で本採用になる望みもむなしく、父を失い、母と二人で工場の宿直室に住み、やがて病に蝕まれてこの世を去ったのである。その死の前、「僕の分も合わせて二人分、動物知識の普及に努めてくれ」と言い残した。私はその遺託を受けて、使命感を抱き、その道に挺身した。私が動物作家や知識の普及者になって成功したとすれば、それは須川君の-ご加護-によるものである。

 トルストイの「アンナ・カレーニナ」の主人公の一人レーヴィンは、われわれとは何か、何のために生きているのかという疑問のために苦悩するが、私もその悩みの末にカトリックの信仰というものを見つけた。小康状態が得られたように思われた。が、なかなかそんな簡単な解決や到達はやってこなかった。世田谷教会で今田神父(これが名うての変人神父、暴れ坊主で、「日本聖人鮮血遺書」の著者フランソア・ヴィリヨン神父の弟子で、三回も戦争に行った衛生兵のあがりで、ウィットに富んだ面白い人であったが、それだけにそういう人物の教え子であること自体がひとさわぎであった)の下にある青年会員として、私たちは議論にあけくれ、信仰心を競い、犠牲と祈りを捧げあい、布教活動に身を投じたりしたが、その一つ一つが騒擾であった。友情や団結心は大学よりも激しく濃く生まれ、互いの交際から安らかな連帯感が結ばれて、めいめいに利益をもたらした。それは他のそういう宗教団体の内部で共有され、そこへ継続して出席する動機となり、力となっているものと同じであった。不思議にも、それはのち日本でも方々に生まれた趣味の同好会に似ているのであった。どちらも長続きがして、一人一人成熟した個人の意思でなりたっており、一回一回の集まりや、一緒にやる行動がいちいち楽しかった。そこが軍隊とも学校とも違い、親類一門の集まりとも、いわゆる文学会とも違うところだった。だから、同じ信仰対象を中心に、かたく結束しているからというのではなかった。各個体との接触刺激に反応するのが快いので、やめよう、外れよう、対立しようとすると、強い引き戻し効果がはたらくのであった。
 私の経験した軍国主義社会からかぞえて、二回目の-拘束された組織-とは、そういうものであった。私は楽しく、教会信徒の一員として行動した。神とは何か、来世は三つしかないのか、煉獄とは何か、キリストが生まれる以前の正しい善人たちは死ぬとどこへ行ったのか。プラトンや孔子はカトリック的には否定さるべき人なのか、悪魔とはどういう存在か、悪というのは単なる善の不足なのか、それとも善とは別の独立した霊か、善とも悪ともいえない平凡、普通、可もなし不可もなしの大多数の人々はどう考えるべきなのか、寸秒もムダにせず行動すべきか、立ち止まって静思、祈念の時間を持つほうがよいか、掟に従うべきか、そして異性に対しては?
 青年会の元老軍人の子、サラリーマンの子、靴屋の子,不治という噂のある病身の若者、ほとんど不良といってよい学生、哲学青年,癲癇持ちで、もう青年会員というにしては歳を食っている三十男、学校の成績は悪くて粗雑なくせに神父志望の神学候補生、申し分なくいいところの坊ちゃん、学校の先生の末っ子、あらゆる階層の若者達が、よるとさわると激論し、穏やかに話し合い、対立しては和解し、意見がかみ合わなくてうやむやになり、ときにはアニエス会の女の子たちと論議し、交際もしたが、降誕祭の劇のときも、上智大学周辺での聖体行列のときも男女は別々とあった。だれそれが-ご趣味-だとか、婦人会の某夫人はお化粧が濃いとか、うわさする奴もいたが、たいていは無視された。皆なるべくセクシュアルなことは念頭に置かないことにしていた。もちろんそんな禁欲でぴたりと情動が制御できるわけではなく、だれもがかくしたりじっと忍耐していたのであった。信仰上の兄分のような存在であった植木滋氏は言った。「君、マスターベーションはやめろよ、あれは掟に反するだけではない、体に悪いんだ」あるとき私は女性に対して思い煩うことについて神学生浜尾にたずねた。-なるべく固い本を読むことだよ-と浜尾は答えた。私はしきりに「イミタチオ・クリスティ」(キリストのまねび)や、「聖人伝」や、「カトリック思想史」を耽読したが、その中の詩的なところ、歴史伝奇的なところにしか関心が持てなかった。私は柔弱とされる文学青年に過ぎず、三十男の野路俊平が痛評するとおり、-色臭と衒気にみちて-いた。
 多くの議論、問題の中で、後々まで私が納得できなかったのは、カトリックとは言わず、一般にキリスト教思想が人間以外に関心を持たず、動物を奴隷視するか、基本的に無関心なことであった。動物を哀れむ、それは既に-奴隷所有者-の考え方であった。動物愛護、それもあわれだからいたわってやろうという思想であり、行き着くところは動物をかわいがるようなよい人になろうということで、つまりは人間のための教訓なのであった。動物を家畜として利用し、殺して食うことまで含む??、その利用法の一つとして教訓に使っているのだ。彼ら自身を自分達人間と同じように愛しているのではなかった。これではファーブル、シートンも、椋鳩十も中西悟堂も、そして亡友須川昭も浮かばれないのだ。私もむろん納得できない。私は今田神父に糺した。神父は答えた。「そういう考え方は、天主、人間に対して侮辱だということに、君は気がつかないのか」天主は尊いであろう、しかし人間もそれほどに尊いか。今田神父はもっとも日本人的なカトリック司祭で、今日本のカトリックで一番わるいところはと聞かれて、「エキゾチック・アカデミック」と答えたという人物なのだ。動物を自分に所属していると考える西洋人の倣岸さから脱していないのか。私は猛然と反発し、「私はそうは思いません」と叫んで教会の二階にある司祭室から飛びだした。


