8.



「んー……」
 赤い、ほのかな明かりの満ちる洞窟の中に、ままならぬことをぼやく声が、漏らされる。
 彼のせわしない心臓の鼓動は、骨と肉と衣類を透けて外気に漏れ出し、あえぐような呼吸、高まる体温と一体となってその周囲に小さな、目に見えないさざ波を広げていた。
 そして、同様に波を産む物体が、一つ。また一つ。切りなく、闇の世界から現れる。異なる波動で彼を取り囲む。
「……畜生。底なしかよ。一体、どれだけいやがる」
 彼の進んできた道には、切り刻まれ焼き切られた異形のものたちの体が既に十分なほど堆積していた。
 けれど、彼の靴のつま先を埋めるその霊体もまた、ぴくぴくと動き、怨嗟と怒りと復活への渇望の波を、二重三重に、彼に送って来るのだった。
 『呪われている』。
そんな言葉が、普段明るい彼の脳裏にも去来した。
 ここは、間違いなく、今まで立ち入った神階の中で、最も呪いに汚れた場所だ。
 けれど、ここにこそ、彼が限りなく同じものになりたい英雄の、この世に残した、最も大きな足跡がある。
 ここにしかない。
 核心にたどり着けない悔しさに、舌打ちが出た。
「……くそ。まだ予定の半分だってのに、なんだこの疲労……。やっぱ、単身じゃ無理か……?」
 その時だった。
 洞窟の、無限に続くとも思われる強大な生物の食道のような奥底に、不思議な気配が現れるのを、彼の本能が知覚した。
「……ッ?!……」
 受け身を取る暇もなかった。
 それが、完全に透明な、目に映る手掛かりのなにもないそれが、霊体を焼き尽くしながら眼前を横切った時には思わず腕を顔の前で交差したが、次の瞬間にはもうそれは通り過ぎていた。


 音もなかった。
 彼は、息をすることもできなかった。
 それがさらに離れると、彼はまるで戸棚から落ちる食器のように、地面に崩れ落ちて尻餅をつく。


 冷や汗が、全身を流れていった。
 なんだあれは。
 言ったような気がするが、自分で自分の声を聴いた感触がなかった。
 五体が痺れて、死ぬほど気分が悪かった。
 舌の付け根が震えている。苦い草でも、噛んだ時のように。


 ……まさか。あれが……?


 ――いいや。それとも、何か別の。未確認の霊体のひとつか?
 分からなかった。
 経験したことのない感覚を肉体が処理するのに精一杯で、頭に血が回らない。
 ただ一つ。
 網膜に写るので分かることは、それが通り過ぎた後の、洞窟の、清潔さだった。
 何一つない、という意味での、清潔であって、『荒廃』と表現する人間もあるかもしれない。
 汚らしい、といつも感じるあの細切れの霊の破片さえ、まるで、箒で掃かれたかのように、何もなくなっていた。
「…………」
 だが、その後ろから、倍増した憎悪が、沸騰してくるのを、彼は感じた。
 全身が、危険を訴えた。目を絞った。
 彼は、ついに後退を始めた。出口へ向かって。
 それは、あの得体の知らない巨大なものの後を追うことでもあった。
 先へ進むことも、後ろへ退くことも、どちらも彼の本能を圧迫したが、体力の限界だった。戻る他はない。
 刻一刻と高まる熱量に背筋を冷やしながら、イル・カフカス・イラカは、壁伝いに進んだが、やがて、走り出した。
 有象無象の悪霊達が怒りの波動をまき散らしながら追ってくるのが分かった。
 少しずつ冷静さを取り戻して、疾走の速度を抑えながら、彼は、自分の喉の奥に血の味が、鈍く広がっていくのを、感じていた。





