鹿路地名の由来

石器時代、縄文時代と、脊振「鹿路」の人々は川を主な通路として利用していました。城原川、名尾川(嘉瀬川)、福岡側からは室見川がその主なルートです。当時の遺跡と石器などはほとんどこのルートから出土しています。3年ほど前、蓬原の川岸でも明らかに石器と思われるものを掘り出したのですが、紛失したのが残念です。    
 この頃までは「鹿路」は移動のルートとして使われ、まだ人が住む土地ではありませんでした。それが、集落として芽生えるのは弥生時代からです。
 57年の倭奴国の朝貢、そして107年に朝貢したのが倭国王「帥升」だと、中国の歴史書(後漢書東夷伝)に糸島、福岡に国が誕生していた記録があります。このころ、九州と朝鮮半島には明確な国境は無く、さかんに人々はそれぞれを往来していました。
 糸島半島や松浦・那珂川・早良を経由して、主に新羅系の人々は室見川を上り、三瀬峠を超えて城原川を下り、有明沿岸に交易の幅を広げます。福岡市西区の早良(さわら=そうる=古代の日本や新羅の言葉で集落を意味する)には新羅人の一大集落も誕生していました。新羅の村が早良なのです。
 

この新羅の人々が伝えたのが鉄の文化です。脊振山内に広がった新羅の人々は、現在の脊振の「白木=新羅」に集落を作ります。この「白木=新羅」の地名は松浦川沿の七山村にも、現在残っています。また、脊振の「伊福」は昔、鉄鉱石を産出していて、「伊福=息吹く=ふいご」から付いた地名であり、新羅の鉄の精錬者たちの集落でした。「伊福」の人々は別名「伊福部=いおきべ=五百族頭」とも呼ばれていました。
 南の有明沿岸にも、次々と集落が誕生しています。古代の日本語で耕作を意味する言葉に「ばる」があり、対馬では現在でも畑に農作業に行くことを「ばるしに行く」と表現します。九州で原(はら)を原(ばる)と表現するのは、古くからの耕作地があったことを意味しています。福岡の屋形原、春日原、有明の目多原、中原などは弥生時代に栄えた、初期の耕作地でした。やがて目多原、中原などの集落は嶺国(三根)へと発展し、時代は邪馬台国へと進みます。嶺国を中心とする現在の吉野ガ里や、その周辺の集落には、新羅系とは違う、百済系の人々も暮らし始めました。ここに名前が登場するのが葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)で、彼の一族は新羅から様々な職人を連れてきています。応神期に、加羅で新羅と対峙していた葛城襲津彦を助けに平群木菟宿禰が派遣され、襲津彦は弓月氏の民を連れて帰国します。その平群木菟宿禰に纏わる平群郷は三瀬を下った早良でした。

図は邪馬台国時代の再現地図。クリックすると大きくなります。
縄文、弥生時代と、人々の往来とともに、脊振各地に様々な集落が誕生しました。脊振の「腹巻」は南北朝時代に伊勢神宮内宮が往来し、姓を地名とした、とありますが、古代日本語では山手や奥のことを「まく」と表現し、腹巻は山手の奥を耕作して生まれた集落、と言うことになります。現在、当時の言葉を最も残していると言われるアイヌ語でも、山奥の畑を「ハラマキ」と表現することもあります。同じく、谷が崩れた場所をクラと表現し、その代表が脊振の「倉谷」です。また、山はカッシャ、突き出たアゴのような地形をノと表現し、尾根が迫り出した集落は「かっしゃの=頭野」、谷の渓流の本流に注ぐ枝谷をウドと呼び、脊振各地の集落奥の谷は「うどん谷」が多く残っています。
 川が狭まって両岸が高い集落を大迫(おおさこ)「大作」、湿地帯が多い窪地集落の窪山=「久保山」、土石流が頻発し、激しい流れを作る脊振の集落は流作「竜作」と呼ばれました。
 こうして脊振各地には、古くからの縄文の人々、百済・新羅の人々などが混じりあい、さまざまな集落が誕生していました。

 時代は弥生から古墳時代へと移り、邪馬台国は東へと東遷し、それに従って前方高円墳や鉄も東へと広がり、大和朝廷が誕生します。大和朝廷初期の権力者は朝廷と、それに並ぶ葛城一族です。古代国家のニ大政党時代です。ちなみに古代、郡や郷に初めて地名が必要になったのは大化改新(645年)で、諸国の郡郷の名は土地や地形に由来したり、古くからの歴史・呼び名からつけられました。脊振の城原川に瀬が続く番加瀬=「一番が瀬」、そして流れが急流になる境の広瀧=「広滝」などはこのころ誕生した集落です。
 さて葛城一族はやがて表舞台からは葬られるのですが、現在の奈良大和の「鹿路」の傍に藤原鎌足を祀る「談山神社」があります。鎌足は摂津の三島に邸があり、初め、摂津の三島に葬られていました。摂津の三島は葛城鴨に纏わる三島鴨神社の地。三島鴨神社は大山祇神と事代主神葛城一言主神を祀る葛城一族の神社です。
  日本の国家の誕生は720年の日本書紀、古事記などに描かれていますが、これは当時の大本営発表のようなもので、これらが正しいとすれば、現在の政権与党大臣の発表がすべて正しい、と言っているようなものでしょう。政権から追われた葛城一族は、その後、権力から恐れられて一言主神として祭られます。ちなみに日本での二大祟り神は太宰府の「菅原道真」と、葛城の一言主神で、邪馬台国卑弥呼の祟りを恐れた大和朝廷が、卑弥呼を神に祭り上げたのが天照大御神だったのです。
 