第四話  もはや戦後ではない


 -極東国際軍事裁判-は昭和二十三年(1948年)十一月で判決が下り、東條英機以下七人が死刑に処せられてしまった。「特需景気」が起こったのは昭和二十五年ごろからだった。十六年九月にやっとサンフランシスコで対日講和条約が結ばれ、日教組は同じ年の十一月に第一回教育研究会を開いた。時代は激動を続け、人々はアリやミツバチのように働いて、昭和三十年(1955年)には総人口八千九百二十七万五千五百二十九人に達した.いつも憎まれていた吉田茂の政権はついに鳩山一郎へ、石橋湛山へと移り、やがて岸信介が首相となった。
 中野好夫が-もはや戦後ではない-を文芸春秋に発表して時代を一区切りしたのは、昭和三十一年二月のことであった。
 渋谷区の東横線代官山の駅からすぐの、長谷戸町の家に住んでいた私たちは、空襲で焼け出され、世田谷区北沢の伯父の家に寄宿して、そこから大学へ通った。大学を出たところで、当時の若者に就職先はめったになかった。街角の金物屋が店員を一人求めると、二百人以上の行列ができる。まだそんな世の中であった。熱狂して時代小説、動物小説、西洋小説を書き、見るにたえないくらい拙劣な絵を描き、流行歌を覚え、教会で聖歌を歌い、国枝史郎、吉川英治・ミッチェル・ドイル・ハガードなどの小説に耽溺していた私は、激動する社会の有様などにトンと無関心であった。新宿駅で偶然出会った大学の先輩に、「悲観しています」と言うと、先輩も苦笑して、「だれでも悲観してるよ」と答えた。そうかと思うと「われわれは社会を改革しなければならない!」と叫んでアジビラをまいている若者が話しかけてきて「あなたは思想によって世の中を変えようとしている。僕は宗教によってそれをしようと思う、お互いにしっかりやろう。」と握手したこともあった。それでいて私は信仰深い若者とはいえず、無理をしていて、不自然で、宗教とは対立するはずの自然科学によって身を立てようとしている。その一方、文学、それも通俗文学に魅せられ、純文学、私小説は読んでも読んでもわからず、退屈で味到できなかった。芥川龍之介や谷崎潤一郎はよかったが、それもその一部だけで、田山花袋だの、瀧井孝作だの、志賀直哉(この人は私の伯母の兄に当たるのだが)とくると、もうとてもお歯に会わなかった。私は信仰という拠り所を得たはずなのに、いわば立場あっての第二の彷徨に入ったのであった。
 私は逃れるように、多くのものを拒否するために書くかのように書いた。ついに父の会社の不用の用紙の供給も尽きて、大学ノートに書いたが、筆記用具ですらも万年筆にインキを浸して書くGペンにも満足せず、次から次へと用具を変えた。旧友内藤正裕の家で発見したレイン版、森田草平訳、非売品の「千一夜物語」を読み耽った。新潮社の文学全集の山内義雄訳「モンテ・クリスト伯」の世界に遊んで、いつまでも帰ってこなかった。西遊記も三国志もとうとう有朋堂の大正時代に出た文語体の古本を手に入れ、八犬伝やら弓張り月は岩波の版本で完読し、玩味し、それらのどれにも完全に癖し、淫することのできる自分の気の多さに呆れた。
 仕事の口はなく、ろくなアルバイトにもありつけず、そちらのほうでも彷徨し、徘徊したのち、多分大学の旧師か親族のだれかの世話だったと思うが、宮内省御陵乳牛処の主任、真田氏に紹介され、千葉県三里塚の下総御陵牧場に就職することができた。そこは皇室の御陵牧場で、数千頭の乳牛が飼われ、その中の精良な二頭を生きたまま御陵乳牛処に送り、その牛乳を天皇に供御する。肉、卵、羊毛、羽毛などもそうであって、その供給源が三里塚御料牧場なのである。陛下のお用いになる農産物はすべてこの「私有牧場」から上がるのであった。私はまず育牛部に配属され、続いて養鶏部に転じた。ホルスタインとレグホンのほかに、メリノー羊も数十頭飼われていた。荷車用、耕作用の馬も十頭ぐらいいたと覚えている。
 私はそこで牛の乳の搾り方を習った。羊の毛の刈り方も覚えた。荷馬車の御し方も学ばなければならなかった。そのころはすべて、牛乳は手搾りであり、羊毛もでっかい恐ろしい大バサミを使っての手刈であった。ニワトリ用、牛用に蕪青と称して、カブその他の作物も作らねばならないから、やっと私は農大卒業生らしく百姓もし、その蕪青や青刈り飼料のアルファルファや敷き藁や干草を運び、車に積み、牛たちに与える労働の生活をしたわけである。メス牛は牝牛、オス牛を牡牛と呼び、牡牛舎には二頭の種牛が飼われ、一頭が交配のために曳いていかれると、残った一頭はモオーッ、モオーッと鳴いてばかりいた。牛のお産も手伝った。牝牛の後ろからズブーッと肩まで手を突っ込んで、胎児に指を触れてさぐるということも所属獣医から習った。三ヶ月くらいたつと、牛達が私を認識してくれるようになり、放牧中でも寄って来るのでうれしくなってしまった。こうして、私はいろいろな実技を覚えた。牛舎、鶏舎のフン掃除も、ホークでつまみ上げることも、ちっとも辛くはなかった。搾乳がうまくなると、牛達も、乳を搾られることをいやがらなくなり、蹴飛ばさなくなることがわかった。搾乳夫をやっていると、決してヒビやアカギレのような凍傷を起こさないことも知った。同僚には農家の若い衆が多く、彼らとケンカになったこともあった。時々手伝いに来る農家や従業員の娘が二、三人いたが、ミルクメイトをやっていると必ず肌がきれいになるので、若い衆と何やら問題を起こしそうなものだが、それが今風の考えで、そんな事件はさっぱり起こらない。