/





 そこに何があるのか認識すると同時に、来た道を踏み戻って扉を閉めた。
 悪夢でも見た気がした。
 再びそっと扉を開くが、ぞっとしない光景が再現されるだけだ。
 女だらけの下宿で、緊張感もない。ソラも本や衣類をベッドの上に投げ出したままに出かけることがよくあった。掛け布団だって、そこまできちんとはしていない。
 あろうことかその寝台の上に……クローヴィスがいる。
 認めたくないが。
 彼は、他人の生活感にも構わず、のびのびとそこに体を横たえていた。靴で掛け布団その他を踏みつけにしており、躊躇した気配もなかった。
 頭の後ろに組んだ両手を宛てて枕にしている。ソラの枕一つでは、高さが足りなかったらしい――。目は閉じたまま、ぴくりともしない。
 眠っているのだろうか?
「…………」
 いずれ、ソラは、はっきりと険しい顔つきで扉を閉めた。
 入れない。
 入れるわけがなかった。
 向こうが寝ていようが起きていようが、こんな夜遅くに、男と一つの部屋にいるわけにいかない。
 まして、今夜は。
 ――出よう。今すぐ。
 ソラは扉を離れて階段を降り始めた。
 冗談じゃない。少し怖いが、ンマロに戻ってもいい。もう暖かいから、学院に行ってもいい――そうだ! ポリネのところに行こう。
 あの人ならすぐに状況を理解して匿ってくれるに違いない。そしてこれが一体どういうことなのか、一緒に考えてもくれるだろう――。
 はっきり言ってソラは、なんだってクローヴィスがこんな非常識な振る舞いをしてくるのか、わけが分からなかった。
 あまりに衝撃が過ぎて、脳みそがでんぐり返っている。
 これが、非常に打ち解けた人付き合いの一形態だと、あっけらかんと思い込めるほど子供でもなかった。
 まして、今夜は。
 フルカとの会話で思い返した通り、ソラは、男性から性的対象にされた経験が少ない。イラカとの衝突だって、性に関する意見の食い違いが発端だったとはいえ、互いに恋愛対象だったわけではない――当たり前だ!
 だが、たとえそれほどの恋愛感情がこの世にあったとしても、今すぐ会いたい。よし、部屋で待ち伏せよう、なんて思って、しかも実行するなんて、あり得るものなのか?!
 ――男が、自分の欲望を本能と正当化し、それを隠さないことは知っていた。時に常識を外れ、信じられないような無節操な、暴力的な行動をとることも、知ってはいた。
 だがそれが自分の身に降りかかって来る可能性については、全然信じられなかった。
 まさか、そんなことがあるわけない。いくら自分が、アガタに似ているかもしれなくても!



 ――それでも、夜道を歩く間に、じわじわと、認識が追いついてくる。
 いかに、自分にその気がなくても、向こうが勝手に面影を見つけ出して、執着を覚えるということは、あるのかもしれない。
 だって、今夜思い知ったばかりではないか。自分が、知らぬ間に、どれほどアガタに関わった人たちを刺激していたのか――。
 ただ、ガニアも、ポリネも、そしてネコも、二人は決して同一人物ではない、ということは分かっていた。
 あた。あた――当たり前だが!
 まさか。クローヴィスは、あのどうかしている生活破綻者は、それが分かっていないのだろうか?!
 本気で自分と彼女を同一視しているのだろうか?
 それであんな前触れもない行動がとれるのか?! こちらがどれほど困るのか考えることはないのだろうか?!
 すでに深夜にも近い時刻だった。ソラは冷汗を流しながら道を急ぎ、込み入った路地の先にある、ポリネの下宿へと駆け込んだ。
 ところが。応答はなかった。
 遠慮を忘れていくら扉を叩いても、駄目だった。
 前にもこの時間帯に尋ねたが、まだ眠ってはいなかった。
 物音も気配もない。
 彼女は、留守だったのだ。
 これほど目の前が暗くなったことは、あまりなかった。


 仕方ない。……多分、フルカなら頼めば泊めてくれるだろうが、今からンマロへ行くのは、少々危険だ。あそこはネル島とは違う。盛り場もあるし、それこそ、犯罪もある。
 学院へ、行こう。
 歩き出したその時、何か、生ぐさい風が吹いた。
 ほんのわずかな気配だったが、足運びが乱れる。
 ――なんだろう。
 四つ辻で辺りをうかがって、ソラは、凍り付いた。
 辻の向かいに、クローヴィスがいた。




「……大分、落ち着いたわね」
「ああ」
「いつから、試せるの?」
「……このまま腫れが引くなら、二日くらいで、いけるそうだ」
 ガニアの部屋で、ポリネとガニアは向かい合って話していた。
 彼らの間にはガニアの左腕が差し出され、それをなぞるポリネの指の先に、投げ入れられた花冠が赤く、熱を持って、咲いていた。