 平安時代になると、第55代文徳天皇の第一皇子である惟喬親王が登場します。彼は次の皇位を継ぐ予定でしたが、時の摂政関白、藤原良房の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、惟仁親王が第56代清和天皇に即位しました。皇位継承に敗れた惟喬親王はわずかの家臣をつれ、貞観元年(859年)15才の時、都を逃れ小松畑と呼ばれていた山中に幽棲したといわれています。皇子はその地で没しましたが、生前に山中の杣人達が自分に尽くしてくれた事を喜び、彼等に「ろ」による木工を教えたと伝えられています。
 また、京都から供奉して来た藤原実秀に「小椋」の姓を名乗らせ、木地職の集団の棟梁として「諭旨、由来書」などの写しを持たせ全国に職業的権利を行使したのです。政権を追われた惟喬親王は日本木地師の元祖とされ、多くの木地師轆轤師が日本全国に散らばって行きました。大和の「葛城」の西方、飛鳥の山中に「鹿路」地名が在り、彼ら轆轤集団は山岳信仰や山の神の崇拝等において、里人(平地民)とは異なる風習や自然への畏敬の念をもつ縄文の山人でした。ここに葛城一族・葛城一言主神と縄文の山人・轆轤集団が出会います。彼等が移った集落は轆轤の名前を持ち、四国を経由して脊振に移った轆轤師が住んだ集落「轆轤=路鹿呂=鹿路」は誕生したのです。同じく秦氏轆轤師が伝えたと言う技術に楮栽培と製紙技術があり、鹿路集落の一角に「大楮」が誕生しました。

 やがて神埼の荘の開発が進み、承和3年(836)の開発とされる皇室領「神埼荘」の影響が山内にまで及んでおり、脊振山内の鹿路氏などが荘園の管理を司り、三瀬・藤原・杠・薙野・腹巻・広滝、の各豪族とともに「神埼七人衆」と呼ばれました。
 また、脊振の山々が連なる山内は、常に劣勢を守ってきました。中央が把握できない「権力に従わない民の地」だったのです。古くは古代の「荒ぶる縄文の神や葛城の氏族」、中世の「平氏」や「南朝方」など、戦さに敗れ、滅亡から逃れてきた人々がこの山深い山内に分け入り、安住の地を求めて集落を作りました。名族、大江氏を祖に持つ三瀬氏、平清盛の直系と伝わる杠氏などの家を筆頭に、松瀬、藤原、畑瀬、菖蒲、栗並、広滝、合瀬、藤瀬といった諸家が、氏族の誇りを失わず「山内二十六ヶ山」と呼ばれて、独自の文化と地縁を守りました。また、河野氏は承久の乱においては後鳥羽上皇を支え、そして、のちに元寇の恩賞として神埼に土地を貰っています。

この肖像は神代勝利肖像(勝玉神社所蔵)です。同時代の轆轤氏も、こんな面影だったのでしょうね。

脊振山内には三瀬の藤原氏や脊振の松永氏など、藤原氏の系統も多いものです。この藤原氏を通じて、摂津の三島で葛城一言主神を祀る鴨氏と、三島氏族の河野氏など、承久の乱で後鳥羽上皇を支えた氏族との関係が色濃くなりました。鹿路の轆轤一族はこのころ(嘉保元年1094年、約910年前のころ)脊振の轆轤(ろくろ)荒谷に山城のような要塞館を持ち、葛城一言主神を祭る轆轤神社を創建しました。

現在の場所に移ったのは弘長3年(1264)と言われ、そして弘長3年(1264)と言えば、1221年の承久の乱に係わった、葛城一言主神を祭る摂州の大江清秀の一族、松瀬氏が脊振山内に追放された年と同じなのです。
 やがて1532年、脊振山内一帯では佐賀の里人(平地民)に支配されることを嫌い、独自文化を守るために新しい集団が誕生しました。その中から神代勝利は脊振山内城主達に押されて山内統一の総大将となります。


 轆轤氏の名前が歴史に登場するのは、このころが最後です。佐賀の里人(平地民)龍造寺隆信と葛城一言主神の神代勝利の最大の総力戦は永禄4年、1561年の川上合戦でした。永禄4年と言えば、ちょうど武田信玄と上杉謙信が川中島で戦っていた時です。


  川上峡のこの合戦の記録には、「神代勢 河上與止日女社西の総門に勝利本陣を構え三瀬武家、同安家、古河真清、畑瀬盛政など二千余 大手宮原口へ嫡男長良を大将に叔父蕃元、福島利高、千布家利など三千余 南大門口へ二男種良を大将に松瀬宗楽、杠紀伊守、合瀬、芹田などの一千三百 河上川の東の都渡城へ三男周利を大将として八戸宗暘、西河、古湯、鹿路などの一千五百余 」とあります。

 この合戦では轆轤方は破れました。これ以降、轆轤氏の名前を見つけることは難しいのですが、鹿路は集落にその名前を残し、鹿路神社と共に、誇り高い山人の伝統、自然と平和を愛する縄文の伝統とともに現代に息づいています。


毎年、2月8日は鹿路神社の百手祭り。一度、おとづれてみてはいかがですか。お待ちしています。

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