 辛いといっていい労働は、牧場に冬が迫ったときのサイロ作りであった。現実の牧場生活には、「ただ一面に立ち込めた、牧場の朝の霧の海‥‥‥」とか、「柵にもたれてギターを弾けば、牧場の乙女が花束を‥‥‥」といったような情景はない。来て見ればここも夢想的なことは一切ない作業現場であるが、ただ、コンサード風の牧舎、とくに円錐塔の形をしたサイロの取り合わせがロマンチックに見えるので、数々の歌がつくられたのである。あのサイロの上に、小窓と足場がついている。冬が近づくと、そこへトウモロコシなどの収穫物を山のように積んだ荷車やトラックなどが来て、サイロの下に据えてあるハスカという機械によって粉砕され、小窓から噴流となって吹き込まれるのである。サイロの中にいると、それが上方からスコールのように降り注いでくる。ほとんどまっしぐらで、周りはレンガやセメントの井戸の底にいるようなものである。そうして粉砕された飼料が底から積もるのを待っていればよいのではない。それを数人の牧夫がザックザク、ザックザクと踏み固めるのである。牧場中、おばさんから主任級の中年男まで、総動員で、この大仕事を手伝う。われわれはもちろん、サイロの中で踏み固める役である。二メートル、三メートルとサイレーンが積みあがり、溜まってくると青い汁が出て、ジュクジュク、ジュクジュクと足が浸り、頭巾も被り手袋もしているのだが、砕片だらけ,汁だらけの、緑色の化け物になる。交代々々でやるのだが、一時間もやっていると冗談を言って怒鳴ったり、笑ったりする元気もなくなり、へとへとというよりボーッとしてくる。大学出のインテリのヘナチョコ野郎といわれたくないから、無理やりがんばり、疲れないフリをしている。そういう時、やっと私の気取った憂悶は忘れられ、没頭できる。労働は沸騰し、上から外から、大声で尋ね、答え、命令し、不足を申し立てる声々が、まさに働くということを謳歌している。
 このようにして堆積され、貯蔵されたトウモロコシその他の作物の破片が、やがて蒸されて発酵し、サイロの中は入って、積み出そうとすると酔っ払いそうな香気を発するようになる。色も緑から褐色に変わる。それらが、青刈り飼料のない冬の間の、牛達の食物になるのである。冬期には必乳量は減るが、その分濃厚になるともいわれている。いかに乳の出が少なくなろうと、毎日二回は必ず搾乳しなければならない。
 このように手絞りで絞った生乳がいかにおいしいかは、飲んだ者でないと想像できないだろう。当時は都会地の各家庭にも牛乳配達ということがあって、門口に取り付けた郵便箱のような箱に、牛乳一合を入れたビンを毎朝届けていた。また放置しておくと牛乳がクリームと脂肪に分離し、ビンの上下で色が変わったものだ。そのころはまだよかった。モ自然ミルクメに近かった。それがパック入りになり、いつまでたっても分離しない白い液体になった現代では、極限すればもう牛乳ではない。牛乳に似た白色飲料に過ぎない.おいしさもはるかに劣る。
 私はこの巨大な家畜の飼育法を覚え、ついでに馬の乗り方や荷車の御し方も習い、羊毛の刈り方も見につけてから養鶏部に転じた。三里塚牧場には数百羽の白色レグホーンが飼われ、褐色の名古屋コーチンもいた。コーチンはオンドリ一羽にメンドリ七,八羽ごとに仕切った繁殖鶏舎というものもあったが、これはそののち、私が経験した南米その他の養鶏所にもないものであった。飼料の残りで数羽のオカアヒルも飼われ、少数のバリケンもいた。私はニワトリの世話の仕方や採卵について学んだほか、若鶏の殺し方まで習った。私が一生でいちばん多くの動物を殺した経験はこのときである。以来私はたいていのことでは動物がかわいそう、かわいそうとは言わなくなってしまった。
 牧場生活が詩的ではなかったことは確かである。が、私の初就職が現場の労働であり、その後も動物園、移民生活、遊園地と現場ばかりであったことを私は今でも誇りにしている。そこでは文学や科学の知識はクソの役にも立たない。日本だけの特殊事情があって、動物園ですら動物学の知識は役にたたないのである。他人が聞けば、まさか、信じられないと言うであろうこのことがリアルな現実なのだ。そのように、私が初めて経験した実社会である牧場生活も、大学で習った畜産学、中小家畜学の実行であるはずなのに、そうはならないのである。大学では農場実習というものがあって、そこではブタを殺し、去勢し,処理することさえ学んだにもかかわらず、そうなのである。
 御料牧場の場長は、渋紙色の中級官吏という感じの後藤氏であったが、この御仁、すこぶる温厚で馬を扱うことに長じ、私が「もし共産主義思想を持っていてもかまいませんか」と愚かなことをきいたときも「そういう個人の思想には一切干渉しません」と眉も動かさなかった。しかし、育牛部長の森川氏は、私にはうまくいかない上司であった。やや太って、風采まで牛のようであったが、私が作業衣のつもりで着ていた新しい服で明日から働く気だとわかったとたん、「そんな綺麗な服を着て働くだと!」と、もってのほかの顔をした。これが最初の会話だから、その後も円滑に行くはずがない。私は鼻持ちならない都会的で世間知らずの青びょうたんだったにちがいない。お陰で私は上役というもののむずかしさを初手から心得るようになった。そうかといって、二十歳そこそこの若造が、上役を篭絡して、うまくいくようにことが運ぶなんて出来るはずもない。
 同僚の若い衆とはケンカをしたが、それからもケンカばかりしていたのでもない。休みがあって東京に帰省し、今田神父にこのケンカのことを話すと、神父は「君はもっと社会というヤキを入れられ、鍛えられる必要があるのだ」という意味のことを言った。今田神父も私にとっての-実社会-で、温情ある恩師ではなかった。一方中年のおっさんたちには温情やユーモアや、ふところの温かい人がいた。みな戦場経験者で、馬車を駆っていても、木柵を修繕していても、二等兵か上等兵に見えた。休憩中にふざけて丸太でえいっ、えいっと棒杭を突くと、びしっびしっと命中した。銃剣術の要領なのだ。若い者と一緒になって、立ち木に石を投げっこしている二人のおじさんを見て、その中の一人の妻である日に焼けたおっかぁが、「大きな子ども!」と笑っていた。それでいて、私が一文の金も一回分の食料もないといったとき、ザルに米を三合、タクアンを一本もってきてくれたことがあった。 
 そんな涙の思い出が浮かんでくるのに、そのときの私の給料はどのくらいだったか、自炊していたのだったかどうかさえ、思い出せない。
 ときどき、烈しい歯痛に悩まされたこととか、よせばいいのにドブロクを飲んで、それこそ若気のいたりもいいところで、飲めるフリをして、帰りには一歩は高く、一歩は低くという始末になり、ついに天地が転倒し、気がついてみると畑道の地べたに頬ぺたをつけて酔い倒れていたことは覚えているのだ。
 家畜だけでは満足できず、もっと多くの野生動物を知りたいということもあり、牧場の労働がきつかったこともあったのだろうか、いまは正確には思い出せない理由で、私は二年くらいで三里塚御料牧場をやめてしまった。ようやく渋谷の長谷戸町に父が建てた家に戻って、半年の就職運動の後、念願かなって私は横浜の野毛山動物園に就職する。