 全身を強張らせ、息を止め、最後に駈け出そうとしたソラの反射よりも一瞬早く、真っ白い男が言った。
「――待て」
 本当に男は、どこもかしこも色素が薄く、顔色などはタリン紙みたいに白かった。
 ソラが故郷で見てきた東部の男達と一か所も似ていない。
 その白い体の端々に、ララシアス文様の赤い黥を大炎の切れ端のようにのぞかせながら、ほとんど色味を消滅させて瞳孔だけが浮かぶ目を細めて笑った。
「安心しろ。これから謝る」
「…………」
「勝手に部屋に入って悪かった。待っているうちに、体調が悪くなった。横になっていたら、つい寝入った。それだけだ」
 もはや、ソラの頭の中から理屈は飛んでいた。
 どの言葉がソラの凝固を解いたのか、そしてどっと汗腺を開かせたのか、分からないまま、ソラは脱力した。獣が吠えるみたいな声が出た。
「何の用ですか……!!」
「話があった。居場所の見当がつかん。だから生徒に聞いた」
 無造作に自分の下宿を教えたその学生の両頬を、この両手で思い切りつねりあげてやりたいとソラは思う。
 早足で歩いたのと、緊張のせいで、前髪が、冷たくなるほど濡れていた。
「ひじょ、非常識でしょう。いくらなんでも、こんな夜中に!」
「だから事故だと言ってるだろう。そう取り乱すな」
 ソラは、イラカにも感じたことのある苛立ちをこの男に感じた。
 こちらの事情を一切斟酌しない、勝手な、言い草。
 親子なのか、いっそ。これとあれは!
「二度とやめて下さい。次にやったら」
 どうする、と言うつもりなのかソラは自分でも分からなかった。その前にクローヴィスが続きを潰した。
「二度やるはずがないだろう。馬鹿なことを言うな」
 話しても無駄だと思わせるものがあった。
 ソラは、こういう絶望に近い感情を大人に抱いたのは初めてで、いっそ頭が真っ白になった。
「往来で話すのは好かない。帰るぞ」
 言った傍からこの発言である。
「だから、そんな真似はできないと言ってるでしょう?!」
「……ふん」
 急に厚い瞼が下がって皮肉がその態度に滑り込んだ。
「ついこの間、二足歩行を始めた餓鬼のくせに。――まあいい。なら、院へ行くぞ」
 ソラが侮辱に対応できない間に彼はさっさと辻を北へ曲がる。髪飾りや衣飾り、そして剣の柄が布に触れて細かな音を響かせる。
 すでにソラは、様々な意味で事態が手に負えなくなっていた。何故か頭の中に、いつか、ネコの庵で実験に使ったたらいが幾つか浮かぶ。そのどれからもお湯が勢いよく溢れ出ている。
 付き合う理由はなかった。だが、この信じられないような、無礼な、とんでもない、社会性の欠落した元死人は言うのである。
「用件が終わらなければ、同じことが起きるのはお前のせいだぞ」


 とにかく、この男が自分をまともな女(というより人類)として見ていないことは分かった。
 そして、この天才かも知れないが頭のおかしい人間に、初めからこちらの希望などろくに聞く気がないことも分かった。
 ソラは下宿に帰ることが出来たが、そうしたらこの怪物は間違いなく後ろからやってきて今度は退路を塞ぐだろう。
 もはや、馴染みのある、常識的な思考をする当たり前の頭脳は死んで、別の場所が計算をしていた。
 ソラは、その白いものの後ろについて、学院へ通じる坂道を登り始めた。





 空には星が瞬いていた。木々の広げる大きな梢と、そびえたつ講義棟でそのところどころが切り取られる中庭で、クローヴィスは立ち止まった。
 ここまで手ごたえは何もなかったが、一応、彼もソラが何を問題視しているのかは理解しているらしかった。
 室内に立ち入る素振りはなく、そこで、話を始めた。
 人工的な空間は、無人になると急に不思議な寂寥を感じさせる。たとえば文明の滅んだ後のことを、連想させる。
 学生達のために作られた石のベンチに腰を下ろした後、クローヴィスは、「お前も座れ」と少し離れた席を指さした。
「女というのは、面倒くさいな」
 ソラの顔がまた歪んだ時、金属のへこむ音がしなかったのが不思議だった。
「分かっている」
 反らした顎の下に拳を宛てながらクローヴィスが言った。
「女は用心深くなければならない。身体的には弱者だからだ。油断をしていれば、骨を折られ、はらわたを抜かれ、血を飲まれる」
「…………」
 この金髪の人は自分を励まそうとしているのか、怖がらせようとしているのかどっちだろうか。
「面倒くさいと平時には思うがな、当然だ。お前はまともだ。はるかに」