第五話 動物園時代


昭和二十五(一九五〇)年に私は動物園の飼育員になった。洋画の上映でいえば、チャップリンの「ライムライト」、ジャン・マレーの「美女と野獣」、フェルナンデルの「陽気なドン・カミロ」流行していた歌謡曲でいうなら、「トンコ節」「サンフランシスコのチャイナタウン」「かりそめの恋」などがしきりに職場でも歌われた。出来事から見ると、李承晩が来日した。山本富士子が第一回ミス日本に選ばれ、吉田首相は南原東大総長を「曲学阿世の徒」とののしった。マックアーサーは警察予備隊と海上保安庁の創設や増員を命じた。ジェーン台風が吹き狂い、四万軒の家が全壊したり倒れたりした。まずそういうような世の様であった。
 自己埋没者であった私は、かつて抱いていた多少の社会、政治的関心も忘れ果てて、いまこそ本望を達したとばかり、野毛山動物園での仕事に打ち込んだ。上野動物園でアルバイト出来ただけで天にも昇る心地であった亡友須川の気持ちがわかった。飼育員と一般市民の違いは何かといえば、動物に直接さわれることであり、さわっても大丈夫ならば、いるところに入っていけるということである。これが天地の差である。私はサーカス上がりのメスの老虎が上唇を反らして、折れ古びた牙をあらわにし、威嚇音を発するほど接近することが出来る身分になった。トラは唸ると、ウウウウではなくて、ゴゴゴゴゴと咽喉が響くのだ。このトラは多年、サーカスで虐められたため、安住の生活に入ったいまでも、ヒステリックでよく吠えつくのであるが、もし面と向かって吼えられると、何回も聞いて、馴れていても心臓に衝撃を受け、硬直せざるをえない。ライオンとなるとさらに吼声が奥深く、観客はドドッと必ず後ろヘ退がる。
 サーカス関係、もしくはインド人でもないかぎり、ゾウを撫で回す機会はあるものではない。私はハマコというインドゾウのみじかい牙をつかみ、桃色の舌の上に手を置き、その唾液にぬれて法悦を覚えた。これがキーパーの特権なのだ。しかもゾウは信用していない人間には、口の中へ手を触れることは決して許さないのだ。その信用を得るのにずいぶんかかった。
 家畜という実体で扱えるものはゾウのほかにはラクダくらいのものであった。ラクダは無頓着で不潔で、尾も上げないで放尿するし、ぶふっと唾を吐きかける。それはラマやグァナコでも同じだった。同じ類縁の動物だからだ。おとなしくて臆病だという定評が,嘘っぱちなのはシカやシマウマやヒツジであった。シカはずい分危険で、オスの角が落ちるまでは危なくて、餌付けに近づくのもむずかしかった。一人が箒を持って立ち、防いでいる間に、飼育器に混合飼料を入れてやるほかはなかった。その角が失われてしまうと、彼らの男性専制時代は過ぎ去り、メスは彼らを恐れなくなるのだが、メスらもけっこう攻撃的で、他のメスのお尻に咬みつき、蹄をふみならして脅し、ときには立ち上がって前足で争闘するのである。シマウマは私が小屋の一方の隅に立っているだけで、もう一方の隅に退避してしまう。確かに臆病なのだが,シマウマ同士はよく咬みつき合い、特定の一頭を追い回して虐める。もし人間が追いつめるようなことをすると、トラのように反撃し、えらい目にあうということは後に知ったことである。
 世に伝わっている「定評」というものがいかにアテにならないか、私は半年で痛感した。ヒツジが実は凶暴で、決して玄人は牡ヒツジに尻を向けてはならないことを、私は牧場で学んだが、それは動物園のヒツジでも同じであった。角もろくにないのに、鉄のごとく堅牢な頭で押し付け,あるいはドスッ!と突いてくる。老練な飼育員が突き倒され、踏みにじられて入院した例もあるのである。
 牝ヒツジが乳房炎に罹って、それを治すためには根気よく乳を搾ってやらなくてはならないとあって、牧場での技術が役に立ったこともあった。母を失った仔ヒツジを哺乳して、育てようとし、おそらく母体からの消化バクテリアの伝達ということが出来なかったために、幼いうちに死なせてしまったこともあった。
 小鳥屋では、病気にするのは下、落とす(死なす)のは下々,逃がすのは下々の下とされている。動物園でも原則は同じであった。外へは漏れないが、実はこれらの失敗や事故はしばしば起こっているのだ。サルが逃げ出して、ところもあろうに瀬戸物屋へ飛び込み、追いかけて捕まえたものの、ガラガラガチャンの大損害を店に与えてしまったこともあった。むろん野毛山動物園は市営であるから、市当局からあやまりに行って賠償金も払って解決したのだが、そのサル事件のように、園外へ動物が飛び出して騒動になったことはめったにない。ほとんどが園内でわれわれ若い飼育員たちが捕獲網を持って追い回すのである。野毛山動物園は8の字をなしていて、半分が野毛山遊園地であり、そちらのほうにもおサル電車、リス小屋、水鳥の池などがあった。場所がないので、横浜市内にある動物業者から、売れるまでシカ、ダチョウ、アフリカ産レイヨウ、バクなどを預かり、管理を委託されているという、一時的な動物舎があった。その囲い地は本園にもあり、遊園地にもあった。一つの囲いからダチョウが逃げ出したときなどは壮烈であった。水鳥の池や宿直室やお休み処、ベンチなどの間を、上体を傾け,首を乙の字にし,両足を後ろに蹴りながら、たったったったと疾走する。その早いこと早いこと、当たり前だ。しかしこれ以来アフリカへも行き、TVでも見たが、このときほど壮快なダチョウの疾駆を見たことはない。
 シカが逃げたときも、七,八人で追いつめ、縄を投げかけ、作戦的に巧妙に安全捕獲しようとしたがそうはいかず、もう一メートルで園外へ出てしまうというフェンスの塀ぎわの茂みの中へ飛び込んで、角を掴み、大格闘の末、他の飼育員達の手をかりて引きずり上げた。
 シカは角を掴み、ダチョウは長い首を押し下げてしまえば何とかなる。だが、本園の禽舎と猛獣舎の間で、これも有村鳥獣k.k.からの預かりであるアメリカバクのやつが、のっそり逃げ出したときにはてこずった。バクという奴は肩も、長い首もなく、耳といい鼻といい、つかむところがないのだ。その上、バカジカラだけはあるのだ。手のつけようがない。
 ちょっと動物園の動物逃亡事件といっただけで、これくらいは続々浮かんでくる。落とすのは下々、逃すのは下々の下ということをわれわれに教えたのは三十を越した小鳥屋の息子である。家業の小鳥屋を継がずに、あるいは継ぐまでの間この動物園に奉職していて、三班に分れた飼育員の一班の班長をしている。班といったところで三人ぐらいのものである。班長は本採用だが私はまだメ横浜市事務補助職員モである。一番下っぱである。そして五年働いたのだが、ついに臨時雇員のままで、給料は一番高いときで三千七百円に終わった。言うことがない。
 班員の中には色の赤ぐろい背の高い増元という青年がいた。私のことを「さねさん」と呼んだのは彼が始まりだった。朏島というニヤニヤした奴もいた。彼は仕事もよくやればしゃべることもしゃべるのだが、何につけても「おれはどっちでもいいんだ」という癖があった。壮年の飼育員には加藤というたくましくて誠実な男がいた。現場主任の蟹江氏や、班長の林氏が私をもてあまし、君が言ってきかせてくれといわれて、ライオンの檻の前で懇々と説諭を加える役を仰せつかるのはこの加藤さんであった。後にこの加藤氏は、老い先短いゾウ係りのオンズーの跡継ぎとしてゾウ舎の主任となった。ほかに年配者には江田さんというすらっとぼけたような、ピンボケしているような、どっちだかわからない-田舎の小学校の小使いさん-風のおやじさんもいた。変わり者は平石さんというおそろしく小さな老爺で、物知りで苦労人で口が達者で、塩っからくて、煮ようが焼こうが食えない代物であった。ほかにややインテリでがっしりした、私の農大の級友によくいたようなタイプの園丁で、植木職で今田神父と同じ衛生兵上がりの喜久田さん、これは妙に私とウマが合って、私の、父の家の庭の手入れにも来てくれた。上役としての蟹江主任は面白い人で碁が好きであった。私たちにとっては、口やかましくてやりにくい上司だったが、それは私が生意気だったからだ。あるとき関西の動物園から来た大小二匹のオオサンショウウオは一匹になっていた。大きい方が小さいほうを食ってしまったのだ。それはイモリでもカエルでも全く同じで、両生類の常なのだが、私はすでに大きなトノサマガエルが小さなトノサマガエルをパックリやろうとして、やめてくれっ‥‥‥と引き放したという経験を持っていたにもかかわらず、大小二匹のオオサンショウウオを一緒にするという大失敗をやってしまったのだ。蟹江さんはつくづく私に言った。「おまえなア、動物を飼う才能ねえんじゃねえのか。いまのうちに将来を考え直したほうがいいとちがうか?」のちの動物専門家も青二才のころはこんなものであった。
 この蟹江さんの親友におそろしい人物がいた。管理係長の小野沢市左衛門という剣客みたいな名前で、目がねをかけてモジャモジャボサボサの頭髪をふりみだしている。朝、管理事務所へ野毛山を桜木町方面から駆け上がって、ハアハア飛び込むと、出勤簿を開けて待っていて「また十分間遅刻しやがった、この給料泥棒ッ‥‥‥。」
 獣医が二人いて、やがて三人になった。貴重な動物、例えばキリンなどは、初めは彼らが付ききりで飼育管理し、やがて一般飼育員の手にわたるのであった。一人は小男で、まじめな久野、もう一人は朗らかで快活な岩沢、三人目が世渡り上手で学歴も高い大原二郎で、この男は後に岡山の動物園長にまで出世する。私は初めの二人、特に久野と親しくするようにして、ヒツジの断尾とか暴れるタヌキにどうやって注射するかとか、解剖を手伝ったり、妊娠しているかどうかを測定する方法などを盗み学んだ。動物の治療をするとき、保定したり、取り押さえるのはわれわれの役目であった。ゾウの怪我の手当てと、ニシキヘビの差し餌のときは大騒動だった。カワセミやキツツキなどの特殊な野鳥が手に入ったとき、落ち着かせて餌付けをする方法とか、タカ、ミミヅクなどの猛禽の捕らえ方などは、小鳥屋の息子である林氏に習った。というより、そうした世話を手伝っているうちに自然に覚えるのだ。こういうことこそ、私の納めたかった本当の動物学であった.このようにして私は五年の充実した春秋を送った。私のその後の人生のいわば基礎となる仕入れ期間であった。


第六話  動物園時代 2


すでに述べた通り、私の動物園時代は一九五五年(昭和三十年)までの五年間である。そのあいだに、たとえば綿菓子、カキ氷、おでん屋、金魚売り、天秤棒で盤台を担いで売りに来る魚屋、豆腐屋などは復活したが、鋳掛け屋、煙管直し、人力車などは復活しないか、してもすぐまた廃れた。パンパンガールやアプレゲールなどという言葉も消えていった。バー、カフェー、女給、職業婦人、フラッパー、色魔、魔窟,売笑婦、神経質、ヒステリーなどという用語も古び、使われなくなってきた。英語が本物だろうと和製英語だろうと主流になり、かつて盛んに使われていたメッチェン,ハイラーテン、ゲミュート、ドイトリッヒなどのドイツ語を会話の中にはさむこともなくなった。毛沢東、揚子江をマオツオートン、ヤンツーキャンと中国語で読む風潮も一時あったが、これは流行しなかった。ほぼ絶対的になくなったのは支那という国名であった。
 のちの-団塊の世代-はこのころ生まれた.NHKがテレビを本放映し始めたのは、一九五三年二月からであったが、何年かたってもこれは容易に普及せず、駅前などで野球、相撲の中継には大型テレビに大群衆が集まり、テレビを家にそなえた人の所へは近所から盛んに人が集まった。あるとき私の見たテレビではエノケンが物まねを演っていた。影絵でリスが、「ボクはお使いバスケット持って、越えてゆこうよ山の上‥‥‥」と歌っていた。ふとしたことから赤いチョッキを手に入れたサルがオレはエライんだぞといばり出し、それを失ってしょぼんとする。そんなたあいのない児童劇もあった。まさに-電気紙芝居-であった。
 横浜のうらぶれた町にはサーカス小屋がまだあり、厚化粧の女の子が馬にまたがっていた。暖房にまだ炬燵が主流であり、学校ではスチームであった。ボールペンもソフトペンもまだなく、消しゴムは消しにくく、三角定規はサイズが正確ではなく、コンパスもグルッと回すと、必ず線が一致しなかった。
 しかし新かなづかい,新体漢字は向こうところ敵なしといっていいくらい世を蔽い、映画館では-総天然色-が多くなり、その楽しみは倍化した。有料道路、スーパーマーケット、カッパブックス、トヨペットクラウン、トランジスタラジオなどはこの時期に始まった。
 動物園もキリンやライオン、ヒョウ、チータなどを迎えて賑やかになった。全日本で動物園はものすごい勢いでふえていた。わが野毛山動物園には、カバ、サイ、カンガルー、ホッキョクグマなどはいなかった。アフリカゾウの来園は多摩動物園が最初であり、しかしオオパンダの出現はもっとずっとあとのことである。
 私は野球帽のような帽子を被り、カーキ色の作業衣に地下足袋、または長靴を履き、動物園飼育員の腕章を巻いて、飼育詰め所で野菜を刻み、オカラ、イモ、ニンジンなどをまぜて、塩、ヌカ、フスマなど加えてイノシシ,クマ、シカ、草食獣などの飼料を作った。肉は全部クジラの肉であった。毎日、動物園が契約している豆腐屋からリンゴ箱三杯のオカラをリヤカーに積んで引いてくる。この労働が最も強かった。アジやイワシはアシカ用で、マメ、トウモロコシ、アワ、ヒエ、ムギはインコ、水鳥、ニワトリ、クジャク、キジ、キンケイ、ハッカンなどの餌であり、皆それぞれに配合が異なる。アヒル、カモ、ハクチョウ用の青菜を刻んでいて指を切ってしまったこともあり、そのとき初めてペニシリンを注射された。ワラや乾草はゾウ、ラクダ、シマウマなどの主食であり、青刈り飼料が不足していた。牧場経験者の私はそれが気になっていた。
 飼料のことだけでも、もろもろの話がある中で、この青刈り飼料についてもエピソードがある。私はこの草食獣の栄養不足について蟹江主任に申し出た。「そう思うなら園長から鎌を借りて自分でやってみろ!」と-奴隷監督-は応じた。私は仕事の合間合間にナニクソッとばかり、園内の芝草、雑草を刈り集め、ウサギ、ヒツジ、シマウマ、シカ、レイヨウたちに与え始めた。野毛山のまわりにも、近くの掃部山(カモン山)にも、余っている土地はいくらもあり、ミチシバを初め、ばらばらに草が茂っているころのことだ。青刈り飼料はそれこそゾウに食わせるほどあり、刈ってもすぐ伸びてきた。園長の小西は笑いながら言ったことがある。「うそを言やあ、刈ったあくる日には元通りだ。」
 それくらいだから、材料はいくらでもあった。これを二ヶ月も続けてようやく予算が下り、新しい鎌と背負い籠が支給された。私はその籠に一杯草を刈り込み、それを背負って、いつもポケットに入れている文庫本を読みながら鎌をぶら下げて帰ってくるので、二宮金次郎と仇名された。
 この、率先して純粋に動物のために働くという行為によって、私はかろうじて蟹江さんおよび同僚から評価されるようになったと思うが、仕事を自分からふやしたというだけで、一文の得にもならず、報償も得なかった。私が毎日青草を運ぶことを、それぞれの草食獣の担当飼育員は別に何も言わないで受け入れただけであった。象舎担当のオンズーは、おれの許しも得ないで勝手に餌をやるなと私に文句をいい、ゾウのためになるんだからいいじゃねえかと私は怒鳴り返して、ケンカをおったてた。このオンズーというのは東北人の元サーカス団員の老人で、-お爺-という言葉の東北なまりで、オンズーと呼ばれていた。ゾウはその後、一頭ふえて二頭になったが、最初からいるハマコのほうは芸当ができる。この二頭の飼育管理のほかに一日一回ハマコにゴバン乗りや棒杭渡りやラッパ吹きを演じさせるのがオンズーの仕事だった。
 オンズーと私はケンカしたが、それは怒鳴りあいで、どちらも手は出さず、他のキーパー同士も、私とも、一対一でも、多勢に無勢でも、暴力がふるわれたことはなかった。そこはめいめい社会人だという意識があった。上司たちも部下たちが不和になったり、殴りあったりしないように制圧していた。睨みは利かせたがその一方、ほめるときにはほめたし、人情にも通じていた。
 私は昆虫採集家だったから、カメレオンが入園したときは、その腕前が役に立った。園内にもチョウやバッタやカマキリやトンボがいた時代である。カメレオンの捕食生活に不自由はさせなかった。しかし、暖房、冷房の装置がないのだから、たまたま篤志家からカメレオンが寄付され、捕鯨船の乗組員からアデリーペンギンが寄贈されても、長くは保たなかった。冬が来ればカメレオンは黒ずんで衰死してしまうし、夏ともなればペンギンは命がない。夏でも平気なのはフンボルトペンギンなのだ。
 小動物や鳥類に私は特に興味を抱いたが、その中には小さくて素人目には面白くもない。客を呼べないものが多いので、飼育管理室の周りに置いておかれるものが少なくなかった。私は多くのショウコク、トウテンコウ、ゴイシチャボ、コウチャッコなどのニワトリ類を愛好した。小型のフクロウが死んで、だれからも顧みられないので、勝手に解剖して、脳の中までのぞいたことがあった。ヘビの扱い方に習熟した。シチメンチョウのメスは偉大なお母さんで、二十個ものニワトリの卵を抱いて、孵えるまで何十日でもがんばっていることを知った。珍奇なヤシガニを扱い、実はこいつはカニとは言うが、「殻のないヤドカリ」だということを知覚した。真っ白いカラスを世話したこともあったし、スッポンが水が凍るほど寒いシーズンにも平気で冬眠しないで生きていることも発見した。捕らえられてきたアナグマの気の荒いことには仰天した。
 動物園の設備が整うよりずっと昔のことだから、こんな雑駁な飼い方をしていたのである。それをもっけの幸いに、私はどのシーズンにも夢中になって働いていた。働いていたのであって、研究していたのではない。「学者はいらねえんだよ」と林班長も言っていた。私はまだ「おれは動物学者になるのだ、なりつつあるのだ」と自覚してはいなかったが、現今では、これほど多種多様な動物を実地に体験できる環境はない。
 そのように、開園後間もない動物園に入ったため、猛獣はハイエナもヒグマも、狼も厳重な鉄檻の中に入っており、草食獣の囲いもみな丸太ン棒の柵であった。そのため私も土を掘り、丸太を直角に立て、その周りの土をつき固めることや、綱や針金、カスガイで組み立てること、小屋の建て替えを学んだ。おかげで、ずっと後のことだが、庭に一人でニワトリ小屋やハナグマの小屋を建てることができた。このような作業を土方と称した。毎日やる餌づけ、掃除、見回りなどのほかに、ときどき囲いや動物舎の建築がある日は、「きょうは土方か」と呟いた。グズグズ仕事をすることをチンタラチンタラやると言った。コロとかテコの力を利用しないで、石材や巨木を運ぶとき、「おナマでおやかしちまえ」と言った。「セーノ」という掛け声も覚えれば、愚痴のこぼし方まで習った。たとえば「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよい」あるいは「ケガとベントウは自分持ち」
 現場の肉体労働に服しながら、乙な文句を口にし、しゃれをいい、冗談に辛苦を紛らわせ、呑気にやっていく同僚の精神的余裕に、実に私はほとほと感服していた。一方では左翼勢力がノシまわしていたが、彼ら一般労働者は馬の耳に念仏であった。ケンリだのジンケンだのを口にするものはなかった。そういう雰囲気がなかった。そのころ私はヒジカタさんという言葉をきいてすぐわかった。-職場文芸誌-が出て、皆俳句などを作って応募し、私も「日ざかりに 息づきせわし 黒兎」という一句をものして採用された。一日の仕事が終わるとスピーカーで「蛍の光」が流れるので、ひねこび爺さんの平石さんが一句うかんだ。「朝来れば、蛍の光待つばかり」

動物園は日曜祭日が稼ぎどきだから、そこに勤める者にとっては、盆も暮れも正月もない、早出、早番は常のこと。休園日でも動物に餌を与え、掃除をすることはしなければならないから出勤人数に変わりはない。飼育員は交代で平日に休む。私の休日は木曜日であった。その日も特別出勤で出て来いといわれない日には、私は午後まで寝ていて、それから小説を書き出した。まだ大学ノートだった。後年、ノンフィクションライターと称するようになったが、当時は小説家が夢だった。恋愛小説、探偵小説、時代小説、翻訳文学を次から次へと読み続けた。乱読でも流読でもなかった。私は意外と執拗な性質で、同じ作品を何回も何回も熟読,精読、味読、多読した。漫画にも熱中したり侮蔑したりした。絵はなかなかうまくならなかった。音楽はタイトルと作曲者を克明にノートしては覚えた。一時間も歌い続けたり「楽聖物語」を読んだりした。カメラも手に入れ、動物の写真を撮りまくったりしたがこれもついには上手の域に達しなかった。昆虫採集の腕は自転車の運転法とまったく同じで、何年やらずにいても落ちなかった。映画もさかんに見ては製作会社、主演俳優、監督の名をノートした。一種のメモ魔になった。一つか二つに集中し、専門化しようとしたが、それのできないタチで、いつのまにやら-雑学者-になっていた。知識があるといわれ、記憶力がいいとされ、後には博士、博物学者とよばれたけれども、こういう奴に限って、学校の成績は悪く、勉強が嫌いだったに決まっているのだ。
 当時は私の年ごろ、二十歳以上が-青春-だった。高校生ぐらいで青春時代とは言わなかった。その意味では動物園時代には私は大いに青春した。動物園の事務所や切符売り場の女の子ともときどき喫茶店や映画に行くこともあった。そのうちの一人は、公子というので、ハムちゃんと呼ばれていたが、私がブラジルへ行くので退職するといったとき、「一緒に行きたい」と言った。英子という子は、「何の約束もしなくていいから、-かりそめのフィアンセ-になって。待ってるわ」と言った。それでいて手も握らない、キスもしないというのは、いまの女の子に言わせれば馬鹿じゃないのと言われるであろう。だが昔はいまのような色情狂時代ではなく、セックス情報が氾濫してもいなかったのである。私は自分の-身分が低い-ことが少しずつ気にならなくなり、インテリの誇りなどというしゃらくさいことを意識しなくなっていった。中学や大学の友達ともほぼ完全に会わなくなった。彼らがどういう職業についているのか、何をやっているのか、まったく関心がなかった。
 世はついに神武景気を迎えた。が私個人および私の知る限りの-労働大衆-はさっぱりその自覚はなかった。もしできるとしても、贅沢や道楽に耽る者がいたような気がしない。この年、昭和三十年から先、七年の間、私は日本で何が起こっていたか知らない。私は-企業移民の一員-として南米に渡航したからだ。