 ――『はるかに』。


「……誰と、比べて?」
「分かっているだろう」
 距離を越して目が合った瞬間、どきりと、ソラの心臓が跳ねた。
 この人は、知っているんだろうか。自分が、彼女と親戚であることを。
「まったくどうかしていた。お人好しでな。弱いものを見つけると、すぐに味方してしまう。なんでもやってしまう」
「……心の優しい方、だったんじゃ……」
「そう思うか?」
「……」
「誰もが皆、私から離れるよう、あれに忠告した。あれが自分で自分の身を守らないから、周りが手を出さざるを得なかったんだ。あれは怠惰だった。……お前は感心だ。あれよりは、見所がある」
 言葉の上では、褒められたようだが、ソラはそれこそ、ちょっと感心できなかった。
 死んだ人のことを、そんなふうに決めつけて言うのは。
 クローヴィスは急に手を衣類のわきにやって何か探り始めた。腰の袋から、取り出したものを見てソラは目を見開く。
「用件はこれだ。ソラ、これを私にくれ」
 彼の掌の中にあるのは、ネコが彼女にくれた指輪の一つだった。



 ソラは激昂して立ち上がった。
「あなた、勝手に……っ!! 私の持ち物を、触りましたね……?!」
「机の抽斗を開いただけだ。自分でしまったんだから分かるだろう。妙な場所は開けてない」
「常識ってものが、ないんですか! ……一体、あなたは……!!」
「少しくらいは分かるつもりだがな。私が『死んでいる』間、どれほどの数の人間が好奇心丸出しで私の部屋を覗いたか、聞き及んでいるからには」
 これには、絶句した。
 ソラはまさに昼間クローヴィスの部屋を訪ねて好き勝手なことを言ったばかりだったからだ。
 ――それで、彼はあの部屋に戻らないのか。
 それは……、そうかもしれない。
 だが、ええっ? それで、これが帳消しに、なるのか?!
 ソラは苦しんだが、実際にこれ以上そこを突くことは出来なくなった。もう、一体なんなんだと思いながら、ソラは、懸命に別の言葉を探す。
「……それは、先生が、私に下さったものです!」
 ふ。と、クローヴィスは笑った。
「『先生』がな。――奴に、好意を持ったか?」
「関係ないでしょう?!」
「後生大事にしまい込んでいたんだろう。もう『ほとんど使えない』のに」
「――それは、あなたなんかに関係のないことです!!」
 激怒が透き通る春の空に縦に吸い込まれていった。
「あなたみたいな人に、何が分かるの! わ、私は、先生に、ご恩があって、とても感謝していて、裏切りたくはなかった! ……でも、……そうしてしまった!! 私はあの人に合わせる顔がない!! 本当に、申し訳なく思ってる!! そんなことも、知らないあなたに、どうして、その指輪を盗まれなくてはいけないんですか!! 恥知らず!! 返してください!!」
 ソラは叫びながら自分の声が建物に跳ね返って戻って来るのを聞いていた。
 快感を覚えぬこともなかった。
 ずっと言いたかったこと、そして今言ってやりたいことを、腹の立つ相手に大声で言ってやった。
 なんて、快くて、そして、無防備な、瞬間だろう。
 殴り合いの喧嘩もそうだと思うが、対決が始まると互いの精神状態がぴったりと合致する。
 クローヴィスの口からも思いがけない言葉が漏れた。
「アガタのことが好きだった」
「――」
「この指輪は彼女を思い出させる。だから私にくれないか」