第七話 ブラジル渡航



 動物園への通勤中にも、多くの人たちがかなり流行ということを追い始めたのがわかった。たとえば男の服装に限って言っても、シングルの背広は襟の左右がとがり、前が大きく開いて、ボタンは二つであった。ネクタイは私がブラジルに行ったころは幅が広くて長さも長かったが、私がブラジルにいる間、一九五六年ころから一九六〇年へかけて、ばかに細くなって、大男には似合わないくらいであった。私は新調の背広でブラジル行きのオランダ船に乗ったが、それは母が買ってくれたものであり、普段はまだ父のお古であった。ポケットハンカチは三角形にチラリと出したり、三つの山を作るように折って、派手に見せたりしたが、ブラジルへ行ってまもなく、四角に折ったハンカチを水平に胸ポケットにさすように変わった。ズボンの太さ、細さは著しく変遷し、行ったころはガバガバしていたが、一九六二年、帰国したころから細まり,「ありがたや節」で売り出した歌手、守屋浩にいたっては極点に達し、まるでタイツのようになった。
 流行には一定のパターンがあることを私はようやく悟った。人々はネクタイやハンカチでようやくそれを表現していた。靴も先が丸くなり、とんがり、角ばりーーというパターンを繰り返していた。しかし喫茶店に行っても、緑茶や昆布茶は出なかった。サラリーマンが飲み屋で飲む酒は大方ウメワリで、オンザロックはもしあったとしてもごく少なかった。一万円札も東京タワーもまだなかった。むろん自動販売機も赤電話もなかった。テレビは相変わらず遅々として普及しなかったのだが、それでも一九五八年(三三年)には百万台に達した。
一千万台を突破するのは一九六二年(三七)年になってからである。
 私がブラジルに向かった船で出発した年に、日本ではハリウッド映画「おれたちは天使じゃない」(ピーター・ユスティノフ)を上映していた。ブラジルにいる間に、ユル・ブリンナーの「十戒」を見た。帰国した一九六二年にはジョージ・チャキリスの「ウェストサイド物語」をやっていた。ブラジルに行っている間に男のズボンの「社会の窓」は、ボタン止めからチャックにかわっていった。かつては日本ではアソコのボタンをはずしっぱなしにしていると、おまわりさんに罰金を取られるといった「伝説」があったので、そのボタンをバッキンボタンを呼んでいたものである。


 「神武景気」は始まっていたのだが、日本はまだ国民を十分に養いきれず、減らしたがっていた。第一期南米移民ブームというのがあった。行く先はほとんどブラジルであった。多少アルゼンチンその他への移民もあった。日本郵船はあるぜんちな丸、あめりか丸、さんとす丸という三隻の移民船を南米に往来させていた。後にはかろにあ丸という大型の船も進水した。この船たちは太平洋を横断し、ハワイへ寄港し、アメリカのサンフランシスコに寄港し、以後南下してパナマ運河を通り、南米の北側から南へ向かい、ブラジルのサントス、必要ならばアルゼンチンのブエノス・アイレスヘ着くというコースだった。これをアメリカ航路と称した。
 それに対して日本にはもう一社、南米ヘ行き帰りする貨客船を三隻動かしているオランダ人の郵船会社があった。彼らはボイスヴェン号・ルイス号・テゲルベルグ号という三隻の船を就航させ、神戸港から沖縄の那覇へ、中国の香港へ、そしてマラッカ海峡を通って、インド洋へ出、モリシアス島へ立ち寄り、アフリカ大陸へ向かい、ポート・エリザベス、イースト・ロンドン、ダーバン、ケープタウンと南アフリカの北端を回って北上し、南米へ、(地図の上では)下から近づくというコース、これをアフリカ航路と呼ぶ。
 この三航路のうち、私の参加した企業移民団はアフリカ航路を選んだ。時しも第二期移民ブームに差しかかっていて、第一期のようにわれもわれもと、個人個人で行くのではなく、ブラジルで戦前から移住し、その社会に溶け込み、成功者もたくさんいる日本人たちの営んでいる企業に、技術や機械を持って加わろうという移民形態が盛んになりつつあった。これを企業移民と言い、中島氏という人の企てた移民団は、絹糸を製造する工程の一つをこなす撚り糸機械と、それを動かす技術者を持っていこうというものであった。無論それを利用して渡航費は自分で払い、それに参加して、団体の一員となれば、行くときいろいろと便宜が得られる。そういう利用者も、中島氏は募集した。私はそれに応募した一人だった。引き受け先はブラジルのサンパウロ州バストスにある撚り糸工場であった。
 渡航費は日本政府が貸し出していた。約十二万五千円であった。これをブラジルに行ってから働いて返すのである。私はアメリカ航路よりもアフリカ航路のほうが寄港地が多く、憧れの地アフリカへも寄れて、多彩なので喜んでいた。ブラジルのリオ・デ・ジャネイロまでざっと三十三日。世界でも一番長い航海の一つだった。ロイヤル・インターオーシャン・ラインズ(オランダ郵船)の持ち船三隻のうち、私の乗ったのはテゲルベルグ号、一万七千トン、船の甲板に二つの大きな穴があって、そこから船底に積み込んだ荷物をクレーンで吊り上げ、また積み込む。その巨大な穴の周りが作りつけのベッドで囲まれている。私たちはそこに寝起きする。ざっと八百人、扱いはまず三等船客で、二等になると個室があり、食堂があり、召使がつくが、他の二等船客、特等船客まであるし、下には下があって、四等船客、船首に近く、ゆれが激しく、柱に取り付けた吊床で寝る。船の中は恐ろしく階級的である。
 われわれは港に着けば大穴が開いて、そこから貨物を出し入れする中央の部分に全員が集まって食事をする。上級船客にはたとえば二人で気楽に世界旅行をしている白人の老夫婦、富裕な印僑(インド人の商人)などがいて、彼らは荷物より上に扱われていた。しかしわれわれは荷物より下であり、中央の大穴がしまるまでは食事も待たされる。それが貨客船である。香港へ寄ったときなどは、船のまわりに中国人特有の船、サンパンを寄せた大勢の中国人が乱入してきて、われわれの食べ残しを大っぴらに略奪していった。
 那覇からは大勢の沖縄移民がどっと乗り込んできた。われわれ内地の移民よりずっと多かった。そのころ沖縄はまだ米軍の占領下にあり、高等弁務官という小総督のような役職の米人によって治められていた。だから彼らも持っているパスポートはすべてアメリカ政府の発行したものであった。甲板から眺めると、かろうじて一本だけの日の丸の旗が民家の入り口に立っているのが見えた。
 のち、私は彼ら沖縄移民がほとんどを占めているパウリスタ州(サンパウロ州)のアナディアス村で生活するようになり、彼らと深いなじみを生ずるようになる。

 占領下の沖縄には上陸できなかったから、私の最初に踏んだ外国の土地は、香港だということになる。クラーク・ゲーブルの「一攫千金を夢見る男」に出てくるヴィクトリア・ピークに登って、すっかり海外渡航気分になった。まだ新しいビルをどんどん壊しているのに驚いた。失業対策なのであった。宝石店は銃を持ったインド人が二人見張りについていた。ガーゼのターバン、ひげもじゃの風采ですぐシーク教徒だとわかったのは、R・ブロムフィールドの名作「雨ぞ降る」の映画とその原作をよく見ていたお陰であった。港近くのトイレに一歩入ったとたん、立ちすくんだ。大便所にも扉がなく、苦力(クーリー)のような中国人が平気で排泄しているのだ!私は一人で香港の町を歩き回り、どこへ行ってもイギリス風で英語ばかり聞こえる香港の中に、「中国」を探した。それは貨物の積み下ろしに日にちがかかったためで、何しろ貨物本位の船であるから、乗客は何日でものんびり歩き回れる場合があるのだ。ルビークインだの、スリーキャッスルだのという煙草もあれば、「サムソン」とか「スカイスクレーパー」とか、香港以外では見たことも聞いたこともない煙草が、いくらでも売られていた。ここで一日泊まると最高の英国製背広を一夜で仕立ててくれるとのことであった。つまり自由港とはそういうことなのだ。
 ようやく私は書店を見つけ、三国志や水滸伝を見つけた。無論漢字ばかりだから、私は絵物語仕立ての「紅楼夢図譜」を買った。初めて映画館へ入って「呂四娘的王宝剣」という剣劇映画を見て一人で興奮した。それがかろうじて私の触れた「香港の中の中国」だった。