「ネコもな。あの男もまあ、彼女のことを愛してた。だから指輪をやった。私から身を守るための指輪だったろう、多分な。結局、あの男は理性に勝って、同僚の学者と結婚したが、それでも指輪は始終うるさく言って身につけさせていた。だからいつも、記憶に残る彼女は奴の指輪をつけている。――あいつは私を許さなかった。何一つ遺品を渡さなかった。だからこれが欲しい。まったく同じ造作だ。身に着けていたい」
 先には『感心だ』と褒められたけれど、ソラはその瞬間、わが身の保全を忘れていた。
 普通に考えれば、この状況で聞くことのできるはずのない危険な問いが、知らぬうちに、唇からこぼれていた。
「だって、彼女が死んだのは、あなたのせいじゃ、ないんですか」
 風もない夜だった。
 木立は黒塗りのまま微動だにしなかった。
 クローヴィスはしばらく返事をしなかった。
「あなたの、研究室で。――『あの』、研究室で、彼女は、死んだんでしょう。先生や、ポリネ教授や、ガニア教授が怒るのも、当たり前じゃないんですか。……それとも、違うんですか? 関係、ないんですか? あなたは、ただ、身に覚えのない疑いをかけられているだけ、なんですか?」
 クローヴィスは手に指輪を持ったまま言った。
「さあ、どうだろうな」
 奇妙に的を外した言葉にソラはかえってぞっとした。が、クローヴィスがさらに言うので口を噤む。
「よく思う。理由はなんであれ、もし、自分が彼女を、この手で、殺していたなら、そのほうが何倍もましだっただろう」
 その年齢不詳の美しい顔には今日も美しい黥がある。
 ソラはあまりその黥を見ていたので、瞳にそれが焼き付く気がした。
「彼女に母親しかおらず、そのせいで疎外された人生を送ってきたことは知っていた。彼女が死んでその母親がどれほど嘆き悲しんだか、そのことも分かっていた。……だからと言ってな、少し面影のあるお前をその生まれ変わりと思い込むほど血迷ってはいない。ただ、この指輪が欲しいと思う。ソラ、後生だ。分かってくれ」




 気を緩めるなよ。ソラ。と、彼は言った。
「私は人殺しだ。たとえ、あれを殺していなくても、他の人間は大勢殺している。戦場でな。だからこれくらいのことで、油断をするんじゃないぞ」
「――あなたじゃ……ないんですか。でも、だったら、一体……」
 完全にクローヴィスを疑っていたわけではない。誰もが断言を避けてきた。だが、ならば一体何があったのだ。どうしてアガタは、若いまま突然彼の研究室で死ぬことになったのだ。
「病気、とか……?」
「さあな」
 クローヴィスはまた的を外した。まともにとりあう気がないようにも見えた。
「もらっていいか?」
 と、繰り返すばかりだ。
 ソラは訳が分からなくなった。色んな事が起きすぎて追いつかない。
 指輪のことだけに意識を集中しようとするが、思考はまとまらない。ネコのくれた指輪を、クローヴィスに渡すのは、いけないことのような気もする。しかし、クローヴィスの言葉に偽りがあるようには思えない。しかも悪いことに指輪は二つある。どちらも、既に実戦で用に足るものではなくなっていて、ネコからは確かに『呉れてやる』と言われた。言われたからにはソラの持ち物である。
 正直言えば――あげたく、なくもない。なんだこの感情は。
 だが、その行動が、一体どういう結果をもたらすのか、ソラには見えない。なんだか恐ろしいことのような気もするのだ。
 クローヴィスはソラの葛藤を見て取って、忍び笑いを漏らした。
「では、交換条件を出そう。何かお前の側も要求しろ。私の持ち物の一つと、交換だ」
 それもなんだかなあ、という気がした。
 それは、この話をイラカが聞いたら奇声を発しかねないだろう。もはやこだわりのこもったガラクタでしかない工芸品と、クローヴィスの持ち物を、しかも本人に手ずから交換してもらえるというのだ。
 だが、ソラは、アルススの学徒ではないのである。クローヴィス教でもない。
 一体彼の何をもらったらその指輪と釣り合うというのだろう?
 結局ソラはまた、クローヴィスの広げた勝手な世界に巻き込まれて混乱しただけだった。そして、この終わりの見えないめちゃくちゃな会見に、いきなり休止符を打ったのは、意外な人物だった。
「ソラ?! お前一体、こんな夜中に、何をしているんだ?!」
 心配というより、むしろ非難の色の強い大きな声が、脇から二人の間に、割って入ったのである。