 シンガポールでは港が船でふさがっていたらしく、三日ばかり沿岸に停泊した。船首から手の届きそうな近くに、赤い瓦に白い壁の、ヤシの葉陰を落とす、いかにもメ海峡植民地風のバンガローモと言う言葉を、私に思いつかせた家が建っていた。乗り合わせた白人の青年に「スウィミング?」と尋ねたら、「オーノー」と叫んで「シャークがいるから」と怖そうに答えたのを覚えている。
 上陸して方々見物したはずなのだが、タイガー・バウム・ガーデン(虎豹別墅)しか覚えていない。龍だの虎だの二郎神だの、??太子だの、ありとあらゆる中国の物語に登場する怪物や人物が何百体となく極彩色のデク人形で並んでいる。恐ろしく俗悪な公園なのだが、私は夢中になってみて歩いた。西遊記の登場人物や妖魔はいないかと一生懸命探し回った。そこが日本でも売られているタイガー軟膏の発売元である商人が作った公園であることを知ったのは、何十年も後になってからである。
 テゲルベルク号はシンガポールには短い間しか寄港せず、インド洋に向かって、名うてのマラッカ海峡に入った。私はこんなに狭い水路を見たことがなかった。航進するテゲルベルグ号が起こす波が、ざあっざあっと両側の海岸に打ち寄せるのがありありと見えるのだ。マラッカ海峡はシンガポール沖からマラヤ、スマトラの間を四百マイル航行してインド洋に出る「航海者の銀座」である。古くは明治時代の日本海軍と雌雄を決せんとするロシアのバルチック艦隊がテゲルベルグ号と反対の方向から通過した海峡であり、マラヤ人、スマトラ人はその壮観を見て、ああ、日本もこれでおしまいだと思ったと言う。ところが日本海海戦で、東郷平八郎はその全艦隊を撃滅してしまった。近くは昭和十六年(一九四一年)十二月十日、日本海軍はイギリスが世界に誇っていた戦艦、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈し、チャーチル首相は震え上がった(マレー沖海戦)。
 私はようやく「かつての戦場」を航海しているのだという実感を得た。船室に張ってある海図には、今船がどこにいるかを示すために小さなオランダ国旗が針でとめてあったが、その海図にコンドル島とかコタバルとか、クアンタンとか、クアラルンプールなどの、大東亜戦争中によく耳にした地名を読んで、それらの直ぐそばを通っているのだという感慨に耽った。香港でもシンガポールでも、小舟を足一本で操縦していく客家(ハッカ)の中国人や、なぜか紐をつけた空き缶にコーヒーを入れて往来する港湾労働者のマラヤ人などに、日本人だとわかると、脅かされるのではないかと気遣った。終戦からまだ十年そこそこなのだ。私たちにはまだそんな気分が残っていた。

 そのような気分は「東南アジア」を離れるとうすらいでいった。アフリカ大陸へ近づくと全然なくなった。インド洋上の航海は飽き飽きするほど長かった。この航海では、インドのマドラスに寄港せず、モリシアス島にも碇を下ろさなかったが、他のルイス号やボイスヴェン号では寄港している場合もある。そこが貨客船の特徴で、積荷次第で変わるのである。現に一九六二年に帰国したとき、私の乗ったボイスヴェン号はモリシアスに立ち寄っている。
 帰りは一人であったが、ブラジルへいく航海は八百人の移民を乗せているのだ。私たちは退屈な航海中たいへん親しく交際した。こうして知り合った人々はブラジル上陸後も、再会することがあれば、互いに「同船者」と呼び合い親族のような思いをなした。船内演芸会もあれば運動会もあった。家族連れも多く独身組もあった。あるとき、若い男女が手を引っ張り合う何かのゲームがあって、われわれ〔中島氏の率いる企業移民団〕以外の独身青年秋山君は、相手の手を握りながら、「こういうときでもなきゃ、若い女の子の手を公然と握れないからな!」と叫んだ。相手の女の子も笑って遠慮なく引っぱりあった。当時はまだ自由な男女交際といっても、その程度のものだった。ブラジルへ着くまでに、「船内ロマンス」も「結ばれた二人」も現われなかった。
 アフリカで最初に上陸した港は、ロレンソ・マルケスであった。ロレンソ・マルケスはポルトガル領で、私たちがこれから行くはずのブラジルで使われているポルトガル語が使われていた。私は秋山君やクリーム色のポロシャツの好きな富永君と三人で歩き回った。ある山麓の喫茶店で、富永君は日本で習ってきたポルトガル語を初めて使ってみたが、「カフェー」〔コーヒー〕という単語さえ通じなかった。次に寄港したケープタウン以後、船はダーバンもイースト・ロンドンもポート・エリザベスも南アフリカ連邦で、英語しか通用しなかった。イースト・ロンドンやケープタウンは第二次大戦の傷跡が一つもなく、立派な大都会の形を備えていた。例えばタクシーが走り、駐車場が完備し、商店街には入り口の上に巨大なガラスを斜面に張って、それによって光線の反射を防ぎ、その中に飾ってあるモデル人形がよく見えるようにしてあるショーウインドウがあった。私たちは初めて、「西洋」あるいは「ヨーロッパ風」の都会を見たという気分であった。
 私はロレンソ・マルケス以来、寄港地の多くなったアフリカ沿岸諸市で、しきりに「アフリカらしいところ」を捜し求めた。しかしそれはさっぱり発見できなかった。猛獣はおろか、洋服以外のものを着ているアフリカ人一人にさえ会わなかった。代わりに港近くに、必ず建っているものは傲然たるヴィクトリア女王の銅像であった。ダーバン名物の「角を生やした車屋さん」はまだ少数見られたが、これはいかにもその蛮装が観光的で、「アフリカらしいもの」とは言いかねた。港口の防波堤の突端にある標識塔の下に、二三頭のアシカが泳いだり、上がったりしているのが私の見た唯一の野生動物と言ってよかった。ポート・エリザベスのドンキンス・メモリアル公園というところで、花にすばらしい大型蝶が止まっているのを見て、あわててテゲルベルグ号にとって返し、捕虫網と三角缶を持ってきて、見事にそのチョウを捕まえたのはいいが,たいへん厳しい顔をしたイギリス風紳士に叱られたこともあった。
 そんなことよりも、南アフリカの各都市で、われわれをあきれさせ、憤激させたものは、いたるところに掲示してあるアフリカ人差別の看板や金属のラベルであった。二階のついた市内電車は、われわれには珍しかったが、その二階は黒人専門席で、一階は白人しか乗れず、「フォア・ヨーロピアンズ」「ノン・ヨーロピアンズ」と掲示してあるのだ。富永や秋山は私と一緒に公園、植物園などのベンチの「フォア・ヨーロピアンズ」と書いてあるところに腰かけ、「警官が来ても何もいわなかったぜ!」と言い合って、わずかに鬱を晴らした。今考えればそれだって、おれたちはアフリカ人よりマシだというしみったれた差別観にすぎなかった。やがてこのアフリカ人差別国に黒人の大統領が現われるなどとは、誰が夢想したであろうか?
 そのころケープタウンやダーバンに日本人はいなかった。いたとすれば、南極へ向かう捕鯨船の船員が短期間立ち寄っていくぐらいのものであった。クジラといえばテゲルベルグ号の高い上甲板のうえから、数頭見た記憶があるのだが、それはインド洋においてだった。
 南アフリカを抜錨してから、再び長い退屈な航路、大西洋に出て、私たち日本人移民団はリオ・デ・ジャネイロを経て、ブラジルのサントス港に近づいた。