 そこにいたのは、なんともお久しぶりな、ゾンネンだった。
 肩にはおなじみの望遠鏡を担いでいる。どうやら天体観測の行か帰りかどちらからしい。
 彼はソラの町の町長の息子で、天文学に熱心だ。犯罪者とかいう意味で悪い人間なのではないが、普段から少々横柄なものの言い方が目立つソラの先輩である。
 彼は立ったままでいたソラを先に見つけ、声をかけた後で、手前側に座るクローヴィスの存在に気付き、眉をひそめた。
「クローヴィス博士……?」
「あ……。彼は、その。ハライの町の、町長の息子です」
 ソラが視線に応えて説明すると、クローヴィスは肩越しにそちらを振り返り、彼を一瞥した。
「ふうん」
 その間に、ゾンネンのほうは物語を組み立て終えてしまったようだ。あからさまな疑いをこめて、ソラをにらむ。
「お前……、どういうつもりだ? 男と夜中にこそこそ会って。またぞろ親の顔に泥を塗るつもりか?」
「――」
 説明の気力も湧かなかった。
 自分がどれだけ苦労して、ここまで持ち込んだか、とか。自分だって本当言うなら下宿で寝ていたかったと、とか。人の顔を見るたびにまた馬鹿なことを企んでいるんだろうと決めつけるのはやめてくれ、とか。
 言いたいことはたくさんあったが、一晩に二度の喧嘩が出来るほどソラも超人ではない。
「ちょっとこっちで人に名を知られたからといって、思い上がっているんじゃないのか? お前の親にもばあさまにも、俺と俺の親父が口利きしてやったからお前はここにいられるんだぞ。俺が一言言えば、お前なんかすぐハライに戻されるんだ。少しは人に感謝して大人しくしたらどうなんだ?! 考えられない」
 しゃらん。という音がして、二人の間で、クローヴィスが、立ち上がった。
 幽霊が立ち上がったみたいで、二人とも何か、びくっとする。
 彼は道の側に立つゾンネンに向き直って、ソラに背中を見せた。ソラからはゾンネンが見えなくなった。だからゾンネンからも、彼女が見えなくなっただろう。
「――同じ部族の女に対して、そんなものの言い方をするのは感心しないな、坊主」
「……ぼ、ボウズだって? あ、あんたは……!」
「ついこの間二足歩行を始めたばかりの青二才のくせに。訳知り顔で女を見下して鬱憤晴らしとは、趣味が生意気すぎるぞ」
 どうやら、クローヴィスにとっては、ソラもゾンネンも人類未満らしい。確かにそんなものかもしれないが――、嗚呼。ソラはどうしようもなくて、額に手をやった。
「あ、あんたには関係ないだろう! 俺は町長の息子だ。町の人間に責任があるんだ! 同じ部族だからこそ、俺はそいつを指導するんだ!」
「この女にお前の指導など必要ない」
 クローヴィスは言った。
「この世の誰にもお前の指導など必要ないだろうよ。女を捕まえて威張り散らして、未熟な一物に血を集めて、いい気分だろうな? それが男のすることだと思っているのか」
「……な、何を言っているんだ、あんたは……!」
 さすがに泡を食ったようなゾンネンの声が梢に紛れる。
「――女をいじめて自分の存在を認証するのは、男のすることの中で、最低だと言っているんだよ。俺の子供の頃、戦争があった。俺の村は焼かれ、大勢の女子供がいじめ殺された。男達はみんないい気になっていた。得意の絶頂だった。まさにさっきのお前みたいな、醜い面だった、坊主。
 俺は思った。『お前らみんな殺してやる。』『こんな男達から、世界を奪い返してやる。』――」
「…………」
「そして実際、俺は殺した。たくさん。それでもお前みたいなクソ餓鬼がいくらでも生まれてくる。そして結句、俺も男だ。――反吐が出る」






 ふいと、方向転換をして、クローヴィスは去って行った。
 後に残されたゾンネンは狼狽しきって、「なんだあいつ、頭がおかしいよ!」と、失敗を人のせいにする子供みたいに騒いでいた。ソラがはかばかしい返事をしないので、いつまでもいつまでも騒いでいる。

 ソラはやっぱり何一つ手に負えなくて、クローヴィスの背を見送るほかなく、それが視界から消えると、腰に手を当て、深いため息をついた。
 指輪を持っていかれてしまった。




(つづく)
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