第八話  ブラジルでの生活


ブラジルでの生活(1)
 私はブラジルに上陸後、しばらく中島氏の企業移民団に便宜上加わった義理を果たすべくバストスの撚糸工場で働いた後、コチア産業組合の養鶏場に移った。組合長、事実上は経営主は一見温厚だが、恐ろしく自慢が好きな中老人で、スイバクと呼ばれていた。水馬久という人物だからスイバクだ。
 ここで数年を過ごし、サンパウロへもときどき行けるようになって、大いに昆虫採集も動物研究もできたし、ニワトリというものについては詳しくなったが、長く続かず、-マカコ・ヴェーリョ-「 老猿」と呼ばれる流れ者移民の三人兄弟の日本人と結託し、カミニオン(トラック)で脱走した。その三兄弟が就職した次の農場でも、人の厄介になるばかりなので、私はもう少し自由で独立的な収入の得られる道を探して、何が本業なのかわからないサンパウロ市中に住む日本人--サンパウロ女学院の今宮アメリコ氏--サンパウロ州の田舎の、修道院のスペイン系修道士--植物学者の橋本悟朗氏--などの許を尋ね歩いた。私の南米での最初の放浪である。
 当時ブラジルに移民した青年男女に必ず聞かされるのは、ここは自由の国で人種的、宗教的偏見は全くない。実力主義の国であるということだった。まだ都会の夜空にもネオンサインというものがあまり発達していない時代であったが、それだけに派手やかに目に着いたのは、コンチネンタルと言う煙草の広告であった。高いビルの屋上にContinentalと言う文字が赤-緑-黄色と三色に変ずる。一目見たらきっと記憶されてしまう。このネオンサインを作ったのが無名の日本人だというのだ。彼は多少の電気技術を持っているということだけだったが、その煙草会社の社長に売り込んで、しかも履歴書も紹介者も証人もないのに受け入れられ、あの巨大なネオンサインを作ったというのだ。その煙草についても、これは北アメリカの例だが、たしかチェスターフィールドのセロファンの包み紙を、ビッと封を切って開く。それだけのしかけを考案しただけで、その人は大富豪になったというのだ。ブラジルで有名すぎるような出世エピソードは、アリストテレス・ソクラテス・オナシスという大変な名前の人物である。オナシスがもうじき三十というのに、一人前の会社員にもなれず、ホテルのしがないボーイをやっていたとき、パーティ場で酒のグラスを給仕していた。十七歳の富豪の令嬢のそばをすり抜けたとき、その令嬢がブッとやってしまった。その一刹那にオナシスは、「あっこれは失礼をいたしました!」と叫んで、泥をかぶってやった。社交場の真ん中で大恥をかくところを救われた令嬢は、感激して、オナシスと交際し、やがてその妻となった。ブラジル一流のオナシス大財閥の、これが始まりであった‥‥‥。
 そんな途方もない夢に駆られた移民たちがサンパウロにもリオ・デ・ジャネイロにもごった返していた。ポルトガル人の国家だとは言え、スペイン系、黒人系、インジオ系、日系その他東洋系、あらゆる人種がごちゃ混ぜになっているのだ。カボクロという、もはや何系の雑種だかわからなくなった人々もあった。英語は全く通用せず、ジャップなどと言う言葉もなかった。偏見なんてあるわけがない。チャイナタウンもない。英米人も見かけない。日本人移民には大変住みやすかった。ある地区の市場を取り仕切っている日本人くらいざらにいた。クリーニング屋が多かった。広大なコーヒー園、バナナ園を経営している人も多かった。日本人街ならあった。日本映画専門館もあった。日本語新聞も出ていたし、ブラジル社会に完全に溶け込んでいる人が大半であった。ブラジル人は恐ろしく呑気で、楽天的で、教育程度は大変低く、つきあいやすかった。徹底的に民主的で、州統領というと大変な権力を持っているのだが、それが選挙で田舎へ来ると、どん百姓の二十歳前の青二才がお前(オッセ)と呼んで議論を吹きかけても、ちゃんと相手をする。田舎の小学校の校長先生が、部下のはずの女教師が不正をはたらいているのに、それを公然と暴くことができないので、男泣きに泣いていた!たとえ証拠があっても女性の悪を公言することは、紳士として許されないのだ。
 ブラジル人は信仰深く、教会なんか行かなくても司祭(パードレ)の悪口は言わず、初聖体とか堅振の秘蹟とかはきちんと守り、いたるところにキリストや聖母、聖人たちの壁画や彫像やカードがある。写真屋へ行くと、堅振の秘蹟を受けた記念撮影のための背景がチャンと描いてある。私と一緒にスイバクの農場を脱走したマカコ・ヴェーリョ、三兄弟の末弟の話に、あるカボクロがうそをつきやがって、なんと言ってもそれを認めない。そこで「きさま、それを天主(デウス)に誓うか?」と決め付けてやったら、真っ青になって白状したと。
 彼ら、ブラジル人が陽気で騒ぎ好きなことも本当であった。聖霊降臨祭や聖母被昇天祭などの宗教上の祭日はもちろんだが、独立記念日やチラデンテスの日といったブラジル特有の記念日の賑わいは想像を絶する。チラデンテスは、歯抜きという意味で、その名で呼ばれる英雄がブラジルの独立に大いに貢献したのを祝う日である。私はある年のチラデンテスの日に、サン・パウロから最も道幅の広いアヴェニーダ・アニャンガバウへかけて、大パレードが行われているのに行き合わせたことがある。そういうところにもアメリカ風は流れ込んでいて、折しも「クワイ河マーチ」が鳴り響いていた。はためく万国旗の中に日の丸を見出して、私は初めて愛国者的な感慨を催した。
 それらの祝祭騒ぎの中で、最も大掛かりで人出が多くて、すべての人が踊っていてほとんど発狂的なのが、カルナヴァルであることは申すまでもない。毎年-カルナヴァルの歌-が募集され、当選した作曲者は一夜にして大金持ちになり、歌はカルナヴァルの二ヶ月前から発表され、そのダンスを片田舎の幼い女の子までが練習する。どこの村にもダンスのうまい黒人爺さんなどがいて、大もてでそのダンスを指導する。私のブラジルに住んだころはちょうどサンバ・ブラジルが大当たりし、チコチコ・ノ・フヴァという流行歌が大流行したときで、-カルナヴァルの歌-も必ずサンバ調だった。あるカルナヴァルの当日、よせばよかったのに見物以外の目的でサントスの町に出た私は、二つ目か三つ目の街路で、もう絶対にその道を横断できなくなった。

ブラジルでの生活 (2)
 私は放浪的なサンパウロでの生活の後、ツテを得てサントスから3時間ほど鉄道で行った先にあるボア・エスペランサで日本語学校の教師になった。大沢という教師が夫婦でやっていて、そこの「助教」をしたわけである。その学校(エスコーラ)というのはその地方でバナナ園を経営している日本人たちが建てたもので、教師もそこの父兄会が雇って月給を払い、その形ができてから州政府の認可を得たものなのである。私塾なのだがサンパウロ州の公認した学校という妙は形なのだ.目的は彼ら日本人の父兄が自分たちの子弟に日本語・日本文化を教えるためのものである。だからそれぞれの村にはブラジル人の経営する州立、公立の学校もむろんあるのだ。そこで二世・三世の子供たちは午前・午後に分かれて、半分ずつブラジル人の学校へも行かなければならない。
 そんなわけだから、教師といったところで、なりたい者がなればよく、雇いたい父兄会が雇えばいいので、資格も要らないし、試験もない。サンパウロの日本人学校がたくさんあって、その教師の中で顔の利く人にツテを求め、アキのできた学校へ教師として世話をしてもらう。そこで何とか勤めているうちに、日本人会の中で対立が起こり、私を雇っていた一派がより強力な一派に負け、その強力な一派の推す先生が赴任して来た。そこで私はお払い箱になり、そのサンパウロで教師をしていた間に知り合った大沢先生が、「おれんとこへ来いよ」と言ってくれたので、田舎へ落ちていったのである。
 この大沢というのがまた、けっこう得体の知れない変怪な人物だった。夜の夜中に柔道着にわざわざ着替えておいて、奥さんを投げ飛ばす、奥さんは泣き喚いて、外へ駆け出すという騒ぎなのだ。街の先生から都落ち、田舎教師を1年もやらないうちに、二時間ばかりサントスに近い、アナ・ディアス村に先生のアキが生じたのでまた転任。やっと落ち着いて約四年と、私もまあいろいろと転変したものだ。
 サントスからインテリオールと呼ばれる州境に近い奥地まで達している鉄道も、元来バナナを運ぶためのトロッコ鉄道がやや進歩したもので、駅にも駅舎はないし駅員もいない。乗ってから切符を買う。一つの駅を発車するたびに車内で車掌がすべての乗客の切符にハサミを入れるから、ボア・エスペランサなり、アナ・ディアスなりへ着いたころは切符は穴だらけになっている。寝ていると車掌はそのハサミで客席の背板をぶっ叩いて叩き起こす。車内販売はパステス売りだけで、これも客を叩き起こしては「パステス!パステス!」とわめくから、めったに寝てもいられない。名前からしてバナナウ河という河が流れ、鉄道につきまとうように海へ向かっているが、これももっと昔はバナナ運びの船が毎日行き交わしていた。その船のことを歌った歌が「カンソン・デ・バナーナ」で、これが後に「バナナボート」として流行したのである。
 アナ・ディアスの日本人学校はエスコーラ・アチュ・ジョージ・クリーと言い、これはその学校を州政府の認可校にするために努力してくれた親日ブラジル人の名を記念したものだった。私のいたころは、ドットル・パウロという白人が政府向けの世話をしてくれていた。ドットル(ドクター)と呼ぶほうが、ただセニョールと呼ぶより上なのである。
 アチェ・ジョージ・クリー校での生活は大変安定して、生活は成り立ち、食っていけた。やっと私はかなりの自由を得た。日本から持ってきた、またはサンパウロの日本人の店で買った本に読みふけったり、昆虫採集や動物飼育に打ち込むことも可能になった。午前と午後とそれぞれ二十人ずつぐらいの子供たちに教え、後には夜学も設けたから、多忙とも言えるが、夜学は毎晩ではないから、午後組の授業が終わる夕方から夜にかけては暇であり、休日もあり、月一度はサンパウロへもいけたから、余裕のある毎日だとも言えた。
ーー続きーー